chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「天津会議」で検索した結果

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  • 奉直戦争
    ...玉祥などは曹家花園で天津会議を開き、中華民国執政府と国会に取って代わる善後会議の成立を決定し、あわせて段祺瑞を総統と総理の職を統べた「中華民国臨時執政」に推薦した。孫文は北京に入ったがこの頃病没し、政権は奉天派の手中に落ちた。 第二次奉直戦争の規模は第一次奉直戦争のそれよりも大きく、黄渡劉河の戦い、宜興の戦い、慶元の戦い、江山の戦い、松枝の戦い、楊村の戦いなど多くの戦役があった。奉天派の勝因は多数の訓練された正規の外国籍の兵隊によるものであった。 その後 政権を掌握した張作霖政権も磐石なものではなかった。孫文没後、後を継いだ蒋介石の北伐により張作霖は北京より脱出、最終的には1928年満州某重大事件により命を落とすことになった。張作霖の息子、張学良は蒋介石に降伏し、その後、日本との対決を深めることになった。 関連項目 直皖戦争 出典 フリー百科事典『ウ...
  • 天津条約
    天津条約(てんしんじょうやく, Treaty of Tianjin)とは、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争の結果、ロシア帝国・アメリカ合衆国・イギリス・フランスと清国間に結ばれたのが始まり。日本と清の間には1885年に締結。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。 1858年の条約 1857年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でイギリス、フランス、ロシア、アメリカの4国と結んだ条約。  軍事費の賠償  外交官の北京駐在  外国人の中国での旅行と貿易の自由  キリスト教布教の自由と宣教師の保護  牛荘(満州)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、潮州(広東省東部、後...
  • 御前会議
    御前会議(ごぜんかいぎ)とは、天皇が臨席し、国の重要な政策を閣僚・元老と共に決定するために開催される会議の通称である。この御前会議で天皇が決定することは「聖断」として高い権威を持った。 御前会議は戦争遂行等を決定するときに開かれた。主な例では明治時代の1904年2月4日、日露戦争開戦の可否をめぐって開かれている。変わった所では、京成電鉄が恩賜公園である上野公園の敷地の地下を経由して上野に乗り入れる際にも御前会議が招集された。 大東亜戦争(太平洋戦争)と御前会議 昭和時代では、1941年7月2日、独ソ不可侵条約破棄して独ソ戦が開始されたとき、事態対応するための方策として、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定されている。独ソ戦がドイツ有利に戦況が進んだ場合、ソ連に対して開戦すること、「対英米戦準備を整え、対英米戦を辞せず」とし、南部仏印進駐開始を決めた。 同年9月6日、御前会議が開か...
  • 皇族会議
    皇族会議(こうぞくかいぎ)は、1889年(明治22年)、旧皇室典範に基づいて設置された機関である。 皇族会議は、成年以上の皇族男子をもって組織し、内大臣、枢密院議長、宮内大臣、司法大臣、大審院長が参列することになっていた(第55条)。また、天皇がみずから議長となるか、皇族1名を議長に指名した(第56条)。その任務として最も重大なものは、天皇が長期間政務を執ることができなくなったときに、枢密院と共同して摂政を設置することであった(第19条第2項)。 別に皇族会議令が定められており、具体的な運営についてはそちらに規定されていた。召集は勅命によること(第1条)、摂政が設置されているときは摂政が召集すること(第2条)、議員は自己に利害関係のある議事については採決に参加できないこと(第9条)などである。皇族会議の議決の結果は、天皇が議事を統理しないときは、議長から天皇に奏上することになっていた(...
  • 皇室会議
    皇室会議(こうしつかいぎ)は、皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。重要事項について、皇室会議の「議を経」または「議によ」ることとされ、諮問機関とは一線を画する。 なお、宮内庁長官が議員として参加する、会議が宮内庁本庁舎において行われる等宮内庁とは関係は深いものの、それぞれはお互いに独立した機関である。 皇室会議で決すべき事項 「皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う」(皇室典範37条)と定められているので、皇室会議で決すべき事項は、新たな法律の制定・改廃がされない限り以下のもののみである。※印が付されているものは、出席議員の3分の2以上の多数で決する事項。 皇位継承関係 皇位継承順位の変更(皇室典範3条)※ 婚姻関係 立后(天皇の婚姻)と皇族男子の婚姻(皇室典範10条) 他の事項が皇室会議の「議による」...
  • 重臣会議
    重臣会議(じゅうしんかいぎ)は、昭和時代に元老の職掌を引き継ぐ形で、後継の内閣総理大臣の選定や国家の重要事項に関して、天皇の諮問に答える形で開かれた会議。構成要員は内閣総理大臣経験者及び枢密院議長とされている。太平洋戦争終結まで度々開催されている。 沿革 明治以後、内閣総理大臣の選定は元老によって行われてきたが、大正時代末期には元老が西園寺公望ただ一人となった。西園寺は古い元老制度を廃止するためあえて元老の追加には同意しなかったが(山本権兵衛などが候補としてあげられた)、五・一五事件による政党内閣の崩壊と軍部の台頭、自身の高齢化によって西園寺単独による後継選定は不可能な状態となった。そこで、昭和8年(1933年)に西園寺を助ける目的で「重臣」制度が設けられて、総理大臣経験者と枢密院議長が元老西園寺とともに会議を開いて後継選定を図ることにしたのが始まりである(五・一五事件後の後継首相...
  • 大阪会議
    大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。 会議に至る背景 征韓論をめぐる明治6年10月政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、ほぼ大久保専制体制となる。 大久保主導政府の急進的な改革に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児...
  • 大東亜会議
    thumb|300px|大東亜会議に参加した各国首脳。左から[[バー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース]] 大東亜会議(だいとうあかいぎ)は、昭和18年(1943年)11月5日~11月6日に東京で行われた首脳会議。当時の日本(大日本帝国)の影響下にあったアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた。そこでは、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。 日本は第2回目の大東亜会議を開催する計画を持っていたが、戦局の悪化に伴って開催困難となり、昭和20年(1945年)5月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表による「大使会議」が開催された。 概要 この会議は、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われた首脳会議であり、そのこと自体への歴史的評価は高いといえる。「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとら...
  • 地方官会議
    地方官会議(ちほうかんかいぎ)とは、1874年(明治7年)に設置された、明治政府が招集した府県長官の会議のことである。大阪会議で木戸孝允が構想し、開設が決定した。1875年(明治8年)以来3回、地方民情を知るために、県令および府知事を招集した。地方民会や三新法など地方自治に関係のある、地方行政を巡る諸問題を審議した。なお、元老院に対する下院のつもりであるが、実質は官選の事務官会議であった。その後、1881年(明治14年)、国会開設の勅諭によって廃止となったであろうということが定説になっているが、定かではないと思われる。 関連項目 大阪会議 元老院 大審院 立憲政体の詔書 木戸孝允 大久保利通 板垣退助   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月24日 (金) 03 49。 ...
  • パリ講和会議
    thumb|240px|right|パリ講和会議における各国首脳、写真左から[[ロイド・ジョージ(イギリス)、ジョルジュ・クレマンソー(フランス)、ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド(イタリア)、ウッドロウ・ウィルソン(アメリカ)]] パリ講和会議(パリこうわかいぎ、Paris Peace Conference)は、1919年1月18日に開会され、第一次世界大戦における連合国が同盟国の講和条件について討議した会議である。ヴェルサイユ宮殿で講和条約の調印式が行われたことから、ヴェルサイユ会議とも呼ばれているが、実際の討議のほとんどはパリのフランス外務省内で行われており、正しい呼称とは言えない(なお、調印式だけをヴェルサイユ宮殿で行った事の理由については、ヴェルサイユ条約を参照のこと)。 概要 第一次世界大戦は、1918年11月にウィルソンアメリカ合衆国大統領の14か条をドイツ...
  • 最高戦争指導会議
    最高戦争指導会議(さいこうせんそうしどうかいぎ)とは、1944年8月より小磯内閣により大本営政府連絡会議を改称して開催された会議。 構成員 首相 外務大臣 陸軍大臣 海軍大臣 参謀総長 軍令部総長 開催記録 設立までの経緯 旧憲法下においては、政府と軍部が独立して天皇に仕える形となっていた。両者を調整する期間として大本営政府連絡会議が1937年に近衛文麿によって設立されたが、統帥権の独立を主張する軍部はこの会議において政府から統帥に口出しすることを拒否してきた。 戦局が悪化する中で両者の緊密な協力が必要となり、小磯内閣は大本営連絡会議を改称する形でこの会議を設立した。 関連項目 統帥権 軍部大臣現役武官制 御前会議 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月17日 (日) 21 15 。 ...
  • 大本営政府連絡会議
    大本営政府連絡会議(だいほんえいせいふれんらくかいぎ)とは、1937年11月に設置された大本営と政府間の協議のための会議である。1940年11月に「大本営政府連絡懇談会」に改名。その後1941年の第3次近衛内閣において再度大本営政府連絡会議に改称後、小磯内閣において最高戦争指導会議に発展的解消を遂げる。 主な開催と議題 第1回 1938年1月11日  支那事変処理根本方針 第2回 1940年7月27日  世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱 関連リンク 大本営政府連絡会議・大本営政府連絡懇談会 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月18日 (月) 00 21。     
  • 山東出兵
    山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、日本(大日本帝国)が1927年(昭和2年)と1928年(昭和3年)に、3度にわたって行った中華民国山東省への派兵と、その地で起こった戦闘。 背景 日本は第一次世界大戦(1914年~1918年)でドイツ帝国の権益であった山東省と租借地の青島(膠州湾租借地)、植民地である南洋群島を攻略し、山東省については1919年(大正8年)のパリ講和会議およびヴェルサイユ条約によって、ドイツの権益を全て日本が引き継ぐこととなったが、日本はこれに先駆け、中国政府に対して1915年(大正4年)にドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した所謂「21か条の要求」を突きつけ、中国側の反感を買っていた。ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり、五・四運動となった。 状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)の日中山東条約...
  • 東方会議 (1921年)
    東方会議(とうほうかいぎ)は、1921年5月16日から26日まで東京市で開催された会議。資料によっては時局会議(じきょくかいぎ)とも呼ばれているが、外務・陸軍・海軍省における公式名称は東方会議である。 背景 1917年11月にロシア十月革命が発生すると寺内内閣は警戒感を強め、翌年1月に居留民の保護のためにウラジオストクに兵を送った(シベリア出兵)。翌年8月、アメリカ・イギリス・フランスなどと協調して本格的なシベリア派兵に踏み切って、ロシア革命への本格的な干渉に乗り出した。9月に成立した原内閣も出兵継続を決めたが、あくまでも各国との合意の範疇に留める考えであり、当時の陸軍大臣田中義一もその方針であった。 ところが、ロシア革命では革命政府(ボリシェヴィキ、後のソ連共産党)が次第と優勢となり、また朝鮮半島における三・一独立運動、中華民国における五四運動など、日本に大陸進出に対する反対運...
  • ワシントン会議 (1922年)
    ワシントン会議(ワシントンかいぎ、1921年11月12日 - 1922年2月6日)とは、第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウオレン・G・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍事会議。 概要 国際連盟の賛助を得ずに実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカ合衆国における初の国際会議であり、歴史上初の軍縮会議となった。国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議としての意義があるTemplate fact?。 このワシントン会議を中心に形成されたアジア太平洋地域の戦後秩序をワシントン体制と呼ぶ。 アメリカ ヒューズ国務長官に率いられたアメリカ代表団にとって、会議の主な目的は、西太平洋海域、特に戦略的に重要な島...
  • ロンドン海軍軍縮会議
    ロンドン海軍軍縮会議(ロンドンかいぐんぐんしゅくかいぎ)は、1930年に開催された列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的とした国際会議。イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドの提唱により、イギリスのロンドンで開かれた。開催期日は1月21日から4月22日。当初、アメリカ(以下米)・イギリス(英)・日本(日)・フランス・イタリアで会議がもたれた。 背景 1922年に締結したワシントン海軍軍縮条約(以下前条約)では、巡洋艦以下の補助艦艇は建造数に関しては無制限であった。そのため、各国とも前条約内で可能な限り高性能な艦、いわゆる「条約型巡洋艦」を建造することになる。特に日本の建造した妙高型重巡洋艦は、他国のそれを上回る性能を持ったため、これを制限するために開催された。 本会議では補助艦の制限について討議されたが、この3年前にもジュネーブ海軍軍縮会議で同じ問題についてが話し合われていた。しかし...
  • 東方会議_(1927年)
    東方会議(とうほうかいぎ)は、1927年6月27日から7月7日まで東京で開催された会議。 1927年4月に成立した田中義一内閣は強硬外交を推進し、翌5月に中国の権益強化と拡大のために山東省に兵を送った(山東出兵)。そして同年6月、田中義一首相は東京に閣僚・外務省首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などをかき集めて、対中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開いたのである。そして、会議では次のようなことが決定された。当時、中国は中国国民党と中国共産党が覇権を争って内戦状態であり、軍閥が各地に分散していた。日本政府ではこの機を見て武力による大陸進出を図るべきという意見と、あくまで現在の権益を守ることを第一とするべきという意見があった。田中義一はこれに対して、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る。そして満蒙(満州と内蒙古東部のこと)における権益は中国本土と切り離して、同...
  • 第二次ロンドン海軍軍縮会議
    第二次ロンドン海軍軍縮会議(だいにじロンドンかいぐんぐんしゅくかいぎ)は、1935年12月9日にイギリスのロンドンで開かれた国際会議。1930年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としたが、1934年に行われた予備交渉が不調に終わった為、日本は軍縮条約からの脱退を決意。1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約の条約破棄を通告(破棄通告後二年間は有効)。1936年(昭和11年)1月15日に本会議を脱退、イタリアもエチオピア侵略の為脱退し、最終的に英・米・仏の三国のみで1936年3月25日に第二次ロンドン海軍軍縮条約が締結された。 予備交渉における日・米・英の主要主張 艦種日本アメリカイギリス 戦艦主砲14インチ、0~6隻 ※各国共通(戦艦の全廃も視野に)主砲14インチ、12隻、合計排水量32万トン。英国と均等なるを要す主砲12インチ、15隻、合計排水量25万トン。艦型...
  • 華北分離工作
    華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が...
  • 支那駐屯軍
    Template 軍隊資料? 支那駐屯軍(しなちゅうとんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つであり、中華民国成立以前は清国駐屯軍(しんこくちゅうとんぐん)であった。天津にあったことから天津軍とも通称される。 沿革 Template 日本陸軍? 明治33年(1900年)5月、北清事変が勃発し、日本政府は清国臨時派遣隊を天津に送った。その後の事態の悪化により、6月に第5師団を中心とした部隊を増派し、欧米諸国との連合軍を構成し、8月に事変は沈静化した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成一個旅団により清国駐屯隊を編成し、他の部隊は順次復員した。明治34年(1901年)5月から清国駐屯隊も順次復員した。 そして、同年5月31日には北京議定書に基づき新たに清国駐屯軍が編成され、日本の公使館、領事館、在留邦人の保護を担うこととなった。その後、清国の滅亡に伴い明治45年(1912年)4月...
  • 日中戦争
    日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である1931年(昭和6年)の満洲事変を起点として「日中十五年戦争」ととらえる見方もある。。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)。また英語では、Second Sino-Japanese Warと表記するFirst Sino-Japanese Warは日清戦争。。 Template Main2? 「戦争」か「事変」か 日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が...
  • 愛新覚羅溥儀
    愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、満洲語名:アイシンギョロ - 満洲語の本名を名付けていない、簡体字:Template lang?、漢語拼音:Àixīnjuéluó Pǔyí=アイシンジュエルオ・プーイー、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清朝の第12代皇帝宣統帝(せんとうてい、1908年 - 1912年)。「最後の皇帝」として広く知られる。清朝崩壊後に日本政府および軍の支援を受け、満洲国の執政、満洲国が帝政に移行すると皇帝として即位、康徳帝(1934年 - 1945年)を名乗る。字(あざな)を「浩然」あるいは「耀之」という。 廟号は恭宗(2004年に与えられたが、公式ではない)。また、辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。...
  • 義和団の乱
    Template Battlebox? 義和団の乱(ぎわだんのらん)は、中国清朝末期の動乱である。当初は義和団を称する秘密結社による排外運動であったが、1900年に西太后がこの反乱を支持して欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2ヶ月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した。 なお、本稿では「義和団の乱」で統一するが、義和団事件・義和団事変・北清事変(ほくしんじへん)との呼び方もある。また中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)ともいう。 義和団の乱の背景 清末におけるキリスト教の布教活動 中国にキリスト教が伝来したのはかな...
  • 吉田茂-2
    前半は、吉田茂参照 年譜 明治11年(1878年)9月22日 東京神田駿河台に生まれる 明治14年(1881年)8月 吉田家と養子縁組 戸太町立太田学校(現・横浜市立太田小学校)卒業 明治22年(1889年)2月 寄宿制私立中学耕余義塾入学 明治27年(1894年) 4月 耕余義塾卒業 9月 日本中学校(現・日本学園 )入学 明治28年(1895年) 9月 高等商業学校(現・一橋大学)入学 11月 高等商業学校退校 明治29年(1896年) 3月 正則尋常中学校(現・正則高等学校)卒業 9月 東京物理学校(現・東京理科大学)入学 明治30年(1897年)10月 学習院高等学科入学 明治34年(1901年) 8月 学習院高等学科卒業 9月 学習院大学科入学 明治37年(1904年) 7月 学習...
  • 梁鴻志
    梁 鴻志(りょう こうし、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1882年 - 1946年11月9日)は、中国の中華民国時代の政治家。字は衆異。福建省長楽県(現在の福州市長楽市)の人。北京政府安徽派の有力政治家で、後に中華民国維新政府の首脳を務めたことで知られる。 事跡 安徽派時代 6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後の光緒29年(1903年)に挙人となる。光緒31年(1905年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。光緒34年(1908年)の卒業後、山東省の登莱高胶道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。 民国5年(1916年)6月の袁世凱死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段...

  • Template 基礎情報 過去の国? Template 中国の歴史? 清(しん)は、清朝(しんちょう)ともいい、1636年に満州において建国され、1644年から1912年まで中国を支配した最後の統一王朝。首都は盛京(瀋陽)、後に北京。 満洲族の愛新覚羅氏(アイシン・ギョロ氏)が立てた王朝で、満洲語でダイチン・グルン(Daicing gurun, 大清国)といい、中国語では大清(ダーチン、ピン音 Dàqīng)と号した。 国号について 諸説ある。 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「氵」と、『周礼』で東(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進...
  • 上海天長節爆弾事件
    上海天長節爆弾事件とは、上海事変の末期の1932年(昭和7年)4月29日に発生した爆弾テロ事件である。また事件があった場所をとって虹口公園爆弾事件とも呼称される。 事件の背景 1932年、日本と中華民国の両軍が上海国際共同租界周辺において軍事衝突する上海事変が発生していた。この事変は日本の関東軍が引き起こした満州事変とその後樹立された満州国に対する欧米列強の関心をそらすかのように発生したものであった。しかしその事が中国国内の反日感情を激化させることになり、著しく状況を悪化させていた。 欧米4ヶ国による停戦交渉中であった4月29日は天長節(昭和天皇誕生日)であり、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民は上海の虹口公園(現在の魯迅公園)において大観兵式と天長節祝賀会を執り行うことになった。この行事は日本軍の上海における軍事行動の勝利を祝賀するものでもあった。しかしながら、日本...
  • 甲申政変
    Template 朝鮮の事物? 甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月に朝鮮で起こったクーデター。甲申事変とも呼ばれる。 事件の概要 当時の李氏朝鮮は、壬午軍乱(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。 このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、福澤諭吉や大隈重信をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。 開化派の狙いは、日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗...
  • 立憲政体の詔書
    立憲政体の詔書(りっけんせいたいのしょうしょ)は、1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した詔書。五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した。元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅、漸次立憲政体樹立の詔勅、元老大審二院を置くの詔などとも呼ばれる。 沿革 1875年(明治8年)1月から2月にかけての大阪会議において、明治政府の大久保利通・伊藤博文と、在野の木戸孝允・板垣退助・井上馨らとの間で合意が成立し、木戸・板垣の政府復帰と政治体制の改革が約束された。 同年3月、木戸・板垣は参議に復帰すると、大久保・伊藤とともに大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案を作成し、太政大臣三条実美に提出した。そして、4月14日、この政体改革案を元にした文書が、明治天皇の詔書の形で発表された。この詔書が、立憲政体の詔書...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • 満州事変
    Template Battlebox? 満州事変(満洲事変、まんしゅうじへん、Manchurian Incident)は、1931年(昭和6年)9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(大日本帝国陸軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)。関東軍はわずか5ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。。 この軍事衝突を境に、中華民国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。日本では軍部が発言力を強めて日中戦争(1937...
  • 顧維鈞
    Template 中華圏の人物? 顧維鈞(こいきん 光緒14年(1888年)1月29日-1985年11月14日)は、中華民国の国民党政府の外交官出身の政治家。字は少川(しょうせん シャウツァン Shǎochuān)、欧名はヴィ=キュイン・ウェリントン・クウ(Vi-Kyuin Wellington Koo)。外交総長、国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議、関税会議の各中国全権代表などの要職を歴任した。 祖父は郷紳の出身で、江蘇省嘉定県(現 上海市嘉定区)の官職にあったが、太平天国の時期に暴徒によって拷問の上、殺害され、財産を奪われた。顧の誕生後、父・顧溶は官営の招商局所属の汽船の会計係となり、生活は安定した。 1899年キリスト教衛理公会経営の上海英華学院に入学、初めて英語を学習した。1900年には病気のため、実家の近くにある育才学校に転校。 1901年キリスト教聖...
  • ポーツマス条約
    ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく)は、日露戦争の講和条約。日露講和条約とも。1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。 交渉の経緯 thumb|270px|ポーツマス会議。写真中の会議で使われたテーブルは[[博物館明治村にて展示されている]] 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていた米国に仲介を依頼し交渉を行った。 当初ロ...
  • ハーグ密使事件
    ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん)は、1907年(明治40年)に大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権保護を訴えるも国際社会から完全に拒絶された事件。 経緯 日本は、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収した。皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。李容泰、沈相薫、金嘉鎮ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均、李範晋らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李相卨(元議政府参賛)、李儁(前平理院検事)と李瑋鍾(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次...
  • 五代友厚
    五代 友厚(ごだい ともあつ、天保6年12月26日(1836年2月12日) - 明治18年(1885年)9月25日)は、江戸末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島城下、現鹿児島市長田町)生まれ。幼名は徳助。通称才助。関西経済界の重鎮。「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。東の渋沢栄一、西の五代友厚とも称される。 経歴・人物 『三国名勝図会』の執筆責任者で記録奉行の五代直左衛門秀尭の子として生まれ、後に分家する。薩摩藩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。海外視察のため上海に密航もした。このために、藩からは脱藩の罪に問われるが、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって罪を許された。欧州視察後、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府...
  • トラウトマン工作
    トラウトマン工作とは、昭和12年(1937年)11月初から昭和13年(1938年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン (Oscar P. Trautmann 1877年5月 - 1950年12月10日) 駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼ばれる。工作という言葉の負のイメージを嫌ってトラウトマン和平工作とも呼ばれる事もある。 和平交渉の期間は、日中戦争(支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1箇月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。 概要 当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた。ただし、中国侵出の意欲は低く、また日本の目が中国に向かって北方のソ連から逸れるのは望まざるところであったので、...
  • 下関条約
    下関条約(しものせき じょうやく)とは、1895年4月17日に日清戦争後の講和会議で調印された講和条約の通称。日清講和条約(正字体:日清媾和條約 Template DEFAULTSORT ?にっしんこうわじょうやく)ともいう。会議が開かれた山口県の赤間関市(あかまがせき-し、現在の下関市)の別称である「馬関」「赤間関」は本来は「赤馬関」で、江戸時代の漢学者がこれを漢文風に縮めて「馬関」としたもの。をとって、馬関条約(ばかん じょうやく)と呼ばれた条約調印後に「馬関」が「下関」になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは戦後になってからである。。「下関条約」はこの「馬関条約」の言い換えである。なお中国語では現在でも「馬關條約」という。 == 概説 == 主な内容 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立...
  • 九カ国条約
    九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9カ国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。 四カ国条約が、列強による日本牽制の意味が強いことに対し、こちらはアメリカの権威拡大を象徴し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。 これ以後、国際社会は、ワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。 日本とワシントン体制 ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条...
  • 川島芳子
    川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日)は清朝粛親王の王女。生名は愛新覚羅 顕シ(あいしんかくら けんし)(シは王ヘンに子)、字は東珍、中国語名は金璧輝。 日本人の養女となり日本で教育を受ける。清朝復辟のために日本軍に協力し、戦後中華民国政府によって「漢奸」として訴追され刑死。 経歴 粛親王善耆第十四王女 粛親王善耆の第十四王女として光緒33年旧暦4月12日(西暦1907年5月24日)北京に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は清朝太宗ホンタイジの第一子武粛親王豪格を祖とし、親王位の世襲を認められた名門であった。(通常は皇族の爵位は一代ごとに降格する) 本名愛新覚羅顕シ(シは王ヘンに子)、字東珍、別名金璧輝。字の由来は日本へ養女にいく際に東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いがこめられてつけられた。別名の金璧輝は兄金壁東からと...
  • 関税自主権
    関税自主権(かんぜいじしゅけん)とは、関税を自由に決められる権利。 関税(関税自主権)が無いと、外国から安い物品が無制限に入ってきてしまう。一見良いことのように思えるが、そうすると安い外国製品に押されて自国の産業の空洞化を招いてしまう。 同じ製品であれば、消費者は普通安価なほうを購入する。すると、自国の(外国製よりは割高な)製品を売って生活をしている人が儲からない。儲からないから生産者が生産を止めてしまい自国でその製品を作れなくなる。製品でもそうなのに、食料までそうなっては、輸入を止められた場合に自国で作物を作れないので食べるものが無くなってしまう。 このような状態にならないように、自国産と輸入品との価格差を調整して、自国の産業を守るため、関税というものが存在している。例えば、輸入品の方が自国製品より10%安かったら、その値段分関税をかけて同じ値段にしてしまう。この関税を自国で自由に...
  • 興宣大院君
    Template 韓国の人物? 興宣大院君(大院王)(こうせんたいいんくん(たいいんおう)、1820年 - 1898年)は、李氏朝鮮の王族で、高宗の実父。本名は李昰応(昰は、日の下に正)。元来「大院君」とは直系でない国王の実父に与えられる称号であるが、後述のように朝鮮王朝末期において多大な影響をもたらしたため、単に「大院君」と言えば、通常は興宣大院君を指す。 略伝 勢道政治での冷遇 朝鮮王朝の王族の一人 ref name= 出目 英祖の曾孫。第21代国王・英祖の子の荘献世子の三男の恩信君の養子の南延君(生父は仁祖の息子である麟坪大君の6世孫)の四男として生まれたが、安東金氏などの外戚が政治を取り仕切る「勢道政治」のさなかにあって、彼は王族内であまり重用されず、厨院、典医監、司圃署、典設司、造紙署などさほど重要でもない部署の提調を務めるなど不遇な生活を送った。一方では進んで有...
  • 中原大戦
    中原大戦(ちゅうげんたいせん)とは、中国の中原において、1930年に、軍閥が蒋介石に対して起こした戦争のこと。中原会戦(ちゅうげんかいせん)、または、中原戦争(ちゅうげんせんそう)と呼ぶこともある。 1928年に完了した北伐は、中国国民党によりというよりは、各地の軍閥を抱き込むことにより成し遂げられたという面が強かった。その結果、北伐後の国民政府は、軍閥混合的な色彩の政府(政府の軍は、軍閥の寄せ集めであった)であり、中国国民党の立場は弱いものであった。 これに対して、蒋介石は、中国国民党および自己の権力を強大化させるため、1929年1月に国軍の整理を開始した。これは、旧軍閥の兵士を削減することにより、軍閥の影響力を失わせ、蒋介石側の勢力の巻き返しを図ろうとするものであった。 ここに及んで、北伐に協力した軍閥は危機感を覚え、蒋介石に対して、次々と兵を起こし、戦乱が繰り返された。そのよう...
  • 大東亜共同宣言
    大東亜共同宣言(だいとうあきょうどうせんげん、大東亜宣言とも。本来の表記は大東亞共同宣言)は1943年(昭和18年)11月6日の大東亜会議にて採択された共同宣言。 宣言全文 大東亞共同宣言 抑〻世界各國ガ各〻其ノ所ヲ得、相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ。然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家、他民族ヲ抑壓シ、特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ、大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞シウシ、遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ。大東亞戰爭ノ原因ココニ存ス。大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ、大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ、其ノ自存自衞ヲ全ウシ、左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ、以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス 一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ、道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス 一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ...
  • 帝国国策遂行要領
    帝国国策遂行要領(ていこくこくさくすいこうようりょう) は、昭和16年(1941年)9月6日第3次近衛内閣時に御前会議において決定された国策。また、同11月5日東條英機内閣時に御前会議において再決定された国策(甲案乙案含む)もいう。 経緯 昭和16年(1941年)8月のアメリカ対日石油輸出全面禁止を受け、アメリカ・イギリスに対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アメリカ・オランダ・イギリスに対する開戦方針が定められた。 しかし、9月6日の御前会議において、昭和天皇は開戦に反対しこの決定を拒否、あくまで外交により解決を図るよう命じた。その際、以下の明治天皇の御歌が引用されている。 Template cquote? 一般的にこの歌は軍部も政府に協力して外交に努力せよという意味だと解されているTemplate 要出典?。 ...
  • 進歩党 (日本)
    進歩党(しんぽとう)は、かつて存在した日本の政党。 進歩党 (日本 1896-1898) 進歩党(しんぽとう)は、明治時代中期に結成された政党(1896年3月1日 ‐ 1898年6月20日)。 明治29年(1896年)、立憲改進党・立憲革新党・大手倶楽部・帝国財政革新会・中国進歩党などが合同して代議士99名で結成。大隈重信が事実上の党首であったが正式な役職には就かず、形式的には犬養毅・尾崎行雄・大東義徹・柴四朗(東海散士)・長谷場純孝の5名の総務委員が代表者となっていた。「国権拡張」「責任内閣」「財政整理」などを掲げた。大隈の人気と同党が掲げた対外硬路線に対する支持から結成直後に党員5万人を数え、更に同年成立した第2次松方内閣に大隈が外務大臣として入閣し、高橋健三が内閣書記官長、神鞭知常が法制局長官に任命されたことなど党幹部の政府入りが実現したことで、更に期待が高まって同年中に1...
  • スバス・チャンドラ・ボース
    スバス・チャンドラ・ボース (Subhas Chandra Bose, デーヴァナーガリー文字:सुभाष चन्द्र बोस, ベンガル文字:সুভাষ চন্দ্র বসু, 1897年1月23日 - 1945年8月18日)はインドの急進的独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ベンガル人。ネタージ(指導者:नेताजी, Netaji)の敬称で呼ばれる。 プロフィール 独立運動家 1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のオリッサ州に生まれ、カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業、両親の希望でケンブリッジ大学に留学したが、1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。 1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出...
  • 無鄰菴
    無鄰菴(むりんあん)は山縣有朋の別邸。 「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がない事による。 第二の無鄰庵は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。 第二無鄰菴 第二の無鄰菴は、京都市木屋町二条、鴨川近くにあった。明治24年。 第三無鄰菴 山縣有朋の別邸、第三の無鄰菴は京都府京都市左京区、南禅寺のすぐ西側、琵琶湖疏水のほとりにある。その庭園で名高く、国の名勝に指定されている。現在は遺族から寄贈されて京都市が管理している。 数寄屋造りの母屋、藪内流燕庵写しの茶室、煉瓦造り二階建て洋館、および広い日本庭園からなる。山縣は1894年(明治27年)に造営に着手、明治29年完成http //www.city.k...
  • 宮城事件
    宮城事件(きゅうじょうじけん)とは、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。 日本の降伏時期を遷延しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城を「占拠」した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自決し、日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。 背景 ポツダム宣言の受諾決定 太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて日本の敗戦が既に決定的となっていた1945年8月上旬、6日の広島への原爆投下、9日未明のソ連対日参戦、同日の長崎への原爆投下を受けて、政府内部ではポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。 9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議において、鈴木貫太郎首相はじめ米内光政海軍大臣及び東郷茂...
  • 五箇条の御誓文
    五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)とは、明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇(当時15歳)が公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。正式名称は御誓文であり、以下では御誓文と表記する。 歴史 起草の過程 明治新政府は発足当初から公議を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。明治元年正月、福井藩出身の参与由利公正が、坂本龍馬の船中八策と似ている部分が多い議事之体大意五箇条を起案し、参与東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。 制度取調参与の福岡孝弟は、この由利五箇条に対して第一条冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も会盟に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり王...
  • 甘粕事件
    甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災の直後の1923年9月16日、アナキストの大杉栄・伊藤野枝とその甥の計3名が憲兵隊に強制連行・殺害された事件。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされる。大杉事件ともいう。 事件発生 関東大震災後、東京や神奈川が混乱に陥り戒厳令が発せられていたさなか、大杉栄は内縁の妻伊藤野枝と、神奈川県橘樹郡鶴見町(現在の横浜市鶴見区)に住む大杉の妹あやめを見舞い、その息子の橘宗一(6歳)をつれて東京に戻る途中、行方不明になった。 彼らが憲兵隊に連れ去られたといううわさが広まり、9月20日、時事新報や読売新聞などにより大杉ら3人の殺害が報じられた。日本を騒がせるアナキストであり恋愛スキャンダル(日蔭茶屋事件)でも世間に有名になった大杉・伊藤の二人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった。 軍と対立する警視庁は捜査を要求。また、殺された大杉の甥・橘宗...
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