chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「大正12年」で検索した結果

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  • 加藤友三郎内閣
    ...日 - 1923年(大正12年)8月24日 伯爵内田康哉(首相病死により臨時兼任・政友会) 1923年(大正12年)8月24日 - 1923年(大正12年)9月2日 外務大臣 伯爵内田康哉(政友会)(高橋内閣から留任) 1922年(大正11年)6月12日 - 1923年(大正12年)9月2日 内務大臣 水野錬太郎(貴族院所属 交友倶楽部) 1922年(大正11年)6月12日 - 1923年(大正12年)9月2日 大蔵大臣 市来乙彦(貴族院所属 研究会) 1922年(大正11年)6月12日 - 1923年(大正12年)9月2日 陸軍大臣 山梨半造(軍人 陸軍大将)(高橋内閣から留任) 1922年(大正11年)6月12日 - 1923年(大正12年)9月2日 海軍大臣 男爵加藤友三郎(首相兼任・軍人 海軍大将) 1922年...
  • 第2次山本内閣
    ...兼任)(1923年(大正12年)9月2日 - 同年9月12日) 伊集院彦吉(1923年(大正12年)9月12日 - 1924年(大正13年)1月7日) 内務大臣 後藤新平 大蔵大臣 井上準之助 陸軍大臣 田中義一 海軍大臣 財部彪 司法大臣 田健治郎(1923年(大正12年)9月2日 - 同年9月6日) 平沼騏一郎(1923年(大正12年)9月6日 - 1924年(大正13年)1月7日) 文部大臣 犬養毅(1923年(大正12年)9月2日 - 同年9月6日) 岡野敬次郎(1923年9月6日 - 1924年1月7日) 農商務大臣 田健治郎 逓信大臣 犬養毅 鉄道大臣 山之内一次 内閣書記官長 樺山資英 法制局長官 松本烝治(1923年(大正12年)9月19日 - 1924年(大正13年)1月7日) 脚注 Template 脚注ヘルプ? ...
  • 東部軍管区 (日本軍)
    ...もとは、1923年(大正12年)11月に東京警備司令部令(大正12年勅令第480号)に基づいた東京警備司令部が設置されていた。これは首都圏(東京府東京市、荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡、神奈川県横浜市及び橘樹郡)の警備を目的としたもので、それまでの関東戒厳司令部に代わるものであった。 その後、1935年(昭和10年)8月に東部・中部・西部の各防衛司令部が設置され、東部防衛司令部と東京警備司令部は兼職とされたが、1937年(昭和12年)11月30日から東部防衛司令部に一本化された。1940年(昭和15年)8月1日に、東部軍が設置された。 概要 通称号: 編制時期:昭和20年2月1日(東部軍以前は下記年表参照) 最終位置:東京 上級部隊:天皇直隷 略年表 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災、戒厳令施行 1923年(大正12...
  • 皇室令
    ...室令第9号) 大正12年(1923年) 学習院官制(大正12年4月2日皇室令第5号) 女子学習院官制(大正12年4月2日皇室令第6号) 外国ニ出張ヲ命セラレタル者ノ渡切旅費ニ関スル件(大正12年7月9日皇室令第12号) 皇室ノ祭祀ニ関スル件(大正12年9月21日皇室令第14号) 宮内職員ノ制服ニ関スル件(大正12年9月21日皇室令第15号) 宮内省恩給令(大正12年9月28日皇室令第16号) 通常会計及帝室林野管理局会計ニ於テ収入シタル土地売払代金ニ関スル件(大正12年10月22日皇室令第18号) 震災ニ基ク特別ノ事情ニ因リ皇室会計令中特例ヲ設クルコトヲ得ルノ件(大正12年11月26日皇室令第19号) 大正13年(1924年) 宮内職員ノ懲戒免除ニ関スル件(大正13年皇室令第4号) 帝室林野管理局臨時職員官制(大正13年1月30日皇...
  • 大正
    ...機関説などが現れた。大正12年に関東大震災が起こり、首都が壊滅的な打撃を受けたが、程なく復興した。震災後、山本権兵衛内閣が成立した。その後、第二次護憲運動(憲政擁護運動)が起こり、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した。大正末期には、ベルサイユ・ワシントン体制に順応的な幣原外交(加藤内閣)が展開され、中国への内政不干渉、ソ連と国交回復など、一定の民主的な色彩を示した。 護憲運動と政治 明治末期にかけては軍部や元老山県有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。 その後、桂太郎が議会での...
  • 支那駐屯軍
    ...年)1月20日 - 大正12年(1923年)8月6日 吉岡顕作 少将 大正12年(1923年)8月6日 - 大正14年(1925年)5月1日 小泉六一 中将 大正14年(1925年)5月1日 - 大正15年(1926年)3月2日 高田豊樹 中将 大正15年(1926年)3月2日 - 昭和2年(1927年)7月26日 新井亀太郎 中将 昭和2年(1927年)7月26日 - 昭和4年(1929年)3月16日 植田謙吉 中将 昭和4年(1929年)3月16日 - 昭和5年(1930年)12月22日 香椎浩平 少将 昭和5年(1930年)12月22日 - 昭和7年(1932年)2月29日 中村孝太郎 少将 昭和7年(1932年)2月29日 - 昭和9年(1934年)3月5日 梅津美治郎 少将 昭和9年(1934年)3月5日 - 昭和10年(1935年)8月1日 多田駿 少将...
  • 伏石事件
    ...の高松市伏石町)で、大正12年(1923年)に起きた小作争議である。後述のとおり、日本農民組合(日農)香川県連合会長および顧問弁護士を巻き込んだ一大刑事事件に発展し、抗議行動が全国で行われたため、各種の小作争議を扱った文書でも伏石事件と呼ばれる事が多い。 概要 伏線 伏石での小作争議は、小作農民側が大正11年(1922年)夏に日農伏石支部を結成し、小作料を恒久的に30パーセント減額するよう地主に要求して、小作米の70パーセントから80パーセントのみを納入したことに端を発する。 これに対し地主側も団体を結成し減額を拒否するとともに、未納分の小作米の納入を求める訴訟を起こしている。 差押え・競売と刈り取り・脱穀 翌年、大正12年(1923年・ちなみにこの年は全国的な旱魃で稲は不作であったという)に入っても、小作農民側は引き続き小作料減額を主張し続けた。再度の小作米減額納入を警戒...
  • 加藤友三郎
    ...1年4月1日) - 大正12年(1923年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。第21代内閣総理大臣。元帥海軍大将・正二位・大勲位・功二級・子爵。同じく海軍大将であった加藤隆義は養子。 生涯 海軍軍歴と入閣 広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島市大手町(現在の中区大手町)に生まれる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。 明治17年(1884年)10月、海軍兵学校7期卒業。明治21年(1888年)11月、海大甲号学生。日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、黄海海戦に大いに活躍した。日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。東郷平八郎司令長官と加藤参謀長は弾丸あめあられの中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の志気を鼓舞した。その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て...
  • 閑院宮載仁親王
    ...行した。1923年(大正12年)9月1日、小田原の閑院宮別邸に家族とともに滞在中、関東大震災に遭遇し一時倒壊した別邸の下敷きとなったが、たいした怪我はなく無事であった。 1931年(昭和6年)に参謀総長に就任。青年時から立派な髭を生やしており、「髭の参謀総長」と呼ばれた。この参謀総長就任は、当時の陸軍大臣荒木貞夫の思惑があったとされる。在任中は皇族という出自もあり、部下の思惑通りに動かされるお飾りであった。派閥争いの激しかった陸軍内部では、どの勢力も参謀総長宮を抱え込むことによる発言権の伸張を図ったが、当人は皇道派の真崎甚三郎への反感から統制派に肩入れし、真崎が教育総監を追われた際には、渡辺錠太郎を通じて強く林銑十郎陸相に働きかけていたとも言われた。渡辺錠太郎が二・二六事件で凶弾に仆れたのは、載仁親王が皇族であり手出しが出来なかったため、身代わりとして襲撃されたのではないか、と松本...
  • 関東軍
    ...正10年3月11日~大正12年8月6日) 川田明治少将(陸士10期:大正12年8月6日~大正14年12月2日) 斎藤恒少将(陸士10期:大正14年12月2日~昭和3年8月10日) 三宅光治少将(陸士13期:昭和3年8月10日~昭和7年4月11日) 橋本虎之助少将(陸士14期 昭和7年4月11日~昭和7年8月8日) 小磯国昭中将(陸士12期 昭和7年8月8日~昭和9年3月5日) 西尾寿造中将(陸士14期 昭和9年3月5日~昭和11年3月23日) 板垣征四郎少将(陸士16期 昭和11年3月23日~昭和12年3月1日) 東條英機中将(陸士17期 昭和12年3月1日~昭和13年5月30日) 磯谷廉介中将(陸士16期 昭和13年6月18日~昭和14年9月7日) 飯村穣中将(陸士21期 昭和14年9月7日~昭和15年10月22日) 木村兵太郎中将(陸士...
  • 大審院
    ...田秀雄 1923年(大正12年)9月6日- 牧野菊之助 1927年(昭和2年)8月19日- 和仁貞吉 1931年(昭和6年)12月21日- 林頼三郎 1935年(昭和10年)6月13日- 池田寅二郎 1936年(昭和11年)3月13日- 泉二新熊 1939年(昭和14年)2月15日- 長島毅 1941年(昭和16年)1月31日- 霜山精一 1944年(昭和19年)9月15日- 細野長良 1946年(昭和21年)2月8日- 関連項目 最高裁判所 判例 院長以外の大審院判事 - 本多康直、太田黒惟信、堀真五郎、小村壽太郎 脚注 Template Reflist? 参考文献 山本祐司 『最高裁物語』上・下、日本評論社、1994年/講談社〈講談社+α文庫〉、1997年。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア...
  • 石井・ランシング協定
    ...の発効(1923年(大正12年)4月14日)により廃棄された。 締結に至る背景 第一次世界大戦のなか、決して激戦地とは言えない東アジア・南洋諸島において参戦した日本が「連合国」として中国大陸に対して権益を拡大しようとすることは英仏米の連合国は快く思わず、その牽制としてアメリカ合衆国国務長官ウィリアム・ジェニングス・ブライアンが「ブライアン・ノート」を発表することとなった。 そこで日本は融和策としてヨーロッパの連合国に対してはロンドン宣言に参加することや、地中海への海軍派遣などを提案し、アメリカに対しては中国大陸全土に対してはそれまでにアメリカが表明していた中国政策の一般原則を認めつつ、満蒙に日本の権益を認めさせようとする妥協策を提案した。この権益とは「経済的」権益に限るのか「政治的」権益を認めるのかについては曖昧であった。 関連項目 日本史の出来事一覧 門戸開...
  • 南次郎
    ...長。 1923年(大正12年)10月10日 - 陸軍士官学校校長。 1924年(大正13年)2月4日 - 中将に昇進。 1926年(大正15年)3月2日 - 第16師団長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 参謀次長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 朝鮮軍司令官。 1930年(昭和5年)3月7日 - 大将に昇進。 12月22日 - 軍事参議官。 1931年(昭和6年)4月14日 - 第22代陸軍大臣。 1934年(昭和9年)12月10日 - 関東軍司令官兼駐満州国大使。 1936年(昭和11年)4月22日 - 予備役編入。 8月5日 - 第8代朝鮮総督。 1942年(昭和17年)5月29日 - 枢密顧問官。 1945年(昭和20年)3月 - 貴族院議員(~12月)。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_...
  • 山梨軍縮
    ...整理 1923年(大正12年)3月、山梨陸相は更に「大正十二年軍備整備要領」を制定し2度目の整理を実施した。 廃止 鉄道材料廠 近衛師団及び第4師団の軍楽隊 2個独立守備隊 仙台幼年学校 新設 父島要塞司令部 奄美大島要塞司令部 これら、いわゆる山梨軍縮は大量の人員を削減したにも拘らず、近代化と経費節約は不徹底であった。これに追い討ちをかけるように1923年9月に関東大震災が発生し 新式装備の導入は困難となった。『近代戦争概史 上巻』陸戦学会 P286~286こののちに宇垣軍縮が行われることとなった。 脚注 Template 脚注ヘルプ? _   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月19日 (金) 09 25。     
  • 永田鉄山
    ...官。 1923年(大正12年)2月 - 参謀本部附。 3月 - 教育総監課員。 8月 - 中佐に昇進。 10月 - 陸軍大学校教官(兼任)。 1924年(大正13年)8月 - 歩兵第50連隊附。 12月 - 陸軍技術本部附、軍事課高級課員、陸軍大学校教官(兼任)。 1925年(大正14年)6月 - 国本社評議員嘱託。 1926年(大正15年)3月23日 - 陸軍兵器本部附(作戦資材整備会議幹事)。 10月1日 - 整備局動員課長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 大佐に昇進。 1928年(昭和3年)3月8日 - 歩兵第3連隊長。 1930年(昭和5年)8月1日 - 陸軍省軍事課長。 1932年(昭和7年)4月11日 - 少将に昇進。参謀本部第2部長。 1933年(昭和8年)8月1日 - 歩兵第1旅団長。 1934年(昭和9年)3月5日 - 陸軍...
  • 土肥原賢二
    ...) 1923年(大正12年)8月 - 中佐に昇進。 1926年(大正15年)3月 - 歩兵第2連隊附。 1927年(昭和2年)3月 - 歩兵第3連隊附。 4月 - 中国出張。 7月26日 - 大佐に昇進。第1師団司令部附。 1928年(昭和3年)3月20日 - 奉天督軍顧問。 1929年(昭和4年)3月16日 - 歩兵第30連隊長。 1931年(昭和6年)3月 - 中国出張。 7月26日 - 関東軍司令部附(奉天特務機関長)。 1932年(昭和7年)1月26日 - 関東軍司令部附(ハルビン特務機関長)。 4月11日 - 少将に昇進。歩兵第9旅団長。 1933年(昭和8年)10月16日 - 関東軍司令部附(奉天特務機関長)。 1936年(昭和11年)3月7日 - 中将に昇進。第12師団司令部附。 3月23日 - 第1師団留守司令官。 1937年(...
  • 真崎甚三郎
    ...長。 1923年(大正12年)8月6日 - 陸軍士官学校本科長。 1924年(大正13年)3月 - 欧米出張(~9月)。 1925年(大正14年)5月1日 - 陸軍士官学校幹事兼教授部長。 1926年(大正15年)3月2日 - 陸軍士官学校校長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 中将に昇進。 8月26日 - 第8師団長。 1929年(昭和4年)7月1日 - 第1師団長。 1931年(昭和6年)8月1日 - 台湾軍司令官。 1932年(昭和7年)1月9日 - 参謀次長。 1933年(昭和8年)6月19日 - 大将に昇進。軍事参議官。 1934年(昭和9年)1月23日 - 教育総監(軍事参議官との兼任)。 1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役編入。 脚注 _           出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikip...
  • 近衛師団
    ...nbsp; 19大正12年8月6日森岡守成  20大正14年5月1日田中国重  21大正15年7月28日津野一輔  22昭和3年2月28日長谷川直敏  23昭和4年8月1日林銑十郎  24昭和5年12月22日岡本連一郎  25昭和7年2月29日鎌田弥彦  26昭和8年8月1日朝香宮鳩彦王  27昭和10年12月2日橋本虎之助二・二六事件では宮城警備を指揮する。 28昭和11年3月23日香月清司  29昭和12年3月1日西尾寿造  30昭和12年8月26日飯田貞固  31昭和14年9月12日飯田祥二郎  32昭和16年6月28日西村琢磨シンガポールの戦いを指揮する。 33昭和17年4月20日武藤章昭和18年6...
  • 宇垣軍縮
    ...不満と、1923年(大正12年)8月に発生した関東大震災の復興費用捻出のため、1925年(大正14年)5月に宇垣一成陸軍大臣の主導の下、第三次軍備整理が行なわれることとなった。当時の陸軍省経理局は三井清一郎主計総監である。 廃止 具体的には21個師団のうち 第13師団(高田) 第15師団(豊橋) 第17師団(岡山) 第18師団(久留米) 連隊区司令部16ヶ所。 陸軍病院5ヶ所 陸軍幼年学校2校を廃止した。 この結果として約34,000人の将兵と、軍馬6000頭が削減された。 新設 1個戦車連隊 1個高射砲連隊 2個飛行連隊 1個台湾山砲連隊 陸軍自動車学校(東京) 陸軍通信学校(神奈川) 陸軍飛行学校(三重、千葉) 留意点 京浜および阪神地区に近い、宇都宮第14師団・京都第16師団は残置 衛戍地...
  • 小磯國昭
    ...。 1923年(大正12年)3月17日 - 陸軍大学校教官。 8月6日 - 歩兵第51連隊長。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部編制動員課長。 1926年(大正15年)12月1日 - 少将に昇進。 1927年(昭和2年)7月26日 - 航空本部総務部長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 陸軍省整備局長。 1930年(昭和5年)8月1日 - 陸軍省軍務局長。 1931年(昭和6年)8月1日 - 中将に昇進。 1932年(昭和7年)2月29日 - 陸軍次官。 8月8日 - 関東軍参謀長兼特務部長。 1934年(昭和9年)3月5日 - 第5師団長。 1935年(昭和10年)12月2日 - 朝鮮軍司令官。 1937年(昭和12年)7月21日 - 大将に昇進。 1938年(昭和13年)7月29日 - 予備役編入。 1939年(昭和14年)4...
  • 松井石根
    ...)。 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に昇進。 1924年(大正13年)2月4日 - 歩兵第35旅団長。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部第2部長。 1927年(昭和2年)7月26日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)12月21日 - 参謀本部附(欧米出張)。 1929年(昭和4年)8月1日 - 第11師団長。 1931年(昭和6年)12月9日 - ジュネーブ一般軍縮会議全権委員。 1933年(昭和8年)3月18日 - 軍事参議官。 8月1日 - 台湾軍司令官。 10月20日 - 大将に昇進。 1935年(昭和10年)8月28日 - 予備役編入。 1937年(昭和12年)8月15日 - 召集。上海派遣軍司令官(~12月1日)。 10月30日 - 中支那方面軍司令官(~1938年3月5日)。 1938年(昭和13年)7月 ...
  • 野村吉三郎
    ... 任海軍少将。 大正12年(1923年)9月15日 - 第一遣外艦隊司令官 大正14年(1925年)9月18日 - 海軍省教育局長。 大正15年(1926年) 7月26日 - 軍令部次長。 12月1日 - 任海軍中将。 昭和4年(1929年)2月1日 - 練習艦隊司令官。 昭和5年(1930年)6月11日 - 呉鎮守府司令長官。 昭和6年(1931年)12月1日 - 横須賀鎮守府司令長官。 昭和7年(1932年) 2月2日 - 第三艦隊司令長官。上海事変に従軍。 4月29日 - 上海天長節爆弾事件に遭い、右眼を失明。 6月24日 - 勅語を賜る。 6月28日 - 軍事参議官。 10月10日 - 横須賀鎮守府司令長官。 昭和8年(1933年) 3月1日 - 任海軍大将。 11月15日 - 軍事参議官。 昭和9...
  • 帝国国防方針
    ...- 108項 大正12年帝国国防方針 大正12年2月28日の改定においては、従来の国是、国家目標、国家戦略、国防方針の順序で記述され、政戦略の一致が重視されていたが、国是や国家戦略が省略され、国防の本義として要約される形となっている。 国防の本義は国防の目的として自主独立の保障、国利国権の擁護、国家の発展、国民の福祉増進という原則的な記述にとどまり、国家戦略の部分については従来のような具体的な記述はない。また軍事ドクトリンとしては総力戦に配慮しながらも短期決戦の攻勢が強調されている。 また国際的な孤立を回避した上で対立がもっとも激しい外国に対しては警戒し、敵国が結合することを防ぎながら同盟を密接にして戦争遂行で優位に立つように努め、敵を海外において撃破して速やかに終結するという攻勢作戦の軍事ドクトリンが述べられている。黒川雄三『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、20...
  • 海軍工廠
    ...。なお、東京造兵廠は大正12年(1913年)4月まで存続し、艦政本部直轄の技術研究所に改変された。呉造兵廠はそのまま呉工廠造兵部に取り込まれている。 兵器の多様化により、造兵部の一部は分業化が進み、呉工廠では早くも明治43年(1910年)に砲熕部・水雷部・火工部へ分裂して発展解消している。横須賀・佐世保・舞鶴では造兵部の発展解消はなく、オプションの新設部署として増設されている。 新たに増設された部署 造船部系 造船実験部:呉廠に設置。 航海実験部・光学実験部・通信実験部・電池実験部:横廠に設置。 潜水艦部:呉廠に設置。潜水艦建造・計画を担当。太平洋戦争末期に特攻兵器製造のため4工廠すべてに増設。 造機部系 機関実験部:横廠(主に軍艦用)・舞廠(主に駆逐艦用) 造兵部系 火工部:火薬製造・充填を担当。呉廠に設置。 製鋼部・製鋼実験部:装甲...
  • 震災手形
    ...ラトリアム令) 大正12年勅令第404号 1923年9月7日発布 特定地域において9月1日から30日を支払期限とする債務について、支払い期限を30日延長する。 日本銀行震災手形割引損失補償令 大正12年勅令第424号、1923年9月23日発布 特定地域で振り出された手形で1923年9月1日(関東大震災当日)以前に銀行が割引き、期限が同30日までの物は、日本銀行が再割引に応じる。 再割引した手形の決済期限は1925年9月30日とする。 これらの手形の処理で日本銀行が損失を被った場合は1億円を限りに政府が補償する。 1925年3月30日公布の法律第35号で期限を1926年9月30日まで繰り延べ。 1926年3月27日公布の法律第33号で期限を1927年9月30日まで繰り延べ。 震災手形関係二法 震災手形善後処理法と震災手形損失補償公債法を合わせて言い、1...
  • 板垣征四郎
    ...)。 1923年(大正12年)8月 - 中佐に昇進。 1924年(大正13年)6月 - 支那公使館附武官補佐官(北平駐在)。 1927年(昭和2年)5月28日 - 歩兵第33旅団参謀。 7月 - 第10師団司令部附。 9月 - 支那出張。 1928年(昭和3年)3月8日 - 大佐に昇進。歩兵第33連隊長。 1929年(昭和4年)5月14日 - 関東軍高級参謀。 1931年(昭和6年)10月5日 - 関東軍第2課長。 1932年(昭和7年)8月8日 - 少将に昇進。関東軍司令部附(満州国執政顧問)。 1933年(昭和8年)2月8日 - ヨーロッパ出張。 1934年(昭和9年)8月1日 - 関東軍司令部附(満州国軍政部最高顧問)。 12月10日 - 関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官。 1936年(昭和11年)3月23日 - 関東軍参謀長。 4月28日 - ...
  • 阿南惟幾
    ...。 1923年(大正12年)8月 - サガレン州派遣軍参謀。 1925年(大正14年)8月 - 中佐に昇進。 1926年(大正15年)4月 - 軍令部参謀。 1927年(昭和2年)8月 - フランス出張。 12月 - 歩兵第45連隊附。 1928年(昭和3年)8月10日 - 歩兵第45連隊留守隊長。 1929年(昭和4年)8月1日 - 侍従武官。 1930年(昭和5年)8月1日 - 大佐に昇進。 1933年(昭和8年)8月1日 - 近衛歩兵第2連隊長。 1934年(昭和9年)8月1日 - 東京陸軍幼年学校長。 1935年(昭和10年)3月15日 - 少将に昇進。 1936年(昭和11年)8月1日 - 陸軍省兵務局長。 1937年(昭和12年)3月1日 - 陸軍省人事局長。 1938年(昭和13年)3月1日 - 中将に昇進。 ...
  • 後藤新平
    ...)12月17日 - 大正12年(1923年)4月20日)、第2次山本内閣の元で再び内務大臣(大正12年(1923年)9月2日 - 大正13年(1924年)1月7日、後述)などを歴任した。 鉄道院総裁の時代には、職員人事の大幅な刷新を行った。これに対しては内外から批判も強く「汽車がゴトゴト(後藤)してシンペイ(新平)でたまらない」と揶揄された。しかし、今日のJR九州の肥薩線にその名前を取った「しんぺい」号が走っている。 関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案した。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので13億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約1年分)のために財界などからの猛反対にあい、当初計画を縮小せざるを得なくなった(議会に承認された予算は5億7500万円)。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、...
  • 伏見宮博恭王
    ...、海軍大将 大正12年(1923年) 2月4日、父・貞愛親王薨去し伏見宮を継承する 10月27日、議定官 大正13年(1924年) 2月5日、佐世保鎮守府司令長官 3月24日、博忠王薨去 大正14年(1924年) 1月26日、知子女王、久邇宮朝融王と成婚 4月15日、軍事参議官 大正15年(1925年) 10月27日、敦子女王、伯爵清棲幸保と成婚 12月7日、博信王、臣籍降下し華頂博信侯爵 昭和7年(1932年) 1月26日、博義王第一王子博明王誕生 2月2日、海軍軍令部長・将官会議議員 5月27日、元帥 昭和8年(1933年)10月1日、軍令部総長 昭和9年(1934年)4月29日、大勲位菊花章頚飾受章 昭和11年(1936年) 2月24日、敦子女王(清棲敦子)薨去 4月1日、博英王臣...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    Template 軍隊資料? 朝鮮軍(ちょうせんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。朝鮮を管轄した。 概要 日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(かんこくちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍(ちょうせんちゅうさつぐん)に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。 昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。 歴代朝鮮軍司令官 Template 日本陸軍? 韓国駐剳軍司令官 原口兼済中将:明治37年(1904年)3月11日 - 明治37年(1904年)9月8日 長谷川好道大将:明治37年(190...
  • 荒木貞夫
    ...長。 1923年(大正12年)3月17日 - 少将に昇進。歩兵第8旅団長。 1924年(大正13年)1月9日 - 憲兵司令官。 5月 - 国本社理事。 1925年(大正14年)5月1日 - 参謀本部第1部長。 1927年(昭和2年)7月26日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)8月10日 - 陸軍大学校校長。 1929年(昭和4年)8月2日 - 第6師団長。 1931年(昭和6年)8月1日 - 教育総監部本部長。 12月13日 - 陸軍大臣(~1934年1月23日)。 1933年(昭和8年)10月20日 - 大将に昇進。 1934年(昭和9年)1月23日 - 軍事参議官。 1935年(昭和10年)12月26日 - 男爵を授爵する。 1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役編入。 1937年(昭和12年)10月15日 - 内閣参議。 193...
  • 木村兵太郎
    ...ドイツ駐在。 大正12年(1923年)8月 - 少佐に昇進。 大正14年(1925年)10月 - 陸軍大学校教官。 大正15年(1926年)8月 - 砲兵第24大隊長。 昭和3年(1928年) 3月 - 中佐に昇進。 7月 - 砲兵監部員。 昭和4年(1929年) 6月 - 陸軍野戦砲兵学校教官。 9月 - 軍令部員(参謀本部員との兼任)。 11月 - ロンドン海軍軍縮会議随員。 昭和6年(1931年)8月1日 - 大佐に昇進。野砲兵第22連隊長。 昭和7年(1932年)8月8日 - 技術本部員(陸軍野戦砲兵学校教官との兼任)。 昭和10年(1935年)3月15日 - 陸軍省整備局統制課長。 昭和11年(1936年)8月1日 - 少将に昇進。陸軍省兵器局長。 昭和14年(1939年)3月9日 - 中将に昇進。第32師団長。 ...
  • 平沼騏一郎
    ...) 1923年(大正12年) 9月 第2次山本内閣で司法大臣に就任 1924年(大正13年) 1月 貴族院議員 2月 枢密顧問官 右翼団体国本社創立 復古的日本主義を標榜 1926年(大正15年) 4月 枢密院副議長に就任 10月 男爵 1936年(昭和11年) 3月 枢密院議長に就任 1939年(昭和14年) 1月 内閣総理大臣に就任 1945年(昭和20年) 12月 A級戦犯に指定 1946年(昭和21年) 4月 巣鴨拘置所入所 1948年(昭和23年) 11月 判決・終身禁固 1952年(昭和27年) 8月22日 死去 墓所は岡山県津山市の安国寺、東京の多磨霊園 その他 千葉県一宮町に別荘を所有していた。 栄典・授爵 1916年(大正5年)1月19日:勲一等瑞宝章 1926年(大正15年)10月2...
  • 阿部信行
    ...進。 1923年(大正12年)8月6日 - 参謀本部総務部長。 9月3日 - 兼関東戒厳参謀長(~11月)。 1926年(大正15年)7月28日 - 陸軍省軍務局長。 1927年(昭和2年)3月5日 - 中将に昇進。 1928年(昭和3年)8月10日 - 陸軍次官。 1930年(昭和5年)12月22日 - 第4師団長。 1932年(昭和7年)1月9日 - 台湾軍司令官。 1933年(昭和8年)6月19日 - 大将に昇進。 8月1日 - 軍事参議官。 1936年(昭和11年)3月10日 - 予備役編入。 1939年(昭和14年)8月30日 - 第36代内閣総理大臣。 1940年(昭和15年)1月15日 - 内閣総辞職。 4月1日 - 駐華特命全権大使(~12月7日)。 1942年(昭和17年)5月20日 - 翼賛政治会会長。 5月28日 - 貴族院議...
  • 宇垣一成
    ...、第10師団長 大正12年(1923年)、陸軍次官。 大正13年 - 昭和2年(1924年 - 1927年)清浦内閣で陸軍大臣に就任。以後、加藤高明内閣、第1次若槻内閣まで陸軍大臣を歴任。 大正14年(1925年)、加藤内閣の時、「宇垣軍縮」と呼ばれる陸軍の整理を行う。陸軍大将に昇進。 昭和2年(1927年)、朝鮮総督(臨時代理)。 昭和4年(1929年)、濱口雄幸内閣で再び陸軍大臣に就任。 昭和6年(1931年)、予備役となり、昭和11年(1936年)まで朝鮮総督。 陸軍によるクーデター未遂事件(三月事件)。陸軍桜会や右翼大川周明らの計画。武力による宇垣内閣擁立を狙ったが頓挫。宇垣は人望を失墜する。 昭和12年(1937年)、廣田内閣総辞職の後、宇垣内閣組閣の大命を受ける。しかし、陸軍内の意見を纏めきれず組閣を断念。同じ陸軍大将の林銑十郎内閣が成立...
  • 鈴木貞一
    ...)。 1923年(大正12年)8月 - 参謀本部附(北京駐在)。 1925年(大正14年)12月 - 少佐に昇進。歩兵第48連隊附。 1926年(大正15年)8月 - 歩兵第48連隊大隊長。 12月 - 支那出張(~1927年5月)。 1927年(昭和2年)5月 - 参謀本部員(作戦課)。 1929年(昭和4年)2月 - イギリス出張(~10月)。 12月 - 支那公使館付武官補佐官(北京駐在)。 1930年(昭和5年)3月 - 中佐に昇進。 1931年(昭和6年)1月 - 軍務局附。 8月1日 - 軍務局課員(支那班長)。 1933年(昭和8年)8月1日 - 新聞班長。 12月20日 - 大佐に昇進。 1934年(昭和9年)3月5日 - 陸軍大学校教官。 1935年(昭和10年)5月25日 - 内閣調査局調査官。 1936年(昭和11年)8月1...
  • 山本権兵衛
    ...だ明けぬ1923年(大正12年)9月2日である。山本は帝都復興院総裁に後藤新平を任命して東京の復興事業を行う一方、普通選挙実現に動くなどしたが、同年12月27日に起きた摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助に狙撃された虎ノ門事件の責任を取り、翌1924年(大正13年)1月7日内閣は総辞職した。 明治日本海軍の父としてその手腕は高く評価される反面、首相在任中に於ける不運が惜しまれる。 元老の候補として何度も名前が挙げられたが、西園寺公望の反対により実現しなかったとも言われる。 栄典 1906年(明治39年)4月1日 功一級金鵄勲章 1933年(昭和8年)12月9日 大勲位菊花章頸飾 家族親族 長女イネは海軍大臣を務めた財部彪海軍大将夫人、次女すゑは山路一善海軍中将夫人、三女ミねは山本盛正夫人、四女なミは上村従義男爵夫人、五女登美は首相松方正義の息子乙彦に嫁いでい...
  • 大輝丸事件
    大輝丸事件(だいきまるじけん)は、1922年(大正11年)におこった、日本の海賊によるロシア人殺害事件である。 概要 大正11年9月、茨城県結城町の江連力一郎(当時34歳)は、神戸西之宮の相沢汽船会社所有の船 大輝丸740トンを用船し、オホーツク海に砂金採取に行くと称して、人夫60名を募集した。 9月26日、北海道・小樽を出航し、黒竜江河口の沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに北樺太のポコピー、デスカストリー付近で帆船1隻およびその積荷を略奪し、それと同時にロシア人船長以下12名および先の発動機船の乗組員4名を大輝丸の船員室に監禁した。 10月22日、23日、この全員を甲板に引き出し、日本刀で殺害した。江連は、略奪品を小樽に荷揚げしたのち、人夫らを脅迫し僅かの金銭をあたえて解散した。 この事件は、人夫であった田中三木蔵および菊池種松の自首によって発覚した。 ...
  • 第1次若槻内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ わかつき ないかく|25|若槻禮次郎|Template 和暦?|1月30日|Template 和暦?|4月20日|憲政会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/25.html|内務大臣}} 閣僚 内閣総理大臣 若槻禮次郎 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 外務大臣 幣原喜重郎 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 内務大臣 若槻禮次郎(兼任) 1926年(大正15年)1月30日 - 同年6月3日 濱口雄幸 1926年(大正15年)6月3日 - 1927年(昭和2年)4月20日 大蔵大臣 濱口雄幸 1926年(大正15年)1月30日 - 同年6月3日 早速整爾 1926年(大正15年)6月3日...
  • 大正天皇
    Template 基礎情報 天皇? 大正天皇(たいしょうてんのう、1879年8月31日 - 1926年12月25日)は、第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。印は壽(じゅ)。在位中の元号から採って、大正天皇と追号された。明治以降の近代天皇制で初の一夫一妻制をとった天皇である。 生涯 誕生 大正天皇は明治12年(1879年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子として東京の青山御所で誕生した。生母は典侍 柳原愛子である。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気に悩まされた。侍医(主治医)の浅田宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録している。 このような状態ではあったが、父:明治天皇と皇后:昭憲皇太后(一条美子)との間には皇子女がおらず、...
  • 憲兵 (日本軍)
    ...補助セシムルノ件」(大正12年勅令第441号)により、乗馬兵科に限られなくなった。。また、下士官・兵であっても憲兵は、適正な司法警察権の行使を完全ならしめるために営内居住ではなく、営外で居住した。また、私服での隠密捜査も多いため、丸刈りはあまり行われていなかったという。 憲兵科であっても、兵卒は国民の義務として兵役に服しているのであって、本来は官吏としての待遇を受けるものではないが、警察の巡査が判任官待遇を受けていることとの均衡から、明治28年7月15日に憲兵上等兵も判任官待遇を受けることとなった明治28年勅令第111号。。 昭和12年1月から憲兵上等兵候補者を全国から募集した。募集にあたって学歴を一切問わなかったというが、兵士の大部分が小学校卒であった時代において、実際の合格者に占める小学校卒の割合は一割程度だった昭和10(1935)年の旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校...
  • 仮20
    ...次 1923年(大正12年) 関東大震災、虎の門事件 1925年(大正14年) 治安維持法、普通選挙法 昭和(戦前年) 1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵 1928年(昭和3年) 三・一五事件、張作霖爆殺事件 1929年(昭和4年) 世界恐慌 1931年(昭和6年) 柳条湖事件、満州事変、三月事件、十月事件 1932年(昭和6年) 血盟団事件、五・一五事件 1932年(昭和7年) 第一次上海事変 1933年(昭和8年) 国際連盟脱退、滝川事件、神兵隊事件 1934年(昭和9年) 帝人事件 1935年(昭和10年) 相沢事件、天皇機関説問題 1936年(昭和11年) 二・二六事件、綏遠事件、西安事件 1937年(昭和12年) 盧溝橋事件、第二次上海事変(日中戦争(支那事変)始まる) 1938年(昭和13年) 張鼓峰事件 193...
  • 香淳皇后
    ...する。翌1923年(大正12年)の内にも婚儀の予定であったが、関東大震災の惨状を目の当たりにした裕仁親王が自ら延期した。 1924年(大正13年)1月26日に結婚。皇太子妃となり、赤坂の東宮御所に住まう。裕仁親王との関係はこの頃より円満で、当時も手をつないで散歩をしていたという。1925年(大正14年)12月6日には第一皇女・照宮成子内親王が誕生する。良子は乳人こそ置いたが、可能な限り自らの母乳で育てた。子女を幼少時は手元で育てたことも、非常に画期的な出来事であった。 皇后時代 1926年(昭和元年)12月25日、昭和天皇の即位に伴い立后。1927年(昭和2年)、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生するも、翌1928年(昭和3年)に敗血症のため夭折。皇后は自ら死化粧をほどこし、天皇も禁を破り通夜に出席した。同年11月10日、即位の大礼が京都御所で盛大に執り行われた。1929年(昭...
  • 寺内寿一
    寺内 寿一(てらうち ひさいち、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日は、日本の陸軍軍人、元帥陸軍大将、政治家。伯爵。第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。山口県出身。 経歴 東高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、成城学校を経て 1899年(明治32年)11月 陸軍士官学校(11期)卒業 1904年(明治37年)3月 日露戦争に出征 1909年(明治42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業 1919年(大正8年)7月 大佐に昇進 1919年(大正8年)12月 伯爵を襲爵 1924年(大正13年)2月 少将に昇進 1926年(大正15年)9月 山陽本線特急列車脱線事故に遭遇。34名も死亡した事故であったが、寺内は無傷であった。 1927年(昭和2年) 朝鮮軍参謀長 1929年(昭和4年)8月 中将に昇進 193...
  • 平泉澄
    ...託。 1923年(大正12年)、東京帝国大学講師。 1926年(大正15年)、東京帝国大学助教授。論文「中世に於ける社寺と社会の関係」により文学博士の学位を取得。 1930年(昭和5年)、欧米外遊。翌年、帰国。 1935年(昭和10年)、東京帝国大学教授。 1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦に伴い、東京帝国大学教授を辞任。 1948年(昭和23年)、公職追放。1952年(昭和27年)に至り、追放解除。 1984年(昭和59年)、死去(89歳)。 略伝 少年時代 1895年(明治28年)2月16日(戸籍は2月15日)、福井県大野郡平泉寺村平泉寺(現在の福井県勝山市)に生まれる。父は平泉寺白山神社第2代宮司の平泉恰合(大畠清右衛門の子、初代宮司の平泉須賀波の養子)、母は勝山藩士島田将恕の娘、貞子。「澄」の名は、白山の開祖である泰澄の1字をとって名付けられた...
  • 田中隆吉
    ...。 1923年(大正12年) - 陸軍大尉任官。参謀本部に赴任。 1924年(大正13年) - 参謀本部支那班に所属。この頃、大川周明と関係。 1927年(昭和2年)7月 - 参謀本部付・支那研究生として北京・張家口に駐在(特務機関任務)。 1929年(昭和4年)8月 - 陸軍砲兵少佐任官。参謀本部支那課兵要地誌班に異動。 1930年(昭和5年)10月 - 上海公使館附武官として上海に赴任。川島芳子と出会い、男女の仲になる。川島をスパイの道に引き入れる。 1932年(昭和7年) 1月 - 上海事変。田中と川島は共謀し、上海事変を引き起こす謀略を実行する。 8月 - 野砲兵第4連隊の大隊長に着任。 1934年(昭和9年)3月 - 陸軍中佐任官。野戦重砲兵第1連隊付(市川、連隊長は下村定)に着任。 1935年(昭和10年)3月 - 関東軍参謀部第...
  • 高橋内閣
    {{日本の内閣記事|たかはし ないかく|20|高橋是清|Template 和暦?|11月13日|Template 和暦?|6月21日|立憲政友会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/20.html|大蔵大臣}}首相を除く、すべての大臣を前の原内閣から引き継ぎ、再任した。 閣僚 内閣総理大臣 高橋是清 外務大臣 内田康哉 内務大臣 床次竹二郎 大蔵大臣 高橋是清(兼任) 陸軍大臣 山梨半造 海軍大臣 加藤友三郎 司法大臣 大木遠吉 文部大臣 中橋徳五郎 農商務大臣 山本達雄 逓信大臣 野田卯太郎 鉄道大臣 元田肇 内閣書記官長 三土忠造(1921年(大正10年)11月24日 - 1922年(大正11年)6月21日) 法制局長官  横田千之助(1921年(大正10年)11月24日 - 1922年(...
  • 日本軍
    ...会議 1923年(大正12年)甘粕事件 1925年(大正14年)シベリア出兵終了、宇垣軍縮 昭和期 1927年(昭和 2年) 第一次山東出兵 第一次南京事件 1928年(昭和 3年) 第二次山東出兵 済南事件 張作霖爆殺事件 1930年(昭和 5年) ロンドン海軍軍縮会議 台湾霧社事件 1931年(昭和 6年) 三月事件 満州事変 十月事件 1932年(昭和 7年) 五・一五事件 満州国建国 1934年(昭和 9年)ワシントン海軍軍縮条約破棄 1936年(昭和11年) 二・二六事件 軍部大臣現役武官制復活 日独防共協定 1937年(昭和12年) 支那事変(日中戦争) 盧溝橋事件 通州事件 1938年(昭和13年) 張鼓峰事件 国家総動員法公布 ...
  • 昭和天皇
    ...。 1923年(大正12年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める。(虎ノ門事件) 1924年(大正13年)に久邇宮良子女王と結婚。 1925年(大正14年)10月、陸海軍大佐に昇任。 1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御により践祚し、昭和と改元。葉山の御用邸内において剣璽渡御の儀を行なう。 1926年(昭和元年)第124代天皇、陸海軍大元帥となる。 1928年(昭和3年)11月、京都御所にて即位の大礼を行なう。12月、御大典記念観兵式。 1929年(昭和4年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。 1933年(昭和8年)12月23日、皇太子継宮明仁親王降誕(皇族の誕生を示す用語)。 1940年(昭和15年)皇居前広場...
  • 鈴木貫太郎
    ...を行う。1923年(大正12年)、海軍大将となり、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官に、翌年海軍軍令部長に就任。 1929年(昭和4年)に天皇と皇太后に侍従長就任を懇願され予備役に。1936年(昭和11年)年に起きた二・二六事件では、青年将校らに襲撃された。一命を取り留めたが、侍従長を辞任した。 1944年(昭和19年)に枢密院議長となり、1945年(昭和20年)4月総理就任。総理大臣としては非国会議員・江戸時代生まれこれに関しては微妙なところで、一般に「江戸時代」の終わりは大政奉還とされるが、これは鈴木が生まれる前の慶応3年10月14日(1867年11月15日)である。一方、明治への改元は慶応4年9月8日(1868年10月23日)であるが、改元に際して「慶応4年をもって明治元年とする(正月までさかのぼって改元)」とされたことから、慶応4年1月1日(1868年1月25日)...
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