chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「国民新党」で検索した結果

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  • 日本の政党一覧
    ...7 4 11 国民新党 (2005-) 5 4 9 改革クラブ (2008-) 1 4 5 新党大地 (2005-) ※ 1 0 1 沖縄社会大衆党 (1950-) ※ 0 1 1 新党日本 (2005-) 0 1 1 政党所属人数と院内会派の所属数とは一致しない 無所属は衆議院6(田中真紀子、野呂田芳成、中村喜四郎、平沼赳夫、滝実、江田憲司)、参議院8(鈴木陽悦、広田一、近藤正道、森田高、友近聡朗、外山斎、川田龍平、田中直紀)の合計14 ※政党助成法上の政党要件を満たしていない政治団体 国会に議席を有したことのある政党 立憲養正會 (1923-1942,1946-) 第二院クラブ (1983-) - 院内会派として1962-1983の間存在し、1983年に政党化 自由連合 (1994-) 新社会党 (1996-) ...
  • 岩倉具視-2
    ...井久興(衆議院議員。国民新党幹事長) 加山雄三(歌手・俳優) 喜多嶋修(音楽プロデューサー) 来孫 亀井亜紀子(参議院議員。国民新党副幹事長・女性局長) 喜多嶋舞(女優) 山下徹大(俳優) 昆孫 岩倉正和(弁護士。西村あさひ法律事務所のパートナー弁護士) その他 岩倉具博(元ジャニーズJr.、通字を受け継いでいるので直系である可能性はあるが、詳細は不明) 演じた俳優 二谷英明(『竜馬がゆく』 1968年・NHK大河ドラマ) 林昭夫(『勝海舟』 1974年・NHK大河ドラマ) 西本裕行(『花神』 1977年・NHK大河ドラマ) 鈴木瑞穂(『竜馬がゆく』 1982年・テレビ東京12時間超ワイドドラマ) 島田順司(『大奥』・1983年、フジテレビ) 佐藤慶(『田原坂』 1987年・日本テレビ年末時代劇スペシャ...
  • 革新党
    革新党(かくしんとう) アメリカにかつて存在していた政党。進歩党 (アメリカ)を参照。 日本の昭和時代に革新倶楽部の立憲政友会への合流に反対した議員が結成した政党。本項にて解説する。 日本共産党元中央委員赤松克麿が転向して結成した日本革新党。国家社会主義と日本主義を掲げる右翼政党。 革新党(かくしんとう)は、昭和初期(1927年6月3日-1932年7月25日)に存在した政党。 1925年5月10日、革新倶楽部は立憲政友会と合同(正式な合同は14日)したが、この合同に反対した尾崎行雄・清瀬一郎ら左派系は政友会への加入を拒否して一旦無所属となる。その後、30日に小政党・中正倶楽部とともに院内会派である新正倶楽部を結成した。 だが、左派系の中でも足並みが揃っていた訳ではなく、昭和に入った1927年に尾崎らと決別した関直彦・清瀬一郎・大竹貫一らは新党結成を模索、同年6月3...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 日比谷焼打事件
    日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、日露戦争後の賠償に対する不満から、1905年9月5日、東京日比谷公園の集会をきっかけに起こった暴動のこと。 概要 1905年のポーツマス条約によってロシアは樺太全島および遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では戦勝国であるはずの日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかった為、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、世論の非難(日本内部)が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令も敷かれた。 原因 1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、...
  • 国民同盟 (日本)
    国民同盟(こくみんどうめい)とは、昭和初期に存在した親軍部政党(1932年12月22日-1940年7月26日)。 満州事変直後、幣原外交・井上財政への批判を強めた立憲民政党の安達謙蔵内務大臣が推進した協力内閣運動が失敗に終わると、これに憤慨した安達が中野正剛・山道襄一らとともに民政党を離党した上で革新党などと合同して衆議院議員32名により結成した。 軍部と協力して統制経済と満州事変における日本の国際正義の擁護を掲げたが、政権獲得の重視する安達と中野・山道の三幹部の間に意見の齟齬があり、1936年に安達が岡田内閣の内閣審議会委員に任命されると一気に露呈した。その結果、中野は離党して東方会を結成し、山道も民政党に復党した。このため急激に党勢は衰退し、第20回衆議院議員総選挙以後はわずか11名の小政党となり、他の小政党や無所属議員と小規模な院内会派を作って活動するのが精一杯となった。このため...
  • 国民協会 (日本)
    国民協会(こくみんきょうかい)は、日本に存在した政党、政治団体。現在、「国民協会」の名を持つ政党は日本には存在しない(政治団体としては名称変更した国民政治協会が存在する)。 国民協会 (1892-1899) 明治時代に存在した国粋主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院の院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日-1899年7月4日)。 1892年、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基・牧朴真・白井遠平が選出され(後に安場保和が幹事長に就任)、他に中央交渉部の佐々友房、佐藤昌蔵、津田真道、大岡育造、古荘嘉門、曾禰荒助・元田肇などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰...
  • 大正政変
    大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる ref name=okubo 大久保(1964)。 狭義の大正政変 概略 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会を推し、自分は再び政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだに結んだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御...
  • 立憲革新党
    立憲革新党(りっけんかくしんとう)は、明治中期に存在した政党(1894年5月9日-1896年2月24日)。 同盟倶楽部と同志倶楽部が合同して一部無所属議員なども加わって40名の衆議院議員によって結成された。同盟倶楽部は1892年11月20日に藩閥政権に失望した吏党系議員が民党側に離反した際に結成された院内会派、同志倶楽部は1893年12月5日に自由党所属の星亨衆議院議長の不正問題で自由党が星議長の擁護の姿勢を変えないことに抗議した同党議員が離党して結成した院内会派であった。ところが、直後に第3回衆議院議員総選挙が行われて両会派とも減少したために、民党としての地位確保のために合同したのである。当初は対外硬派に属してや皇室の尊栄・国威発揚を掲げる一方で人民の権利伸長、責任内閣制確立などを掲げた。日清戦争後の三国干渉に屈した第2次伊藤内閣を追及する運動を展開した。主な議員には楠本正隆・鈴木重遠...
  • 国民政府
    thumb|250px|国民政府が使用した[[中華民国の国旗。1928年12月17日に、「青天白日滿地紅旗」が中国の正式な国旗として制定された。]] 国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。国家元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政府」の定義にそれぞれ差異がある。 日本:1925年以降に国民党が樹立した政府。中華人民共和国の意向を反映し、1925年から1949年までの間に国民党が中国大陸で樹立した政府とする場合もある。いずれにせよ、1971年に中華民国が国際連合から脱退し、その後日本との国交が断絶してからは、国民政府という呼び方は用いられなくなった。 中国:1925年の広州国民政府樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政府が樹立(憲政の開始)されるまでの間、「訓政時期約法」に...
  • 国民学校
    国民学校(こくみんがっこう)とは、第二次世界大戦、太平洋戦争の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校のことである。ナチス・ドイツの初等教育に起源をもつ。 国民学校は、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「少国民」の育成がめざされていたともいわれている。 1941年(昭和16年)の国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づいて作られ、6年の初等科と2年の高等科からなり、初等科は、それまでの尋常小学校などを母体とし、高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていた。国民学校令の施行とともに、それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は、すべて国民学校とされた。 国民学校令においては、それまで6年間だった義務教育を8年間に延長する規定が設けられたが、施行が延期され、国民学校令による義務教育期間の延長は行われなかった。 第二...
  • 帝国党
    帝国党(ていこくとう)は、明治時代後期の吏党系政党(1899年7月5日-1905年12月23日)。国民協会のあとを受け結成された。 概要 国民協会の会頭(党首)であった品川弥二郎が政党活動から撤退を表明したことにより解散されることになった国民協会所属議員の受け皿として、佐々友房・荒川邦蔵らによって結成された。だが、伊藤博文による新党(後の立憲政友会)結成の噂が流れたことによって所属議員は分裂して大岡育造派は新党参加を決定、残された佐々友房派12名が無所属や他党議員8名を加えて計20名で結成することとなった。国体擁護・軍備充実・国権拡張・実業振作・国民精神発揚・社会政策拡充・地方自治完備といった綱領を掲げていた。 だが、実際に立憲政友会が結成されると党内は動揺して元田肇らが離脱してこれに参加、第1次桂内閣では唯一の与党となったものの、20名を切る小政党では活動に限界があった。対露同志会...
  • 衆議院
    ...合(社民) 7 国民新党・そうぞう・無所属の会(国民) 6 無所属(無) 9 計 480 役員等 衆議院の役員は議長、副議長、仮議長、常任委員長、事務総長とされている(日本国憲法第58条および国会法第16条)が、衆議院では、これに特別委員長、憲法調査会会長、政治倫理審査会会長を加えた八職を「役員等」としている。 議長・副議長 詳細は、衆議院議長 を参照。 議長は、議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する(国会法第19条)。副議長は、議長に事故があるとき又は議長が欠けたときは、議長の職務を行う(国会法第21条)。議長及び副議長とも各々一人で(国会法第17条)、任期は各々議員としての任期までとなる(国会法第18条)。現職は第163回国会召集の当日(2005年9月21日)に選任された。 役職氏名所属会派(出...
  • 国民義勇隊
    国民義勇隊(こくみんぎゆうたい)とは大東亜戦争(太平洋戦争)末期に、本土決戦に備えるために国民総動員組織として創設された日本の国民統制組織のことである。終戦に伴い消滅した。 概要 1945年3月に「国民義勇隊組織ニ関スル件」として閣議決定された。6月には大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などを吸収・統合した。 国民義勇隊は地域または職場ごとに編成され、前者は町内会・部落会を単位小隊として集めた市町村国民義勇隊、後者は官公署・工場・会社などを単位小隊とした職域国民義勇隊とされた。さらにその上に前記二つの義勇隊を合体した連合国民義勇隊が作られていた。対象年齢は、国民学校初等科修了から男子65歳以下、女子45歳以下とされたほか、それ以外の者も志願することができた。 本土決戦に向けた国民の組織化が目的で、消火活動や食糧増産、疎開作業などの工事のほか、軍需品の輸送や陣地構築などの...
  • 中国国民党
    {{政党 |国名 = Template ROC-TW? |党名 = 中国国民党 |公用語名 = 中國國民黨(Kuomintang of China) |党首職名 = 党首 |党首氏名 = 呉伯雄 |議院代表職名 = 秘書長 |議院代表氏名 = 呉敦義 |成立年月日 = 1919年10月10日 |本部所在地 = 台北市中山区八徳路2號232樓 |議院 = 立法院 |議員数 = 81 |議員定数 = 113 |議員集計年月日 = 2008年1月現在 |党員・党友数 = 1,089,000 |党員・党友数集計年月日 = 2006年 |政治的思想・立場 = 保守、中道右派、泛藍連盟 |ウェブサイト = http //www.kuomintangnews.org/client/jpn/ |サイトタイトル = 中国国民党公式サイト |シンボル = 青天白日...
  • 武漢国民政府
    武漢国民政府(ぶかんこくみんせいふ) 1926年~1927年の間、武漢に存在した国共合作の政権。単に武漢政府とも呼ばれる。本項で説明。 1937年~1938年の間の南京国民政府の別称 。日中戦争時に、南京政府が武漢へと遷都していた時期の呼称。 概要 1926年蒋介石率いる[1]国民革命軍の北伐軍が武漢を占領し、同年12月汪兆銘らの国民党左派が共産党のメンバーと提携、広州国民政府(広東政府)が広州から武漢に遷都して成立した。1927年4月蒋介石ら国民党右派が反共クーデターを起こし(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧、対立した。その後、経済不安や土地革命をめぐる共産党との対立によって、武漢政府も共産党を弾圧して同年7月に反共方針を明確化(国共分離)・分裂し、同年9月南京政府に合流した。 関連項目 汪兆銘 国民政府 広州国民政府 出典 フ...
  • 国民徴用令
    Template 日本の法令? 国民徴用令(こくみんちょうようれい)とは、国家総動員法に基づいて、昭和14年に制定された日本の法令である(勅令第451号)。一部地域では白紙などと呼ばれた。⇒国民徴用令条文 国家総動員法第4条第四条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズの規定に基く国民の徴用 国家総動員法第6条の規定に基く被徴用者の使用、賃金、給料、その他従業条件に関する命令 の二つについて規定した。 関連 国家総動員法 強制連行 大東亜戦争 太平洋戦争 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月17日 (金) 02 05。     
  • 中央倶楽部
    中央倶楽部(ちゅうおうくらぶ)は、明治・大正時代に存在した日本の政党(1910年3月1日-1913年2月5日)。 日露戦争後の立憲政友会の勢力拡大に危機感を抱いた反政友会党派の間で統一新党を目指す動きが生じたが、政党政治を目指す憲政本党・又新会と藩閥に近い大同倶楽部・戊申倶楽部との間で路線対立が明らかとなり、前者は立憲国民党を結成、これに対して後者が結成したのが中央倶楽部である。 桂内閣の衆議院における別働隊であり、桂太郎側近の大浦兼武・安達謙蔵が中心として活動し、日韓併合や陸軍の2個師団増設を支持した。大正政変に伴って浮上した桂を中心とする「桂新党」構想において中心的な役割を果たし、桂の没後に発足した立憲同志会に合流して解散した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年5月20日 (日) 13 24。 ...
  • 大政翼賛会
    大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた公事結社である。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。 経緯 内閣総理大臣を務めた近衛文麿公爵を中心として国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年の国家総動員法が衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には、有馬頼寧農林大臣(伯爵)・大谷尊由拓務大臣らが近衛を党首とした新党を作って解散総選挙を行うことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた政友会・民政党が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦はこの計画は白紙に戻ることになった。 近衛の総理辞任後、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、...
  • 護憲運動
    護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。 第一次憲政擁護運動 第一次憲政擁護運動の背景と発端 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このよう...
  • 立憲同志会
    立憲同志会(りっけんどうしかい)は、1913年12月23日に成立した大正時代の日本の政党。元は内閣総理大臣桂太郎(結党2ヶ月前に病死)を党首にする予定であった事から「桂新党」の異名があった。 2度の内閣を組織し、その経験から自らが政党を組織することを志向した桂は、自派の官僚と桂に気脈を通じる議員らとともに「桂新党」を結成しようとした。しかし、桂の自立をよしとしない政党嫌いの山縣有朋によって宮中に押し込められた桂がこの構想を公にするのは、護憲運動に遭遇した第3次桂内閣時であり、立憲国民党からの入党はあったが、立憲政友会の離反を招き、又、期待した田健治郎など官僚や貴族院からの入党もさして上手くいかなかった。 昂揚する第一次護憲運動で帝国議会を大衆のデモが取り巻く中で桂内閣は総辞職。桂首相も失意の内に癌で死去した。桂の死後、新総裁の有力候補と目されていた後藤新平と、仲小路廉は同志会から脱党す...
  • 第3次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ かつら ないかく|15|桂太郎|Template 和暦?|12月21日|Template 和暦?|2月20日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/15.html|元老・内大臣兼侍従長}}在任期間は62日間で、東久邇宮内閣(54日間)に次いで史上第2位の短命内閣である。 概要 これまで「桂園時代」と呼ばれて桂太郎と西園寺公望が交替して政権を担当しており、順番からすれば桂が推挙される筈であったが、この頃、桂と山縣有朋の確執が深刻化し、4ヶ月前の大正天皇践祚を機に内大臣兼侍従長に祭り上げられていた。そのため、元老の中から松方正義が推されたが78歳であることを理由に辞退し、山本権兵衛・平田東助も組閣の自信がないとして辞退した。このため、山縣もやむなく桂を再度推挙することとした。桂は山縣には依存...
  • 立憲改進党
    立憲改進党(りっけんかいしんとう)は明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つ(1882年4月16日-1896年3月1日)。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。 概要 明治14年の政変によって政府を追放された大隈が新党結成を構想、1882年3月14日に新党の趣意書を発表して4月16日に東京の明治会堂で結党式を開催した。都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤として、「王室の尊栄」・「人民の幸福」を2大方針として政治漸進主義を唱え、イギリス流立憲君主制・二院制議会・財産制限選挙制・国権拡張などの穏健な立憲政治を目標に掲げた。総理には大隈、副総理には河野、これを補佐する掌事には小野梓・牟田口元学・春木義彰が就任した。主なメンバーとしては他に矢野文雄、沼間守一、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、島田三郎、箕浦勝人らがいる。だが、メンバーも多彩で慶應義塾系や自由党...
  • 革新倶楽部
    革新倶楽部(かくしんくらぶ)は、日本の大正時代の政党である。 1922年11月8日、立憲国民党を解党した犬養毅、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らを中心に結成された。立憲国民党・無所属倶楽部や憲政会脱退派などの非政友会系を合同して絶対多数であった立憲政友会に対抗した。政治的主張として、普通選挙に基づく政党内閣制、軍部大臣現役武官制廃止、師団半減などの軍縮、知事公選、行財政整理、金解禁、義務教育の延長、労働および小作問題の立法的解決、ソビエト連邦承認などを掲げていた。 第二次護憲運動では、立憲政友会、憲政会と護憲三派を組んで、清浦奎吾内閣を打倒した。選挙後、成立した加藤高明を首班とする護憲三派内閣では犬養は逓信大臣として入閣した。だが、この時の総選挙で立憲政友会と憲政会の間で埋没した形となった革新倶楽部は議席を43から30に大幅に減らした事から、両党への不信感や党の将来に対する不安を抱く議員...
  • 大同団結運動
    大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)とは、1887年-1889年に発生した帝国議会開設に備えた自由民権運動各派による統一運動。 自由民権運動は政府の弾圧によって衰微し、自由党は解党、立憲改進党も休止状態にあったが、1887年にいわゆる三大事件建白運動が発生すると、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治の打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、3月に旧自由党・立憲改進党の主だった人々に呼びかけたのがきっかけである。 だが、自由党元総裁板垣退助は自分が疎外された事から運動から距離を置き、立憲改進党の大隈重信も懐疑的であった。これに対して政府は同年12月26日に保安条例を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌1888年2月には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣として入閣させて立憲改...
  • 翼賛政治会
    翼賛政治会(よくさんせいじかい)は、昭和時代に存在した衆議院・貴族院合同の院内会派・政治団体(1942年5月20日-1945年3月30日)。略称は翼政会。 日本の歴史上、唯一の「一国一党」体制を樹立した団体である。 概説 1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)においては、大政翼賛会及びその傘下の大日本翼賛壮年団推薦を受けた候補者が過半数を遥かに上回る議席数を獲得したものの、東條内閣に批判的な非推薦候補も少なからず当選した。これを憂慮した内閣総理大臣東條英機は、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用した。その後、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、5月14日に会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送した。だが...
  • 大日本生産党
    大日本生産党(だいにほんせいさんとう)は1931年に結党された「国粋ファシスト」の政治団体。 概要 当初は黒龍会大阪支部長の吉田益三が提唱し、玄洋社系の内田良平の賛同を得て大阪中央公会堂において結成された。その後、1931年(昭和6年)11月20日、玄洋社系の頭山満・内田良平等の黒龍会の主な構成員、日本国民党、津久井龍雄の急進愛国党などが合同し東京の赤坂の「三会堂」において結党式を行った。約1500名が参集した。本部は当時の東京市麹町区永田町に置かれた。1932年(昭和7年)1月には愛国急進党、大衆党長野県連の秦数馬の一派、大日本帝国陸軍大阪労働組合、横浜自治革正党などが解消・入党し勢力を拡大した。 多くの国家主義団体は上部構造偏重であったが、大日本生産党は大衆に密着し、党員2万人を称していた。 しかし、1933年(昭和8年)7月の神兵隊事件において青年部員が多数連座し検挙され...
  • 平民社
    平民社(へいみんしゃ)は、1903年11月に、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために朝報社を退社し、あらたに非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社。小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助をおこなった。形態は新聞社であったが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会とともに社会主義運動の中心組織であった。 平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年11月15日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「...
  • 立憲民政党
    立憲民政党(りっけんみんせいとう)は、昭和時代の政党。1927年6月1日に憲政会と政友本党が合併して成立した。濱口内閣・第2次若槻内閣を組織して、立憲政友会との二大政党制を実現させたが1940年8月15日に解党して立憲政友会とともに大政翼賛会に合流した。 概要 1927年、政友会の田中義一内閣に対抗する形で若槻前政権の与党であった憲政会と田中義一の政友会総裁就任に反対して政友会を離党した床次竹二郎らの政友本党が合同して成立、6月1日上野精養軒にて結党式が開かれ、濱口雄幸を総裁とし、若槻禮次郎(前首相・憲政会総裁)・床次竹二郎(政友本党総裁)・山本達雄・武富時敏を党顧問、桜内幸雄を幹事長、安達謙蔵・町田忠治・小泉又次郎・斎藤隆夫ら10名を総務とし、「議会中心主義」・「人種・貧富の差の解消」・「国際正義に基づく協調主義」・「国民の自由の擁護」などを掲げた。支持基盤としては、地主などが支...
  • 憲政本党
    憲政本党(けんせいほんとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年11月3日-1910年3月13日)。 概要 1898年、自由党と進歩党が合同して憲政党を結成して第1次大隈内閣を組織するが間もなく分裂、10月29日に先手を打った旧自由党系が憲政党解散決議と同時に党名・綱領・規約はそのままとして役員を全て旧自由党系に入れ替えた新しい憲政党の届出を内務省に提出した。当時の内務大臣は旧自由党の党首であった板垣退助であったことから、直ちに承認された。これに対して大隈重信首相を擁する旧進歩党系(進歩派とも)はこれに対抗して正式な党大会を開催しようとしたが、内務省はこれを違法な政治集会と認定して開催を許可せず、11月2日には旧進歩党系に対して、同一の政党名を用いて結社を行い(旧自由党系)憲政党の政治活動を妨害を企てたとして、「憲政党」という名称の使用禁止命令が発せられた。このため、やむなく...
  • 国家総動員法
    Template 日本の法令? 国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣によって制定された法律。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に公布された国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)に基づいて1946年4月1日をもって廃止された。 背景と影響 第一次世界大戦の戦訓より、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。日中戦争の激化に伴い、当時の日本経済では中国で活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。 この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。...
  • 林銑十郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、明治9年(1876年)2月23日 - 昭和18年(1943年)2月4日))は、日本の陸軍軍人、政治家。第33代内閣総理大臣。陸軍大将、正二位、勲一等、功四級。 略歴 石川県金沢市に士族(旧加賀藩士)の子として生まれる。金沢市尋常師範附属小学校を経て、1894(明治27)年7月、日清戦争が勃発すると、四高補充科を中退し、士官候補生となり陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)6月28日、少尉任官、歩兵第7連隊付、1903(明治36)年、陸軍大学校を卒業。 1905(明治38)年に勃発した日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加。以後、陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務める。1937年(昭和12年)内閣総理大臣。 越境将軍 Templa...
  • 大日本政治会
    大日本政治会(だいにほんせいじかい)は、昭和時代に存在した衆議院の院内会派・政治団体(1945年3月30日-同年9月14日)。総裁は元陸軍大臣南次郎。略称は日政または日政会。 概説 第21回衆議院議員総選挙以後、全ての国会議員が所属する事になっていた翼賛政治会であったが、1945年に入ると、小磯国昭首相の意向を受けて本土決戦に備えた大政翼賛会・翼賛政治会の改組を準備していた小林躋造総裁(小磯内閣国務大臣)に対する反発が表面化する。これに対して小林総裁は新党結成を公式に表明して事態の収拾を図るが、脱退者が相次いだ。このため、小林に代わる総裁を立てて出直しを図ることとなった。 1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎南は当時枢密顧問官(総裁就任時に辞任)。陸軍大臣・関東軍司令官・朝鮮総督を務め、当時総辞職が時間の問題と見られていた小磯首相の後継候補としても名前が挙がっていた事...
  • 蒋介石
    {{大統領 | 人名=蔣介石 | 各国語表記= | 画像=Chiang Kai-shek Colour.jpg | 画像サイズ=175px | キャプション=蔣介石(1945年5月) | 代数=初 | 職名=総統 | 国名=中華民国 | 就任日=1948年5月20日 | 退任日=1975年4月5日 | 出生日=1887年10月31日 | 生地=Template QIN1890?浙江省奉化県 | 死亡日=1975年4月5日 | 没地=Template Flagicon?中華民国台北市 | 配偶者=宋美齢 | 政党= 中国国民党 | サイン= }} Template Chinese? thumb|220px|[[張学良とともに]] 220px|thumb|[[宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに]] 220px|thumb|カイロ会...
  • 桂太郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 桂 太郎/桂 清澄(かつら たろう/かつら きよずみ、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本の武士・長州藩士、軍人、政治家。第11・13・15代内閣総理大臣。元老、陸軍大将・正二位・大勲位・功三級・公爵。台湾協会学校(現拓殖大学)創立者初代校長。毛利家の庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元や桂元澄などの子孫に当たる。通称は「太郎」、諱は清澄(きよずみ)。元老第二世代。長州閥で山縣有朋の直系。 経歴 長門国阿武郡萩町、萩城下の武家屋敷地である平安古(現・山口県萩市平安古)に生まれる。父は長州藩士の桂與一右衛門(禄120石余り)で長男、母は藩士中谷家の娘喜代子。桂家の遠祖は戦国時代の桜尾城主・桂元澄と言われ、桂姓は安芸国高田郡桂村に由来するといわれる。 幼少時に阿武郡川島村(現・山口県...
  • 憲政党
    憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年6月22日-同10月29日、自由系 1898年10月29日-1900年9月13日)。1898年(明治31年)、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が8月10日に予定されていた第6回衆議院議員総選挙に備えて藩閥政府に反対するために合同してできたものである。だが、総選挙直後に再分裂して旧自由党側が「憲政党」の名称保護を強行して引き続き「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は憲政本党と名乗った。 本項記事では、1898年6月22日から同年10月29日までの統一された憲政党と10月29日から1900年9月13日の旧自由党系の憲政党(「自由派憲政党」などと呼称されることが多い)の双方を扱うものとする。 概要 憲政党 第2次松方内閣が計画した地租増徴法案に対して同内閣の与党であった進歩党は与党離脱を決定して、野党自由党との連携を強め...
  • 憲政の常道
    憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一党に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。 概説 大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリスの議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する...
  • 大同協和会
    大同協和会(だいどうきょうわかい)は、日本最初の自由党解散後、大同団結運動の一片として、1889年 (明治22年) 5月10日に結成され、翌1890年 (明治23年)1月21日に解散した。 1884年に自由党が解散してからしばらく後、1886年に民権派政治家の力を結集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。1889年にはこの運動に沿った組織結成の機運が高まったが、この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬養毅ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。そして大同団結運動の主導者であった後藤象二郎が突如黒田内閣の逓信大臣として入閣して運動からの離脱を表明したのを機に両派は4月に決別し、5月に政社派の団体として大同倶楽部が、非政社派の団体として大同協和会が発足した。 大井は新井省吾・小久保喜七・石阪昌孝らとともに自由党再興を目指して運動を繰り広げる...
  • 進歩党 (日本)
    進歩党(しんぽとう)は、かつて存在した日本の政党。 進歩党 (日本 1896-1898) 進歩党(しんぽとう)は、明治時代中期に結成された政党(1896年3月1日 ‐ 1898年6月20日)。 明治29年(1896年)、立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部・帝国財政革新会・中国進歩党などが合同して代議士99名で結成。大隈重信が事実上の党首であったが正式な役職には就かず、形式的には犬養毅・尾崎行雄・大東義徹・柴四朗(東海散士)・長谷場純孝の5名の総務委員が代表者となっていた。「国権拡張」「責任内閣」「財政整理」などを掲げた。大隈の人気と同党が掲げた対外硬路線に対する支持から結成直後に党員5万人を数え、更に同年成立した第2次松方内閣に大隈が外務大臣として入閣し、高橋健三が内閣書記官長、神鞭知常が法制局長官に任命されたことなど党幹部の政府入りが実現したことで、更に期待が高まって同年中に1...
  • 第3次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ いとう ないかく|7|伊藤博文|Template 和暦?|1月12日|同年|6月30日|藩閥内閣|第6回衆議院議員総選挙|同年6月10日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/07.html|元老}} 概要 地租増徴を目指して衆議院を解散したものの、政局運営に自信を失った前総理松方正義に代わって伊藤が組閣した。だが地租増徴に反対する進歩党と自由党からの協力は得られなかったために、文部・農商務・逓信を自派(「伊藤系官僚」)が、内務・司法・陸軍を山縣有朋系が占める超然内閣を作らざるを得なかった。 第5回衆議院議員総選挙では自由・進歩両党が圧勝、これに対して伊藤は選挙から僅か3ヶ月で再度衆議院を解散した。だが、これに対して進歩党と自由党が合同して憲政党を結成、貴族院も政権に非協力な態度を取った為に、伊藤は自らの政...
  • 赤旗事件
    赤旗事件(あかはたじけん)とは、1908年(明治41年)6月22日に発生した社会主義者弾圧事件である。別名「錦輝館事件(きんきかんじけん)」、「錦輝館赤旗事件(きんきかんあかはたじけん)」。 背景 明治期の日本では、極めて過酷な労働環境への反発から労働組合期成会が結成されるなど、社会運動が高まりを見せていた。これに対し、政府側は1900年に治安警察法を制定して運動の規制に乗り出した。1901年5月20日、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、西川光次郎ら6名を発起人として、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成されるが、第4次伊藤内閣は直後にこれを禁止した。1900年にやはり安部らが結成した社会主義協会は、4年後に第1次桂内閣により解散の憂き目に遭っている。 1906年1月7日、桂太郎に替わって西園寺公望が首相に就任、第1次西園寺内閣が発足した。西園寺は社会主義をみだりに弾圧することを避け、...
  • 上海クーデター
    上海クーデター(しゃんはいクーデター)は、1927年4月12日、中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のことを指す。四・一二事件とも言う。中国国民党は清党と称する一方、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と称す。 日本語版では中国国民党、中国共産党のどちらの立場にも立たず、日本でよく使われる用語として上海クーデターを用いる。 背景 1923年、孫文はソ連が中国革命の最大の支持者であると認めた。そして、コミンテルンと中国共産党の李大釗らの援助の下、孫文は国民党を改組し、広州で国民政府を樹立し、連ソ容共政策を提出し、翌1924年には黄埔軍官学校を開校した。大量の共産党員が身分をそのまま保持したまま、国民党に加入し、幾人かは要職を得た(周恩来など)。 しかし、1925年孫文没後、汪精衛が政治的指導者となる一方で、黄埔軍官学校校長の蒋介石は軍権を掌握し...
  • 中山艦事件
    中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。 事件の背景 1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(...
  • 中華民国の歴史
    中華民国の歴史(ちゅうかみんこくのれきし)は、1912年に中国で建国されたアジア最初の共和制国家である中華民国の歴史を記述する。なお、本稿では中華民国が中国大陸を支配していた1949年までの歴史を記述する。それ以降の中華民国の歴史については台湾の歴史と国民政府を、現在の中華民国政府自体については中華民国を参照のこと。 概要 中華民国は、1926年以降の中国国民党による北伐の前後で、北京政府期と南京国民政府期に大別される。建国初期の袁世凱による統治期を除いて、中華民国の代表政府が同時期に2つ存在する時期もあるなど各地の軍閥がそれぞれ「中国を統治する国家」を主張していた時期もあるが、日本やイギリス、フランスやアメリカなどのいわゆる「列強」をはじめとする国際社会(その中には世界最初の社会主義国家であるソビエト連邦も含まれる)では「中国を統治する国家」と認識されている。 第二次世界大戦後の1...
  • 塘沽協定
    塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1933年5月31日に河北省塘沽で締結した満州事変の停戦協定。 妥結に至る背景 満州事変によって満州国が建国されると、それまで強硬な抵抗姿勢を取っていた孫科内閣は倒れ、代わりに対日妥協策を取る汪兆銘内閣が成立した。その一方で日本軍は1933年に熱河省へ侵攻、万里の長城(長城線)以北の地域を満州国に併合する。更に長城線を越えて河北省へと進撃するが、ここで宋哲元率いる29軍の抵抗に遭ってしまう。何とか侵攻は成し遂げたが日本は国際連盟を脱退して国際的な孤立感を深め、国民政府との間で一応の妥協点を探ることになった。 最初のうちは北平政務委員長の黄郛和と関東軍副参謀長の岡村寧次との間で秘密裏に交渉が持たれていたが、最終的には国民政府軍事委員会から何応欽が全権として出席し協定妥結にこぎつけた。 協定の骨子 国民政府軍は河北省東北部から撤退し、軍事的な挑発行...
  • 仮70
    中山艦事件(ちゅうざんかんじけん)は、1926年3月20日中華民国の広州で軍艦中山艦の回航をきっかけに、黄埔軍官学校長蒋介石が中国共産党員らの弾圧を開始した事件。「三二〇事件」「広州事変」とも。この事件をきっかけに中国国民党内での蒋介石の地位が急速に上昇し、また翌年4月の上海クーデターで第一次国共合作が破綻へ向かう端緒となったが、事件の中核の経緯は未だにはっきりしていない。 事件の背景 1924年中国国民党は第一次全国代表大会で「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示。ソ連のコミンテルンの指示を受けた中国共産党もこれに応じ、共産党員が国民党に入党するという形式で両党の間に国共合作が行われることになった。それよりやや以前から国民党総理孫文(孫中山)はソ連式の軍人教育にならって将校を育成する機関の必要性を感じ、蒋介石をソ連へ派遣していたが、これを機に広東省広州の長洲島にある黄埔に軍官学校(...
  • 幸徳秋水
    Template Infobox 革命家? 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、明治4年9月23日(1871年11月5日) - 明治44年(1911年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、アナキスト。本名は幸徳傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件で処刑された12名の1人。 経歴 高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。なお、妻の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。 明治20年(1887年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。新聞記者をめざし、『自由新聞』などに勤めた。明治31年(1898年)より『万朝報』記者...
  • 国共合作
    国共合作(こっきょうがっさく)とは、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に渡り中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。「合作」は協力関係を意味する。 第一次国共合作 第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。 1925年孫文が死去し、蒋介石が国民革命軍総司令官になった。1926年に北伐を開始し、1927年に南京に国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。 第二次国共合作 1937年から1945年に...
  • 長征
    長征(ちょうせい)は、中国国民政府が中国共産党に対する攻勢を強めたのに対し、1934年 - 1936年にかけて行われた、中国共産党による脱出と組織の再編。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。 概要 共産党指導部は江西省瑞金から陝西省延安に至るまで転戦、国民党勢力との戦闘などにより10万人の兵力を数千人にまで減らしたが、国民党蒋介石政府が抗日のため共産党との妥協に転じたため状況は終息した。途上で開催された遵義会議などにより、毛沢東の指導権が確立された。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉えている。 背景 国民政府は、1930年代、「中華ソビエト解放区」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅戦を各地で展開した。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資...
  • 華北分離工作
    華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が...
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