chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「外満州」で検索した結果

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  • 満州
    ...東のロシア領の地域を外満州と呼び、場合によってはこの地域をも含むことがある。外満洲は満洲と同様に、ネルチンスク条約(1689年)で清朝領とされたが、その後のアイグン条約(1858年)・北京条約(1860年)で締結した不平等条約によりロシアに割譲された。外満洲を含めた面積は、約1,550,000km²に及ぶ。 満洲の呼称 満州の本来の表記は滿洲である(満州という表記が行われるのは、日本の戦後の漢字制限により「洲」の字が当用漢字表から外れたため。なお、「洲」と「州」はいわゆる旧字・新字の関係ではなく、同音類字である)。また満洲は本来、地名ではなく民族名である。したがって、満州の「州」は世界各国に見られる地域行政区分としての「州」ではないことに注意を要する。漢字表記では五行説の「水」徳を意識して、民族名および王朝名である「満」「洲」「清」いずれもさんずいの字が選ばれた。 ...
  • 満州国
    ...頭の日本では、すでに外満州(沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企画する帝政ロシアの南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。1900年(明治33年)、ロシアは義和団事変に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。ついにロシアと日本は1904年(明治37年)から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進め、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国の権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招くことになった。この状況について当時日本に在住していたポルトガルの外交官ヴェン...
  • 満州国軍
    満州国軍(まんしゅうこくぐん)とは満州国の国軍。1932年に創設。1945年に解体。 当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満州国軍も解体された。 軍制 指揮系統 各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に満州国執政(皇帝即位後は満州国皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた(溥儀は天皇同様、軍を統帥する大元帥の地位にあった)。但し、それはあくまで制度上の話である。実際の満州国の軍事権力は関東軍の支配下にあり、異動・演習の実施・装備の変更・昇格人事のいずれも、関東軍司令部の批准が必要であった。 士官以上の階級 満州国では...
  • 満州重工業開発
    満州重工業開発株式会社(まんしゅうじゅうこうぎょうかいはつ かぶしきかいしゃ)は、満州国の特殊法人で、満州国内の鉱工業を一元的に統制することを目的に設立された持株会社。通称は満業(まんぎょう)。 概要 満州国の経済運営で巨大な南満州鉄道が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ、日本鉱業(現・新日鉱ホールディングス)や日立製作所、日産重工業(現・日産自動車)を傘下に持つ日産コンツェルンの総帥・鮎川義介が、満州全土の鉱業から各種製造まで一貫した計画の元に生産することを目的に、1937年にグループの持株会社である日本産業を満州に移転・改組させて設立した。総裁は鮎川が勤め、傘下に満鉄から譲渡を受けた昭和製鋼所や満州炭鉱などの鉱工業会社を置き、これらの会社を統制したが、次第に関東軍や満州国政府の経営干渉を盛んに受けるようになった。鮎川は当初、アメリカ資本の導入を検討していたが、軍需物資の...
  • 満州事変
    Template Battlebox? 満州事変(満洲事変、まんしゅうじへん、Manchurian Incident)は、1931年(昭和6年)9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(大日本帝国陸軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)。関東軍はわずか5ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。。 この軍事衝突を境に、中華民国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。日本では軍部が発言力を強めて日中戦争(1937...
  • 満州国-2
    前半は満州国参照 政治 Template wikisource? 満洲国は公式には五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされていた。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織を支援する方針に変...
  • 南満州鉄道
    南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、略称 満鉄、英称 South Manchuria Railways Co.)は、日露戦争後の1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)の第二次世界大戦の終結まで中国東北部(旧満州)に存在した日本の特殊会社である。鉄道事業を中心にするが、きわめて広範囲にわたる事業を展開し、満洲経営の中核となった。初め大連市、のちに新京特別市に本社が置かれ、東京市麻布区麻布狸穴町に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。 設立経緯 thumb|right|満鉄が営業した大連ヤマトホテル。現在も[[大連中山広場近代建築群#旧 大連ヤマトホテル|大連賓館として当時の建物で営業されている。]] 南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄...
  • 満州拓殖公社
    満洲拓殖公社(まんしゅうたくしょくこうしゃ)は、満州国の開拓、既存住民からの接収、開拓団の支援などをおこなった大日本帝国の公設企業。 1937年に満洲拓殖株式会社を前身として設立され、1939年までに、1960万220ヘクタールの土地を確保し、開拓をおこなった。新規開拓は、そのうち151万6000ヘクタールを占める。 総裁在任者 二宮治重 予備役中将:1940年6月 - 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月29日 (月) 06 31。     
  • 王道楽土
    王道楽土(おうどうらくど)は、1932年、満州国建国の際の理念。 アジア的理想国家(楽土)を、西洋の統治(覇道)ではなく東洋の統治(王道)で造るという意味が込められている。 「五族協和」「王道楽土」と並び称されたが、「五族協和」とは、満日蒙漢朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うとする趣旨の言葉。満州には五族以外にも、ロシア革命後に逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 満州には内戦の続く疲弊した中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人、そして大日本帝国政府と満州国政府の政策に従った満蒙開拓団(満蒙開拓移民・満州武装移民)らの移住・入植が相次ぎ、人口も急激に増加した。 大日本帝国本土(日本列島地域)においても、(当時の農村不況も相まって)困窮する零細農民や土地を持たぬ小作農、土地を相続できない農家の次男三男以下など、または大陸にて雄飛し名をあげる野望を抱く「大陸浪人」らの間で、...
  • 満蒙開拓移民
    満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は太平洋戦争下に日本政府の国策によって推進された、大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称。 概要 1931年の満州事変以降に本格化した日本からの満州国への移民は、当時の広田弘毅内閣は1936年に「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画、これを日本政府により推めた。この政策には、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出されており、国策に裏打ちされた入植者の大陸への送り込みが図られた。 日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。 背景 日本の政府により戦前に進められていた、北米アメリカ、南米ブラジ...
  • 塘沽協定
    塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1933年5月31日に河北省塘沽で締結した満州事変の停戦協定。 妥結に至る背景 満州事変によって満州国が建国されると、それまで強硬な抵抗姿勢を取っていた孫科内閣は倒れ、代わりに対日妥協策を取る汪兆銘内閣が成立した。その一方で日本軍は1933年に熱河省へ侵攻、万里の長城(長城線)以北の地域を満州国に併合する。更に長城線を越えて河北省へと進撃するが、ここで宋哲元率いる29軍の抵抗に遭ってしまう。何とか侵攻は成し遂げたが日本は国際連盟を脱退して国際的な孤立感を深め、国民政府との間で一応の妥協点を探ることになった。 最初のうちは北平政務委員長の黄郛和と関東軍副参謀長の岡村寧次との間で秘密裏に交渉が持たれていたが、最終的には国民政府軍事委員会から何応欽が全権として出席し協定妥結にこぎつけた。 協定の骨子 国民政府軍は河北省東北部から撤退し、軍事的な挑発行...
  • 日満議定書
    日満議定書とは、1932年9月15日に日本国と満州国の間で調印された議定書。 日本側全権は武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)、 満洲国側は鄭孝胥国務総理。 議定書の調印による取り決め事項 議定書の調印によって、下記の事項が取り決められた。 また同時に補足条約ともいえる書簡の交換も行っている。 いずれの事項もこれまでの協定の確認にすぎず、どちらかといえば「両国間の合意事項の世界への公式表明」の色が強かった。 議定書の内容 この議定書で交わされた約定は主に、 満洲国の承認 満洲での日本の既得権益の維持(関東州は租借地として継続して日本の直接支配下) 共同防衛の名目での関東軍駐屯の了承 の3点である。 交換書簡の内容 過去に交わされた下記の文書について、引き続き行使する事。 1. 1932年3月10日に満洲国執政(溥儀)から送付され、5月10日に関東軍司...
  • 河本大作
    Template Infobox 軍人? 河本 大作(こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1953年8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の実行犯として知られる。 出自 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に生まれた。高等小学校、陸軍大阪地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治36年.11に陸軍士官学校(15期)を卒業し、大正3年に陸軍大学校(26期)を卒業した。 張作霖爆殺事件 関東軍高級参謀として勤務していた昭和3年6月4日、北京から満州に帰還する途上にあった張作霖を奉天近郊の南満州鉄道線路上で爆殺した(当時は満州某重大事件と報道された)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の仕業であるとも報道されていたが、その後の調査で河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉...
  • 日露協約
    日露協約(にちろきょうやく)は日露戦争後に締結した日本とロシア帝国がお互いに権益を認め合った4次にわたる協約。秘密条項では日本はロシアの外モンゴルにおける権益、ロシアは日本の朝鮮における権益を認めた。しかし、1917年のロシア革命でロシア帝国が滅亡すると、協約はソビエト政府によって破棄され、日本は中国権益の危機を迎えることとなる。 第一次日露協約 1907年(明治40年)7月30日調印。公開協定では日露間及び両国と清国の間に結ばれた条約を尊重することと、清国の独立、門戸開放、機会均等の実現を掲げる一方で、秘密協定では日本の南満州、ロシアの北満州での利益範囲を協定した。また、ロシアの外蒙古、日本の朝鮮(大韓帝国)での特殊権益も互いに認めた。 第二次日露協約 1910年(明治43年)7月4日調印。アメリカの南満州鉄道中立案(ノックス提案)の拒否を協定し、両国の満州権益の確保を確...
  • 関東軍
    Template 軍隊資料? 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 概要 Template 日本陸軍? 南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が前身で、1919年(大正8年)に関東軍と改称する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。 張作霖爆殺事件や満州事変の画策・実行は、20年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。 また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。 また、...
  • 五族協和
    五族協和(ごぞくきょうわ) 大日本帝国が満州国を建国した時の理念。満州国を参照のこと。 1912年に中華民国が成立した際に唱道した理念は、五族共和を参照のこと。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年7月29日 (日) 13 02。     
  • 満鉄調査部
    満鉄調査部(まんてつちょうさぶ)は、戦前に存在した南満州鉄道の調査機関である。 設立は明治40年(1907年)。 概要 1906年に南満州鉄道(満鉄、総裁後藤新平)が発足した翌年、満鉄調査部が設置された。当初は満鉄の経営のための調査をはじめ中国東北地区などの政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究を行なったが、その後の日本の中国進出の拡大に呼応してその対象を広げ、中国そのものを対象とした本格的な調査研究も行うようになっていった。 他方、多数の調査要員を必要としたこともあり、日本国内で活動の場を失っていた多数の自由主義者、マルクス主義者などを取り込むようになり、やがてその活動は軍部の忌避するところとなって2度にわたる弾圧事件を受け、活動を縮小した。 満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクであるとしばしば形容される。日本の敗戦と満州国の消滅により満鉄が消滅した後も、満鉄...
  • 十五年戦争
    1931年の満州事変から日中戦争を経て1945年のポツダム宣言受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して十五年戦争と呼ぶ。鶴見俊輔が1956年にこの言葉を使用したのが最初とされ、1960年代後半から一般にもこの言葉が浸透していった。この呼称は、満州事変以後繰り返された日中衝突及び太平洋戦争までの戦争は連続した日本による侵略戦争であるという見方に基づいているとして、侵略性を主張することに反発ないし消極的な人々からは否定的に受け取められることもある。 また、イデオロギー上の論争とは別に、満州事変(1931年 - )は塘沽協定(1933年)で一応、停戦が成立しており、盧溝橋事件を発端とする日中戦争(1937年 - )との連続性を認めるのは、非合理的とする意見もある。 略年表 日本の大陸介入 1925年(大正14)1月 蒋介石の広東政府、北伐を開始 19...
  • @_ソ連対日宣戦布告
    thumb|250px|満洲国の首都[[新京を進軍するソ連軍のSU-76自走砲]] ソ連対日宣戦布告(ソれんたいにちせんせんふこく Soviet Declaration of War on Japan)とは、1945年8月にソビエト連邦が日本に対して行った宣戦布告を言う。 概要 この布告では、連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために武力攻撃を行うことが宣言されている。これにより、日ソ中立条約は完全に破棄された。ソ連軍は対日参戦を実行し、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し、日本軍と各地で戦闘になった。既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍にこれを防ぐ手段は無く、原爆投下に続き日本にとどめを刺した。 布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐...
  • リットン調査団
    リットン調査団(-ちょうさだん/The Lytton Commission)は、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスのヴィクター・リットン卿を団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称である。 概要 調査団派遣の経緯 1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。 調査団の要員構成 1932年1月、リットン調査団が結成された。委員は下記の5名。 リットン(Victor Alexander George Robert Lytton)卿(イギリス)56歳:枢密顧問官・元インド総督 アンリ・クローデル陸軍中将(フ...
  • 張学良
    Template 中華圏の人物? 張 学良(ちょう がくりょう、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1901年6月3日 – 2001年10月14日)は中国の軍人・政治家。字は漢卿。張作霖の長男として遼寧省に生まれた。 人物 青年時代 1901年、張学良は当時満州地方の馬賊であった張作霖の長男として生まれた。母親(趙春桂)のことはよく分からないが、張学良が10歳の時に亡くなったようである。張作霖に可愛がられ、大勢の家庭教師が付き高い教養を身につけた。 1919年3月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。若い頃から記憶力が良く、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取ったので父親との関係(当時張作霖は事実上の満州王であり、学良はいわば王子...
  • 南洋興発
    南洋興発株式会社(なんようこうはつかぶしきかいしゃ)は、大日本帝国時代の日本の国策会社。大正10年(1921年)設立。満州を中心とした南満州鉄道に対して、南洋興発は南洋諸島を舞台として発展した。このため、この会社を『海の満鉄』と呼ぶこともある。 概要 第一次世界大戦のドイツ敗戦により南洋の旧ドイツ領を国際連盟・委任統治領として日本が統治することになった。これを契機として内地の資本が次々と進出したが初期のそれら進出会社は経営に行き詰まり、入れ替わる形として設立されたのが南洋興発である。 南洋興発の当初の主たる事業は製糖事業であった。その後、事業を水産業・農園業・製酒業などから鉱業・油脂工業・交通運輸業・貿易業に至るまで拡張し南洋における最大の企業となった。従業員は5万人弱と満鉄に匹敵する規模の国策会社に成長した。 しかし、太平洋戦争の激化に伴い、南洋諸島は連合国の1国であるアメリカ軍...
  • 国際連盟
    国際連盟(こくさいれんめい 英:League of Nations)は、第一次世界大戦の教訓から、1920年に発足した史上初の国際平和機構である。 略称は連盟。本部はスイスのジュネーヴに置かれていた。 国際連盟の沿革 設立 アメリカ合衆国大統領のウィルソン(=民主党)の十四か条の平和原則により提唱され、ヴェルサイユ条約の第1編に基づいて国際連盟規約が定められたことで設立された。原加盟国は42カ国で、最終的に60カ国以上が加盟している。 提唱者が大統領であるアメリカ合衆国自身は、モンロー主義を唱える上院の反対(=共和党が多数)により国際連盟には参加していない。また、ロシア革命直後のソヴィエト社会主義共和国連邦(1934年加盟)や敗戦国のドイツ(1926年加盟)は、当初は参加を認められなかった。このように大国の不参加によってその基盤が当初から十分なものではなかった。 経緯 ...
  • 五族共和
    五族共和(ごぞくきょうわ)は、1912年に中華民国が成立した際に唱道された理念で、中国国内の主な種族である漢族、満州族、蒙古族、回(現在の回族ではなくウイグル族など新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の5種族が協同して新共和国の建設に当たることを意味する。孫文ら革命の指導者たちは中華民国成立以前の清朝中国は満州族が権力を握り、他の4族はすべて奴隷的地位に圧迫されていたとし、五族が平等の立場にたち、同心協力して、国家の発展を策し、平和と大同を主張し、世界人類の幸福を中国人によって保証しようというスローガンを唱えた。 しかし、清の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合というのが実態であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除くモンゴル(蒙古族)、西域ムスリム社会(回)、チベット...
  • 石原莞爾
    Template Infobox 軍人? 石原 莞爾(いしわら かんじ読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』(日本経済新聞社 ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」とルビが振られている。、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人、満州派の領袖。立命館大学国防学研究所長(1941-42年)。通称「帝国陸軍の異端児」。 軍歴は関東軍作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長兼駐満州国武官、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、最終階級は陸軍中将。 生涯 幼少年時代 明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原...
  • 東洋拓殖
    東洋拓殖株式会社(とうようたくしょくかぶしきがいしゃ)は、大日本帝国時代の朝鮮の植民地事業を進めることを目的として設立された国策会社である。 1908年(明治41)12月18日、東洋拓殖株式会社法(東拓法)を根拠法として、大韓帝国政府と日韓民間資本の共同出資などにより設立された。初代総裁は宇佐川一正(陸軍中将)。当初は漢城(日韓併合後、京城に改名)(現在のソウル特別市)に本店を置き、朝鮮の土地5700町歩を所有して、日本からの移民と開拓をその事業として掲げた。 会社発足当初から、政府の補助金も受けて土地の買収を進めた。土地調査事業(1910年~1918年)で日本が接収した土地のうちから1万1400町歩が現物出資されるなどし、朝鮮農民の反発を受けて買収が停滞するものの1919年には7万8000町歩(全耕作面積の約1.8%)を保有した。 同社の日本人移民事業は挫折したが、接収した土地で朝...
  • 国共合作
    国共合作(こっきょうがっさく)とは、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に渡り中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。「合作」は協力関係を意味する。 第一次国共合作 第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。 1925年孫文が死去し、蒋介石が国民革命軍総司令官になった。1926年に北伐を開始し、1927年に南京に国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。 第二次国共合作 1937年から1945年に...
  • 満鉄調査部事件
    満鉄調査部事件(まんてつちょうさぶじけん)は、第二次世界大戦中、多数の満鉄調査部員が関東軍の憲兵隊によって2回にわたり検挙された事件。満鉄事件とも呼ばれる。1941年に起こった合作社事件をきっかけとして、1942年には調査部員の第一次検挙、1943年には第二次検挙が行われた。 経緯 満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。 橘樸の影響を受けていた佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。この運動は多くの日本人「前歴者」が結集したこ...
  • 板垣征四郎
    Template Infobox 軍人? 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、明治18年(1885年)1月21日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人である。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 敗戦後、東京裁判にて死刑判決を受ける。現在は靖国神社に合祀されている。 元参議院議員の板垣正は次男。 生涯 出自 岩手県盛岡市出身。盛岡中学、仙台の陸軍幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人...
  • 国民同盟 (日本)
    国民同盟(こくみんどうめい)とは、昭和初期に存在した親軍部政党(1932年12月22日-1940年7月26日)。 満州事変直後、幣原外交・井上財政への批判を強めた立憲民政党の安達謙蔵内務大臣が推進した協力内閣運動が失敗に終わると、これに憤慨した安達が中野正剛・山道襄一らとともに民政党を離党した上で革新党などと合同して衆議院議員32名により結成した。 軍部と協力して統制経済と満州事変における日本の国際正義の擁護を掲げたが、政権獲得の重視する安達と中野・山道の三幹部の間に意見の齟齬があり、1936年に安達が岡田内閣の内閣審議会委員に任命されると一気に露呈した。その結果、中野は離党して東方会を結成し、山道も民政党に復党した。このため急激に党勢は衰退し、第20回衆議院議員総選挙以後はわずか11名の小政党となり、他の小政党や無所属議員と小規模な院内会派を作って活動するのが精一杯となった。このため...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • 日泰攻守同盟条約
    日泰攻守同盟条約(にったいこうしゅどうめいじょうやく)(昭和16年条約第20号)は、大東亜戦争(太平洋戦争)中に大日本帝国とタイ王国の間に結ばれた同盟に関する条約である。 歴史 背景 欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となったが、翌年には日本軍の介入で講和。これによってタイは旧領土のほとんどを回復し、日本への協力姿勢を強めた。 参戦 日泰攻守同盟条約では、アジアにおける新...
  • 林銑十郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、明治9年(1876年)2月23日 - 昭和18年(1943年)2月4日))は、日本の陸軍軍人、政治家。第33代内閣総理大臣。陸軍大将、正二位、勲一等、功四級。 略歴 石川県金沢市に士族(旧加賀藩士)の子として生まれる。金沢市尋常師範附属小学校を経て、1894(明治27)年7月、日清戦争が勃発すると、四高補充科を中退し、士官候補生となり陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)6月28日、少尉任官、歩兵第7連隊付、1903(明治36)年、陸軍大学校を卒業。 1905(明治38)年に勃発した日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加。以後、陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務める。1937年(昭和12年)内閣総理大臣。 越境将軍 Templa...
  • 甘粕事件
    甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災の直後の1923年9月16日、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥の計3名が憲兵隊に強制連行・殺害された事件。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされる。大杉事件ともいう。 事件発生 関東大震災後、東京や神奈川が混乱に陥り戒厳令が発せられていたさなか、大杉栄は内縁の妻伊藤野枝と、神奈川県橘樹郡鶴見町(現在の横浜市鶴見区)に住む大杉の妹あやめを見舞い、その息子の橘宗一(6歳)をつれて東京に戻る途中、行方不明になった。 彼らが憲兵隊に連れ去られたといううわさが広まり、9月20日、時事新報や読売新聞などにより大杉ら3人の殺害が報じられた。日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の二人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった。 軍と対立する警視庁は捜査を要求。また、殺された大杉の甥・橘宗...
  • 上海日本人僧侶襲撃事件
    上海日本人僧侶襲撃事件(しゃんはいにほんじんそうりょしゅうげきじけん)とは、1932年(昭和7年)に発生した中国人による抗日(反日)事件とされており、この事件をきっかけに日中が武力衝突する上海事変が勃発した。ただし現在では関東軍による策謀であるとの説が有力である。 事件の概要 前年の満州事変によって中国国内における反日感情が高揚していた。1932年1月18日午後4時ころ、中華民国上海の道路を南無妙法蓮華経を唱えながら勤行していた、日本人僧侶2名と信者3名が、排日運動の根拠地と見なされていた三友實業公司のタオル製造工場前の路地で、突如中国人と見られる数十人の集団に襲撃された。そのため日本人の日蓮宗僧侶の水上秀雄が死亡し、天崎天山ら2名が重傷を負った。中国の警察官の到着が遅れたため、犯人は逃亡した。 事件の背景 その後、上海事変が勃発し日中は果てしない戦乱に明け暮れることになる...
  • 無鄰菴
    無鄰菴(むりんあん)は山縣有朋の別邸。 「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がない事による。 第二の無鄰庵は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。 第二無鄰菴 第二の無鄰菴は、京都市木屋町二条、鴨川近くにあった。明治24年。 第三無鄰菴 山縣有朋の別邸、第三の無鄰菴は京都府京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。その庭園で名高く、国の名勝に指定されている。現在は遺族から寄贈されて京都市が管理している。 数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い日本庭園からなる。山縣は1894年(明治27年)に造営に着手、明治29年完成http //www.city.k...
  • 幣原外交
    幣原外交(しではらがいこう)とは、大正末期から昭和初期の両大戦間期に、幣原喜重郎が外務大臣となって行なわれた穏健な対外協調外交をいう。 自主的な外交による日本の国際社会における地位向上に貢献した、との評価がある。一方で地政学の立場からは、協調外交の結果として日英同盟などの軍事同盟の維持が不可能になり、大恐慌後の軍人による対外拡張政策に歯止めを与える存在を無くしてしまう結果になった、などの指摘もある。 第一次 幣原は大正13年(1924年)から昭和2年(1927年)、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣と若槻禮次郎内閣の外相として、ワシントン海軍軍縮条約を尊重し、アメリカ・イギリスとの協調、中国への内政不干渉を唱え、経済的には中国市場拡大、満州の特殊権益の維持を図った。このため大正14年(1925年)には日ソ基本条約を結んで日ソの国交を樹立し、また昭和2年(1927年)、中国で国民革命...
  • 奉天会戦
    Template Battlebox? 奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた日露戦争最後の会戦である。奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に渡って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。 参加兵力は大日本帝国陸軍25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。 背景 ロシア帝国はシベリア鉄道の全線開通を4年後に控えていた。 クロパトキンを総司令官とするロシア軍は100万人に動員令を出していたが、直前に血の日曜日事件があったように、国内は混沌とした状況にあった。皇帝ニコライ2世への国民の忠誠心は揺らぎ、後退していた。 日...
  • 遼東半島
    遼東半島(りょうとう(リャオトン)はんとう、中国語簡体字:Template lang? Liáodōng Bàndăo)は中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、大連などの都市がある。遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。 地理 朝鮮半島の北西に位置し、旧満州南部から海を挟んだ対岸の山東半島へ向かって西南西へ飛び出した形となっている。半島の付け根は鴨緑江と遼河に挟まれており、半島部は西を渤海、南を黄海、南東を西朝鮮湾に囲まれている。主要都市は、最西端部に旅順や大連、半島付け根の渤海側に営口などがある。全体に山がちで平野は少ない。 遼東半島の都市群 遼東半島の都市群(遼東半島城市群)とは、遼東半島にある16個の都市の集合体のことである。 7個の地級市:大連市、営口市、鞍山市、丹東市、盤錦市、遼陽市、本渓市 9個の県級市:瓦房店市、普蘭店市、...
  • 旅順攻囲戦
    Template Battlebox? 旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, Siege of Port Arthur, 1904年8月19日 - 1905年1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。 背景 日本が日露戦争に勝利するためには、朝鮮半島周辺海域の制海権を抑えることが必須であった。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。 ...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • 張作霖爆殺事件
    張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(昭和3年)6月4日に起こされた、関東軍による奉天軍閥の長張作霖の暗殺事件。別名「奉天事件」。中国では、事件現場の地名を採って、「皇姑屯事件」とも言う。当時は「満洲某重大事件」と呼ばれ、「犯人は関東軍の河本大作大佐であった」という事件の真相は隠されていた。 背景 馬賊出身の張作霖は、日本の関東軍の支援の下、段芝貴を失脚させて満州の実効権を手に入れ、当時最有力な軍閥の一人にのし上がっていた。 第一次国共合作(1924年)当時の諸外国の支援方針としては、主に 奉天軍(張作霖) ← 日本 直隷派 ← 欧米 中国国民党 ← ソ連(実質は党内の共産党員への支持) であった。 その後、国民党の北伐で直隷派が壊滅(1926年)した。張作霖は、欧米の支援の受け皿を狙って、支援元を日本から欧米寄りに鞍替えする。これに対して、...
  • 上海事変
    (第一次)上海事変(だいいちじしゃんはいじへん)は1932年(昭和7年)1月28日以降に中国の上海国際共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突である。 日華間の緊張の高まり thumb|300px|戦闘に加わる中国側[[憲兵]] 共同租界の市参事会にとっては、日本軍の動きより上海市街の外に野営する十九路軍のほうが重要だった。3個師団、3万人以上を擁する十九路軍は5年前にあった上海クーデターにおける国民党軍を思い起こさせ、上海市が警戒心を持つのも当然だった。 指揮官の蔡廷鍇(さい ていかい)は日本軍との交渉において「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と言った。しかし、それは偽りで実際に十九路軍に命令する者は彼だけだった。その上、蔡廷鍇は日本軍との戦いを避けたい蒋介石の代弁者でもなく、蒋介石も上海市同様、蔡廷鍇を警戒していた...
  • ノモンハン事件
    Template Coor title d? Template Battlebox? ノモンハン事件(のもんはんじけん)は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。 概要 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件、出来事」と呼び、モンゴル人民共和国のみが「ハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)」と称している。 この衝突に対して日本・満洲側が冠して...
  • 革新官僚
    革新官僚(かくしんかんりょう)とは、1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して企画院に改編された際、同院を拠点として戦時経済統制の実現を図った官僚層。のちに国家総動員法などの総動員計画の作成に当たった。 新々官僚(しんしんかんりょう)、略して新官僚(しんかんりょう)と称されることもあるが、そもそも「新官僚」は大正後半から昭和初期にかけて疑似右翼的な官僚層を指して使われた言葉で、のちに新々官僚が登場してきたときに紛らわしいので新々官僚を「革新官僚」とも呼ぶようになった。ちなみに、「新官僚」に該当する人物としては、内務省警保局の幹部に昇進し「天皇陛下の軍隊」に対抗して「天皇陛下の警察官」を自称した後藤文夫のほか、松本学、唐沢俊樹、吉田茂(内務省出身。のちの首相は同姓同名の異人)、平沼騏一郎などが挙げられる。 逓信省出身の奥村喜和男が電力国家管理案を...
  • 中ソ不可侵条約
    中ソ不可侵条約(ちゅうそふかしんじょうやく)は日中戦争中の1937年8月21日、中華民国とソビエト連邦の間で調印された条約である。同条約に従い、ソ連は中国国民政府に対して空軍支援を送り(Zet作戦)、これは日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。条約はまた、中国とナチス・ドイツとの友好関係の悪化に寄与し、それはドイツによる満州国の正式承認と在華ドイツ軍事顧問団の終結で頂点に達した。 関連事項 中ソ友好同盟条約 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月18日 (木) 05 43。    
  • 朝鮮銀行
    Template 朝鮮の事物? 朝鮮銀行(ちょうせんぎんこう、朝鮮語:Template lang?)は、日本の特殊銀行の一つである。略称は鮮銀(せんぎん)。 前身 近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化した。 第一次日韓協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、民間銀行に過ぎない第一銀行が外国の中央銀行業務を行っている事を問題視して韓国統監伊藤博文との相談した結果、日韓併合直前の1909年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立され...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • 大川周明
    Template Infobox Celebrity? 大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、戦前の代表的な思想家の一人。 なお戦後は、イスラームへの興味から、コーランの全文翻訳するなど日本のイスラーム研究にも貢献した。 出自 山形県酒田市出身。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。「特許植民会社制度の研究」で法学博士(1926年取得)。東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務の後、法政大学教授大陸部(専門部)部長を経て拓殖大学教授。 学生時代 後にともに活動する北一輝らと同様に、平民新聞の読者であった。 荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。 五高時代には、栗野事件で活躍した。 戦前の活動 インドの独立運動を支援。ヘー...
  • 国定教科書
    Template Battlebox? ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、当時の満州国において、1945年8月9日深夜から開始された、大日本帝国の関東軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘、ソ連軍が圧勝した。 名称 日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「8月の嵐作戦」、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。 背景 19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は...
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