chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「大学校」で検索した結果

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  • 京城帝国大学
    ...産を受け継いでソウル大学校が開学した。 ソウル大学校の公式表明ではその建学を1946年としており、京城帝国大学との連続性を認めてはいない。ただし、農科大学(現:農業生命科学大学)の場合は水原高等農林学校(農林専門学校)が前身であり、さらに同校は大韓帝国期における農商工部の農林学校まで遡るため、部局史レベルでは日本統治時代の記述もなされている。 1946年、京城大学と改称 1946年8月22日 米軍法令102号によって閉鎖。 1946年10月15日 ソウル・水原に立地していた9つの専門学校を統合してソウル大学校となった。 歴代総長 有吉忠一(事務取扱;1924年5月-1924年7月) 下岡忠治(同上;1924年7月-1925年11月) 湯浅倉平(同上;1925年12月-1926年4月) 服部宇之吉(兼任;1926年4月-1927年7月) 松浦鎮次郎(1927年...
  • 帝国大学
    ...閉鎖。建物等はソウル大学校に引継) 台北帝国大学(現在の台湾大学の設立母体) 大阪帝国大学(現在の大阪大学) 名古屋帝国大学(現在の名古屋大学) 歴史 東京 1. 帝国大学(後の東京帝国大学。現在の東京大学) 大日本帝国憲法発布(1889年)までの流れの中、国号が日本から大日本帝国へと定まった。すると、1877年(明治10年)設立の日本唯一の大学「東京大学」を、「大日本帝国の最高学府」と位置付けるために帝国大学令(1886年)が公布され、「帝国大学」に改称・改組した。大学制度の実質的な変化は伴っていない。 京都 2. 京都帝国大学(1897年設立、現在の京都大学) 1897年(明治30年)、日清戦争の賠償金をもとに、第三高等学校の一部の施設を利用し(第三高等学校は移転した)京都帝国大学が設立された。これにより「帝国大学」は「東京帝国大学」と改称した。...
  • 旧制大学
    ...美術学校を併せて工部大学校が成る。 帝国大学令 帝国大学(後に東京帝国大学と名称を変更・東京大学) 京都帝国大学(京都大学) 東北帝国大学(東北大学) 九州帝国大学(九州大学) 北海道帝国大学(北海道大学) 京城帝国大学(ソウル大学)※ただし現在のソウル大学側は、京城帝国大学の後身とは認めていない。 台北帝国大学(台湾大学) 大阪帝国大学(大阪大学) 名古屋帝国大学(名古屋大学)  大学令による設置 第一次世界大戦終結から第二次世界大戦開始前 1919年 府立大阪医科大学(1931年国へ移管し、大阪帝国大学へ昇格) 1915年に専門学校令準拠のまま名称だけは府立大阪医科大学と改称されている。 1920年 東京商科大学(現在の一橋大学、1944年東京産業大学に改称、1947年に再び東京商科大学に改称)、県立愛知医科大学(1931年名古...
  • 永田鉄山
    ...をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小学校)、東京牛込北町・愛日高等小学校を経て、1898年(明治31年)9月に東京陸軍幼年学校に入校する。なお、高島尋常小学校・諏訪高等小学校では「お天気博士」の愛称で知られる中央気象台長の藤原咲平と同級であり、同じく諏訪出身で岩波書店の創立者である岩波茂雄らとは生涯にわたって交友があった。 1903年(明治36年)5月に士官候補生となり兵科は歩兵に指定され、歩兵第...
  • 柳川平助
    ...軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。 陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。 1934年に第一師団長となるが、荒木・真崎の力が衰えた1935年に台湾軍司令官に追いやられる。1936年の二・二六事件の後に予備役編入。 第二次世界大戦時 1937年に第二次上海事変で中国国民党軍を押し切れない上海派遣軍支援のために、第10軍が編成され、柳川が司令官に任命されて現役に復帰、杭州湾上陸作戦を指揮。上海では国民党軍が退却寸前での作戦であったため、十分な戦果を挙げられなかったが、続いての南京戦で戦果を挙げる。 1938年3月に中支那方面軍の再編成に伴い召集解除、帰還。1938年12月に設立された興亜院の初代総務長官。...
  • 東京大学史料編纂所
    ...史料編輯国史校正局、大学校国史編輯局、太政官歴史課、臨時修史局などと変遷している。 1888年(明治21年)、帝国大学(現・東京大学)に修史事業が移管されるが、のちに編年史の編纂は中止と決まり、代わって蒐集した史料自体を編纂、刊行することになり、1895年(明治28年)文科大学(現・文学部)に史料編纂掛が設置される。1901年(明治34年)に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。1929年(昭和4年)に史料編纂所と改称。 戦後は、1950年4月に文学部から独立し、1954年より教授・助教授(現在は准教授)・助手(現在は助教)の教官制となった。 組織 現在の編纂所は研究部、図書部、史料保存技術室、事務室から構成されており、研究部は古代史料部門、中世史料部門、近世史料部門、古文書・古記録部門、特殊史料部門の5部門がある。 また、附属施設と...
  • 内閣総理大臣の一覧
    ... 長州藩山口県 陸軍大学校卒業陸軍軍人 立憲政友会総裁(予備役陸軍大将) 27 17 濱口雄幸はまぐち おさち 濱口内閣1929年7月2日- 1931年4月14日 652 土佐藩高知県 東京帝国大学法科卒業大蔵官僚衆議院議員 立憲民政党総裁在任中狙撃され、外務大臣 幣原喜重郎が1930年11月14日から翌年3月10日まで116日間にわたって臨時代理 28 若槻禮次郎 第二次若槻内閣1931年4月14日- 1931年12月13日 244通算690 (略) (略) 立憲民政党総裁 29 18 犬養毅いぬかい つよし 犬養内閣1931年12月13日- 1932年5月16日† 156 庭瀬藩岡山県 慶應義塾中退新聞記者衆議院議員 立憲政友会総裁在任中襲撃(五・一五事件)† 総理死亡は5月15日午後11時26分 ― (高橋是清) (犬養内閣)1932...
  • 谷寿夫
    ...校卒(15期)、陸軍大学校卒(24期 恩賜)。 陸軍士官学校卒業後、日露戦争に従軍し、イギリス駐在武官(1915年 - 1918年)中、第一次世界大戦にも従軍する。その後、陸軍大学校の教官(兵学)に任命される。その時、兵学の教科書として、日露戦争を研究する時の必読書として知られる、『機密日露戦史』をあらわす。 1935年、第6師団長(熊本)に親補される。1937年12月、中支那方面軍(松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。 1939年、予備役となる。戦後、南京大虐殺の責任を問われ、中国側に身柄を引き渡され、南京裁判にかけられ処刑される。裁判において谷は、申弁書で、掃討戦は第16師団(当時の師団長は中島今朝吾)が起こしたものであり、第6師団は無関係と主張した。 ...
  • 阿部信行
    ...へ。陸士9期生、陸軍大学校19期生。1930年12月22日に第4師団長となる。1933年、軍事参議官。1936年、二・二六事件後の粛軍の結果、陸軍大将を最後に予備役編入。 1939年8月30日に内閣総理大臣に就任した。参謀本部軍務課長・有末精三が内閣成立に暗躍したともいわれる。また同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれた。当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した。しかし阿部内閣は、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし、大戦への不介入方針を掲げた。陸軍の反対もあり、翌1940年1月15日に首相職を辞任、内閣総辞職した。 その後、1942年4月30日に実施された翼賛選挙を前に結成された翼賛政治体制協議会の会長に就任。5月20日に結成された翼賛政治会でも引き続き会長を務めた。1944年より朝鮮総督。その年、...
  • 林銑十郎
    ...(明治36)年、陸軍大学校を卒業。 1905(明治38)年に勃発した日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加。以後、陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務める。1937年(昭和12年)内閣総理大臣。 越境将軍 Template See also? 林内閣は当時から、いろいろと評判の悪い内閣だった。それは多分に林の性格から来ている。林は常に、自分の周囲のぶつ最強硬論を鵜呑みにするところがあったため、軍部内革新派のロボットになりやすいと見られた。満州事変が起こった際、朝鮮軍司令官の職にあった林は、強硬派の参謀・神田正種の進言を入れて、中央の指示なしに(天皇の勅裁を受けていない移動は死刑もあり得る重罪である)朝鮮派遣軍を満州に進め「越境将軍」の異名をとった。 齋藤内閣の陸相時代には、皇道派の重鎮・真崎甚三郎教育総監を辞め...
  • 南次郎
    ...、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身。 生年月日がハーバート・フーヴァー(アメリカ合衆国・第31代大統領)と同じである。偶然にも、南の陸相在任期間(1931年)がフーヴァーの大統領在任期間(1929年 - 1933年)と重なった。 第2次若槻内閣の陸軍大臣の折に満州事変が勃発するが、対応に手をこまねいて結果的に関東軍の方針を全面承認した。また陸相在任中に部下の軍事課長であった永田鉄山が国家総動員法の策定に関わり出した。昭和9年(1934年)には関東軍司令官に就任する。 昭和9年、第8代朝鮮総督になり内鮮一体化を唱え、 民族語の復活 朝鮮語教育の推進 創氏改名により朝鮮人が熱望していた日本名への改名の許可 などの政策により、朝鮮人には「南太郎」と改名した人もいたTemplate 要出典?。南が朝鮮総督として君臨した6年間に朝鮮人の日本人化政策は推進された(ただし、実際...
  • 伏見宮博恭王
    ...0月3日、ドイツ海軍大学校通学 明治28年(1895年) 8月15日、ドイツ海軍大学校卒業 9月、貴族院議員(皇族議員) 10月28日、帰朝 10月29日、巡洋艦「厳島」分隊士 明治29年(1896年)4月20日、巡洋艦「松島」乗組 明治30年(1897年) 1月9日、徳川経子と成婚 3月17日、砲術練習所学生 7月19日、呉水雷団水雷艇隊附 9月14日、呉水雷団水雷艇隊艇長心得 12月1日、海軍中尉・戦艦「富士」分隊長心得 12月8日、第一王子博義王誕生 12月27日、海軍大尉・富士分隊長 明治31年(1898年)11月14日、第一王女恭子女王誕生 明治32年(1899年)8月26日、装甲巡洋艦「浅間」分隊長 明治33年(1900年)10月13日、砲術練習所教官兼分隊長 明治34年(1901年)6月10日...
  • 武藤章
    ...late 和暦?陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎らが同期。 Template 和暦?、盧溝橋事件に際して参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として赴いた。 Template 和暦?に陸軍省軍務局長、Template 和暦?に近衛第2師団長(スマトラ・メダン)、Template 和暦?に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。武藤は参謀として、著名な軍人の下で軍務を尽くしたと言われている。陸軍省軍務局長の時、東條英機との考えの相違により軍中枢から近衛第2師団長に遠ざけられる。東條の失脚後は、第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望により第14方面軍参謀長に任命され、フィリピンの地で終戦を迎えた。東京裁判のため日本に戻された。 戦後、東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を...
  • 荒木貞夫
    ...1907年11月陸軍大学校を首席で卒業。 第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任。 1931年より犬養毅・斎藤実内閣陸相。1934年、軍事参議官。1935年、男爵。1936年、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。 1938年~1939年、第1次近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣文相として国民の軍国化教育に邁進した。 A級戦犯に処せられて終身禁固の判決を受け服役。1955年、仮釈放。東京裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が、他の被告人らを奮い立たせたともいわれている。非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェッブ裁判長から注意された。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。しかし、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な...
  • 土肥原賢二
    ...12年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるが、このとき諸外国にその事実が露顕した際には、溥儀もろともその乗船を沈没させる予定だったとも言われる。 その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省に冀東防共自治政府を成立させた。土肥原は、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「満州のローレンス」と畏怖された。特務機関畑を中心に要職を歴任し、陸軍士官学校長も務めた。 戦犯 第二次世界大戦終結後、A級戦犯としてGHQに逮捕される。極...
  • 渡辺錠太郎
    ...900年12月 陸軍大学校入校(17期) 1903年12月 陸大卒業、歩兵36連隊中隊長及び大尉任官 1904年7月より9月 日露戦役に出征、負傷 1904年10月 大本営参謀 1905年9月 元老山縣有朋の副官 1906年 清国出張 1907年 ドイツ駐在 1908年12月 少佐任官 1909年5月 ドイツ大使館付武官補佐官 1910年6月 参謀本部勤務 1910年11月 山縣元帥副官 1913年1月 中佐任官 1915年2月 歩兵3連隊付 1916年5月 参謀本部課長 1916年7月 大佐任官 1917年10月 オランダ公使館付武官 1920年8月 歩兵第29旅団長及び少将任官 1922年9月 参謀本部第4部長 1925年5月 陸軍大学校校長及び中将任官 1926年3月 第7師団長 1929年3月 航...
  • 牧野伸顕
    ... |出身校 = 大学校(中途退学) |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = 牧野峰子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第27代外務大臣 |内閣 = 第1次山本内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1913年2月20日 |退任日 = 1914年4月16日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 第24代農商務大臣 |内閣2 = 第2次西園寺内閣 |選挙区2 = |当選回数2 = |就任日2 = 1911年8月30日 |退任日2 = 1912年12月21日 |退任理由2 = |元首職2 = |元首2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第30代文部大臣 |内...
  • 学習院
    ...が麹町区三年町の工部大学校跡に移転する。 1889年(明治22年) 華族女学校が麹町区永田町に移転する。 1890年(明治23年) 学習院が四谷区尾張町に移転する。 1906年(明治39年) 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称する。 1908年(明治41年) 東京府下高田村(現・目白)に移転する(初等学科と女学部は旧位置)。 1918年(大正7年) 女学部が青山に移転して、女子学習院となる。 1919年(大正8年) 学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改める。 1928年(昭和3年) 学習院開校創立五十年祝典を挙行する。 1935年(昭和10年) 女子学習院開校五十年記念式を挙行する。 1946年(昭和21年) 女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の都立小金井公園の敷地内)に移転する...
  • 木村兵太郎
    ...、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。 昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。 ビルマからの撤退 Template see also? 昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導はほぼ不可能な状態に陥っていた。 4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシヤン高原に前進させ、...
  • 小磯國昭
    ...学校(12期)・陸軍大学校(22期)卒業。陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・朝鮮総督などを歴任。 朝鮮軍司令官時代に、大命が降下された宇垣一成から陸相入閣要請があった。この要請は軍部大臣現役武官制のため、陸軍が陸相候補を擁立拒否をしたため、現役武官だった小磯を入閣させて、宇垣内閣を発足させることを意図したものであった。結局、小磯は入閣しなかったため、宇垣内閣は組閣流産となった。 1922年(大正11年)の欧州航空兵力視察の経験から、空軍力の充実が持論であった。1948年(昭和23年)、戦犯として極東国際軍事裁判で終身禁錮刑となり、巣鴨プリズン内で食道癌により死去。Template 享年?。 首相就任後の迷走 アメリカ軍が本土に迫り風雲急を告げるとき、後継首班の選出はあまりにも安易なものだった。東條英機を退陣させることで重臣の意見が一致し、東条内閣を倒閣した後の後...
  • 真崎甚三郎
    ...戦争に従軍。 陸軍大学校第19期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。 久留米俘虜収容所長2006年公開の映画「バルトの楽園」で板東英二が演じた久留米俘虜収容所長は真崎がモデルとみられる。、陸軍大佐、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、陸軍少将、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、陸軍中将、第8師団長、1929年7月1日からは第1師団長、台湾軍司令官、参謀次長兼軍事参議官を歴任。 陸軍士官学校校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。1932年参謀次長に就任後、荒木貞夫陸軍大臣とともに国家革新を図る皇道派を形成。勢力伸張を図り、中堅将校たちの信望を担ったが、後に党派的な行動が反発を買い、統制派を生むことになる。 肩書きは参謀次長であったが、当時参謀総長閑院宮載仁親王の下...
  • 石原莞爾
    ...令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した論文(『...
  • 鈴木貞一
    ...)、1917年に陸軍大学校(29期)を卒業。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在。 1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。 鈴木は前述の通り、「背広を着た軍人」と呼ばれていたように、実戦部隊での経験はあまり無く、対外的・官僚的な仕事に携わるケースが多かった。1931年の満州事変勃発に伴い、軍務局勤務になると同時に、自らが代表となって満蒙班を立ち上げ、ほぼ独断といった状態で満洲政策を推し進めることとなる。その際、白鳥敏夫や森恪と連携して国際連盟脱退論を主張し、軍部における連盟脱退推進派としてその名...
  • 河本大作
    ...業し、大正3年に陸軍大学校(26期)を卒業した。 張作霖爆殺事件 関東軍高級参謀として勤務していた昭和3年6月4日、北京から満州に帰還する途上にあった張作霖を奉天近郊の南満州鉄道線路上で爆殺した(当時は満州某重大事件と報道された)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の仕業であるとも報道されていたが、その後の調査で河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉及び朝鮮軍から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉らを使用して実行したと判明した。 昭和天皇の意向により内閣が総辞職するほどの重大事件にもかかわらず、河本の処分は予備役に回されるのみの軽いものであった。 事件以後 その後は関東軍時代の伝手を用いて、昭和7年に南満州鉄道の理事、その後昭和9年には満州炭坑の理事長となった。張作霖事件の責任を一身に負ったことが関東軍に評価された為と言われ...
  • 寺内寿一
    ...42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業 1919年(大正8年)7月 大佐に昇進 1919年(大正8年)12月 伯爵を襲爵 1924年(大正13年)2月 少将に昇進 1926年(大正15年)9月 山陽本線特急列車脱線事故に遭遇。34名も死亡した事故であったが、寺内は無傷であった。 1927年(昭和2年) 朝鮮軍参謀長 1929年(昭和4年)8月 中将に昇進 1930年(昭和5年) 第5師団長 1932年(昭和7年)1月9日 第4師団長 1933年(昭和8年)6月17日 ゴーストップ事件 1934年(昭和9年) 台湾軍司令官 1935年(昭和10年)10月 大将に昇進 1936年(昭和11年)3月9日 広田内閣において陸軍大臣に就任 1937年(昭和12年)1月 政友会の代議士浜田国松と腹切り問答 1937年(昭和12年)2月 教育総監 1937年(昭和...
  • 洪思翊
    ...、1923年には陸軍大学校(35期)も卒業している。彼は士官学校時代からの旧友である韓国光復軍司令官池青天から、大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして、旧友の招聘を断った。だがその一方で、池青天を含む旧韓国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援したり(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった)、創氏改名が行われた時も、最後まで改名を行わず、姓の洪をそのまま氏とした。この点、親日派ではあるが媚日派ではなく、朝鮮民族の矜持を持っていたと高く評価する声もある。また、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。 洪はその卓越した能力と研鑽で昇進を遂げ、1941年には陸軍少将に進級、歩兵第108旅団長となり、1944年3月比島俘虜収容所長とし...
  • お雇い外国人
    ...・ダイアー - 工部大学校(現東京大学工学部)初代都検 (英) ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - フォッサ・マグナの発見、ナウマンゾウ (独) 外交 ヘンリー・デニソン - 外務省顧問。下関条約・ポーツマス条約交渉(米) 医学 エルウィン・ベルツ - 医学 (独) フェルディナント・アダルベルト・ユンケル - 医師 (墺) テオドール・ホフマン - 軍医 (独) レオポルト・ミュルレル - 軍医 (独) 法律 グイド・フルベッキ (Verbeck, Guido Herman Fridolin 1830-1898) - 法律、旧約聖書の翻訳(蘭) ボアソナード - 民法(仏) アルベルト・モッセ (Albert Mosse) (独) オットマール・フォン・モール (Ottmar von Mohl 1848-1922) - (独) ヘルマン・ロエスエル ...
  • 宇垣一成
    ...ら陸軍士官学校、陸軍大学校卒。陸軍大将従三位勲一等功四級。拓殖大学第5代学長。元参議院議員。 略年譜 慶応4年(1868年)、備前国磐梨郡潟瀬村大内(現・岡山県岡山市瀬戸町大内)の農家に5人兄弟の末子として生まれる。幼名は杢次(もくじ)。 明治23年(1890年)7月26日、陸軍士官学校卒業(1期)。 明治24年(1891年)3月24日、陸軍歩兵少尉任官。 明治29年(1896年)、一成と改名。 明治33年(1900年)陸軍大学校卒業(14期恩賜)。 明治35年 - 明治37年(1902年 - 1904年)最初のドイツ留学。この間に最初の妻・鎮恵死去。 明治39年(1906年)、2度目のドイツ留学。 明治40年(1907年)、小原貞子と再婚。 明治43年(1910年)、陸軍大佐に昇進。 大正2年(1913年)、山本内閣の陸海軍大臣現役制廃...
  • 阿南惟幾
    ...)、三男惟敬(元防衛大学校教授)、四男惟正(元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)、五男惟道(野間家へ養子、元講談社社長)、六男惟茂(元駐中国大使)。 戦後しばらくして、妻阿南綾子は出家した。なお阿南陸相は昭和天皇からは”あなん”と呼ばれていた。 阿南の終戦への思いをめぐる諸説 戦時最後の陸軍大臣を務めた阿南は、昭和天皇の聖断が下る最後の瞬間まで当然のごとく戦争継続を主張し続けたが、戦後、当時の阿南の真意をめぐっては、 当時書記官長であった迫水久常によれば、終戦を望む天皇の真意を悟り、また本土決戦を主張しつつも阿南自身の本心も終戦にあり、極秘裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと言う。ただし表向きは、天皇が最も恐れた「終戦に反発する陸軍の暴発」と、「倒閣」を阻止するため、強硬な言動により主戦論を装い戦争継続を主張し続けたと迫水は推測している(いわゆる腹芸説。も...
  • 松井石根
    ...校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)を卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍した。 中国に駐在中は孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。昭和8年(1933年)に大亜細亜協会の設立発起人となり(後に会長に就任)、同年8月には台湾亜細亜協会を設立した。また日本に留学した蒋介石とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相田中義一との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。昭和9年(1934年)4月勲一等旭日大綬章。軍紀に厳しいことで知られ、昭和3年(1928年)に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では、松井を頑固者扱いして、敬遠する声も多かったと言われている)。 日中戦争期 日中戦争勃発前は予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰、上海派遣軍...
  • 板垣征四郎
    ...16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。昭和7年(1932年)、建国した満州国の執政顧問となる。次いで満州国軍政部最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館付武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月~1937年3月)。 日中戦争(支那事変)以降 thumb|left|250px|衆議院予算総会の大臣席で言葉を交わす板垣陸相(左)と[[米内光政|米内海相、米内の右で顎をさわるの...
  • 学校教練
    学校教練(がっこうきょうれん)とは、第二次世界大戦以前の日本の学校における教練をいう。軍事教練ともいう。これによって配属された陸軍現役将校を一般に配属将校という。 学校教練を履修した者は陸軍では幹部候補生(学校教練制度設立当初は一年現役兵)を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられた。 目的 本制度設立の目的としては、主に次の点が考えられる。 総力戦であった第1次世界大戦の経験に鑑みて、広く軍事的予備教育を施す必要が認識された。 宇垣軍縮により剰員となる相当数の陸軍現役将校の予備役編入(失業)を防止し、補職を確保する必要があった。 配属を受けた学校 1925年(大正14年)4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布された。同令によって、一定の官立又は公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属された。私立学校につ...
  • 旧制高等学校
    旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)とは、1950年まで存在した日本の高等教育機関の1つで、2つの高等学校令(1894年および1918年)に基づき設置されたもの、を指す。1886年の中学校令により設立されていた第一~第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を、1894年高等学校に改組して始まった。当初は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制の2系統があったが、学部は順次廃止ないし専門学校として分離され、大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正後は各地で増設され、大学予科は本科に、さらに文科・理科に分かれた。後期には4年間の前置課程を含めた7年制のものもある。 Template 右? 概要 1894年の高等学校令では、専門学科の教育を行なう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定されていた。しかし、専門学科教育は主流となる...
  • 大日本帝国陸軍
    ...、陸軍士官学校・陸軍大学校という近代的士官教育制度確立後は、兵科間であるとか、陸軍大学校を経たエリートたる中央幕僚(陸軍大学校卒業徽章が天保通宝に似ていることから天保銭組と俗称された)と隊付将校(無天組)との間であるとか、派閥間の思想又は人事上の対立(皇道派・統制派の対立)など、無数の内部的な抗争を生みやすい状況であった。 また、関東軍など、外地に所在する現地部隊が、中央の統制を充分に受けずに行動するなどの問題点も抱えていた。そのため、「スマートネイビー」を標榜とする海軍とは、偏った陸軍悪玉海軍善玉論等に影響され対照的にイメージされやすく、日本陸軍に対する悪い印象は一般的である。また、映画などでも陸軍将校の横暴が描かれることが多い。 最後の陸軍大臣下村定大将は敗戦後の第89回帝国議会において、斎藤隆夫代議士からの質問に対して、日本陸軍を代表して問題点を総括している(昭和20年11...
  • 日本の学校制度の変遷
    日本の学校制度の変遷(にほんのがっこうせいどのへんせん)では明治から現代の日本における学校制度のうつりかわりをまとめる(以下、戦前の教育課程はほとんど「學校」と表記するのが正しいが、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により「学校」と書く)。 文部科学省ホームページ ~戦前の学校系統図表 http //www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html 大正~太平洋戦争初期の学制 師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり複線型教育の特色がかなり強い。 ...
  • 教育総監
    ... 参謀本部 陸軍大学校 兵科 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月4日 (日) 05 12。     
  • 軍令部
    ...)卒業期・海大(海軍大学校)卒業期)]) 就任日 仁礼景範(海軍少将・鹿児島):1886年3月16日  海軍軍令部長から参謀本部次官、更に参謀本部海軍部長に改称。 伊藤雋吉(海軍少将・京都):1889年3月8日 海軍参謀部長に改称。 有地品之允(海軍少将・山口):1889年5月17日 井上良馨(海軍少将・鹿児島):1891年6月17日 中牟田倉之助(海軍中将・佐賀):1892年12月12日 海軍参謀部長から海軍軍令部長に改称。 樺山資紀(海軍中将・鹿児島):1894年7月17日 伊東祐亨(海軍中将・鹿児島):1895年5月11日 東郷平八郎(海軍大将・鹿児島):1905年12月19日 伊集院五郎(海軍中将・鹿児島・海兵5期):1909年12月1日 島村速雄(海軍中将・高知・海兵7期):1914年4月22日 山下源太郎(海軍大将・山形・海兵10期):1920年1...
  • 田中隆吉
    ...大正8年) - 陸軍大学校入学(34期生)。 1922年(大正11年) - 陸軍大学校卒業。野砲兵連隊に帰任。 1923年(大正12年) - 陸軍大尉任官。参謀本部に赴任。 1924年(大正13年) - 参謀本部支那班に所属。この頃、大川周明と関係。 1927年(昭和2年)7月 - 参謀本部付・支那研究生として北京・張家口に駐在(特務機関任務)。 1929年(昭和4年)8月 - 陸軍砲兵少佐任官。参謀本部支那課兵要地誌班に異動。 1930年(昭和5年)10月 - 上海公使館附武官として上海に赴任。川島芳子と出会い、男女の仲になる。川島をスパイの道に引き入れる。 1932年(昭和7年) 1月 - 上海事変。田中と川島は共謀し、上海事変を引き起こす謀略を実行する。 8月 - 野砲兵第4連隊の大隊長に着任。 1934年(昭和9年)3月 - 陸軍中佐...
  • 東條英機
    ...目にしてようやく陸軍大学校に合格し、入学(27期生)した。1914年(大正3年)には二男の輝雄(元三菱自動車工業社長)誕生。1915年(大正4年)に陸軍大学校を卒業し、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第三連隊中隊長に就く。1918年(大正7年)には長女が誕生、翌1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。 1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、10月23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女満喜枝が誕生している。1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇任。1925年(大正14年)に三男敏夫が誕生。1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。1928年(昭...
  • 東久邇宮稔彦王
    ...、陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業。1915年(大正4年)に予定どおり明治天皇の第9皇女泰宮聡子(としこ)内親王と結婚。1920年(大正9年)にフランスに留学し、フランス陸軍大学を卒業。卒業後もパリでの愛人との生活に耽溺し、たびたびの帰国命令を拒み続けた。結局、大正天皇の死と大葬を契機に、おりからロンドンに留学中だった秩父宮がパリに乗り込んで直談判し、ようやく帰国させた。帰国した時には皇族のなかでも自由主義者として知られるようになっていた。 その後、第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任。日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将であった。日米開戦直前の1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がる。皇族を首相にして内外の危機を押さえようとする構想であったが、皇室に累を及ぼさぬようにということでこの...
  • 参謀本部 (日本)
    ...隊の参謀部並びに陸軍大学校、軍用電信隊を統括した。 参謀本部長は、皇族が勅任されるものと定められ、有栖川宮熾仁親王(陸軍大将、在任 1886年3月18日 - 1888年5月14日)が任じられた。本部次長は陸海軍将官からそれぞれ1人が充てられた。 参謀本部陸軍部 第1局:陸軍出師に係る計画を掌り、団隊の編制及び布置を規定することを任とする。 第2局:外国の兵制、地理、政誌を詳悉し、作戦の計画を掌り、団隊一般の教育に係る事項を調査、規画することを任とする。 第3局:陸地、海岸防御の方法に係る事項を規画し、全国地理、政誌を詳悉し、運輸の便否方法を調査することを任とする。 歴代参謀本部次長 曾我祐準 中将(1886年3月16日 -) 小沢武雄 中将(1886年7月26日 - 1888年5月12日) 参謀本部海軍部 Template main? 支部 「...
  • 台北帝国大学
    台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は、日本領時代の台湾に設置された帝国大学。当時は臺北帝國大學と表記された。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/...
  • 梅津美治郎
    ...暦?11月 - 陸軍大学校卒業(23期首席)。 Template 和暦?3月25日 - 大尉に昇進。歩兵第1連隊中隊長。 Template 和暦?6月1日 - 少佐に昇進。 Template 和暦?2月8日 - 中佐に昇進。 Template 和暦?12月15日 - 大佐に昇進。歩兵第3連隊長。 Template 和暦?12月1日 - 参謀本部編制動員課長。 Template 和暦?8月10日 - 陸軍省軍務局軍事課長。 Template 和暦?8月1日 - 陸軍少将に昇進。歩兵第1旅団長。 Template 和暦?8月1日 - 参謀本部総務部長。 Template 和暦?11月1日 - 駐スイス公使館付武官。 Template 和暦?3月5日 - 支那駐屯軍司令官。 8月1日 - 陸軍中将に昇進。 Template 和暦?8月1日 - 第2師団長。 Te...
  • 鈴木貫太郎
    ...(明治31年)、海軍大学校を卒業。日露戦争では、駆逐隊を率いて戦艦3隻を撃沈するなどの大戦果を挙げた。 その後ドイツに駐在、1914年(大正3年)、海軍次官となり、シーメンス事件の事後処理を行う。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。 1929年(昭和4年)に天皇と皇太后に侍従長就任を懇願され予備役に。1936年(昭和11年)年に起きた二・二六事件では、青年将校らに襲撃された。一命を取り留めたが、侍従長を辞任した。 1944年(昭和19年)に枢密院議長となり、1945年(昭和20年)4月総理就任。総理大臣としては非国会議員・江戸時代生まれこれに関しては微妙なところで、一般に「江戸時代」の終わりは大政奉還とされるが、これは鈴木が生まれる前の慶応3年10月14日(1867年11月15日)である。一方、明治への...
  • 閑院宮載仁親王
    ...学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊付を経て1891年(明治24年)帰国。 同年12月19日、三条実美の二女智恵子と結婚。日清戦争では当初第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘の際、伝令将校として弾雨を冒して馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピソードを残した。その後騎兵第一連隊長、参謀本部に勤務の後、1901年(明治34年)に陸軍少将に進級し騎兵第二旅団長に就任。 日露戦争では、1904年(明治37年)10月12日の本渓湖の戦いで旅団を敵の側背に進出の上、不意討ちの攻撃を実行し、ロシア軍を敗走させた。またこの時、親王のアイデアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用したことも日本軍の勝利に大いに貢献したという。その後満州軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後陸軍中将に進級した。 1912年(大正元年)に陸軍大将となり、19...
  • 満州国軍
    ...世界大戦後の防衛医科大学校にも引き継がれている。 解散 多くの民族で構成され、拡充が進められた満州国軍であったが、あくまでも傀儡国家の軍隊であり、事実上関東軍の支配下にあった軍隊であったため、不満を持つ軍人も多く、ノモンハン事変の際に石蘭支隊歩兵第14団第1営による反乱事件が起こり、大戦末期にソ連軍が侵攻してくるとソ連軍に離反する者が相次ぐなど、離反者は後を絶たなかった。 1945年8月18日に皇帝溥儀が退位を宣言し、満州国が消滅したことで、満州国軍も正式に解散された。満州国軍の要人の多くは、ソ連の捕虜となった後中華人民共和国に引き渡されて戦犯収容所に収監されるなどして処罰された。構成員はソ連撤退後に国共内戦が発生した際に、国民党軍や人民解放軍に編入された。 満州国軍が参戦した戦役 満州国軍が参戦した戦役。 1933年、熱河省侵攻作戦 1937年-1945...
  • 日英関係
    ... 1873年 工部大学校設立。御雇い外国人としてイギリス人が教授に就任。 1879年 音吉(1867年没)の息子、横浜で日本国籍を取得。 1886年 ノルマントン号事件。イギリス籍のノルマントン号が沈没した際、イギリス人船長や船員が白人客だけとともに救命ボートで脱出し、日本人乗客25人が全員死亡。船員はイギリスの領事裁判により全員無罪、後に再審で船長のみが軽罪。日本側が憤激し、不平等条約の改正要求が強まる。 1894年 日英通商航海条約は青木周蔵とキンバレー外相の間で調印。治外法権の撤廃で不平等条約が一部撤廃。 1896年 アイルランド人のラフカディオ・ハーン、イギリスから日本へ帰化し、小泉八雲を名乗る。 1899年 田中銀之助、慶應義塾の塾生にラグビーのルールを伝授し、日本にラグビーを初めて伝えた人物となる。 1900年 夏目漱石、文部省研究員としてロンドンへ留学(...
  • 国民学校
    国民学校(こくみんがっこう)とは、第二次世界大戦、太平洋戦争の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校のことである。ナチス・ドイツの初等教育に起源をもつ。 国民学校は、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「少国民」の育成がめざされていたともいわれている。 1941年(昭和16年)の国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づいて作られ、6年の初等科と2年の高等科からなり、初等科は、それまでの尋常小学校などを母体とし、高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていた。国民学校令の施行とともに、それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は、すべて国民学校とされた。 国民学校令においては、それまで6年間だった義務教育を8年間に延長する規定が設けられたが、施行が延期され、国民学校令による義務教育期間の延長は行われなかった。 第二...
  • 岡田啓介
    ...年6月7日 - 海軍大学校教官。 1904年7月13日 - 海軍中佐に進級。 1906年5月11日 - 海軍水雷学校教官。 1908年9月25日 - 海軍大佐に進級。海軍水雷学校校長。 1910年7月25日 - 装甲巡洋艦春日艦長。 1912年12月1日 - 戦艦鹿島艦長。 1913年12月1日 - 海軍少将に進級。 1915年12月13日 - 海軍省人事局長。 1917年12月1日 - 海軍中将に進級。 1920年10月1日 - 艦政本部長。 1923年5月25日 - 海軍次官。 1924年6月11日 - 海軍大将に進級。軍事参議官。 12月1日 - 第一艦隊司令長官。連合艦隊司令長官。 1926年12月10日 - 横須賀鎮守府司令長官。 1927年4月20日、1932年5月26日 - 海軍大臣を拝命。 1933年1月21日 - 予備役編入。 19...
  • 野村吉三郎
    ...が豊富であった。海軍大学校は出ておらず、「僕を教えられる人がいるのかね」と言ったという逸話がある。後にアメリカ大統領となるフランクリン・ルーズベルト(米海軍次官 1913−20年)ら海外の政治家とも親交があった。やがて大正15年(1926年)には軍令部次長となり、以後呉・横須賀の両鎮守府司令長官などを歴任した。 昭和7年(1932年)、第三艦隊司令長官として上海事変に参加している折に、朝鮮人尹奉吉によるテロ事件にあって右目を失明する。一命を取り留めて海軍大将昇進および勲一等旭日大綬章を受章、昭和12年(1937年)海軍を退役して学習院院長となる。 日米交渉とその決裂 野村は国際法の権威であったことから、昭和14年(1939年)9月25日、阿部内閣において外務大臣に抜擢される。また昭和16年(1941年)1月、日米関係が悪化の一途をたどる中、ルーズベルトとは旧知の間...
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