chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「占領」で検索した結果

検索 :
  • 大東亜戦争軍票
    ...大戦中に東南アジアを占領した大東亜戦争(太平洋戦争)に於て、これらの占領地で日本軍が発行した軍用手票(以下:軍票)の総称である。 1941年以後にアジア太平洋地域の各地で発行され、各占領地域で従来発行されていた通貨単位を踏襲したため、各占領地の軍票の通貨単位も異なっていた。戦争末期になると各地の日本占領軍が軍票の濫発を行ったため猛烈なインフレーションに陥り、経済的混乱を招き価値が事実上「紙切れ」にまで暴落した地域が多かった。そのため多くのシリーズがあり、種類も多い。 概略 日本軍は各地を占領した際に軍票を発行したが、この軍票発行には大蔵大臣や日本銀行の許可は要らず、軍が勝手に印刷して流通させることが出来た。また軍票は本来は領収書であり、最終的には正貨と交換しなければならなかったが、それまでは軍が必要に応じて発行することが容認されていた。そのため前述のように濫発された結果、イ...
  • 太平洋戦争の年表
    ...アム、タラワ、マキン占領。 オランダ、日本に宣戦布告。 12月11日 日本軍、ウェーク島攻略失敗(ウェーク島の戦い)。 12月12日 日本軍、香港九龍市を制圧、英軍は香港島へ逃走。 12月15日 日本軍、ペナン島占領。 12月16日 日本軍、マレー半島アロールスター占領。 12月16日 日本軍、北ボルネオ(コタキナバル)に上陸。 12月20日 日本軍、フィリピンミンダナオ島ダバオに上陸。 12月21日 日本政府、タイと攻守同盟を締結(日泰同盟)。 12月23日 日本軍、ウェーク島占領。 12月25日 日本軍、香港島を制圧、香港のイギリス軍降伏。 1942年(昭和17年) thumb|200px|[[フランクリン・ルーズベルト|ルーズベルト米大統領]] 200px|thumb|[[珊瑚海海戦で日本軍の攻撃を受け炎上する米空...
  • 日本の分割統治計画
    ...域を以下のように分割占領した。 ソ連 南樺太(ポーツマス条約で獲得、内地、1943年3月31日までは外地) 千島列島(樺太・千島交換条約で獲得、内地) 朝鮮北緯38度線以北(日韓併合条約で獲得、外地) 関東州(旅順・大連)(ポーツマス条約で獲得、租借地。1950年代に中国へ返還) アメリカ 朝鮮北緯38度線以南(日韓併合条約で獲得、外地) 沖縄(琉球処分、内地) 奄美(連合国は沖縄の一部と解釈) 旧十島村は、軍政下に置かれた島(現十島村)とそれ以外の島(現三島村)に分割された。 小笠原(明治に領有宣言) 委任統治領南洋群島(ヴェルサイユ条約で獲得) 中華民国 台湾(下関条約で獲得、外地) これらは、1945年(昭和20年)の日本降伏後、速やかに実行された。 これら占領地域には、日本が内地とした地域もあり、その点で言えば、日本領土は史実でも分...
  • 大東亜共栄圏
    ...943年)には日本が占領地域で欧米列強の植民地支配から「独立」させた大東亜共栄圏内各国首脳が東京に集まって大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言が採択された。 大東亜共栄圏の実態と評価 大東亜共栄圏の目的は、アジアの欧米列強植民地をその支配から解放、独立させ、現在の欧州連合のような対等な国家連合を実現させることであったとも理解できる。 一方で日本軍占領下で独立を果たした国々(フィリピン共和国、ベトナム帝国、ラオス王国、ビルマ国、カンボジア王国、満州国)の政府と汪兆銘政権(中華民国)は、いずれも日本政府や日本軍の指導の下に置かれた傀儡政権であった。このため、ソ連に対する東欧諸国のような、事実上の植民地(衛星国)化、あるいはナチス・ドイツが戦争の目的とした生存圏獲得のような、日本のための収奪的経済ブロックの確立を目指したものであるという見方もある。実際、大東亜会議の晩餐会会場に掲げ...
  • 武漢作戦
    ...目的は要地武漢三鎮の占領であるとし、通城と岳州を進出限界線として要地の占領とその間の敵の撃破を命令した。新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻が開始され、9月下旬に揚子江下流北岸の田家鎮と南岸の馬頭鎮の両要衝が陥落、10月17日に蒋介石は漢口から撤退、10月25日には中国軍は漢口市内から姿を消し第6師団が突入10月26日に占領した。また第27師団が11月9日に通城を、第9師団が11月11日に岳州を占領し、進出限界に達し作戦は終了した。 参加兵力 日本軍 中支那派遣軍 - 司令官:畑俊六大将 第11軍 - 司令官:岡村寧次中将 第6師団 - 師団長:稲葉四郎中将 第9師団 - 師団長:吉住良輔中将 第27師団 - 師団長:本間雅晴中将 第101師団 - 師団長:伊東政喜中将 第106師団 - 師団長:松浦淳六郎中将 ...
  • ヴィシー政権
    ...南部をイタリアに保障占領されたため、首都はパリから中部の都市であるヴィシーに移転した。政府首班には、第一次世界大戦時にフランス軍の指揮を取ったフィリップ・ペタン元帥が高齢の身にも関わらず就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した。海外植民地及び海軍は降伏前からのものを引き続き保有した。本国の陸軍は10万人に制限されたが、マダガスカルやインドシナなどの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。 新たに制定された憲法の内容は「全権力をペタン将軍に委任する」の1条のみという、かなりお粗末なもので、その後の政策はドイツの意図に沿うもののみが適用されたため、連合国側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、第四共和政の樹立とともにそのような評価が一般的となった。しかし、第四共和政以降、政治家や官僚として戦後フランスの政治を支えた人物の中には、フランソワ・ミッテランをはじめ、ヴィシー政権下でそ...
  • 皇民化教育
    ...住民や大東亜戦争時の占領地である東南アジアの先住諸民族、また稀に蝦夷や琉球など内地に住むものもこの範疇にいれる場合がある)に対して行われた強制的な同化・教化政策とも言われている。皇民化政策とも言う。 具体的内容とされるもの 言語統制、日本語標準語の公用語化、教育現場における方言や、各民族語などの禁止。家庭内においても標準語を使用することが奨励された。 教育勅語の「奉読」、奉安殿の設置などによる学校教育での天皇崇拝の強要、日の丸掲揚や君が代斉唱などを通じ日本人意識を植え付けた。 台湾神社、朝鮮神宮等の建立や参拝の強制など、国家神道と宗教政策(日本の宗教参照)の推進。その他、軍人への敬礼や皇居への遥拝なども行わせたとされる。 観点 批判(否定)派 徴兵や植民地支配強化を目的とした政策である。 皇民化教育は特に外地や占領地域においてそれぞれの民族の伝統や文化を無視...
  • 日中戦争
    ...軍(第1軍)、石家荘占領。 10月12日 - 華中の紅軍を新四軍に改編。 10月17日 - 日本軍(関東軍)、包頭を占領(チャハル作戦終了)。 11月2日 - トラウトマン駐華ドイツ大使による和平工作始まる(トラウトマン工作)。 11月3日~11月15日 - ブリュッセルで九カ国条約会議開催、日本を非難する宣言採択。 11月5日 - 日本軍(第10軍)、杭州湾に上陸。 11月7日 - 中支那方面軍編成。 11月8日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原占領。 11月9日 - 蒋介石、上海から撤退命令。 11月12日 - 日本軍、上海を占領。 11月19日 - 日本軍(中支那方面軍)、蘇州攻略。 11月20日 - 日本、大本営設置。 11月20日 - 国民政府(蒋介石)、南京より重慶へ遷都。 11月22日 - 内蒙古に蒙疆連合委員会成立(...
  • 大東亜戦争
    ...藝評論家の江藤淳は、占領軍が日本軍の残虐行為と国家の罪を強調するために行った宣伝政策の「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」が存在したとし、これを「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」としている江藤淳著『閉された言語空間-占領軍の検閲と戦後日本』(文藝春秋、1989年 ※文春文庫版は1994年 ISBN 4167366088)。 呼称に対するGHQの検閲 占領中GHQは、公文書だけではなく、すべての出版物から「大東亜戦争」という言葉を抹殺しようと検閲を行った。まず占領政策の前期においては、あらゆる出版物が「事前検閲」を受け、「大東亜戦争」という言葉はすべて「太平洋戦争」と書き換えられたこれらは、米国のメリーランド大学のマッケルデイン図書館にプランゲ文庫として保存されている膨大な占領文書によって確認することができる。現在は、このプランゲ文庫の...
  • 連合国軍最高司令官総司令部
    ...の執行のために日本を占領し、間接統治を行なった連合国軍の日本における司令本部である。日本では「GHQ」という通称が用いられた。連合国軍総数は20万人、うち12万人が横浜市に上陸した。 名称 英語の General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers の日本語訳。「総司令部/ 聯合国軍最高司令官」が正式名称となるが、この記事名のほか、「軍」という語を使わずに連合国最高司令官総司令部、これを略して連合国総司令部としたり、軍を含めて連合国軍最高司令部日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、教育及ビ教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件(昭和二十年十月三十日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)等で...
  • 東方会議_(1927年)
    ...る国民革命軍が徐州を占領し、済南付近(山東半島の中西部にある省都)にまで迫ると、田中義一は再度、東方会議を開催して日本の権益を守るために国民革命軍と戦って、済南を占領してしまった。これを、「済南事件」という。 関連項目 森恪 吉田茂(奉天総領事として出席) 田中上奏文   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 15 45。    
  • 奉直戦争
    ...長辛店、永清、静海を占領した。そこで孫文は北伐をやめ、広州に引き返した。直隷派が最終的に勝利し、張作霖は山海関の外に退却し、秦皇島で直隷派海軍の攻撃を受けた。6月、張作霖は東北保安総司令を自任し、「自治」を宣言、海軍と空軍の育成ならびに軍隊の訓練に励んだ。外国の宣教師の調停により秦皇島にあった英国艦上で、双方は停戦した。呉佩孚は徐世昌に引退を迫り、曹錕は1923年10月賄賂を使い、総統に当選した。 第二次奉直戦争 第一次奉直戦争が終わると、直隷派が政権を取得し、合わせて中国の武力統一を図った。1924年9月直隷派江蘇系の斉燮元と安徽派浙江系の盧永祥が衝突した(江浙戦争)。1924年9月15日、張作霖は江浙戦争に呼応し15万の大軍を結集し、二方面から直隷派の地盤である山海関、赤峰、承徳へ進攻した。呉佩孚は「討逆軍総司令」に任命され、二十万の軍隊で応戦した。彭寿莘を第一軍総司令に...
  • 天津条約
    ...で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4国と結んだ条約。  軍事費の賠償  外交官の北京駐在  外国人の中国での旅行と貿易の自由  キリスト教布教の自由と宣教師の保護  牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後に同地方の汕頭に変更)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)など10港の開港 を主な内容とするが、英仏軍が引き上げると清廷では条約に対する非難が高まり、条約の批准を拒んだ。このため英仏軍はさらに天津に上陸、北京を占領したため、ロシアの仲介で1860年の北京条約が締結され、天津の開港や外国公使の北京駐在、九竜半島の英国への割譲が追加された。したがって1858年の天津条約は1860年まで履行されなかった。 ...
  • 満州事変
    ...現中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)。関東軍はわずか5ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。。 この軍事衝突を境に、中華民国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。日本では軍部が発言力を強めて日中戦争(1937年の盧溝橋事件を発端とする日中全面戦争)当時の日本での呼称は支那事変だが、今の日本ではこの名称が忌避されており、「日中戦争」と呼ぶのが普通である。中国では「抗日戦争」と呼ばれる。への軌道が確定し、中華民国市場に関心を持つアメリカら列強との対立も深刻化した。いわゆる、十五年戦争(中国...
  • 北越戦争
    ...・新潟県小千谷市)を占領した。 長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と上席家老、軍事総督・河井継之助のもと、軍事顧問に招いたプロシアの商人・スネル兄弟を通じて独自に当時日本に3門しか無かったガトリング砲の2門を購入し、フランスの新型銃2,000挺を購入するなどの火器・兵器を購入し富国強兵に努めていた。また河井の指導の下、恭順派の安田鉚蔵一部の書籍に安井柳蔵とあるが、長岡藩には安井姓の藩士は存在しない。安田鉚蔵の誤りである可能性がある。らを退け藩論を武装中立論に統一していた。会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に奥羽越列藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。 小千谷談判 5月2日(6月21日)、河井は長岡への侵攻の中止と会津藩の赦免を求めて新政府軍の軍監・岩村精一郎と小千谷の慈眼寺で会談した。しかし岩村は河井の嘆願を一蹴、談判は決裂す...
  • 興亜院
    ...大陸での戦線が拡大し占領地域が増えた為、占領地に対する政務・開発事業を統一指揮する為に設けられた。長は総裁で、内閣総理大臣が兼任した。総裁の下に副総裁4名と総務長官、政務部・経済部・文化部の各部長で構成された。現地に連絡機関として華北・蒙彊・華中・厦門に「連絡部」が設けられた。華北連絡部には出張所が置かれ、後に大東亜省に改編されたときには青島総領事館となった。占領地では軍政を行う為興亜院の幹部も主に陸海軍の将校で占められた。昭和17年(1942年)11月1日に拓務省・対満事務局・外務省東亜局・同省南洋局と共に統合・改編され大東亜省に変わる。 後に内閣総理大臣となる大平正芳は興亜院の蒙疆連絡部や経済部で勤務していたことがある。大平内閣の閣僚でもあった大来佐武郎、伊東正義もまた官僚時代、興亜院勤務で大陸に渡っていた。 興亜院の人事 ※「(心)」は心得を表す。 総務長官 ...
  • ヤルタ会談
    ...時も)ロシア・ソ連が占領していた。のち、冷戦期初期にウクライナに割譲され、現在に至る。地理的にはウクライナの半島に他ならない。 またヤルタはクリミア諸島の南端、黒海を臨むリゾート地。このソ連唯一のリゾート地に米英首脳を迎えたのであった。 概要 連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。 併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定も締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定し、これがその後も日本とソ連(現在のロシア)両国の間の長年の懸案となった、いわゆる「北方領土問題」の原因となった。 常任理事国...
  • 樺太
    ...・ブッセ「サハリン島占領日記1853-54 ロシア人の見た日本人とアイヌ」(平凡社東洋文庫 715)。 1853年、ロシア使節プチャーチン来日。長崎に於いて樺太・千島の国境交渉と交易を求め、日本全権筒井肥前守・川路聖謨と交渉したが、決裂した。 1855年、日魯和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによることを決定した。 1858年(安政5年)幕府は大野藩主土井利忠に北蝦夷地警備と開拓を命じた。 1859年、ムラヴィヨフは、自ら軍艦7隻を率いて品川に来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府はこれを拒否する。 1865年、岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、「大日本領」と記した標柱を建てる。 1867年、樺太島仮規則調印。 1869年ころ、北蝦夷地を樺太と改称 1870年2月13日、樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に...
  • 太平洋戦争
    ...として日本国民やその占領下にあった国の人々に記憶されている。ただ、実際には、満州・沖縄・千島列島などにおける連合軍との戦闘状況や、本土に引き上げようとする日本国民への攻撃は、8月15日以降も続いていた。8月15日で戦争は終わったとする考え方は、そうした状況下にあった日本国民の苦難を忘れてしまいがちなことに注意がいる。[1] |place=太平洋、東アジア全域 |casus= |territory= |result=日本のポツダム宣言受託 |combatant1= アメリカ合衆国 /br イギリス 中華民国 /br オーストラリア /br ニュージーランド /br カナダ /br /br オランダ /br フランス(1945) /br ソビエト連邦 (1945) /br 他 |combatant2=...
  • ハーグ陸戦条約
    ... 第2条 未だ占領されていない地方の民間人が、敵軍の接近に伴い第一条を充たす(軍隊等を)編成する猶予なく応戦するために公然と兵器を携帯し、戦争法規を遵守している場合は交戦者の資格を有する。 第3条 交戦当事者は、戦闘員、非戦闘員をもって(部隊を)編成を編成することが認められ、俘虜となった場合、双方とも等しく俘虜としての扱いを受ける権利を持つ。 第二章 俘虜 第4条 俘虜は敵の政府の権内に属し、これを捕らえた個人、部隊に属するものではない。俘虜は人道をもって取り扱うべし。兵器、馬匹、軍用書類を除き俘虜の所有するものを没収してはならない。 第5条 俘虜は都市、城塞、陣営その他の場所に留置され、一定の地域外に出ざる義務を負う。しかし、やむを得ない保安手段としてその幽閉する事が許される。 第6条 国家は将校を除く俘虜を階級、技能に応じ労務者として使役することができ...
  • 日本近代史
    ...、大日本帝国の強硬な占領政策に大日本帝国への反発は大きくなっていった。大日本帝国はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは、事後の「理屈付け」発想であり、実態は全く無かったとの批判があった。 そして、これまで劣勢だった米国はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返し、次第に戦況は傾いていった。ミッドウェイ海戦では最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北した。しかしこの時から国民には偽りの戦況が伝えられ、大日本帝国臣民は大日本帝国海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころすでに、数百万の大軍を広大な大陸に無戦略に送り込み、最後には敵勢力を把握しない稚拙極まる戦いを続けていた中国大陸での消耗も激しかった。また、最重要資源と...
  • ナチス・ドイツ
    ...ポーランド軍によって占領地は縮小し、1945年春には連合軍はドイツ国内へ侵攻した。1945年4月にヒトラーは自殺し、5月の最初の週にドイツは連合国に対し無条件降伏した。 ホロコースト Template main? 大戦中、ユダヤ人や少数民族に対する迫害はドイツ国内および占領地域で継続した。1941年からはユダヤ人は「ダビデの星」の着用を義務づけられ、ゲットーに移住させられた。ラインハルト・ハイドリヒの監督下、1942年1月に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終解決策」Endlösung der Judenfrage が策定されたとされる。何千人もの人が毎日強制収容所に送られ、この期間中には多くのユダヤ人、ほぼ全ての同性愛者、身体障害者、スラブ人、政治犯、エホバの証人を系統的に虐殺する計画が立てられる。また、1,000万人以上がただ働きで扱われた。この...
  • 武漢国民政府
    ...命軍の北伐軍が武漢を占領し、同年12月汪兆銘らの国民党左派が共産党のメンバーと提携、広州国民政府(広東政府)が広州から武漢に遷都して成立した。1927年4月蒋介石ら国民党右派が反共クーデターを起こし(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧、対立した。その後、経済不安や土地革命をめぐる共産党との対立によって、武漢政府も共産党を弾圧して同年7月に反共方針を明確化(国共分離)・分裂し、同年9月南京政府に合流した。 関連項目 汪兆銘 国民政府 広州国民政府 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月4日 (日) 13 49。    
  • 内閣総理大臣の一覧
    ...月15日より連合軍の占領下(9月6日主権放棄) 44 31 幣原喜重郎しではら きじゅうろう 幣原内閣1945年10月9日- 1946年5月22日 226 大阪府 帝国大学法科大学卒業外務官僚貴族院議員内閣総理大臣臨時代理 元外務大臣進歩・自由連立連合軍の占領下 45 32 吉田茂よしだ しげる 第一次吉田内閣1946年5月22日- 1947年5月24日 368 東京府東京都選挙区は高知県 東京帝国大学法科大学政治科卒業外務官僚貴族院議員 日本自由党総裁自由・進歩連立連合軍の占領下 日本国憲法下 46 33 片山哲かたやま てつ 片山内閣1947年5月24日- 1948年3月10日 292 和歌山県選挙区は神奈川県 東京帝国大学法学部独法科卒業弁護士 日本社会党委員長社会・民主・国協連立連合軍の占領下 47 34 芦田均あしだ ひとし ...
  • @_ソ連対日宣戦布告
    ...廃、ソ連軍による日本占領を主張し、米国に戦略物資の支援を要求した。 米国統合参謀本部は、ソ連が戦争の決着がついた所に便乗してくるとの見方を強めていた。一方、米国大統領ルーズベルトは完成寸前の原爆製造についてヤルタ会談ではソ連に対して一言も言及せず、もしスターリンが便乗的な侵略を満州及び日本国北方で開始しても日本本土に対する原爆投下で十分その意図を挫くことができると考えていた。またソ連側のその火事場的泥棒ともいえる米国に対してのその戦略物資支援の要求には半ば呆れた。1945年7月16日、米国は世界で初めて原爆実験を実施して成功する。こうして満州とソ連国境でそんな双方の思惑を外に徐々にその不穏なソ連軍の動きは対日参戦が開始される1945年8月9日に向けて増していく。 日本 日本においては小磯国昭内閣が和平工作を推進し、危機的な状況を主に外交交渉によって打開しようと模索していた。...
  • 渡洋爆撃
    ...していたが、日本軍の占領地の拡大に伴い目的地・発進基地ともに中国奥地へと前進した。中国国民党が遷都した重慶に対する「重慶爆撃」は有名である。機体は双発の九六式陸上攻撃機が用いられ、のちに一式陸上攻撃機が引き継いだ。 なお、陸軍は敵基地限定爆撃に重点をおき、戦略爆撃をおこなっていない。海軍航空隊がどのような判断から市街地を目標として選択したかは不明である。旧日本軍機は防御性能が十分ではなかった為、損害が回を重ねるごとに増えていった。また、護衛の九六式艦上戦闘機の航続距離が短かったのも原因のひとつとされる。この爆撃を見たアメリカやイギリスはその効率のよさを評価して、後の太平洋戦争での日本の本土空襲を行う際の参考にしたという。 関連項目 支那事変 日中戦争 注 _   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月26...
  • 南洋興発
    ...国であるアメリカ軍の占領下に置かれ、南洋興発の事業所も壊滅的な被害を受けた。戦後にはGHQにより閉鎖機関に指定され、解散した。 事業地域 マリアナ諸島 サイパン島 テニアン島 ロタ島 ニューギニア セレベス島(スラウェシ島) チモール島 関連項目 東洋拓殖 南満州鉄道 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月31日 (木) 13 32。     
  • 一君万民論
    ...戦の敗戦にともなう被占領以降は表立って唱えられることはなくなった。   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月11日 (金) 17 04。   
  • 沖縄戦
    ...tion=沖縄南部を占領した米軍 | conflict=第二次世界大戦(太平洋戦争) | date=1945年3月26日-6月23日 | place=沖縄本島および周辺島嶼、海域 | result=アメリカ軍の勝利 | combatant1=Template flagicon?大日本帝国 | combatant2= アメリカ合衆国 オーストラリア カナダ ニュージーランド イギリス | commander1=Template flagicon?牛島満陸軍中将Template flagicon?長勇陸軍中将Template flagicon?大田実海軍少将 | commander2= サイモン・B・バックナー ブルース・フライザー レイモンド・スプルーアンス ジョセフ・スティルウェル | st...
  • 大西洋憲章
    ...チルはナチス・ドイツ占領下のヨーロッパに限定されると考えた。つまり、イギリスはアジア・アフリカの植民地にこの原則が適用されるのを拒んでいた。 関連項目 十四か条の平和原則 第二次世界大戦 ABCD包囲網 連合国共同宣言 外部リンク Template Wikisource? 大西洋憲章(英米共同宣言) - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月16日 (日) 01 03。     
  • 陸軍記念日
    ...奉天(現在の瀋陽)を占領し、奉天城に入場したのがこの日であった。これを記念して翌1906年から休日としたもの。 1945年の敗戦(第二次世界大戦)に伴い廃止された。 1945年東京大空襲は、意識的にこの日を狙って行なわれたと言われている。実際には、当時の日本でこの記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になってのも事実であるかのように出回ったものである。日本では、事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認出来ない。因みに海軍記念日は5月27日。5月27日には空襲はなく、2日前の5月25日に東京大空襲、2日後の5月29日に横浜大空襲があった。 世界の陸軍記念日 アメリカ合衆国:4月6日(1950年以降廃止、5月の第3土曜日の軍隊記念日(Armed Forces Day)に統合) チリ:9月19日(Día de las Glo...
  • ポツダム宣言
    ...も同意した。なお対日占領政策の最高意思決定機関は極東委員会であり、その諮問機関である対日理事会の第一回会合は1946年4月5日。「連合国最高司令官の権限に関するマックアーサー元帥への通達」(JCS1380/6 =SWNCC181/2)(原文どおり)があり、その第1項で「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」とあり、ここでは軍隊の無条件降伏と国家の無条件降伏の区別を行っていない米国の認識が示されている。詳細は無条件降伏参照。 その他 降伏文書として宮城県白石市の白石...
  • 美濃部達吉
    ... 第二次世界大戦後、占領軍の対日民主化政策により憲法改正作業が行われ、美濃部も内閣の憲法問題調査会顧問や枢密顧問官として憲法問題に関与した。しかし、占領軍は国家の根本規範を改正する権限を有しないとの理解を前提に、新憲法の有効性について懐疑的見解を示し、しかも国民主権原理に基づく憲法改正は「国体変更」であるとして反対。枢密院における新憲法草案の審議でも、議会提出前の採決で唯一人反対の態度を示し、議会通過後の採決も欠席棄権するなどして抵抗し、「オールド・リベラリストの限界」といわれた。 日本国憲法の成立後には、この憲法の研究を重ね、多くの著書・論文を発表したが、新しい憲法施行の約1年後、1948年(昭和23年)5月23日に没した。 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template reflist? 関連項目 大日本帝国憲法 箕作家 Template Wikiquo...
  • 交換船
    ...結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満州国やタイなどその同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間については1942年6月と1943年9月の2回、日本とイギリス(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどのイギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の交換船が運航されることになった。 運航概要 運航船舶の船籍 交換時において中立国への寄港が行われることから、戦時国際法に沿って「交換船として運航される全ての船舶はすべて民間籍であること」と定められた。 当時日本とイギリス、アメリカは総力戦の真っただ中であったため、各国において交換船として使用されるような大型船舶は殆ど全て戦時徴用されていたものの、交換船として運航されることが決まった船舶は一時的に戦時徴用を解かれ、名目上は日本郵船などの民間籍に戻され...
  • 日清戦争
    ...東半島の旅順・大連を占領した。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かった。 講和条約 開戦直後からイギリスは講和斡旋へ動き、清も1895年1月に講和使節を日本に派遣した。しかし、日本は遼東半島の完全占領を目指していたため、この講和条件を受け入れなかった。1895年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれた。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意した。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行った。 条約の主な内容は次の通り 清は朝鮮が独立国であることを認める。 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支...
  • 徐州会戦
    ...も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天険の要害である黄河の防衛線もがら空きにした。 この結果、津浦鉄道の守備は手薄となっており、情報を察知した磯谷師団は板垣師団との合流を待たずに単独で進軍を開始し、泰安・済寧・滕県と順次攻略していった。戦わずして後退した中国軍の戦意はかなり低く、まともな戦闘にはならなかった。 しかし、他方では板垣師団は国民革命軍の名将張自忠により臨沂で膠着状態にあり、磯谷部隊との合流に向けた前進が阻まれていたのである。 3月15日徐州を目の前にした大運河の北岸の町・台児荘(現在の山東省棗庄市の一部)に到達した磯谷師団の瀬谷支隊(歩兵第33旅団基幹)は予想外に有力な兵力の抵抗を受ける。...
  • 昭和
    ...年まで連合国軍の軍事占領下におかれたが、連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPの軍政は布かれず、直接的な統治は沖縄・奄美諸島・トカラ列島の下7島・歯舞諸島・千島列島・樺太・小笠原諸島を除き日本政府がおこなう間接統治がおこなわれた。連合国軍最高司令官総司令部はプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米感情を統御した。沖縄・小笠原諸島ではアメリカ合衆国の軍政が布かれた。1946年に公布された日本国憲法は、主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、法の下の平等及び自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「平和主義」を三大原則とした。このため現在日本では徴兵制は憲法違反として実施されない。また、天皇を日本国および日本国民統合の象徴として、天皇の国政への関与は禁じら...
  • 第一次日韓協約
    ...、韓国は事実上日本の占領下に入っていた。しかし、高宗はこれを良しとせず、ロシアに密使を送る、1905年(明治38年)3月26日韓国皇帝のロシア皇帝宛の密書が発覚。その後も7月にロシア、フランスへ、10月にアメリカ、イギリスに密使を送る。これらの行動を受けて、日本政府は大韓帝国が外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する意志がないと考え、日本が韓国の外交権を完全に掌握できる第二次日韓協約の締結を要求するようになる。 全文 一 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ 一 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ 一 韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権、譲...
  • 旅順攻囲戦
    ...高地以外の戦略目標の占領に成功する。 第二回総攻撃 第一回総攻撃失敗後、大本営は、有坂砲で有名な有坂成章少佐の発案で、日本の主要な港に配備していた二八センチ榴弾砲(当時は二八サンチ砲と呼ばれた)を送り込む。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため移動が難しく、まして戦地に設置するのは困難とされていたが、工兵の努力によって克服している。10月26日、二八センチ砲も参加し、第二回旅順総攻撃を開始。その前に旅順港の一部が見渡せる観測点を確保していたので(南山披山の占領)、旅順港に対する砲撃も行い旅順艦隊に損害を与える。しかし、要塞の主要な防衛線を突破するには至らず、要塞攻略は失敗。戦死者1,000を数えた。 第三回総攻撃 10月バルチック艦隊がウラジオストックに向かったという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を受けるようになる。陸軍は内地に残っていた最後...
  • 南方軍_(日本軍)
    ... 第二次世界大戦時の占領地域に配置 ビルマ方面軍 第28軍 第54師団 第14野戦輸送司令部 第33軍 第18師団 第31師団 第33師団 第49師団 第53師団 独立混成第24旅団 独立混成第72旅団 独立混成第105旅団 蘭貢高射砲隊司令部 第2野戦輸送司令部 第5野戦輸送司令部 第7方面軍 第16軍 第48師団 独立混成第27旅団 独立混成第28旅団 第4鉄道輸送司令部 第25軍 近衛第2師団 独立混成第25旅団 パレンバン防衛隊 バンカランブタン防衛隊 第15野戦輸送司令部 第29軍 第94師団 独立混成第35旅団 独立混成第36旅団 独立混成第37旅団 独立混成第70旅団 第16野戦輸送司令部 第46師団 独立混成第...
  • 日本の戦争犯罪
    ...いた。アメリカ合衆国占領軍は日本占領直後から、戦争犯罪人には、捕虜を虐待したといった通常の戦争法規違反者と、戦争を国家の政策の手段とした者「政治的戦争犯罪人」の二種類があるとしており、それぞれに判定作業が行われていた。1945年(昭和20年)9月9日には第一号「政治的戦争犯罪人」として39名が指名され、指名を受けていた東條は、同月11日に逮捕される直前に自殺をはかっている。 日本は占領下にあったものの、ナチス政権瓦解により政府が機能しない状況下敗戦をむかえたドイツとは異なり、政府は存続し占領行政も日本政府を通じて行われていた。東條の自殺未遂は、当時の東久邇宮内閣にも衝撃を与え、戦争犯罪人の処置についての緊急閣議が開かれ、日本の事情をよく知らない相手に処置を委ねてしまう事は、勝者からの一方的な裁きとなる懸念があり、また日本側で処罰しておけば、その上に連合国側の裁判があっても過酷な量...
  • 本土決戦
    ...土上陸を果たし、東京占領によって戦争終結を目指すことが計画された。 一方、日本政府はスイスやソ連などを通じて、天皇制の維持や軍備の保持など主目的とする「国体の護持」を掲げた戦争終結工作を行ってはいたが、はかばかしい結果を生み出さなかったためにけっきょく戦争継続方針が採用され、なし崩し的に日本本土における戦闘を計画することとなった。 1945年7月26日に連合国からポツダム宣言が出されるが、日本はこれを黙殺する。しかしその後、原爆投下とソ連軍の参戦によって日本政府はついに降伏を決意し、8月14日に宣言の正式受諾を連合国に通告する。翌15日にはそれが発表され、9月2日に降伏文書が調印された。これによって本土決戦は想定や計画だけに終わる結果となった。 各国軍の想定 日本軍の作戦 詳細は決号作戦を参照 千島から九州まで、日本全土において防御陣地の構築や根こそぎ動員...
  • 張鼓峰事件
    ...連軍は張鼓峰に侵入、占領し、峰一帯に陣地を構築し、13日、これを監視中の松島伍長を不法に殺害した。日本政府は15日、西代理大使を通してソ連政府に至急撤兵を要求し、満洲国も14日に同様の抗議をおこなった。しかしソ連側は、現地はソ連領であるとして譲らず、外交交渉は物別れに終わった。現地では、18日、軍使をもって、煙秋警備司令官に撤兵を要求したが、なんら回答はなかった。ソ連軍は29日、峰北方の沙草峰にも越境し、陣地を構築しようとして日本守備隊に撃退された。30日夜半から31日にかけて、張鼓峰および沙草峰付近に大挙してソ連軍が来襲してきたが、これに対して日本側守備隊は反撃を加え被占領地を奪回して満洲国領土を回復した。しかし、ソ連側はさらに兵力を増強し、執拗に侵攻を企て、朝鮮の古城、甑山などを砲撃した。さらに8月1日からは航空隊も出動し、日本側の第一線に爆撃を行い、さらに編隊を組んで朝鮮の洪儀...
  • 特別高等警察
    ...されたが、、GHQの占領政策の転換に伴う公職追放者の処分解除(いわゆる「逆コース」)で、後に旧自治省・警視庁・公安調査庁、日本育英会などの上級幹部職に復職していった。また、GHQの占領政策において、社会主義運動に対する制限が設けられた事もあって、特高警察から問責・処罰の対象となった者は無かった。逆に元特高警察関係者は、GHQの手によってレッドパージの先鋒の任を与えられ役目を果たしたのである。 関係した事件 京都学連事件(1925-1926年) 三・一五事件(1928年) 四・一六事件(1929年) 赤色ギャング事件(1932年) 熱海事件(1932年) 岩田義道拷問死(1932年) 小林多喜二拷問死(1933年) 野呂栄太郎拷問死(1934年) 死のう団事件(1933年、1937年) 大本事件(1935年) ゾルゲ事件(1941年) 横浜事件(1942年...
  • 八路軍
    ...八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。1940年8月から華北において百団大戦という大規模な会戦を行い、延安と華北地域への回廊を確保した。 戦果 八路軍はゲリラ戦を主に担当していたことから、正確な戦果は把握できないが、1944年までの戦果報告によると作戦行動は七万四千回、敵兵(日本兵及び満州国軍兵)79万人を殲滅したとされている。また、兵力は1945年8月段階で80万を超える規模に達していた。 組織 総指揮官:朱徳 副総指揮官:彭徳懐 正規師団:第115師団・第120師団・第129師団が存在したが、民兵組織も多数参加した模様。 評価 日本陸軍にとって八路軍は大敵であった。民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であると共に、一般市民に紛れ、攻撃は神出鬼没のゲリラ戦で大いに日本兵を悩ませた。 一方の国民党軍はアメリカからの援助があり装備は...
  • 義和団の乱-2
    ...。特にロシア軍の満洲占領とモラルを欠いた軍事行動は、各国に多大な懸念を与えるとともに、日本に朝鮮における自国の権益が脅かされるのではという危機感を与えるのに十分であった。イギリスも中国における自国の利権を守るために日本に期待を示すようになり、1902年に日英同盟を締結するに至った。これには日本軍を賞賛したモリソンの後押しもあった。 2. 領土割譲要求の沈静化 日清戦争以降、清朝は「瓜分」(中国分割)の最大危機にさらされていたが、義和団の乱によって勢いに歯止めがかけられた。戦闘において圧倒的な強さを示した連合軍であったが、その後の占領地支配には手を焼き、中国の領土支配の困難さに嫌でも気づかざるを得なかった。列強のその時の思いは連合軍司令官ワルテルゼーの「列強の力を合わせたとしても、中国人の4分の1でも治めるのは困難であろう」ということばに言い尽くされている。ただ例外的に領土支配を目...
  • 三国干渉
    ...るならば日本が中国を占領してもよいと考えたが、セルゲイ・ヴィッテの登場により極東に艦隊を派遣するなど干渉に乗り出した。 同じく中国の分割に関心をもつイギリス、フランス、ドイツの3国に提唱し、仏・独の賛成を得て3国による勧告を行った。 ドイツ 開戦初期は極東に対し消極的であったが、戦局の推移や列強の動向の変化により、極東に自国の拠点を得る機会が到来したと認識するようになった。4月6日の時点では講和条件に異議なしと日本に伝えたが、首相ホーエンローエや外相マーシャルは列強との共同行為を提案し、最終的に、元駐清公使フォン・ブラントの意見書(4月8日)を皇帝ヴィルヘルム2世が受け入れて、ロシアと共に干渉することになった。 意見書によると、ロシアとの共同行為は、恩を感じた清国から艦隊や貯炭所の割譲または租借ができる唯一の可能性を与えるものである、と認識されている。ドイツの参加理由は、露仏...
  • 十五年戦争
    ...軍、北京・天津地域を占領。通州事件発生。 8月13日 - 第二次上海事変 9月 - 第二次国共合作 12月13日 - 日本軍、国民政府の首都南京を占領。「南京大虐殺」(または「南京事件」)発生(規模、事件の性格をめぐっては諸説あり)。 国民政府、重慶に首都移転。 1938年 1月 - 日本、「爾後国民政府を対手とせず」のいわゆる近衛声明発表。国民政府との和平交渉を打ち切った。 4月1日 - 日本、国家総動員法公布。 5月5日 - 国家総動員法、施行。 12月 - 汪兆銘、重慶を脱出。 1939年 5月 - ノモンハン事件 9月 - 第二次世界大戦勃発。ドイツ軍がポーランド侵攻開始、これに対して英仏が宣戦。 1940年 汪兆銘、南京国民政府樹立。 6月14日 - ドイツ軍、パリに入城。 6月 - フランスのヴィシー...
  • 太平洋戦争-2
    ...とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより日本の東北地方の大部分と北海道を除くほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。 これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、当時の日本の工業力では完成は夢のまた夢であった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発...
  • 奉天会戦
    ...すぐに日本軍が鉄嶺を占領している。哈爾浜に逃れたクロパトキンは罷免された。 会戦後は日本軍の能力は格段に落ちており、鉄嶺まで占領して補給線が伸びきってしまった日本軍としては、この辺が攻勢の限界であった。これは物資だけでなく人的補充という意味でも同じで、最後まで惨戦を繰り返した第三軍は損耗率が4割から6割近くあったにもかかわらずとくに被害の大きかったのは第9師団(石川県金沢市)で、その損耗率は65%にも及んだ。、その補充の予定すら立たない状況であった。特に第一線の将校、すなわち少尉から大尉程度の、前線指揮を執り兵の先頭を進む下級将校の欠乏は目を覆わんばかりで、開戦当初に配属されていた士官学校出身の現役将校はこれまでの会戦や旅順攻囲戦などによって大量に損耗していた。このため、大部分の将校が速成教育しか受けていない者や予備役から召集された者ばかりになり、前線での指揮も満足に取れない者が多...
  • @wiki全体から「占領」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。