chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「北」で検索した結果

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  • 北伐
    伐(ほくばつ)とは、中国の歴史上に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。 概要 中国は地理上の条件から南に分裂しやすく、しかもには漢民族の文化的故郷とも言うべき黄河があり、南は経済的にを圧する力を持っていた。故にに割拠した国は南を征服する事を望み、南に割拠した国は自分達の故郷を取り戻す事を望んだ。中国の歴史上、伐と名乗る戦争は歴代にある。 蜀の伐 三国時代、蜀漢の諸葛亮自ら軍を率いて出兵した魏侵攻が5度行われた。 これは、初代皇帝・劉備の漢王朝復興の遺志に基づくものであったが、当時の蜀の国力及び軍事力からすれば、かなり無理なものがあった。ゆえに諸葛亮の伐は、魏への侵攻を目的としたものではなく、拠点となる漢中の防御などあくまで蜀への侵攻を未然に防ぐ防衛戦としての役割が強いという説もある。 228年春の第一次伐は、最初の内こそ上手く行っていた...
  • 山東出兵
    ...00年の義和団事変(清事変)以来、京議定書に基づいて、イギリス、アメリカ合衆国、ロシア帝国などの列強同様、天津はじめ中国各地に軍を駐留させていたが、これに対する反感も相まって、全国規模で排日・侮日運動が巻き起こった。 第一次出兵 1926年(大正十五・昭和元年)、中国の蒋介石は国内の勢力統一、主に軍閥・張作霖の京政府撲滅を目指して伐を開始した。日本政府は、中国内の日本権益が京政府の支配地に多いことから、これらが伐軍に侵されることを恐れていたが、翌1927年(昭和二年)、漢口の民衆が日本の海軍陸戦隊と衝突する事件が発生、これを機に中国人の反日感情が再度爆発し、日貨排斥運動となった。その上、伐軍は山東省に接近、同時期に新たな軍縮会議をジュネーヴで行っていたが、社会情勢の変化によって決裂、日本は山東省の日本権益と2万人の日本人居留民の保護及び治安維持のため、山東省へ陸海軍...
  • 仮70
    ...、国民党の悲願である伐(全国統一)を開始できない状況にあった。発言力の大きかったソ連軍事顧問団のキサンガらも伐は時期尚早であると反対しており、伐推進派の蒋介石はこの状況の中で主導権を握る機会を狙っていた。 中山艦の回航と弾圧開始 1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。蒋介石はこれを中国共産党員による蒋介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出る。 蒋介石の主張によれば、この中山艦の行動は、汪精衛とソ連軍事顧問らが共謀して蒋介石を拉致し、ウラジヴォストークへ強制連行しようと謀議し、共産党員が実行に移したものであるという。しかし、果たして本当にそのような計画が存...
  • 中山艦事件
    ...、国民党の悲願である伐(全国統一)を開始できない状況にあった。発言力の大きかったソ連軍事顧問団のキサンガらも伐は時期尚早であると反対しており、伐推進派の蒋介石はこの状況の中で主導権を握る機会を狙っていた。 中山艦の回航と弾圧開始 1926年3月18日、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。蒋介石はこれを中国共産党員による蒋介石拉致のための策謀と断じ、3月20日艦長の李之竜(共産党員)をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕、広州の共産党機関を捜索し労働者糾察隊の武器を没収し、広州全市に戒厳令を発するという挙に出る。 蒋介石の主張によれば、この中山艦の行動は、汪精衛とソ連軍事顧問らが共謀して蒋介石を拉致し、ウラジヴォストークへ強制連行しようと謀議し、共産党員が実行に移したものであるという。しかし、果たして本当にそのような計画が存...
  • 樺太
    樺太(からふと)は、日本列島最端、海道のに位置する樺太島(露:Template lang?(サハリン)、中:庫頁島(クイェとう、ピン音Kùyè))を指す地域名称である。また、この名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名として使用された。現在はロシア連邦が自国領であるサハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、太平洋戦争において日本本土最後の地上戦が行われた。 この項目では、原則的には、日本が敗戦により行政権を失う前について記述する。それ以降についてはサハリン州の項目も参照されたい。 名称 「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだ事に由来...
  • 昭和維新
    ...る精神的指導者である一輝の著した『日本改造法案大綱』は、男女平等・男女政治参画・華族制度廃止(当然、貴族院も廃止)・所得累進課税の強調あるいは私有財産制限・大資本国有化(財閥解体)・皇室財産削減など、まるで社会主義者の主張と見間違うほどの政策が並んでいる。また、この事件の主犯である磯部浅一によれば、日本の国体を「天皇の独裁国家ではなく天皇を中心とした近代的民主国家」と定義でき、「現在は天皇の取り巻きによる独裁状態にある」とする。日露戦争や大逆事件(治安維持法が制定されるきっかけとなった)以前の日本を社会の閉塞感・国家と国民との隔たりを感じさせない理想国家として捉えるなど、戦後の知識人(司馬遼太郎や幾人かの親米保守系評論家など)にも通じる心情が見てとれる。 や磯部が実際に思い描いていた「天皇親政」とは、天皇の元に権力が一元化される、すなわち天皇の元に議会があり、議会から内閣が発生...
  • 中原大戦
    ...1928年に完了した伐は、中国国民党によりというよりは、各地の軍閥を抱き込むことにより成し遂げられたという面が強かった。その結果、伐後の国民政府は、軍閥混合的な色彩の政府(政府の軍は、軍閥の寄せ集めであった)であり、中国国民党の立場は弱いものであった。 これに対して、蒋介石は、中国国民党および自己の権力を強大化させるため、1929年1月に国軍の整理を開始した。これは、旧軍閥の兵士を削減することにより、軍閥の影響力を失わせ、蒋介石側の勢力の巻き返しを図ろうとするものであった。 ここに及んで、伐に協力した軍閥は危機感を覚え、蒋介石に対して、次々と兵を起こし、戦乱が繰り返された。そのような時期が、1932年の新国民政府成立まで続くわけであるが、その中で、最も大きく、かつ、蒋介石に大きな危機をもたらした戦争を中原大戦と呼ぶ。中原大戦において、蒋介石に反旗を翻した主要な軍閥は、閻錫山...
  • 日ソ基本条約
    ...。しかし、依然として樺太には尼港事件をきっかけとして追加出兵した日本軍が居座っていた。 長春会議決裂と日本軍撤兵にともなって、ソ連は極東地区における緩衝国として維持していた極東共和国を廃止して併合し、1923年より日ソ国交正常化のための直接交渉に入る。中国の京で行われた交渉は、同年の予備交渉を経て1924年5月から日本側代表芳沢謙吉とソ連側代表レフ・カラハンの間での正式交渉に入り、1925年1月20日に至って京で日ソ基本条約が締結された。 日ソ基本条約および議定書の内容 外交・領事関係の確立 内政の相互不干渉 日露講和条約の有効性再確認 漁業資源に関する条約の維持確認および改訂 ソ連側天然資源の日本への利権供与 議定書 日本軍の樺太撤退期限 日本側の樺太石油利権に関する規定 条約調印に至る日本側の背景 もともと日本政府の首脳...
  • 南満州鉄道
    ...大戦の終結まで中国東部(旧満州)に存在した日本の特殊会社である。鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。初め大連市、のちに新京特別市に本社が置かれ、東京市麻布区麻布狸穴町に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。 設立経緯 thumb|right|満鉄が営業した大連ヤマトホテル。現在も[[大連中山広場近代建築群#旧 大連ヤマトホテル|大連賓館として当時の建物で営業されている。]] 南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年に設立した半官半民の特殊会社である。 日露戦争(1904年-1905年)の勝利により、ポーツマス条約の結果ロシア帝国から譲渡された東清鉄道の南満州支線・長春 - 大連間...
  • 華北分離工作
    分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華五省(河省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華工作・支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華での日本の経済権益を伸張すること、華に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が...
  • 上海クーデター
    ...。7月、国民革命軍は伐を開始し、蒋介石を総司令に任命した。11月になると伐軍は既に長江流域を抑え、国民政府は武漢遷都を決定したが、蒋介石は彼が勢力下に収めた南昌遷都を主張した。11月22日コミンテルンはモスクワで第7回大会を開催し、中共代表の譚平山は、伐は農民革命の契機であると示し、伐の後に共産革命と国民革命を起こす策略が採択された。12月9日、国民政府は武漢に遷都し、一ヵ月後、南昌国民党中央政治会議は、党中央が南昌に留まることを議決した。 1927年国民党三全大会(国民党第3回全体会議)の後、スターリンは羅亦を派遣し、ミハイル・ボロディンが組織した織農工階層展開群衆運動、農民協会や土地委員会を、武装した権力組織に改組するよう援助した。東路軍を率いる白崇禧の上海入城直前の3月22日には、上海の労働者は、共産党の周恩来などの指導の下、2700人からなる工人糾察隊を組織し、警察...
  • 何応欽
    ...される。1926年、伐参加。国民革命軍東路総指揮・参謀長など歴任。「蒋介石の片腕」と評される存在になる。1927年に南京国民政府が成立すると、第一路軍総指揮、翌年には総司令部参謀長となった。1933年に平に赴任し、国民党軍事委員会平分会会長に任ぜられ塘沽協定、1935年には梅津・何応欽協定を結ぶ。日中戦争時は、第四戦区司令長官・軍政部長・参謀総長等を務めた。 1945年、支那派遣軍総司令官岡村寧次が降伏文書に調印し、中国代表の何応欽に呈示。その後は国防部長・行政院院長を務めるが、1949年、国共内戦に敗れ蒋介石らとともに台湾へ脱出。渡台後は、総統府戦略顧問委員会主任委員・台湾紅十字総会会長・中日文経協会会長等を歴任した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月12日 (月) 23 33。 ...
  • 支那事変
    ...溝橋事件を発端として支(支那、現中国の華地方)周辺へと拡大し、部隊衝突は8月の第二次上海事変勃発により中支(中支那)へ飛び火、やがて中国大陸全土へと飛散して行き、大日本帝国と中華民国とは次第に戦争の様相を呈していった。しかし昭和16年(1941年)12月までの間は、双方が宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしに戦闘を継続できない蒋介石側にとっても不利とされたのである。双方ともに戦争の意志はなく、事実、外交関係が維持継続されていた事からも明白である。 特に中国にとっては、アメリカ合衆国で中立法の適用を避けたいことも大きい。中立法は1935年(昭和10年)に制定された法律で、外国間が...
  • 日露和親条約
    ...広報課発行『われらの方領土2006年版』、P6)。。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ、全て無効になった。 現在、日本では条約の締結された2月7日(新暦)は「方領土の日」になっている。方領土の日では、下田市で「方領土マラソン」が玉泉寺から長楽寺の間で開催される。 名称 条約の正式名称は、日本国魯西亜国通好条約旧字体の表記は日本國魯西亞國通好條約(にっぽんこくろしあこくつうこうじょうやく)である。日露通好条約、下田条約とも呼ばれ、また条約締結当時の日本では日魯和親条約と表記していた。 条約の主な内容 千島列島における、日本とロシアとの国境を択捉島と得撫島の間とする 樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習のままとする ロシア船の補給のため箱館(函館)、下田、長崎の開港(条約港の設定) ロシア領事を日本に駐...
  • 十月事件
    ...心となり、大川周明・一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画した。 計画の概要 150px|thumb|[[橋本欣五郎(1931年)]] 十月事件の計画概要としてはかつての二・二六事件と同じく軍隊を直接動かし、要所を襲撃し、首相以下を暗殺するというもので、決行の日を10月24日早暁 ref name= oouchi1967 大内力『日本の歴史 -ファシズムへの道-』。と定め、関東軍により日本からの分離独立する旨の電報を政府にうち、それをきっかけにクーデターに突入するというものであった。 具体的には桜会の構成員など将校120名、近衛歩兵10個中隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を...
  • 仮11
    ...状況はソ連領であった樺太でも同様で、ソ連は朝鮮人が日本人と見分けがつきにくく、日本のスパイであるという疑念を払うことができなかった。1937年になると、ソ連は沿海州と樺太の朝鮮人を中央アジアに強制移住させたこの移住政策については農業開拓移住のためという説もあるが、崔吉城は朝鮮人をスパイとして疑うスターリンの意向があるという。(崔吉城「樺太における日本人の朝鮮人虐殺」p.290)。 このように樺太在住の朝鮮人に対する不信は日本側とソ連側双方にあり、このような不信感を背景として終戦直後、ソ連の樺太侵攻という混乱期に朝鮮人に対する虐殺が行われた。 敷香町上敷香 1945年8月17日(あるいは8月16日旧ソ連軍の資料によると虐殺は8月17日におこなわれた。参照 サハリンレポートによる記事)、上敷香で19人の朝鮮人が「ソ連のスパイの疑いがある」という理由で警察署に連行され、うち18人...
  • 盧溝橋事件
    ...和12年)7月7日に京(当時は平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 事件の経緯 7月7日 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで平の牟田口廉也連隊長に伝達される。 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) 7月8日 現地の動き 3時25分:竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に近づ...
  • 徐州会戦
    ...戦闘である。日本側は支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。 背景 1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、京と南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。 台児荘 1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省部を占領していた。支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天険の要害である黄河の防衛線もがら空きにした。 この結果、津浦鉄道の守備は手薄となっており、情報を察知した磯谷師団は板垣師団との合流を待たずに単独で進軍を...
  • 樺太庁
    ...144度45分00(知床岬)西端 東経141度12分45(海馬島)南端緯45度47分25(二丈岩)緯50度線(緯50度以は、ロシア領) 世帯数 ?世帯(年月日) 総人口 406,557人(1941年12月1日) 樺太庁 所在地 樺太豊原市東4条南5丁目 樺太庁(からふとちょう、Template lang-ru?、Template lang-en?)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。 1907年3月15日公布の、明治40年勅令第33号(樺太庁官制)に基づき、同年4月1日発足。これにより従来の行政機関である樺太民政署は発展的解消を遂げたと言える。庁舎は当初大泊に置かれていたが、1908...
  • 張作霖爆殺事件
    ... その後、国民党の伐で直隷派が壊滅(1926年)した。張作霖は、欧米の支援の受け皿を狙って、支援元を日本から欧米寄りに鞍替えする。これに対して、大陸での権益を確保したい欧米、ことに大陸進出に出遅れていたアメリカは積極的な支援を張作霖に行う。 また、同じく欧米の支援の受け皿になる事を狙った国民党は、党内で共産党員と蒋介石との確執が激しくなった(1926年、翌年、国共合作は瓦解)ため、伐の継続が出来なくなった。 1926年12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて京に入城し大元帥への就任を宣言、自らが中華民国の主権者となると発表した。大元帥就任後の張作霖は、更に反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。この当時の支援方針は、 奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本 国民党 中国共産党 ← ソ連 1928年4月...
  • 武漢国民政府
    ...る[1]国民革命軍の伐軍が武漢を占領し、同年12月汪兆銘らの国民党左派が共産党のメンバーと提携、広州国民政府(広東政府)が広州から武漢に遷都して成立した。1927年4月蒋介石ら国民党右派が反共クーデターを起こし(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧、対立した。その後、経済不安や土地革命をめぐる共産党との対立によって、武漢政府も共産党を弾圧して同年7月に反共方針を明確化(国共分離)・分裂し、同年9月南京政府に合流した。 関連項目 汪兆銘 国民政府 広州国民政府 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月4日 (日) 13 49。    
  • 日中戦争
    ...か 日本では当初、支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。現在でも日本政府の正式な呼称は変らず、防衛省防衛研究所戦史室や厚生労働省援護局、準公式戦史である「戦史叢書」、靖国神社や各県の護国神社では「支那事変」の呼称を使用している。 しかしマスコミでは「日中戦争」という呼び方が広く定着している。これは日英米間の開戦(1941年12月)とともに蒋介石政権が日本に宣戦布告しため、おおまかに「戦争」と認識されることが多いからである。さらにマスコミでは「支那」という言葉の使用を嫌って日中戦争と言い換える例が多い。 「事変」という呼称が選ばれたのは、「大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず公式には戦争状態にない」という状態を、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間、双方が望ん...
  • 上野戦争
    ...寺公現入道親王(後の白川宮能久親王)を擁立した。 経過 新政府軍は長州藩の大村益次郎が指揮した。大村は武力殲滅を主張し、上野を封鎖するため各所に兵を配備してさらに彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。大村は三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。 5月15日(7月4日)、新政府軍側から宣戦布告がされ、午前7時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。戦闘は雨天の中行われ、西の谷中方面では藍染川が増水していた。新政府軍は新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行った。彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(西郷隆盛銅像付近)から応射した。西郷が指揮していた黒...
  • 北海事件
    海事件(ほっかいじけん)は、1936年に起きた中国広東省海における殺人事件である。 概要 1936年9月3日の夕方、海に長く住まう薬種商の日本人・中野順三が暴徒により殺害された。同地方は広西軍の新編独立第一師翁照垣麾下の旧十九路軍及び第六十一師丘琛部隊の暫駐地であり、排日意識が暴動の背因をなしていた。 事件の一報が伝わると、当時成都事件直後の日中関係は緊迫していたため日本は軍艦を派遣、また調査員を送った。9月20日、翁照垣軍の撤退を待って現地調査を行い、9月24日調査を完了。近郊に隠れていた被害者の妻(中国人)及び子供を救出した。 事件について日本側は大使川越を通じて成都事件とあわせて厳重な交渉を国民政府と行い、幾多の紛糾を重ねて12月30日、国民政府の陳謝、責任者及び犯人の処罰、被害者の遺族に対し3万元を贈ることその他を決定した。 出典 フリー百科事典『ウ...
  • 冊封
    ...を受けている。 南朝時代に入ると、朝鮮三国は南朝から冊封を受け、倭もいわゆる倭の五王が南朝より冊封を受けた。この時期、百済・新羅は倭の影響下にあり、さらに名目上の支配権をも得ようと南朝の宋から承認を得るため自ら冊封を受けたが、百済・新羅は既に宋の冊封国であり、倭がこれら二国を支配するという承認はなされなかった。高句麗は朝の魏に対しても入朝し冊封を受け、百済に対抗する姿勢を見せた。一方百済もまた高句麗に対抗して魏に朝貢している。 この後、朝・南朝それぞれを頂点とする二元的な冊封体制が成立し、この時代が東アジア世界および冊封体制の完成期と見られる。 冊封体制の全盛 二元的な冊封体制は、589年に中国を統一した隋によって一元的なものへ纏められた。 高句麗・百済は隋成立の581年すぐに隋の冊封を受けたが、新羅はすぐには冊封を受けず、594年になって初めて隋の冊封を受ける。...
  • 済南事件
    ...(第二次山東出兵)と伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。 事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。 衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は攻撃を開始、5月11日、済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。 当時の状況 当時、中国は南軍と軍に別れて内戦状態にあり、治安は悪化していたが、済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していた。この内戦の中で、同年5月1日、済南は軍の手から南軍の手に落ちた。 日本側は居...
  • 大輝丸事件
    ...た。 9月26日、海道・小樽を出航し、黒竜江河口の沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに樺太のポコピー、デスカストリー付近で帆船1隻およびその積荷を略奪し、それと同時にロシア人船長以下12名および先の発動機船の乗組員4名を大輝丸の船員室に監禁した。 10月22日、23日、この全員を甲板に引き出し、日本刀で殺害した。江連は、略奪品を小樽に荷揚げしたのち、人夫らを脅迫し僅かの金銭をあたえて解散した。 この事件は、人夫であった田中三木蔵および菊池種松の自首によって発覚した。 江連は同年12月に捕縛され、法廷において「尼港事件で殺害された日本人の霊をなぐさめるため、天にかわって正義の剣をとり、懲罰をこころみた」旨弁明した。江連は3年間、未決であったが、大正14年2月27日、懲役12年の刑に処せられた。 その後 江連はのちに数度にわたる特赦に浴し、昭和8年に...
  • 日露協約
    ...本の南満州、ロシアの満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。 第二次日露協約 1910年(明治43年)7月4日調印。アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、両国の満州権益の確保を確認した。 第三次日露協約 1912年(明治45年)7月8日調印。辛亥革命に対応するため、内蒙古の西部をロシアが、東部を日本がそれぞれ利益を分割することを協約した。 第四次日露協約 1916年(大正5年)7月3日調印。第一次世界大戦における日露の関係強化と第三国の中国支配阻止、極東における両国の特殊権益の擁護を相互に再確認した。 関連項目 日露関係史   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 01 43。 ...
  • 絨毯爆撃
    ...しては、1944年のフランスで行われた連合軍のコブラ作戦支援の爆撃や、アメリカのアフガニスタン侵攻におけるB-52による地上軍支援などがある。 初期には複数の航空機を使用した反復爆撃によってその真価を発揮した。現在では、作戦地域が小さければB-52に代表される大型爆撃機単独でも同様な被害を与えうる。また、MLRS(多連装ロケットシステム)など一部の野戦火力も効果面で絨毯爆撃と似通う。 被害が無差別かつ広範にわたる絨毯爆撃には批判も多く、巡航ミサイルや誘導爆弾の発達した今日では精密爆撃に取って代わられつつある。 関連項目 戦術爆撃 空襲 ドレスデン爆撃 東京大空襲 重慶爆撃 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月12日 (土) 05 00。    
  • 大津事件
    ...オルギオス付き車夫の賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づく事が出来たのは津田が取り押さえられた後だった。 留学経験によって国際関係に精通していた威仁親王は、この事件を自分のレベルで解決できない重大な外交問題と即座に判断。随行員に命じて顛末を急いで書きまとめさせ、東京の明治天皇の元へ電報で上奏するとともに、ニコライに誠意を見せるため天皇の京都への緊急行幸を要請した。これを受けた天皇は直ちに了解し、威仁親王に到着までのニコライの身辺警備を命ずるとともに、京都に滞在していた白川宮能久親王を名代としてニコライのもとへ見舞わせた。 事件翌日の5月12日早朝、明治天皇は威仁親王の兄の熾仁親王を従え...
  • 第2次山縣内閣
    ...は次第に困難になり、清事変後に憲政党が解党して伊藤博文らと立憲政友会を結成すると、政友会潰しを策して伊藤博文を後継に推して辞任した。 国務大臣 第2次山縣内閣 1898年(明治31年)11月8日 内閣総理大臣 山縣有朋 外務大臣 青木周藏 内務大臣 西郷從道 大蔵大臣 松方正義 陸軍大臣 桂太郎 海軍大臣 山本權兵衞 司法大臣 清浦奎吾 文部大臣 樺山資紀 農商務大臣 曾禰荒助 逓信大臣 芳川顯正 内閣書記官長 安廣伴一郎 法制局長官 平田東助 外部リンク 首相官邸 - 第2次山縣内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 11。     
  • 唐生智
    ...護國戰爭、護法戰爭、伐戦争などの中華民国の建国初期の重要な戦争に参加した。 洋軍閥の時代にあっては、唐生智は湖南の軍閥に属しており、洋軍閥が湖南から撤退した後に、唐生智は湖南省の第四師団長となった。その時、湖南省省長の趙恒惕と反目し、趙恒惕を長沙に追い出した後、自ら省長の職に就いた。唐生智の敵はその時、武漢で反撃準備をしていた呉佩孚に救助を求めた。その結果、唐生智は敗戦してしかたなく長沙から退出し、閥軍に参加することを決定した。1926年6月2日に彼は正式に部下を率いて国民革命軍に参加し、国民革命軍の第八軍の軍長を任命され、6月には再び長沙を占領した後、湖南省の主席を務めた。1927年武漢国民党の中央政治委員会委員、軍事委員会7人主席団の役員となり、武漢国民政府の委員、第4集団軍総司令官などの職に就いた。 伐戦争勝利の後、唐生智の勢力は反蒋介石勢力と新桂系の武漢政府の軍...
  • 辛亥革命
    ...の中国革命同盟会が湖省の武昌で反乱を起こす(武昌起義)と、14の省が次々と清朝からの独立を宣言。各省代表が南京に集まり、1912年1月には、孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府を成立した。清朝は袁世凱に民国の討伐を命じたが、袁は民国側と交渉して、同年2月には宣統帝を退位させ、自分が孫文にとって代わり、いくつかの交換条件とともに大総統に就任した(この年を以って中華民国暦元年とする。なお、宣統帝は清室優待条件により退位後も紫禁城に居住し大清皇帝の尊号を用いた)。 中華民国は、アジア最初の共和国であり、同年3月には、基本法たるいわゆる臨時約法を公布している。 しかしその後、袁世凱は、孫文らとの約束を反故にし宋教仁暗殺、臨時約法廃止、一時は中華帝国皇帝になるなど反民主的・専制的な政治をしたため革命の理想はやぶれた。 革命側は、1913年の第二革命で抵抗したが破れ、1915年の第三革命で...
  • 大川周明
    ... 後にともに活動する一輝らと同様に、平民新聞の読者であった。 荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。 五高時代には、栗野事件で活躍した。 戦前の活動 インドの独立運動を支援。ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなどした他、インド独立運動に関わる(『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年))を執筆するなどして、インドの現状を日本人に知らしむるべく尽力した。 亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめる。執筆活動としては、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)、また、亜細亜における英雄(アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーら)を日本人に知らしむるべく彼等の評伝をまとめた『亜細亜建設者』(1941年)を著す...
  • 中華民国の歴史
    ...降の中国国民党による伐の前後で、京政府期と南京国民政府期に大別される。建国初期の袁世凱による統治期を除いて、中華民国の代表政府が同時期に2つ存在する時期もあるなど各地の軍閥がそれぞれ「中国を統治する国家」を主張していた時期もあるが、日本やイギリス、フランスやアメリカなどのいわゆる「列強」をはじめとする国際社会(その中には世界最初の社会主義国家であるソビエト連邦も含まれる)では「中国を統治する国家」と認識されている。 第二次世界大戦後の1949年に中華民国軍は、ソビエト連邦の支援を受ける中国共産党の共産党軍との内戦に敗し、同年4月に首都の南京を制圧された事で崩壊状態に陥った。その後、中国共産党を率いる毛沢東は同年10月に「中国を統治する国家」として「中華人民共和国」の建国を宣言する。 しかし、蒋介石を中心とする中国国民党右派は、崩壊状態にあった中央政府を1949年12月に台湾...
  • 国定教科書
    ...の間で行われた満州・朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘、ソ連軍が圧勝した。 名称 日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「8月の嵐作戦」、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。 背景 19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は世界を共産主義化することを至上目標に掲げ、ヨーロッパ並びに東アジアへ勢力圏を拡大しようと積極的であった。極東での日ソの軍拡競争は昭和8年からすでに始まっており、当時の日本軍は対ソ戦備の拡充のため...
  • 中国国民党
    ...|本部所在地 = 台市中山区八徳路2號232樓 |議院 = 立法院 |議員数 = 81 |議員定数 = 113 |議員集計年月日 = 2008年1月現在 |党員・党友数 = 1,089,000 |党員・党友数集計年月日 = 2006年 |政治的思想・立場 = 保守、中道右派、泛藍連盟 |ウェブサイト = http //www.kuomintangnews.org/client/jpn/ |サイトタイトル = 中国国民党公式サイト |シンボル = 青天白日旗 |国際組織 = 国際民主同盟 |その他 = }} 中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字: 中國國民黨 、簡体字: 中国国民党 、英: Kuomintang of China Template ピン音?)は、中華民国(台湾)の政党。 1919年、孫文らにより中華革命党を改組して結成。 ...
  • ノモンハン事件
    ...中国内モンゴル自治区部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル高原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。 いっぽうソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である。綴りはモンゴル式では「Халхын гол」、ロシア式では「Халкин-Гол」ないし「Халхин-Гол」となる。 従来までは日本軍の無謀な作戦による大敗と信じられてきたが、ソ連崩壊によりソ連側のノモンハン事件に関する秘密資料が明らかになり、実は死傷者数、破壊された装甲車両および航空機の数のすべてにおいてソ連側の被害の方が大きい事が明らかになった。これを受けて、軍事知識に乏しい人間の中には、日本軍の勝利であったと主張している者もいるが、戦闘の勝敗は損害の優劣だけで決まらないのは常識以前の話であり、ソ連軍の勝利であることに代わりがない...
  • 枢密院
    ...、五代の各王朝、遼、宋、金、南宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。 元王朝の枢密院は、行政の中書省、監察の御史台と並ぶ、1262年(中統3年)に設置された軍事を司る最高機関。名目上の長は枢密使であるが、枢密使は常に皇太子が兼職する名誉職とされたため、実務は知枢密院事が担った。 イギリス thumb|right|300px|[[1837年、即位した日に枢密院会議を開催するヴィクトリア女王。]] イギリスにおける枢密院は、イギリス国王の政治上の諮問機関で、Privy Councilの訳語である。 その前身は、ノルマン朝以来存在した、国王の政治上の諮問機関として全貴族からなる封臣会議(ほうしんかいぎ)である。14世紀末ごろリチャード2世の時代に枢密院(Privy Council)の名称で呼ばれるようになり、現在に至っている。 枢密院は、形式的には行政の最高権限を...
  • 在華ソビエト軍事顧問団
    ...石は、革命軍を率いて伐を行い、各地の軍閥勢力を撃退した。しかしその途上、1927年中国共産党との対立から、上海クーデターを行い、ソビエト顧問団を追放した。 その後は、ドイツより顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、1933年ナチスが政権を取ると、ドイツは日本との関係を強化した。1938年7月、日中戦争が勃発すると、再びソ連に接近した。同年8月、中ソ不可侵条約を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。 顧問団を含むソ連による中国支援は、1941年日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。 歴代顧問団団長 ヴァシーリー・ブリュヘル(1924-1927) ワシーリー・チュイコフ アンドレイ・ウラソフ(代理) アレクサンドル・チェレパノフ セミョーン・チモシェンコ 文献 蒋介石(著)『中国のなかのソ連:蒋介石回顧録』毎日新聞社、1957年 ソビエト連邦科学...
  • 奉直戦争
    ...領した。そこで孫文は伐をやめ、広州に引き返した。直隷派が最終的に勝利し、張作霖は山海関の外に退却し、秦皇島で直隷派海軍の攻撃を受けた。6月、張作霖は東保安総司令を自任し、「自治」を宣言、海軍と空軍の育成ならびに軍隊の訓練に励んだ。外国の宣教師の調停により秦皇島にあった英国艦上で、双方は停戦した。呉佩孚は徐世昌に引退を迫り、曹錕は1923年10月賄賂を使い、総統に当選した。 第二次奉直戦争 第一次奉直戦争が終わると、直隷派が政権を取得し、合わせて中国の武力統一を図った。1924年9月直隷派江蘇系の斉燮元と安徽派浙江系の盧永祥が衝突した(江浙戦争)。1924年9月15日、張作霖は江浙戦争に呼応し15万の大軍を結集し、二方面から直隷派の地盤である山海関、赤峰、承徳へ進攻した。呉佩孚は「討逆軍総司令」に任命され、二十万の軍隊で応戦した。彭寿莘を第一軍総司令に、王懐慶を第二軍総司令...
  • シベリア出兵
    ...闘を繰り返しながら、樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに攻略し、シベリア奥地のバイカル湖東側までを占領した。各国よりも数倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に沿海州共和国、極東共和国の建設を画策。日本はロシア共和国ばかりでなく、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。 1920年には、アムール川の河口にあるニコライエフスク港(尼港)において、ロシアの共産パルチザンによって日本軍守備隊と日本人居留民が虐殺されるという尼港事件が発生した。一方、日本軍および日本軍に支援された白軍も掃討戦をおこなった結果、村落焼き討ち、民間人虐殺がおこなわれ、シベリア住民の日本軍に対する感情は悪化していった。 国際連盟設立などによる国際協調の流れのなか、日本政府は連合国からもシベリア政策を批判され、日本国内においても、加藤高明憲政会総裁が1921...
  • 十五年戦争
    ... 蒋介石の広東政府、伐を開始 1927年(昭和2) 5月 伐が山東省の日本利権に迫り、日本軍第一次山東出兵 10月 毛沢東、江西省に革命根拠地樹立 1928年(昭和3) 4月 蒋介石の伐再開、日本軍反発し第二次山東出兵 5月 済南事件 6月 伐完了 6月4日 張作霖爆殺事件 7月 アメリカ合衆国政府、蒋介石の国民政府を承認。 10月 蒋介石、国民政府主席に就任 1929年4月 世界恐慌起こる 1930年 日本、金輸出解禁により金流出、輸出不振。 1931年 9月18日 - 満州事変勃発 12月 - 日本金輸出再禁止 1932年 1月28日 第一次上海事変 2月 - 9月 リットン調査団、柳条湖事件を調査 3月1日 満州国建国宣言 5月15日 五・一五事件発生 イギリスがブロック経済を形...
  • 甲州勝沼の戦い
    ...軍は東海道・東山道・陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。 新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、天領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲府へ向かった。 近藤は混成部隊を指揮するため、行軍中に大名旅行のように振舞い、さらに天候の悪化なども重なり時間を空費する(沖田総司は途中で江戸に戻った)。その間に、土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城してしまう。 甲陽鎮撫隊は勝沼(現・甲州市)まで前進し甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に布陣...
  • 援蒋ルート
    ...ったが、1940年の部仏印進駐時に日本軍によって遮断された。 ソ連からのルートは、他のルートと同じく重要なものであったが、1941年に独ソ戦が開始されると物資の供給が途絶えてしまった。 ビルマルートは、新旧2つの陸路と1つの空路があり、当時イギリス領であったビルマ(現在のミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資をラシオ(シャン州部の町)まで鉄道で運び、そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路(ビルマ公路:en Burma Road)が最初の陸路で、日本軍が全ビルマを平定した1942年に遮断された後、イギリスとアメリカはインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路(ハンプ:en The Hump)に切り替え支援を続けた。 /br しかし、空輸には限りがあるため、アメリカが中心となって新しいビルマルートの建設を急ぎ、イギリス領インドのアッサム州レドから昆明まで至る...
  • 蒋介石
    ...icon?中華民国台市 | 配偶者=宋美齢 | 政党= 中国国民党 | サイン= }} Template Chinese? thumb|220px|[[張学良とともに]] 220px|thumb|[[宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに]] 220px|thumb|カイロ会談で[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルトとチャーチルとともに(1943年)]] thumb|right|220px|[[伐#国民党による伐|伐における蒋介石(1926年)]] 蒋 介石(しょう かいせき、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1887年10月31日 – 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。国民政府主席、初代総統で5回当選し、あわせて1943年から死去するまで...
  • 尼港事件
    ...陸軍側が反撃するも敗。生き残った日本人は軍人であるか民間人であるかを問わず捕虜とされた。そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送るやパルチザンは全ての捕虜を殺害した上で逃亡した。また、日本人以外の市民も殺害した上、町を焼き払った。 のちにこのパルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑に処せられることとなった。 この事件による日本人犠牲者は約700名にのぼり、その半数は民間人であったため、国内世論は憤激の声が渦巻き、反共の気運が強まって、後々まで尾を引くことになった。 日本政府がシベリア出兵を延長したのは、この事件によるものという見方もある。政府は樺太への駐留を継続し、ソ連に対して賠償を求めたが、結局は取り下げた。 経過 1919年夏 ウラジオストク付近から逃れてきたパルチザンと過激派が尼港に潜入して工作を開始。 1920年1月24...
  • 北洋軍閥
    洋軍閥(ほくようぐんばつ)とは、中国の辛亥革命後における袁世凱が指揮をとっていた軍による政権である。 元々は、清朝末期の淮軍として結成されていた地方軍が主体となっている。 1901年、袁世凱は清の洋大臣に就任し、西洋式の新しい洋軍を設立した。その後、洋軍が拡大し、洋だけではなく中央や各地方にも鎮守することになった。辛亥革命後、袁世凱は革命軍に協力して、清王朝を滅亡させた。そのため、彼は中華民国の臨時大総統に就任した。 1916年に袁世凱が死ぬと洋軍閥は、いくつかの分派に分裂する。 直系(直隷派) 皖系(安徽派) そのほか細かい分派には、以下などがある。 東の奉系 (奉天派) 雲南のTemplate lang?(雲南派) 廣西の桂系 最初に中央政府の実権を握ったのは、日本の後押しを受けた段祺瑞の皖系だったが、1920年の安直戦争で直系と奉系...
  • 日清通商航海条約
    ...896年7月21日に京において日本と清の間に締結された条約。同年10月20日に批准書交換が行われて10月28日に発効した。辛亥革命後の中華民国にも継続された。日本側全権は林董。清側全権は張蔭桓。 日清戦争により、日清修好条規が破棄されたため、戦後に新たに締結された。同戦争における日本の勝利を受けて修好条規の変則的平等条約から日本に有利な不平等条約に改められた。全29条から構成され、貿易における日本への待遇を欧米と同様とする(第9条)、日本に領事裁判権を認める(第22条)、条約改訂は批准書交換より10年後にのみ提議出来、半年以内に合意が成立しなければ、自動的に10年間延長されてその期間改訂出来ない(第26条)。など、日本に有利な内容であった。 更に清事変の際に結ばれた京議定書に基づいて1903年10月8日に上海において、全13条からなる日清(両国間)追加通商航海条約(にっしん...
  • 二・二六事件
    ...命的な国家社会主義者一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする一部の青年将校は、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。 これを危険視した陸軍中枢が陸軍士官学校事件において磯部と村中を免官したことも、彼等の中で上官に対する不信感を生んだ。陸軍中枢では「危険思想がある」と判断して、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていた。皇道派と統制派との反目は度を深め、統制派の領袖であった永田鉄山陸軍省軍務局長を、1935年(昭和10年)8月12日白昼に相沢三郎中佐が斬殺する事件まで引き起こされた...
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