chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「商工大臣」で検索した結果

検索 :
  • 幣原内閣
    ...院日本進歩党) 商工大臣 小笠原三九郎(衆議院日本進歩党) 運輸大臣 田中武雄(衆議院日本進歩党) 戦災復興院総裁・国務大臣 小林一三(貴族院無所属倶楽部) 1945年11月5日 - 1946年1月13日 1945年11月5日、戦災処理のため新設。 内閣書記官長・国務大臣 次田大三郎(貴族院同成会) 国務大臣(憲法問題調査委員会代表兼任) 松本烝治(貴族院無所属倶楽部) 法制局長官 楢橋渡(衆議院無所属) 内閣副書記官長 三好重夫 政務次官 Template 節stub? 公職追放後 1946年(昭和21年)1月13日 - 同5月22日 閣僚 内閣総理大臣 男爵幣原喜重郎(日本進歩党) 外務大臣(留任) 吉田茂(官僚 外務省) 内務大臣 三土忠造(貴族院研究会) 大蔵大臣(留...
  • 第2次若槻内閣
    ...年12月13日 商工大臣 櫻内幸雄 1931年(昭和6年)4月14日 - 同年12月13日 逓信大臣 小泉又次郎 1931年(昭和6年)4月14日 - 同年12月13日 鉄道大臣 江木翼 1931年(昭和6年)4月14日 - 同年9月10日 原脩次郎 1931年(昭和6年)9月10日 - 同年12月13日 拓務大臣 原脩次郎 1931年(昭和6年)4月14日 - 同年9月10日 若槻禮次郎(兼任) 1931年(昭和6年)9月10日 - 同年12月13日 内閣書記官長 川崎卓吉 1931年(昭和6年)4月14日 - 同年12月13日 法制局長官 武内作平 1931年(昭和6年)4月14日 - 同年11月8日 斎藤隆夫 1931年(昭和6年)11月9日 - 同年12月13日 政務次官 stub 外部リンク 首相官邸 -...
  • 加藤高明内閣
    ...月17日‐高橋是清(商工大臣兼任) 1925年(大正14年)4月17日 - 同年8月2日‐岡崎邦輔 1925年(大正14年)8月2日 - 1926年(大正15年)1月28日‐早速整爾 商工大臣 1925年(大正14年)4月1日‐商工省設置 1925年(大正14年)4月1日 - 同年4月17日‐高橋是清(農林大臣兼任) 1925年(大正14年)4月17日 - 同年8月2日‐野田卯太郎 1925年(大正14年)8月2日 - 1926年(大正15年)1月28日‐片岡直温 逓信大臣 1924年(大正13年)6月11日 - 1925年(大正14年)5月30日‐犬養毅 1925年(大正14年)5月30日 - 1926年(大正15年)1月28日‐安達謙藏 鉄道大臣‐仙石貢 内閣書記官長 1924年(大正13年)6月11日 - 1925年(大正14年)8月2日‐江木翼...
  • 第1次若槻内閣
    ...年)4月20日 商工大臣 片岡直温 1926年(大正15年)1月30日 - 同年9月14日 藤沢幾之輔 1926年(大正15年)9月14日 - 1927年(昭和2年)4月20日 逓信大臣 安達謙蔵 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 鉄道大臣 仙石貢 1926年(大正15年)1月30日 - 同年6月3日 井上匡四郎 1926年(大正15年)6月3日 - 1927年(昭和2年)4月20日 内閣書記官長 塚本清治 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 法制局長官 山川端夫 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 政務次官 stub 外部リンク 首相官邸 - 第1次若槻内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペデ...
  • 林内閣
    ...同年6月4日 商工大臣 伍堂卓雄(軍人 海軍) 1937年(昭和12年)2月2日 - 同年6月4日 逓信大臣 山崎達之輔(兼任) 1937年(昭和12年)2月2日 - 同年2月10日 伯爵児玉秀雄(研究会) 1937年(昭和12年)2月10日 - 同年6月4日 鉄道大臣 伍堂卓雄(兼任) 1937年(昭和12年)2月2日 - 同年6月4日     拓務大臣 結城豊太郎(兼任) 1937年(昭和12年)2月2日 - 同年6月4日 内閣書記官長 大橋八郎(研究会) 1937年(昭和12年)2月2日 - 同年6月4日 法制局長官 川越丈雄(官僚 大蔵省) 1937年(昭和12年)2月2日 - 同年6月4日 外部リンク 首相官邸 - 林内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_200...
  • 平沼内閣
    ...8月30日 商工大臣 八田嘉明(貴族院所属 昭和研究会) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 逓信大臣 塩野季彦(法相兼任) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年4月7日 田辺治通(官僚 逓信省) 1939年(昭和14年)4月7日 - 同年8月30日 鉄道大臣 前田米蔵(政友会) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 拓務大臣 八田嘉明(商工相兼任) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年4月7日 小磯國昭(予備役陸軍大将) 1939年(昭和14年)4月7日 - 同年8月30日 厚生大臣 広瀬久忠(官僚 内務省) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 無任所 公爵近衞文麿(貴族院所属 火曜会) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 ...
  • 犬養内閣
    ...5月26日) 商工大臣 前田米蔵(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月26日) 逓信大臣 三土忠造(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月26日) 鉄道大臣 床次竹二郎(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月26日) 拓務大臣 秦豊助(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月26日) 内閣書記官長 森恪(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月26日) 法制局長官 島田俊雄(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月24日) 政務次官 stub 外部リンク 首相官邸 - 犬養内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wik...
  • 齋藤内閣
    ...年)7月8日) 商工大臣 中島久萬吉(1932年(昭和7年)5月26日 - 1934年(昭和9年)2月9日) 松本烝治(1934年(昭和9年)2月9日 - 7月8日) 逓信大臣 南弘(1932年(昭和7年)5月26日 - 1934年(昭和9年)7月8日) 鉄道大臣 三土忠造(1932年(昭和7年)5月26日 - 1934年(昭和9年)7月8日) 拓務大臣 永井柳太郎(1932年(昭和7年)5月26日 - 1934年(昭和9年)7月8日) 内閣書記官長 柴田善三郎(1932年(昭和7年)5月26日 - 1933年(昭和8年)3月13日) 堀切善次郎(昭和8年3月13日 - 1934年(昭和9年)7月8日) 法制局長官 堀切善次郎(1932年(昭和7年)5月26日 - 昭和8年3月13日) 黑崎定三(1933年(昭和8年)3月13日 ...
  • 立憲民政党
    ...岡田内閣-町田忠治(商工大臣)・松田源治(文部大臣))が入閣した。だが、軍部の発言力の増大に比例するかのように政党の存在感は低下していくようになる。 そこで1933年、町田忠治が主宰してシンクタンクである「政務調査館」を発足させ、その一方で宇垣一成元陸軍大臣を擁して政友会との連携を図った。ところが犬養の死後に政友会総裁になったのは以前の選挙の際に民政党を違憲と発言した鈴木喜三郎であった事から民政党内部に反発が生じ、加えて鈴木も中間内閣そのものを否定して野党路線を選択した事から失敗に終わった。 加えて、若槻総裁が帝国議会で軍備拡張を批判して「骸骨が大砲を牽く」と発言した事が軍部や右翼の攻撃を招き、若槻は総裁辞任に追い込まれた。余りの突然の総裁辞任に町田忠治が総務会長に就任して暫定的に党務を行い後継総裁の選出を行おうとするものの、結論に至らず結局町田がそのまま総裁に就任する事になった...
  • 廣田内閣
    ...2年)2月2日 商工大臣 川崎卓吉(立憲民政党→貴族院所属 同和会) 1936年(昭和11年)3月9日 - 同年3月27日 小川郷太郎(立憲民政党) 1936年(昭和11年)3月27日 - 1937年(昭和12年)2月2日 逓信大臣 頼母木桂吉(立憲民政党) 1936年(昭和11年)3月9日 - 1937年(昭和12年)2月2日 鉄道大臣 前田米蔵(政友会) 1936年(昭和11年)3月9日 - 1937年(昭和12年)2月2日 拓務大臣 永田秀次郎(貴族院所属 同和会) 1936年(昭和11年)3月9日 - 1937年(昭和12年)2月2日 内閣書記官長 藤沼庄平(貴族院所属 昭和研究会) 1936年(昭和11年)3月9日 - 1937年(昭和12年)2月2日 法制局長官 大橋八郎(官僚 逓信省→貴族院所属 昭和研究会) 1936年...
  • 帝人事件
    ...検査官 中島久万吉商工大臣 - 涜職容疑 三土忠造鉄道大臣 高木復亨帝人社長 - 背任・涜職容疑 1937年、起訴された全員が無罪となった。検察による強引な取調べと起訴が批判され、「検察ファシズム」といわれた。 背景 でっち上げの背後にいたのは、司法官僚出身で当時枢密院副議長の平沼騏一郎とされる。平沼は五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継内閣総理大臣の地位を願ったが、後継の推薦権がある元老・西園寺公望からそのファシズム志向を嫌われて推薦候補すら上らず、また枢密院議長昇格の要望も西園寺の反対で副議長のまま置かれていた。このため、西園寺とこれを支持する立憲政友会主流派を深く恨んで、同党内部の不満分子を抱き込みながら捜査を進めていったという。 のちに河井信太郎が帝人事件を評して、次のように語っている。 「塩野季彦司法大臣の大英断により控訴を断念したが、検事が証拠品の...
  • 米内内閣
    ...同年7月22日 商工大臣 藤原銀次郎(民間・投資家・王子製紙社長) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 逓信大臣 勝正憲(立憲民政党(元大蔵官僚)) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 鉄道大臣 松野鶴平(立憲政友会正統派) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 拓務大臣 小磯国昭(予備役陸軍大将) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 厚生大臣 吉田茂(官僚 内務省→貴族院所属) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 内閣書記官長 石渡荘太郎(官僚 大蔵省) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 法制局長官 広瀬久忠(貴族院所属 昭和研究会) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 政務次官 ...
  • 阿部内閣
    ...年)1月16日 商工大臣 伍堂卓雄(農林相兼任・予備役海軍造兵中将・貴族院所属 昭和研究会) 1939年(昭和14年)8月30日 - 1940年(昭和15年)1月16日 逓信大臣 永井柳太郎(立憲民政党) 1939年(昭和14年)8月30日 - 1940年(昭和15年)1月16日 鉄道大臣 永井柳太郎(逓信相兼任・立憲民政党) 1939年(昭和14年)8月30日 - 1939年(昭和14年)11月29日 永田秀次郎(貴族院所属 同和会) 1939年(昭和14年)11月29日 - 1940年(昭和15年)1月16日 拓務大臣 金光庸夫(政友会) 1939年(昭和14年)8月30日 - 1940年(昭和15年)1月16日 厚生大臣 小原直(内務相兼任・貴族院所属 同和会) 1939年(昭和14年)8月30日 - 1939年(昭和14年)11月29...
  • 濱口内閣
    ...)4月14日 商工大臣(衆議院民政党) 俵孫一(衆議院民政党) 1929年(昭和4年)7月2日 - 1931年(昭和6年)4月14日 逓信大臣 小泉又次郎(衆議院民政党) 1929年(昭和4年)7月2日 - 1931年(昭和6年)4月14日 鉄道大臣 江木翼(貴族院同成会/民政党系) 1929年(昭和4年)7月2日 - 1931年(昭和6年)4月14日 拓務大臣 松田源治(衆議院民政党) 1929年(昭和4年)7月2日 - 1931年(昭和6年)4月14日 班列(陸軍大臣臨時代理) 阿部信行(軍人 陸軍) 1930年(昭和5年)6月16日 - 1930年(昭和5年)12月10日 内閣書記官長 鈴木冨士弥(衆議院民政党) 1929年(昭和4年)7月2日 - 1931年(昭和6年)4月14日 法制局長官 前田米蔵(衆議院...
  • 第3次近衛内閣
    ...10月18日 商工大臣 左近司政三(予備役海軍中将[海兵28期]・貴族院所属 同和会) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 逓信大臣 村田省蔵(貴族院所属 同和会)(第2次近衛内閣から留任) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 鉄道大臣 村田省蔵(逓信相兼任・貴族院所属 同和会) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 拓務大臣 豊田貞次郎(外相兼任・予備役海軍大将[海兵33期]) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 厚生大臣 小泉親彦(予備役陸軍軍医中将) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 国務大臣 平沼騏一郎(枢密院議長)(第2次近衛内閣から留任) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同...
  • 軍需省
    ...年8月26日 廃止・商工大臣へ 軍需次官 氏名 任 免 備考 岸信介 1943年11月1日 1944年7月22日 国務大臣の兼務。前商工大臣。東條内閣 椎名悦三郎 1944年7月23日 1944年7月28日 心得。総動員局長の兼務 竹内可吉 1944年7月28日 1945年4月10日 椎名悦三郎 1945年4月10日 1945年8月25日 総動員局長事務取扱 軍需政務次官 氏名 任 免 備考 松村光三 1944年9月1日 1945年4月11日 野田武夫 1945年5月25日 1945年8月22日 化学局長 氏名 任 免 備考 津田広 1943年11月1日 1944年11月18日 山田秀三 1944年11月18日 1945年8月25日 管理局長 氏名 任 免 備考 岡松成太郎 1945年6月6日 1945年8...
  • 岡田内閣
    ...1年)3月9日 商工大臣 町田忠治(立憲民政党) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1936年(昭和11年)3月9日 逓信大臣 床次竹二郎(政友会除名) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1935年(昭和10年)9月8日 岡田啓介(首相兼任・退役海軍大将) 1935年(昭和10年)9月9日 - 同年9月12日 望月圭介(政友会除名→昭和会) 1935年(昭和10年)9月12日 - 1936年(昭和11年)3月9日 鉄道大臣 内田信也(政友会除名→昭和会) 1934年(昭和9年)7月8日 - 1936年(昭和11年)3月9日 拓務大臣 岡田啓介(首相兼任・退役海軍大将) 1935年(昭和10年)9月9日 - 同年10月25日 伯爵児玉秀雄(植民地行政官僚) 1935年(昭和10年)10月25日 - 1936年(昭和11年)3月9日 内閣書記...
  • 企画院事件
    ...案」に対し、小林一三商工大臣らの財界人、あるいは平沼騏一郎ら右翼勢力が「赤化思想の産物」と非難したことがあげられる。この結果原案は骨ぬきにされ、さらに平沼内務大臣の方針によって企画院調査官・職員が検挙されることとなった。 被検挙者の多く(特に高等官)はかつて左翼運動に参加し、治安維持法違反によって検挙された経験を持つ「思想的前歴者」であるとともに、近衛文麿のブレイン集団である昭和研究会のメンバーとも重なっていた。彼らの政策提言は陸軍省軍務局からも支持を得ており、平沼ら右翼はこうした動きを「国体と相容れないもの」として激しく排撃していた。 歴史的には、総力戦態勢構築をめぐる体制内抗争の中で、事実上の計画経済政策を主張した革新官僚グループ(あるいはその内部の左翼活動前歴者)に対して行われた弾圧と位置づけられている。 関連項目 企画院 - 革新官僚 満鉄調査部 - 満鉄調査部...
  • 第2次近衛内閣
    ...年)7月18日 商工大臣 小林一三(民間・阪急電鉄オーナー) 1940年(昭和15年)1月15日 - 1941年(昭和16年)4月4日 豊田貞次郎(予備役海軍大将) 1941年(昭和16年)4月4日 - 1941年(昭和16年)7月18日 逓信大臣 村田省蔵(貴族院所属 同和会) 1940年(昭和15年)7月22日 - 1941年(昭和16年)7月18日 鉄道大臣 村田省蔵(逓信相兼任・貴族院所属 同和会) 1940年(昭和15年)7月22日 - 1940年(昭和15年)9月28日 小川郷太郎(衆議院議員) 1940年(昭和15年)9月28日 - 1941年(昭和16年)7月18日 拓務大臣 松岡洋右(外相兼任・官僚 外務省→政友会→満鉄総裁) 1940年(昭和15年)7月22日 - 1940年(昭和15年)9月28日 秋田清(衆議院議員) 19...
  • 第1次近衛内閣
    ...4年)1月5日 商工大臣 吉野信次 1937年(昭和12年)6月4日 - 1938年(昭和13年)5月26日 池田成彬(蔵相兼任・民間 三井財閥総帥) 1938年(昭和13年)5月26日 - 1939年(昭和14年)1月5日 逓信大臣 永井柳太郎(立憲民政党) 1937年(昭和12年)6月4日 - 1939年(昭和14年)1月5日 鉄道大臣 中島知久平(政友会) 1937年(昭和12年)6月4日 - 1939年(昭和14年)1月5日 拓務大臣 大谷尊由(貴族院所属 昭和研究会) 1937年(昭和12年)6月4日 - 1938年(昭和13年)6月25日 宇垣一成(外相兼任・予備役陸軍大将) 1938年(昭和13年)6月25日 - 1938年(昭和13年)9月30日 公爵近衛文麿(首相兼任・貴族院所属 火曜会) 1938年(昭和13年)9月30日...
  • 東條内閣
    ...1月1日廃止 商工大臣 岸信介 官僚(商工省) 1941年(昭和16年)10月18日 - 1943年(昭和18年)10月8日 東條英機首相兼任 1943年(昭和18年)10月8日 - 同年11月1日廃止 農商大臣 山崎達之輔 衆議院議員(翼賛政治会) 1943年(昭和18年)11月1日新設 - 1944年(昭和19年)2月19日 内田信也 衆議院議員(翼賛政治会) 1944年(昭和19年)2月19日 - 同年7月22日 軍需大臣 東條英機首相兼任 1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月22日 逓信大臣 寺島健 軍人(予備役海軍中将・海兵31期) 1941年(昭和16年)10月18日 - 1943年(昭和18年)10月8日 八田嘉明鉄道相兼任 1941年(昭和16年)12月2日 - ...
  • 田中義一内閣
    ...4年)7月2日 商工大臣 中橋徳五郎(立憲政友会・衆議院議員) 1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 逓信大臣 望月圭介 1927年(昭和2年)4月20日 - 1928年(昭和3年)5月23日 久原房之助(立憲政友会・衆議院議員) 1928年(昭和3年)5月23日 - 1929年(昭和4年)7月2日 鉄道大臣 小川平吉(立憲政友会・衆議院議員) 1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 拓務大臣(1929年(昭和4年)6月10日、拓務省設置) 田中義一(兼任) 1929年(昭和4年)6月10日 - 同年7月2日 内閣書記官長 鳩山一郎(立憲政友会・衆議院議員) 1927年(昭和2年)4月20日 - 1929年(昭和4年)7月2日 法制局長官 前田米蔵(立憲政友会・衆議院議員)...
  • 東久邇宮内閣
    ...同年10月9日 商工大臣 - 同年農商務省から再編 中島知久平(衆議院議員・大日本政治会・実業家、中島飛行機創業者) - 同年軍需相から転じる 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日 運輸大臣 小日山直登(貴族院所属 無所属・実業家) 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日 厚生大臣 松村謙三(衆議院議員・大日本政治会) 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日 国務大臣 公爵近衛文麿(貴族院所属・火曜会) 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日 国務大臣 緒方竹虎(貴族院所属・無所属) 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日 国務大臣 小畑敏四郎(予備役陸軍中将[陸士16期]) 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日 内閣書記官長 緒...
  • 高橋是清
    ... 1925年4月:商工大臣兼農林大臣に就任する 政友会総裁を辞任する 1927年4月:大蔵大臣に就任する 1931年12月:大蔵大臣に就任する 1932年5月:総理大臣を臨時兼任する 1934年11月:大蔵大臣に就任する 1936年2月26日:赤坂の自宅二階で暗殺され、死去 享年82 家族・親族 thumb|right|200px|[[葉山の別邸で孫たちとくつろぐ高橋 (1935年8月)]] 二女の和喜子は明治の元勲大久保利通の八男・利賢に嫁ぐ。 孫の高橋豊二(長男・是賢の次男)は東京帝国大学サッカー部に所属し、1936年ベルリンオリンピック・サッカー競技に出場した日本代表に名を連ねた。 孫娘の福子が首相伊藤博文の孫・博精に嫁いでいる。博精の娘文子は出雲国造家の千家達彦に嫁いでいる。 是清━━┳是賢━━━━━━┳賢一━━┳秀昌     ┣是福━━...
  • 木戸幸一
    Template Infobox Celebrity? 木戸 幸一(きど こういち、1889年7月18日 - 1977年4月6日)は、日本の政治家である。侯爵。幸一の父・木戸孝正は木戸孝允の妹・治子と長州藩士来原良蔵の長男。夫人は陸軍大将児玉源太郎の娘、ツル。 来歴・人物 1889年、東京赤坂において侯爵・木戸孝正の長男として生まれる。学習院高等科を経て京都帝国大学に入学。同校卒業後は農商務省へ入省。農商務省が農林省と商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。 1930年、友人であった近衛文麿の引きにより、臨時産業合理局第一部長兼第二部長を最後に商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。1937年第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣、1939年平沼騏一郎内閣で内務大臣、1940年-1945年に内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり天皇の側近として宮中政治に...
  • 東條英機
    ...臣(~4月23日)・商工大臣・軍需大臣(以上内閣総辞職まで)を兼任。1943年には大東亜会議を主催するなど、戦争の遂行とともに日本の影響下のアジア諸国の団結を図った。 1944年(昭和19年)2月21日には、国務と統帥の一致・強化を唱え、陸海統帥部総長の更迭を断行し、自らは参謀総長に就任するが、戦況の悪化に伴い連合国軍により日本本土が空襲を受ける可能性が出てきた。 そこで絶対国防圏を定め大部隊をもってマリアナ諸島を死守する事を発令し、サイパン島周辺の守備を増強したが、マリアナ沖海戦の敗北により戦力差は更に拡大し、サイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕した。グアム、テニアンも次々に陥落し、岸信介に造反される。東條の内意を受けた四方諒二憲兵隊長は軍刀をかざして岸に辞任を迫ったが岸は脅しに屈しなかった。追い詰められた東條に木戸が天皇の内意をほのめかしながら退陣を申し渡すが、東條は昭和天皇に...
  • 内大臣府
    内大臣府(ないだいじんふ)は、大日本帝国(日本)において、宮中にあって天皇を補佐し、宮廷の文書事務などを所管した政府機関である。1885年創設、1945年廃止。長は内大臣(ないだいじん)。 概要 明治政府が1885年に太政官制を改め内閣制度を発足させた折に、内閣を構成し政務を司る内閣総理大臣はじめ国務大臣と分離し、閣外の宮中職としての内大臣の官職を復活させ、その職掌を司る庁として創設された。 明治政府下における内大臣は常に天皇の側にあって補佐する宮中の官職であり、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他の宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、人民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、天皇の意向に従って、これを処理するなど側近としての重要な役割を果たした。内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、憲法学者ですら明確に定義することができないほど、非常に曖昧かつ抽象的なもので、全ては就任した...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 内閣総理大臣
    Template 内閣総理大臣項目?Template 日本の統治機構?  150px|thumb|初代内閣総理大臣 br / [[伊藤博文]] 150px|thumb|第91代内閣総理大臣 br / [[福田康夫]] 内閣総理大臣 (ないかくそうりだいじん) は、日本の行政府である内閣の首長。国会議員の中から国会の議決で指名され、これに基いて、天皇によって任命される。 総理大臣または総理と略され、首相とも通称される。 歴史 明治維新以降、日本の政治は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針を実現するために設けられた太政官制度によって行われてきた。しかし奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔...
  • 企画院
    企画院(きかくいん)は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関。 概要 前身は昭和10年5月10日に設置された内閣総理大臣直属各省大臣と同様の立場での行政事務の分担及びその補助部局→新憲法施行後に総理庁→総理府へ統合。他方で、「合議体としての内閣」の所管部局に法制局と賞勲局があったの国策調査機関である内閣調査局にある。「重要産業統制法」(昭和6年7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まり、より強力な重要政策を立案する組織として、昭和12年5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日に内閣資源局大正7年の軍需工業動員法制定の後、物資動員企画立案機関として昭和2年5月27日に設立と統合し企画院が発足した。重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下...
  • 軍部大臣現役武官制
    軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)とは、軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)の補任資格を現役の武官(軍人)に限る制度。現役武官に限るため、文官はもちろん予備役・後備役・退役の武官には、補任資格がない。文民統制の対義語として用いられることもある。 概説 軍部大臣現役武官制は、軍部大臣の補任資格を現役武官の大将・中将に限る制度であり、軍部大臣の補任資格を武官の大将・中将に限る「軍部大臣武官制」より資格者の範囲をさらに狭めている。現役とは平時軍務に従事する常備兵役を指し、現役武官の人事は、内閣の関与が不可能な天皇の統帥権に関わる。このため、軍部大臣現役武官制の採用によって組閣に軍部の合意が事実上必要となり、軍部によるその意向にそわない組閣の阻止が可能となった。また、たとえ一度組閣されても、内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞...
  • 二・二六事件
    ...る。27日午前9時に商工大臣町田忠治が兼任大蔵大臣親任式を挙行した。 斎藤實 内大臣(前総理・子爵・予備役海軍大将)斎藤實は、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受ける。 襲撃部隊は、中尉坂井直、少尉高橋太郎、少尉麦屋清済、少尉安田優が率いる。東京府東京市四谷区仲町3丁目(現:東京都新宿区)の内大臣斎藤実の私邸が襲撃される。襲撃部隊は警備の警察官の抵抗を制圧して、特に抵抗もなく内府の殺害に成功する。他に犠牲者はいない。斎藤の体からは四十数発もの弾丸が摘出されたが、それが全てではなく、彼の体には摘出不可能な弾丸がなお多く存在していた。 目の前での殺人に妻春子は「撃つなら私を撃ちなさい」と、銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴もうとした。その結果腕に貫通銃創を負う。春子はひるまず、なお斎藤をかばおうと彼に覆いかぶさったという。春子の傷口はすぐに手当...
  • 足尾鉱毒事件
    ...嘆願書を内務・農林・商工大臣宛に提出。この嘆願書は1926年から1933年までほぼ毎年提出された。なお、この時代、両水利組合が共同で行った運動も若干ある。 1936年に三栗谷用水は古河鉱業から事業資金の一部8万5千円を提供させ、取水口の改良工事を行い、それまでの渡良瀬川からの直接取水から、伏流水を主に取水する方式に変更した。この際、古河側は永久示談を要求。今後一切現金提供を求めないという条文が契約書に盛り込まれたが、工事は1950年の第4次工事まで続き、最終的に古河側は総工費3200万円の4%にあたる119万円を負担した。第4次工事で、用水本流上に中川鉱毒沈砂池(1948年竣工)が設けられ、下流部の鉱毒被害は激減した。しかし、最新の鉱毒防止装置の維持費は、その後も用水利用料増加という形で農民の負担となった。なお、事業そのものは1967年竣工の第5次まで続いたが、第5次工事には古河は...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 五代友厚
    五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日)は、江戸末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島城下、現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。 経歴・人物 『三国名勝図会』の執筆責任者で記録奉行の五代直左衛門秀尭の子として生まれ、後に分家する。薩摩藩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。海外視察のため上海に密航もした。このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許された。欧州視察後、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府...
  • 広田弘毅
    Template 日本の内閣総理大臣? 広田 弘毅(廣田 弘毅、ひろた こうき。明治11年(1878年)2月14日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の外交官、政治家。第32代内閣総理大臣。 生涯 生い立ち 1878年(明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれる。徳平は箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。 初名は丈太郎(じょうたろう)。信仰している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われて『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅...
  • 韓国統監府
    韓国統監府(かんこくとうかんふ)は、第二次日韓協約に基づき大韓帝国の外交権を掌握した日本が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。1910年(明治43年)の韓国併合後、大韓帝国政府の組織と統合の上、朝鮮総督府に改組された。 一般に「韓国統監府」と呼ばれているが、頭に韓国を冠記せず、単に「統監府」と称するのが官制における正式名称である。 組織 内部部局 1907年(明治40年)時点 総務部 秘書課、人事課、文書課、会計課、地方課 農商工務部 商工課、農林課、水産課、鉱務課 警務部 警務課、保安課、衛生課 外務部 韓国課、外国課 法制審査会 所属官庁 1907年(明治40年)時点 通信官署 鉄道管理局 法務院 財政監査庁 観測所 地方機関 1905年(明治38年)時点 京城理事庁 仁川理事庁 釜山理事庁 元山理事庁 鎮南浦...
  • 南洋庁
    南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年に事実上消滅した。 人口 昭和14年12月末現在(『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』による) 総人口 129,104人 内訳 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 島民(チャモロ族・カナカ族) 51,723人 外国人 124人 年表 1919年5月7日 - パリ講和会議の英米仏首相会議で、赤道以北のドイツ領諸島は日本の委任統治に決定。 1919年6月28日 - 「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書」(ヴェルサイユ条約)、調印式。 ドイツの植民地放棄(第118条)と放棄された植民地を国際連盟の委任統治とすること(第22条)などを規程...
  • 鹿鳴館
    鹿鳴館(ろくめいかん)とは外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ。 経緯 計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため、井上は日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。 それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは三田の蜂須賀邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束...
  • 大正政変
    大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる ref name=okubo 大久保(1964)。 狭義の大正政変 概略 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会を推し、自分は再び政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだに結んだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御...
  • 原内閣
    {{日本の内閣記事|はら ないかく|19|原敬|Template 和暦?|9月20日|Template 和暦?|11月13日|立憲政友会|第14回衆議院議員総選挙|1920年(大正9年)2月26日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/19.html|立憲政友会総裁・衆議院議員}}陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣を除く、すべての大臣に立憲政友会の党員を起用したことから、日本初の本格的政党内閣と言われる。 高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充の「四大政綱」を重要な政策課題と位置付けた。 閣僚 内閣総理大臣  原敬(1918年(大正7年)9月20日 - 1921年(大正10年)11月4日) 内田康哉首相死去により、内田康哉外務大臣が臨時兼任。(1921年(大正10年)11月4日 - 同年11月13日) 外務大臣 内...
  • 美濃部達吉
    美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の憲法学者。天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職する。勲一等旭日大綬章(1948年(昭和23年))を受章。 妻の多美子は菊池大麓菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。 人物・来歴 前半生 美濃部達吉は、1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町の漢方医・美濃部秀芳の次男として生まれた。長じて東京帝国大学に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。1897年(明治30年)に大学を卒業し、内務省に勤務する。1899年(明治32年)にドイツやフランス、イギリスに留学し、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に教授となる。帝国大...
  • 高橋内閣
    {{日本の内閣記事|たかはし ないかく|20|高橋是清|Template 和暦?|11月13日|Template 和暦?|6月21日|立憲政友会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/20.html|大蔵大臣}}首相を除く、すべての大臣を前の原内閣から引き継ぎ、再任した。 閣僚 内閣総理大臣 高橋是清 外務大臣 内田康哉 内務大臣 床次竹二郎 大蔵大臣 高橋是清(兼任) 陸軍大臣 山梨半造 海軍大臣 加藤友三郎 司法大臣 大木遠吉 文部大臣 中橋徳五郎 農商務大臣 山本達雄 逓信大臣 野田卯太郎 鉄道大臣 元田肇 内閣書記官長 三土忠造(1921年(大正10年)11月24日 - 1922年(大正11年)6月21日) 法制局長官  横田千之助(1921年(大正10年)11月24日 - 1922年(...
  • 詔勅
    詔勅(しょうちょく)とは、日本国憲法施行以前において、天皇が公務で行った意思表示をいう。広義には憲法や法律などの法規を含むが、狭義には詔書・勅書・勅語など特段の形式を定めていないものをいう。一般には狭義で用いられることが多い。 公文式以前 日本書紀・古事記には「詔」「勅」の語がみえ、ともに天皇が公務で発する言葉を意味した。詔は一般に宣告する言葉に、勅は特定者に伝達する言葉に使われる傾向があった。 律令制度では公式令(くしきりょう)において詔書と勅書の書式が定められた。 詔書は重要事項の宣告に用いられた。天皇は署名せず、草案に日付を書き(御画日)、成案に可の字を書いた(御画可)。また、公卿(大臣・大中納言・参議)全員の署名を要した。詔書は天皇と公卿全員の意見の一致が必要であり手続きが煩雑であるため、改元など儀式的な事項にのみ用いられるようになった。 勅書には勅旨式条によるものと飛...
  • 第1次大隈内閣
    Template 日本の内閣記事? 与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を特に内務大臣に迎えて組織したため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣(わいはんないかく)ともいう。 概要 第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備のために総辞職し、元老が議会勢力に妥協した結果、当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈と板垣に大命が降下されて組閣された。首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によってかためたという点では、日本史上初の政党内閣であるといえる。 しかし寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、自由党系が求めていた星亨の外相任命を大隈が拒んで自ら兼務を続けたことに加え、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展...
  • 第2次西園寺内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ さいおんじ ないかく|14|西園寺公望|Template 和暦?|8月30日|Template 和暦?|12月21日|立憲政友会|第11回衆議院議員総選挙|(1912年(明治45年)5月15日衆議院議員の任期満了による。)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/14.html|立憲政友会総裁}}この内閣の任期中の1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御して明治時代が終わるとともに、同日から大正時代が始まる。 概要 第2次桂内閣が条約改正の成功を機に退陣すると、政権は再度西園寺に回ってきた。立憲政友会の閣僚数は前回より1増加した他、他の閣僚も親政友会系の官僚が複数入閣した。内務大臣に就任した原敬は衆議院議員選挙に小選挙区制を導入しようとするが、貴族院の反対で否決された。だが、貴族院内に親政友会の会派で...
  • 第2次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ やまがた ないかく|9|山縣有朋|Template 和暦?|11月8日|Template 和暦?|10月19日|藩閥内閣、官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/09.html|貴族院議員・元老}} 概要 憲政党分裂騒動によって前内閣が倒れると、Template 和暦?11月5日に山縣が大命降下を受けて、自派の藩閥官僚を中心とした組閣を行った。当初、地租増徴を実現させるために憲政党(自由派)と連携して地租増徴や日本興業銀行法を実現させた。だが、その後、同党からの入閣の約束を一方的に反故にして、文官任用令改正を行い、続いて文官分限令・文官懲戒令・治安警察法の制定、軍部大臣現役武官制の導入などで、政党を政府から排して超然主義による国家運営を目指した。だが、これによって衆議院を敵に回した山縣の政...
  • 第2次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ かつら ないかく|13|桂太郎|Template 和暦?|7月14日|Template 和暦?|8月30日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/13.html|陸軍大将・軍事参議官}} 概要 第2次桂内閣は、1908年(明治41年)7月12日に大命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園...
  • 第2次松方内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ まつかた ないかく|6|松方正義|Template 和暦?|9月18日|Template 和暦?|1月12日|藩閥内閣(進歩党協力)|第5回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/06.html|前職 = 前大蔵大臣}} 概要 Template 和暦?9月10日、松方に大命が降下したものの、以前の第1次松方内閣のときの帝国議会対策での失敗もあり組閣も順調とはいかなかった。三菱財閥の岩崎弥之助は松方に大隈重信の進歩党との連携を提案した。だが、超然主義者の前首相山縣有朋を始め、松方自身が率いる薩摩閥からも反対論が出た。松方は進歩党からは大隈の外務大臣以外の入閣は認めなかったものの、書記官長・法制局長官、更に当時勅任官であった参事官の一部を進歩党系から出すことで...
  • 第2次山本内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ やまもと ないかく|22|山本権兵衛|Template 和暦?|9月2日|Template 和暦?|1月7日||なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/22.html|退役海軍大将}} Template 和暦?8月24日の加藤友三郎首相の急逝、同年9月1日の関東大震災発生という混乱状態のさなかで組閣された。Template 和暦?12月27日に発生した虎ノ門事件の影響で総辞職した。 大臣と次官に錦城学校(現・錦城高等学校)の出身者が5名(伊集院彦吉外相、井上準之助蔵相、山之内一次鉄道相、小松謙次郎逓信次官、財部彪海相)いたため、錦城内閣とも称された同校公式サイトの学校紹介のページより。ただし、小松謙次郎が「逓信大臣」と誤記されている。。 閣僚 内閣総理大臣 山本権兵衛 外務大臣 山本権兵衛...
  • @wiki全体から「商工大臣」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。