chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「大学院進学率」で検索した結果

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  • 帝国大学
    ...学群- 大学院 大学院進学率 学制改革 - 新制大学 高等教育 教育学 学歴 講座制と学科目制 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月2日 (土) 04 31。     
  • 日本の学校制度の変遷
    日本の学校制度の変遷(にほんのがっこうせいどのへんせん)では明治から現代の日本における学校制度のうつりかわりをまとめる(以下、戦前の教育課程はほとんど「學校」と表記するのが正しいが、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により「学校」と書く)。 文部科学省ホームページ ~戦前の学校系統図表 http //www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html 大正~太平洋戦争初期の学制 師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり複線型教育の特色がかなり強い。 ...
  • 旧制大学
    旧制大学(きゅうせいだいがく)とは、日本において学校教育法(1947年4月1日施行)より前の学校制度における大学の全般を指す言葉である。 旧制大学については、第二次世界大戦後の1947年に施行された学校教育法によって新規に設立された大学(新制大学)と対比する意味で用いられる事が多い。なお、新制大学のうち国立大学については、国立学校設置法(1949年施行、2004年廃止)によって設置された。 旧制大学は、現在(1991年の大学設置基準の大網化以降)の大学の3・4年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程などに相当すると考えられている。現在の大学の1・2年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。なお、旧制大学には旧制専門学校に相当する専門部という組織も設置されていたことがあった。 定義 旧制大学とは、学制、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学である。第二次...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 旧制高等学校
    旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)とは、1950年まで存在した日本の高等教育機関の1つで、2つの高等学校令(1894年および1918年)に基づき設置されたもの、を指す。1886年の中学校令により設立されていた第一~第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を、1894年高等学校に改組して始まった。当初は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制の2系統があったが、学部は順次廃止ないし専門学校として分離され、大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正後は各地で増設され、大学予科は本科に、さらに文科・理科に分かれた。後期には4年間の前置課程を含めた7年制のものもある。 Template 右? 概要 1894年の高等学校令では、専門学科の教育を行なう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定されていた。しかし、専門学科教育は主流となる...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • マイナー・シール・ベイツ
    マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates、1897年5月28日-1978年10月)アメリカ合衆国-オハイオ州ニューアーク出身の歴史学者。イェール大学で博士号を取得、金陵大学副学長を歴任。1937年12月、南京攻略戦において、南京安全区国際委員会の一員として中国市民を保護する活動に従事した。 略歴 1916年 ハイラム学院において文学士号を得る オックスフォード大学に入学 第一次世界大戦中に世界YMCAの書記としてインドやメソポタミヤに派遣され、戦時中の民衆救済活動に参加 1920年 オックスフォード大学卒業 1920年 基督会によって宣教師に任命、南京の金陵大学の歴史学教授に就任 1923年 金陵女子文理学院教師リリア・ロビン(Lilliath Robbins)と結婚 1934年-1935年 ハーヴァード大学にて日本語・ロシア語を学ぶ...
  • 東京大学史料編纂所
    東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称 Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。 沿革 史料編纂所の起源は、1793年(寛政5年)に開設された塙保己一の和学講談所とされる。明治維新後、史料編輯国史校正局、大学校国史編輯局、太政官歴史課、臨時修史局などと変遷している。 1888年(明治21年)、帝国大学(現・東京大学)に修史事業が移管されるが、のちに編年史の編纂は中止と決まり、代わって蒐集した史料自体を編纂、刊行することになり、1895年(明治28年)文科大学(現・文学部)に史料編纂掛が設置される。1901年(明治34年)に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。1929年(昭...
  • 滝川事件
    滝川事件(たきがわじけん)は、1933(昭和8)年に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。京大事件とも呼ばれる。 経緯 事件の発端 事件は、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容(トルストイの思想について「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」...
  • 台北帝国大学
    台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は、日本領時代の台湾に設置された帝国大学。当時は臺北帝國大學と表記された。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/...
  • 九州大学生体解剖事件
    九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現在の九州大学)医学部において米軍捕虜に対する生体解剖実験が行われた事件である。相川事件とも言われる。 概要 1945年5月、九州方面を爆撃米空軍は福岡市において市街地に対して無差別爆撃を敢行している。(上坂(1982)、34頁)するために飛来したB-29が熊本県・大分県境で撃墜され、搭乗員のウイリアム・フレドリック少佐ら12名が捕らえられた。西部軍司令部は、裁判なしで12名の搭乗員の内、8名を死刑処分とすることにした。それを知った九州帝大卒で病院詰の小森見習士官は、岩山福太郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュ...
  • 鹿鳴館
    鹿鳴館(ろくめいかん)とは外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ。 経緯 計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため、井上は日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。 それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは三田の蜂須賀邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束...
  • 平泉澄
    平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月16日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。白山神社第3代宮司、名誉宮司。皇学館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。専門は日本中世史。福井県出身。 戦前戦中に、いわゆる皇国史観を主導し、政治・社会・学界に大きな影響を与えた。 略年譜 1895年(明治28年)、誕生。 1901年(明治34年)、龍池尋常小学校入学。 1905年(明治38年)、成器高等小学校入学。 1907年(明治40年)、大野中学校入学。 1912年(大正元年)、第四高等学校入学。 1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科入学。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学国史学科卒業。 1921年(大正10年)、文部省宗教制度調査嘱託。 1923年(大正12年)、...
  • 南京安全区国際委員会
    南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone)とは、日中戦争初期の南京攻略戦に際し、市外に避難できなかった中国市民を、南京城内の一部を安全区として保護するために設けられた委員会。第二次上海事変に際して南市に設立された安全区を手本に、南京に残留した欧米人が中心となって結成された。 略歴 1937年11月17日 ベイツ、スマイス、ミルズの3人は、アメリカ大使館員ウイリヤ・R・ペックに、南京に安全区を設置する計画を説明し、中華民国・日本両政府に認知させるための仲介役を依頼する。同日、ミニー・ボートリンからも、同趣旨の手紙を受け取る。このことを受け、ペックは、国民政府立法院委員長・孫科、抗戦最高統帥部第二部長・張群、南京市長・馬超俊らに非公式に伝えた。 11月22日 ...
  • 学徒出陣
    学徒出陣(がくとしゅつじん)とは第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。それまで(旧制)高校や(旧制)大学に在籍する学生は、26歳まで徴兵猶予されていた。 概要 日本は1937年(昭和12年)以来、当初は中華民国、続いて1941年(昭和16年)からはアメリカ合衆国・イギリスなどとの長期戦を続けていた。特にアジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や1942年(昭和17年)以降の戦局悪化で戦死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。 従来、兵役法などの規定により大学(旧制大学)・高等学校(旧制高等学校)・専門学校(旧制専門学校)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予...
  • 洪思翊
    Template 韓国の人物? Template 基礎情報 軍人? 洪 思翊(ホン・サイク、こう しよく;1889年3月4日 - 1946年9月26日)は朝鮮人の日本陸軍軍人。陸軍中将。戦犯としてフィリピンで処刑された。 出自 1889年、京畿道安城の両班の家に生まれた。本貫は南陽洪氏である。1905年の日韓保護条約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校に入学している。1909年に陸軍武官学校廃止にともない、日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年の日韓併合に衝撃を受けて抗日独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪思翊は現在決起するのは朝鮮の独立を回復するのに繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきとして級友達と路線を分かつ。 軍歴 1914年に陸軍士官学校...
  • 高橋是清
    Template 日本の内閣総理大臣? 高橋 是清(たかはし これきよ、愛称だるまさん、1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任 1921年(大正10年)11月13日 - 1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次。 経歴 嘉永7年閏7月27日幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。母のきんは魚屋の娘で川村家に子守奉公にきていた女中であった。庄右衛門の妻は身重になったきんに同情しこっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させときどき見舞って世話をしたという『高橋是清―財政家の数奇な生涯』 7頁 。生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子に出される。 その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院...
  • 松岡洋右
    {{政治家 |各国語表記 = まつおか ようすけ |画像 = Yōsuke Matsuoka.jpg |画像説明 = 松岡 洋右 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1880年3月4日 |出生地 = 山口県光市室積 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 東京都 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第63代外務大臣 |内閣 = 第2次近衛内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1935年 |退任日 = 1939年 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} 松岡 洋右(まつおか ようすけ、明治13年(1880年)3月4日 - 昭和21年(...
  • 顧維鈞
    Template 中華圏の人物? 顧維鈞(こいきん 光緒14年(1888年)1月29日-1985年11月14日)は、中華民国の国民党政府の外交官出身の政治家。字は少川(しょうせん シャウツァン Shǎochuān)、欧名はヴィ=キュイン・ウェリントン・クウ(Vi-Kyuin Wellington Koo)。外交総長、国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議、関税会議の各中国全権代表などの要職を歴任した。 祖父は郷紳の出身で、江蘇省嘉定県(現 上海市嘉定区)の官職にあったが、太平天国の時期に暴徒によって拷問の上、殺害され、財産を奪われた。顧の誕生後、父・顧溶は官営の招商局所属の汽船の会計係となり、生活は安定した。 1899年キリスト教衛理公会経営の上海英華学院に入学、初めて英語を学習した。1900年には病気のため、実家の近くにある育才学校に転校。 1901年キリスト教聖...
  • 大隈重信
    Template 日本の内閣総理大臣? 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現:早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。 略歴 生い立ち 佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政...
  • 梁鴻志
    梁 鴻志(りょう こうし、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1882年 - 1946年11月9日)は、中国の中華民国時代の政治家。字は衆異。福建省長楽県(現在の福州市長楽市)の人。北京政府安徽派の有力政治家で、後に中華民国維新政府の首脳を務めたことで知られる。 事跡 安徽派時代 6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後の光緒29年(1903年)に挙人となる。光緒31年(1905年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。光緒34年(1908年)の卒業後、山東省の登莱高胶道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。 民国5年(1916年)6月の袁世凱死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段...
  • 宮中顧問官
    宮中顧問官(きゅうちゅうこもんかん)は、皇室または王室制度が存在する国の官職。多くの場合名誉職的な意味合いが強い。 日本の宮中顧問官 日本では、大日本帝国憲法下で宮内大臣の諮問に応じる職であった。 内閣制度創設の際に、明治18年太政官達第68号により内閣とは別に宮内大臣・内大臣と並んで設置された。名称中に「宮中」とあるように、戦前の日本では皇室・皇族関連を宮中、内閣以下政府を府中とし、宮中の制度に政府は関与できなかった。勅任官で、国家に勲功のあった者の中から選ばれた。1945年11月24日に廃止された。 主な任官者 池田謙斎(陸軍一等軍医正男爵医学博士、侍医局長) 伊地知正治(伯爵、修史館総裁、一等侍講、宮内省御用掛) 伊藤博文(内閣総理大臣、枢密院議長:1889年10月30日~1891年6月30日?) 井上馨(侯爵、大蔵大臣、明治20年9月-明治21年7月...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 義和団の乱-2
    前半は、義和団の乱参照 義和団の乱の影響と評価 影響 1―中国国内の影響― 改めて強調するまでも無く、義和団の乱は国内外に様々な影響を残した。まず国内的な影響について触れる。 1. 総理衙門の廃止と外務部の創設 これらは北京議定書に盛り込まれているように、列強各国の強い意向によって実現したものである。アロー戦争以後清朝の外交を担ってきた総理衙門が清朝官庁内で次第に地位低下したことに不満を覚えた諸外国が、清朝が外交を重視するよう求めた結果、総理衙門を廃止し外務部をつくらせるに至った。なお外務部は他の官庁より上位の組織であるとされた。 2. 光緒新政の開始 北京に帰った西太后は排外姿勢を改め、70歳近い年齢でありながら英語を習い始めるなど、西欧文明に寛容な態度を取り始めた。その最も典型的な方針転換はいわゆる光緒新政を開始したことである。これは立憲君主制への移行・軍の近...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 日本統治時代 (台湾)
    台湾の日本統治時代(にほんとうちじだい)は、日清戦争の敗戦に伴い清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月25日、中華民国統治下に置かれるまでの植民地支配の約50年間を指す。 なお、台湾では政治的立場や、歴史認識に対する観点の相違などによって、日本統治時代をそれぞれ日治時代、日據時代、日本殖民時期と呼称しているが、日據時代と表記する場合については日本統治時代に対し批判的な意味合いがある。 沿革 Template 台湾の歴史? 統治初期の政策 日本統治の初期段階は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができる。この時期、台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関...
  • 部落問題
    部落問題(ぶらくもんだい)は、日本における差別問題のひとつである。江戸時代の穢多や非人など賎民身分を由来とする。居住地域が限定され、被差別身分化は罪人に対する刑罰のひとつでもあった。現代では世系差別と地域に対する差別を同和問題という。 部落 「部落」は本来「集落」の意味である。歴史的にエタ村あるいはエタと称された賤民の集落や地域を、行政が福祉の客体として「被差別部落民(略して部落民)」などとよび定着した。現在では同和行政特別施行地区という呼び方をする自治体もある。なお東日本などでは現在でも日常的に差別などの意味をもたない「集落」「地区」などの用法で「部落」という言葉を用いている。 近現代に「部落」の語が用いられるに伴い、「地区」の意味での「部落」と混同されないよう部落民自らが「特殊部落民」と称するようになった 『日本史大事典』第5巻、平凡社、1993年、993頁。なお、「特殊部落...
  • 憲兵 (日本軍)
    憲兵(けんぺい)とは、旧日本陸軍において陸軍大臣の管轄に属し主として軍事警察を掌り兼て行政警察、司法警察を掌る兵科区分の一種であった。 沿革 thumb|300px|憲兵[[下士官|下士・上等兵たち(1935年)]] 日本陸軍においては、1881年(明治14年)、フランスの国家憲兵制度(フランス国家憲兵隊)を範として、憲兵条例憲兵条例は明治31年勅令第337号によって全面改正された。更に、昭和4年勅令第65号により憲兵条例は憲兵令に改題された。により設置された。なお、この憲兵条例等により置かれる憲兵(以下、「勅令憲兵」という。)のほかに、軍令により編成され軍司令官の命令に服する憲兵(以下、「軍令憲兵」という。)があったが、以下特記のない限り勅令憲兵について記述する。 なお、明治時代に置かれていた屯田兵について、平時は、「屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編制」(屯田兵例則)するものとされ、警察...
  • 人間宣言
    人間宣言(にんげんせんげん)は、1946年1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書の通称である。当該詔書の後半部には天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される言及部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。 ポツダム宣言受諾による戦争終結(敗戦)から4か月余、まだ大日本帝国憲法の施行下にあり神聖不可侵の現人神・八紘一宇思想等の影響が残っていた日本にあって、占領統治主体のGHQからの要求による(必ずしも自発的ではなかった)ものながら、天皇が詔(みことのり)においてそれら神格等の否定に明確に言及したことは、当時の国民・社会全般に大きな影響を与え、その詔書の当該部分が、後には詔書全体が「人間宣言」と一般に呼称されるようになった。 この詔書には公用文としての「題名」は付されておらず、題名に準ずる「件名」は「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民...
  • 東郷茂徳
    Template 日本の閣僚? 東郷 茂徳(とうごう しげのり、明治15年(1882年)12月10日 - 昭和25年(1950年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。 人物 東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務め...
  • 昭和-2
    前半は昭和参照 略年表 ()内は昭和での年代を表す。 昭和 X 年と西暦 Y 年とは X = Y - 1925 の関係にある。 昭和前期 1927年(2年):昭和金融恐慌 1928年(3年):張作霖を爆殺。男子普通選挙実施 1929年(4年):世界恐慌 1930年(5年):金輸出解禁 1931年(6年):柳条湖事件、満州事変 1932年(7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件 1933年(8年):12月23日 継宮明仁親王(のちの皇太子となり、後に今上天皇)誕生、滝川事件、国際連盟脱退 1935年(10年):天皇機関説問題 1936年(11年):二・二六事件、日独防共協定締結 1937年(12年):日中戦争開戦 、日独伊防共協定締結 朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。 1938年(13年):国家総動員法制定 1939年(14年):ノモンハン事件、ドイツが...
  • 日本統治時代の朝鮮
    Template 基礎情報 過去の国? Template 朝鮮の歴史? 日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん、英語:Korea under Japanese rule、朝鮮語 Template lang?)(1910年8月22日 - 1945年9月2日)では、大日本帝国による韓国併合から太平洋戦争(第二次世界大戦)での敗戦までの間、日本の領有下にあった朝鮮について述べる。 総督府の所在地は京畿道京城府(現在のソウル特別市)であった。 概要 1910年、当時の大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって朝鮮総督府の統治下に置かれ、日本の領土となった韓国併合条約の解釈については、現在の日本政府の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっているTempla...
  • 哲学館事件
    哲学館事件(てつがくかんじけん・てつがっかんじけん)とは1902年に私立哲学館(現在の東洋大学)で発生した事件である。 明治期の初め、学校の卒業と同時に無試験で教員になることができたのは国立の学校のみで私立にはその権利がなかった。しかし、哲学普及のために教育者を育成することを目標としていた私立哲学館の井上円了は私立学校にも卒業生に対して無資格で教員となることができるよう、1890年から当時の文部省に対して陳情を行っていた。文部省からなかなか良い返事をもらえなかった井上は、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)、國學院(現在の國學院大學)、東京専門学校(現在の早稲田大学)と私立学校の連合を組んで再度陳情を行い、1899年に中等学校の教員免許について、卒業と同時に無試験で認可されることとなった。 1902年にはこの4校で最初の卒業生が誕生し、私立学校ではじめての無試験教員が誕生するはずであった。し...
  • 南京大虐殺論争
    南京大虐殺論争(なんきんだいぎゃくさつろんそう)とは、1937年から始まった日中全面戦争初期に起きたとされる南京大虐殺(南京事件)に関して、事件の存否、規模などを論点とした論争である。 論争の歴史 1971年まで 「南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作(毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった。この『南京作戦の真相』は、南京事件の存在自体を疑う否定論としては最も早く単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった。 1971年から1982年まで 再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前...
  • 七博士意見書
    七博士意見書(しちはくしいけんしょ)とは、日露戦争開戦直前の1903年(明治36年)6月10日付で当時の内閣総理大臣桂太郎、外務大臣小村壽太郎らに提出された意見書。 東京帝国大学教授戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、学習院教授中村進午の7人(「東大七博士」)によって書かれた。 内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「バイカル湖まで侵攻しろ」と主戦論を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫ったものであり、世論の反響も大きかった。 この意見書を読んだ伊藤博文が「なまじ学のあるバカ程恐ろしいものはない」と述べたと言われている。 なお、戸水は日露戦争末期に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張したため、文部大臣久保田譲は1905年8月に文官分限令を適用して休職処分とした。ところが、戸水は金井・寺尾と連名でポーツマス条約に反対する上...
  • 学習院
    学習院(がくしゅういん)は、旧宮内省が設置した官立学校。 沿革 学習院大学等の関連項目の当該節も参照されたい 1847年(弘化4年) 京都御所日御門前に学習院開講する。 1849年(嘉永2年) 「学習院」の勅額下賜される。 1868年(明治元年) 京都学習院を大学寮代と改称する。 1877年(明治10年) 華族学校学則制定。神田錦町にて開業式挙行。 1884年(明治17年) 宮内省所轄の官立学校となる。 1885年(明治18年) 四谷区尾張町に華族女学校を設置する。 1888年(明治21年) 学習院が麹町区三年町の工部大学校跡に移転する。 1889年(明治22年) 華族女学校が麹町区永田町に移転する。 1890年(明治23年) 学習院が四谷区尾張町に移転する。 1906年(明治39年) 華族女学校と学習院を併合し、華族女学校を学習院女学部と改称する。 19...
  • 皇典講究所
    皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ 1882年 - 1946年)は、日本に設置された神道の研究・教育機関である。 1867年(明治元年)に大教宣布の詔が発布され、1876年(明治9年)に神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成に力を注いだ明治新政府であったが、政教分離・信教の自由論が世の中に広まり、教導職制が廃止された。それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があるとの考えが強くなっていた。この大教宣布の不振、それに続く祭神論争によりその教学の未成熟さを実感した神道はその教学の深化に迫られ、1882年(明治15年)8月23日に、有栖川宮幟仁親王の令旨を奉じた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者が「専ら国典を講究するため」として研究機関を設立した。 内務省の委託を受けて神職を育成を行ったほか、各種の講演会、『古事類苑』・『延喜式』の編纂事業を行...
  • 大日本史料
    大日本史料(だいにほんしりょう)は、明治時代(1901年)から現在まで、刊行が続けられている日本史の史料集である。 六国史(日本書紀~日本三代実録)以降、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく、年月日順に史料を掲載するもの。宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とする。 概要 1895年(明治28年)に帝国大学文科大学に史料編纂掛(現・東京大学史料編纂所)が設けられて歴史書の編纂が始まった。当初は通史の記述を考えていたが、結局史料集を編纂することになった(明治政府の修史事業参照)。 江戸時代に塙保己一が開設した和学講談所で編纂された「史料」を基礎とした。「史料」は宇多天皇から後一条天皇(1016-1036在位)までが対象である。 宇多天皇の仁和3年(887年)から慶応3年(1867年)を16編に分けて編纂が行われ、「史料稿本」(5600冊程の草稿...
  • 学校教練
    学校教練(がっこうきょうれん)とは、第二次世界大戦以前の日本の学校における教練をいう。軍事教練ともいう。これによって配属された陸軍現役将校を一般に配属将校という。 学校教練を履修した者は陸軍では幹部候補生(学校教練制度設立当初は一年現役兵)を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられた。 目的 本制度設立の目的としては、主に次の点が考えられる。 総力戦であった第1次世界大戦の経験に鑑みて、広く軍事的予備教育を施す必要が認識された。 宇垣軍縮により剰員となる相当数の陸軍現役将校の予備役編入(失業)を防止し、補職を確保する必要があった。 配属を受けた学校 1925年(大正14年)4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布された。同令によって、一定の官立又は公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属された。私立学校につ...
  • 明治政府の修史事業
    明治政府の修史事業(めいじせいふのしゅうしじぎょう)では、明治期に新政府によって進められた正史(国家史)の編纂事業について述べる。 沿革 1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明明治2年4月4日(1869年5月3日)に明治天皇から三条実美に下された宸翰沙汰書(現在は東京大学史料編纂所所蔵)には、修史ハ萬世不朽ノ大典、祖宗ノ盛挙ナルニ、三代実録以後絶ヘテ続クナキハ、豈大闕典ニ非スヤ。今ヤ鎌倉已降ノ武門専権ノ弊ヲ革除シ、政務ヲ振興セリ。故ニ史局ヲ開キ、祖宗ノ芳躅ヲ継ギ、大ニ文教ヲ天下ニ施サント欲シ、総裁ノ職ニ任ズ。須ク速ニ君臣ノ名分ノ誼ヲ正シ、華夷内外ノ弁ヲ明ニシ内外ノ命ヲ明ニシ、以テ天下ノ綱常ヲ扶植セヨ。と記されている。、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。しかし1877年に財政難のため修史局は廃止され、...
  • 美濃部達吉
    美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の憲法学者。天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職する。勲一等旭日大綬章(1948年(昭和23年))を受章。 妻の多美子は菊池大麓菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。 人物・来歴 前半生 美濃部達吉は、1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町の漢方医・美濃部秀芳の次男として生まれた。長じて東京帝国大学に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。1897年(明治30年)に大学を卒業し、内務省に勤務する。1899年(明治32年)にドイツやフランス、イギリスに留学し、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に教授となる。帝国大...
  • 吉田茂-2
    前半は、吉田茂参照 年譜 明治11年(1878年)9月22日 東京神田駿河台に生まれる 明治14年(1881年)8月 吉田家と養子縁組 戸太町立太田学校(現・横浜市立太田小学校)卒業 明治22年(1889年)2月 寄宿制私立中学耕余義塾入学 明治27年(1894年) 4月 耕余義塾卒業 9月 日本中学校(現・日本学園 )入学 明治28年(1895年) 9月 高等商業学校(現・一橋大学)入学 11月 高等商業学校退校 明治29年(1896年) 3月 正則尋常中学校(現・正則高等学校)卒業 9月 東京物理学校(現・東京理科大学)入学 明治30年(1897年)10月 学習院高等学科入学 明治34年(1901年) 8月 学習院高等学科卒業 9月 学習院大学科入学 明治37年(1904年) 7月 学習...
  • 久米邦武筆禍事件
    久米邦武筆禍事件(くめくにたけひっかじけん)とは、久米邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」を1892年(明治25年)に田口卯吉が主宰する『史海』に転載したのをきっかけに問題となり、帝国大学教授職を辞することとなった事件。 この問題は、学問の自由(特に歴史学)と国体とのかかわり方について一石を投じた。政治に対する学問の独立性及び中立性を考えさせるものになった。 経過 1891年1月 「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学雑誌』に発表する。 1892年 『史海』に転載する。このとき、主宰者の田口卯吉は以下の文を掲載する。 「余ハ此篇ヲ読ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシテ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サザルベカラズ」 と述べ、神道家を挑発する。 1892年2月28日 神道家の倉持治休、本郷貞雄、藤野達二、羽生田守雄は久米邦...
  • 永田鉄山
    Template Infobox 軍人? 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。 略歴・人物 長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 京都学連事件
    京都学連事件(きょうとがくれんじけん)は1925年(大正14年)12月以降、京都帝国大学などでの左翼学生運動に対して行われた弾圧事件。日本内地では最初の治安維持法適用事件として知られる。 経緯 背景 1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。学連はまたたくまに会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行い、1925年7月には第2回全国大会を京都帝大で開催、代議員80名が参加した。 弾圧 1925年12月、京都府警察部特高課は、全市の警察署高等係を動員して京都帝大・同志社大などの社研会員の自宅・下宿などを急襲、家宅捜索および学生33名を検束した。しかし京...
  • 五四運動
    五四運動(ごしうんどう)は1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がった反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五・四運動、5・4運動とも表記される。 背景 遠景―世界的ナショナリズムの高揚とロシア革命― 近代とは帝国主義という嵐が席巻して世界を一つにした時代であり、アヘン戦争以来、中国も列強からの侵略にさらされた結果、その近代の嵐に巻き込まれ世界の一つに組み込まれるようになった。しかしやがてそうした帝国主義に風穴をあけるような事件が世界各地で起き、中国もそれに大きな影響を受けた。それがロシア革命(1917年)、ウッドロウ・ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)、三一運動(1919年)である。これらは中国におけるナショナリズムの高揚を促進させたといえる。 近景―反日気運の...
  • 小村壽太郎
    小村 壽太郎(こむら じゅたろう、1855年10月26日(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年)11月26日)は、明治の外務官僚。外交官、外務大臣などを務めた。侯爵。小村寿太郎とも表記される。初代拓務次官の小村欣一は養子。 経歴 日向国飫肥藩(おび、宮崎県日南市)に下級武士の子として生まれる。1870年大学南校(東京大学の前身)入学。第1回文部省海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学、法律を学んだ。 帰国後、司法省に入省し大審院判事を経て外務省へ転出。陸奥宗光に認められ、清国代理公使を務めた。日清戦争の後、駐韓弁理公使、外務次官、駐米・駐露公使を歴任。1900年の義和団事件では講和会議全権として事後処理にあたった。 1901年に第1次桂太郎内閣の外務大臣に就任。1902年締結の日英同盟を積極的に主張した。日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議日本...
  • 柳川平助
    Template Infobox 軍人? 柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年10月2日 - 1945年1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。司法大臣、国務大臣。 出自 1879年に長崎県西彼杵郡村松(むらまつ)村(2007年現在・長崎市村松町、旧西彼杵郡琴海(きんかい)町村松郷大石)に生まれる。幼少時に佐賀県の柳川家に養子に出る。実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)は、長崎県大村市の開業医(眼科)。 村松小から旧制長崎中学を経て、1900年に陸軍士官学校(12期)を卒業。中尉で日露戦争に従軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。 陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。...
  • 西園寺公望
    Template 日本の内閣総理大臣? 西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日(1849年12月7日) - 昭和15年(1940年)11月24日)は日本の公家、政治家。立憲政友会第2代総裁。第12・14代内閣総理大臣。贈従一位、大勲位、菊花章頸飾、公爵。本姓は藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。 大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。 文化人、趣味人としても名高く、陶庵と号し書を能くし、叙情あふれる漢詩も多く残している。 そして森鴎外ら第一級の文人たちを招じ雨声会と称したサロンを主催した。 生涯 生い立ち 西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。両家は藤原房前を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統である。...
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