chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「大坂」で検索した結果

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  • 西郷隆盛
    ...俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。 9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向)へ追放すること(これは道中での切り捨てを意味していた)に決定した。月照・平野らとともに乗船したが、前途を悲観して、16日夜半、竜ヶ水沖で月照とともに入水した。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生したが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕重助を連れて引き上げた。 12月、藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした、1...
  • 大村益次郎
    ...3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。 嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家の娘琴子と結婚した。だが口数が少なく無愛想で、村人が診てもらうと身体のしくみ等を何やら小難しい言葉でくどくどと説明したので「大坂で何の勉強したのやら」とあまり評判のよい医者ではなかったという。 講武所教授 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、大村は伊予宇和島藩の要請で出仕する。このとき藩主伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人たちは、2人扶年10両という低い禄高に決めた。このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、...
  • 住友財閥
    ...中心になりつつあった大坂へ出張所を出し、寛永7年には本式に大坂淡路町一丁目に移った。ちょうど徳川時代に入るころで、銅は当時一大輸出品であり、住友の銅精錬業は大いに栄えた。これが住友財閥の起源である。そして銅貿易に関与するようになり、その関係から糸、反物、砂糖、薬種等の輸入品を大坂・京都方面で売り捌くなど商業にも手をのばした。そして得た利益で両替商を開業するようになった。 住友二代目のあとを継いだ友以の五男・友信は住友吉左衛門と名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などの経営に乗り出し幕府御用の銅山師となって日本一の銅鉱業者へと発展させる。一方で友以の末子の友貞は前述の両替商を大坂と江戸で開始している。これが寛文2年(1662年)のころで住友家は江戸時代前期において鉱業と金融業を握るコンツェルンを確立し、慶応初期には住友は、日本の四大資産家の1つにあげられていた。ちなみに三井家が江戸...
  • 薩英戦争
    ...続く際には関門海峡・大坂湾・江戸湾などを艦隊で封鎖して日本商船の廻船航路を封鎖する制裁を検討していた(当時、日本には砲台は存在したもののホープはそれを無力化出来れば巨大な軍艦の無い江戸幕府や諸藩には封鎖を解くことは不可能であると考えていた)。 実際に文久2年11月20日(1863年1月9日)にヴィクトリア女王臨席で開かれた枢密院会議で対日海上封鎖を含めた武力制裁に関する勅令が可決されている。だが、ニールもホープもこれは最後の手段であると考えて文久3年2月4日(3月22日)、ホープの副官であるクーパー少将に戦艦3隻に率いさせて横浜に呼び寄せ、幕府に最後通牒を突きつけて海上封鎖の可能性を仄めかせた。 これを憂慮したフランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールの仲介によって5月9日(6月24日)にニールと江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償がまとまって日本海上封鎖は直前に中断され主犯である...
  • 榎本武揚
    ...の率いる旧幕府艦隊は大坂の天保山沖に停泊していたが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると、大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣に無断で旗艦開陽丸に座乗し江戸へ引き揚げた。 新政府軍が江戸を占領すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、千代田形丸、神速丸他の旧幕府艦隊を率いて脱出する。新選組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走、箱館の五稜郭に拠り、蝦夷島政府を設立して入札の実施により総裁となった。 翌明治2年(1869年)、開陽丸座礁沈没、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍斥候による弁天台場砲台閉鎖、箱館湾海戦による全軍艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災か...
  • 鳥羽・伏見の戦い
    ...に京都の二条城を出て大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地の返納を実行するだろうという見通しを総裁(首相)の有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入ったあと慶喜からの連絡が途絶えた。 12月23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。 再度松平春嶽と徳川慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れたが、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を...
  • 仮20
    ...15年(元和元年) 大坂の役 1614年(慶長19年) 大坂冬の陣 1615年(元和元年) 大坂夏の陣。豊臣氏滅ぶ。 1615年(元和元年) 武家諸法度(元和令)を定める。 1615年(元和元年) 禁中並公家諸法度を定める。 1616年(元和2年) 欧船の来航を平戸・長崎に制限する。 1623年(元和9年) 徳川家光、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。 1629年(寛永6年) 紫衣事件 1633年(寛永10年) 黒田騒動 1633年(寛永10年) 奉書船以外の海外渡航を禁じ、海外渡航者の帰国を制限する。 1635年(寛永12年) 柳川一件 1635年(寛永12年) 参勤交代制を確立する。 1637年(寛永14年) - 1638年(寛永15年) 島原の乱 1639年(寛永16年) ポルトガル人の来航を禁じる。 1641年(寛永18年) オランダ人を長崎出島...
  • 王政復古 (日本)
    ...ロシアの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまでになった。 これに対して、12月22日(1868年1月16日)に朝廷は「徳川内府宇内之形勢ヲ察シ政権ヲ奉帰候ニ付キ、朝廷ニ於テ万機御裁決候ニ付テハ、博ク天下之公儀ヲトリ偏党ノ私ナキヲ以テ衆心ト休威ヲ同フシ、徳川祖先ノ制度美事良法ハ其侭被差置、御変更無之之候間、列藩此聖意ヲ体シ、心付候儀ハ不憚忌諱極言高論シテ救縄補正ニ力ヲ尽シ、上勤王ノ実効ヲ顕シ下民人ノ心ヲ失ナハス、皇国ヲシテ一地球中ニ冠超セシムル様淬励可致旨御沙汰候事」という告諭を出した。これは事実上徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認したと言えるもので、王政復古の大号令は取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められたものに他ならなかった。 だが、この事態に危機感を抱い...
  • 日本史の出来事一覧
    ...plate 和暦? 大坂の役 Template 和暦? 大坂冬の陣 Template 和暦? 大坂夏の陣。豊臣氏滅ぶ。 Template 和暦? 武家諸法度(元和令)を定める。 Template 和暦? 禁中並公家諸法度を定める。 Template 和暦? 欧船の来航を平戸・長崎に制限する。 Template 和暦? 徳川家光、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。 Template 和暦? 紫衣事件 Template 和暦? 黒田騒動 Template 和暦? 奉書船以外の海外渡航を禁じ、海外渡航者の帰国を制限する。 Template 和暦? 柳川一件 Template 和暦? 参勤交代制を確立する。 Template 和暦? - Template 和暦? 島原の乱 Template 和暦? ポルトガル人の来航を禁じる。 Template 和暦? オランダ...
  • 黒田清隆
    ...て長州で同盟を説き、大坂で西郷隆盛と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。 戊辰戦争 慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年3月、北陸道鎮撫総督高倉永祜の参謀に、山県有朋とともに任命された。北越戦争に際して、黒田は長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え、河井に書簡を送ったが届かなかった。長岡城を占領したとき、黒田は海路新潟に出て敵の背後を脅かし、武器弾薬の補給を断つ作戦を立て、山県に官軍主力を預けて自らは松ヶ崎に上陸した。このとき長岡城が夜襲され、官軍主力は一時潰走したが、黒田は新発田藩を降し、新潟を占領して所期の目標を達した。 越後の戦闘が決してから、黒田は秋田に上陸して庄内を背後から攻略する作戦を立てた。ここに西郷隆盛が合流して秋田藩兵の疲弊を告げ、米沢を先に攻めるよう変更した。西郷と黒田は寛大...
  • 幕末
    ...談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われたが、将軍後見職の徳川慶喜の非協力的態度に春嶽・久光らが反撥して帰国したため、早くも翌年3月には崩壊。参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬(桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる(一会桑体制)。 この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。文久3年(1863年)8月大和では公卿中山忠光、吉村寅太郎・池内蔵太(土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石(岡山藩士)、さらには河内の大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的...
  • 地租改正
    ...た米をまとめて江戸や大坂の蔵屋敷を経由して同地の米問屋に売却するというこれまでの米の流通システムが崩壊して、個々の農民が地元の米商人などに直接米を換金してその代金を納め、地元の米商人が全国市場に米を売却するようになるなど、商業や流通に対する影響も大きかった。 その他 地租改正は全ての土地に課税されるものとし、以前に認められていた恩賞や寺社領などに対する免税を否認した。また、入会地なども同様に否定して国有地に編入した。 また、欧米の農村社会の仕組みをそのまま日本に想定したために、不都合な例も発生した。例えば、地租の算定における一般的な農家の経営の基準を商業生産的な家族経営による拡大再生産が行われている農家とし、また地主と小作人は自由契約による小作関係によって成立しており小作料の増減は地租の増減に対応することを前提として立法された。これは実際には「生かさぬように殺さぬように」という...
  • 禁門の変
    ...権を失っており、京や大坂に密かに潜伏した数名の長州尊攘派はにわかに行動を続けていた。 元治元年(1864)に入ると、孝明天皇を再び長州陣営のものとする為、京都に乗り込もうとする積極策が長州で論じられた(この時の積極的に上洛を説いたのが、来島又兵衛、久坂玄瑞。反対、慎重派が桂小五郎と高杉晋作)。6月5日の池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸左馬之助らは藩論の沈静化に努めるが、福原越後や益田右衛門介、国司信濃の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」などと称して挙兵し、益田、久坂玄瑞らは山崎天王山、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨天龍寺に、福原越後は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。 この不穏な動きを察知して、薩摩藩士吉井幸輔友実、土佐藩士乾市郎平正厚、久留米藩士大塚敬介らは議して、長州兵の入京を阻止せんとの連署の...
  • 上野戦争
    ...敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。 抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本営を本願寺に置いたが、後に上野に移した。旧幕府の恭順派は彰義隊を公認して江戸市内の警護を命ずるなどして懐柔をはかったが、徳川慶喜が水戸へ向かい渋沢らが隊から離れると彰義隊では天野らの強硬派が台頭し、旧新選組の残党(原田左之助が参加していたといわれる)などを加えて徳川家菩提寺である上野の寛永寺(現在の上野公園内東京国立...
  • 岩崎弥太郎
    ...僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国、職を辞した。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され、坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当した。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。今でいうインサイダー取引である。 1873年に後藤象二郎の知遇で現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立(「三菱」が土佐藩(山内氏...
  • 長州征討
    ...14代将軍徳川家茂は大坂城へ入り再び長州征討を決定する。四境戦争とも呼ばれている戦争だが、幕府は当初5方面から長州へ攻め入る計画だった。しかし萩口を命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており出兵を拒否する。そのため萩口から長州を攻めることができず、4方から攻めることになった。幕府は大目付永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。 1866年(慶応2年)6月7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、13日には芸州口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。 大島口では、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩の兵が、大島に上陸し占領した。宇和島藩は幕府の出兵命令を拒ん...
  • 下関戦争
    ...、新潟の開港と江戸、大坂での外国人の居留許可を認めさせようとしたが、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。幕府は150万ドルを支払い、明治維新後は新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。 明治16年(1883年)2月23日、チェスター・A・アーサー米国大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5000ドル87セント)の日本への返還を決裁した。300万ドルの賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万5000ドルを得ていた。 実際の米国の損失は、 米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル 長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル 水夫への危険手当2000ドル であった。 なお、ワイ...
  • 廃藩置県
    ...財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじて凌いでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが黒船来航以来の政治的緊張によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出る藩主(藩知事)さえ出てくる状況であった。 これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった(藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の債務扱いとなる)。 廃藩置県によって旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達して(しかもこの金額には後述の理由で天保年間(1830年~1843年)以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている)おり債...
  • 西郷隆盛-2
    ...池上らは神戸に着き、大坂で山縣有朋と会談し、一同そろって大坂を出航し東京へ向かった。東京に着いた一行は2月8日に会談し、御親兵の創設を決めた。この後、池上を伴って鹿児島へ帰る途中、横浜で青年東郷平八郎に会い、勉強するように励ました『西南記伝』引東郷平八郎実話。 2月13日に鹿児島藩・山口藩・高知藩の兵を徴し、御親兵に編成する旨の命令が出されたので、西郷は忠義を奉じ、常備隊4大隊約5000名を率いて上京し、4月21日に東京市ヶ谷旧尾張藩邸に駐屯した。この御親兵以外にも東山道鎮台(石巻)と西海道鎮台(小倉)を設置し、これらの武力を背景に、6月25日から内閣人員の入れ替えを始めた。このときに西郷は再び正三位に叙せられた。7月5日、制度取調会の議長となり、6日に委員の決定権委任の勅許を得た。これより新官制・内閣人事・廃藩置県等を審議し、大久保・木戸らと公私にわたって議論し、朝議を経て、14...
  • 戊辰戦争
    ...藩兵、桑名藩兵などが大坂から京都へ進軍し、薩摩藩・長州藩の軍勢と慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都南郊外の鳥羽と伏見で衝突した。この初戦で薩長軍が圧勝して討幕派が新政府の実権を握り、慶喜を朝敵とした。 しかし、この時点での総戦力では未だに幕府軍が圧倒的に上回っており、巻き返すのも時間の問題かと思われたが、なんと慶喜は軍を捨てて大坂城を脱出(1月6日)、海路で江戸へ逃走した。指揮官を失った旧幕府軍は、抗戦をやめ、各藩へ兵を帰した。 江戸への進軍 甲州勝沼及び野州梁田の戦い Template main? 慶喜は上野寛永寺にて謹慎し、天皇に反抗する意志がないことを示そうとした。しかし、新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍を組織し、東海道軍・東山道軍・北陸道軍に別れ、江戸へ向けて進軍した。 旧幕府軍では、近藤勇らの率いる甲陽鎮撫隊を組織して甲府城を押さ...
  • 坂本龍馬-2
    ...通性と異質性-」(『大坂産業大学人間環境論集』3、2004年) 田中彰「天保の青年たちの「明」と「暗」」(『歴史読本』49-7、2004年) 三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画-杉浦梅潭文庫「浪士一件」の紹介を兼ねて-」(『歴史読本』49-7、2004年) 松下祐三「薩長商社計画の虚実」(『歴史読本』49-7、2004年) 前田宣裕「竜馬暗殺と会津藩」(『歴史読本』49-7、2004年) 井上勲「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年) 中城正堯「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊-『中城文庫』誕生の発端と内容」(『大平山』第30号、2004年) 小林和幸「谷干城の慶応三年」(『駒沢史学』第64号、2005年) 高橋秀直「薩長同盟の展開-六ヶ条盟約の成立-」(『史林』452、2005年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川...
  • 米内光政
    ...譜 米内家は摂津国大坂から盛岡に移住し、南部信直に仕えた宮崎庄兵衛勝良を祖とし、三代目傳左衛門秀政の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が出雲国米内郷から来るもので、本来の陸奥国の米内氏の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。 陸奥米内氏は一方井氏の分家筋にあたり、一方井氏は俘囚長安倍頼良・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を安倍貞任の末裔だと称していた。 三女和子が元竹中工務店会長の竹中錬一に嫁いでいる。   ┏竹中藤右衛門━━┳寿美   ┃        ┃   ┃        ┣竹中宏平   ┃        ┃  ┣━━竹中祐二   ┗竹中藤五郎   ┃ りゅう子  ┃            ┃    ...
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