chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「国民新聞社」で検索した結果

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  • 日比谷焼打事件
    ...用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令も敷かれた。 原因 1905年、日露戦争は東郷平八郎率いる日本海軍がロシア海軍のバルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの仲介のもと、アメリカのポーツマスにて日露の和睦交渉が行なわれることとなった。当時、日本は戦争に対する多大な軍費への出費から財政が悪化し、ロシアでも血の日曜日事件など革命運動が激化していたため、両国とも戦争継続が困難になっていたのである。 しかし、相手は強大国・ロシアである。当時の日本には戦争を継続するだけの余力は既になかった。そうした内情を知らされていなかった国民の多くはロシアから多額の賠償金を取ることができると踏んでいたが、ロシア側は賠償金の支払いを拒否する。ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないからだ。日本側の全権・...
  • 平民社
    平民社(へいみんしゃ)は、1903年11月に、日露戦争を開戦しようとする動きに対して非戦論を主張していた『萬朝報』が、社論を開戦論へと転換したときに、非戦論を訴えつづけていた同紙記者の幸徳秋水と堺利彦(枯川)が、非戦論の主張を貫くために朝報社を退社し、あらたに非戦論を訴え、社会主義思想の宣伝・普及をおこなうために開業した新聞社。小島龍太郎や加藤時次郎、岩崎革也らが資金援助をおこなった。形態は新聞社であったが、社会主義者と社会主義支援者らのセンターの役割を担い、事実上、社会主義協会とともに社会主義運動の中心組織であった。 平民社は、週刊『平民新聞』を発行し、同紙は、1903年11月15日発行の第1号から、1905年1月29日発行の第64号まで刊行された。 週刊『平民新聞』第1号(11月15日)には、「平民社同人」の署名のある「宣言」と、堺と幸徳の署名のある「発刊の序」が掲載されている。「...
  • 護憲運動
    ...に怒り狂った国民は、国民新聞社や警察などを襲った。さらにこの憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、関西などにおいても新聞社や議会の邸宅が襲われるなど、各地で桂内閣に反対する暴動が相次いだ。このような中での2月11日、桂内閣は総辞職を余儀なくされたのである。 第一次憲政擁護運動の意義 大日本帝国憲法の下で、国民による運動で内閣が倒されたのはこのときだけである。そのため、このことは大正政変とも呼ばれ、藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなったのである。 桂内閣の後に組閣したのは、海軍大将で薩摩藩出身の山本権兵衛(第一次内閣)であった。山本は桂の二の舞を踏むことを避けるため、軍部大臣現役武官制を緩和(陸海軍の大臣は現役の大将・中将から出すこととなっていたが、山本は政党の軍部に対する影響を強めるために、予備役や後備役にまで拡大した)して政党に譲歩するなど、国民に対して融...
  • 毎日新聞
    Template Otheruses? Template wakumigi? 毎日新聞(まいにちしんぶん)は、日本の新聞のひとつ。発行部数は公称393万部。 毎日新聞社が発行している。かつては朝日新聞と共に2強に数えられていたが、その後の拡販競争と経営危機で遅れをとり、現在では読売新聞、朝日新聞に大きく水を開けられている。(この2紙と毎日をあわせて三大紙と呼ばれる)。 現在のスローガンは、「論争がある。本当が見える。」 新聞販売店の愛称は「毎日ニュースポート」であるが、近年は余り呼称される機会が少ない。 略史 1872年2月21日 『東京日日新聞』、東京浅草の日報社から創刊。 1875年 『東京日日新聞』、新聞の個別配達実施。 1876年 日報社、『中外物価新報』の印刷発行を三井物産から請け負う。 1882年 『日本立憲政党新聞』創刊。(1885年、『大阪日...
  • 朝日新聞
    Template Otheruses? right|thumb|300px|朝日[[新聞販売店・ASA(大阪市鶴見区・あさひやまもと)]] 朝日新聞(あさひしんぶん)は朝日新聞社が編集・発行する新聞の1つ。朝日新聞社のメイン新聞であり、発行部数は近年読売新聞に抜かれ第二位で公称800万部。 沿革 1879年1月 大阪で創刊。 1882年 政府と三井銀行から経営資金援助を受け始める。 1888年7月 東京の「めさまし新聞」を買収し「東京朝日新聞」を創刊、東京進出。 1889年 大阪本社発行の新聞を「大阪朝日新聞」と改題。 1915年 大阪朝日が夕刊の発行を開始。大阪朝日が全国中等学校野球大会(現全国高校野球選手権大会)を開催。 1918年 白虹事件 1935年2月 西部本社で発行開始。 1935年11月 名古屋本社で発行開始。 ...
  • 大正政変
    ...署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃した。つづいて同様の騒擾は大阪・神戸・広島・京都などの各市へも飛び火した。 2月20日、桂内閣は発足よりわずか53日で総辞職、「五十日内閣」と呼ばれた。後継の首相には海軍大将で薩摩閥の山本権兵衛が就いた。 桂園時代の終焉 大正政変は、山縣・桂率いる陸軍・長州閥が第2次西園寺内閣を倒閣し、これに反対する民衆運動が政党組織や優詔政策といった小手先の政策で交わそうとする「閥族内閣」を打倒したというイメージが強い。しかし、大正政変を経て誕生した「桂新党」(立憲同志会→憲政会)は立憲政友会とともに政党政治をリードすることになる立憲民政党の前身であり、桂と政党を敵視し続けた山縣とをひとくくりにして大正政変を論じることはできない。 2度の内閣を組織し、明治天皇から強い信頼を得ていた桂太郎は、「桂新党」の設立と山県系官僚閥を改革する新政策を模索して...
  • 大日本生産党
    大日本生産党(だいにほんせいさんとう)は1931年に結党された「国粋ファシスト」の政治団体。 概要 当初は黒龍会大阪支部長の吉田益三が提唱し、玄洋社系の内田良平の賛同を得て大阪中央公会堂において結成された。その後、1931年(昭和6年)11月20日、玄洋社系の頭山満・内田良平等の黒龍会の主な構成員、日本国民党、津久井龍雄の急進愛国党などが合同し東京の赤坂の「三会堂」において結党式を行った。約1500名が参集した。本部は当時の東京市麹町区永田町に置かれた。1932年(昭和7年)1月には愛国急進党、大衆党長野県連の秦数馬の一派、大日本帝国陸軍大阪労働組合、横浜自治革正党などが解消・入党し勢力を拡大した。 多くの国家主義団体は上部構造偏重であったが、大日本生産党は大衆に密着し、党員2万人を称していた。 しかし、1933年(昭和8年)7月の神兵隊事件において青年部員が多数連座し検挙され...
  • 読売新聞
    読売新聞(新聞の題字及び漢字制限前表記は「讀賣新聞」)(よみうりしんぶん)は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社及び株式会社読売新聞西部本社が発行する新聞である。販売部数は1000万部を超え、世界で最も発行部数が多い(かつては旧ソ連共産党機関紙プラウダ)ギネスブックにはHighest Daily Newspaper Circulationで、朝刊と夕刊をあわせて2002年に14,323,781部を発行したと記されている。。英国Times紙と特約契約を交わした。また、親米保守派新聞として知られている。 歴史 1874年(明治7年)11月2日 合名会社「日就社」から「讀賣新聞」創刊 1917年12月1日 商号を「日就社」から「読売新聞社」に改称。 1924年2月25日 経営難から、前警視庁警務部長、後の衆院議員、正力松太郎が買収。 1925年11月15日 「よみうりラ...
  • 幸徳秋水
    Template Infobox 革命家? 幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、明治4年9月23日(1871年11月5日) - 明治44年(1911年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、アナキスト。本名は幸徳傳次郎(こうとく でんじろう)。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件で処刑された12名の1人。 経歴 高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。なお、妻の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。 明治20年(1887年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。新聞記者をめざし、『自由新聞』などに勤めた。明治31年(1898年)より『万朝報』記者...
  • 時事新報
    時事新報(じじしんぽう)はかつて存在した日刊新聞の名称である。 1882年3月1日、福澤諭吉の手により創刊。福澤の関係する慶應義塾及びその出身者が全面協力した。 概要・歴史 当初の福澤の計画では、政府の伊藤博文や井上馨の要請を受けて政府系新聞を作る予定であった。しかし1881年の明治十四年の政変により大隈重信や大隈派官僚が失脚するとその計画も頓挫してしまった。しかし政府系新聞を作るために記者や印刷機械は既に準備していたため慶應義塾で独自に新聞を発行するいきさつになったのである。 創刊時より「不偏不党」を掲げ、平明で経済を重視する紙面が政党臭の強かった当時の新聞から見れば新鮮に映ったのか、僅か1,500部余りだった発行部数が2年後には5,000部余りまで増加した。「慶應義塾豆百科」のNo.42「『時事新報』の創刊」を参照。 1896年、ロイター通信社と独占契約を締結、1921年パリ...
  • 赤旗事件
    赤旗事件(あかはたじけん)とは、1908年(明治41年)6月22日に発生した社会主義者弾圧事件である。別名「錦輝館事件(きんきかんじけん)」、「錦輝館赤旗事件(きんきかんあかはたじけん)」。 背景 明治期の日本では、極めて過酷な労働環境への反発から労働組合期成会が結成されるなど、社会運動が高まりを見せていた。これに対し、政府側は1900年に治安警察法を制定して運動の規制に乗り出した。1901年5月20日、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、西川光次郎ら6名を発起人として、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成されるが、第4次伊藤内閣は直後にこれを禁止した。1900年にやはり安部らが結成した社会主義協会は、4年後に第1次桂内閣により解散の憂き目に遭っている。 1906年1月7日、桂太郎に替わって西園寺公望が首相に就任、第1次西園寺内閣が発足した。西園寺は社会主義をみだりに弾圧することを避け、...
  • 日本の政党一覧
    日本の政党一覧(にほんのせいとういちらん)では、現在活動している日本の政党と、現在活動していない日本の政党の一覧を示す。 現在活動している政党 国会に議席を有する政党と議席数 政党名 衆議院 参議院 計 自由民主党 (1955-) 305 83 388 民主党 (1996-)  114 109 223 公明党 (1964-1994,1998-) 31 21 52 日本共産党 (1922-) 9 7 16 社会民主党 (1996-) 7 4 11 国民新党 (2005-) 5 4 9 改革クラブ (2008-) 1 4 5 新党大地 (2005-) ※ 1 0 1 沖縄社会大衆党 (1950-) ※ 0 1 1 新党日本 (2005-) 0 1 1 政党所属人数と院内会派の所属数とは一致しない 無所属...
  • 白虹事件
    白虹事件(はっこうじけん)とは、大阪朝日新聞(現朝日新聞)が1918年に起こした筆禍事件。 当時、大阪朝日新聞は大正デモクラシーの先頭にたって言論活動を展開し、特にシベリア出兵や米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく批判していた。1918年8月25日、米騒動問題に関して開かれた関西新聞社通信大会の報道記事の中に「白虹日を貫けり」という一句があったが、これは内乱が起こる兆候を指す故事成語であったため、不穏当だと判断した大阪朝日新聞編集幹部はすぐさま新聞の刷り直しを命じた。しかし、すでに多数の新聞が出回った後だった。後に新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たるとして、当局が大阪朝日新聞の発行禁止に持ち込もうとした。当時、激しい批判にさらされていた寺内政権が弾圧の機会を窺っていたと指摘されている。さらに憤激した右翼団員が大阪朝日新聞社に押しかけ、村山龍平社長を街頭に引きずり出して全裸にしたうえ電柱に縛りつ...
  • 昭和天皇-3
    前半は、昭和天皇、昭和天皇-2参照 短歌 昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだと言われている。公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。宮中行事や歌会始に代表される歌会、行幸やおことばに代表されるパフォーマンスに伴っての作品発表は、いずれも宮内庁の目を経ており、相聞が一首も発表されていない点をとっても、一般の短歌作者とは同列に論じられない部分もある。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。このような作風は「おおらか」とも、「非文学的」ともされてきた。(詳しくは昭和天皇の大御歌を参照) 昭和天皇の歌集 みやまきりしま:天皇歌集 (毎日新聞社編...
  • 在華ソビエト軍事顧問団
    在華ソビエト軍事顧問団(ざいかソビエトぐんじこもんだん)は、中国国民党政権に派遣されたソ連軍人により構成された顧問団である。 中国革命を目指す孫文が、国民革命軍の創設と強化のために、隣国ソ連から招いたのが始まりである。孫文の死後、跡を継いだ蒋介石は、革命軍を率いて北伐を行い、各地の軍閥勢力を撃退した。しかしその途上、1927年中国共産党との対立から、上海クーデターを行い、ソビエト顧問団を追放した。 その後は、ドイツより顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、1933年ナチスが政権を取ると、ドイツは日本との関係を強化した。1938年7月、日中戦争が勃発すると、再びソ連に接近した。同年8月、中ソ不可侵条約を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。 顧問団を含むソ連による中国支援は、1941年日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。 歴代顧問団団長 ヴァシーリー・ブリュヘル...
  • 岩倉具視-2
    前半は岩倉具視参照 官歴 ※日付は明治4年までは旧暦。 天保9年(1838年) 10月28日、従五位下叙位。 12月11日、元服し、昇殿を許される。 天保12年(1841年)6月4日、従五位上昇叙。 弘化2年(1845年)2月18日、正五位下昇叙。 嘉永7年1854年) 3月20日、侍従任官。 6月10日、従四位下昇叙し、侍従元の如し。 万延元年(1860年)12月29日、右近衛権少将に転任。 万延2年(1861年)1月5日、正四位下昇叙し、右近衛権少将元の如し。 文久2年(1862年) 5月15日、左近衛権中将に転任。 8月20日、左近衛権中将辞任し、蟄居。 8月22日、落餝。法名:友山 慶応3年(1867年) 12月9日、明治政府参与兼務。 12月27日、明治政府参与から議定に異動兼務。 慶応4年...
  • 蒋介石
    {{大統領 | 人名=蔣介石 | 各国語表記= | 画像=Chiang Kai-shek Colour.jpg | 画像サイズ=175px | キャプション=蔣介石(1945年5月) | 代数=初 | 職名=総統 | 国名=中華民国 | 就任日=1948年5月20日 | 退任日=1975年4月5日 | 出生日=1887年10月31日 | 生地=Template QIN1890?浙江省奉化県 | 死亡日=1975年4月5日 | 没地=Template Flagicon?中華民国台北市 | 配偶者=宋美齢 | 政党= 中国国民党 | サイン= }} Template Chinese? thumb|220px|[[張学良とともに]] 220px|thumb|[[宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに]] 220px|thumb|カイロ会...
  • ポツダム宣言
    thumb|240px|[[降伏文書に調印する梅津美治郎]] ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、ポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、昭和20年(1945年)7月26日に大日本帝国に対し発した第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結に関する13条から成る勧告の宣言。 宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」(玉音放送の原文では「米英支蘇」)ソ連は8月9日に対日参戦して宣言に参加したともいう。1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを駐スイス大使館経由で連合国側へ申し出、またラジオトウキョウを通じてアナウンス。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇(元首であり大元帥また正式には大日本帝国陸海軍大将)の裁可を受けた政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅...
  • 立憲帝政党
    立憲帝政党(りっけんていせいとう)は、明治時代の政党。結成は1882年。勃興する自由民権運動に対して、政府支持政党として結成された。 1882年3月13日自由党、立憲改進党などの民党に対抗し東京日日新聞社長の福地源一郎(桜痴)、明治日報の丸山作楽、東洋新聞の水野寅次郎によって結成された。4月4日には大阪で機関紙である大東日報を創刊(社長羽田恭輔・主筆原敬)する。 立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などを政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶ら宗教家など体制擁護を意図する保守層の支持を受けたが、組織が弱く、さらに政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌1883年9月24日に解党した。 なお、大東日報は解党以後も独立系の政府派新聞として存続し、1885年5月15日には内外新報と改題するものの、18...
  • 坂本龍馬-2
    前半は坂本龍馬-2参照 文献 原典 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社 各巻タイトル 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p907 - 952 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補改訂版 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p987 - 1032 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p1045 - 1090 1988年12月、岩崎英重...
  • 国民政府
    thumb|250px|国民政府が使用した[[中華民国の国旗。1928年12月17日に、「青天白日滿地紅旗」が中国の正式な国旗として制定された。]] 国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。国家元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政府」の定義にそれぞれ差異がある。 日本:1925年以降に国民党が樹立した政府。中華人民共和国の意向を反映し、1925年から1949年までの間に国民党が中国大陸で樹立した政府とする場合もある。いずれにせよ、1971年に中華民国が国際連合から脱退し、その後日本との国交が断絶してからは、国民政府という呼び方は用いられなくなった。 中国:1925年の広州国民政府樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政府が樹立(憲政の開始)されるまでの間、「訓政時期約法」に...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 国民学校
    国民学校(こくみんがっこう)とは、第二次世界大戦、太平洋戦争の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校のことである。ナチス・ドイツの初等教育に起源をもつ。 国民学校は、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「少国民」の育成がめざされていたともいわれている。 1941年(昭和16年)の国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づいて作られ、6年の初等科と2年の高等科からなり、初等科は、それまでの尋常小学校などを母体とし、高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていた。国民学校令の施行とともに、それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は、すべて国民学校とされた。 国民学校令においては、それまで6年間だった義務教育を8年間に延長する規定が設けられたが、施行が延期され、国民学校令による義務教育期間の延長は行われなかった。 第二...
  • 萬朝報
    萬朝報(よろずちょうほう)は、かつて存在した日本の日刊新聞。紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。 1892年11月1日、都新聞を辞した黒岩涙香の手により、東京で創刊される。発行所名は「朝報社」であり、学術論文にすら見られる「萬朝報社」という誤記は、紙名からくる間違いである。 日本におけるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルについて執拗なまでに追及。「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した。一時淡紅色の用紙を用いたため「赤新聞」とも呼ばれた。また第三面に扇情的な社会記事を取り上げた事で「三面記事」の語を生んだ。 「永世無休」を掲げ、「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」をモットーとし、低価格による販売と黒岩自身による翻案小説の連載(『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情』等々)、家庭欄(百人一首かるたや連珠(五目並べ)を流行らせた)や英...
  • 国民義勇隊
    国民義勇隊(こくみんぎゆうたい)とは大東亜戦争(太平洋戦争)末期に、本土決戦に備えるために国民総動員組織として創設された日本の国民統制組織のことである。終戦に伴い消滅した。 概要 1945年3月に「国民義勇隊組織ニ関スル件」として閣議決定された。6月には大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などを吸収・統合した。 国民義勇隊は地域または職場ごとに編成され、前者は町内会・部落会を単位小隊として集めた市町村国民義勇隊、後者は官公署・工場・会社などを単位小隊とした職域国民義勇隊とされた。さらにその上に前記二つの義勇隊を合体した連合国民義勇隊が作られていた。対象年齢は、国民学校初等科修了から男子65歳以下、女子45歳以下とされたほか、それ以外の者も志願することができた。 本土決戦に向けた国民の組織化が目的で、消火活動や食糧増産、疎開作業などの工事のほか、軍需品の輸送や陣地構築などの...
  • 東久邇宮稔彦王
    Template 日本の内閣総理大臣? 東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の第43代内閣総理大臣(在任 1945年8月17日-1945年10月9日)。元皇族。陸軍軍人。皇族で唯一の、かつ戦後初の内閣総理大臣。階級は陸軍大将。位階は従二位、勲等功級は大勲位功一級。 第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱えたが、GHQの民主化方針についてゆけず、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。 生涯 戦前 久邇宮朝彦親王の九男として1887年(明治20年)に誕生。1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。内親王の降嫁先確保のための特例措置であった。陸軍に入り...
  • 中国国民党
    {{政党 |国名 = Template ROC-TW? |党名 = 中国国民党 |公用語名 = 中國國民黨(Kuomintang of China) |党首職名 = 党首 |党首氏名 = 呉伯雄 |議院代表職名 = 秘書長 |議院代表氏名 = 呉敦義 |成立年月日 = 1919年10月10日 |本部所在地 = 台北市中山区八徳路2號232樓 |議院 = 立法院 |議員数 = 81 |議員定数 = 113 |議員集計年月日 = 2008年1月現在 |党員・党友数 = 1,089,000 |党員・党友数集計年月日 = 2006年 |政治的思想・立場 = 保守、中道右派、泛藍連盟 |ウェブサイト = http //www.kuomintangnews.org/client/jpn/ |サイトタイトル = 中国国民党公式サイト |シンボル = 青天白日...
  • 森戸事件
    森戸事件(もりとじけん)は、大正9年(1920年)に起きた経済学者・森戸辰男の筆禍事件。 東京帝国大学助教授・森戸辰男はこの年、経済学部機関誌『経済学研究』にロシアの無政府主義者クロポトキンに関する「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体から攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸は起訴され、休職処分となる。当時の助教授・大内兵衛も掲載の責任を問われて起訴される。 10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎(初代経済学部長)とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。 同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学...
  • 武漢国民政府
    武漢国民政府(ぶかんこくみんせいふ) 1926年~1927年の間、武漢に存在した国共合作の政権。単に武漢政府とも呼ばれる。本項で説明。 1937年~1938年の間の南京国民政府の別称 。日中戦争時に、南京政府が武漢へと遷都していた時期の呼称。 概要 1926年蒋介石率いる[1]国民革命軍の北伐軍が武漢を占領し、同年12月汪兆銘らの国民党左派が共産党のメンバーと提携、広州国民政府(広東政府)が広州から武漢に遷都して成立した。1927年4月蒋介石ら国民党右派が反共クーデターを起こし(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧、対立した。その後、経済不安や土地革命をめぐる共産党との対立によって、武漢政府も共産党を弾圧して同年7月に反共方針を明確化(国共分離)・分裂し、同年9月南京政府に合流した。 関連項目 汪兆銘 国民政府 広州国民政府 出典 フ...
  • 国民徴用令
    Template 日本の法令? 国民徴用令(こくみんちょうようれい)とは、国家総動員法に基づいて、昭和14年に制定された日本の法令である(勅令第451号)。一部地域では白紙などと呼ばれた。⇒国民徴用令条文 国家総動員法第4条第四条 政府ハ戦時ニ際シ国家総動員上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ帝国臣民ヲ徴用シテ総動員業務ニ従事セシムルコトヲ得但シ兵役法ノ適用ヲ妨ゲズの規定に基く国民の徴用 国家総動員法第6条の規定に基く被徴用者の使用、賃金、給料、その他従業条件に関する命令 の二つについて規定した。 関連 国家総動員法 強制連行 大東亜戦争 太平洋戦争 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月17日 (金) 02 05。     
  • 1918年米騒動
    Template Otheruseslist? 1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、近世から近代にかけての日本における米価格急騰にともなう暴動事件。 背景 米価の暴騰 thumb|300px|[[堂島米会所における当時の米相場]] 第一次世界大戦の直後に暴落した米価は、周りの物価が少しずつ上昇していく中で、約3年半の間ほぼ変わらない値段で推移していたが、1918年の中ごろから急激に上昇しはじめた。大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年の1月に1石15円だった米価は、6月には20円を超え、翌月7月17日には30円を超えるという異常事態になっていた(当時の一般社会人の月収が18円-25円)。7月末から8月初めにかけては各地の取引所で立会い中止が相次ぎ、地方からの米の出回りが減じ、8月7日には白米小売相場は1升50銭に暴騰した。 この背景には資本主義の急速...
  • 閑院宮載仁親王
    Template Infobox 軍人? 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、慶応元年9月22日(1865年11月10日) - 昭和20年(1945年)5月20日)は日本の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王第16王子。元帥陸軍大将大勲位功一級。 経歴 3歳で出家し真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続するが、明治4年(1871年)伏見宮に復籍のうえ、翌年前当主閑院宮第5代愛仁親王の没後、孝仁親王妃吉子が当主格に遇されていた閑院宮家を継承する。 1877年(明治10年)上京し陸軍幼年学校に入学、1878年(明治11年)8月26日に親王宣下、幼名「易宮」を改めて載仁親王と称した。幼年学校の同期には明石元二郎、由比光衛等がいる。1883年(明治16年)幼年学校を卒業するや、フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊...
  • 国民協会 (日本)
    国民協会(こくみんきょうかい)は、日本に存在した政党、政治団体。現在、「国民協会」の名を持つ政党は日本には存在しない(政治団体としては名称変更した国民政治協会が存在する)。 国民協会 (1892-1899) 明治時代に存在した国粋主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院の院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日-1899年7月4日)。 1892年、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基・牧朴真・白井遠平が選出され(後に安場保和が幹事長に就任)、他に中央交渉部の佐々友房、佐藤昌蔵、津田真道、大岡育造、古荘嘉門、曾禰荒助・元田肇などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰...
  • 犬養毅
    Template 日本の内閣総理大臣? 犬養 毅(いぬかい つよし、時に いぬかい つよき 或いは いぬかい こわし、1855年6月4日(安政2年4月20日)- 1932年5月15日〉)は、日本の政治家。第29代内閣総理大臣。立憲政友会第6代総裁。通称は仙次郎。号は木堂。勲一等旭日桐花大綬章。 経歴 備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。一時二松学舎にも通い、最終学歴は慶應義塾退学。 郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。東海経済新報記者をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍する。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18...
  • 更新blog-4
    最近更新したblog一覧 その4 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-5 更新blog-6 # bat99の日記 # 「政治的正しさ」 毒ガス情報センター リソースは有限 自分の周りを思い浮かべてみよう わが名はヤスクニ めでたさも--- ■ グロテスクな想像だとは思うが・・ 冗談が冗談にならない世界 否定論 ■ 今のうちに言っとくこと ふと思ったこと それ、邪魔だから 主客転倒 南京1945年-日僑集中営- そのロジックを認めていいの? タイミングが良いのか悪いのか 気分が悪い 火事、地震 本気なのか 少しずつでも進んではいるのだな 忘れた頃に ホウレンソウ 地震酔い 原子力発電 帰宅 謹賀新年 「敵」を護る まいった 30 item(s) Last-Modified 2015/01/03 12 59 41 #...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 成都事件
    成都事件(せいとじけん)は、1936年(昭和11年)に四川省成都でおきた、日本人4名が殺傷された排日事件である。 概要 1936年(昭和11年)8月24日、四川省成都で、大毎特派員渡辺洸三郎、上海毎日新聞社員深川経二、満鉄上海事務所員田中武夫、漢口邦商瀬戸尚の4名が同地の中国人学生をふくむ暴徒の襲撃を受け、渡辺、深川の2名が殺害され、田中、瀬戸の2名が重傷を負った。 これより先、日本の外務省は満州事変後閉館中の成都総領事館を再開すべく岩井総領事代理を派遣したところ、中国側は日本の既得権益を無視し、開館絶対反対を表明し、民衆運動によってこれを阻止しようと図った。 この結果、8月初旬以来、四川省、殊に成都において「開館反対、岩井代理人川阻止」の学生大会、市民大会などがあいついで開かれ、排日の風潮は高まった。 そのため岩井代理は重慶に足止めされ、成都入りはできなくなった。 岩井代理と...
  • 南北朝正閏論
    南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは日本の南北朝時代において南北のどちらが正統とするかの論争(閏はうるうと同じで「正統ではないが偽物ではない」の意)。 概要 近代以前の南北朝正閏論 近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。論者の主張は大きく南朝正統論、北朝正統論、両統対立論、両統並立論に分けられる。徳川光圀は徳川氏の祖とされた新田氏の正統性を示すため、「大日本史」で南朝を正統であると提示した。また同様に南朝正統論を支持した頼山陽は後小松天皇(北朝)は後亀山天皇(南朝)から禅譲を受けたことによって正統な天皇になったので、後小松天皇以後の天皇の正統性の問題を理由として、北朝の皇位継承を正当化とすべきではないと主張した(但し史実では神器帰還の儀式が行われたのみで禅譲の儀式は行われていない)。一方、当時の公家社会では、公家達のほとんどが北朝方公家の末裔...
  • 新聞紙条例
    Template 日本の法令? 新聞紙条例(しんぶんしじょうれい)は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための条例のこと。 反政府的言論活動を封ずることを目的として制定された。 沿革 明治8年(1875年) 従前の新聞紙発行条目(明治6年10月19日太政官第352号(布))を実質的に改正するかたちで成立した。 明治42年(1909年) 新聞紙法(明治42年5月6日法律第41号)の成立により失効。 概要 自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定した。 新聞紙発行条目を全面改定し、適用範囲を新聞以外の雑誌・雑報にまで広げたものであった。 以下主な内容を示す。 発行を許可制とした。 違反の罰金・懲役を明確に定めた。 社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、違反時の罰則を定めた。 同時発布の讒謗律との関係...
  • 小磯内閣
    {{日本の内閣記事|こいそ ないかく|41|小磯國昭|Template 和暦?|7月22日|Template 和暦?|4月7日|翼賛政治会など。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/41.html|予備役陸軍大将・朝鮮総督|画像= |画像説明=小磯内閣の閣僚。最前列右端が米内海相、その左隣が小磯首相。}}1945年(昭和20年)4月5日に内閣総辞職し、次の鈴木貫太郎内閣成立までの間、職務を執行した。 概要 前の東條内閣は、政策・軍事指導の両面に行き詰まっていたため、重臣たちが倒閣に動き、渋る東條英機首相を説得してようやく降ろすことに成功した。しかし、その後任として適当な人物はなかなか見出せず、結局、朝鮮総督の小磯國昭が大命降下を受け、小磯内閣が組閣された。昭和天皇は、久しく中央政官界から離れており、国内にさしたる政治基盤を...
  • 人間宣言
    人間宣言(にんげんせんげん)は、1946年1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書の通称である。当該詔書の後半部には天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される言及部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。 ポツダム宣言受諾による戦争終結(敗戦)から4か月余、まだ大日本帝国憲法の施行下にあり神聖不可侵の現人神・八紘一宇思想等の影響が残っていた日本にあって、占領統治主体のGHQからの要求による(必ずしも自発的ではなかった)ものながら、天皇が詔(みことのり)においてそれら神格等の否定に明確に言及したことは、当時の国民・社会全般に大きな影響を与え、その詔書の当該部分が、後には詔書全体が「人間宣言」と一般に呼称されるようになった。 この詔書には公用文としての「題名」は付されておらず、題名に準ずる「件名」は「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • ハロルド・J・ティンパーリ
    ハロルド・J・ティンパーリ(Harold John Timperley、中国表記 田伯烈、1898年 - 1954年)は、オーストラリアバンベリー出身のジャーナリスト。 略歴 ハロルド・ジョン・ティンパーリー(Harold John Timperley)は、1898年6月22日、 ウェスタン・オーストラリア、バンベリーで生まれる。幼くしてパースに移った。1914年、18歳のときデイリー・テレグラフ紙のレポーターとなったが、同年、第一次世界大戦に徴兵され、フランスとベルギーに従軍。1919年に帰国後、前職に戻るが、1921年に香港の新聞社に勤務するために中国に渡る。 1924年、北平(1924-1936年)に移りクリスチャン・サイエンス・モニター、APなど様々な新聞の特派員となった。1928年からマンチェスター・ガーディアン紙の特派員となる。1934年からASIA誌の顧問編集者...
  • 東洋自由新聞
    東洋自由新聞(とうよう じゆう しんぶん)は、明治初期に刊行された新聞。 1881年(明治14年)3月18日に東京で創刊。山城屋の稲田政吉を社主とする東洋自由新聞者発行。社は東京銀座通りの活版印刷所績文社に同居。 自由民権運動が興隆した明治14年10月に結党される自由党の準備会において機関紙発行が否決されたため、フランス留学経験のある華族の西園寺公望や仏学塾を経営する中江兆民(篤助)、光妙寺三郎らフランス派知識人と、新潟の山際七司、信州の松沢求策ら地方で活躍した民権派が合流して独自に創刊された。 幹事の松田正久、監督委員に森新三郎。編集委員には主筆の中江のほか、柏田盛文、上条信次、桑野鋭、松沢求策、林正明らを社員に東京で創刊。自由民権と君民共治、フランス流急進自由主義を主張。当初は2000部を印刷し、後に1600部に減じた。 西園寺の社長就任は明治政府や宮中でも物議を呼び、右大臣岩...
  • 大正デモクラシー
    大正デモクラシーとは日本の大正時代に現れた政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動を指す。何をもって「大正デモクラシー」とするかの定義については諸説あり、その定義によって大正デモクラシーと呼称される期間もTemplate 和暦?-Template 和暦?とする説、Template 和暦?-Template 和暦?とする説、Template 和暦?-Template 和暦?とする説など諸説あるが、いずれも大正天皇の在位期間(Template 和暦?-Template 和暦?)を中心とし1918年の第一次世界大戦の終了と富山県で発生した米騒動をデモクラシー運動はじまりの中核として取り上げる点については共通している。 概要 大正デモクラシー運動(あるいは単に大正デモクラシー)は、大正時代に興った日本全体を巻き込む民主主義的あるいは自由主義的な風潮・思潮の総称であり、政治...
  • 済南事件
    済南事件(さいなんじけん)は1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南で、日本の権益確保と日本人居留民保護のため派遣された日本軍(第二次山東出兵)と北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。 事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。 衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は攻撃を開始、5月11日、済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。 当時の状況 当時、中国は南軍と北軍に別れて内戦状態にあり、治安は悪化していたが、済南は主要な商業都市であり、...
  • 国民同盟 (日本)
    国民同盟(こくみんどうめい)とは、昭和初期に存在した親軍部政党(1932年12月22日-1940年7月26日)。 満州事変直後、幣原外交・井上財政への批判を強めた立憲民政党の安達謙蔵内務大臣が推進した協力内閣運動が失敗に終わると、これに憤慨した安達が中野正剛・山道襄一らとともに民政党を離党した上で革新党などと合同して衆議院議員32名により結成した。 軍部と協力して統制経済と満州事変における日本の国際正義の擁護を掲げたが、政権獲得の重視する安達と中野・山道の三幹部の間に意見の齟齬があり、1936年に安達が岡田内閣の内閣審議会委員に任命されると一気に露呈した。その結果、中野は離党して東方会を結成し、山道も民政党に復党した。このため急激に党勢は衰退し、第20回衆議院議員総選挙以後はわずか11名の小政党となり、他の小政党や無所属議員と小規模な院内会派を作って活動するのが精一杯となった。このため...
  • 盧溝橋事件
    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 事件の経緯 7月7日 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) 7月8日 現地の動き 3時25分:...
  • 第二次上海事変
    Template Battlebox? 第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年(昭和12)8月13日から始まる中華民国軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。 盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日中戦争が波及した。1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。 発生の背景 発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を2つ挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。 【見解1】 この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦...
  • リヒャルト・ゾルゲ
    {{Infobox 軍人 |name=リヒャルト・ゾルゲTemplate lang-ru-short? |lived=1895年10月4日 - 1944年11月7日 |placeofbirth=アゼルバイジャン、バクー |placeofdeath=巣鴨拘置所 |image= |caption=リヒャルト・ゾルゲの功績を称えて発行された旧ドイツ民主共和国の切手 |nickname= |allegiance=ソビエト軍 |serviceyears= |rank= |commands= |unit=労農赤軍参謀本部第4局 |battles= |awards=ソ連邦英雄勲章 (死後) |laterwork= |Mausoleum=多磨霊園 }} リヒャルト・ゾルゲ(Template lang-ru-short?、Template lang-de-shor...
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