chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「南部地方」で検索した結果

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  • 帝国大学
    帝国大学(ていこくだいがく)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された大学のことである。以下のように、1校のみの時期はその大学の名称として、2校以上になってからは大学群の総称として使われた。 1886年~1897年:日本唯一の大学であった東京大学(1877年設立)が帝国大学令に基いてつけられた名称。 1897年~:帝国大学令に基いて設置された複数の大学群の総称。最終的に、内地に7校、外地に2校設置された。 概要 帝国大学は、前身となる高等教育機関を改組・改称して設置され、後に学部を新設したり、他の高等教育機関を包摂したりして、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられ...
  • 地方官会議
    地方官会議(ちほうかんかいぎ)とは、1874年(明治7年)に設置された、明治政府が招集した府県長官の会議のことである。大阪会議で木戸孝允が構想し、開設が決定した。1875年(明治8年)以来3回、地方民情を知るために、県令および府知事を招集した。地方民会や三新法など地方自治に関係のある、地方行政を巡る諸問題を審議した。なお、元老院に対する下院のつもりであるが、実質は官選の事務官会議であった。その後、1881年(明治14年)、国会開設の勅諭によって廃止となったであろうということが定説になっているが、定かではないと思われる。 関連項目 大阪会議 元老院 大審院 立憲政体の詔書 木戸孝允 大久保利通 板垣退助   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月24日 (金) 03 49。 ...
  • 廃藩置県
    廃藩置県(はいはんちけん)とは明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 背景 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古のクーデターは事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。 一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを府藩県三治制という。なお「藩」とい...
  • 北伐
    北伐(ほくばつ)とは、中国の歴史上北に敵国がある場合にそこへ向けて軍を起こすことを言う。 概要 中国は地理上の条件から南北に分裂しやすく、しかも北には漢民族の文化的故郷とも言うべき黄河があり、南は経済的に北を圧する力を持っていた。故に北に割拠した国は南を征服する事を望み、南に割拠した国は自分達の故郷を取り戻す事を望んだ。中国の歴史上、北伐と名乗る戦争は歴代にある。 蜀の北伐 三国時代、蜀漢の諸葛亮自ら軍を率いて出兵した魏侵攻が5度行われた。 これは、初代皇帝・劉備の漢王朝復興の遺志に基づくものであったが、当時の蜀の国力及び軍事力からすれば、かなり無理なものがあった。ゆえに諸葛亮の北伐は、魏への侵攻を目的としたものではなく、拠点となる漢中の防御などあくまで蜀への侵攻を未然に防ぐ防衛戦としての役割が強いという説もある。 228年春の第一次北伐は、最初の内こそ上手く行っていた...
  • アーネスト・サトウ
    アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助。 生涯 1843年、ドイツ東部地方にルーツを持つソルブ系スウェーデン人を父、イギリス人を母(旧姓、メイソン)としてロンドンで生まれた。1861年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862年9月、英国駐日公使館の通訳見習として来日した。その直後の9月14日、生麦事件が勃発した。当時、駐日総領事ラザフォード・オールコックは一時帰国していた。1863年には薩英戦争の現場に立会い、1864年には四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会った。後に正規の通訳官及び書記官に昇進。駐日公使ハリー・パークス(在任、1865年-1882年)の下で活躍...
  • 樺太
    樺太(からふと)は、日本列島最北端、北海道の北に位置する樺太島(露:Template lang?(サハリン)、中:庫頁島(クイェとう、ピン音Kùyè))を指す地域名称である。また、この名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名として使用された。現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、太平洋戦争において日本本土最後の地上戦が行われた。 この項目では、原則的には、日本が敗戦により行政権を失う前について記述する。それ以降についてはサハリン州の項目も参照されたい。 名称 「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだ事に由来...
  • 天津条約
    天津条約(てんしんじょうやく, Treaty of Tianjin)とは、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争の結果、ロシア帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランスと清国間に結ばれたのが始まり。日本と清の間には1885年に締結。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。 1858年の条約 1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4国と結んだ条約。  軍事費の賠償  外交官の北京駐在  外国人の中国での旅行と貿易の自由  キリスト教布教の自由と宣教師の保護  牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後...
  • 大審院
    大審院(たいしんいん、だいしんいん)とは、明治時代初期から現在の最高裁判所が設置されるまで存続した日本における最高の司法裁判所である。 概要 フランスの破棄院をモデルとして設置され、主として民事・刑事の終審として、特別裁判所(大日本帝国憲法60条。皇室裁判所・軍法会議など。)及び行政裁判所(同憲法61条)の管轄に属しない事項について、裁判を行った。現在の最高裁判所に相当し、大審院長は最高裁判所長官に相当する。 大審院は、終審として上告及び控訴院等がした決定・命令に関する抗告を受け、また、第一審かつ終審として刑法の皇室に対する罪(不敬罪など。昭和22年削除。)、内乱に関する罪、皇族の犯した罪にして禁錮以上の刑に処すべきものの予審及び裁判を行うものとされた(裁判所構成法50条)。 大審院の重要な判例は、1921年(大正10年)までのものについては『大審院判決録』(民録・刑録)に、1...
  • 壬申戸籍
    壬申戸籍 (じんしんこせき) は、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。1872年の干支からとって、壬申戸籍と呼び慣わす。 概要 江戸時代の宗門人別改帳にかわり、皇族から平民までを戸を単位に集計した。また、江戸幕府の国別人口調査と異なり、全国一律の基準で集計した点でも画期的であった。この戸籍により、当時の日本の総人口は、3311万人と集計された。 明治6年(1873年)から大正8年(1919年)までの人口統計は、壬申戸籍に対する増減をもとに算出したものである。しかし転出、転入の届けなしの移動が相当数に及ぶため、地域別人口のずれが年々拡大した。また、壬申戸籍自体が、役所の戸籍簿の集計であり、直接の人口調査によるものではなかったため、無視できない脱漏を残していた。 後の統計は集計値のほかに推計値を載せるようになり、大正9年(192...
  • 独ソ戦
    Template Battlebox? 独ソ戦(どくそせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてナチス・ドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。まれに独ソ戦争(どくそせんそう)とも呼ばれる。1941年6月22日にドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するためにナポレオンに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Template lang?ヴィリーカヤ・アチェーチェストヴィェンナヤ・ヴァイナー)と呼称した。 概説 モロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス・ドイツは反共の急先鋒であったからだ。欧州を巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエト...
  • 仏印進駐
    仏印進駐(ふついんしんちゅう)とは、フランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年(昭和15年)の北部仏印進駐と、1941年(昭和16年)の南部仏印進駐に分けられる。 北部仏印進駐 1940年(昭和15年)9月、日中戦争(支那事変)によって日本と敵対していた蒋介石の中国国民党政権に対するイギリス・アメリカ合衆国などによる援助ルート、所謂「援蒋ルート」を遮断する目的で行われた。これは、フランスの親独的中立政府であるヴィシー政権との外交交渉の結果得られた成果とされ、現地の両軍司令部間での軍事協定も結ばれていた。しかし、実際には進駐開始した9月23日から数日間、ドンダン要塞など各地で戦闘日本側でも当初から戦闘を想定し、戦車部隊などを伴い武力制圧可能な構えであった。が発生し、停戦までに数百人の死傷者が出ている。 進駐後は、統治権はフランス側に残され、フランス...
  • @_ソ連対日宣戦布告
    thumb|250px|満洲国の首都[[新京を進軍するソ連軍のSU-76自走砲]] ソ連対日宣戦布告(ソれんたいにちせんせんふこく Soviet Declaration of War on Japan)とは、1945年8月にソビエト連邦が日本に対して行った宣戦布告を言う。 概要 この布告では、連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために武力攻撃を行うことが宣言されている。これにより、日ソ中立条約は完全に破棄された。ソ連軍は対日参戦を実行し、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し、日本軍と各地で戦闘になった。既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍にこれを防ぐ手段は無く、原爆投下に続き日本にとどめを刺した。 布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐...
  • 国民徴用令
    Template 日本の法令? 国民徴用令(こくみんちょうようれい)とは、国家総動員法に基づいて、昭和14年に制定された日本の法令である(勅令第451号)。一部地域では白紙などと呼ばれた。⇒国民徴用令条文 国家総動員法第4条第四条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズの規定に基く国民の徴用 国家総動員法第6条の規定に基く被徴用者の使用、賃金、給料、その他従業条件に関する命令 の二つについて規定した。 関連 国家総動員法 強制連行 大東亜戦争 太平洋戦争 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月17日 (金) 02 05。     
  • 沖縄戦-2
    前半は、沖縄戦参照 戦闘推移 事前攻撃 thumb|right|180px|[[1945年、沖縄戦に参加するため、日本各地から集結した平均年齢17歳の特攻隊員達(陸海軍計2500機の特攻機が投入された)]] アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。 沖縄本島への侵攻作戦の可能性が高いと判断した大本営は、3月20日に天号作戦を下令した。現地の第32軍も2...
  • 本土決戦
    本土決戦(ほんどけっせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争、第二次世界大戦)において想定された戦闘の一つで、日本本土における陸上戦闘を意味する。アメリカ軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた。また、ソ連軍による北海道や東北地方での陸上戦闘の可能性も含まれる。 原爆投下とソ連軍の参戦により、1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾したため、本土決戦は行われることがなかった。 背景 日本政府・大本営が「日米の天王山」と呼号して全力を注いだ比島決戦では、昭和20年(1945年)1月9日、米軍のルソン島リガエン湾上陸によって、フィリピンにおける日本軍の敗北がほぼ決定的なものとなり、同地の喪失と本土進攻は時間の問題となっていた。 また、米潜水艦の攻撃による輸送船の不足に加え、マリアナ海戦・レイテ沖海戦以後は制海・制空権を...
  • 遼東半島
    遼東半島(りょうとう(リャオトン)はんとう、中国語簡体字:Template lang? Liáodōng Bàndăo)は中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。 地理 朝鮮半島の北西に位置し、旧満州南部から海を挟んだ対岸の山東半島へ向かって西南西へ飛び出した形となっている。半島の付け根は鴨緑江と遼河に挟まれており、半島部は西を渤海、南を黄海、南東を西朝鮮湾に囲まれている。主要都市は、最西端部に旅順や大連、半島付け根の渤海側に営口などがある。全体に山がちで平野は少ない。 遼東半島の都市群 遼東半島の都市群(遼東半島城市群)とは、遼東半島にある16個の都市の集合体のことである。 7個の地級市:大連市、営口市、鞍山市、丹東市、盤錦市、遼陽市、本渓市 9個の県級市:瓦房店市、普蘭店市、...
  • 更新blog-6
    最近更新したblog一覧 その6 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-5 # トラの日記 # 三国機関 オランダ領インドネシア 吉田松陰 和製ゲシュタポ三国機関 天下とは天下の天下であって自然の天下である Japan Times の記事から「日本の厄介な歴史修正主義者たち」 2015-04-15 原爆投下 天皇 米国との戦争 国民たちが戦っている最中、天皇のお言葉 御前会議 山本五十六司令長官の責任は、比較を絶して巨大である 海軍国防政策委員会 太平洋戦争関連の昭和天皇発言 沖縄戦関連の昭和天皇発言 ■ ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電 南部仏印 ゼロからの出発と対外不平等の半世紀 大君制国家 「女工と結核」と題する演説 (23.8.27) NHKスペシャル 円の戦争  もう一つの不思議な通貨戦争 個人の尊...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 西部軍管区 (日本軍)
    西部軍管区(せいぶぐんかんく)は、大日本帝国陸軍の軍管区の一つ、西部軍の管轄区域であり中国・四国・九州地方を管轄した。 沿革 西部軍は1945年(昭和20年)2月1日第16方面軍の編成により廃止され、その後は第16方面軍司令部が西部軍管区司令部を兼ね九州地方を管轄した。また同年6月15日からは、第55軍司令部が四国軍管区司令部を兼ね四国地方を、第59軍司令部が中国軍管区司令部を兼ね中国地方を管轄した。 西部軍管区の人事 司令官 (兼)横山勇 中将:1945年2月1日 - (第16方面軍司令官) 西原貫治 中将:1945年10月13日 - 11月30日 参謀長 (兼)芳仲和太郎 中将:1945年2月1日 - (第16方面軍参謀長) (兼)稲田正純 中将:1945年5月3日 - (第16方面軍参謀長) 参謀副長 (兼)福島久作 大佐:1945年)2月1...
  • 戊辰戦争
    Template Battlebox? 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。この戦争の結果、薩長、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)出身者が明治政府の主体となり、うねる時代のなかで日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。 概要 戊辰戦争は、徳川慶喜の処分の問題に起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階、松平容保の処分の問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階、旧幕府勢力が最後の抵抗を試みた「箱館戦争」の段階の3段階に区分できる。 鳥羽・伏見の戦いの段階では、石高や兵力数では旧幕府軍が優勢であり、新政府軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していたと言われる。しかし、旧幕府軍...
  • 大韓民国臨時政府
    Template 朝鮮の事物? 大韓民国臨時政府(だいかんみんこくりんじせいふ)は、1919年に朝鮮の独立運動を進めていた人々によって中国の上海(シャンハイ)に設立された亡命政府。 李承晩(イ・スンマン)、呂運亨(ヨ・ウニョン)、金九(キム・グ)といった人々によって設立され、日中戦争勃発後、重慶に移った。当時の日本人は「上海仮政府」と呼んでいた。 創設 三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、内外各地で政府樹立の計画が進められていた。当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していたが、彼らは臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言した。同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていく。 活動 1919年6月、内務総長に安昌浩が着任し、連通制(朝鮮内地と...
  • 袁世凱
    {{大統領 | 人名 = 袁世凱 | 各国語表記 = | 画像 = Yuan Shikai in uniform.jpg | 画像サイズ = 200px | 国名 = 大清帝国 | 代数 = 第2 | 職名 = 内閣総理大臣 | 就任日 = 1911年11月16日 | 退任日 = 1912年2月12日 | 副大統領 = | 元首 = 宣統帝 | 国名2 = Template CHN1912? | 代数2 = 第2 | 職名2 = 臨時大総統 | 就任日2 = 1912年3月10日 | 退任日2 = 1913年10月10日 | 副大統領2 = 黎元洪(中華民国臨時副総統) | 元首2 = | 国...
  • ノモンハン事件-2
    前半は、ノモンハン事件参照 ノモンハン事件の戦略と戦術 兵力の集中と兵站 ソ連軍司令官のジューコフは、この戦いで兵站上の革新を成し遂げた。19世紀後半から1939年までの陸軍の兵站線は鉄道を主体とするものであり、鉄道と港湾を離れて大軍を運用することはきわめて困難とされていた。しかしジューコフは、後方基地からの650-750kmに渡る長大な兵站線を大規模自動車輸送によって確保し、8月までに大量の物資を蓄積したことで、8月攻勢の前に十分な戦力を整備したのであった。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ノモンハンは例外であった。 ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。この為、日本側は「敵よりも距離が短いので我が方が補給上有利」と考えていた。しかし、輸送力がはるか及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。満州国内の民間...
  • 関東大震災
    関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生した海溝型の大地震(関東地震)による災害。東京都・神奈川県・千葉県・静岡県の南関東地方の広い範囲に甚大な被害をもたらした。 被害 死者・行方不明者  14万2800人 負傷者  10万3733人 避難人数  190万人以上 住家全壊  12万8266戸 住家半壊  12万6233戸 住家焼失  44万7128戸(全半壊後の焼失を含む) その他  868戸 上記の従来の数字に対して、近年の学界では、実際の死者・行方不明者はより少なく10万5000人余だったという説が定着している。理科年...

  • Template 基礎情報 過去の国? Template 中国の歴史? 清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は盛京(瀋陽)、後に北京。 満洲族の愛新覚羅氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満洲語でダイチン・グルン(Daicing gurun, 大清国)といい、中国語では大清(ダーチン、ピン音 Dàqīng)と号した。 国号について 諸説ある。 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「氵」と、『周礼』で東(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進...
  • 上海停戦協定
    上海停戦協定(しゃんはいていせんきょうてい)とは、1932年1月28日より開始した第1次上海事変における日本と中華民国との間で締結された停戦協定文である。 本協定文には本来標題は無いが、当時、外務省において便宜上、同標題が付けられた。 本文 第1条 日本国及中国の当局は既に戦闘中止を命令したるに依り昭和七年五月五日より停戦が確定せらるること合意せらる。双方の軍は統制の及ぶ限り一切の且有あらゆる形式の敵対行為を上海の周囲に於て停止すべし。停戦に関し疑を生ずるときは、右に関する事態は参加友好国の代表者に依り確めらるべし。 第2条 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。 第3条 日本国軍隊は昭和七年一月二十八日の事件前に於けるが如く、共同租界及虹口方面に於ける租界外拡張...
  • 立憲政体の詔書
    立憲政体の詔書(りっけんせいたいのしょうしょ)は、1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した詔書。五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した。元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅、漸次立憲政体樹立の詔勅、元老大審二院を置くの詔などとも呼ばれる。 沿革 1875年(明治8年)1月から2月にかけての大阪会議において、明治政府の大久保利通・伊藤博文と、在野の木戸孝允・板垣退助・井上馨らとの間で合意が成立し、木戸・板垣の政府復帰と政治体制の改革が約束された。 同年3月、木戸・板垣は参議に復帰すると、大久保・伊藤とともに大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案を作成し、太政大臣三条実美に提出した。そして、4月14日、この政体改革案を元にした文書が、明治天皇の詔書の形で発表された。この詔書が、立憲政体の詔書...
  • 韓国統監府
    韓国統監府(かんこくとうかんふ)は、第二次日韓協約に基づき大韓帝国の外交権を掌握した日本が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。1910年(明治43年)の韓国併合後、大韓帝国政府の組織と統合の上、朝鮮総督府に改組された。 一般に「韓国統監府」と呼ばれているが、頭に韓国を冠記せず、単に「統監府」と称するのが官制における正式名称である。 組織 内部部局 1907年(明治40年)時点 総務部 秘書課、人事課、文書課、会計課、地方課 農商工務部 商工課、農林課、水産課、鉱務課 警務部 警務課、保安課、衛生課 外務部 韓国課、外国課 法制審査会 所属官庁 1907年(明治40年)時点 通信官署 鉄道管理局 法務院 財政監査庁 観測所 地方機関 1905年(明治38年)時点 京城理事庁 仁川理事庁 釜山理事庁 元山理事庁 鎮南浦...
  • 東莱府
    Template 朝鮮の事物? 東莱府(とうらいふ)は、現在の釜山付近に置かれた朝鮮王朝の地方行政機関。単に地方行政機関であるのみならず、中世以降近代初頭までの日朝関係において、朝鮮側の外交窓口として重要な機関であった。 正式名称は東莱都護府で、長官は東莱都護府使(正三品相当)だが、一般に東莱府・東莱府使と呼ばれている。 歴史 新羅以降、現在の釜山広域市域の大部分を管轄する東莱郡が置かれ、高麗時代には東莱県となった。朝鮮王朝でもはじめは東莱県として位置づけられていたが、1547年に東莱都護府に昇格された。壬辰倭乱(文禄の役)では緒戦の攻撃目標となり、東莱府使宋象賢は降伏を拒否して戦死した。乱中の一時期、防衛失敗を問われて東莱県に降格されたが、1599年に東莱都護府が再設置された。 近世日朝外交の窓口 朝鮮時代後期(江戸時代)、東莱府は釜山の倭館を管轄し、対馬藩との交渉に...
  • ABCD包囲網
    ABCD包囲網(ABCDほういもう)とは、1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に当時の日本が付けた名称。ABCDの部分は制限を行っていたアメリカ (America)、英国 (Britain)、オランダ (Dutch)と、対戦国であった中華民国 (China)の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣とも呼ばれる。 またこれに関しては、中華民国を外しオーストラリア(Australia)を加えたABDA包囲網Template 要出典?としているものもある。 経過 1941年、第二次世界大戦中の西太平洋地域における戦争、太平洋戦争と呼ばれる戦争の開戦以前、日本は1937年から中華民国と日中戦争を行っていた。日本軍が中華民国の占領を進め、また、パネー号事件等の日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中華民国の権益に関心があったアメリカでは対日経...
  • 台湾出兵
    台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵である。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。 背景 琉球王国は江戸時代には日本(薩摩藩)と中国大陸の清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると、帰属を巡る政治問題が起こっていた。 1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難。漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。 先住民とは交流ができなかったらしく、12月17日に遭難者達は集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々に殺害し54名を馘首した。12名の生存者は、漢...
  • 沖縄戦
    {{Battlebox |battle_name=沖縄戦 | campaign=沖縄戦 | image= | caption=沖縄南部を占領した米軍 | conflict=第二次世界大戦(太平洋戦争) | date=1945年3月26日-6月23日 | place=沖縄本島および周辺島嶼、海域 | result=アメリカ軍の勝利 | combatant1=Template flagicon?大日本帝国 | combatant2= アメリカ合衆国 オーストラリア カナダ ニュージーランド イギリス | commander1=Template flagicon?牛島満陸軍中将Template flagicon?長勇陸軍中将Template flagicon?大田実海軍少将 | comm...
  • 特高課長講演問題
    特高課長講演問題(とっこうかちょうこうえんもんだい)とは、大政翼賛会の結成を巡って千葉県で1940年に起きた政争。中央を舞台として大政翼賛会結成を推進した新体制運動と、地方政治の中心であった内務官僚を中心とする県庁及び地方政界を代表する県議会との意識格差が露呈され、のちの大政翼賛会の行政補助機関化の嚆矢となった事件の一つである。 大政翼賛会に対する千葉県の対応 大政翼賛会の結成に際して、地方でも立憲政友会・立憲民政党をはじめとする諸政党が解党され、自由民権運動を由来とする現存の数少ない政治結社であった夷隅郡の以文会(当時は政友会郡支部を兼ねていた)も同年10月13日解散した。 当時、右翼(主として革新系)は、現状に不満を抱く青年団や戦時体制強化を進める警察の一部と連携して千葉県内でも新体制運動を推進しようとした。だが、大政翼賛会の支部を構成する常務委員会の人選は県知事に事実上一任...
  • 第三次日韓協約
    第三次日韓協約(だいさんじにっかんきょうやく)は、1907年(明治40年)7月24日に締結された協約。 ハーグ密使事件をうけて、日本は1907年7月18日に高宗を退位させた。第二次日韓協約によって日本の保護国となりすでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により、高級官吏の任免権を韓国統監が掌握すること(第4条)、韓国政府の官吏に日本人を登用できること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。また非公開の取り決めで、韓国軍の解散・司法権と警察権の委任が定められた。 全文 第一條 韓國政府ハ施政改善ニ關シ統監ノ指導ヲ受クルコト 第二條 韓國政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ處分ハ豫メ統監ノ承認ヲ經ルコト 第三條 韓國ノ司法事務ハ普通行政事務ト之ヲ區別スルコト 第四條 韓國高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト ...
  • 部落問題-2
    前半は部落問題を参照 地域較差 被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域較差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んであるが、関東地方では被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にある。 北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり原田伴彦 田中喜男『東北・北越被差別部落史研究』明石書店 1981年、明治期以降解放運動の盛り上がりに欠けていた。学校での教育なども行われないため、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も単に一般の集落や町内会を指すことが多い。北海道や南西諸島には歴史的な被差別部落は存在しない。 北陸地方で部落問題が発展しなかったのは全国の被差別民も多く帰依していた浄土真宗が...
  • 第2次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ かつら ないかく|13|桂太郎|Template 和暦?|7月14日|Template 和暦?|8月30日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/13.html|陸軍大将・軍事参議官}} 概要 第2次桂内閣は、1908年(明治41年)7月12日に大命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園...
  • ノモンハン事件
    Template Coor title d? Template Battlebox? ノモンハン事件(のもんはんじけん)は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。 概要 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件、出来事」と呼び、モンゴル人民共和国のみが「ハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)」と称している。 この衝突に対して日本・満洲側が冠して...
  • 軍閥
    軍閥(ぐんばつ)とは多義的な用語であり、一つの定義に規定するのは不可能であるが、主なものについて挙げる。 国家における単一の近代的軍事組織が軍事を独占した状態になっている国家において、その官僚組織としての軍部内部における派閥のこと。特に旧日本軍内における派閥のことを言う。 軍事力を背景に地方に割拠する(国際的に承認・未承認を問わず、ある程度の実効支配地域を持つ)組織・集団のこと。 軍部内部における派閥 旧・大日本帝国陸軍における皇道派・統制派、旧・大日本帝国海軍における艦隊派・条約派などが挙げられる。しかし、軍部内における派閥は日本軍に限らずどこの軍隊にもありえるが、「軍閥」という名称では呼ばれない場合も多い。例えば、韓国軍における秘密組織であった「一心会」(ハナフェ)、やはり秘密組織である旧エジプト王国軍の自由将校団(ナセルなどが在籍)などは、その政治的野心も強かったも...
  • 財閥
    財閥(ざいばつ)とは、財閥解体以前の非常に大きい独占的な資本家または企業の事であるが、一般的には、家族または同族によって出資された親会社(持株会社)が中核となり、それが支配している諸会社(子会社)に多種の産業を経営させている企業集団であって、大規模な子会社はそれぞれの産業部門において寡占的地位を占めると定義される。また別名ではコンツェルンとも呼ばれる。 なお、近代以前には財閥という言葉は、多数の豪商を生み出した地域に付けられる事もあった。例:甲州財閥、阪神財閥 日本の財閥 日本では第二次世界大戦前に三井・三菱・住友・安田などの財閥があったが、敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により分散させられた(財閥解体)。海外ではZaibatsuとも呼ばれる。 四大財閥 三井財閥 三菱財閥 住友財閥 上記の3つを特に三大財閥と呼ぶ。 安田財閥(金融財閥) 江戸時代...
  • 労働農民党
    労働農民党(ろうどうのうみんとう)は、戦前(第二次世界大戦、太平洋戦争以前)の日本の合法左派無産政党である。 1926年3月に創立。前年12月に結成された農民労働党が共産主義と繋がっているとの嫌疑で即日禁止されたことから、当初は左派を排除した形で結党されていた。委員長には日本農民組合委員長だった杉山元治郎が就任する。しかし、結党後に地方支部が組織されていく過程で左派が流入、親共産主義の立場を取る左派の地方党員と反共産主義の立場を取る右派の幹部が対立し、1926年12月には右派が脱党して社会民衆党を結成、相前後して中間派が日本労農党を結成し、労働農民党は左派が主導権を握った。 分裂後の労働農民党は大山郁夫委員長・細迫兼光書記長が指導し、対華非干渉・労働法制定などの運動を進めた。最初の普通選挙となった1928年の第16回衆議院議員総選挙では権力の干渉は厳しく、香川県から立候補した大山郁夫陣...
  • 政体書
    政体書(せいたいしょ)は、明治初期の統治機構について定めた布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、1868年6月11日(慶応4年=明治元年旧暦閏4月21日)に発布された竹内理三他 (1978) 『日本近現代史小辞典』 角川書店、43頁。 概説 1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)王政復古のクーデター、1月27日~30日(慶応4年=明治元年旧暦1月3日~7日)の鳥羽・伏見の戦い、5月3日(旧暦4月11日)の江戸城開城などを経て、奥羽・北越地方では交戦が続いていたが、関東地方以西をほぼ掌握した新政府が、それまでの臨時政府的な三職体制に代えて新たな官制を定めたものである。 冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の...
  • 隣組
    隣組(となりぐみ) かつて日本にあった制度で、1940年に初めて明文化された。町内会のさらに下にあり数家庭ごとに一組を組織し、配給の効率化や思想統制を図った。本項で詳述する。 岡本一平作詞(作詞著作権消滅)、飯田信夫作曲で、徳山璉が歌った歌謡曲の名前である。戦時中の隣組制度を宣伝啓発する歌詞であり、また国民への宣伝啓発のため明るく元気のある曲調に仕上がっていることから、「ドリフ大爆笑」のテーマ、「メガネドラッグ」のCMソングなどにも用いられている。「隣組 (歌)」(歌詞は隣組 (歌曲))を参照。 隣組は、日本の昭和期において戦時体制の銃後を守る、国民生活の基盤の1つとなった官主導の隣保組織である。 国家総動員法、国民精神総動員運動、選挙粛清運動と並び、前年に決定し1940年(昭和15年)に内務省が布告した「部落会町内会等調整整備要綱」(隣組強化法)によって制度化さ...
  • 御前会議
    御前会議(ごぜんかいぎ)とは、天皇が臨席し、国の重要な政策を閣僚・元老と共に決定するために開催される会議の通称である。この御前会議で天皇が決定することは「聖断」として高い権威を持った。 御前会議は戦争遂行等を決定するときに開かれた。主な例では明治時代の1904年2月4日、日露戦争開戦の可否をめぐって開かれている。変わった所では、京成電鉄が恩賜公園である上野公園の敷地の地下を経由して上野に乗り入れる際にも御前会議が招集された。 大東亜戦争(太平洋戦争)と御前会議 昭和時代では、1941年7月2日、独ソ不可侵条約破棄して独ソ戦が開始されたとき、事態対応するための方策として、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定されている。独ソ戦がドイツ有利に戦況が進んだ場合、ソ連に対して開戦すること、「対英米戦準備を整え、対英米戦を辞せず」とし、南部仏印進駐開始を決めた。 同年9月6日、御前会議が開か...
  • 北洋軍閥
    北洋軍閥(ほくようぐんばつ)とは、中国の辛亥革命後における袁世凱が指揮をとっていた軍による政権である。 元々は、清朝末期の淮軍として結成されていた地方軍が主体となっている。 1901年、袁世凱は清の北洋大臣に就任し、西洋式の新しい北洋軍を設立した。その後、北洋軍が拡大し、北洋だけではなく中央や各地方にも鎮守することになった。辛亥革命後、袁世凱は革命軍に協力して、清王朝を滅亡させた。そのため、彼は中華民国の臨時大総統に就任した。 1916年に袁世凱が死ぬと北洋軍閥は、いくつかの分派に分裂する。 直系(直隷派) 皖系(安徽派) そのほか細かい分派には、以下などがある。 東北の奉系 (奉天派) 雲南のTemplate lang?(雲南派) 廣西の桂系 最初に中央政府の実権を握ったのは、日本の後押しを受けた段祺瑞の皖系だったが、1920年の安直戦争で直系と奉系...
  • 両班
    兩班(りょうはん、양반(ヤンバン・大韓民国)、량반(リャンバン・朝鮮民主主義人民共和国))は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った身分階級のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。なお、朝鮮半島の身分制度は韓国併合後に廃止された。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。現在の韓国においても李氏朝鮮の両班のような労働を忌み嫌う精神構造の事を両班精神、両班意識などと呼んだりする。 しかし、高麗時代に両班が作られた時は身分階級では無く官僚制度を指す言葉だった。 なお、両班の家系を自称する韓国人は多いとされるが、真偽は不明である。 両班の始まり 高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の二つの班からなる官僚制度を採用した。...
  • 日英関係
    Template 日本の国際関係? 日英関係(にちえいかんけい)は、日本とイギリスの関係のこと。 年表 right|thumb|[[ウィリアム・アダムス]] 18世紀以前 1587年 イギリス人「航海者」のトーマス・カヴェンディッシュ(en)、スペイン領バハ・カリフォルニア(現在のメキシコ領カリフォルニア半島)沖でスペイン船を拿捕し、乗船していた2人の日本人(クリストファー(20歳)とコスマス(16歳)(en))を自分の船に加える。この2人が初めてイギリスを訪問した日本人となったが、1592年に遭難死。 1600年 ウィリアム・アダムスが九州に上陸したのが公式な日英関係の始まり。後にアダムスの仲介によって東インド会社が平戸に商館を設置する。 1623年 アンボン虐殺事件の発生による英蘭関係の悪化と貿易の不振により平戸のイギリス商館を閉鎖、日英関係は事実上断絶する。 1673...
  • 仮45
    無産政党(むさんせいとう)とは、日本の戦前(第二次世界大戦、太平洋戦争以前)の合法的社会主義政党の総称。有産階級に対する、労働者などの無産階級のための政党と位置づけられる。「当時非合法であった、日本共産党を除く」意味合いがある。 現代ならば社会民主主義政党と呼ばれる位置にある党派が多い。労働農民党や社会大衆党などの全国的無産政党の他、地方に存在する千葉労農党や岩手無産党などの地方的無産政党などがあり、分裂期には30余りの政党が乱立していた。 概要 無産政党の消長 日本の無産政党は、明治中頃の東洋社会党など、社会主義とはほとんど無縁の政党も存在した。しかし本格的な無産政党は幸徳秋水などを中心とする社会主義者によって結成された社会民主党を以て濫觴とする(1901年5月)。 社会民主党ははじめて社会主義的宣言をしたことで知られているが、時の伊藤内閣は即日結社禁止とした。その後も社会主義者...
  • 韓国併合
    韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8月22日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて日本が大韓帝国(今日の韓国と北朝鮮に相当する地域)を併合した事を指す。日韓併合(にっかんへいごう)、朝鮮合併(ちょうせんがっぺい)、日韓合邦(にっかんがっぽう)などの表記もある(韓国では韓日併合、中国では日韓併合と表記する)。 韓国併合によって大韓帝国は消滅し、日本はその領土であった朝鮮半島を領有した。1945年の第二次世界大戦終戦に伴い実効支配を喪失し、1945年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮支配は終了した。 併合条約の日韓の見解 日本側が韓国併合は現在において「もはや無効」であるという立場をとることで韓国併合ニ関スル条約の締結自体は合法であったという考えを内包しているのに対して、韓国・北朝鮮とも韓国併合ニ関スル条約は違法に結ばれ...
  • 愛国社
    愛国社(あいこくしゃ)は、 明治時代の自由民権運動前期の政治団体。 昭和時代初期の右翼団体。 1. 愛国社 (1875年-1880年) 明治8年(1875年)2月22日、大阪会議に参加した板垣退助が、大阪で旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ創設した。愛国社に参加したのは、西日本の士族層で、これを板垣など高知県の立志社員が中心になって運営にあたった。本社を東京に置き、愛国社に加盟する各地方の政社からは、委員を本社に送って中央と地方での情報収集及び相互連絡に当たることになっていたが、結成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。 西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山...
  • 日泰攻守同盟条約
    日泰攻守同盟条約(にったいこうしゅどうめいじょうやく)(昭和16年条約第20号)は、大東亜戦争(太平洋戦争)中に大日本帝国とタイ王国の間に結ばれた同盟に関する条約である。 歴史 背景 欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となったが、翌年には日本軍の介入で講和。これによってタイは旧領土のほとんどを回復し、日本への協力姿勢を強めた。 参戦 日泰攻守同盟条約では、アジアにおける新...
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