chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「大本教」で検索した結果

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  • 十月事件
    ...き受けていた。また、大本教の出口王仁三郎とも渡りをつけており、信徒40万人を動員した支援の約束も取り付けていたし、赤松克麿・亀井貫一郎らの労働組合も動く手筈となっていた。 『橋本大佐の手記』によれば、東郷平八郎自身もこの計画を知っており、参内・奏上に同意していたとあるが、荒木貞夫の談話では東郷は知らなかったとされ、荒木自身も計画には加わっていなかった ref name= andou1965 『昭和経済史への証言』。ことから、計画に挙がっていた新内閣の構想は単なる目標に過ぎず、その先の日本の政治や経済についてどのようにするかについては無計画であった。 発覚 この計画は10月16日には陸軍省や参謀本部の中枢部へ漏れ、翌17日早朝に橋本欣五郎・長勇・田中弥・小原重孝・和知鷹二・根本博・天野辰夫といった中心人物が憲兵隊により一斉に検挙される。計画がどこから漏れたのかについては諸説...
  • 治安維持法
    ...、以降は1935年の大本教への適用(大本弾圧事件)など新興宗教や極右組織、果ては民主主義者や自由主義者の取締りにも用いられ、必ずしも「国体変革」とは結びつかない反政府的言論への弾圧の正当化のためにも機能した。奥平康弘は、1928年改正で追加された「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の禁止規定が、政権や公安警察にとって、不都合なあらゆる現象・行動において「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」の名目で同法を適用する根拠になったと指摘している(奥平『治安維持法小史』 岩波現代文庫、2006年6月、ISBN 978-4006001612)。不都合な相手ならば、ただ生きて呼吸していることでさえ、「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為」と見なされ、逮捕された。こうした弾圧は、公安警察という組織の維持のために、新しい取り締まり対象を用意することに迫られた結果という一面もあったといわれる。 内地では治安維持法違反の...
  • 大本営
    大本営(だいほんえい)は、戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ。 日清戦争と日露戦争で設置され、戦時の終了後に解散した。支那事変(日中戦争)では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま太平洋戦争(大東亜戦争)終戦まで存続した。連合国からはインペリアル・ジェネラル・ヘッドクォーターズ(Imperial General Headquarters)と呼ばれた。 概要 大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された。日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時において...
  • 大本営発表
    thumb|250px|大本営海軍部による発表([[1941年12月8日)]] thumb|250px|大本営陸軍部による発表([[1942年1月3日)]] 大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)において、日本の大本営の陸軍部及び海軍部が行った、戦況などに関する公式発表のことである。 当初はほぼ現実通りの発表を行っていたが、以下に記載する通りミッドウェー海戦の頃から損害の過少発表が目立ち始め、不適切な言い換えがまかり通るようになり、最終的には勝敗が逆転した発表すら行ったことから、現在では「内容を全く信用できない虚飾的・詐欺的な公式発表」の代名詞になっている。 概要 第一回 第一回の大本営発表は、1941年12月8日午前6時に行われたものであり、内容は開戦の第一報で、NHKラジオより報道された。以下はチャイム流されたのは楽曲ではなく臨時ニュースの...
  • 大本営政府連絡会議
    大本営政府連絡会議(だいほんえいせいふれんらくかいぎ)とは、1937年11月に設置された大本営と政府間の協議のための会議である。1940年11月に「大本営政府連絡懇談会」に改名。その後1941年の第3次近衛内閣において再度大本営政府連絡会議に改称後、小磯内閣において最高戦争指導会議に発展的解消を遂げる。 主な開催と議題 第1回 1938年1月11日  支那事変処理根本方針 第2回 1940年7月27日  世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱 関連リンク 大本営政府連絡会議・大本営政府連絡懇談会 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月18日 (月) 00 21。     
  • 戦史叢書
    『戦史叢書』(せんしそうしょ)とは防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社(あさぐもしんぶんしゃ)より刊行された公刊戦史である。 概要 陸軍68巻、海軍33巻、共通年表1巻、全102巻から構成され、別に図・表類が付属する。一時期、『大東亜戦争叢書』『太平洋戦史叢書』とも呼ばれたが、その後単に『戦史叢書』と表記され、一般では『公刊戦史』と呼ばれる。 記述の元となったのは、戦中に占領軍の接収から秘匿されて残された大本営内部の文書(大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』など)と、引き揚げてきた部隊の関係者が執筆を求められて執筆した準公式の報告書、及び、自発的に執筆された私的な回想録が主である。 刊行された年代が古いため、現在から見ると若干の誤りも指摘されているが(特に対ソ関係やノモ...
  • 最高戦争指導会議
    最高戦争指導会議(さいこうせんそうしどうかいぎ)とは、1944年8月より小磯内閣により大本営政府連絡会議を改称して開催された会議。 構成員 首相 外務大臣 陸軍大臣 海軍大臣 参謀総長 軍令部総長 開催記録 設立までの経緯 旧憲法下においては、政府と軍部が独立して天皇に仕える形となっていた。両者を調整する期間として大本営政府連絡会議が1937年に近衛文麿によって設立されたが、統帥権の独立を主張する軍部はこの会議において政府から統帥に口出しすることを拒否してきた。 戦局が悪化する中で両者の緊密な協力が必要となり、小磯内閣は大本営連絡会議を改称する形でこの会議を設立した。 関連項目 統帥権 軍部大臣現役武官制 御前会議 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月17日 (日) 21 15 。 ...
  • 南京攻略戦
    Template Battlebox? 南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争中の戦い。日本軍は、中華民国の首都南京を陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰, Template Lang?である。 背景 第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、上海付近の敵を掃討し中国側の戦意を喪失させ、事変終結をねらう目的で11月7日に中支那方面軍を編成、上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。11月16日、国民政府は重慶に遷都を宣言。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。11月24日、大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。 経過 11月7日「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合の下令が出され、作戦地域は蘇州から嘉興を結ぶ線の東側に限定される。 11月9日上海戦線の中国...
  • トラウトマン工作
    トラウトマン工作とは、昭和12年(1937年)11月初から昭和13年(1938年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン (Oscar P. Trautmann 1877年5月 - 1950年12月10日) 駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼ばれる。工作という言葉の負のイメージを嫌ってトラウトマン和平工作とも呼ばれる事もある。 和平交渉の期間は、日中戦争(支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1箇月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。 概要 当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた。ただし、中国侵出の意欲は低く、また日本の目が中国に向かって北方のソ連から逸れるのは望まざるところであったので、...
  • 旅順攻囲戦
    Template Battlebox? 旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, Siege of Port Arthur, 1904年8月19日 - 1905年1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。 背景 日本が日露戦争に勝利するためには、朝鮮半島周辺海域の制海権を抑えることが必須であった。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。 ...
  • 中支那方面軍
    Template 軍隊資料? 中支那方面軍(なかシナほうめんぐん)は、大日本帝国陸軍の方面軍の一つ。 沿革 1937年(昭和12年)、盧溝橋事件後の緊張の中、張治中により起されたと言われるユン・チアン、ジョン・ハリディ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上)』土屋京子訳、講談社、2005年、341-342頁第二次上海事変を受けて、上海派遣軍・第10軍が在留邦人保護のため相次いで派遣された。参謀本部は不拡大の方針であったが戦闘は継続され、戦域が内陸部に拡大していった。 その結果、中支那方面軍は、新たにこの地域を管轄する上級司令部として11月7日に編成開始、司令官には上海派遣軍司令官松井石根大将が着任した。その作戦地域は蘇州と嘉興を結ぶ線から東と限定された。しかし、11月19日には独断でこれを越え無錫と湖州の攻撃を準備し ref name=NSS417 『南京戦史資料集』偕行社、1...
  • 何応欽
    何応欽(かおうきん、1890年4月2日 - 1987年9月21日)は中華民国の軍人。字は敬之。 貴州省興義に生まれる。 貴州陸軍小学・武昌陸軍中学を卒業した後、1908年、日本に留学し陸軍士官学校に22期生として入学。同期に牟田口廉也、鈴木貞一、相沢三郎がいる。ちなみに蒋介石は前年に陸軍士官学校に21期生として入学している。1909年、中国同盟会に加盟。1916年に帰国し、貴州第一師歩兵第四団団長・貴州陸軍混成旅旅長などを務めた。 1924年、孫文の広東軍政府に参加。軍校教練部主任・大本営軍事参謀。国民革命軍第一軍軍長に任命される。1926年、北伐参加。国民革命軍東路総指揮・参謀長など歴任。「蒋介石の片腕」と評される存在になる。1927年に南京国民政府が成立すると、第一路軍総指揮、翌年には総司令部参謀長となった。1933年に北平に赴任し、国民党軍事委員会北平分会会長に任ぜられ塘沽協定...
  • 徐州会戦
    Template Battlebox? 徐州会戦(じょしゅうかいせん)は、日中戦争中の1938年3月15日から5月19日に発生した日本軍と中国国民軍と大規模な戦闘である。日本側は北支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。 背景 1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、北京と南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。 台児荘 1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天...
  • 南方作戦
    南方作戦(なんぽうさくせん, Southern Operations)は、太平洋戦争緒戦における日本軍の東南アジア各地への攻略作戦である。1941年12月8日の真珠湾攻撃と英領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942年5月のビルマ制圧をもって完了した。南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は作戦目標を完全に達成した。 背景 1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国やイギリスとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。 10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で...
  • 沖縄戦
    {{Battlebox |battle_name=沖縄戦 | campaign=沖縄戦 | image= | caption=沖縄南部を占領した米軍 | conflict=第二次世界大戦(太平洋戦争) | date=1945年3月26日-6月23日 | place=沖縄本島および周辺島嶼、海域 | result=アメリカ軍の勝利 | combatant1=Template flagicon?大日本帝国 | combatant2= アメリカ合衆国 オーストラリア カナダ ニュージーランド イギリス | commander1=Template flagicon?牛島満陸軍中将Template flagicon?長勇陸軍中将Template flagicon?大田実海軍少将 | comm...
  • 参謀本部 (日本)
    Template 日本陸軍? 参謀本部(さんぼうほんぶ)は大日本帝国陸軍(明治36年までは海軍の軍令を統括した)の軍令を司った機関。 参謀総長(最終的な名称)を長として、作戦計画の立案等を職務とする。なお、軍政は陸軍省が担当したが、当然のことながら軍政と軍令を明確に分けることは不可能で、広範囲にあいまいな領域が生じた結果、混乱を招くことにもなった。 なお、明治19年から明治21年までの間、海軍の軍令機関が陸軍と統合されていた時期を除いた、海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む。)については軍令部を参照。 沿革 1971年(明治4年)7月 - 兵部省に陸軍参謀局が設けられる。 1872年(明治5年)2月 - 兵部省が陸軍省及び海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。 1873年(明治6年)4月1日 - 参謀局が第六局に改称される。 ...
  • 玉砕
    玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争において、外地で日本軍守備隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用いられた語である。 概要 出典は『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」。また明治維新の頃、藩閥政府が天皇を「玉(ぎょく)」と呼ぶようになったが、それによって天皇のイメージに威厳や崇高さ、潔さなどが付け加えられるという効果があった。そのため明治以来、「『玉砕』とは、天皇のために潔く死ぬことです」(山科三郎、「『特攻』と『玉砕』について考える」、「部落」54(3)、2002年3月、60頁)というイメージが発生する。その態度表明を表す用例には例えば、西郷隆盛による次の詩がある。 幾歴辛酸志始堅 幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し、 丈夫玉砕恥甎全 丈夫は玉砕するも瓦全を愧ず。 また、1886年発...
  • マレー作戦
    Template Battlebox? マレー作戦(まれーさくせん, Battle of Malaya, 日本側作戦名「E作戦」)は、大東亜戦争(太平洋戦争)序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。 1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホールバル市に突入した。これは戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。 背景 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時における日本軍の戦略目標はオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールは戦艦プリンス・オブ・ウェールズと...
  • 戦陣訓
    戦陣訓(せんじんくん)は、1941年1月に当時の陸軍大臣・東條英機が示達した訓令(陸訓一号)で、軍人としてとるべき行動規範を示した文書。現在ではこのなかの「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という一節が軍人・民間人の多量の無駄な討ち死に・自殺の原因となったか否かが議論の中心となっている。(後述参照) 構成 「序」と「本訓」「結」から成っており、「本訓」はさらに「其の一」から「其の三」までに分かれている。 「序」では「軍人勅諭」の具体的な行動の基準を示すとしている。 「本訓(其の一)」はさらに第一「皇国」、第二「皇軍」、第三「皇紀」、第四「団結」、第五「協同」、第六「攻撃精神」、第七「必勝の精神」からなり、第一「皇国」は「大日本は皇国なり。万世一系の天皇……」と始まり、天皇の永遠の「君臨」を宣言している。 「本訓(其の二)」はさらに、第一「敬神」、第二「孝道...
  • 武漢作戦
    Template Battlebox? 250px|right|thumb|[[国民革命軍]] 武漢作戦(ぶかんさくせん)は、日中戦争の戦い。武漢攻略戦とも言う。中国側呼称は武漢会戦、武漢保衛戦。 背景 徐州会戦後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日中戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は同年5月5日に国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。 経過 大本営は6月18日に武漢作戦の準備を命令。8月22日に目的は要地武漢三鎮の占領であるとし、通城と岳州を進出限界線として要地の占領とその間の敵の撃破を命令した。新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻...
  • 日本軍
    日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。 組織 以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。 天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • @_ソ連対日宣戦布告
    thumb|250px|満洲国の首都[[新京を進軍するソ連軍のSU-76自走砲]] ソ連対日宣戦布告(ソれんたいにちせんせんふこく Soviet Declaration of War on Japan)とは、1945年8月にソビエト連邦が日本に対して行った宣戦布告を言う。 概要 この布告では、連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために武力攻撃を行うことが宣言されている。これにより、日ソ中立条約は完全に破棄された。ソ連軍は対日参戦を実行し、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し、日本軍と各地で戦闘になった。既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍にこれを防ぐ手段は無く、原爆投下に続き日本にとどめを刺した。 布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐...
  • 沖縄戦-2
    前半は、沖縄戦参照 戦闘推移 事前攻撃 thumb|right|180px|[[1945年、沖縄戦に参加するため、日本各地から集結した平均年齢17歳の特攻隊員達(陸海軍計2500機の特攻機が投入された)]] アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。 沖縄本島への侵攻作戦の可能性が高いと判断した大本営は、3月20日に天号作戦を下令した。現地の第32軍も2...
  • 太平洋戦争
    {{Battlebox |battle_name=太平洋戦争 |partof= |image= |conflict=第二次世界大戦 |caption=真珠湾攻撃で炎上中の米戦艦 |date=1941年12月8日 – 1945年9月2日(または8月15日)国際的・法的な戦争終結日は、ミズーリ号上で降伏文書署名が行われた9月2日である。一方、天皇による玉音放送が行われた8月15日は、精神的・心理的な戦争終結日として日本国民やその占領下にあった国の人々に記憶されている。ただ、実際には、満州・沖縄・千島列島などにおける連合軍との戦闘状況や、本土に引き上げようとする日本国民への攻撃は、8月15日以降も続いていた。8月15日で戦争は終わったとする考え方は、そうした状況下にあった日本国民の苦難を忘れてしまいがちなことに注意がいる。[1] |place=太平洋、東アジア全...
  • 渡辺錠太郎
    渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。 家族 愛知県の出身。煙草店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も陸士20期卒で陸軍少佐になっている。子息の恭二は陸士57期の陸軍中尉。 次女にノートルダム清心学園理事長で修道女の渡辺和子がいる。二・二六事件に際して、父の殺害を目撃した。 教育総監への就任 1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。 翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選...
  • 疎開
    疎開(そかい)とは、軍事作戦において、集団行動している兵を散らし、攻撃目標となり難い状況を作りながら作戦行動を行なう事を言うのが原義である。日本語では第二次世界大戦中に日本政府が非戦闘員・産業を戦禍から免れさせる政策も含めて言う様になり、現在では一般に戦禍を避けて移動させる政策を指す。 概要 かつては軍事用語であったが、第二次世界大戦末期に、攻撃目標となりやすい都市に住む学童、老人、女性、又は直接攻撃目標となるような産業などを分散させ、田舎に避難させるという政策を指す言葉として一般化した。都市計画学者の越沢明北海道大学教授は著書において、この言葉は元来防空都市計画用語で、当時の内務技師北村徳太郎がドイツ語Auflockerungを訳したものとしている ref name= No1 越沢明『東京の都市計画』岩波書店 1991年。 「避難」や「退避」という言葉を使用しなかった理由は、当時...
  • 万世一系
    万世一系(ばんせいいっけい)は、天皇の皇位継承について、皇統の一系や天皇制の永続などを主眼とする思想のこと。日本神話に登場する初代神武天皇から現在まで、王朝が断絶することもなく、一貫して天皇家によって日本は統治されてきたとする史観に基づいている。現在では、史実に基づくものか、様々な議論がなされている。 概説 万世一系とは、日本の君主である天皇の地位が、過去一度の例外もなく以下の3つの条件を満たしてきたことを示している。 血統による世襲 男系のみによる皇位継承 皇統が分裂・対立することがない 実際には下記の例にもあるように、皇統が分断する危機があった(大覚寺統と持明院統、他)が、1.と2.については例外は存在しないとされる。 1.について、武烈天皇が後嗣なく崩御し皇統の断絶が危惧されたが、応神天皇5世の孫とされる継体天皇の皇位継承により、血統による世襲は継続した。 2....
  • 日中戦争
    日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である1931年(昭和6年)の満洲事変を起点として「日中十五年戦争」ととらえる見方もある。。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)。また英語では、Second Sino-Japanese Warと表記するFirst Sino-Japanese Warは日清戦争。。 Template Main2? 「戦争」か「事変」か 日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が...
  • 十・十空襲
    {{Battlebox |battle_name=十・十空襲 |campaign=沖縄戦 |colour_scheme=background #ffcccc |image= |caption=十・十空襲を受ける那覇市街 |conflict=太平洋戦争(沖縄戦) |date=1944年10月10日 |place=沖縄県 |result=アメリカ軍の一方的勝利 |combatant1= Template flagicon?大日本帝国 |combatant2= Template flagicon?アメリカ合衆国 |commander1= Template flagicon?牛島満陸軍中将Template flagicon?長勇陸軍中将 |commander2= Template flagicon?ウィリアム・ハルゼー海軍大将Template flagicon?マ...
  • 大東亜戦争
    大東亜戦争(だいとうあせんそう、Greater East Asia War)は、太平洋戦争の呼称の一つ。大日本帝国時代の日本政府によって定められた。 本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。戦争の背景、経過、兵器、人物、影響などについては、日中戦争および太平洋戦争を参照の事。 概要 1941年12月8日の真珠湾攻撃後、1941年12月12日の閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められた。日本政府の宣戦布告は当初米英2国に対して行われたが、閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっているので、対中国、対オランダ、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含まれる。なお、「大東亜」とは「東南アジアを含む東アジア」を指す地理区分である。 一般に大東亜戦争は太平洋戦争と同義であると認識されることが多い。しかし...
  • 辻政信
    thumb|250px|出身地[[東谷奥村の中心であった加賀市山中温泉荒谷町入り口に建つ「辻政信之碑」]] 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。 辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、マレー作戦等の辣腕振りが評価される一方、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける責任を追及する意見もある。またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。毀誉褒貶両極端の評価を受けているが、GHQでは「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」とされた(後述)。 1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20...
  • ドーリットル空襲
    Template Battlebox? ドーリットル空襲(-くうしゅう、英語:Doolittle Raid)、またはドゥリットル空襲とは、太平洋戦争中の1942年4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する空襲である。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。 背景 真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続け、さらに開戦後の1942年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるアメリカ本土のカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を受け、大きな衝撃を受けたアメリカ軍は、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計画を立てた。 アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆...
  • 軍令部
    軍令部(ぐんれいぶ)とは日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行う)である。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。 概要 長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。 軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。 設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、参謀本部での軍令部は陸軍の下に置かれた。しかし、太平洋戦争時の最高戦争指導会議では大きな発言力を持つこととなる。 沿革 1884年2月 海軍省達丙第21号により海軍省の外局組織として軍事部が設置 1886年3月 参謀本...
  • 台湾抗日運動
    台湾抗日戦争(たいわんこうにちせんそう)とは、1895年の乙未戦争を基点とし、「西来庵事件(タパニー事件)」終息までの約二十年にわたって継続した台湾人による日本植民地支配への武力闘争の中国における呼び名。 概要 台湾民主国 Template main? 1895年に日清戦争の敗北が決定的になった清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。 しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧...
  • 本土決戦
    本土決戦(ほんどけっせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争、第二次世界大戦)において想定された戦闘の一つで、日本本土における陸上戦闘を意味する。アメリカ軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた。また、ソ連軍による北海道や東北地方での陸上戦闘の可能性も含まれる。 原爆投下とソ連軍の参戦により、1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾したため、本土決戦は行われることがなかった。 背景 日本政府・大本営が「日米の天王山」と呼号して全力を注いだ比島決戦では、昭和20年(1945年)1月9日、米軍のルソン島リガエン湾上陸によって、フィリピンにおける日本軍の敗北がほぼ決定的なものとなり、同地の喪失と本土進攻は時間の問題となっていた。 また、米潜水艦の攻撃による輸送船の不足に加え、マリアナ海戦・レイテ沖海戦以後は制海・制空権を...
  • 大日本帝国
    大日本帝國 国旗 準国章 菊花紋章 標語 (なし) 公用語 日本語(事実上の公用語)朝鮮語、台湾語なども使われていた。 首都 東京 面積 675千km sup 2 /sup (昭和初期の領土) 人口 9770万人 (昭和10年国勢調査での領土内の人口) 政府 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制。1930年代以降は軍国主義の傾向。 国家元首 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照 通貨 円 国歌 君が代 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • インパール作戦
    Template Battlebox? インパール作戦(-さくせん)(日本側作戦名:ウ号作戦(うごうさくせん))とは、1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され6月末まで継続された、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。 補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用される。 経緯 インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。 大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。し...
  • 重慶爆撃
    重慶爆撃(じゅうけいばくげき)とは、日中戦争最中の1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃を指す日付・回数は『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』(前田哲男 凱風社)による。。中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。 背景 1938年に各地に中国国民党が優勢だったが、様々な軍閥の割拠する内乱状態の中国に攻め込んだ日本軍は、上海に続いて中華民国の首都南京を攻撃、日本政府は中華民国・中国国民党が和睦を乞うことを期待した。 これに対して日本軍への徹底抗戦を宣言していた国民党政府は、中国大陸で権益を確保・拡大したいアメリカや権益を守りたいイギリスの援助を受けて、首都を南京から漢口に移転し、次いで漢口が陥落必至とみるや四川の奥地である重慶に移転させた。 大本営は地上軍による重慶...
  • 国定教科書
    Template Battlebox? ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、当時の満州国において、1945年8月9日深夜から開始された、大日本帝国の関東軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘、ソ連軍が圧勝した。 名称 日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「8月の嵐作戦」、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。 背景 19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は...
  • 第2次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ いとう ないかく|5|伊藤博文|Template 和暦?|8月31日|Template 和暦?|9月18日|藩閥内閣 |第3回衆議院議員総選挙第4回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月30日Template 和暦?6月2日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/05.html|前職 = 前枢密院議長}} 伊藤はTemplate 和暦?8月31日に首相を辞任し、同年9月18日に松方正義が組閣するまで、黒田清隆・枢密院議長が内閣総理大臣を臨時兼務した。 概要 前首相の松方正義が自らの閣僚にも見放されて内閣を放り出すという事態は、Template 和暦?8月2日に大命を受けた伊藤にも今後の政権運営に不安を抱かせた。そこで伊藤は主だった元勲の入閣を条件に組閣を行うことを表明、黒田清隆・山縣有朋の両首相...
  • 梅津美治郎
    Template Infobox 軍人? 梅津 美治郎(うめづ よしじろう、1882年(明治15年)1月4日 - 1949年(昭和24年)1月8日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。通称「無言の将軍」。 東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。Template 和暦?に靖国神社に合祀される。 経歴 大分県中津市出身。中学済々黌出身。関東軍総司令官、参謀総長などを務める。 誕生日は軍人勅諭が発布された日である。 陸士、陸大ともトップの成績で卒業した秀才である梅津は、学究肌の軍人と呼ばれ、政治の表舞台に出ることを避け続けていたという。その梅津の生涯で最も歴史に残る有名な事件は、支那駐屯軍司令官時代のTemplate 和暦?6月に日中間で結ばれた「梅津・何応欽協定」である。当時、華北で相次いだ反日テロが国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、 河北省内の国民党支部をすべて...
  • 特別高等警察
    特別高等警察(とくべつこうとうけいさつ)は、大日本帝国憲法下の日本で、反体制的な言論・思想・宗教・社会運動を弾圧した秘密警察である。当初は共産主義者・共産党員を対象にしていたが、次第に弾圧の対象を拡大して、第二次世界大戦中には自由主義など一切の反政府運動やそれらの思想も弾圧し、憲兵とともに国民から恐れられた。 一般には、略称の特高警察(とっこうけいさつ)や特高(とっこう)の名で呼ばれる。なお、「特別」と追加されたのは、国体の護持は特別に重要であったから、とされている。 歴史 thumb|right|300px|[[警視庁 (内務省)|警視庁特別高等警察部検閲課による検閲の様子(1938年(昭和13年))]] 無政府主義者による天皇暗殺計画とされた大逆事件(幸徳事件)を受け、1911年、警視庁に、従来あった政治運動対象の高等警察から分かれて、社会運動対象の特別高等警察課が設置...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • 南進論
    南進論(なんしんろん)とは、日本が南方地域へ進出すべきであるという第二次世界大戦前の対外論である。 概要 古くは明治時代から提唱され台湾領有や第一次世界大戦後の南洋諸島の委任統治の際にも論じられ、特に日中戦争の頃に主唱された。初期の南進論は必ずしも日本による領土拡張や軍事的進出と結びついたものではなかったが、1930年代以降、日本における「自存自衛」理念他国から見るともちろん侵略行為である。また大東亜戦争も危機的な情勢としては日露戦争と同様に生存戦争だが、日本人自身も戦後教育のため、「軍国主義による侵略戦争」として捉えられることが多い。但し、盧溝橋事件後の日中戦争については自他共に認める侵略行為で、結果的に自らの首を絞め、太平洋戦争を起こす要因となった。と結びつき、「武力による南進」が志向されるようになった幕末に佐久間象山などが唱えた攘夷運動(外国の力を取り入れ、日本が植民地になる...
  • 日清戦争
    Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反...
  • 帝国議会
    帝国議会(ていこくぎかい) ドイツ語の Reichstag の訳語の一つ。神聖ローマ帝国の領邦の代表者会議およびドイツ国、オーストリア・ハンガリー帝国の議会の名称。ドイツ国会議事堂を参照。 大日本帝国憲法の下での議会。本稿ではこれを扱う。 帝国議会(ていこくぎかい)とは、1889年に発布された大日本帝国憲法(明治憲法)の下での国会(立法機関)である。1890年11月29日の第1回議会から、1947年3月31日の第92回議会まで行われた。 沿革 明治初期の自由民権運動、国会開設運動を経て1890年(明治23年)に成立。初期議会においては政府の超然主義と衆議院が対立していたが、日清戦争後には政府と両院の提携が行われるようになり、大正デモクラシーにより政党政治が行われるようになると衆議院の立場が強まるが、軍部などの勢力の台頭で議院内閣制は確立できず、1932年(昭和7年...
  • 南機関
    Template 日本陸軍? 南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。 機関長は鈴木敬司陸軍大佐。ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。その後ビルマ軍政の方針をめぐって軍中央と対立し、消滅させられた。だが南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。 背景 thumb|right|220px|ビルマ([[ミャンマー)全図]] イギリスのビルマ統治 ビルマ(現在のミャンマー)は、1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。イギリスは治安維持の観点からビルマ軍を編成したが、ビルマ族の青年は征服者に協力することを潔しとしなかった。ビルマの人口は1941年の国勢調査によれば1,600万人、民族別ではモンゴル系...
  • 貞明皇后
    Template 基礎情報 君主? 貞明皇后(ていめいこうごう、1884年6月25日 - 1951年(昭和26年)5月17日)は、日本の皇族。大正天皇の皇后。旧名、九条 節子(くじょう さだこ)。お印は藤。 生涯 少女時代 明治17年(1884年)6月25日、旧摂家、公爵 九条道孝の四女として誕生。母は野間幾子。 学齢まで農家の家に里子に出され、“九条の黒姫様”と呼ばれるほど逞しく育った。彼女が健康であることは、病弱な大正天皇の后となる大きな決め手にもなったようである。 皇太子妃時代 明治33年(1900年)2月11日 、15歳で、5歳年上の皇太子嘉仁親王と婚約。同年5月10日、宮中の賢所に於いて、神前で挙式。御成婚祝の新居として赤坂離宮(現・迎賓館)が建造される。 成婚当時は教育係の万里小路幸子という老女官に宮中での礼儀作法を厳しく躾けられ困惑したが、後年にはそれが自分の素...
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