chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「大日本国体擁護団体」で検索した結果

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  • 南北朝正閏論
    ...って野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが当時の第2次桂内閣を糾弾した。このため、政府は野党や世論に押され、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。さらに教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。最終的には「大日本史」の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ(ただし、現在の学説では北朝の光厳・光明・崇光の三帝は三種の神器を保有していたことがほぼ確実とみられ、神器の有無を根拠に北朝のすべてを「正統でない」とするのは無理である。なお、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされる)、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれる事となった。それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している(南北朝正閏問題)。 なお、...
  • 大日本生産党
    大日本生産党(だいにほんせいさんとう)は1931年に結党された「国粋ファシスト」の政治団体。 概要 当初は黒龍会大阪支部長の吉田益三が提唱し、玄洋社系の内田良平の賛同を得て大阪中央公会堂において結成された。その後、1931年(昭和6年)11月20日、玄洋社系の頭山満・内田良平等の黒龍会の主な構成員、日本国民党、津久井龍雄の急進愛国党などが合同し東京の赤坂の「三会堂」において結党式を行った。約1500名が参集した。本部は当時の東京市麹町区永田町に置かれた。1932年(昭和7年)1月には愛国急進党、大衆党長野県連の秦数馬の一派、大日本帝国陸軍大阪労働組合、横浜自治革正党などが解消・入党し勢力を拡大した。 多くの国家主義団体は上部構造偏重であったが、大日本生産党は大衆に密着し、党員2万人を称していた。 しかし、1933年(昭和8年)7月の神兵隊事件において青年部員が多数連座し検挙され...
  • 大日本帝国憲法
    Template 日本の法令?大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法大日本帝国憲法では、表題に「大日本帝国」が使用されているが、正式な国号と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた1936年(昭和11年)まで、「日本国」「日本」等の名称も使用された。 。明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。 1876年に公布されたオスマン帝国憲法に次いで、アジアでは2番目の近代憲法である。オスマン帝国憲法は、公布されて間もない1878年に停止され、その後も長らく専制政治が続いたため実際には機能していない。安定的に運用された近代憲法としては、大日本帝国憲法がアジア初である。ま...
  • 大日本帝国
    大日本帝國 国旗 準国章 菊花紋章 標語 (なし) 公用語 日本語(事実上の公用語)朝鮮語、台湾語なども使われていた。 首都 東京 面積 675千km sup 2 /sup (昭和初期の領土) 人口 9770万人 (昭和10年国勢調査での領土内の人口) 政府 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制。1930年代以降は軍国主義の傾向。 国家元首 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照 通貨 円 国歌 君が代 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使...
  • 帝国党
    帝国党(ていこくとう)は、明治時代後期の吏党系政党(1899年7月5日-1905年12月23日)。国民協会のあとを受け結成された。 概要 国民協会の会頭(党首)であった品川弥二郎が政党活動から撤退を表明したことにより解散されることになった国民協会所属議員の受け皿として、佐々友房・荒川邦蔵らによって結成された。だが、伊藤博文による新党(後の立憲政友会)結成の噂が流れたことによって所属議員は分裂して大岡育造派は新党参加を決定、残された佐々友房派12名が無所属や他党議員8名を加えて計20名で結成することとなった。国体擁護・軍備充実・国権拡張・実業振作・国民精神発揚・社会政策拡充・地方自治完備といった綱領を掲げていた。 だが、実際に立憲政友会が結成されると党内は動揺して元田肇らが離脱してこれに参加、第1次桂内閣では唯一の与党となったものの、20名を切る小政党では活動に限界があった。対露同志会...
  • 国体
    国体(こくたい)は、天皇が、すべしろしめす日本の国柄を指す。  概要 国体とは、「神の御子孫たる皇孫が、天地が果てることの無きが如く、統べ治め給う。」皇典編纂局編『熊沢天皇箴言集』第2巻、247頁 1942年、皇典編纂局。 というわが国固有の御神勅に基づく国のあり方を中心的観念とする。『国体の本義』には以下のようにある。「天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)宝祚(あまつひつぎ)の...
  • 大日本帝国海軍
    thumb|大日本帝国海軍[[軍艦旗]] 大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん)とは、1945年以前に大日本帝国の天皇が統帥していた海軍である。通常は、単に「日本海軍」や「帝国海軍」と呼ばれた。 概要 軍令は軍令部、軍政は海軍省が行い、最高統帥権を有していたのは天皇であった。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。 また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。主な戦役に日清戦争の黄海海戦や日露戦争時の日本海海戦、太平洋...
  • 大日本政治会
    大日本政治会(だいにほんせいじかい)は、昭和時代に存在した衆議院の院内会派・政治団体(1945年3月30日-同年9月14日)。総裁は元陸軍大臣南次郎。略称は日政または日政会。 概説 第21回衆議院議員総選挙以後、全ての国会議員が所属する事になっていた翼賛政治会であったが、1945年に入ると、小磯国昭首相の意向を受けて本土決戦に備えた大政翼賛会・翼賛政治会の改組を準備していた小林躋造総裁(小磯内閣国務大臣)に対する反発が表面化する。これに対して小林総裁は新党結成を公式に表明して事態の収拾を図るが、脱退者が相次いだ。このため、小林に代わる総裁を立てて出直しを図ることとなった。 1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎南は当時枢密顧問官(総裁就任時に辞任)。陸軍大臣・関東軍司令官・朝鮮総督を務め、当時総辞職が時間の問題と見られていた小磯首相の後継候補としても名前が挙がっていた事...
  • 大日本史料
    大日本史料(だいにほんしりょう)は、明治時代(1901年)から現在まで、刊行が続けられている日本史の史料集である。 六国史(日本書紀~日本三代実録)以降、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく、年月日順に史料を掲載するもの。宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とする。 概要 1895年(明治28年)に帝国大学文科大学に史料編纂掛(現・東京大学史料編纂所)が設けられて歴史書の編纂が始まった。当初は通史の記述を考えていたが、結局史料集を編纂することになった(明治政府の修史事業参照)。 江戸時代に塙保己一が開設した和学講談所で編纂された「史料」を基礎とした。「史料」は宇多天皇から後一条天皇(1016-1036在位)までが対象である。 宇多天皇の仁和3年(887年)から慶応3年(1867年)を16編に分けて編纂が行われ、「史料稿本」(5600冊程の草稿...
  • 天皇制
    天皇制(てんのうせい)は、天皇を君主又は象徴とする国家体制。特に天皇を元首又は象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置付けている。明治後期から敗戦までは天皇制などと表現することは不敬な表現であり、国体(=くにがら、くにぶり/漢書成帝紀)とよばれた。 概要 「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄...
  • 国体明徴声明
    国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)とは、1935年(昭和10年)の天皇機関説事件の中で、美濃部達吉の天皇機関説を排撃することで政治的主導権を握ろうとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた政府声明。天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であると宣言した。 国体明徴運動の経緯 そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。しかし、軍部ファシズムの台頭と共に起こった国体明徴運動の中で、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け始めた。 1935年2月19日、貴族院本会議の演説において菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。この...
  • 天皇機関説
    天皇機関説(てんのうきかんせつ、天皇機關說)とは、大日本帝国憲法下で確立された、天皇に関する憲法学説である。統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いた。ドイツの公法学者イェリネックに代表される国家法人説に基づく。 概要 天皇機関説は、明治時代の終わりからTemplate 和暦?頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である衆議院憲法調査会事務局「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)」、Template 和暦?。。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、Template 和暦?。。 国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見...
  • 鈴木貫太郎内閣
    {{日本の内閣記事|すずきかんたろう ないかく|42|鈴木貫太郎|Template 和暦?|4月7日|同年|8月17日|大日本政治会など。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/42.html|枢密院議長|画像= |画像説明=鈴木貫太郎内閣の閣僚}} 概要 鈴木貫太郎内閣は、前の小磯内閣の総辞職を受けて、枢密院議長の鈴木貫太郎が組閣した内閣である。 内閣が発足した1945年(昭和20年)4月30日にベルリンでアドルフ・ヒトラー総統が自殺したため、翌5月7日にナチス・ドイツは無条件降伏した。国内各都市への日本本土空襲は日増しに激しくなり、同年6月23日には沖縄における組織的戦闘が終結するなど、日本の敗色は濃厚となっていた。同年7月26日にアメリカ合衆国・中国・イギリスから発表されたポツダム宣言に対して、鈴木首相は、同月2...
  • ポツダム宣言
    thumb|240px|[[降伏文書に調印する梅津美治郎]] ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、ポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、昭和20年(1945年)7月26日に大日本帝国に対し発した第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結に関する13条から成る勧告の宣言。 宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」(玉音放送の原文では「米英支蘇」)ソ連は8月9日に対日参戦して宣言に参加したともいう。1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを駐スイス大使館経由で連合国側へ申し出、またラジオトウキョウを通じてアナウンス。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇(元首であり大元帥また正式には大日本帝国陸海軍大将)の裁可を受けた政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅...
  • 大日本帝国陸軍
    大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん)とは、1871年から1945年まで、日本の天皇が統帥していた陸軍である。通常は単に日本陸軍と呼び、大日本帝国陸軍とは呼ばない。他に帝国陸軍と呼ばれることもある。また、本来は日本陸海軍を指す呼称である国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん)という呼称も、日本陸軍を指す場合が多い。 概要 大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。 最高指揮官は天皇で、大元帥として陸海軍を統帥する。軍令を参謀本部、軍政を陸軍省が司った。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長である。 略史 創成期 帝国陸軍の起源は、明治維新後の187...
  • 天皇主権
    天皇主権(てんのうしゅけん)とは、大日本帝国憲法において、天皇が保持するとされた主権。西欧における君主主権を日本に適用したもので、天皇主権を君権ともいう。天皇主権を中心として構成された憲法学説を天皇主権説という。 歴史 Template 和暦?に公布され、翌Template 和暦?に施行された大日本帝国憲法は4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」と定めた。この条文の解釈や憲法全体の解釈運用にあたっては天皇主権(君権)を重んじる穂積八束や上杉慎吉ら君権学派(神権学派とも言う)と議会制を中心とした立憲主義を重んじる美濃部達吉や佐々木惣一ら立憲学派の二大学派に分かれて論じ合われた。 憲法施行当初は超然主義を唱えた藩閥政治家や官僚らにより天皇主権を中心とした君権学派の解釈が重用された。明治時代の終わりには上杉と美濃部の天皇機関説論争が行われ、大正デモクラシ...
  • 天皇
    thumb|200px|right|[[十六弁八重表菊紋。天皇および天皇家の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。]] 天皇(てんのう)は、日本国憲法において、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められる地位、もしくはその地位にある個人。また、皇帝・君主を敬っていう称号(君主号)もしくは謚号。 古代から世襲により受け継がれた日本の君主であり、古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていたが、連声により「てんのう」に変化したとされる。歴史的仮名遣いでは「てんわう」と表記する。 本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する...
  • 日本近代史
    日本近代史(にほんきんだいし) 明治時代 Template see? 大正時代 Template main? 1914年には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と当時まだまだ新興国家だった米国は貿易を加速させ、空前の好景気となり日本では成金などが出現するなど大きく経済を発展させた。 しかし1917年にはロシア革命が起こり、ソ連が成立した。日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵したが、折から国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣し、代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として...
  • 貴族院 (日本)
    貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下において1890年(明治23年)から1947年(昭和22年)まで存在した帝国議会の一院。衆議院とは同格の関係にあった(ただし衆議院には予算先議権があった)。 非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期だった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、良くも悪くも「衆議院のカーボンコピー」という批判は存在しなかった。 概要 thumb|250px|[[1936年(昭和11年)、貴族院開院式にて貴族院議長近衛文麿が勅語奉答文を朗読]] 議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)その他の法令に定められた。 議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち伯爵・子爵・男爵議員...
  • 枢密院 (日本)
    thumb|right|300px|Template 和暦?[[10月29日、「修正帝国憲法改正案」 (日本国憲法案)を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。]] 日本における枢密院(すうみついん)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。Template 和暦?創設、Template 和暦?に廃止。略称は枢府(すうふ)。議長は枢相(すうしょう)とも呼ばれた。 沿革 Template 和暦?に憲法草案審議を行うため、枢密院官制に基づいて創設され、Template 和暦?に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた。初代議長は、伊藤博文。 国政に隠然たる権勢を誇っていたが、Template 和暦?の満州事変以後、政党勢力が後退して軍部の台頭が顕著になるに連れてその影響力は低下し、日本国憲法施行によ...
  • 帝国議会
    帝国議会(ていこくぎかい) ドイツ語の Reichstag の訳語の一つ。神聖ローマ帝国の領邦の代表者会議およびドイツ国、オーストリア・ハンガリー帝国の議会の名称。ドイツ国会議事堂を参照。 大日本帝国憲法の下での議会。本稿ではこれを扱う。 帝国議会(ていこくぎかい)とは、1889年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)の下での国会(立法機関)である。1890年11月29日の第1回議会から、1947年3月31日の第92回議会まで行われた。 沿革 明治初期の自由民権運動、国会開設運動を経て1890年(明治23年)に成立。初期議会においては政府の超然主義と衆議院が対立していたが、日清戦争後には政府と両院の提携が行われるようになり、大正デモクラシーにより政党政治が行われるようになると衆議院の立場が強まるが、軍部などの勢力の台頭で議院内閣制は確立できず、1932年(昭和7年...
  • 大政翼賛会
    大政翼賛会(たいせいよくさんかい)とは1940年(昭和15年)10月12日から1945年(昭和20年)6月13日まで存在していた公事結社である。国粋主義的勢力から社会主義的勢力までをも取り込んだ左右合同の組織である。 経緯 内閣総理大臣を務めた近衛文麿公爵を中心として国家体制の刷新を求める革新派を総結集させて新党を結成する構想は比較的早い段階から検討されていた。1938年の国家総動員法が衆議院内の既成政党の反対で廃案寸前に追い込まれた際には、有馬頼寧農林大臣(伯爵)・大谷尊由拓務大臣らが近衛を党首とした新党を作って解散総選挙を行うことを検討したが、「近衛新党」に党を切り崩されることを恐れた政友会・民政党が一転して同法に賛成して法案が成立したために新党の必要性が薄くなったことにより一旦はこの計画は白紙に戻ることになった。 近衛の総理辞任後、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、...
  • 国民協会 (日本)
    国民協会(こくみんきょうかい)は、日本に存在した政党、政治団体。現在、「国民協会」の名を持つ政党は日本には存在しない(政治団体としては名称変更した国民政治協会が存在する)。 国民協会 (1892-1899) 明治時代に存在した国粋主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院の院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日-1899年7月4日)。 1892年、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基・牧朴真・白井遠平が選出され(後に安場保和が幹事長に就任)、他に中央交渉部の佐々友房、佐藤昌蔵、津田真道、大岡育造、古荘嘉門、曾禰荒助・元田肇などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰...
  • 万世一系
    万世一系(ばんせいいっけい)は、天皇の皇位継承について、皇統の一系や天皇制の永続などを主眼とする思想のこと。日本神話に登場する初代神武天皇から現在まで、王朝が断絶することもなく、一貫して天皇家によって日本は統治されてきたとする史観に基づいている。現在では、史実に基づくものか、様々な議論がなされている。 概説 万世一系とは、日本の君主である天皇の地位が、過去一度の例外もなく以下の3つの条件を満たしてきたことを示している。 血統による世襲 男系のみによる皇位継承 皇統が分裂・対立することがない 実際には下記の例にもあるように、皇統が分断する危機があった(大覚寺統と持明院統、他)が、1.と2.については例外は存在しないとされる。 1.について、武烈天皇が後嗣なく崩御し皇統の断絶が危惧されたが、応神天皇5世の孫とされる継体天皇の皇位継承により、血統による世襲は継続した。 2....
  • 勅語
    勅語(ちょくご)とは、原則として天皇が口頭により発する公務上の意思表示であり、詔勅の一種である。主に明治時代から日本国憲法が施行される前に出され続けた。 勅語を書面に写したものを勅語書という。勅語書に天皇の親署や国務大臣の副署はない。ただし、教育勅語は例外であり、書面により発し、天皇の親署がある(国務大臣の副署はない)。 大日本帝国憲法下の勅語には、帝国議会の開院式に発せられるのをはじめ、「青少年学徒ニ賜リタル勅語」など様々なものがある。 関連項目 教育勅語 軍人勅諭 詔勅 詔書 - 勅書 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月30日 (木) 21 46。    
  • 日本軍
    日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。 組織 以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。 天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防...
  • 勅令
    勅令(ちょくれい) 国王・皇帝・天皇などの君主が直接発する命令・法令のこと。ナントの勅令など。 日本における法令の一形式。この項目で記述する。 勅令(ちょくれい)とは、日本においては天皇が発した法的効力のある命令を指す。ここでは緊急勅令やいわゆる「ポツダム勅令」についての記述を含む。 概要 大日本帝国憲法第9条に定められていた法形式であり、法律を執行するためまたは公共の安寧秩序を保持しおよび国民の幸福を増進するために天皇が制定していた。憲法上法律事項とされていない事項を対象とする場合は勅令による制定が可能であった。法律事項以外でも、軍に関することは軍令で、皇室に関することは皇室令で定めていたので、これらを除いたものが勅令事項とされていた。制定にあたっては内閣が輔弼(事実上の承認)をしていたので、現在では内閣が発する政令とみなされ、位階令など一部には現在でも効力を有している...
  • 軍部
    軍部(ぐんぶ)は、最広義には、陸軍・海軍・空軍など、国家が保有する軍隊全体を指していう言葉である。 この「軍部」が用いられるのは、文民政府との関係を論じる文脈で、軍部による政治介入、軍部クーデターによる文民政府の倒壊、軍事専門職集団である軍部に対する文民統制、アジア・ラテンアメリカの権威主義体制下における民政移管など、いわゆる「政軍関係 civil-military relations 」を論じる場合である。 日本における軍部 日本における狭義の軍部は、大日本帝国陸軍及び同海軍の上部組織、すなわち、陸海軍省・陸軍参謀本部・海軍軍令部等の上部組織を指す(空軍は当時の日本に存在しなかった)。 戦前期日本における軍部の制度的前提となったのは、軍部の政府からの独立性を保障した統帥大権(大日本帝国憲法第11条)、軍部大臣現役武官制、帷幄上奏権などであった。 ただし、実際に軍部がその実体...
  • 日韓併合条約
    日韓併合条約(にっかんへいごうじょうやく、正式名称=韓国併合ニ関スル条約) 1910年(明治43)8月22日に漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相が調印、29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」ことなどを規定した条約のこと。 条約文 韓国併合ニ関スル条約 日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カサルコトヲ確信シ茲ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本国皇帝陛下ハ統監子爵寺内正毅ヲ韓国皇帝陛下ハ内閣総理大臣李完用ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ右全権委員ハ会同協議ノ上左ノ諸条ヲ協定セリ 第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス ...
  • 憲政の常道
    憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一党に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。 概説 大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリスの議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する...
  • 旧皇室典範
    Template 日本の法令? 皇室典範(こうしつてんぱん、明治22年2月11日裁定(明治天皇勅定))は、大日本帝国における皇位継承順位など皇室に関する制度・構成等について定めた家憲であり、大日本帝国憲法と同格とされた。昭和22年(1947年)5月2日限りで廃止され、日本国憲法下の法律として制定された新たな皇室典範(昭和22年1月16日法律第3号)が同年5月3日に施行された。現行の皇室典範と区別するため、本項では旧皇室典範の呼称を用いる。 概説 1889年(明治22年)2月11日に裁定された旧皇室典範は、制定当初は皇室の家法という性格が与えられていたが、1907年(明治40年)裁定の皇室典範増補で宮内大臣及び各国務大臣の副署がなされ且つ公布の対象となり、国民も拘束するものとされた。もっとも、公式令(明治40年1月31日勅令第6号)制定などで宮務法と国務法の峻別が定められたことから...
  • 美濃部達吉
    美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の憲法学者。天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職する。勲一等旭日大綬章(1948年(昭和23年))を受章。 妻の多美子は菊池大麓菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。 人物・来歴 前半生 美濃部達吉は、1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町の漢方医・美濃部秀芳の次男として生まれた。長じて東京帝国大学に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。1897年(明治30年)に大学を卒業し、内務省に勤務する。1899年(明治32年)にドイツやフランス、イギリスに留学し、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に教授となる。帝国大...
  • 皇室典範
    Template 日本の法令? 皇室典範(こうしつてんぱん)は、皇位の継承順位など皇室の制度・構成等について定める日本国憲法で間接的に設置が義務づけられた日本の法律である。皇室典範には、大日本帝国憲法時代のもの(明治22年2月11日裁定(勅定))と、日本国憲法下のもの(昭和22年1月16日法律第3号)とがあり、前者は後者と区別するために、旧皇室典範と呼ばれることが多い。 概要 日本国憲法体制下の皇室典範は「法律」として制定され、他の法律と同様に、制定および改正は国会が行い、皇室の制度そのものに国民が国会を通じて関与することとなった。 日本国憲法第2条は皇位は世襲のものである旨規定しているが、その方法については、皇室典範の定めるところによると規定して、例えば皇位継承者の性別については触れていない。 皇室典範の規定では男性皇族にしか皇位継承を認めていないにもかかわらず、若い男性皇...
  • 護国同志会
    護国同志会(ごこくどうしかい)は、1945年3月11日に結成された日本の政治団体。1945年8月15日に解散した。会長は井野碩哉であるが、実際は岸信介を中心としていた。 概要 1945年、太平洋戦争の敗戦が濃厚になると一国一党を目指した東條英機や大麻唯男ら翼賛政治会の幹部たちは大日本政治会の結成に動きだした。しかし、岸信介らはこの動きには加わらず東条とは一線画す護国同志会を結成した。 岸の元に集まったメンバーは、政党解消以前に小会派に所属していた議員では赤城宗徳、小山亮、木村武雄、永山忠則、今井新造らが、翼賛選挙で初当選した議員では井野碩哉、橋本欣五郎、池田正之輔、中谷武世らが、立憲政友会に所属していた議員では船田中が(船田は1939年の政友会分裂後は政党解消まで政友会革新派所属)、社会大衆党に所属していた議員では杉山元治郎、三宅正一、川俣清音、三輪寿壮がおり、反東条のもとに様々...
  • 八紘一宇
    八紘一宇(はっこういちう)とは、第二次世界大戦前の日本で国是とされた標語の一。「天下を一つの家のようにする」と言う意味として使われた。 thumb|350px|一宇塔10銭札。描かれているのは[[宮崎県宮崎市の平和台公園にある「八紘一宇の塔」(平和の塔)。]] 概要 由来 語の由来は、日蓮宗からの新宗教団体国柱会の田中智學が明治36年(1903年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「八紘一宇」を、『日本書紀』巻第三神武天皇の条にある「掩八紘而爲宇」(八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と爲(なさ)む)から造語したものである。なお八紘とは『淮南子』にある「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」に由来する。 本来の意味 1940年、近衛文麿首相が「皇国の国是は、八紘...
  • 平泉澄
    平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月16日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。白山神社第3代宮司、名誉宮司。皇学館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。専門は日本中世史。福井県出身。 戦前戦中に、いわゆる皇国史観を主導し、政治・社会・学界に大きな影響を与えた。 略年譜 1895年(明治28年)、誕生。 1901年(明治34年)、龍池尋常小学校入学。 1905年(明治38年)、成器高等小学校入学。 1907年(明治40年)、大野中学校入学。 1912年(大正元年)、第四高等学校入学。 1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科入学。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学国史学科卒業。 1921年(大正10年)、文部省宗教制度調査嘱託。 1923年(大正12年)、...
  • 日泰攻守同盟条約
    日泰攻守同盟条約(にったいこうしゅどうめいじょうやく)(昭和16年条約第20号)は、大東亜戦争(太平洋戦争)中に大日本帝国とタイ王国の間に結ばれた同盟に関する条約である。 歴史 背景 欧米側の都合と巧妙な外交手腕によって侵略を免れ、大日本帝国と同じく独立を保ってきたタイは、同じアジア人として日本の政策にはおおむね好意的で、満州事変後のリットン調査団の報告によって、国際連盟における満州国の合否判断の際も投票を棄権し、満州国も国家として承認してきた。また、元帥プレーク・ピブーンソンクラームによる独裁体制が固められ、フランス領インドシナに日本軍が進駐すると、かつてフランスに奪われた領土を奪還すべく出兵、駐留フランス軍と紛争となったが、翌年には日本軍の介入で講和。これによってタイは旧領土のほとんどを回復し、日本への協力姿勢を強めた。 参戦 日泰攻守同盟条約では、アジアにおける新...
  • 新体制運動
    新体制運動(しんたいせいうんどう)とは、昭和初頭から昭和20年(1945年)の敗戦にかけての日本において約20年間、主張された政治運動。 日本におけるファシズム運動であるという認識が根強いが、あくまで天皇の輔弼を目的とし、ナチス・ドイツ型の政治体制をとったわけではないため、この語は適当ではないといわれる。主に大政翼賛会に代表される。 バスに乗り遅れるな 新体制運動が進められた背景には、世界的なファシズムの台頭が挙げられる。当時、欧米諸国、とりわけソビエト連邦・イタリア・ドイツで一党独裁による挙国一致体制が進められていた。世界恐慌から通ずる情勢不安において、これらの国々が経済成長(不況脱却)をしているかのように見受けられたことから、全体主義こそが今後の世界の指針になりうると考えられた。 日本の知識人、特に時の首相、近衛文麿はこれを世界的潮流と認識し、やがて世界は「ソ連」、「ドイツ・イ...
  • 高砂義勇隊
    高砂義勇隊(たかさごぎゆうたい)は大東亜戦争(太平洋戦争)末期、台湾原住民をフィリピンなど、南方の戦場に投入するために創設された部隊。隊員は軍属であり軍人ではないが、戦闘にも参加した。もともと台湾原住民等は狩猟採集を得意としたため、南方戦線にあって高い戦闘力、食料収集能力を発揮し、崩壊寸前の大日本帝国陸軍を助けた。戦後、日本国民では無くなったとの理由から、生存者や遺族は長らく恩給や補償を得られていなかったがTemplate 要出典?、1990年代に戦病死者及び重傷者を対象に一人200万円(台湾ドルで約43万ドル)の弔慰金が支払らわれた。 7度にわたって編成され、合計1,800名が参加した。参加者は全て台湾特別志願兵制度もしくは高砂特別志願兵制度に基づく志願兵であったため、皇民化教育の成果として謳われた。台湾の志願兵制度は同じく大日本帝国統治下の朝鮮に遅れ、昭和17年(1942年)に実施さ...
  • 帷幄上奏
    帷幄上奏(いあくじょうそう)とは、君主制をとる国家において帷幄機関である軍部が軍事に関する問題を君主にたいして上奏すること。帷幄とは「帷をめぐらせた場所」のことで、転じて君主(天皇)を指す言葉。 ドイツ帝国およびその影響を受けた大日本帝国において制度化された。 大日本帝国 大日本帝国においては、1889年(明治22年)制定の大日本帝国憲法によって一般統治権と軍の統帥権の分離が明記され、同年の内閣官制第7条により制度化され第七条 事ノ軍機軍令ニ係リ奏上スルモノハ天皇ノ旨ニ依リ之ヲ内閣ニ下付セラルルノ件ヲ除ク外陸軍大臣海軍大臣ヨリ内閣総理大臣ニ報告スヘシ、内閣総理大臣の国務上の輔弼事項の例外とされた。 本来、国務大臣は憲法上、帝国議会に対してその責任を負ったが、権力分立の外側にあった帷幄機関はその責任がなかった。また、帷幄上奏が認められていたのは、軍事のうちの軍機・軍令に関する問題のみ...
  • 日本の政党一覧
    日本の政党一覧(にほんのせいとういちらん)では、現在活動している日本の政党と、現在活動していない日本の政党の一覧を示す。 現在活動している政党 国会に議席を有する政党と議席数 政党名 衆議院 参議院 計 自由民主党 (1955-) 305 83 388 民主党 (1996-)  114 109 223 公明党 (1964-1994,1998-) 31 21 52 日本共産党 (1922-) 9 7 16 社会民主党 (1996-) 7 4 11 国民新党 (2005-) 5 4 9 改革クラブ (2008-) 1 4 5 新党大地 (2005-) ※ 1 0 1 沖縄社会大衆党 (1950-) ※ 0 1 1 新党日本 (2005-) 0 1 1 政党所属人数と院内会派の所属数とは一致しない 無所属...
  • 廃刀令
    Template 日本の法令? 廃刀令(はいとうれい)とは、Template 和暦?3月28日に発せられた大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止の太政官布告の略称。いわゆる帯刀禁止令のことである。 概略 すでに1869年(明治2年)ころから廃刀の議論はおこなわれていた。明治2年3月、公議所がひらかれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。はやく蛮風をのぞくべしというものであったが、王政復古からまもないころであったから、公議所の公議人らは反対意見で、廃刀をもって武士の精神をなくし、皇国の元気を消滅させるものとして否決された。明治3年(1870年)には庶民の帯刀を禁止、明治4年8月9日(1871年9月23日)には士族の帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、Template 和暦?3月28日、廃刀令の発布をみた。 発布の直接の因となったのは、Templat...
  • 上奏
    Template 日本の皇室? 上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。奏上ともいう。 中国 Template 節stub? 中華王朝の官僚は、上奏の権限を利用して権力を掌握していた。上奏の内容をめぐってしばしば権力闘争が起こった。 唐の律令制における上奏は、意見封事の上表(政事に関する上奏)と訴訟の上表(訴訟に関する上奏)とに大別される。 訴訟の上表については、公式令訴訟条に拠れば、尚書省の判決に不服である場合、三司(御史台侍御史、門下省給事中、中書舎人の3者)による会審(合同の審査)で認められたものは、三司の陳訴を通じて皇帝に上訴することができたとされる長谷山彰『日本古代の法と裁判』(創文社、2004年)7頁以下。また、儒教の徳治主義の観点から、一定の条件の下で皇帝に対する直訴が認められていた。同前18頁-20頁。。 日本 ...
  • 不戦条約
    不戦条約(ふせんじょうやく)(「戦争抛棄ニ関スル条約」)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。 概要 1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。戦争の拡大を防ぐために締結...
  • 大東亜会議
    thumb|300px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース]] 大東亜会議(だいとうあかいぎ)は、昭和18年(1943年)11月5日~11月6日に東京で行われた首脳会議。当時の日本(大日本帝国)の影響下にあったアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。 日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、昭和20年(1945年)5月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表による「大使会議」が開催された。 概要 この会議は、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われた首脳会議であり、そのこと自体への歴史的評価は高いといえる。「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとら...
  • 太政官布告・太政官達
    太政官布告(だじょうかんふこく)・太政官達(だじょうかんたっし)とは、ともに太政官によって公布された明治時代初期の法令の形式である。 概要 太政官布告、太政官達は、いずれも、明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式である。 布告と達の区別については、当初から厳密な区別はなかったが、1873年(明治6年)には、各官庁及び官員に対する訓令としての意味を持つものを「太政官達」、全国一般へ布告すべきものを「太政官布告」として区別することを定めた(明治6年太政官布告第254号)。しかし、実際の取扱いとしては、その後もそのような区別が厳密にされていたとは言い難く、一般国民を拘束する内容を持つものであっても太政官達の形式により定めたものもあったただし、1869年の版籍奉還以前に藩に対して出された指示は全て「太政官達」である。これは、幕藩体制においては、藩(藩主)...
  • シベリア出兵
    シベリア出兵(シベリアしゅっぺい、Siberian Intervention)とは、1918年から1924年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が第一次世界大戦から離脱したロシア共和国に対し、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目でシベリアに出兵した事件。 背景 第一次世界大戦でヨーロッパは二つに割れ、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化し、近代化の遅れていたロシアは開戦後すぐに弾薬が尽き、食料は不足し、財政は破綻した。困窮したロシア市民の支持を得て、レーニンの指導する赤軍が勢力を増し、1917年10月に世界最初の社会主義革命であるロシア革命が起きる。1918年に帝国は崩壊し、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が発足した。...
  • 日本の戦争犯罪
    日本の戦争犯罪(にほんのせんそうはんざい)とは、一般に第二次世界大戦で大日本帝国が犯したとされる戦争犯罪の事。  各地で開かれた軍事法廷などで戦勝国によって一方的に裁かれた戦争犯罪人は日本の国内法上犯罪人として扱われていないこともあり、日本において戦争犯罪として認知・認識されるに至っていない。 軍事法廷の評価・戦争犯罪とされた事例の存否・あるいは近年になって新たに提起されるようになった事例についての検証と議論が巻き起こっているが、それらを含んだ戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約・協定等が締結、履行された事と各地の軍事裁判で判決を受け入れたことで償われており、国際法上、既に決着している。 日本の戦争犯罪観 極東国際軍事裁判で裁かれた被告は、条例の第1条に「重大戦争犯罪人」と記されているが、国内では専らA級戦犯と呼称されているが日本国内法上A級戦犯という犯罪者は存在...
  • 人間宣言
    人間宣言(にんげんせんげん)は、1946年1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書の通称である。当該詔書の後半部には天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される言及部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。 ポツダム宣言受諾による戦争終結(敗戦)から4か月余、まだ大日本帝国憲法の施行下にあり神聖不可侵の現人神・八紘一宇思想等の影響が残っていた日本にあって、占領統治主体のGHQからの要求による(必ずしも自発的ではなかった)ものながら、天皇が詔(みことのり)においてそれら神格等の否定に明確に言及したことは、当時の国民・社会全般に大きな影響を与え、その詔書の当該部分が、後には詔書全体が「人間宣言」と一般に呼称されるようになった。 この詔書には公用文としての「題名」は付されておらず、題名に準ずる「件名」は「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民...
  • 輔弼
    輔弼(ほひつ)は、大日本帝国憲法の観念で、天皇の行為としてなされ、あるいは、なされざるべきことについて進言し、その全責任を負うこと。 国務上の輔弼は国務大臣が、宮務上の輔弼は宮内大臣と内大臣が、統帥上の輔弼は参謀総長と軍令部総長が就いていた。ところが、後に国務大臣である筈の陸軍大臣・海軍大臣にも両軍を代表する形で帷幄上奏を行う権利が認められたことから、一般行政にまで統帥権に基づく輔弼行為の行使として帷幄上奏をするようになり、結果的に軍部の暴走を招いた。 歴史 大日本帝国憲法以前にも、「輔弼」という概念は存在した。1871年の太政官制度の改革により三院制が導入され、このうち最高機関である正院においては、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできない...
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