chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「国境線」で検索した結果

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  • ノモンハン事件
    ...ゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。 概要 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件、出来事」と呼び、モンゴル人民共和国のみが「ハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)」と称している。 この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンという名称は、清朝が雍正十二年(1734年)に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボー...
  • 張鼓峰事件
    ...している。当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、日本側は張鼓峰頂上一帯は満洲領であるとの見解であった。いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。 戦闘の経過 1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が進軍し、兵力は次第に増強された。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。ソ連軍がこの時期に大攻勢に出た背景は色々と取り沙汰されてはいるが、はっきりした結論は得られていない。以下に戦闘の経緯を詳述する。 7月12日、ソ連軍は張鼓峰に侵入、占領し、峰一帯に陣地を構築し、13日、これを監視中の松島伍長を不法に殺害した。日本政府は15日、西代理大使を通してソ...
  • 日露和親条約
    ...択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』、P6)。。この条約は1895年(明治28年)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ、全て無効になった。 現在、日本では条約の締結された2月7日(新暦)は「北方領土の日」になっている。北方領土の日では、下田市で「北方領土マラソン」が玉泉寺から長楽寺の間で開催される。 名称 条約の正式名称は、日本国魯西亜国通好条約旧字体の表記は日本國魯西亞國通好條約(にっぽんこくろしあこくつうこうじょうやく)である。日露通好条約、下田条約とも呼ばれ、また条約締結当時の日本では日魯和親条約と表記していた。 条約の主な内容 千島列島...
  • ノモンハン事件-2
    ...ない。互いの主張する国境線を巡って戦われた戦争で、日本軍は日本側の主張する国境線から、南部地域を除いてソ連側の主張する国境線まで押し出されて停戦したのだから、戦争目的を達成したソ連が、達成できなかった日本に勝利したと見るのが妥当であろう。そもそも、大勝利説は日本軍自身すら信じていなかったので、関東軍首脳が更迭されている。 また、ソ連側が二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の憂いを断つなど、この戦争に国家的な対応を行ったのに対して、日本軍は関東軍という出先軍の、辻政信と服部卓四郎など一部の参謀の近視眼的な独断専行による対応に終始した。そのため、政略・外交・戦略・動員・兵站など前線での戦闘以前の段階で日本軍はソ連軍に圧倒されていたのである。 これらの状況を踏まえて、現段階ではこの戦争の結果はソ連側の勝利と考える人が多数を占め、引き分けと考える人は少数派である。 福井雄...
  • 辻政信
    ...したものであり、当時国境線が明確に決定されていなかった地点における「現地司令官の自主的な国境線認定」と衝突が発生した際の兵力の多寡に関わらず必勝を期すことが記されている。 同年5月11日、外蒙古と満州国が共に領有を主張していたハルハ河東岸において、外蒙古軍と満州国警備隊との小規模な衝突が発生した。ハイラルに駐屯する第23師団は要綱に従って直ちに部隊を増派し、衝突は拡大した。外蒙古を実質植民地としていたソビエト連邦でもジューコフ中将が第57軍団長に任命され、紛争箇所に派遣された。関東軍司令部では紛争の拡大を決定し、外蒙古のタムスク航空基地の空爆を計画した。これを察知した東京の参謀本部は電報で中止を指令したが、辻はこの電報を握りつぶし、作戦続行を知らせる返電を行っている。この電報の決裁書では、課長、参謀長および軍司令官の欄に辻の印が押され、代理とサインされていた。参謀長および軍司令官に...
  • 満州
    ...スク条約で定められた国境線の清朝側を「満洲」と表記している。それがヨーロッパに伝わったという。 現在の中華人民共和国では地域名称として「満洲」を使うことは避けられ、かわりに「中国東北部」が使われる。これは中国における歴史に対する公式見解で、満洲国の存在を認めていないため、また満洲の地を太古から不可分の中国民族固有の地と主張するためである。そのため今日の中国では、20世紀の満洲国を清朝の前身である満洲国を詐称していると看做して、「偽満洲国」の呼び方以外は認めていない。ただし現在でも、満洲里のように一部の地域名で使われている。民族名としては旧来から「満族」と呼称している。また、曾ては中国共産党は、中国共産党満洲省委員会をハルピンに設置するなど、「偽」という言葉を用いないで満洲という言葉を使用した例はあった。 満洲語 満洲語(まんしゅうご)は類型論的に膠着語に分類される満洲族が話す言...
  • 関東軍
    ...ら、満州国の主張する国境線を守備する。 一方で、1917年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、革命ソ連の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実にソビエト連邦軍極東軍の増強を続けていた。関東軍は1938年の張鼓峰事件で初めてソビエト連邦軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年のノモンハン事件では大きな損害を被り大日本帝国陸軍内で北進論が弱まる契機となった。 なお戦後のある時期まで張鼓峰事件・ノモンハン事件は大日本帝国陸軍の一方的敗北であったと考えられていたが、ソ連崩壊により明らかになった文書によると、両戦闘におけるソビエト連邦軍側の損害は実は日本側を上回っていた事実が分かった。これにより特にノモンハン事件に関しては現在...
  • 第一次世界大戦
    ...とで、短期間のうちに国境線に大部隊を集結させることが可能となった。総動員下令のタイミングの遅れは戦争の敗北に直結しかねないため、列強の参謀本部は鉄道ダイヤまでを含む綿密な戦争計画を研究した。 戦術的には鉄道は防御側を優位に立たせる効果を持った。攻撃側の歩兵部隊が徒歩でしか前進できないのに対し、濃密な鉄道網を持っていたドイツやフランスは、防御側に立ったときには圧倒的に速い速度で予備兵力を集結させることができたのである。タンネンベルクの戦いでは、東プロイセンに進攻してきたロシア軍に対し、ドイツ軍は鉄道を効果的に活用することで各個撃破に成功した。 さらに、19世紀後半以降、歩兵は射程距離の長いライフル銃を装備するようになった。これにより弾幕射撃の威力と精度が増し、ナポレオン戦争の時代まで勝敗を決する地位を占めてきた騎兵突撃が無力化された。一方で、第一次世界大戦において初めて本格的に投入...
  • 樺太・千島交換条約
    樺太千島交換条約(からふと ちしま こうかんじょうやく)は、明治8年(1875年)5月7日に日本とロシア帝国との間で国境を確定するために結ばれた条約。千島樺太交換条約や、署名した場所からとってサンクトペテルブルグ条約と表記する場合もある。 経緯 日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島(エトロフ島)と得撫島(ウルップ島)との間に定められたが、樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされた日本政府外務省は日露和親条約では、樺太は日露混住の地と決められたと説明している(出典:外務省国内広報課発行『われらの北方領土2006年版』P6)。 1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるい...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • 国定教科書
    Template Battlebox? ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、当時の満州国において、1945年8月9日深夜から開始された、大日本帝国の関東軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘、ソ連軍が圧勝した。 名称 日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「8月の嵐作戦」、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。 背景 19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は...
  • 昭和
    ...との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘をおこなった際、ソビエト連邦陸軍の戦車部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相や中華民国の蒋介石らによるアメリカ合衆国の参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうしてアメリカ合衆国での呼称太平洋戦争(日本政府はこ...
  • 満蒙開拓移民
    満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は太平洋戦争下に日本政府の国策によって推進された、大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称。 概要 1931年の満州事変以降に本格化した日本からの満州国への移民は、当時の広田弘毅内閣は1936年に「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画、これを日本政府により推めた。この政策には、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出されており、国策に裏打ちされた入植者の大陸への送り込みが図られた。 日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。 背景 日本の政府により戦前に進められていた、北米アメリカ、南米ブラジ...
  • 台湾出兵
    台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵である。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。 背景 琉球王国は江戸時代には日本(薩摩藩)と中国大陸の清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると、帰属を巡る政治問題が起こっていた。 1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難。漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。 先住民とは交流ができなかったらしく、12月17日に遭難者達は集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々に殺害し54名を馘首した。12名の生存者は、漢...
  • ポツダム会談
    ポツダム会談(ポツダムかいだん)は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日~8月2日、ベルリン郊外のポツダムに、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まり、第二次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話し合われた会談。 300px|right|thumb|ポツダムに集まった3ヶ国首脳 左から[[クレメント・アトリー|アトリー、トルーマン、スターリン]] この会談でポツダム宣言とポツダム協定が決められた。 ポツダム会談の概要 時期 1945年7月17日~8月2日 場所 ベルリン郊外ポツダムにあるツェツィーリエンホーフ宮殿 主な出席者 アメリカ合衆国大統領 : ハリー・S・トルーマン 英国首相 : ウィンストン・チャーチル(途中に選挙で政権が交代しクレメント・アトリーと交代) ソビエト連邦共産党書記長 : ヨシフ・スターリン ポツダム会談の内容 会談...
  • 日本近代史
    ...との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘を行った際、ソビエト連邦軍の戦車部隊に大敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相と中華民国の蒋介石がアメリカ合衆国の参戦を要望し、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が大日本帝国海軍の艦隊行動に激怒したことからコーデル・ハル国務長官より日本のすべての植民地を返還する事などを要求する交渉案を提示され(通称ハル・ノート)、これを事実上の最後通牒と解釈した日本は対英米蘭開戦を決定した。このようにして太平洋戦争(当時の大日本帝国は戦争中一連の戦争を聖戦であるとみなし大東亜戦争と呼称...
  • 満州国軍
    満州国軍(まんしゅうこくぐん)とは満州国の国軍。1932年に創設。1945年に解体。 当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満州国軍も解体された。 軍制 指揮系統 各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に満州国執政(皇帝即位後は満州国皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた(溥儀は天皇同様、軍を統帥する大元帥の地位にあった)。但し、それはあくまで制度上の話である。実際の満州国の軍事権力は関東軍の支配下にあり、異動・演習の実施・装備の変更・昇格人事のいずれも、関東軍司令部の批准が必要であった。 士官以上の階級 満州国では...
  • 樺太
    樺太(からふと)は、日本列島最北端、北海道の北に位置する樺太島(露:Template lang?(サハリン)、中:庫頁島(クイェとう、ピン音Kùyè))を指す地域名称である。また、この名称は、日本領有下において南樺太及びその付属島嶼を指す行政区画名として使用された。現在はロシア連邦が自国領である北サハリンに加え、南部も実効支配しているが、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本政府は国際法上、南樺太は所属未定地であるとしている。また、太平洋戦争において日本本土最後の地上戦が行われた。 この項目では、原則的には、日本が敗戦により行政権を失う前について記述する。それ以降についてはサハリン州の項目も参照されたい。 名称 「からふと」の名は、一説には、アイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ kamuy kar put ya mosir」と呼んだ事に由来...
  • 華北分離工作
    華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が...
  • 仮11
    樺太朝鮮人虐殺事件(からふとちょうせんじんぎゃくさつじけん)とは、1945年8月太平洋戦争終戦の混乱の中で、樺太で起きた日本人による一連の朝鮮人虐殺事件。 概要 ソ連軍樺太上陸の恐怖と混乱の中で、朝鮮人がソ連のスパイであるという風説が流れ、スパイ容疑をかけられた朝鮮人が虐殺された。 今日比較的明らかになっているのは、1945年8月18日に敷香郡敷香町上敷香で起こった事例と、同年8月20日から8月23日にかけて真岡郡清水村瑞穂で起こった事例。 事件の経緯 南樺太の日本軍はソ連のスパイに対処するために、樺太少数民族(ウィルタ・ニヴフ・アイヌ)を利用して諜報活動を行っていたが、スパイに朝鮮人を起用することは少なかった樺太警察は朝鮮人の独立運動や独立思想への傾倒が強いことを警戒し、出身地・思想傾向などからランク付けをして厳重に監視した。(崔吉城「樺太における日本人の朝鮮人虐殺」pp.28...
  • 独ソ戦
    Template Battlebox? 独ソ戦(どくそせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてナチス・ドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。まれに独ソ戦争(どくそせんそう)とも呼ばれる。1941年6月22日にドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するためにナポレオンに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Template lang?ヴィリーカヤ・アチェーチェストヴィェンナヤ・ヴァイナー)と呼称した。 概説 モロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス・ドイツは反共の急先鋒であったからだ。欧州を巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエト...
  • 樺太庁
    世界 アジア 東アジア 大日本帝国 樺太地方 樺太庁 樺太庁のデータ 面積 36090.3km² (海豹島・海馬島含む) 樺太の位置 東端 東経144度45分00(北知床岬)西端 東経141度12分45(海馬島)南端北緯45度47分25(二丈岩)北端 北緯50度線(北緯50度以北は、ロシア領) 世帯数 ?世帯(年月日) 総人口 406,557人(1941年12月1日) 樺太庁 所在地 樺太豊原市東4条南5丁目 樺太庁(からふとちょう、Template lang-ru?、Template lang-en?)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。 1...
  • @_ソ連対日宣戦布告
    thumb|250px|満洲国の首都[[新京を進軍するソ連軍のSU-76自走砲]] ソ連対日宣戦布告(ソれんたいにちせんせんふこく Soviet Declaration of War on Japan)とは、1945年8月にソビエト連邦が日本に対して行った宣戦布告を言う。 概要 この布告では、連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために武力攻撃を行うことが宣言されている。これにより、日ソ中立条約は完全に破棄された。ソ連軍は対日参戦を実行し、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し、日本軍と各地で戦闘になった。既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍にこれを防ぐ手段は無く、原爆投下に続き日本にとどめを刺した。 布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐...
  • 平民社
    平民社(へいみんしゃ)は、1903年11月に、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために朝報社を退社し、あらたに非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社。小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助をおこなった。形態は新聞社であったが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会とともに社会主義運動の中心組織であった。 平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年11月15日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「...
  • マレー作戦
    Template Battlebox? マレー作戦(まれーさくせん, Battle of Malaya, 日本側作戦名「E作戦」)は、大東亜戦争(太平洋戦争)序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。 1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホールバル市に突入した。これは戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。 背景 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時における日本軍の戦略目標はオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールは戦艦プリンス・オブ・ウェールズと...
  • シベリア出兵
    シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、Siberian Intervention)とは、1918年から1924年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が第一次世界大戦から離脱したロシア共和国に対し、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目でシベリアに出兵した事件。 背景 第一次世界大戦でヨーロッパは二つに割れ、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化し、近代化の遅れていたロシアは開戦後すぐに弾薬が尽き、食料は不足し、財政は破綻した。困窮したロシア市民の支持を得て、レーニンの指導する赤軍が勢力を増し、1917年10月に世界最初の社会主義革命であるロシア革命が起きる。1918年に帝国は崩壊し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が発足した。...
  • 南方作戦
    南方作戦(なんぽうさくせん, Southern Operations)は、太平洋戦争緒戦における日本軍の東南アジア各地への攻略作戦である。1941年12月8日の真珠湾攻撃と英領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942年5月のビルマ制圧をもって完了した。南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は作戦目標を完全に達成した。 背景 1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国やイギリスとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。 10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で...
  • ゾルゲ事件
    ゾルゲ事件(ゾルゲじけん)は、1941年9月から1942年4月にかけて山村八郎 (1949)、21頁。リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして逮捕された事件。この組織の中には近衛内閣のブレーンとして活動した尾崎秀実もいた。 経緯 逮捕 太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高一課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱ったゾルゲは実際にはコミンテルンではなく、労農赤軍参謀本部第4局に所属していた。。 まず1941年6月に日本共産党員であった伊藤律が逮捕され、アメリカ共産党員で当時日本に住んでいた北林トモの名を自供、警視庁は北林を9月28日に逮捕。さらに北林がアメリカ共産党の同志...
  • 戊辰戦争
    Template Battlebox? 戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が江戸幕府勢力を一掃した日本の内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。この戦争の結果、薩長、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)出身者が明治政府の主体となり、うねる時代のなかで日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。 概要 戊辰戦争は、徳川慶喜の処分の問題に起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階、松平容保の処分の問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階、旧幕府勢力が最後の抵抗を試みた「箱館戦争」の段階の3段階に区分できる。 鳥羽・伏見の戦いの段階では、石高や兵力数では旧幕府軍が優勢であり、新政府軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していたと言われる。しかし、旧幕府軍...
  • 満州国
    {{基礎情報 過去の国 |略名 =満州国 |日本語国名 =満洲国 |公式国名 =滿洲國 |建国時期 =1932年 |亡国時期 =1945年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国 |次旗1 =Flag of the Republic of China.svg |国旗画像 =Flag of Manchukuo.svg |国章画像 =Manchukuo Coat Of Arms.svg |国章幅 = 100px |標語 =五族協和の王道楽土 |国歌名 =滿洲國國歌 |国歌追記 =Template mn? |位置画像 =China-Manchukuo-map.png |公用語 =中国語(北京官話)、モンゴル語、日本語 |首都 =新京 |最大の都市 =奉天 |元首等肩書 =元...
  • 田中上奏文
    thumb|300px|田中上奏文 田中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期に中国を中心として流布した怪文書・偽書である。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorialである。 田中上奏文は、その記述によれば第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている。この文書は発表当初から偽書であることが指摘されており、現在の史学でも偽書であるとされている。松岡洋右、重光葵などの当時の外交官は、日本の軍関係者が書いた文書が書き換えられたものではないかと見ていた。しかし、田中上奏文を本物であると考える人は現在でも特に日本の国外に存在する服部龍二「「田中上奏文」と日中関係」、劉傑・...
  • 明治六年政変
    明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われ...
  • 第一次世界大戦-2
    前半は第一次世界大戦参照 イタリア戦線 Template main? イタリアは名目上は1882年からドイツおよびオーストリアと三国同盟を締結していたが、いわゆる「未回収のイタリア」と呼ばれた南チロル、イストリア、ダルマチアといったオーストリアとの領土問題を抱えており、仏伊通商条約を理由に局外中立を宣言していた。しかし1915年4月にイギリス・フランスの働きかけによりロンドン協定に調印し、オーストリアへ宣戦布告した。 伊墺国境の山岳地帯という地形的有利を得たオーストリア軍に対し、貧弱な装備しか持たないイタリア軍は苦戦を強いられた。単調な作戦ばかりのルイージ・カドルナの指揮の拙さも手伝い、戦術的勝利を重ねながら決定的な勝利を得る事ができないでいたイタリア陸軍だったが、第四次イゾンツォの戦いでオーストリア軍に打撃を与えた(この時、オーストリア軍はドイツ軍に救援を要請している)の...
  • 牟田口廉也
    牟田口 廉也(むたぐち れんや、明治21年(1888年)10月7日 - 昭和41年(1966年)8月2日)は、佐賀県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。 盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開始時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮する。最終階級は中将。今日における評価は非常に低い。木村兵太郎や富永恭次と同じく東条英機に重用され、いわゆる三奸四愚と並んで東条の腹心の部下の一人であったが、インパール作戦における様々な行動は批判されることが多い。 また、当時の大日本帝国陸軍の将官の評価の際にはその全体的なレベルの低さを象徴する人物として、杉山元、富永恭次等と共に真っ先に名前が挙がることの多い人物である。 人物 少佐時代にカムチャッカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。昭和12年(1937年)盧溝橋事件で中国側への攻撃を「支那軍カ...
  • ヤルタ会談
    320px|thumb|ヤルタ会談(中央ソファー左から[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル・ルーズベルト・スターリン)]] ヤルタ会談(ヤルタかいだん)は、1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われた、F.ルーズベルト(アメリカ)・チャーチル(イギリス)・スターリン(ソ連)による首脳会談。 なおクリミア半島は歴史的にはタタール人とスラブ系により争われてきた土地であるが、18世紀末以降(会談当時も)ロシア・ソ連が占領していた。のち、冷戦期初期にウクライナに割譲され、現在に至る。地理的にはウクライナの半島に他ならない。 またヤルタはクリミア諸島の南端、黒海を臨むリゾート地。このソ連唯一のリゾート地に米英首脳を迎えたのであった。 概要 連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるド...
  • 独ソ不可侵条約
    独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく、Template lang-de-short?、Template lang-ru-short?、Template lang-en-short?)は、1939年8月23日にドイツとソ連の間に締結された不可侵条約。犬猿の仲といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界中に衝撃を与えた。 ヒトラー=スターリン条約とも呼ばれる。また、署名したモロトフ、フォン・リッベントロップ両外務大臣の名前を取り、モロトフ=リッベントロップ協定(Template lang-ru-short?、Template lang-en-short?)とも呼ばれる。 成立に至る経緯 1933年にナチ党が政権を取り、1935年に再軍備宣言を行なうなど、ドイツがヴェルサイユ体制を脱して急速に勢力を拡大すると共に、ヨーロッパの国際緊張は次第に高まっていった。イギリス・フラ...
  • 広田弘毅
    Template 日本の内閣総理大臣? 広田 弘毅(廣田 弘毅、ひろた こうき。明治11年(1878年)2月14日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の外交官、政治家。第32代内閣総理大臣。 生涯 生い立ち 1878年(明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれる。徳平は箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。 初名は丈太郎(じょうたろう)。信仰している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われて『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅...
  • 愛新覚羅溥儀
    愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、満洲語名:アイシンギョロ - 満洲語の本名を名付けていない、簡体字:Template lang?、漢語拼音:Àixīnjuéluó Pǔyí=アイシンジュエルオ・プーイー、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清朝の第12代皇帝宣統帝(せんとうてい、1908年 - 1912年)。「最後の皇帝」として広く知られる。清朝崩壊後に日本政府および軍の支援を受け、満洲国の執政、満洲国が帝政に移行すると皇帝として即位、康徳帝(1934年 - 1945年)を名乗る。字(あざな)を「浩然」あるいは「耀之」という。 廟号は恭宗(2004年に与えられたが、公式ではない)。また、辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。...
  • 山縣有朋
    Template 日本の内閣総理大臣? Template Infobox 軍人? 山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日は、日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。 奇兵隊を率いて倒幕で活躍。明治新政府では日本陸軍の基礎を築いた。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。 経歴 幕末期 萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。 久坂玄瑞の紹介で吉田松陰が主催する...
  • 満鉄調査部
    満鉄調査部(まんてつちょうさぶ)は、戦前に存在した南満州鉄道の調査機関である。 設立は明治40年(1907年)。 概要 1906年に南満州鉄道(満鉄、総裁後藤新平)が発足した翌年、満鉄調査部が設置された。当初は満鉄の経営のための調査をはじめ中国東北地区などの政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究を行なったが、その後の日本の中国進出の拡大に呼応してその対象を広げ、中国そのものを対象とした本格的な調査研究も行うようになっていった。 他方、多数の調査要員を必要としたこともあり、日本国内で活動の場を失っていた多数の自由主義者、マルクス主義者などを取り込むようになり、やがてその活動は軍部の忌避するところとなって2度にわたる弾圧事件を受け、活動を縮小した。 満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクであるとしばしば形容される。日本の敗戦と満州国の消滅により満鉄が消滅した後も、満鉄...

  • Template 基礎情報 過去の国? Template 中国の歴史? 清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は盛京(瀋陽)、後に北京。 満洲族の愛新覚羅氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満洲語でダイチン・グルン(Daicing gurun, 大清国)といい、中国語では大清(ダーチン、ピン音 Dàqīng)と号した。 国号について 諸説ある。 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「氵」と、『周礼』で東(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進...
  • リヒャルト・ゾルゲ
    {{Infobox 軍人 |name=リヒャルト・ゾルゲTemplate lang-ru-short? |lived=1895年10月4日 - 1944年11月7日 |placeofbirth=アゼルバイジャン、バクー |placeofdeath=巣鴨拘置所 |image= |caption=リヒャルト・ゾルゲの功績を称えて発行された旧ドイツ民主共和国の切手 |nickname= |allegiance=ソビエト軍 |serviceyears= |rank= |commands= |unit=労農赤軍参謀本部第4局 |battles= |awards=ソ連邦英雄勲章 (死後) |laterwork= |Mausoleum=多磨霊園 }} リヒャルト・ゾルゲ(Template lang-ru-short?、Template lang-de-shor...
  • 日本統治時代の朝鮮
    Template 基礎情報 過去の国? Template 朝鮮の歴史? 日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん、英語:Korea under Japanese rule、朝鮮語 Template lang?)(1910年8月22日 - 1945年9月2日)では、大日本帝国による韓国併合から太平洋戦争(第二次世界大戦)での敗戦までの間、日本の領有下にあった朝鮮について述べる。 総督府の所在地は京畿道京城府(現在のソウル特別市)であった。 概要 1910年、当時の大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって朝鮮総督府の統治下に置かれ、日本の領土となった韓国併合条約の解釈については、現在の日本政府の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっているTempla...
  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • ナチス・ドイツ
    Template 基礎情報 過去の国? ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党が支配した1933年から1945年の元首制的共和国としてのドイツを指す。 国名 正式な国名は帝政ドイツ、ヴァイマル共和国を通じてDeutsches Reich(ドイツ国)である。一時期、ドイツ全国を統一的に統治した国家体制として、神聖ローマ帝国(962年–1806年)、帝政ドイツ(1871年–1918年)に次ぐという意味で、「第三帝国」 (Drittes Reich) という呼称を宣伝に使用したが、これが逆に敵対国の反独宣伝に利用されたため、ナチス政府はこの語の使用を禁じた。またナチス・ドイツは帝政(帝国)ではなく共和政(共和国)であることから、英語では帝政でない国を Third Empire とは言えないのでドイツ語のまま Third Reich といった。日本では戦後に...
  • 日清戦争
    Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反...
  • 満州国-2
    前半は満州国参照 政治 Template wikisource? 満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされていた。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織を支援する方針に変...
  • 南機関
    Template 日本陸軍? 南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。 機関長は鈴木敬司陸軍大佐。ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。その後ビルマ軍政の方針をめぐって軍中央と対立し、消滅させられた。だが南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。 背景 thumb|right|220px|ビルマ([[ミャンマー)全図]] イギリスのビルマ統治 ビルマ(現在のミャンマー)は、1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。イギリスは治安維持の観点からビルマ軍を編成したが、ビルマ族の青年は征服者に協力することを潔しとしなかった。ビルマの人口は1941年の国勢調査によれば1,600万人、民族別ではモンゴル系...
  • 大日本帝国
    大日本帝國 国旗 準国章 菊花紋章 標語 (なし) 公用語 日本語(事実上の公用語)朝鮮語、台湾語なども使われていた。 首都 東京 面積 675千km sup 2 /sup (昭和初期の領土) 人口 9770万人 (昭和10年国勢調査での領土内の人口) 政府 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制。1930年代以降は軍国主義の傾向。 国家元首 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照 通貨 円 国歌 君が代 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使...
  • 東郷茂徳
    Template 日本の閣僚? 東郷 茂徳(とうごう しげのり、明治15年(1882年)12月10日 - 昭和25年(1950年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。 人物 東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務め...
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