chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「国王」で検索した結果

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  • 甲申政変
    ...は、日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗のいわば「一本釣り」を計画。外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない高宗もこの近代化政策の実行を快諾した。 金玉均らが計画したクーデター案は、同年12月に開催が予定されていた「郵政局(郵政関連の中央官庁。一部で言われるような「中央郵便局」等ではない)」の開庁祝賀パーティーの際、会場から少し離れたところに放火を行い、その後、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃。朝鮮国王はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。日本は公使館警備用の軍を派遣して朝鮮国王を保護し、その後開化派が新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家をうちたてて、日本の助力のもとに近代国家への道を突き進む、というものだった。この計画のネックとなるのが清の存在だったが、...
  • 枢密院
    ...ng?)は、イギリス国王の諮問機関。→イギリスの節へ。 枢密院(すうみついん)は、日本においてTemplate 和暦?からTemplate 和暦?まで存在した、天皇の諮問機関の一。→枢密院 (日本)を参照。 中国 中国における枢密院は、唐王朝(7世紀初めから10世紀初め)の中頃に生まれた機構で、主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、北宋、金、南宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。 元王朝の枢密院は、行政の中書省、監察の御史台と並ぶ、1262年(中統3年)に設置された軍事を司る最高機関。名目上の長は枢密使であるが、枢密使は常に皇太子が兼職する名誉職とされたため、実務は知枢密院事が担った。 イギリス thumb|right|300px|[[1837年、即位した日に枢密院会議を開催するヴィクトリア女...
  • 興宣大院君
    ...院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように朝鮮王朝末期において多大な影響をもたらしたため、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。 略伝 勢道政治での冷遇 朝鮮王朝の王族の一人 ref name= 出目 英祖の曾孫。第21代国王・英祖の子の荘献世子の三男の恩信君の養子の南延君(生父は仁祖の息子である麟坪大君の6世孫)の四男として生まれたが、安東金氏などの外戚が政治を取り仕切る「勢道政治」のさなかにあって、彼は王族内であまり重用されず、厨院、典医監、司圃署、典設司、造紙署などさほど重要でもない部署の提調を務めるなど不遇な生活を送った。一方では進んで有力政治家と関係を作ったり、一般人との交際を行うなど将来への布石も怠らなかった。1863年、哲宗が嗣子無くして没すると、彼の次男・高宗が後継ぎの国王として即位することとなったため、彼は一躍国王の...
  • 冊封
    冊封(さくほう)とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。  概要 冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。 冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。したがって冊封関係を結んだからといって冊封国がそのまま中国の領土となったと言う意味で...
  • 高宗 (朝鮮王)
    ...号 = 朝鮮国王・大韓帝国皇帝 | 画像 = Korea-Portrait of Emperor Gojong-01.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 『高宗皇帝御眞』(作者未詳、国立故宮博物館蔵) | 在位 = 朝鮮国王:1863年12月12日-1897年10月12日大韓帝国皇帝:1897年10月12日-1907年7月20日 | 戴冠日 = | 別号 = 大韓帝国光武大皇帝大韓帝国太皇帝徳寿宮李太王 | 全名 = 李熈 | 出生日 = 1852年9月8日(旧暦7月25日) | 生地 = 李氏朝鮮、漢城、雲Template lang?宮 | 死亡日 = Template 死亡年月日と没年齢? | 没地 = 朝鮮、京城、徳...
  • 大院君
    ...李氏朝鮮で直系でない国王の実父に与えられる称号であり、3人が存在した。 しかし、生前にこの称号を与えられたのは興宣大院君1人だけであり、李氏朝鮮時代末期において多大な影響をもたらしたため、単に「大院君」というと興宣大院君を指称するのが一般的である。 徳興大院君(1530年 - 1559年) - 14代・宣祖の父 11代・中宗の九男で、名前はチョ(山+召)。1538年に徳興君になる。死後、1567年に三男の河城君が14代・宣祖として即位し、1570年「徳興大院君」に追尊された。夫人は鄭麟趾の曾孫(鄭麟趾の孫・鄭世虎の娘)にあたる河東府大夫人・鄭氏。長男は河原君(1545年 - 1597年)、次男は河陵君(1546年 - 1592年)、三男が宣祖である。墓は京畿道南楊州市別内面德松里にあり(京畿道記念物第55号)、正式にはあくまでも「墓」だが、宣祖の命により王の墓を指す「陵」...
  • 勅令
    勅令(ちょくれい) 国王・皇帝・天皇などの君主が直接発する命令・法令のこと。ナントの勅令など。 日本における法令の一形式。この項目で記述する。 勅令(ちょくれい)とは、日本においては天皇が発した法的効力のある命令を指す。ここでは緊急勅令やいわゆる「ポツダム勅令」についての記述を含む。 概要 大日本帝国憲法第9条に定められていた法形式であり、法律を執行するためまたは公共の安寧秩序を保持しおよび国民の幸福を増進するために天皇が制定していた。憲法上法律事項とされていない事項を対象とする場合は勅令による制定が可能であった。法律事項以外でも、軍に関することは軍令で、皇室に関することは皇室令で定めていたので、これらを除いたものが勅令事項とされていた。制定にあたっては内閣が輔弼(事実上の承認)をしていたので、現在では内閣が発する政令とみなされ、位階令など一部には現在でも効力を有している...
  • 李氏朝鮮-2
    ...。 政治 国王 朝鮮の国王は、全州李氏の出自である初代国王李成桂の子孫(李王家)によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による宰相の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。 Template See also? 官制 官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に別れ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変...
  • 天皇
    ...外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称された。「てんのう」の読みは「てんおう」の連声による明治期の変化。 中世 天皇という呼称は律令(「儀制令」)に規定があり、祭祀においては「天子」、詔書には「天皇」、華夷においては(国内外にむけては)「皇帝」、臣下がすぐそばから呼びかける時には「陛下」、皇太子など後継者に譲位した場合は「太上天皇(だいじょうてんのう)」、外出時には「乗輿」、行幸時には「車駕」という7つの呼び方が定められているがこれらはあくまで書記(表記)に用いられるもので、どう書いてあっても読みは風俗(当時の習慣)に従って「すめみまのみこと」や「すめらみこと」等と称するとある(特に祭祀における「天子」は「すめみまのみこと」と読んだ)。死没は崩御といい、在位中の天皇は今上天皇(きんじょうてんのう)と呼ばれ、崩御の後、追号が定められるまでの間は大行天皇(たいこうてんのう)と...
  • 尊王論
    ...れたが、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏まえて「尊皇」という漢字に置き換えて用いることもあった。 幕藩体制においては、朝廷は幕府の制約を受けていたが、権威的秩序、宗教的な頂点の存在として位置づけられた。幕政改革の混乱や、異国船の来航による対外的緊張など政治的混乱が起こると、幕府は秩序維持のため大政委任論に依存して朝廷権威を政治利用し、朝廷の権威が復興する。 江戸中期に国学がさかんになり、記紀や国史、神道などの研究が行われ、武士や豪農などの知識層へも広まる。また、天皇陵の修復や、藩祖を皇族に結びつける風潮も起こる。幕末には、平田国学や水戸学などナショナリズムとして絶対化され、仏教を排斥する廃仏毀釈としても現れる。幕府が諸外国と条約を結び、鎖国体制を解いて開国を行うと、攘夷論と結合して尊王攘夷(尊攘)となり、幕政批判や討幕運動などへと展開していく素地のひとつとなり...
  • 閔妃
    ...「王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力がつよまって以来ますます激しくなっていた。」からもうかがえる。高宗に関しての記述はMackenzie, Frederick Arthur(1869-1931)執筆のThe tragedy of Koreaを参照.邦訳は渡部学 訳注( 平凡社)の『朝鮮の悲劇』を参照。 。明成皇后は王室に嫁いでから数年もしないうちに王朝の政治に深く介入するようになった。そして、大院君と王太子冊立に絡む対立が深まると1873年大院君追放の指揮を裏で執り行い、高宗の父で摂政を務めていた大院君とその腹心の部下たちを王宮から追い出し、一族を高官に取り立て政治の実権を握った。大院君はその後京畿道楊州に隠居した。しかしながら、この追放謀議に対して明成皇后の存在を国家存続を脅かすものとして大いに憂慮した大院君は...
  • 純宗 (朝鮮王)
    ...氏朝鮮時代の第27代国王もしくは大韓帝国の第2代皇帝で、朝鮮王朝最後の王および大韓帝国最後の皇帝(在位:1907年7月20日 - 1910年8月29日)。併合後は大日本帝国の初代李王。姓を李、名をTemplate lang?(せき)、字を君邦(クンバン、Template lang?)、号を正軒(チョンホン、Template lang?)、諡号を文温武寧敦仁誠敬孝皇帝と言う。在位時の年号をとって隆煕皇帝と呼ぶこともある。 系図 先帝、高宗の長男。母は、明成皇后閔氏。純明孝皇后・閔氏 ref name= 病気 純明皇后は腹が腫れた病気にかかり、女医たちの診断は「ご懐妊」とのことだっが、誤診とわかり、その後名医には、悪霊がすみついたとの判断された。悪霊を取り払うべく城門の戸板をはがして煎じ飲ませたが、その効果は無く他界し、女医達も皇后が他界する直前に逃亡した。と後妻に純貞孝皇后・尹氏...
  • 皇太子
    ...報道では、対象が次期国王であっても「王太子」の語は用いられず、「皇太子」を用いる。ただし歴史上の人物については、慣例に従って「王太子」の語も用いられる。また次期皇(王)位継承者が弟、孫であるなら、「皇(王)太弟」「皇(王)太孫」の名称を用いるべきであるが、実際にはひっくるめて「皇太子」の名称が用いられている。これは「天皇(皇帝)か王の跡継ぎか」「子か孫か弟か」に関係無く、西欧では次期皇(王)位継承者は例えば英語ならCrown Princeと呼ばれ、特に区別しないため、和訳の際もひっくるめて「皇太子」とされるからである。。敬称は「殿下」が用いられる。また、当代に準じた礼遇を受ける。 日本の皇太子 江戸時代以前 皇太子は、東宮、春宮、または、太子と表記され、「とうぐう」「ひつぎのみこ」「はるのみや」などと読まれた。 朝廷では、皇位を継ぐべき皇子や、継承資格を有する皇子に大兄...
  • 征韓論
    ...拒否された。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気おおいにあがっていた。明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後、征韓を建白した。「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01100124300、国立公文書館)9頁に次のように記されている:「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑 覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力涖焉、則不爲我用 也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於 皇國、君辱臣死、實不戴天之冦也、必不可不伐之、不伐之 則 皇威不立也、非臣子也」。 すなわち、 「朝鮮は守るを知りて攻めるを知らず、己を知りて彼を知らず、其の人は深沈・狡獰・固陋・傲頑、 之を覺して覺らず、之を激して激...
  • 尊王攘夷
    ...とから、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏まえて「尊皇」に置き換えて用いることもある。 尊王論 Template main? 尊王論とは、古事記・日本書紀が日本という国家の根拠を示したことに基づいて、日本国の存在の根拠を天皇(神)に依ろう、とする考え方。文化・民族・国の根拠を神に依ろうとする発想は世界共通のもので、王の権威は神から授かったのだという考えに依拠する王権神授説などその流れは多様。神に民族・国の根拠を依拠する思想は、その国・民族が危機に面するほど過激になるのも世界共通。 攘夷論 Template main? 日本では、200年余り続いた江戸の太平の世の中では、外国のどこかへ行って物を取ってこよう、外国のどこかが日本に来て何かを持って行ってしまうかもしれない、という発想・実感はなかった。ところが大航海時代以降世界に進出、支配領域を拡大した欧...
  • 乙未事変
    乙未事変(いつびじへん)とは朝鮮国王王妃であった閔妃が1895年10月8日に暗殺された事件。韓国語ではウルミ、俗に「明成皇后 弑害事件」とも呼ばれる。 概要 親露に傾いていく閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年10月8日、それらの勢力により景福宮にて殺害され、遺体も焼却された。 この事件では朝鮮が親露化によって日本の影響力が低下することを恐れた日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。外交官が王族を殺害することに関与するという行為に、日本は国際的な非難を恐れ三浦を含む容疑者を召還し裁判にかけたが、首謀と殺害に関して ref name= nikkan 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353は証拠不十分で免訴となり、釈放した ref name= shinbun 新聞集成 明治編年史 第九...
  • 一進会
    ...てクーデターが行われ国王の高宗がロシア公使館に移り執務(露館播遷)を行うようになった。日本の後押しを受けていた開化派政権は崩壊し、ロシアの影響力が強まった。1896年7月、開化派の流れを汲む人たちが朝鮮の自主独立、法治主義の確立、新教育の振興、農業の改良、工業の育成、愛国心、君主への忠誠心の培養を訴え李完用らが独立協会を設立した。 1897年以降、ロシアの侵略政策が露骨になると独立協会は反露闘争を展開、国王の高宗に王宮に戻ることを要請した。高宗は王宮に戻り、大韓帝国の独立を宣言した。これによりロシアの勢力は朝鮮から後退した。しかし独立協会の主張は次第に守旧派官僚との対立を招き、最終的に高宗の勅令により独立協会は解散させられた。 ロシアの勢力が朝鮮から後退したことによって再び日本の勢力が増大し韓国の経済的支配を進めた。ロシアと日本は朝鮮や満州の利権を巡り対立を深めた。こうした背景の...
  • 帝国議会
    ...いがあり、「立法権は国王と議会が共に持ち行使する」という近現代の欧州立憲君主国における位置づけとはやや異なる。 また、大日本帝国憲法下では法律事項とされる事項であっても、法律に反しない限りは帝国議会の関与を要せず勅令をもって独立命令を制定でき(「立法」の対象が狭く考えられていたただし、緊急勅令は後日議会の承認を得なければ以後の効力は無効となり、非常大権は帝国憲法下では一度も出されなかった。)、皇室経費は議会の協賛の対象外とされその他天皇大権に関わる予算も政府が同意しない限りにおいては削減・廃除が出来ないとされるなど、政治に関する他の多くの権限が議会の統制を受けず、議会の権限は弱かった。従って、帝国議会の議決は、国家の最高意思ではなく、帝国議会の権限外にあった。 日本国憲法下の国会では、委員会制が採られているが、帝国議会では三読会制が採られていて、本会議中心であった。委員会の種類と...
  • 第一次世界大戦下の日本
    ...以下27人はイギリス国王ジョージ5世から勲章を受けた。特に、1917年後半から開始したアレキサンドリアからマルセイユへ艦船により兵員を輸送する「大輸送作戦」の護衛任務を成功させ、連合国側の西部戦線での劣勢を覆すことに大きく貢献した。 地中海には巡洋艦明石及び樺型駆逐艦計8隻からなる第二特務艦隊を派遣、後に桃型駆逐艦などを増派し合計18隻を派遣した。被害としては駆逐艦「榊」がオーストリア=ハンガリー帝国海軍の潜水艦U27からの攻撃を受け大破、59名が戦死した。「榊」は完全な状態に修理するのに8か月を要した。他の戦闘をあわせて地中海前線においては日本軍将兵計78名が戦死しており、戦後、マルタ島のイギリス海軍墓地の一隅に墓碑が建立されている。 戦勝国 連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、日本も連合国5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東...
  • 甲午農民戦争
    ...公使の追究によって、国王、大院君、李埈鎔が謝罪して認めた。 このように第二次蜂起は、純粋な反乱ではなく日本を放逐せんとする朝鮮政府の思惑も働いている。 脚注 関連項目 日清戦争 李氏朝鮮 開化期文学 独立協会 東学 李容九 東学農民革命参与者名誉回復審議委員会   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 15 05。    
  • 日英関係
    ...太子エドワード(後の国王エドワード8世、退位後にウィンザー公)による史上初の訪日。随行員として陸軍中尉のルイ・マウントバッテンも来日。東京市(当時)世田谷区駒沢で史上初の日英皇太子による日英親善ゴルフ大会開催。 1923年 8月17日 日英同盟が正式に失効。 1930年 ロンドン海軍軍縮会議開催。日本の濱口雄幸内閣は若槻禮次郎元首相を全権とし、イギリス・アメリカと結んだ条約を調印・批准するが、日本海軍の内部対立がやがて統帥権干犯問題へ発展。 1937年 7月7日、盧溝橋事件を発端に、双方ともに宣戦布告なく日中全面衝突(日中戦争)。イギリスはアメリカと共に中立を保ったが、日本による占領地が拡大すると表向きは中立ながら、蒋介石の中国国民党軍(重慶国民政府)を支援(「援蒋ルート」)。日本による米英敵視が顕在化。 1939年 9月1日、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻。9月3日、イギ...
  • 大韓帝国
    ...体制からの離脱 朝鮮国王高宗はロシア公使館に逃れていたが慶雲宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の服属国でなくなった以上、王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。国号を大韓と改め、元号も前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元し、高宗は10月に皇帝に即位した。清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。 近代化と日本の保護国へ 1899年(明治32年)には清と韓清通商条約を結び、独立協会を弾圧して、立法機関である校正所において国家基本法である9ヶ条の「大韓国国制」を制定、近代化を目指す光武改革を推進し土地調査や鉱山開発など殖産興業政策を実施するが、財源不足や諸外国の外圧により利権を奪われるなどして挫折する。 1905年(明治38年)、第二次日韓協...
  • 松方正義
    ...姿の松方。頸飾は英国国王から送られた聖マイケル・聖ジョージ勲章。]] 維新政府では長崎裁判所参議に任じられ、日田県知事に転任する。日田で松方は大量の太政官札の偽札流通を発見して調査の末、福岡藩による藩ぐるみの偽札製造の事実を明らかにしたことで大久保利通の評価を得て、その推挙で民部大丞・租税権領に就任する。 以降は大蔵省官僚として財政畑を歩み、内務卿大久保の下では地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿大隈重信と対立する。松方は大隈が進める外債による政府発行紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。だが、明治14年(1881年)の政変によって大隈が退陣すると、参議兼大蔵卿として復帰する。松方は後に松方財政と呼ばれる政府発行紙幣の整理を中心とする金融政策の実現に取り組み、日本銀行の設立を経て、政府発行紙幣の全廃と...
  • 第一次世界大戦
    ...月18日スウェーデン国王グスタフ5世は、デンマーク、ノルウェーの両国王を招いて三国国王会議を開き北欧諸国の中立維持を発表した。これらの国はどちらの陣営に対しても強い利害関係が存在しなかった。スウェーデンにおいては親ドイツの雰囲気を持っていたが、これも伝統的政策に則って中立を宣言した。ただしロシア革命後のフィンランド内戦において、スウェーデン政府はフィンランドへの義勇軍派遣を黙認している。 アメリカ合衆国は当時モンロー主義を掲げ、交戦国との同盟関係は無かった。さらに開戦時にアメリカは中米諸国においてメキシコ革命に介入するなど軍事活動を行っていたため、当初は中立を宣言していた。政府のみならず、国民の間にも孤立主義を奉じる空気が大きかった。大戦中には両陣営の仲介役として大戦終結のための外交も行なっていた。しかし後にルシタニア号事件やドイツの無差別潜水艦作戦再開、ツィンメルマン電報事件を受...
  • 天皇-2
    ...、朝貢の見返りに、中国王朝から「倭国王」に封じられており、対外的にはこの称号を名乗っていたと推定される。国内向けの王号としては、熊本県と埼玉県の古墳から出土した鉄剣・鉄刀銘文に「治天下獲加多支鹵大王」「獲加多支鹵大王」とあり(通説では獲加多支鹵大王はワカタケルで雄略天皇の和風諡号とする)、「治天下大王」または「大王」が用いられていたことが判る。 『宋書』には、次のような倭王・武の上表文「自昔祖禰躬環甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫 而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已 毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不 臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷 至今欲練甲治兵申父兄之志 義士虎賁文武效功白刃交前亦所不...
  • 辻政信
    ...によると、当時のタイ国王ラーマ8世の怪死事件に関与していたとされている。この脱出は蒋介石の特務機関である軍統(国民政府軍事委員会調査統計局)のボス、載笠の家族を過去に助けた経緯から成功したものという。1948年に上海経由で帰国して潜伏、戦犯時効後の1950年に逃走中の記録「潜行三千里」を発表して同年度のベストセラーとなる(同時に「十五対一」もベストテン入りしている)。 戦後 旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋湛山派に所属。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選、院内会派無所属クラブに属した。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替え...
  • 壬午事変
    ...1881年5月、朝鮮国王高宗の后閔妃の一族が実権を握っていた朝鮮政府は、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の筆頭となり日本と同じく近代的な軍隊を目指した。近代化に対しては一日の長がある日本から、軍事顧問(菊地節蔵陸軍歩兵中尉、堀本禮造陸軍工兵少尉及び美代清濯陸軍工兵少尉)を招きその指導の下に旧軍とは別に、新式の編成で新式の装備を有する「別技軍」を組織し、日本式の訓練を行ったり日本に留学させたりと、努力を続けていた。 開化派は軍の近代化を目指していたため、当然武器や用具等も新式が支給され、隊員も両班の子弟が中心だったことから、守旧派と待遇が違うのは当然だったが、守旧派の軍隊は開化派の軍隊との待遇が違うことに不満があった。 以下の説明は、『 新版韓国の歴史 - 国定韓国高等学校歴史教科書』(世界の教科書シリーズ 1)明石書店2000年による説明と合致したものである。 それに...
  • 大日本帝国
    ...琉球藩を設置して琉球国王を藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。 千島:1875年千島樺太交換条約(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。 小笠原:1876年、官吏を派遣し実効統治する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。 このほか以下の島々を内地に編入した。 北大東島・南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。 硫黄島・北硫黄島・南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。 南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。 魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28...
  • 皇后
    ...ことになる。「王」(国王・郡王など)は、皇帝の下で一地域・一民族の君主であるにとどまる存在であった。 漢字文化圏以外の国家であっても、一地域・一民族の君主であるにとどまる王の上位に位置し、複数の地域・民族を支配する君主が存在する場合、このような君主を、日本語で「皇帝」と訳す慣習がある。これにともなって「皇帝」と訳される称号を持つ君主の妻の称号も「皇后」と訳される。 皇帝の訳語 ローマ帝国の君主の称号のひとつである Imperator は、通常「皇帝」と訳され、また Caesar という家名も君主の称号となって、東西ローマ帝国の歴史を継承する社会(神聖ローマ帝国・ドイツ帝国・オーストリア帝国のカイザー、ロシア帝国のツァーリなど)の統治者・君主の称号として使われ、これも「皇帝」と訳される。サーサーン朝ペルシアやパフラヴィー朝イランの「諸王の王(シャーハンシャー)」、オスマン帝国...
  • 日英同盟
    ...艦の士官は、イギリス国王ジョージ5世から叙勲されている。 ところが、それからまた1か月後の6月11日、駆逐艦榊はオーストリア海軍のUボートの攻撃を受け、魚雷が火薬庫に当たったため後ろ3分の1の機関室を残して一瞬のうちに爆発し、吹き飛んでしまった。この攻撃により、艦長以下59名が死亡した。 第二特務艦隊は、駆逐艦榊の59名を含み78名の戦没者を出した。これら戦没者の慰霊碑が、マルタの当時のイギリス海軍墓地に榊遭難から1年後に建立された。慰霊碑はイギリス海軍墓地の奥の一番良い場所を提供され、当時、日本海軍の活躍をいかにイギリス海軍が感謝していたかがわかる。 慰霊碑は、第二次世界大戦時のドイツ軍によるマルタ包囲作戦で爆撃を受け、上4分の1が欠けてしまった。長らくその状態で荒れていたが、1974年新しく慰霊碑を作り直して復元した。 日英同盟とヴェルサイユ条約 Template...
  • 徴兵制度
    ...の軍制だった。これは国王など貴族社会を中心とした制度で、国王が地方の領主・貴族の地位を保証する見返りとして軍事力を国王に提供する、あるいは財力によって軍事力を購入するという形式である。これとは別に自由民に兵役義務が課され、戦時に動員されることもあった。傭兵主力の軍隊は戦闘意欲に欠け、戦争を長引かせる原因となった。 中世の日本においても戦力の中心は武士とその郎党であった。また僧兵も無視できない戦力を誇った。日本においては傭兵は目立つ存在ではないが、それに類する雇われ戦力(例えば海賊の類)は存在した。戦国期に入り戦乱が多発するようになると特に農民が足軽として参戦するようになった。織田信長はこの状況を打破し、常備軍を自軍の編成の主とする事で勢力拡大に成功した。豊臣秀吉の刀狩り令により武士と非戦闘民は明確に区別される事となり江戸時代の終わりまで続いた。 近世 近世には、三十年戦争当...
  • 華族
    ...当とされた。 琉球国王であった尚氏も侯爵とされている。 また「国家に勲功ある者」として、木戸家(木戸孝允の功)、大久保家(大久保利通の功)が侯爵とされた。さらに大臣家であった中山家は「勲功により特に」侯爵が授けられた。これは中山忠能が明治天皇の外祖父であったことが考慮されたと見られている。 伯爵 公家からは大納言の宣任の例が多い中納言を一旦辞任することなく、大納言に任ぜられることを「直任」といい、一時中納言を辞職してから大納言に任ぜられるより格上とされた。「宣任の例が多い」は、一度でも直任の例があることを指す。(浅見政男『華族誕生』)堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当とされた。 公家のうち東久世家は東久世通禧の功が考慮され、伯爵とされた。また、武家のうち対馬藩主宗氏は朝鮮外交の担当者であることが考慮され、平戸藩主松浦家は本来は算入されない分...
  • 日本史の出来事一覧
    ...生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条を制定。 607年 小野妹子を隋に遣わす。遣隋使の初め。 607年 法隆寺の創建。 630年 犬上御田鍬を唐に遣わす。遣唐使の初め。 645年(大化元年) 中大兄皇子と中臣鎌足によって、蘇我氏宗...
  • ニコライ2世
    ...いる。また、イギリス国王ジョージ5世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とは従兄弟同士である。 1881年に革命家によって暗殺された祖父アレクサンドル2世の死に立ち会っている。父アレクサンドル3世につづき、宗務院長にして法律家、また専制護持のイデオローグでもあったコンスタンチン・ポベドノスツェフの教育に多大な影響を受けた。 ポベドノスツェフは、民主主義とは「下品な民衆の手に負えない独裁政治」であるとみなし、議会とは多数による専制にすぎず、野心のある政治家にかき回されるだけだと説いた人物である。皇太子時代のニコライは、このような保守的な教育のほか入念な軍人教育も受けており、好みも関心も、当時の普通の青年将校とほとんど変わらず、また、公的な宴会よりも軍隊のなかにいることを生涯好んだ。 皇太子時代の1890年から1891年にかけて、地中海、スエズ運河、インド、シンガポール、オランダ領東インド...
  • 仮20
    ...生時代 57年 倭国王、後漢に遣使。 107年 倭国王、後漢に遣使。 倭国大乱 239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使。 古墳時代・飛鳥時代 350年頃 ヤマト王権の統一。 369年 任那の成立。 413年以後 しばしば中国に遣使(倭の五王)。 527年 筑紫国国造、磐井の乱。 538年(一説に552年) 百済の聖王、仏像及び経綸を献ず(儒教伝来、仏教公伝)。 562年 任那の日本府が新羅に滅ぼされる。 渡来人(帰化人)の来航。 593年 四天王寺造立。 593年 - 622年 聖徳太子の摂政。 603年 冠位十二階を制定。 604年 憲法十七条を制定。 607年 小野妹子を隋に遣わす。遣隋使の初め。 607年 法隆寺の創建。 630年 犬上御田鍬を唐に遣わす。遣唐使の初め。 645年(大化元年) 中大兄皇子と中臣鎌足によって、蘇我氏が...
  • 日朝修好条規
    ...なわち批准の際、朝鮮国王の署名を要しないことを日本側に求めたのである。結局、この問題は「朝鮮国主上之宝」という玉璽を新鋳して押下批准することになった。そしてついに2月27日(朝鮮旧暦2月3日)に、江華府練武堂で条約を締結及び批准したのである。 条約の主な内容 Template Wikisource? 修好条規は12款で構成され、条文は漢文と日本語で書かれた。また両国の外交文書は日本語と朝鮮真文(漢文)で書くこととし、日本側の文書には、先10年間は日本語に漢文を併記する事とした。両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした。 第一款 朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。 この条文は、朝鮮が清朝の藩属国であること考慮して特に日本が挿入した一文である。冊封体制の下での「属国」・「属邦」とは、近代あるいは現代の国際法におけるそれ...
  • 昭和天皇
    ...として大歓迎を受け、国王ジョージ5世やロイド・ジョージ首相らと会見した。ジョージ5世はバッキンガム宮殿での最初の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたという。イタリアでは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世らと会見した他、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇はこの外遊が非常に印象的であったと述べている。 1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに立ち寄っており、実質的にアメリカも訪問している。当初の訪問地であるデンマークやベルギー、フランスなどでは暖かく歓迎された。フランスでは旧知であるエドワード8世と再会、しばし歓談している。しかし当時両...
  • 明治維新
    ...」と称される。旧琉球国王の尚氏も旧藩主と同様、華族となった)。(→沖縄県の歴史) 諸制度の改革 廃藩置県と太政官制の改革を経て中央集権体制が整ったことで、ようやく旧幕府時代の制度を改革する準備が整った。ほぼ同時に宮中の改革も行われ、旧来の宮中職や女官は廃され、士族を中心とした侍従らが明治天皇を武断的な改革君主にふさわしい天皇に養育することとなった。幕末期には病弱であった明治天皇も、士族による養育のためか健康も回復し、西洋的立憲君主としての心得も学び、「明治国家」の元首としてふさわしい存在になっていく。特に憲法制定過程における枢密院審議においては、そのすべてに臨御し、また国会開設前後の立憲政治未成熟期に首相が頻繁に辞任・交代した際も、政局の調停者として重要な役割を担った。 身分制度については、江戸幕府下の「士農工商」の別を廃止し、旧武士階級を士族、それ以外を平民とし、「四民平...
  • 東郷平八郎
    ...旗は1911年、英国国王ジョージ5世の戴冠式に明治天皇の名代、東伏見宮依仁親王に随行して出席した際、かつての留学先だった海員練習船「ウースター」校に寄贈されていた。日本側にこうした経緯を記した記録がなかったため、長らく所在不明となっていたが、2004年東郷神社の松橋暉男宮司が著書の執筆にあたり調査したところ、ウースター校の財産を引き継いでいる財団マリン・ソサエティーが、同時に寄贈された銀杯や東郷元帥の胸像とともに所蔵していることがわかった。神社側が来年の大祭の際に貸してもらうよう申し入れたところ、無償で永久貸与されることになった。 系譜 東郷氏 桓武平氏渋谷氏流 吉左衛門実友━┳実猗        ┣祐之進(夭折)         ┣小倉壮九郎        ┣平八郎━━━━┳彪━━┳一雄―=┳良夫━━┳良久━━┳龍太        ┗四郎左衛門実武┣實  ...
  • 頭山満
    ...想わしむ」との賀詞を国王に送った。頭山はこのような独立支援の対象をフィリピン、ベトナム、エチオピアなどにも拡大していった。 孫文から蒋介石へ 大正13年(1924年)11月、孫文は最後の日本訪問を行い、神戸で頭山と会見した。日本軍の中国東北部への侵攻により日中関係が憂慮すべき事態となっているのを受けての会談であったが、孫文が撤退への働きかけを申し入れたのに対し、日本の拡大がアジアの安定につながると真摯に考えていた頭山はこれを断った。会見の翌日、孫文は「大亜細亜問題」と題する講演を行い、その4ヵ月後に病没した。 翌年、孫文の後継者として蒋介石が国民軍総司令官に就任したが、その2年後には下野して頭山を頼って来日し、孫文と同様に頭山邸の隣家で起居する。後に蒋介石は、頭山らに激励を受けて帰国し、孫文の宿願であった北伐を成功させる。昭和4年(1929年)、南京の中山稜で行わ...
  • 天皇制
    ...者たる上皇が実質的な国王(治天の君)として君臨し、政務に当たる院政が始まった。藤原氏(摂関家)の地位は相対的に低下した。天皇位にある間は制約が多かったものの、譲位して上皇となると自由な立場になり君主としての実権を得た。院政を支えたのは中級貴族層であった。 中世 鎌倉に武家政権が成立すると、天皇・上皇を中心とした朝廷と将軍を中心とした幕府とによる二重政権の様相を呈した。承久の乱では幕府側が勝利を収めた。だが、天皇側の勢力もまだ強く、鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇が天皇親政を復活させた。建武の新政参照。 室町幕府が成立すると南朝・北朝に分裂した。その後続いた長い戦乱の中、天皇の権威は衰えながらも主に文化・伝統の継承者として存続していった。 Template 節stub? 近世 織田信長、豊臣秀吉も天皇の存在や権威を否定せず、政治に利用することによって自らの権威を高めて...
  • 日清戦争
    ...、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反対し、交渉が進まなかった。 こうした状況下の1873年、明治政府はその打開策として朝鮮への派兵を計画し、まずは西郷隆盛を中心とする使節を派遣するという征韓論を閣議決定した。しかし、帰国した岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通らがそれに反対し、決定が取り消された。これを明治六年政変(征韓論政変)という。 しかし征韓論に反対した大久保らも、朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではなかった。 江華島事件 大久保らが実権を握っていた日本は1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮を開国させた。朝鮮は当時清の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属...
  • 明治
    ...の点は現在のイギリス国王も同じといえる。また、帝国議会は選挙で選ばれる国会議員から成る衆議院と華族から成る貴族院の二院で構成された。第二に、行政権であるが、後の日本国憲法と異なり連帯責任ではなく、第五五条で各国務大臣は天皇を輔弼し、個別に責任を負うものであった。第三に司法権であるが、第五七条で天皇の名において法律により裁判所が司法権を行うものであった。 同憲法の問題は、主なものに以下の二つが挙げられる。第一は、第一一条に規定されている天皇は陸海軍を統帥するという規定であった。内閣や帝国議会は軍部に対し直接関与できなかった(これが、後の統帥権干犯問題を引き起こすこととなる)。第二は、第二一条で規定された法律の範囲内において自由であるという臣民の権利であった(後に治安維持法などで権利の制限を行うようになる)。 また、黒田清隆首相は「政党の動向に左右されず、超然として公正な施策を行おう...
  • 八甲田雪中行軍遭難事件
    ...ー王国のホーコン7世国王が、Template 和暦?、お見舞いとして明治天皇宛にスキー二台を進呈した。 関連項目 八甲田山(遭難地) 八甲田山死の彷徨(小説) 八甲田山(映画) 八甲田山(テレビドラマ) 参考文献 新田次郎『八甲田山死の彷徨』(新潮社文庫、1978) ISBN 4-10-112214-8 陸上自衛隊第5普通科連隊『陸奥の吹雪』(陸上自衛隊第9師団、非売品 青森県立図書館蔵) 小笠原孤酒『吹雪の惨劇』上、下(銅像茶屋、私家本、1970) 百足登『青森聯隊遭難 雪中行軍』(明治35年有千閣書店刊復刻版、銅像茶屋にて入手可能) 三上悦雄『八甲田 死の雪中行軍 真実を追う』(河北新報出版センター、2004年) ISBN 4-87341-185-8 松木明知『八甲田山雪中行軍事件の謎は解明されたか』(津軽書房、2007年) I...
  • 第一次世界大戦-2
    ...破した。セルビア軍と国王はアルバニアとギリシアへの逃亡を余儀なくされた。 セルビア軍の敗北の末、英仏軍はテッサロニキへ上陸してセルビア軍を支援するとともに、ギリシア政府に対して連合国側に立って参戦するよう圧力を掛けた。特にフランス軍はギリシャの中立を無視し、ギリシャのコールフ島を占拠して、新たに戦線を開げた。これはテッサロニキ戦線と呼ばれていた。1915年から1918年にかけて、イギリス、フランスおよびロシアとセルビアの残軍はこのところでブルガリアと対峙していた。1917年4月~6月、イギリス軍はブルガリアに対する攻撃に失敗したものの、ギリシャが協商国側で参戦し、協商国側は有利になった。 1918年、連合軍の総攻撃に伴い、兵力が足りないドイツ軍は連合軍に降伏した。既に戦争遂行能力に問題のあったブルガリアでは国内で反乱が起き、民衆の間で戦争をやめる掛け声が高まりつつあった。停戦が宣...
  • 大津事件
    ...日していたギリシャ王国王子・ゲオルギオス(ゲオルギオス1世の三男)、威仁親王の順番で人力車に乗り大津市街を通過中、警備を担当していた滋賀県警巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかり、ニコライを負傷させた。ニコライは人力車から飛び降りて脇の路地へ逃げ込んだが、津田はニコライを追いかけなおも斬りかかろうとした。しかしゲオルギオスに竹の杖で背中を打たれ、ニコライに随伴していた人力車夫の向畑治三郎に両足を引き倒され、同じくゲオルギオス付き車夫の北賀市市太郎に自身の落としたサーベルで首を斬りつけられた後、警備中の巡査に取り押さえられた。ニコライは右側頭部に9cm近くの傷を負ったが、命に別状はなかった。威仁親王は現場に居合わせたものの野次馬に阻まれ、ニコライに近づく事が出来たのは津田が取り押さえられた後だった。 留学経験によって国際関係に精通していた威仁親王は、この事件を自分...
  • 毎日新聞
    ...を受けたが、ヨルダン国王の特赦によって釈放され、帰国の後、懲戒解雇された。 2004年1月31日には、系列ホテル「国際観光ホテルナゴヤキャッスル」のコーヒー豆納入を巡り、当時の毎日新聞社長が自宅付近で拉致される事件が発生した。しかし、毎日新聞社はこの事実を一ヶ月間隠蔽し、警視庁が犯人の起訴を発表する僅か10分前になってから事件を発表した。この一連の隠蔽行動に、日頃、企業に対して厳しく説明責任を追及してきたはずのマスコミ自身が、企業としての説明責任を果たしていないのではないか、との指摘がなされた。 2006年6月、大阪府箕面市で48年間に渡って営業してきた毎日新聞販売店の経営者が、長いあいだ新聞販売店の購読者数をはるかに上回る新聞買い取りを強制され、配達されないまま古紙業者に回収される「押し紙」で食い物にされ詐欺被害を受けたとし、毎日新聞社に対して6,280万2,913円の...
  • 昭和天皇-2
    ...1984年のブルネイ国王ハサナル・ボルキア一家の来日においては、挨拶の際に王女たち一人ひとりに対してまで、彼女たちの趣味などを話題にしながら会話を交わしたという。こうした真摯な態度が、多くの人々を魅了した一因でもあろう。 猫背、猫舌で、蕎麦と鰻茶漬が好物であった。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、鴨のすき焼きも好んだと伝わる。このほか、食に関する逸話は非常に多い。 朝食にハムエッグを食べることを好んだという。 戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローにトースト二枚の朝食を晩年まで定番とした。 晩年には体調が悪化したため好物の肉料理が食事に出なくなったことを残念がっていた。 魚が好きであり、臣下との会話で魚の話題が出ると喜んだと...
  • 李氏朝鮮
    ...る。明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。 日清戦争で日本が勝利したことにより、日本と清国との間で結ばれた下関条約は朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と独立をもたらした。これにより朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく、通称・韓国)、君主の号を皇帝と改めた。しかし、これ以後日本の強い影響下に置かれることとなり、韓国の主権は次第に日本に接収されてゆく。そして1910年8月の日韓併合条約調印によって日本に併合され、ここに李氏朝鮮は消滅した。 国名 Template 朝鮮の歴史? 正式の国号は朝鮮國(ちょうせんこく)。 高麗王位を簒奪して高麗王と称した太祖李成桂は、即位するとすぐに権知高麗国事と称して明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。 明より、王朝交代に伴う国号変更の要請をうけた李成桂は、重臣達と...

  • ...こととなった清は、中国王朝の中でも特有の制度を築いた。藩部と呼ばれた内外モンゴル・東トルキスタン・チベットでは土着の支配者が取り立てられて間接統治がひかれ、理藩院に管轄された。満洲族は八旗に編成され、軍事力を担った。重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。 中国が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。一方で満洲族の髪型である辮髪を漢族にも強制し、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を弾圧し、凌遅刑と呼ばれる凄惨な処刑を清が滅亡する20世紀初頭まで行い、その刑で処刑された人肉は一般家庭などで薬として食されていた。(この凌遅刑を撮影した写真が現存している)。 しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治...
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