chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「和平」で検索した結果

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  • トラウトマン工作
    ...中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン (Oscar P. Trautmann 1877年5月 - 1950年12月10日) 駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼ばれる。工作という言葉の負のイメージを嫌ってトラウトマン和平工作とも呼ばれる事もある。 和平交渉の期間は、日中戦争(支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1箇月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。 概要 当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた。ただし、中国侵出の意欲は低く、また日本の目が中国に向かって北方のソ連から逸れるのは望まざるところであったので、和平工作の仲介に乗り気であった。 11月初旬に第1次の和平案の提示が日本からなされた。11月のブリュッセル国際会議(九ヶ国条約...
  • 九カ国条約
    ...していったので、日中和平を仲介すべく、1937年11月にブリュッセルで九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定された。これを受けて、休戦を主張する石原莞爾らの協力もあり、第1次近衛内閣外務大臣の広田弘毅はトラウトマン工作を開始した。 しかし、日本側はこの会議への出席を拒否。これにより本条約は事実上無効となり満州事変が起きた時点で既に条約は無効となっていたとする説もある。、ワシントン体制は名実ともに崩壊したワシントン体制の一翼を担っていたワシントン海軍軍縮条約は1936年(昭和11年)12月に失効している。。 その後も、日本やその他加盟国も和平の道を探るも、1938年(昭和13年)1月16日には「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明が発表され、和平への道は閉ざされた。 更に、近衛文麿内閣総理大臣は汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した...
  • 汪兆銘政権
    ...svg |標語 =和平・反共・建国 |国歌名 =三民主義 |位置画像 = |公用語 =國語 (中国語) |首都 =南京 |元首等肩書 =国民政府主席 |元首等年代始1 =1940年 |元首等年代終1 =1944年 |元首等氏名1 =汪兆銘(代理) |元首等年代始2 =1944年 |元首等年代終2 =1945年 |元首等氏名2 =陳公博(代理) |首相等肩書 =行政院長 |首相等年代始1 =1940年 |首相等年代終1 =1944年 |首相等氏名1 =汪兆銘 |首相等年代始2 =1944年 |首相等年代終2 =1945年 |首相等氏名2 =陳公博 |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 =樹立 |変遷年月日1 =1940年3月30日 |変遷2 =崩壊 |変遷年月日2 =1945年 |通...
  • 汪兆銘
    ...衆の被害に心を痛め、和平グループの中心的存在となった。 10月12日には汪はロイター記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった。今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる今井武夫『支那事変の回想』P85。 一方、1938年3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。 1938年11月、上海で、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の二年以内の撤兵」などを内容とする「日...
  • 中華民国維新政府
    ...幅 = |標語 =和平、建國 |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 =Pacific Area - The Imperial Powers 1939 - Map.svg |位置画像説明 = |公用語 =中国語 |首都 =南京 |元首等肩書 =行政院長 |元首等年代始1 =1938年 |元首等年代終1 =1940年 |元首等氏名1 =梁鴻志 |首相等肩書 = |首相等年代始1 = |首相等年代終1 = |面積測定時期1 = |面積値1 = |人口測定時期1 = |人口値1 = |変遷1 =成立 |変遷年月日1 =1938年3月28日 |変遷2 =南京国民政府に合流 |変遷年月日2 =1940年3月30日 |通貨 = |時間帯 = |夏時間 = |時間帯追記 = |ccTLD = |ccTLD追記 = |国際電話番号 = |...
  • @_ソ連対日宣戦布告
    ...、日本が提案していた和平調停の基礎は完全に失われたこと。 日本の宣言無視を受けて、連合国は、ソ連に、日本の侵略に対する連合国の戦争に参戦して世界平和の回復に貢献することを提案したこと。 ソ連政府は連合国に対する義務に従って右提案を受諾し、7月26日の3国宣言にソ連も参加することを決め、各国人民をこれ以上の犠牲と苦難から救い、日本人を無条件降伏後の危険と破壊から救うためにソ連は対日参戦に踏み切ること。 以上の理由からソ連政府は8月9日から日本と戦争状態に入るべきこと。 背景 連合国 この宣戦布告が発表された背景には、連合国間の政治的な駆け引きが影響している。 1945年になってから連合国はドイツの戦後処理と日本の本土攻略に焦点を当てていた。この討議のため、2月にヤルタ会談が開催され、ソ連参戦が議論された。当時日本と太平洋戦争を遂行していた米国政府は、ソ連と連携...
  • 南京攻略戦
    ...機で南京城内にビラ(和平開城勧告文)を撒き、中国軍に対し降伏勧告を行なう。 12月10日和平開城勧告文の回答期限の午後一時、中国軍からの反応なく、日本軍は総攻撃を開始。 12月11日日本国内では早くも南京陥落の祝賀行事を盛大に挙行。 12月12日午後八時、唐生智は全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出し無秩序な状況で南京城を脱出。明確な撤退命令を出さなかった為、その後も散発的に戦闘が続けられる。 12月13日南京城陥落。日本軍が南京城内へ入城。パラマウント・ニュース映画 入城する日本軍に拍手(1) 、 同(2) 12月17日日本軍による入城式が挙行される。 12月23日陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復する。THE TIMES, Dec. 24 1937, Nanking s New Rule...
  • 木戸幸一
    ...一方では早い段階での和平を考えていた。戦争末期には、外務大臣・重光葵と二人だけで天皇の「鶴の一声」による終戦工作を行い、鈴木貫太郎内閣の面々に和平の方針を説いて回るなど、いわゆる「聖断」工作を進めた(これらの政策を推し進めていたことから、本土決戦派の間では、木戸を暗殺する計画があったという説もある)。 極東国際軍事裁判(東京裁判)では昭和天皇の戦争責任などに関して、自らのいわゆる『木戸日記』などを証拠として提示した。日本語で372枚にも及ぶ宣誓供述書で「隠すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が軍国主義者と戦い、政治的には非力であったかを述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いた。その一方で、『木戸日記』は軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、武藤章や佐藤賢了は木戸のことを指差しながら同乗の笹川良一に向かって「こんな嘘吐き野郎はいないよ。...
  • 東郷茂徳
    ...は吉田茂らいわゆる「和平派」から批判を浴びている)。 ドイツとの関わり ドイツ文学 第七高等学校造士館(現鹿児島大学)に赴任していた片山正雄に師事した事がきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった。その後、東郷は東京帝国大学(現東京大学)文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師である片山も学習院大学教授として赴任。片山は、自らの師でありドイツ文学者である登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した。 明治38年(1905年)5月、大学の文芸雑誌『帝国大学』臨時増刊第二「シルレル記念号」に、フリードリヒ・フォン・シラー作『戯曲マリア・スチュアルト』(マリア・スチュアルトはスコットランド女王メアリー・ステュアートの事)を題材とし、東郷の唯一の文芸批評が掲載された。 二度のドイツ赴任 大正8年(1919年) - 大正10年(1921年)に対独使節団の一...
  • 岡田啓介
    ...勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、東條内閣打倒の運動を行った。嶋田繁太郎海相の辞任をめぐって、東條英機と2人だけでやりあったこともあった。サイパンの失陥を契機に東条内閣が瓦解したのは岡田の功績である。そして現役を退いていた米内光政を現役復帰させて副首相格の海軍大臣として政治の表舞台に引き上げ、終戦への地ならしを行った。 1945年(昭和20年)2月、天皇は重臣を2人ずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。天皇も、岡田と元内大臣牧野伸顕の意見が最も穏当だったと『昭和天皇独白録』の中で述べている。終戦を決めた鈴木貫太郎内閣では、女婿の迫水久常が内閣書記官長の職にあった。岡田は迫水を通じて、終始鈴木に助言を行った。その働きぶりはすさまじく、「鈴木内閣即岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。破局への流...
  • 第1次近衛内閣
    ...力により戦争は拡大。和平交渉にも失敗して、翌1938年(昭和13年)1月には、「爾後国民政府を対手とせず」という、いわゆる「近衛声明」(第一次近衛声明)を発表した。また、同年4月には国家総動員法を制定して戦時体制を整えた。同年11月には「東亜新秩序建設」を戦争目的と規定する声明(東亜新秩序声明、第二次近衛声明)を発表し、同年12月には親日派の汪兆銘の重慶脱出を受けて「近衛三原則」(善隣友好、共同防共、経済提携)を日中和平の基本方針として呼びかける声明(第三次近衛声明)を発表した。1939年(昭和14年)1月に、内閣総辞職。 閣僚 thumb|right|200px|近衛文麿首相。後方左は[[米内光政海相。]] 総理大臣 公爵近衛文麿(貴族院所属 火曜会) 1937年(昭和12年)6月4日 - 1939年(昭和14年)1月5日 外務大臣 広田弘毅(貴族院所属) 19...
  • 帝国国策遂行要領
    ...米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし 備考 必要に応じ本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は北部に移駐するの用意あること並に日支間和平成立するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立する上は前記日本軍隊を撤退すべき旨を約束し差支なし 必要に応じては甲案中に包含せらるる通商無差別待遇に関する規定及三国条約の解釈及履行に関する既定を追加挿入するものとす 関連項目 基本国策要綱 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月22日 (水) 06 39。    
  • 伏見宮博恭王
    ...恭王自身は「日本から和平を求めても米国は応じることはないであろう。ならば早期に米国と開戦し、如何にして最小限の犠牲で米国に損害を与え、日本に有利な条件で早期和平を結ぶべきである」という考えを持っていたとされる。嶋田繁太郎の日記による。世界文化社刊「ビッグマンスペシャル。連合艦隊・日米開戦編」(1998年7月)「早期決戦・早期和平」という考え方は、欧米協調派であった山本五十六にもあった。 井上成美は軍務局第1課長時代には、軍令部による軍令部令及び省部互渉規定改正案に職を賭して激しく抵抗した。その結果軍務局第1課長を追われ、井上が横須賀鎮守府附として待命予備役編入の辞令を待つなかば左遷状態の時に、当時練習戦艦であった比叡艦長の辞令を得ている。伏見宮軍令部長が敵であったはずの井上に対し、「男としてまた軍人として、まさにああでなければならない。自己の主張、信念に忠実な点は見上げたものである...
  • 支那事変
    ...を公然と支援。日本は和平、防共、建国を唱える汪兆銘を支援し南京国民政府(汪兆銘政権)を承認した。昭和16年(1941年)12月8日の日米開戦とともに蒋介石政権は9日、日本に宣戦布告し、日中間は正式に戦争へ突入していった。同12日、日本政府は「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」昭和16年12月12日閣議決定 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テと決定した。 日本では初め北支事変(ほくしじへん)、後には支那事変(しなじへん)の呼称を用いた。新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われる場合もあった。他に日支事変とも呼ばれる。 戦後は昭和12年(1937年)7月以降を含めて「日中戦争」と呼ぶ呼称が広まった。これは「事変」といいながら事実上の戦争であるとの指摘、さらに主としてマスコミが「支那」「大東亜...
  • 近衞文麿
    ...の間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衞と蒋との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衞は杉山元陸相に確認を取り、宮崎龍介を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。 この件に関して杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衞は杉山に強い不信感を抱くようになる。 8月8日には日支間の防共協定を目的とする要綱を取り決めた。8月9日に上海で、蒋介石軍の挑発による上海事変が勃発。それに応じて、8月13日に、二個師団追加派遣を閣議決定。8月15日には、海軍による南京に対...
  • 鈴木貫太郎
    ...閣当初から鈴木本人は和平派かそれとも和平と戦争継続に揺れ動いていたかは諸説あるが、和平派説の有力な一例として取り上げられるのが1945年6月8日の重臣会議での出来事である。若槻禮次郎から戦争継続についての意見を尋ねられた時、鈴木は「理外の理ということもある。徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」と叫びテーブルを叩いた。このとき同席した東條英機は満足してうなずいたが、近衛文麿は微笑しており若槻が不審に思った。これは、東條ら戦争継続派に対する鈴木のカムフラージュと言われており、「内大臣に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ」(志賀直哉『鈴木貫太郎』)という若槻の証言が残っている。 8月...
  • 鈴木貫太郎内閣
    ...ソビエト連邦を通じた和平工作を模索していた。 しかし、翌8月6日に広島、同月9日には長崎に原子爆弾が投下されて壊滅的な被害を受け、同じ9日にはソ連軍が満州国に侵攻する(ソ連対日参戦)など、和平工作の失敗が明白となった。この8月9日深更から開かれた最高戦争指導会議および閣議の御前会議は、ポツダム宣言を受諾して降伏するか、あくまでも本土決戦を期して戦争を遂行するかで議論は紛糾した。鈴木首相は昭和天皇の聖断を仰ぎ、「国体護持」を条件として、ポツダム宣言受諾に意見統一した。翌8月10日、内閣は、ポツダム宣言を受諾するにあたり、「万世一系」の天皇を中心とする国家統治体制である「国体」を維持するため、「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下ニ受諾」すると付言して、連合国側に申し入れた。これに対し、連合国側は、天皇の権限は、連合国最高司令官の制限の下に置かれ、日本の究...
  • 近衛上奏文
    ...、軍部を抑えることで和平に導くべきであるということを主張した。昭和天皇から見れば、近衛の「敗戦」「共産革命」という上奏文、および内閣後継人事の意見は、常軌を逸したものであり、「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」として近衛の話には否定的だった。これが、東京大空襲から長崎原爆投下などの惨事を招いたとする、「遅過ぎた聖断」として批判する意見の論拠とされている。 上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って吉田茂邸を訪れた。吉田もこれに共感したため、牧野伸顕に見せようと写しをとった。しかし、吉田邸の女中とその親類を名乗る書生は実はスパイであり、写しが憲兵側に漏れたために吉田は拘引され、その他近衛周辺の人物も次々と、近衛を取り締まる布石も兼ねて取調べを受けることとなる。二人のスパイは、吉田拘引後は近衛邸の床下に入り盗聴を行っていたという。 脚注 参考文献 ...
  • セオドア・ルーズベルト
    ...らポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。 一方で国内では反トラスト法を発動して独占資本を規制し、対外的には海軍力を盾にカリブ海政策を推し進め(棍棒外交)日露戦争後は艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させ強大化しつつある日本を牽制した。 内閣 職名氏名任期 大統領セオドア・ルーズベルト1901 - 1909 副大統領チャールズ・フェアバンクス1905 - 1909 国務長官ジョン・ヘイ1901 - 1905  エリフ・ルート1905 - 1909  ロバート・ベイコン1909 財務長官ライマン・ゲイジ1901 - 1902  レスリー・ショウ1902 - 1907  ジョージ・コーテルユー1907 ...
  • 頭山満
    ... 幻に終わった和平会談 日中戦争が泥沼化し、日米関係も悪化していた昭和16年(1941年)9月、頭山は東久邇宮稔彦王から蒋介石との和平会談を試みるよう依頼される。頭山は、玄洋社社員で朝日新聞社員の緒方竹虎に蒋介石との連絡をとらせ、「頭山となら会ってもよい」との返事を受け取った。そこで東久邇宮が東條英機首相に飛行機の手配を依頼したところ、「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった。東久邇宮はこの時の事を「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併合も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蒋介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」と書き残している(東久邇宮著『私の記録』)。 晩年 頭山は、静岡県御殿場の富士山を望む山荘で昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。晩年...
  • 太平洋戦争-2
    ...当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取る形で東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣は総辞職に追い込まれた。 この頃日本は、相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失ない、その上、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すらままならない状況であった。 10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進...
  • ポツダム宣言
    ...ビエト連邦に派遣して和平の仲介を求める構想が進められており、それに対するソビエト連邦政府の返事を待つとの見方もあり、結局、ポツダム宣言の黙殺を決めた(ソビエト連邦は受ける気はなかったものの、アメリカ合衆国・イギリスと協議しヤルタ協定でソ連対日宣戦布告まで大日本帝国の申し出を放置する事に決定していた)。 政府は、7月27日にポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に読売新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。鈴木貫太郎首相は同日、記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺」は日本の国家代...
  • 日ソ中立条約
    ...側はソ連の仲介による和平工作をソ連側に依頼していた。ソ連はこれを黙殺し密約どおり対日参戦を行うことになる。ソ連は8月8日深夜に日ソ中立条約の破棄を宣言し「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」として宣戦を布告。9日午前零時を以って戦闘を開始し、南樺太・千島列島及び満州国等へ侵攻した。この時、日本大使館から本土に向けての電話回線は全て切断されており、完全な奇襲攻撃となった。 条約破棄を巡る議論 日本側の主張 条約の一方的破棄から参戦にいたるソ連の行動に対しては、「ソ連は条約を踏みにじって攻め込んだ」として強く非難する声が日本国内に根強く存在する。国際法上または外交信義に鑑み、ソ連の一方的な条約破棄を正当化できる根拠はないとする主張である。 具体的には、日ソ中立条約は、その第3条において、 本条約は 両締約国に於て其の批准を了したる日より実施せらる...
  • 小磯内閣
    ...(重慶国民政府)との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職に至った。 閣僚 総理大臣 小磯國昭(予備役陸軍大将[陸士12期]) 1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日 外務大臣 重光葵(官僚 外務省)(東條内閣から留任) 1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日 内務大臣 大達茂雄(官僚 内務省) 1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)4月7日 大蔵大臣 石渡荘太郎(貴族院所属 研究会)(東條内閣から留任) 1944年(昭和19年)7月22日 - 1945年(昭和20年)2月21日 津島寿一(官僚 大蔵省) 1945年(昭和20年)2月21日 - 1945年(昭和20年)4月7日 陸軍大臣 杉山元(軍人 陸軍大将・元帥[陸士12期]) 1944...
  • 吉田茂
    ...駐英大使として日英の和平を目指すが、情勢の悪化はいかんともしがたかった。また、日独伊三国同盟には強硬に反対していた。 太平洋戦争中は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって昭和20年(1945年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。40日後に仮釈放、後に不起訴とされた。ちなみに吉田の著書「回想十年」によると、牧野伸顕の義妹が宮崎県、旧高鍋藩主家の秋月氏に嫁いでおり、秋月氏の縁で高鍋出身の海軍大将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテを頼りに当時軍令部次長だった小沢に「イギリスを通...
  • 阿南惟幾
    ...によって摘発してきた和平派の吉田茂の釈放に尽力している。一方臨終の際「米内(終戦を支持していた米内光政海軍大臣のこと)を斬れ。」と口走っていることなどから実際は継戦派であり、クーデター計画(宮城事件)の真の首謀者だったのではないかなど、その真意とするところをめぐり議論がある。 阿南の部下であり、その自刃にも立ち会った井田正孝陸軍中佐によれば、阿南が求めていたのはただ国体護持のみであり、その目的のためあらゆる可能性を残しておくべく、抗戦派・終戦派の何れにも解釈できる態度を取っていた、との見解を示している。 また、遺書に「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 神州不滅ヲ確信シツツ」書き残したうえで、辞世の句として「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」と詠んだ。 阿南が自刃したとの報が流れた際、鈴木は「そうか、腹を切ったか。阿南というのは...
  • 米内光政
    ...イツを仲介とした対中和平交渉であるトラウトマン工作の打ち切りを主張。平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツやイタリアとの提携に反対する。 首相就任 1940年(昭和15年)1月16日、予備役編入とともに内閣総理大臣に就任する。米内を総理に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べている。天皇に呼ばれた時、当初米内は組閣を断るつもりだった。しかし、「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞き、「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。 そんな米内は陸軍とうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。半年...
  • 板垣征四郎
    ...。宇垣外相による日中和平交渉に際しては、「蒋介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。平沼内閣でも陸相を務めた。その後は、支那派遣軍総参謀長に転出し、1941年に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。昭和20年(1945年)4月、第7方面軍司令官。 前述の様に、一流の軍歴を歩んでいるが、部下の参謀や少壮の将校達の言うがままに動くところがあり、「頭に祭り上げられる型の軍人」と評する声もある。 戦後 thumb|right|250px|東京の料亭で開かれた謝恩会で[[盛岡一高|盛岡中学時代の恩師・冨田小一郎(左から二人目)を囲む板垣陸相(最左)と米内海相(最右)。政治的立場も思想も異なる米内は同郷出身の先輩で、板垣とはなにかとウマが合った。(1939年6月3日)]] 終戦は、第7方面軍司令官としてシンガポールで迎え、イギリス軍に身柄を...
  • 阿部信行
    ...しかし、中華民国との和平も、米英両国との関係改善も進まない。貿易省を新設して外務省から経済外交を取り上げる行政改革に手をつけ、9月26日には閣議決定にまでこぎつけたが、外務省キャリアのほぼ全員が辞表を出すという激しい抵抗にあって失敗。しかもこの年は凶作と流通統制の影響でコメの流通が滞りがちとなり、コメの出回りを促進しようと、米価を引き上げたのが裏目に出て、物価の高騰、物資不足を招いた。あまりの不人気に、陸軍も組閣の4ヶ月後に倒閣に動く有様だった。国会でも退陣を勧告する騒ぎとなり、阿部も一時は衆議院の解散を考えたが、衆議院解散による反軍感情が沸騰することを怖れた陸軍が支持せず、畑俊六陸相、吉田善吾海相に反対され内閣総辞職となった。 終戦時は朝鮮総督であり、最後の総督として植民地統治からの解放を喜ぶ朝鮮人の姿を見せ付けられるという皮肉な結末を迎えた。米軍に護送され早々に引き揚げたが、邦...
  • 小磯國昭
    ...カーを使って中国との和平工作(繆斌工作)も行おうとしたが、過去に繆と接触した経験があり、信頼できない人物だと確信していた外相・重光葵の反対にあった。この事が原因で1945年4月7日に成立から約8ヵ月半で小磯内閣は総辞職となる。 ちなみにナチス・ドイツの宣伝省大臣のヨーゼフ・ゲッベルスはその日記で、「小磯内閣には戦争を続ける力が無い」と記し、日本がドイツより先に降伏して、ドイツが単独で戦争を続けなければならなくなる事に懸念を示していた(実際にはドイツは5月降伏で日本は8月降伏であり、降伏したのはドイツが早かった)。 八方塞がりの中、小磯内閣は8ヶ月の短い生命を終えた。 家族 妻・馨子(新潟県士族牧口義方五女) 長男・昭一 長女・美智子 年譜 1898年(明治31年)12月 - 士官候補生。 1899年(明治32年)6月 - 上等兵。 8月 - 二等軍曹に昇進...
  • 日中戦争
    ...駐華ドイツ大使による和平工作始まる(トラウトマン工作)。 11月3日~11月15日 - ブリュッセルで九カ国条約会議開催、日本を非難する宣言採択。 11月5日 - 日本軍(第10軍)、杭州湾に上陸。 11月7日 - 中支那方面軍編成。 11月8日 - 日本軍(北支那方面軍)、太原占領。 11月9日 - 蒋介石、上海から撤退命令。 11月12日 - 日本軍、上海を占領。 11月19日 - 日本軍(中支那方面軍)、蘇州攻略。 11月20日 - 日本、大本営設置。 11月20日 - 国民政府(蒋介石)、南京より重慶へ遷都。 11月22日 - 内蒙古に蒙疆連合委員会成立(後に蒙古連合自治政府)。 11月27日 - 日本軍(中支那方面軍)、無錫攻略。 11月29日 - 日本軍(中支那方面軍)、常州攻略。 12月1日 - 大本営、中支那方面軍に...
  • 下関戦争
    ...を避け薩摩との直接の和平を結ぶことになる。この和平により薩摩はイギリスよりの情報や武器の入手が容易になり、薩摩は更なる軍備の充実に努めることになる(薩英戦争)。 8月13日、三条実美ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔が下る(大和行幸)。これに呼応して大和国では天誅組が挙兵した(天誅組の変)。京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、18日に薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託してクーデターを起こし、攘夷派公卿は失脚し、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた(八月十八日の政変)。幕府は巻き返しにかかり、天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅した。 長州藩をはじめとする攘夷派の京都での勢力は後退し、志士たちは潜伏を余儀なくされた。元治元年(1864年)6月には池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害捕縛される。7月、孤立を深め追い詰められた長州藩は「藩主...
  • 宇垣一成
    ...は近衛首相に請われて和平実現のために改造内閣(昭和13年(1938年)5月)に外務大臣として入閣、中国との戦争を短期に終結させるべく秘密裏に中国国民政府要人・孔祥煕(行政院長)との交渉を取り付けた。しかしこれも陸軍首脳らの画策により、対中外交を外務省から切り離す「興亜院」の設置が行われて(しかも近衛首相はそれに賛成した)交渉を阻止され、梯子を外された形となり大臣辞任の引き金となった。 人物評 200px|right|thumb|[[岡山県護国神社の宇垣の像]] 上記のように宇垣は優れた政治的手腕と極めて現実的な思考を持っており、当時の日本の置かれていた国際情勢を理解して無謀な戦争を行うことの愚かさを知っていた軍人の一人であった。しかし、陸軍の実力者であった彼をしても結局は時流に逆らえず、日本は敗戦への道をひた走っていったのである。 一方で、陸軍における二大勢力、薩摩閥と長...
  • 昭和
    ...た。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答しなかった。核の被害実験、ソビエト連邦への軍事力の誇示、自軍の被害軽減、戦争の早期終結など様々な理由から、アメリカ軍によって、広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下が行われた(当初は京都に投下される予定だった)。次いでソビエト連邦軍が条約を一方的に破棄し対日参戦、万策尽きた日本政府は、御前会議の場において直接関与による英断を昭和天皇に仰いで降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。 日本は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を試みたが、ソビエト連邦はヤルタ会談連合国の申し合わせに従って宣戦布...
  • 南京大虐殺
    ...行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まる。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命する。同時に、重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始める。11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破される。南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れる。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令する。一方、唐生智は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出す。しかし、すでに命令伝達系統が破壊されつつあり、命令は全軍に伝わらなかった。12月13日、南京城壁は突破され、中国軍は総崩れとな...
  • 井上馨
    ...とともに急遽帰国して和平交渉に尽力した。第1次長州征伐では武備恭順を主張したために俗論党に襲われ(袖解橋の変)、瀕死の重傷を負うが、美濃の浪人で医師の所郁太郎の手術を受け、一命を取り留める。その後、高杉晋作らと協調して長府功山寺で決起。再び藩論を開国攘夷に統一した。慶応元年(1865年)、坂本龍馬の仲介で薩摩藩と同盟し(薩長同盟)、第2次長州征伐で幕府軍に勝利した。 明治維新後 官界に入り、主に財政に力を入れた。明治6年(1873年)、司法卿江藤新平に尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。一時は三井組を背景に先収会社を設立するなどして実業界にあったが、伊藤博文の強い要請のもと復帰し、外務卿、外務大臣、農商務大臣、内務大臣、大蔵大臣を歴任。明治16年(1883年)、外務卿として不平等条約改正交渉のため、鹿鳴館を建設。さらにパリやベルリンに劣らぬ首都を建設しようと官庁集中計画を進め...
  • 平沼騏一郎
    ...った。この時期、彼は和平派と協調するかと思えば降伏反対を唱え、天皇への上奏の折には明確な主張を見せないなどその立場は一貫せず、その態度は『昭和天皇独白録』で特に強く批判されている。最終的には、日本の国体が護持される確認した事から、ポツダム宣言を受諾する事に賛成したが、その事に反発する横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長として、横浜高等工業学校の学生らによって構成された『国民神風隊』によって、自宅を焼き討ちされた。 終戦後 太平洋戦争後、A級戦犯として終身刑が言い渡されるが、1952年、病気仮釈放。直後に死去した。 略歴 1867年(慶応3年) 9月28日 津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士 平沼晋の次男としてうまれる。 1888年(明治21年) 7月 帝国大学法科大学(後の東京大学法学部)を首席卒業 12月 司法省参事官試補 1890年...
  • 桂太郎
    ...ツマスでのロシアとの和平交渉は陰でセオドア・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領を動かした金子堅太郎の努力で、何もかも成功した。桂は、明治天皇から参謀総長であった山縣の頭越しに戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めていった。 桂は首相として称賛されるべきだったが、国民的人気は湧かなかった。戦争の実状を国民に秘匿していたため、賠償金は取れず、割譲されて得た領土が樺太南部だけという結果に、民衆が不満を持っていたからである。講和条約の内容に関する鬱積に端を発する日比谷焼き打ち事件も、この第1次桂内閣の頃に起こっている。 その後桂は西園寺公望と交互に組閣(俗に言う桂園時代)、1908年7月~1911年8月に第2次内閣、1912年12月~1913年2月に第3次内閣を組閣する。この桂園時代は立憲政友会の原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係の...
  • 東久邇宮稔彦王
    ...。戦局が不利になると和平を唱え、東條英機に反対する立場に回った。 留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、遅れをとっていたアジアの技術力の向上を目指して興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のち千葉工業大学)等の教育機関の創設に携わった。特に同大学の航空工学科(戦後GHQにより閉科される)・機械工学科の設置に心血を注いだとされる。 戦後 1945年(昭和20年)8月17日、戦後最初の首相となり東久邇宮内閣を組閣。現役の陸軍大将として陸軍大臣を兼務した。降伏文書の調印、武装解除・軍部解体、民主化など、敗戦処理全般を主たる任務としてこなしたが、一方で旧来の政治体制の大規模な変革までは考えていなかった。 これに対して、10月4日GHQから「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を突き付けられ、窮した内閣は翌日総辞職した。 1947年(昭和22年...
  • 西太后
    ...る為討伐すべきという和平派が激しく対立した。義和団は勢力が拡大するに連れ暴徒化、無差別な略奪を繰り返すようになるが、清朝内部では次第に主戦派が優勢となり野放しとなった。ドイツ公使や日本公使館員が殺害されるという事態になり、諸外国は居留民保護のため連合軍を派遣。当初から好意的だった事もあり義和団を優勢と見た西太后は主戦派の意見に賛同し、諸外国に対して「宣戦布告」。しかし、八ヶ国連合軍が北京へ迫ると、西太后は側近を伴い北京を脱出、西安まで落ち延びた。この際、光緒帝の側室珍妃を紫禁城内の井戸へ投げ捨てるよう命じた。 義和団事件の処理を命じられた李鴻章と慶親王奕劻は、諸外国に多額の賠償金と北京への外国軍隊駐留を認める代わりに、清朝の責任は事件の直接首謀者のみの処罰ですませ、西太后の責任が追及されないようにした。そのため西太后は1902年に北京に帰還し、これまで通り政治の実権を握り続けること...
  • 伊藤博文
    ...)が勃発する。戦後は和平交渉に通訳として参加した。 長州藩が第一次長州征伐(幕長戦争)で幕府に恭順の姿勢を見せると、高杉らに従い力士隊を率いて挙兵。後に奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派(革新派)が藩政を握った。 250px|thumb|[[岩倉使節団。右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允]] 明治維新 - 初代首相 維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、兵庫県知事(当時の県知事は民選ではなく官選であった)、初代工部卿など明治政府の様々な要職を歴任する。当初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、また大蔵省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。だが、征韓論争では「...
  • 日本近代史
    ...。それに対して、各種和平工作が企図されるが、国際社会との窓口を自らすべて放棄した大日本帝国にはこの時点ではすでに降伏する以外の選択肢はなかった。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、大日本帝国政府は直ちには正式回答せず、アメリカ軍によって世界ではじめての原子爆弾実戦使用として広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下され無差別に数十万人の民間人が殺されまたそれ以外の多数の民間人が被爆者にされた。そして御前会議の場において、昭和天皇の英断という形を取ることで政府は降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。 大日本帝国は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を行ったが、ヤルタ会談での連合国の申し合わせに従って大日本帝国政府にソ連対日宣戦布告を通告し、満州国に進撃した。関東軍は総崩れとなり、こぞっ...
  • 十五年戦争
    ...明発表。国民政府との和平交渉を打ち切った。 4月1日 - 日本、国家総動員法公布。 5月5日 - 国家総動員法、施行。 12月 - 汪兆銘、重慶を脱出。 1939年 5月 - ノモンハン事件 9月 - 第二次世界大戦勃発。ドイツ軍がポーランド侵攻開始、これに対して英仏が宣戦。 1940年 汪兆銘、南京国民政府樹立。 6月14日 - ドイツ軍、パリに入城。 6月 - フランスのヴィシー政権がドイツに降伏。自由フランス政府は抵抗を続行。 9月 - 日本、北部仏印に進駐。 9月 - 日独伊三国軍事同盟締結。 10月 - 大政翼賛会、結成。 11月 - 大日本産業報国会、結成 1941年 3月1日 - ドイツ軍、ブルガリアに進駐。 4月13日 - 日ソ中立条約調印。 6月22日 - ドイツ軍、ソ連に侵攻開始(バルバ...
  • 東條英機-2
    ...義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた『加瀬俊一回想録』。 首相就任の経緯 東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで陸海軍の統帥が一本化することはなかった。それどころか後任の小磯國昭総理が東條と同じく陸相兼任を主張した際には反対意見を述べ兼任を阻止している。また東條自身、政治を人気取りと妥協で行うものだとして、「水商売」と言い、半ば政治家を軽蔑し...
  • 昭和天皇
    ...が存在する。 和平に向けて 1945年(昭和20年)1月6日、アメリカ軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の招集を勧めている『木戸幸一日記』一月六日(土) 下巻 一一六四頁。 一月三十日(火) 下巻 一一六七頁 近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁 「解題」岡義武による序文 木戸と宮内大臣の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった『侍従長の回想』「天皇の終戦秘密工作」P.43-P.54 木戸が参内を制限していたため近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、藤田はこれを信じていない。。 そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われ...
  • 中華民国の歴史
    ...に就任して共産党との和平交渉に当たったが、同年4月23日に首都・南京が共産党軍(中国人民解放軍)に奪われ、南京国民政府は事実上崩壊状態に陥った。これに伴い、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に中華人民共和国の建国を宣言した。 なお、後にアメリカ政府内では、「誰が中国を失ったのか」という言葉を合言葉に、国民政府軍への援助停止を決めた政府内の共産シンパを非難する声が強まり、後にこれが大規模な赤狩り旋風に繋がることとなった。 台湾島への遷都 しかし、南京国民政府が崩壊状態に陥った際に蒋介石が崩壊しつつある政府を指導した為、南京国民政府は広州、重慶、成都を経た上で、アメリカ政府内右派から支援を受け、中央政府機構を台湾島に移転することに成功した。その後、蒋介石は崩壊状態にある政府を再組織し、翌1950年1月に総統職に復職することで、台湾国民政府としての活動を本格的に...
  • 第二次上海事変
    ...た。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、最初南京進撃を中止するよう下令したが、のちに現地軍の方針を採用し南京攻略の独走を追認した。 ドイツの軍事顧問ファルケンハウゼンは、要塞線が突破された時点で南京から撤退すべきだと主張したが、蒋介石は南京での防衛戦にこだわったので、多くの兵力や市民が南京周辺で日本軍に包囲された。日本軍の侵攻が行われなければということが大前提ではあるが、少なくとも国崎支隊を中心とする包囲部隊が揚子江の対岸、浦口方面に進出する前に撤退を指示していれば、南京での国民党軍の損害は少なく抑えることが可能だった。 これ以後の南京付近での戦闘は南京攻略戦を参照のこと。 補足 第二次上海事変の間、両国は互いに宣戦布告を行っていない。日本は米国からの資源輸入、中華民国も米国など中立国からの軍事援助を維持するために、それぞれ宣戦布告をするわけにはい...
  • 広田弘毅
    ...)6月にソ連を通じた和平交渉を探っていた政府の意を受けて、箱根・強羅に疎開していたソ連大使ヤコブ・マリクと非公式の接触を図る。広田は私的な来訪を装ってソ連の条件を探り出そうとしたが、ソ連は既に対日参戦の方針を固めていたため、政府側が期待した返答を得ることはできなかった。 A級戦犯 right|200px|thumb|[[ウィリアム・ウェブ裁判長から死刑宣告を聞かされる広田]] 大戦終結後、進駐してきた連合国軍によりA級戦争犯罪人容疑者として逮捕される。巣鴨プリズンに収容された広田に対し、GHQの組織した国際検察局が、極東国際軍事裁判の訴追対象とするかどうかを決定するための尋問を行った尋問調書が米国の国立公文書館に保存されている。以下、内容については2007年8月13日放送のNHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか ~東京裁判・尋問調書より~」による。。この中で国際検察局側...
  • ハル・ノート
    ...会議で議題としたのは和平ではなく、戦争をいかにして開始するかの問題だった」 ハーバート・ファイス『真珠湾への道』みすず書房 原著刊行1950年 「ハルノートは米国の東洋全般にわたる政策の最大限の要求」「この米国の対案(ハルノート)を最後通牒と見なすのは政治的にも軍事的にも妥当ではない」「東郷等の態度は妥当ではない。日本は武力で占拠した地域からの退去を要求されただけだ、日本の独立はなんら犯されていない、日本軍は安泰である」一方日本の乙案の評価についてはハル長官の言葉を批判せず引用している「日本の乙案を受け入れることは、全く降伏に等しいものだ」そしてこの乙案に同意しても戦争は避けられなかっただろうとしている。 アメリカの高校歴史教科書『アメリカンページェント共和国の歴史 The American Pageant』2002年版(アメリカの教科書に書かれた日本の戦争、越田稜編、梨の...
  • 太平洋戦争
    ...、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本海軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。Template 要出典? 日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたが、ハワイ諸島に対する上陸作戦は兵站上難しいことから実行には移されなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。Template 要出典? ...
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