chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「壬午」で検索した結果

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  • 壬午事変
    壬午事変(じんごじへん)とは、1882年7月23日に、大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。 壬午軍乱(じんごぐんらん)、朝鮮国事変(ちょうせんこくじへん)、あるいは単に朝鮮事変(ちょうせんじへん)とも呼ぶ。以下に示す理由から大院君の乱と言うものもある。『近世朝鮮史』(著 林泰輔著) 事件の発端 江華島事件以来、当時の朝鮮は、朝鮮は清朝の冊封国(または属邦 ref name= sino-1 冊封-朝貢体制における「属国」と近代国際法における「属国」とは性格を異にする。しかし相次ぐ朝貢国の喪失にあわてた清朝は、最後の朝貢国朝鮮を近代国際法下における「属国」へと位置づけ直そうとしはじめる。欧米や日本が清朝の属国とは認めない旨、通達...
  • 済物浦条約
    ...」、仁川の旧称。 壬午軍乱(壬午事変)での日本公使館焼き討ち事件の事後処理の為に結ばれた。 主な内容は、公使館襲撃事件の犯人の逮捕と処刑、日本側被害者の遺族、負傷者への見舞金5万円、損害賠償50万円、公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権、兵営設置費・修理費の朝鮮側負担、謝罪使の派遣等である。 また同時に日朝修好条規続約(追加条項)として、居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴を認めさせた。 当初は巨済島または鬱陵島の割譲を要求していたが、軍艦4隻と寺内正毅大隊長が率いる兵1500人が到着する6日前に、既に清国が反乱を鎮圧し、主導権を握っていたことと、アメリカが軍艦を派遣し威圧をかけてきた事から交渉担当の花房義質李氏朝鮮公使は方針を変更させ、馬建忠(在朝清軍の隊長李鴻章の外交秘書)の仲介を経て上記の内容に落ち着いた。軍隊駐留権を認めさせたことは、暴動の再発防止の他に、...
  • 興宣大院君
    ...実権を奪い返すため、壬午事変など何度も政権転覆を図ったが失敗。1895年、日本の三浦梧楼と手を結んで閔氏を殺害したものの(乙未事変)、二度と政治の舞台に復帰することなく1898年、79歳で死去した。 大院君と閔氏の対立は、日本の朝鮮進出や朝鮮王朝末期の政治的混乱を招き、それはやがて朝鮮王朝そのものの滅亡、その後の日本統治時代をもたらす結果となった。 略歴と年表 興宣大院君と関連の深い年表を示す。 1805年 - 安東金氏による権勢政治 ( → 1863年まで) 1820年 - 英祖の曾孫として出生 1852年7月25日 - 驪興府大夫人閔氏との間に次男命福誕生(後の高宗) 1862年 - 壬戌民乱(慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱) 1863年 12月8日 - 哲宗が後嗣なく崩御 12月13日 - 先々代王憲宗の母で孝明世子嬪 神貞王后趙大王...
  • 甲申政変
    ... 当時の李氏朝鮮は、壬午軍乱(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。 このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、福澤諭吉や大隈重信をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。 開化派の狙いは、日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗のいわば「一本釣り」を計画。外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない高宗もこの近代化政策の実行を快諾した。 金玉均らが計画したク...
  • アジア主義
    ...立された。琉球処分や壬午軍乱などで日清関係が悪化していくなかで両国の提携論を標榜し、最初のアジア主義団体とされている。日清提携のための中国語での機関誌発行や語学教育に力を入れた。のち亜細亜協会と改称し、東亜同文会が設立されるとこれに合流した。 樽井藤吉 1885年、「大東合邦論」を執筆し、日本と朝鮮の対等合併による「大東国」建国を主張した。大阪事件に連座して下獄したため原稿(日本文)を散逸し、日清戦争直前の1893年に漢文で出版した。 玄洋社 頭山満が主宰。福岡県を拠点にし、中国の孫文や、朝鮮の金玉均を援助した。日露戦争時には、馬賊を編成し、ロシア軍の後方を撹乱した。 ただ、在野の立場を貫き、日本政府の大東亜共栄圏構想に与しなかったため、迫害される立場になった。が、広田弘毅は、正規のメンバーだったと言われる。 黒龍会 内田良平が主宰。朝鮮での甲午農民戦争時...
  • 朝鮮貴族
    ...確保しようと願うが、壬午軍乱により一時期亡命を余儀なくされる。 李根澔  金嘉鎮 受爵後に爵位を返上する。 鄭洛鎔  閔種默  李載克 1919年に李王職長官となる。 李允用 李完用伯爵(朝鮮貴族)の兄。 李正魯  金永哲  李容元  金宗漢  趙鼎九  金鶴鎮  朴容大  金思轍  金炳翊  李胄栄  鄭漢朝  閔炯植  洪淳馨  兪吉濬  閔泳達  趙慶鎬  脚注 Template reflist? 関連項目 王公族 華族 爵位 朝鮮軍人 外部リンク Template Wikisource? 朝鮮王族...
  • 日清戦争
    ...化してきた。 壬午事変 1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになった。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗した。 1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられた。 長崎事件 1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなった。この事件によって日本国民の対清...
  • 甲午農民戦争
    ...鮮の改革を巡っては、壬午軍乱や甲申事変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にした閔氏は、自らの手で改革を行うにはあまりにも無能であった。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そんな中、1894年春に全羅道古阜郡で起きた民乱が、甲午農民戦争に発展した。 全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱となんら変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。 全琫準は下層の役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような非両班知識人が、形成されていた。この全琫準が発した呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼び...
  • 袁世凱
    ...その後任地で発生した壬午の変(壬午軍乱)・甲申の変(甲申政変)では閔妃の要請のもと巧みな駆け引きで鎮圧に貢献し、情勢を清朝有利に導いた。そして事実上の朝鮮公使として李鴻章の監督の下、朝鮮の内政にも干渉できるほどの大きな権限を持った。 袁は朝鮮に政治的・経済的ともに清朝の勢力を扶植して対抗する日本勢力を排除しようと考え、特に経済的には一定の成果を挙げている。ところが1894年、貧しさと圧政にあえぐ朝鮮の民衆が甲午農民戦争(東学党の乱)を起こした。失地回復を図る日本はここぞとばかり軍隊を派遣、袁も負けじと本国に出兵を要請し、ここに日清戦争が勃発した。 しかし日清戦争は清朝の大敗に終わり、敗北の中で袁は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。当時の清朝の軍隊は、軍備の資金は与えられても上官による横領が頻発し満足な装備を持たなかったり、装備は充実していても兵隊の規律がなっていなかっ...
  • 高宗 (朝鮮王)
    ...力の追放をもくろんだ壬午軍乱が発生する。壬午軍乱によって一時的に大院君は復権するが、殺されたと思われていた閔妃は清の袁世凱に介入を要請。清軍が出撃しこれらの勢力を排除する。大院君は清国へ連れ去られ、清国は朝鮮の治安維持の目的で、3000の兵を朝鮮国内に駐屯させた。一方、この軍乱により日本大使館を襲撃され、多くの日本人が殺害された日本も軍艦を朝鮮半島へ向かわせ、賠償を要求。済物浦条約により賠償金の支払いと邦人保護のための軍隊駐留を認めさせる。この事件により、清と日本の軍隊が朝鮮国内に駐留することになり、朝鮮の軍事権は深刻なダメージを受けた。 清への事大 一方閔妃は、この事件により清に事大していくことになり、開化派の反発を受ける様になる。1884年、開化派金玉均を中心とした勢力は甲申政変を起こして閔氏一族を排し、一時政権を握ったものの、駐留清軍により駆逐され失敗に終わる。 高宗...
  • 大韓帝国
    ...2年(明治15年)、壬午事変が起こり、日本と清の双方はこれを鎮圧することを理由として出兵、日本と清の対立は決定的となった。こうして、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し、1895年(明治28年)に日本が清に勝利、下関条約を締結した。この条約により、日本は清に朝鮮が自主独立国であることを認めさせた。朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等を廃止させた。これは、当時の朝鮮半島が明治日本及び清朝が共に自らの勢力圏におさめようと画策する日清両国の角逐の場であったため、この戦争の勝利により半島における清朝の影響を排して日本の権益伸張を確立するためであった。 冊封体制からの離脱 朝鮮国王高宗はロシア公使館に逃れていたが慶雲宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の服属国でなくなった以上、王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。国号を大韓と改め、...
  • 明治
    ...plate 和暦?の壬午軍乱、Template 和暦?の甲申事変を契機に朝鮮を巡り、清と対立し、甲午農民戦争を契機に、Template 和暦?に日清戦争が勃発した。当時の国力では財力、軍艦、装備、兵数すべてにおいて清の方が優位であったが士気と訓練度で勝った日本は勝利し、下関条約によって以下の内容を清に認めさせた。 朝鮮の独立の承認 領土として遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲 賠償金2億両(テール:3億1千万円)を獲得 重慶・長沙・蘇州・杭州の4港開港 下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えた(李氏朝鮮はTemplate 和暦?大韓帝国として独立した)。しかし、遼東半島は露仏独の三国干渉により返還させられた(代償として3000万両を獲得)結果、国民に屈辱感を与え、報復心が煽られた(臥薪嘗胆)。 結果としてこの...
  • 閔妃
    ...后暗殺をもくろんだ(壬午軍乱)。 その際、多くの明成皇后派要人や日本人が殺され、日本大使館が焼き討ちにされたが、事件を察知した明成皇后は侍女を自らの身替りとしていち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱した。この軍乱を指揮したとして、大院君は清に連行され天津に幽閉された。高宗の嘆願、朝貢も効果なく、幽閉は3年間続き、帰国したのは駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共にであった。 1884年の開化派の金玉均(1894年、明成皇后の刺客、洪鐘宇により上海で暗殺)らの甲申政変により一時期政権を奪われるが、これも清軍の力を使って政権を取り戻し、開化派の政権は3日で崩壊した。 1885年になると、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめる。1894年に東学党の乱(甲午農民戦争)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の...
  • 昭和-2
    ...丁丑戊寅己卯庚辰辛巳壬午癸未甲申乙酉 昭和21年22年23年24年25年26年27年28年29年30年 西暦1946年1947年1948年1949年1950年1951年1952年1953年1954年1955年 干支丙戌丁亥戊子己丑庚寅辛卯壬辰癸巳甲午乙未 昭和31年32年33年34年35年36年37年38年39年40年 西暦1956年1957年1958年1959年1960年1961年1962年1963年1964年1965年 干支丙申丁酉戊戌己亥庚子辛丑壬寅癸卯甲辰乙巳 昭和41年42年43年44年45年46年47年48年49年50年 西暦1966年1967年1968年1969年1970年1971年1972年1973年1974年1975年 干支丙午丁未戊申己酉庚戌辛亥壬子癸丑甲寅乙卯 昭和51年52年53年54年55年56年57年...
  • 李氏朝鮮-2
    ...クーデターに動いた(壬午軍乱)。この軍乱で一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。壬午軍乱により閔氏政権は、親日政策から親清政策へ大きく転換する事になる。この政策は親日開化派の不満を招き、また朝鮮の軍隊は清と日本の干渉により有名無実化していく。また混乱から国内では反乱が生じる。 1884年12月、金玉均、朴泳孝ら開化派(独立党)がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発する。東学党の乱が勃発すると、親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾にこの戦争に介入した。東学党の乱は2国の介入により、官軍と農民軍の和議という形で終結するが、清軍と日本軍は朝鮮...
  • 明治維新
    ...少ない。朝鮮における壬午事変・甲申政変や清の戊戌の変法の失敗、長続きしなかったイランのイラン立憲革命やロシア帝国のヴィッテ改革・ストルイピン改革などが典型である(朝鮮の改革運動については「金玉均」など、清の改革については「光緒帝」「黄遵憲」なども参照のこと)。一定の成功を収めた例としては、パラグアイのカルロス・アントニオ・ロペス大統領による改革、タイ王国のチャクリー改革、トルコのアタテュルク主義、エジプトのエジプト革命、メキシコのベニート・フアレス改革が挙げられる。 明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなったが、やがて日本自身が列強側の国家として、帝国主義的な領土・権益獲得の立場となったことから、かえって反発を呼ぶことにもなり、中国や朝鮮における反日運動の元ともなった。しかし、逆の見方をすれば、日本は明治維新によって列強と化した事により、アジア諸国で...
  • 日朝修好条規
    ...た。ただ実際の開港は壬午事変が発生したため、延期となった。1882年に領事館が置かれたものの、開港はさらに遅れ、最終的には1883年1月になって漸く開港された。同年9月には七千坪ほどの居留地が設けられた。 公使常駐問題 朝鮮側の認識では、日朝修好条規の締結は江戸時代における冊封体制下における交隣関係復活であると捉えていた。決して近代的な国際関係の中に自国が置かれたとは考えていなかった。したがって両国が公使を相互に常駐させる必要性を認めることはなかったのである。むしろ朝鮮通信使のように、慶弔といった事柄に対し随時使節を送れば良いと主張し、そして首都に常駐することに非常な懸念を表明した。 日朝で激しいやりとりがあったが、弁理公使花房義質が日朝間を頻繁に往来して、ついには1880年12月漢城に公使館を設置し長期滞在して既成事実化するようになると、朝鮮側も黙認せざるを得なくなった。同年...
  • 仮20
    ...2年(明治15年) 壬午事変 1884年(明治17年) 群馬事件、加波山事件、秩父事件、甲申政変、大同団結運動 1885年(明治18年) 大阪事件、内閣制度発足 1886年(明治19年) ノルマントン号事件 1887年(明治20年) 保安条例 1889年(明治22年) 大日本帝国憲法 1891年(明治24年) 大津事件、足尾銅山鉱毒事件 1894年(明治27年) 日清戦争 1895年(明治28年) 下関条約、治安警察法、八幡製鉄所 1902年(明治35年) 日英同盟 1904年(明治37年) 日露戦争 1905年(明治38年) ポーツマス条約、日比谷焼打事件、日韓協約、ハーグ密使事件 1908年(明治41年) 赤旗事件 1910年(明治43年) 大逆事件(幸徳秋水事件ほか)、韓国併合 大正 1913年(大正2年) 大正政変(第三次桂太郎内閣解散) ...
  • 日本史の出来事一覧
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