chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「参議」で検索した結果

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  • 輔弼
    ...、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできないとされ、天皇との距離が明確に区別されていた。 正院制度にはさまざまな矛盾点が存在したため、1873年には再び改革がなされたものの(このときに「内閣」という用語が登場)、太政大臣と左右大臣のみが天皇の「輔弼」を担う、という枠組みに変更はなかった。征韓論の問題において、正院の決定が明治天皇の聖断により覆されたのも、右大臣(太政大臣代理)岩倉具視が西郷隆盛ら参議達にはない天皇の「輔弼」権限を保有していたからである。岩倉は自身が持つ「輔弼」権限を利用し、その政治的影響力を長く行使し続けた。また、元田永孚や佐々木高行ら宮中グループの台頭も大臣の「輔弼」権限を背景にしたものであった。 一方、伊藤博文は岩倉達に対抗するため、参議と内閣の地...
  • 民撰議院設立建白書
    ...7年)1月17日、前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書である。 建白書の提出まで 1873年(明治6年)末、いわゆる明治六年の政変で、征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、イギリスに留学して帰朝した古沢滋(迂郎)、小室信夫らの意見を聞き、政党の結成を思い立った。1874年1月12日、板垣らは愛国公党を結成し、反政府運動を始めた。愛国公党は、天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張した。そのため、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとも主張した。 建白書の内容 愛国公党を結成して5日後の1874年1月17日、板垣退助(前参議)、後藤象二郎(前参議)、江藤新平(前参議)、副島種臣(前参議)、由利公正(前東京府知事)、岡本健三郎(前大蔵...
  • 大阪会議
    ...憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。 会議に至る背景 征韓論をめぐる明治6年10月政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、ほぼ大久保専制体制となる。 大久保主導政府の急進的な改革に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児島県においては私学校党による県政の壟断を招き、また板垣らは愛国公党を結成して自由民権運動を始動するなど、不穏な政情が世を覆っていた。そのような状況...
  • 太政官
    ...として復活する。 参議 - 令外官・一時観察使に改編されるが復活 判官(じょう) 少納言- 少納言局を司る。 左大弁、左中弁、左少弁 - 左弁官局を司る。下に四省を持つ。 右大弁、右中弁、右少弁 - 右弁官局を司る。下に四省を持つ。 主典(さかん) 大外記、少外記 - 少納言局に属して書記を行う。 大史、少史 - 弁官局に属して事務を行う。 巡察使 - 臨時に諸国を監察する。 台閣 古代中国では、八省の上にあってこれを統括し、また皇帝を補佐して政策を審議する機関のことを「台閣」と呼んだ。日本でも律令制が導入されて太政官が八省の上に置かれると、政策決定機関である議政官のことを特に唐名で「台閣」(たいかく)と呼ぶようになった。この呼称は明治の太政官制にもひきつがれ、やがてこれを言い替えた「内閣」を中心とする内閣制度が、1885年に太政官制に取って代わった。 ...
  • 宮中顧問官
    ...) 佐佐木高行(参議兼工部卿、枢密顧問官、皇典講究所所長、國學院大學学長) 佐藤正(陸軍少将従二位、広島市長) 佐野常民(伯爵、農商務大臣、大蔵卿、枢密顧問官、元老院議長、内国勧業博覧会副総裁:1885年12月~1888年) 税所篤(子爵、元老院議官、奈良県知事、枢密顧問官) 品川弥二郎(子爵、農商務大輔、御料局長、枢密顧問官、内務大臣:1876年6月~?) 白根専一(男爵、愛媛県知事、愛知各県知事、内務次官、逓信大臣) 副島種臣(伯爵、参議、外務卿、内務大臣、枢密院副議長、枢密顧問官:1886年~1888年) 園田安賢(男爵、警視総監、北海道庁長官) 高崎正風(男爵、御歌所長、枢密顧問官:1889年~1895年、國學院大學学長) 伊達宗陳(侯爵、宇和島伊達家第10代当主) 田中光顕(陸軍少将男爵、宮内大臣、内閣書記官長、陸軍省会計局長、警...
  • 明治六年政変
    ...当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われた。西郷はそれを抑え、まず自ら非武装で朝鮮に行き、礼を尽くして談判後それでも決裂した場合、朝鮮の罪を...
  • 明治十四年の政変
    ...や急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)を中心に運営されていた。大隈重信は政府内にあって、財政政策(西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対立していた。更に宮中にいた保守的な宮内官僚も「天皇親政」を要求して政治への介入工作を行うなど、政情は不安定であった。 1880年に入ると、立憲体制に消極的であった岩倉も自由民権運動への対応から、参議や諸卿から今後の立憲体制導入の手法について意見を求めることにした。伊藤は同年暮れに意見書を提出し、漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議した(後者は公家出身の岩倉が嫌う点であるが、伊藤は敢えて提出したのである)。ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにしなかった。伊藤に相前後して参議らから次々に意見書が出され、様々な意見が出される中で1人大隈だけが意見書の提出を先延ばしにしていた。1881...
  • 木戸孝允
    ...め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行う。帰朝後は、かねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼される。妻は、幕末動乱期の命の恩人かつ同志でもある京都の芸妓幾松(木戸松子)である。 明治維新政府では、木戸の合議制重視の姿勢のため分かりにくいが、木戸が初代宰相、西郷が第二代宰相、大久保が第三代宰相に相当する。純粋で律儀、地に足の着いた開明派巨頭であったため、政策や手法を巡っておよそ心外の権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあっては、結局、最期まで、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で謎の脳病再発により死の床に就き、朦朧状態の中でも西郷と明治政府双方の行く末を案じながら...
  • 真崎甚三郎
    ...令官、参謀次長兼軍事参議官を歴任。 陸軍士官学校校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。1932年参謀次長に就任後、荒木貞夫陸軍大臣とともに国家革新を図る皇道派を形成。勢力伸張を図り、中堅将校たちの信望を担ったが、後に党派的な行動が反発を買い、統制派を生むことになる。 肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長閑院宮載仁親王の下で事実上の参謀総長として参謀本部を動かした。満州事変では勢力拡大を主張した。 1934年1月教育総監に就任、天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進し率先して天皇機関説を攻撃。この流れを危惧し陸軍の改革を断行しようとした荒木の後任、岡田啓介内閣の林銑十郎陸軍大臣とその懐刀である軍務局長永田鉄山少将が、1935年7月真崎を陸軍大将に昇進させるかたわら「陸軍三長官」の一つである教育総監から下ろし、後任に渡辺錠太郎を据えた 。この人事...
  • 自由民権運動
    ...が、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、すぐに消滅する。江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、武力闘争と紙一重であった。しかし、武力を用いる士族反乱の動きは西南戦争(1877年)で終わる。なお、この際に立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。 運動の高揚 1878年に愛国社が再興し、1880年の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていった。 このうち、不平士族を中心にした段階の運動を士...
  • 荒木貞夫
    ...相。1934年、軍事参議官。1935年、男爵。1936年、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。 1938年~1939年、第1次近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣文相として国民の軍国化教育に邁進した。 A級戦犯に処せられて終身禁固の判決を受け服役。1955年、仮釈放。東京裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が、他の被告人らを奮い立たせたともいわれている。非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェッブ裁判長から注意された。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。しかし、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになるなど、その思考には多少短絡的な部分もあったようだ。 皇道派のシンボル 昭和初期の陸軍首脳は、「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、1929年(昭和4年...
  • 寺島宗則
    ...る。 1873年、参議兼外務卿。 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を目指し、1879年には諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対などで挫折している。その後、外交官を辞職し、元老院議官、枢密院副議長、枢密顧問官などを務める。 1884年、伯爵。 1893年、62歳で死去。 関連書籍 高橋善七『日本電気通信の父 寺島宗則』図書刊行会 犬塚孝明『寺島宗則』吉川弘文館 関連項目 明治の人物一覧 徳川恒孝 徳川家広 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 15。     
  • 野村吉三郎
    ...米大使(日米開戦時)参議院議員(戦後) | 廟 = }} 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、明治10年(1877年)12月16日 - 昭和39年(1964年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。位階勲功等は海軍大将・従二位・勲一等旭日桐花大綬章。 駐米大使として真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走した。 経歴 海軍軍人時代 明治28年(1895年)、和歌山中学校を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校で学び、海軍兵学校(26期、1898年)卒業。以後海軍軍人としての経歴を歩む。 海兵教官、「千歳」航海長などを歴任した後、明治34年(1901年)に完成した戦艦三笠引取りのためにイギリスへ渡ったのをはじめ、オーストリア、ドイツ駐在を経て、駐米日本大使館附武官・パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全...
  • 立憲政体の詔書
    ...年3月、木戸・板垣は参議に復帰すると、大久保・伊藤とともに大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案を作成し、太政大臣三条実美に提出した。そして、4月14日、この政体改革案を元にした文書が、明治天皇の詔書の形で発表された。この詔書が、立憲政体の詔書である。 なお、この詔書に表題はないが、法令全書の目次では「立憲政体の詔書」と名付けられている。 内容 以下、詔書の内容を引用する(原典は法令全書。旧字体・カタカナで句読点・濁点なし)。 Template quotation? 現代語訳: Template quotation? 関連項目 民撰議院設立建白書 大日本帝国憲法 立憲主義 外部リンク 公文附属の図・勅語類・(一)元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅 - 国立公文書館 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia...
  • 第2次桂内閣
    ...ml|陸軍大将・軍事参議官}} 概要 第2次桂内閣は、1908年(明治41年)7月12日に大命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園寺公望への再度の政権譲渡を約束した。 条約改正の終了を機に西園寺への政権譲渡を決断し、内閣総辞職した。 国務大臣 内閣総理大臣 桂太郎(公爵・陸軍大将) 外務大臣 寺内正毅(臨時兼任)(伯爵・陸軍大将) 1908年(明治41年)8月27日...
  • 西郷隆盛-2
    前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革...
  • 木戸孝允-2
    ...知で大隈を西郷と同じ参議にまで積極的に引き立てている。 ところが、薩長の人間と比較すれば、不当なまでに優越した立場を与えられたことを自己の能力と過信したためか、やはり大隈も権力闘争に走ってしまう。権力闘争に血が騒ぐ大隈は、開明派のボスである木戸が病気がちになると、木戸や大隈ほど開明的ではないが故に海外視察で出会ったビスマルクに大いに感化され「鉄血宰相」然とし初めていた大久保に近づき、自己の権力の更なる安定を図る。その大久保が暗殺されると、今度は伊藤と権力闘争のデッドヒートを展開し、結局、明治14年(1881)の政変によって、明治政府から追放されることとなる。大隈もまた、木戸の大胆にして着実な開明路線を最も継承しやすい立場にありながら、それを理解出来ず、権力闘争にうつつを抜かしていることを木戸からあっさり見抜かれ、「将来を自分で潰してしまうことになるぞ」と“鬼怒”されてしまい、結局の...
  • 藩閥
    ...、薩長土肥の出身者が参議や各省の卿の大部分を独占したため、藩閥政府が形成された。やがて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、実質的に伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の一人勝ちとなった。Template 和暦?に内閣制度ができたあとも、薩長出身者の多くが内閣総理大臣、国務大臣、元老となった。 藩閥は議会政治に対する抵抗勢力であり、民本主義もしくは一君万民論的な理想論とは相容れない情実的システムであるため、当時から批判的に取り扱われてきた。自由民権運動の頃から批判の対象とされ、大正デモクラシーでは「閥族打破・憲政擁護」が合言葉とされた。 政府と軍の各部署の間の有機的な連係が藩閥によって形成されていたという側面もあり、昭和に入り試験や育成機関から採用された官僚や軍人が部署の実権を掌握するようになると縦割り的弊害が甚だしくなり国家の方針が...
  • 土肥原賢二
    ...9月28日 - 軍事参議官。 10月28日 - 陸軍士官学校校長(兼任)。 1941年(昭和16年)4月28日 - 大将に昇進。 6月9日 - 航空総監。 1943年(昭和18年)5月1日 - 東部軍司令官。 1944年(昭和19年)3月22日 - シンガポール第7方面軍司令官。 1945年(昭和20年)4月7日 - 教育総監。 8月25日 - 第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官。 9月24日 - 第1総軍司令官(兼任)。 10月1日 - 軍事参議官。 11月30日 - 予備役編入。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月29日 (土) 09 33。     
  • 愛国社
    ...成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。 西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山、愛媛、香川、高知、岡山、鳥取、福岡、佐賀、大分、熊本各県から13社の代表が大阪に集まり愛国社再興会議を開催した。翌明治12年(1879年)11月に開催された第3回大会では、国会開設実現を目標とする全国規模の請願運動を組織することを決定し、こうして愛国社は全国的な国会開設運動の中心となっていった。 こうして、国会開設を目標とする全国運動は、同時にそれまで士族中心だった運動が、新たに豪農豪商を出身の県会議員を指導者が指導する形に転換していった。これに伴い愛国社についても、立志社中心の運...
  • 皇室会議
    ...の議長・副議長) 参議院の議長・副議長 内閣総理大臣 宮内庁の長(宮内庁長官) 最高裁判所の長である裁判官(最高裁判所長官) 最高裁判所の長である裁判官以外の裁判官(最高裁判所判事)1人―最高裁判所の長である裁判官以外の裁判官の互選による。任期4年。 予備議員 議員に事故があるときや議員が欠けたときに職務を行う者として、以下の予備議員が置かれる。職務を行う順序は互選の際に定める。 皇族である議員の予備議員2人―成年皇族の互選による。任期4年。 衆議院の議長・副議長である議員の予備議員2人―衆議院議員の互選による(衆議院解散時は、後任者が定まるまで解散の際の同議員が引き続き務める)。 参議院の議長・副議長である議員の予備議員2人―参議院議員の互選による。 内閣総理大臣である議員の予備議員―内閣総理大臣臨時代理の予定者として指定された国務大臣(通常は内閣官房長...
  • 軍人勅諭
    ...に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。 内容 通常の勅語が漢文調であるのに対し、変体仮名交じりの文語体で、総字数2700字におよぶ長文であるが、軍人は暗誦できることが求められた。特に陸軍では、将兵は全文暗誦できることが当然とされた。しかし、海軍では「御勅諭の精神を覚えておけばよい。御勅諭全文より諸令則等を覚えよ」とされることが多く、全文暗誦を求められることは多くなかった。 内容は、前文で天皇が統帥権を保持することを示し、続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じた後文から成る。 特に「忠節」の項において、軍人の政治への不関与を命じるが、大日本帝国憲法に先行して天皇から与えられた「勅諭」であることから、陸軍(および海軍の一部)は軍人勅諭を政府や議会に対...
  • 松井石根
    ...3月18日 - 軍事参議官。 8月1日 - 台湾軍司令官。 10月20日 - 大将に昇進。 1935年(昭和10年)8月28日 - 予備役編入。 1937年(昭和12年)8月15日 - 召集。上海派遣軍司令官(~12月1日)。 10月30日 - 中支那方面軍司令官(~1938年3月5日)。 1938年(昭和13年)7月 - 内閣参議(~1940年1月)。 関連項目 田中正明 資料 Template imdb title? The Battle of China ダウンロード on the Internet Archive THE FAKE OF NANKING on Youtube 外部リンク 興亜観音ホームページ (略伝他) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月2...
  • 大隈重信
    ...3年(1870年)に参議に補され、明治6年(1873年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。自由民権運動に同情して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有...
  • 松方正義
    ...新政府では長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する。日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を発見して調査の末、福岡藩による藩ぐるみの偽札製造の事実を明らかにしたことで大久保利通の評価を得て、その推挙で民部大丞・租税権領に就任する。 以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿大久保の下では地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿大隈重信と対立する。松方は大隈が進める外債による政府発行紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。だが、明治14年(1881年)の政変によって大隈が退陣すると、参議兼大蔵卿として復帰する。松方は後に松方財政と呼ばれる政府発行紙幣の整理を中心とする金融政策の実現に取り組み、日本銀行の設立を経て、政府発行紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行を行った。この政策によって財政収支は大幅に改...
  • 渡辺錠太郎
    ...1931年8月 軍事参議官兼航空本部長・大将任官 1935年7月 陸軍教育総監に就任 1936年2月26日 二・二六事件で杉並区上荻窪の自邸で殺害される。 関連項目 常磐公園 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月9日 (月) 14 38。     
  • 板垣退助
    ...4年(1871年)に参議となる。 明治6年(1873年)に征韓論を主張するが欧米視察から帰国した岩倉具視らに敗れ、新政府は真っ二つに分裂。板垣は西郷隆盛らとともに下野した(明治六年政変)。 自由民権運動 明治7年(1874年)に愛国公党を組織し、後藤象二郎らと「民選議院設立建白書」を建議したが却下された。 明治8年(1875年)に参議に復帰し大阪会議に参加したが、間もなく辞職して自由民権運動を推進した。 明治14年(1881年)、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)を結成して総理(党首)となる。 明治15年(1882年) 4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ。これは事件の直後、小室信介(案外堂。1852 - 1885.8.25)というジャーナリスト...
  • 阿部信行
    ...る。1933年、軍事参議官。1936年、二・二六事件後の粛軍の結果、陸軍大将を最後に予備役編入。 1939年8月30日に内閣総理大臣に就任した。参謀本部軍務課長・有末精三が内閣成立に暗躍したともいわれる。また同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれた。当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した。しかし阿部内閣は、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げた。陸軍の反対もあり、翌1940年1月15日に首相職を辞任、内閣総辞職した。 その後、1942年4月30日に実施された翼賛選挙を前に結成された翼賛政治体制協議会の会長に就任。5月20日に結成された翼賛政治会でも引き続き会長を務めた。1944年より朝鮮総督。その年、息子の信弘がイギリス艦隊に対する特攻で戦死している。戦後、A級戦犯容疑で逮...
  • 副島種臣
    ...2年(1869年)に参議、明治4年(1871年)に外務卿となり、マリア・ルス号事件に携わる。 明治6年(1873年)2月には、前々年に台湾で起きた宮古島民殺害事件(→台湾出兵を参照)の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へ派遣され、日清修好条規批准書の交換・同治帝成婚の賀を述べた国書の奉呈、および交渉にあたった。この間に清朝高官と詩文の交換を行い、高い評価を得る。 明治6年10月の征韓論争に敗れたためいったん下野して、板垣退助らと共に民撰議院設立建白書を提出した。しかしその後の自由民権運動には参加しなかった。 明治11年(1878年)、宮内省に出仕して一等侍講。明治17年(1884年)、伯爵。明治20年(1887年)に宮中顧問官、明治21年(1888年)に枢密顧問官、明治24年(1891年)に枢密院副議長になり、明治25年(1892年)には第1次松方内閣において内務大臣を務...
  • 帷幄上奏
    ...定し、更に元帥や軍事参議官にも帷幄上奏権を認めた。こうした軍令と帷幄上奏のあり方については立憲主義の精神に反しており憲法上許されないとする違憲論も存在したが、軍部の圧力とこれに阿諛迎合する憲法学者によって合憲・合法と解釈され、違憲論は社会的・学術的に抹殺された。 だが、1912年(大正元年)の陸軍大臣による帷幄上奏による二個師団増設が認可され、これを権限の逸脱であるとして拒否した第2次西園寺内閣が軍部によって倒されると、国民の反発が高まり、第1次護憲運動の原因となった。これを機に再び違憲論が高まり、吉野作造が「帷幄上奏廃止論」を唱えた立憲政友会ではシベリア出兵における政府と軍部の対立から「帷幄上奏廃止」と「軍部大臣文官制」を掲げたが、元陸軍大臣の田中義一を総裁に迎えた後に田中の要求によって廃止された。。 第1次世界大戦後の総力戦の時代に入ると軍事力のみでの戦争遂行は不可能となり、...
  • 征韓論
    ...題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、明治6年(1873年)8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された。収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。 脚注 関連項目 留守政府 外部リンク [小説・木戸孝允]明治六年秋(七) 征韓論 (その1) [小説・木戸孝允]明治六年秋(七) 征韓論 (その2) ...
  • 翼賛議会
    ...を除いては閣僚・内閣参議・政務次官やその他諮問機関の委員など政府の役職の一部には、衆貴両院の議員が任命されて内閣の一翼を担っていた。や「聖戦完遂」(日本が戦争で勝利する)という政府・議会の共通目標を大義名分として強調することで協力を得ることで辛うじて議会を掌握していたのである。つまり実際には、当時の翼賛議会は無力な行政補助機関と言うよりは、政府・軍部の聖戦完遂政策を推進する協力勢力と言える存在であった非推薦議員の中にはこうした動きに反発する動きもあったが、翼政会首脳部によってその動きは抑えられ、また同調する議員も少なかった。。だが、戦況悪化とともに非推薦議員を中心として同会の行動に反旗を翻す議員が続出して、同会の内部の脆さが露呈した。また、軍部と結んで国政の主導権を取ろうとする翼政会指導部の方針に対して、支持母体である大政翼賛会や翼壮が反対したために民衆に対する影響力も低下した。19...
  • 伏見宮博恭王
    ...年)12月1日、軍事参議官 大正11年(1922年) 8月、社団法人帝国水難救済会総裁 12月1日、海軍大将 大正12年(1923年) 2月4日、父・貞愛親王薨去し伏見宮を継承する 10月27日、議定官 大正13年(1924年) 2月5日、佐世保鎮守府司令長官 3月24日、博忠王薨去 大正14年(1924年) 1月26日、知子女王、久邇宮朝融王と成婚 4月15日、軍事参議官 大正15年(1925年) 10月27日、敦子女王、伯爵清棲幸保と成婚 12月7日、博信王、臣籍降下し華頂博信侯爵 昭和7年(1932年) 1月26日、博義王第一王子博明王誕生 2月2日、海軍軍令部長・将官会議議員 5月27日、元帥 昭和8年(1933年)10月1日、軍令部総長 昭和9年(1934年)4月29日、大勲位...
  • 二・二六事件
    ...・西義一の七名の軍事参議官によって宮中で非公式の会議が開かれ、穏便に事態を収拾させることを目論んで26日午後に川島義之陸軍大臣名で告示が出された軍事参議官にはこのような告示を出す権限がなかったので川島陸軍大臣の承諾を得て告示として出された。。 一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ 二、諸子ノ真意ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼ニ堪ヘズ 四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニヨリ邁進スルコトヲ申合セタリ 五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ この告示はただでさえ反乱に同情的な内容である上、東京警備司令部によって印刷・下達される際に第二条が 諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム と「行動」に差し替えられてしまったため、怪文書としてまともに受け取らない部隊も出てくる有様であった。200px|righ...
  • 台湾出兵
    ...を崩さず、4月18日参議の辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の延期を決定するが、長崎に待機していた西郷率いる征討軍3000名(薩摩藩・藩士編成をした政府軍)はこれを無視して出兵を決断、5月2日に西郷の命を受けた谷干城・赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦2隻で長崎を出航すると政府もこれを追認、5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民と小競り合いを行う。5月22日に西郷の命令を受けて本格的な制圧を開始、6月には事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。だが現地軍は劣悪な衛生状態の中マラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。 収拾への交渉 当時の国際慣習を知らない明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねな...
  • 南次郎
    ...2月22日 - 軍事参議官。 1931年(昭和6年)4月14日 - 第22代陸軍大臣。 1934年(昭和9年)12月10日 - 関東軍司令官兼駐満州国大使。 1936年(昭和11年)4月22日 - 予備役編入。 8月5日 - 第8代朝鮮総督。 1942年(昭和17年)5月29日 - 枢密顧問官。 1945年(昭和20年)3月 - 貴族院議員(~12月)。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月16日 (火) 12 44。     
  • 第1次伊藤内閣
    ...とう ないかく)は、参議の伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命され、Template 和暦?12月22日からTemplate 和暦?4月30日まで続いた日本の内閣。在任期間は、861日間。 太政官達第69号により太政官制を廃止し、代わりに創設された内閣制に基づいて成立した日本最初の内閣である。内閣制の発足と同時にその運営について規定した内閣職権が制定された。 概要 来るべき、立憲体制に備えた国家機構の確立を目指した。いわゆる藩閥出身者が殆どを占め、長州藩・薩摩藩出身者が各4名ずつ入閣させる(ただし、薩摩閥の中核と見られていた黒田清隆は当初入閣せず)などのバランス重視型の布陣となった。 陸軍のドイツ式組織への改革や帝国大学令・小学校令などの制定に代表される教育改革、市町村制の確立などが行われ、伊藤自身も井上毅・金子堅太郎・伊東巳代治と憲法草案を作成するなど、立憲体制への準備が着...
  • 政党内閣
    ...(1881年)3月、参議大隈重信が意見書を提出。その中で大隈はイギリスをモデルとする議会政治の早期実現を主張し、政党内閣による政権運営を求めていた。一方、明治14年7月、右大臣岩倉具視が意見書を提出。その中で岩倉は、プロシアをモデルとする立憲君主制の採用を求めていた。政府の主要閣僚の多くは岩倉を支持。結局大日本帝国憲法にはプロシアをモデルとした立憲君主制が採用され、議院内閣制は採用されなかった。 憲法施行に際し、時の黒田清隆首相らは、政府は政党の外に立って政策遂行にあたるべきだと主張した(超然主義)。それは政党内閣を否認するということであった。だが、憲法において議会に予算議定権および立法権が認められている以上、現実には政府が議会の多数党を無視して政権運営にあたることは困難であった。そのため、政権を安定させるには、政府は議会第一党および多数の議席を保有する政党との連携が必要であった。...
  • 寺内内閣
    ...|元帥陸軍大将・軍事参議官}} 総辞職したのはTemplate 和暦?9月21日だが、次の原内閣成立まで職務を執行した。 概要 寺内内閣はTemplate 和暦?、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された。海軍大臣以外は全部山縣系という超然内閣であったことから、「ビリケン内閣」とも呼ばれた(寺内が当時流行のビリケン人形にそっくりであったことと、「非立憲(主義)」をかけたもの)。当初、第1党の立憲同志会(後に憲政会を結成)と第3党の立憲国民党は野党の立場を取ったものの、第2党の立憲政友会は「是々非々」として政策次第であるとした。 翌Template 和暦?に、立憲国民党が提案して憲政会が呼応した内閣不信任上奏案の審議の場で、立憲国民党の犬養毅総裁が一転して政友会・憲政会両党を揶揄する演説を行ったことから両党の対立が煽られ、政府は詔書で衆議院解散を行った。その際...
  • 内閣総理大臣
    ...よって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がない、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。 1880年 (明治13年) ごろから参議伊藤博文はこの太政官制の改革を試みはじめたが、これに対して保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤には岩倉に対抗するだけの政治力が無かった(明治14年の政変による大隈重信追放が岩倉が宮中を動かして進められたために、伊藤も岩倉との衝突によって「第二の大隈」になる可能性があった)。そのため、伊藤は一旦この提案を引き下げて1882年 (明治15年) 3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査に当たったが、この時から「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉の死後に帰国した伊藤はドイツで研究した立憲体制に則し...
  • 勝海舟
    ...外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を授予された。海舟が新政府から子爵叙爵の内示を受けた際、「今までは 人並の身と 思いしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」との歌と共に突き返した為、新政府側が慌てて伯爵に格上げしたとされている(伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌との説も有り)。、政争の渦に巻き込まれる中、参議兼海軍卿を解かれた後、枢密顧問官となる。 勝はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。 座談を好み、特に薩長の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷や大久保、木戸孝允の大きさを、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。 勝は日本...
  • 梅津美治郎
    ...0月15日 - 軍事参議官。 11月30日 - 予備役編入。 登場する小説 『凪の時』  大江志乃夫著(1985年、筑摩書房) 『日輪の遺産』 浅田次郎著 『不毛地帯』 山崎豊子著 関連項目 大分県出身の人物一覧 ベン・ブルース・ブレイクニー 宮田光雄 外部リンク 梅津 美治郎 / クリック 20世紀 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月19日 (水) 15 45。     
  • 林銑十郎
    ...年(昭和15)、内閣参議。 1942年(昭和17)に大日本興亜同盟総裁。 1943年(昭和18)1月半ば頃から風邪をこじらせ自宅療養中に脳溢血を発症、そのまま2月4日に死去。66歳。正二位勲一等功四級。 関連項目 Template Commons? 林内閣 大日本回教協会: 林はムスリムではなかったが初代会長をつとめていた。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月22日 (土) 10 55。     
  • 日満議定書
    ...同意が必要とする。(参議の人数については両国協議の上増減する) の4点。 2. 1932年8月7日に満洲国国務総理(鄭)と関東軍司令官(本庄)との間で交わされた、満洲国政府の鉄道・港湾・水路・航空路等の管理並びに二線路の敷設管理に関する協約とそれに基づく附属協定 3. 1932年8月7日に満洲国国務総理(鄭)と関東軍司令官(本庄)との間で交わされた、航空会社(満州航空)設立に関する協定 4. 1932年9月9日に満洲国国務総理(鄭)と関東軍司令官(武藤)との間で交わされた、国防上必要な鉱業権の設定に関する協定 なぜ、この時期に「日満議定書」なのか 満洲国の成立は1932年3月であり、すでに半年も経過している。 また満洲国内の日本の権益も既に確定しており、今さら公式文書を交わす必要もない。 ではなぜこの時点で日満議定書が交わされたのか。 大きな要因の一つに、リット...
  • 岡田啓介
    ...、大蔵官僚出身、後に参議院議員、経済企画庁長官、郵政大臣を歴任する政治家になっている。二・二六事件で死亡した高橋是清蔵相は、共立学校時代岡田の英語の先生だった。 年譜 1889年4月20日 - 海軍兵学校卒業(15期)。同期に、小栗孝三郎、竹下勇、財部彪。 1890年7月9日 - 海軍少尉に任官。 1892年12月21日 - 海大丙号学生 1894年12月9日 - 海軍大尉に進級。 1898年4月29日 - 海大乙種学生 1899年3月22日 - 海大甲種学生 9月29日 - 海軍少佐に進級。 1901年6月7日 - 海軍大学校教官。 1904年7月13日 - 海軍中佐に進級。 1906年5月11日 - 海軍水雷学校教官。 1908年9月25日 - 海軍大佐に進級。海軍水雷学校校長。 1910年7月25日 - 装甲巡洋艦春日艦長。 1912年12月1...
  • 詔勅
    ...卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を要した。詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり手続きが煩雑であるため、改元など儀式的な事項にのみ用いられるようになった。 勅書には勅旨式条によるものと飛駅式条によるものがあり、前者は通常の政策の決定に用いられ、後者は緊急事項を地方官へ伝達する際に用いられた。勅書に天皇の書き入れや公卿の署名はなかった。やがて律令制度が形骸化するにつれて、天皇の意思表示は女房奉書や御沙汰書など非公式の形で伝えられるようになった。 1868年の明治維新により詔勅の重要性が増したが、当初は詔勅の形式が一定せず、詔勅は「被仰出」「御沙汰」の文言とともに太政官などを通じて示された。1881年(明治14年)布告布達式により、太政大臣が「奉勅旨布告」すなわち天皇の意思を承って布告することが定められた。ただし翌1882年の軍人勅諭が陸軍卿(明治18年12月22日に内閣...
  • 秩禄処分
    ...政府では旧薩摩藩士で参議の西郷隆盛らが朝鮮出兵を巡る征韓論で紛糾しており、薩摩士族の暴発を予防策として家禄制度を維持しての士族階級の懐柔を行うべきであるとする意見も存在していた。1873年1月には徴兵制の施行により家禄支給の根拠が消失する。 大久保政権の禄制改革 同年には使節団が帰国し、征韓論を巡る明治六年の政変で西郷、司法卿江藤新平らが下野し、大久保利通政権が確立する。政変が収束し、11月には禄制改革の協議が再開され、最終処分までの過渡的措置として、家禄に対する税を賦課する家禄税の創設や、大隈重信の提案で家禄奉還制が討議される。岩倉や伊藤は慎重論を唱え、木戸らは反対するが、方針として決定され、12月には再討議を行い、太政官布告されるとともに、家禄を整理するために自主的な秩禄奉還者に対して秩禄公債を発行して禄高に対して公債を付与する政策を採った。 家禄税は、家禄のランクに応...
  • 朝日新聞
    ... まず創刊期には、参議伊藤博文らが参議大隈重信を政府から追放した明治14年政変の翌年以降、政府と三井銀行から極秘裡に経営資金援助を受ける御用新聞として経営基盤を固めた。そしてその間に東京の「めさまし新聞」を買収して「東京朝日新聞」を創刊し、東京進出を果たした。さらに日露戦争前には主戦論を展開し、日露講和にも反対した。 大正デモクラシー期には憲政擁護運動の一角を担い桂太郎内閣を批判。寺内正毅内閣期には、同内閣だけでなく、鈴木商店を米の買い占めを行っている悪徳業者であると攻撃して米騒動を煽り、鈴木商店は焼き討ちにあった(白虹事件を参照)。しかしこの事件を再調査した城山三郎によれば、当時、鈴木商店が米を買い占めていた事実はなく、焼き討ちは大阪朝日新聞が事実無根の捏造報道を行ったことによる「風評被害」情報紙『有鄰』No.385 P1で、鈴木商店と対立していた三井と朝日の「共同謀議」とい...
  • 阿南惟幾
    ... - 航空総監兼軍事参議官。 1945年(昭和20年)4月7日 - 陸軍大臣(~8月14日)。 阿南を演じた俳優 三船敏郎 「日本のいちばん長い日」(1967年 東宝) 相馬剛三 「山河燃ゆ」(1984年 NHK大河ドラマ) 浜田晃 「聖断」(2005年 テレビ東京) 参考文献 thumb|200px|[[軍服 (大日本帝国陸軍)#明治45年制式|通常礼装の阿南]] 角田房子 『一死、大罪を謝す―陸軍大臣阿南惟幾』新潮社 ISBN 4101308012 同名書 (ISBN 4103258039) の文庫化 沖修二 『阿南惟幾伝』 ISBN 406207477X 1970年 講談社刊同名書の再刊 甲斐克彦 『武人(もののふ)の大義―最後の陸軍大臣 阿南惟幾の自決』 ISBN 4769808615 阿部牧郎 『大義に死す―最後...
  • 後藤象二郎
    ...への参加を皮切りに、参議、参与などに就任するが、明治6年(1873年)に板垣退助・西郷隆盛らと共に征韓論争に敗れて公職を離れる。 しかし翌年には板垣退助、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を組織し、民選議院設立を申し立てたが成功しなかった。明治14年(1881年)には再び板垣を中心に、自由党を設立した。 のちには薩長政府の懐柔策に応じて協力に転じ、黒田内閣や第1次松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣で農商務大臣に就任している。その後も政界にて活躍して、進歩党結成にも尽力している。 また実業家としての一面もあり、明治7年(1874年)には長崎県の高島炭鉱を約55万円で払い下げを受けて蓬莱社を設立するが、2年後には放漫な経営のため破綻。結果、岩崎弥太郎に売却している。 その後の後藤家 象二郎のあとを継いだ猛太郎は、日本活動フィルム会社(日活の前身)初代社長をつとめた。 猛太郎と...
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