chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「太政大臣」で検索した結果

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  • 内大臣府
    ...太政官制廃止直後の前太政大臣三条実美の処遇のための役職の意味合いもあった。 内大臣が欠けた緊急の場合、枢密院議長が臨時に内大臣に就任し天皇に侍立する。これは、二・二六事件の直後の、枢密院議長一木喜徳郎が内大臣に就任し即日辞職した例がある。また、特殊な事例として皇族の貞愛親王が内大臣を務めた例(1912年 - 1915年)がある。 当初は事務方であった内大臣も、昭和以降に入ると、元老に代わって、後継総理の奏薦などで次第に強い発言力を持つようになっていき、宮中だけでなく府中(政府内)にも力を持った。太平洋戦争終戦を契機として1945年11月24日、連合国最高司令官(SCAP)指令により廃止された。 組織構成 1907年以降の内大臣府は計11人という少数の職員によって構成されていた。廃止されるまで、以下のような人員構成で職務を行っていた。 内大臣 内大臣府を統轄し、天皇に従い...
  • 太政官
    ...家機関を指す。長官は太政大臣(だいじょうだいじん)。通常はこれに次ぐ左大臣と右大臣が長官としての役割を担った。事務局として少納言局と左右弁官局が付属する。唐名から尚書省(しょうしょしょう)、都省(としょう)とも呼ばれた。 太政官(だじょうかん)とは、日本の明治維新政府に設けられた官庁名。1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。太政官とは、議政官以下7官の総称。翌1869年(明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄することとなった。後に、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。1885年(明治18年)、内閣制度が発足したことに伴い廃止された。 律令制の太政官 概説 古代日本において中国から律令制を導入する際、祭祀を行う神祇官と政治を司る太政官を明確に分けた。太政官は中務省、...
  • 内閣総理大臣
    ...、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がない、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。 1880年 (明治13年) ごろから参議伊藤博文はこの太政官制の改革を試みはじめたが、これに対して保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤には岩倉に対抗するだけの政治力が無かった(明治14年の政変による大隈重信追放が岩倉が宮中を動かして進められたために、伊藤も岩倉との衝突によって「第二の大隈」になる可能性があった)。そのため、伊藤は一旦この提案を引き下げて1882年 (明治15年) 3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査に当たったが、この時から「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして...
  • 三条実美
    ...の太政官では最高官の太政大臣を務めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。 藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。父は贈右大臣実万、母は土佐藩主山内豊策の女紀子。妻は関白鷹司輔煕の九女治子(1848-1924)。「梨堂」と号す。華族制度の発足後は本人の功が考慮され公爵となった。 来歴 三條實美は安政元年(1854年)、兄の三条公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として、文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年国事御用掛となった。長州と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊皇攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。 文久3年(1863年)には、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動し...
  • 輔弼
    ...は、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできないとされ、天皇との距離が明確に区別されていた。 正院制度にはさまざまな矛盾点が存在したため、1873年には再び改革がなされたものの(このときに「内閣」という用語が登場)、太政大臣と左右大臣のみが天皇の「輔弼」を担う、という枠組みに変更はなかった。征韓論の問題において、正院の決定が明治天皇の聖断により覆されたのも、右大臣(太政大臣代理)岩倉具視が西郷隆盛ら参議達にはない天皇の「輔弼」権限を保有していたからである。岩倉は自身が持つ「輔弼」権限を利用し、その政治的影響力を長く行使し続けた。また、元田永孚や佐々木高行ら宮中グループの台頭も大臣の「輔弼」権限を背景にしたものであった。 一方、伊藤博文は岩倉達に...
  • 国会開設の詔
    ...僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔。 当時、開拓使官有物払下げ事件が明るみに出たことにより、自由民権運動が盛んになったため、近い将来の議会制度確立を約束して、運動の尖鋭化を抑えようとした。 本文 原文(適宜、句読点を挿入している。) 朕祖宗二千五百有餘年ノ鴻緒ヲ嗣キ、中古紐ヲ解クノ乾綱ヲ振張シ、大政ノ統一ヲ總覽シ、又夙ニ立憲ノ政體ヲ建テ、後世子孫繼クヘキノ業ヲ爲サンコトヲ期ス。嚮ニ明治八年ニ、元老院ヲ設ケ、十一年ニ、府縣會ヲ開カシム。此レ皆漸次基ヲ創メ、序ニ循テ歩ヲ進ムルノ道ニ由ルニ非サルハ莫シ。爾有衆、亦朕カ心ヲ諒トセン。 顧ミルニ、立國ノ體國各宜キヲ殊ニス。非常ノ事業實ニ輕擧ニ便ナラス。我祖我宗、照臨シテ上ニ在リ、遺烈ヲ揚ケ、洪模ヲ弘メ、古今ヲ變通シ、斷シテ之ヲ行フ、責朕カ躬ニ在リ。將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス。今...
  • 立憲政体の詔書
    ...政体改革案を作成し、太政大臣三条実美に提出した。そして、4月14日、この政体改革案を元にした文書が、明治天皇の詔書の形で発表された。この詔書が、立憲政体の詔書である。 なお、この詔書に表題はないが、法令全書の目次では「立憲政体の詔書」と名付けられている。 内容 以下、詔書の内容を引用する(原典は法令全書。旧字体・カタカナで句読点・濁点なし)。 Template quotation? 現代語訳: Template quotation? 関連項目 民撰議院設立建白書 大日本帝国憲法 立憲主義 外部リンク 公文附属の図・勅語類・(一)元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅 - 国立公文書館 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月22日 (水) 06 25。 ...
  • 岩倉具視-2
    ... 10月20日、太政大臣代理兼任。但し、同日のみ。 明治9年(1876年) 4月19日、華族会館長兼帯。 5月18日、従一位昇叙。 5月26日、華族督部長兼務。 12月29日、勲一等旭日大綬章受章。 明治15年(1882年) 11月1日、大勲位菊花大綬章受章。 11月15日、華族督部長職廃止に伴い止む。 12月4日、華族会館長辞職。 明治16年(1883年) 4月7日、宮内省編纂局総裁心得兼務。 7月20日、死去。 7月23日、贈太政大臣。 7月25日、国葬。 明治18年(1885年)7月20日、贈正一位。 岩倉具視幽棲旧居 京都・洛北の実相院近く(現・京都市左京区岩倉上蔵町)にあり、今は住宅や病院に囲まれている。数えの38歳で辞官・落飾した岩倉具視は地元の大工から古家を譲り受け、文久2年(18...
  • 明治六年政変
    ...言えば反対派であった太政大臣の三条実美が10月17日に倒れ、人事不省に陥る。 太政官職制に基づき岩倉が太政大臣代理に就任すると、大久保、大隈、伊藤、黒田らは宮中工作を開始、宮内卿徳大寺実則の助力を得て事前に明治天皇に延期論を上奏、これは明治天皇の意思を拘束するためであった。そして10月23日、岩倉は閣議決定の意見書とは別に「私的意見」として西郷派遣延期の意見書を提出。結局この意見書が通り、西郷派遣は無期延期の幻となった。閣議決定が工作により覆されたのである。 そして西郷は当日、板垣、後藤、江藤、副島は翌10月24日に辞表を提出。10月25日に受理され、賛成派の参議5人は下野した。また征韓論に賛成する軍人、下野した参議と懇意であった官僚も大量に辞職。ちなみに反対派参議の辞表は当然不受理となった。更に翌年1月にも板垣・後藤に近い官僚・軍人が西郷の近衛都督の後任引継が行われないままに帰...
  • 日本史の出来事一覧
    ...平神護元年) 道鏡、太政大臣禅師となる。 769年(神護景雲3年) 宇佐八幡宮神託事件 782年(延暦元年) 氷上川継の乱 784年(延暦3年) 長岡京に遷都する。 平安時代 794年(延暦13年) 平安京に遷都する。 801年(延暦20年) 坂上田村麻呂、蝦夷を平定する。 810年(弘仁元年) 蔵人所を置く。 810年(弘仁元年) 薬子の変 816年(弘仁7年) このころ検非違使を置く。 833年(天長10年) 令義解の撰上。 842年(承和9年) 承和の変 858年(天安2年) 藤原良房、摂政の職務を行う。 866年(貞観8年) 応天門の変 878年(元慶2年) 元慶の乱 887年(仁和3年) 藤原基経、関白となる(関白の初め)。 摂関政治 888年(仁和4年) 阿衡事件 893年?(寛平5年) 初めて滝口武者(滝口の武士)を置く。 武士の...
  • 征韓論
    ...された。収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れた。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または明治六年政変)し、1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となった。 脚注 関連項目 留守政府 外部リンク [小説・木戸孝允]明治六年秋(七) 征韓論 (その1) [小説・木戸孝允]明治六年秋(七) 征韓論 (その2) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年12月12日 (金) 10 32。      
  • 仮20
    ...平神護元年) 道鏡、太政大臣禅師となる。 769年(神護景雲3年) 宇佐八幡宮神託事件 782年(延暦元年) 氷上川継の乱 784年(延暦3年) 長岡京に遷都する。 平安時代 794年(延暦13年) 平安京に遷都する。 801年(延暦20年) 坂上田村麻呂、蝦夷を平定する。 810年(弘仁元年) 蔵人所を置く。 810年(弘仁元年) 薬子の変 816年(弘仁7年) このころ検非違使を置く。 833年(天長10年) 令義解の撰上。 842年(承和9年) 承和の変 858年(天安2年) 藤原良房、摂政の職務を行う。 866年(貞観8年) 応天門の変 878年(元慶2年) 元慶の乱 887年(仁和3年) 藤原基経、関白となる(関白の初め)。 摂関政治 888年(仁和4年) 阿衡事件 893年?(寛平5年) 初めて滝口武者(滝口の武士)を置く。 武士の...
  • 明治十四年の政変
    ...た(6月30日)上で太政大臣三条実美に辞意を伝えた。岩倉は伊藤に辞意の翻意を求め、井上毅も国家基盤を安定させてからイギリス流の議院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を求めたが、伊藤はイギリス式かプロシア式かは今決める事ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的であった。この間にも井上毅が伊藤の盟友・井上馨(当初は将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入れ、伊藤が薩摩閥と結んでまず憲法制定・議会開催時期の決定することを求めた。 明治十四年の政変 一方、自由民権運動は3月に起きたロシアのアレクサンドル2世暗殺事件の影響で過激な論調が現れるようになっていた。そんな折の7月末に「東京横浜毎日新聞」及び「郵便報知新聞」のスクープにより、開拓使長官の黒田清隆が同郷の政商五代友厚に格安の金額で官有物払下げを行うことが明るみに出ると(開拓使官有物払下げ事件)、政...
  • 秩禄処分
    ...施した。続いて大隈は太政大臣三条実美を説得して秩禄処分推進の合意を得て、木戸の反対を押し切る形で1876年8月5日の太政官布告108号において、禄制の全面的廃止と金禄公債切り替えのための金禄公債証書発行条例を公布した。これに基づいて秩禄を受けていた者の禄高は1875年の府県ごとの貢納石代相場に応じて換算金額(金禄元高)が定められてそれに応じた金禄公債の金額が定められて翌年から強制的に行われるようになったなお、これに合わせて国立銀行条例が改訂され、金禄公債を国立銀行の資本金とする特例が定められた。。 士族反乱と士族授産 地租改正による農民一揆と並び、神風連の乱や西南戦争(1877年)など明治初期の士族反乱は、秩禄処分により収入が激減した士族階級の不平が原因であった考えられているが、一方で士族反乱に参加した士族の大半は金禄公債証書発行以前から政府を批判しており、また決起の趣旨に秩...
  • 江華島事件
    ...外務大輔の寺島宗則は太政大臣三条実美や右大臣岩倉具視の了承を得てこれを承認、海軍大輔川村純義に『雲揚』『第二丁卯』の2隻の軍艦を派遣させる。 日本の軍艦は5月25日に無許可で釜山へ入港し、射撃演習などの威嚇行為を行った。これに朝鮮側は抗議を行った。 これについて、従来の学説では1875年9月20日、日本の海軍少佐井上良馨が雲揚で航海中、飲料水の欠乏により淡水補給のため、自らボートに乗りこみ水を求めに陸に向かっている途中、日本国旗を掲げながら江華島の草芝鎮沖にさしかかった際に、島に設置された第3砲台から砲撃を受けたので、急ぎ雲楊へ帰艦し江華島砲台を破壊、永宗城島の要塞を占領した、とされてきた。 しかし近年新資料が発見され、この説は訂正を余儀なくされた。もともと従来の説の根拠とされた雲揚の公式報告書(10月)は、日朝間の交戦期間をたった1日の間に起きたことのように記し(実際には3日...
  • 詔勅
    ...)布告布達式により、太政大臣が「奉勅旨布告」すなわち天皇の意思を承って布告することが定められた。ただし翌1882年の軍人勅諭が陸軍卿(明治18年12月22日に内閣制度となり、それ以前は太政官制度で各省の長官(かみ)は「卿」と言われていた。日本の官制)から布達された(明治15年陸軍省達乙第2号)ように例外も多かった。 文書による詔勅 1885年公文式(明治18年勅令第1号)により法律や勅令などの形式を定め、天皇親署と大臣副署の制度を整えた。この頃以降、詔勅は天皇が直接に外部に表示する形式に限られるようになった。1889年(明治22年)大日本帝国憲法により国務ニ関ル詔勅は国務大臣の副署を要することになった(後述)。1907年、公式令(明治40年勅令第6号)および軍令ニ関スル件(軍令第1号)により、文書による詔勅について形式を網羅して定めた。 文書による詔勅には共通して 天皇によ...
  • 大阪会議
    ...体改革案は、ただちに太政大臣三条実美に提出され、3月に木戸・板垣は参議へ復帰することとなった。合意に基づき、さっそく4月14日には明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられ、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることが宣言された。いっぽう板垣は参議就任により、愛国社創立運動の失敗を招いたため、自由民権派から背信行為を厳しく糾弾され、釈明に追われることとなった。 大阪会議体制の崩壊 難産の末に確立された新体制であったが、ほどなく地方官会議の権限をめぐって木戸と板垣が対立するようになり、さらに参議と各省の卿の分離問題で、両者は決定的な対立を迎える。折から発生した江華島事件の処理をめぐる意見対立も重なり、板垣はついに参議を辞任。大阪会議体制はわずか半年にして崩壊する。板垣とセットで入閣した木戸の発言力も必然的に下がり、さらにこの頃より持病の悪化から表立った政...
  • 太政官布告・太政官達
    太政官布告(だじょうかんふこく)・太政官達(だじょうかんたっし)とは、ともに太政官によって公布された明治時代初期の法令の形式である。 概要 太政官布告、太政官達は、いずれも、明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式である。 布告と達の区別については、当初から厳密な区別はなかったが、1873年(明治6年)には、各官庁及び官員に対する訓令としての意味を持つものを「太政官達」、全国一般へ布告すべきものを「太政官布告」として区別することを定めた(明治6年太政官布告第254号)。しかし、実際の取扱いとしては、その後もそのような区別が厳密にされていたとは言い難く、一般国民を拘束する内容を持つものであっても太政官達の形式により定めたものもあったただし、1869年の版籍奉還以前に藩に対して出された指示は全て「太政官達」である。これは、幕藩体制においては、藩(藩主)...
  • 西郷隆盛-2
    ...だ)。 太政大臣(三条実美) 右大臣兼外務卿(岩倉具視) 参議(西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助、大隈重信) 大蔵卿(大久保利通) 文部卿(大木喬任) 兵部大輔(山縣有朋) 大蔵大輔(井上馨) 文部大輔(江藤新平) 工部大輔(後藤象二郎) 司法大輔(佐々木高行) 宮内大輔(万里小路博房) 外務大輔(寺島宗則) この経緯については、各藩主に御親兵として兵力を供出させ、手足をもいだ状態で、廃藩置県をいきなり断行するなど言わば騙し討ちに近い形であった。 留守政府 明治4年(1871年)11月12日、三条・西郷らに留守内閣(留守政府)をまかせ、特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは明治4年(187...
  • 華族
    ...勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。同時に伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、爵位を受けている。叙爵は7月中に三度行われ、509人の有爵者が生まれた。 公爵 公家からは五摂家、武家からは徳川家宗家が公爵相当とされた。 また「国家に偉功ある者」として公家からは三条家(三条実美の功)、岩倉家(岩倉具視の功)、武家からは島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功)、玉里島津家(島津久光の功)が公爵に叙せられた。 侯爵 公家からは清華家、武家からは徳川御三家と現米大名家の表向きの石高である「草高」ではなく、実収を基準に決められた石高を現米とする。15万石以上の大名家が侯爵相当とされた。 琉球国王であった尚氏も侯爵とされている。 また「国家に勲功...
  • 日朝修好条規
    ...変更されることなく、太政大臣三条実美を通じて訓示に付属する内諭として使節に伝えられた。さらに朝鮮に対する基本姿勢として、三条はこの江華島事件に対して「相応なる賠償を求む」べきとしながら、使節団の目的を「我主意の注ぐ所は、交を続くに在るを以て、・・・和約を結ぶことを主とし、彼能我が和交を修め、貿易を広むるの求に従ひときは、即此を以て雲揚艦の賠償と看做し、承諾すること」だと述べていた(強調、加筆者)。これは欧米列強の干渉を招かないよう配慮すべし、という森有礼の言が容れられたものである。 さらにボアソナードのいう軍事行動も含む強硬な外交姿勢も、日本は忠実に実行に移している。使節団一行には軍艦や兵士の護衛がつき、威圧効果を朝鮮側に与えようとした。また交渉が決裂した場合に備え、山県有朋が山口県下関に入り、広島・熊本両鎮台の兵力をいつでも投入できるよう準備していたのである。さらにいえば、日本の...
  • 西郷隆盛-3
    ...、作成者: 太政官、太政大臣三條實美、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C04017622000、国立公文書館) 福沢諭吉『丁丑公論』、1877年 (復刻版、『福澤諭吉著作集』第9 巻、慶應義塾大学出版会、2002年、ISBN 4-7664-0885-3;『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』講談社学術文庫、1985年、ISBN 4-06-158675-0) 勝海舟『氷川清話』(復刻版、江藤淳・松浦玲編、講談社学術文庫、2000年、ISBN 4-06-159463-X) 三矢藤太郎編『南洲翁遺訓』、鶴岡町 (山形県)、1890年(復刻版、『西郷南洲遺訓』、山田済斎編、岩波文庫、1939年、ISBN 4-00-331011-X) 日本黒龍会編『西南記伝』、日本黒龍会、1911年 加治木常樹『薩南血涙史』、1912年(復刻版、青潮社、1988年) 日本史籍協会...
  • 朝鮮貴族
    朝鮮貴族(ちょうせんきぞく)とは、貴族制度の一種で、李王の血族で王公族とならなかった者及び門地又は功労があった朝鮮人に与えられた身分をいう「朝鮮貴族令」第2条。1910年(明治43年)の日韓併合条約第5条及びそれに基づく朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)によって設けられたもので、1947年(昭和22年)皇室令第12号(皇室令及附属法令廃止ノ件)によって廃止された。 朝鮮貴族は、公侯伯子男爵に分類され、華族と同一の礼遇を享け、叙位についても華族と同一に取り扱われるなど、従来の日本の華族令による華族とほぼ同様に扱いがなされた。但し、東京在住が義務付けられず、貴族院の有爵者議員となる資格はないなど、華族と違う取り扱いもなされた。 朝鮮貴族に列せられた者 侯爵 李載完 興宣大院君の甥。 李載覚 荘献世子の玄孫。 李海昌 昌山君。 李海昇 全渓...
  • 勅令
    勅令(ちょくれい) 国王・皇帝・天皇などの君主が直接発する命令・法令のこと。ナントの勅令など。 日本における法令の一形式。この項目で記述する。 勅令(ちょくれい)とは、日本においては天皇が発した法的効力のある命令を指す。ここでは緊急勅令やいわゆる「ポツダム勅令」についての記述を含む。 概要 大日本帝国憲法第9条に定められていた法形式であり、法律を執行するためまたは公共の安寧秩序を保持しおよび国民の幸福を増進するために天皇が制定していた。憲法上法律事項とされていない事項を対象とする場合は勅令による制定が可能であった。法律事項以外でも、軍に関することは軍令で、皇室に関することは皇室令で定めていたので、これらを除いたものが勅令事項とされていた。制定にあたっては内閣が輔弼(事実上の承認)をしていたので、現在では内閣が発する政令とみなされ、位階令など一部には現在でも効力を有している...
  • 岩倉具視
    ...いる。さらに7月には太政大臣が新設されて三条実美が就任したので岩倉が右大臣を兼務した。 外務卿になった岩倉には「条約改正」という難題が迫っていた。かつて井伊直弼が結んだ不平等条約日米修好通商条約は条約改正についての両国間の交渉は1872年7月1日までできないとするとしており、それがもうじき切れるところであった。しかし今交渉してもアメリカ側が日本の法律・諸制度が依然として「万国公法」に準拠していないことを理由に不平等条約を維持しようとするのは目に見えていた。そこで欧米に使節団を送り、日本が依然文明開化していないことを欧米に伝え、それらの国々で近代化の様子を視察させてもらい帰国後それらを日本に導入し、文明開化を成し遂げた段階で条約交渉をしてほしいと要請して条約改正交渉を引き延ばすことが政府方針として決まった。大隈重信らは国書の原案で延期の期限を3年としたが、岩倉は無期限とすべきとしたの...
  • 第1次伊藤内閣
    {{Infobox |tnavbar = 日本の内閣記事 |above = 第1次伊藤内閣 |label1 = 内閣総理大臣 |data1 = 初代 伊藤博文 |label2 = 成立年月日 |data2 = Template 和暦?12月22日 |label3 = 終了年月日 |data3 = Template 和暦?4月30日 |label4 = 与党等 |data4 = 藩閥内閣 |label5 = 施行した選挙 |data5 = なし(帝国議会未設置) |label6 = 衆議院解散 |data6 = なし(帝国議会未設置) |below = 内閣閣僚名簿(首相官邸) }} 第1次伊藤内閣(だい1じ いとう ないかく)は、参議の伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命され、Template 和暦?12月22日からTemplate 和暦?4月30日まで続いた...
  • 軍令
    Template Wiktionary? 軍令 - 軍隊の命令と規則。 軍令 - 軍の作戦行動に関する業務。軍政の対義語。 軍令 - 20世紀前半の日本にあった法形式。本項で詳述。 軍令(ぐんれい)は、大日本帝国憲法体制下にあった法形式の一つで、内閣や議会を通さず、天皇が陸軍と海軍を統帥するため制定するものである。憲法に定めがないが、1907年に軍令第1号によって導入され、立法において軍部の統帥権独立を表すものとして1945年まで機能した。 軍令第1号までの道 ドイツ軍制を模倣した山県有朋陸軍卿による明治11年12月太政官達第50号『参謀本部条例』以降、国務から参謀本部が独立した。(太政官達はその後の勅令にほぼ相当した)。 『公文式』(明治19年勅令第1号)では、勅令は閣議を経て後、全て内閣総理大臣から天皇に、一般上奏した(第2条)。裁可後、必ず内閣総理大臣の副署を要...
  • 軍部大臣現役武官制
    軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)とは、軍部大臣(陸軍大臣、海軍大臣)の補任資格を現役の武官(軍人)に限る制度。現役武官に限るため、文官はもちろん予備役・後備役・退役の武官には、補任資格がない。文民統制の対義語として用いられることもある。 概説 軍部大臣現役武官制は、軍部大臣の補任資格を現役武官の大将・中将に限る制度であり、軍部大臣の補任資格を武官の大将・中将に限る「軍部大臣武官制」より資格者の範囲をさらに狭めている。現役とは平時軍務に従事する常備兵役を指し、現役武官の人事は、内閣の関与が不可能な天皇の統帥権に関わる。このため、軍部大臣現役武官制の採用によって組閣に軍部の合意が事実上必要となり、軍部によるその意向にそわない組閣の阻止が可能となった。また、たとえ一度組閣されても、内閣が軍部と対立した場合、軍が軍部大臣を辞職させて後任を指定しないことにより内閣を総辞...
  • 岡田啓介
    Template 日本の内閣総理大臣? 岡田 啓介(おかだ けいすけ、慶応4年1月20日(1868年2月13日)) - 昭和27年(1952年)10月17日)は、日本の軍人、政治家。海軍大将。第31代内閣総理大臣。 生涯 海軍時代 1868年(慶応4年)福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。1884年(明治17年)9月、旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業。翌1885年(明治18年)1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しいと感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸士受験に志望変更した。陸士受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、12月1日、結局は海軍兵学校に入校した。...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 西郷従道
    Template Infobox 軍人? thumb|180px|旧西郷従道住宅(国の[[重要文化財。東京都目黒区上目黒にあったものを明治村へ移設)]] 西郷 従道(さいごう じゅうどう、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日)は、日本の武士・薩摩藩士、政治家、軍人。元帥海軍大将・従一位・大勲位・功三級・侯爵。元老。父は西郷吉兵衛、母は政子。兄弟に兄の西郷隆盛ほか。幼名竜助。のち、出家して茶坊主になった時は竜庵、通称は慎吾。本名は隆興、隆道。 なお名前の読みとして、「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家の子孫によると「じゅうどう」が正式の読みである(#エピソードを参照)。 略歴 薩摩藩鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主島津...
  • 大韓帝国
    大韓帝国(だいかんていこく、Template lang?、テハンジェグク)とは、1897年 - 1910年に李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(Template lang?、テハングク)、韓国(Template lang?、ハングク)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある。清の冊封国時代と日本統治時代の狭間の短い時期であり、朝鮮半島最後の専制君主国である。 {{基礎情報 過去の国 |略名 = 韓国 |日本語国名 = 大韓帝国 |公式国名 = Template Lang? |建国時期 = 1897年 |亡国時期 = 1910年 |先代1 = 李氏朝鮮 |先旗1 = Flag of Korea 1882.svg |次代1 = 日本統治時代の朝鮮 |次旗1 = Flag of Japan - variant.svg |次代2 ...
  • 宮中顧問官
    宮中顧問官(きゅうちゅうこもんかん)は、皇室または王室制度が存在する国の官職。多くの場合名誉職的な意味合いが強い。 日本の宮中顧問官 日本では、大日本帝国憲法下で宮内大臣の諮問に応じる職であった。 内閣制度創設の際に、明治18年太政官達第68号により内閣とは別に宮内大臣・内大臣と並んで設置された。名称中に「宮中」とあるように、戦前の日本では皇室・皇族関連を宮中、内閣以下政府を府中とし、宮中の制度に政府は関与できなかった。勅任官で、国家に勲功のあった者の中から選ばれた。1945年11月24日に廃止された。 主な任官者 池田謙斎(陸軍一等軍医正男爵医学博士、侍医局長) 伊地知正治(伯爵、修史館総裁、一等侍講、宮内省御用掛) 伊藤博文(内閣総理大臣、枢密院議長:1889年10月30日~1891年6月30日?) 井上馨(侯爵、大蔵大臣、明治20年9月-明治21年7月...
  • 国体
    ...に諭す。 奉勅 太政大臣 三条実美」 この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。 憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、1884年、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば]、おのずから国体が変換する」と演説した。伊藤の部下であった金子堅太郎は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。帝国憲法制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。 福澤諭吉『帝室...
  • 黒田内閣
    {{日本の内閣記事|くろだ ないかく|2|黒田清隆|Template 和暦?|4月30日|Template 和暦?|10月25日|超然内閣|なし(帝国議会未設置)|なし(帝国議会未設置)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/02.html|前職 = 農商務大臣}} 本項では、黒田内閣の事績とともに、黒田の総理辞任後2ヵ月間にわたって存在した内大臣・三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょう ざんてい ないかく)の背景についても解説する。三條暫定内閣は、Template 和暦?10月25日から同年12月24日まで続いた内閣である。 在任期間 黒田内閣 Template 和暦?4月30日 - Template 和暦?10月25日 在任期間544日。 三條暫定内閣 1889年(明治22年)10月25日 - 同年12月24...
  • 清浦奎吾
    Template 日本の内閣総理大臣? 清浦 奎吾(きようら けいご、嘉永3年2月14日(1850年3月27日) - 昭和17年(1942年)11月5日)は、日本の政治家。第23代内閣総理大臣。正二位伯爵。肥後(熊本県)出身。幼名は普寂(ふじゃく)。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任。1924(大正13)年の組閣では、ほぼ全閣僚を貴族院議員としたため(超然内閣)、護憲三派が激しく非難。わずか5ヶ月で総辞職した。清浦首相時代は、大正デモクラシーが最も高揚した時代でもあった。 生涯 山縣有朋側近中の側近 清浦奎吾は1850年(嘉永3年)2月14日、肥後国鹿本郡来民村(現・山鹿市)の明照寺住職・大久保了思の5男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865年(慶応元年)から、豊後日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学び、日田で知り合った...
  • 上奏
    Template 日本の皇室? 上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。奏上ともいう。 中国 Template 節stub? 中華王朝の官僚は、上奏の権限を利用して権力を掌握していた。上奏の内容をめぐってしばしば権力闘争が起こった。 唐の律令制における上奏は、意見封事の上表(政事に関する上奏)と訴訟の上表(訴訟に関する上奏)とに大別される。 訴訟の上表については、公式令訴訟条に拠れば、尚書省の判決に不服である場合、三司(御史台侍御史、門下省給事中、中書舎人の3者)による会審(合同の審査)で認められたものは、三司の陳訴を通じて皇帝に上訴することができたとされる長谷山彰『日本古代の法と裁判』(創文社、2004年)7頁以下。また、儒教の徳治主義の観点から、一定の条件の下で皇帝に対する直訴が認められていた。同前18頁-20頁。。 日本 ...
  • 木戸孝允
    ...代宰相)、三条実美(太政大臣)、岩倉具視(右大臣)たちから、木戸(初代宰相)がただひとり参議となるように求められる。「命令一途」の効率的な体制を構築するよう懇請されたわけであるが、リベラルな合議制を重んじ、ファシズム的な独裁体制を嫌う長州の代表である木戸は、これを堅く固持し続ける。大久保による妥協案により、木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、政務に疎い西郷を補うためという口実で、西郷が「俗吏」と評して嫌っていることを知っていながら、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も人事では負けじとばかり(自分が先月主張していた「命令一途」体制を忘れて)『それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ』と応じ、めでたく薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。 しかし、この薩長土肥一人ずつの共和制的な参議内閣体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の...
  • 大日本帝国憲法
    Template 日本の法令?大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法大日本帝国憲法では、表題に「大日本帝国」が使用されているが、正式な国号と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた1936年(昭和11年)まで、「日本国」「日本」等の名称も使用された。 。明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。 1876年に公布されたオスマン帝国憲法に次いで、アジアでは2番目の近代憲法である。オスマン帝国憲法は、公布されて間もない1878年に停止され、その後も長らく専制政治が続いたため実際には機能していない。安定的に運用された近代憲法としては、大日本帝国憲法がアジア初である。ま...
  • 松方正義
    Template 日本の内閣総理大臣? 松方 正義(まつかた まさよし、1835年3月23日(天保6年2月25日) - 1924年(大正13年)7月2日)は日本の武士・薩摩藩士、政治家。幼名は金次郎。通称は助左衛門。近代日本を代表する財政家であり、明治13年(1880年)に内務卿、明治14年(1881年)に大蔵卿を歴任、翌・明治15年(1882年)に日本銀行を設立。第4代、第6代内閣総理大臣。ほか大蔵大臣、内大臣などを歴任。元老従一位大勲位公爵。 経歴 生い立ち 現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。わずか13歳にして両親を亡くす。弘化4年(1847年)、薩摩の武士の子弟が通う藩校造士館に入る。 嘉永3年(1850年)、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認め...
  • 政体書
    政体書(せいたいしょ)は、明治初期の統治機構について定めた布告である。副島種臣と福岡孝弟がアメリカ合衆国憲法および『西洋事情』等を参考に起草し、1868年6月11日(慶応4年=明治元年旧暦閏4月21日)に発布された竹内理三他 (1978) 『日本近現代史小辞典』 角川書店、43頁。 概説 1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)王政復古のクーデター、1月27日~30日(慶応4年=明治元年旧暦1月3日~7日)の鳥羽・伏見の戦い、5月3日(旧暦4月11日)の江戸城開城などを経て、奥羽・北越地方では交戦が続いていたが、関東地方以西をほぼ掌握した新政府が、それまでの臨時政府的な三職体制に代えて新たな官制を定めたものである。 冒頭に五箇条の御誓文を掲げてこれを政府の基本方針と位置づけ、国家権力を総括する中央政府として太政官を置き、2名の輔相をその首班とした。太政官の権力を立法・行政・司法の...
  • 企画院事件
    企画院事件(きかくいんじけん)は、1939年から1941年にかけて、多数の企画院職員・調査官および関係者が左翼活動の嫌疑により治安維持法違反として検挙・起訴された事件。企画院事件は、1939年以降の「判任官グループ」事件、および1940年以降の「高等官グループ」事件の複合体である。 経緯 1938年10月の京浜工業地帯の労働者による研究会に対する弾圧事件(「京浜グループ」事件)において、同研究会で講師を務めていた企画院属の芝寛が逮捕された。芝による自供をもとに、企画院内若手判任官による研究会(これ自体は同院内部で認可された小規模な勉強会であった)の存在が警察の認識するところとなり、これが「官庁人民戦線」の活動として扱われ、1939年11月から翌1940年までに岡倉古志郎・玉城肇ら4名が検挙された(「判任官グループ」事件)。 さらに検挙は1940年10月から1941年4月にかけて、...
  • 井上馨
    {{政治家 |各国語表記 = いのうえ かおる |画像 = Kaoru Inoue 4.jpg |画像説明 = 井上馨 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1836年1月16日 |出生地 = 周防国湯田村 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 静岡県静岡市 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位大勲位、侯爵 |配偶者 = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 初代外務卿 |内閣 = |当選回数 = |就任日 = 1879年 |退任日 = 1885年 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代外務大臣 |内閣2 = 第1次伊藤博文内閣 |当選回数2 = |就任日2 = 18...
  • 元老院 (日本)
    元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。 概説 1875年に大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退助らの大阪会議での合意に基づき、続いて出された立憲政体の詔書によって1875年4月25日左院にかわり設置された。当初は正副議長各1名が置かれ定員は無制限とされたが、程なく財政上の都合から同年11月25日に職制が改正されて正副議長各1名とこれを補佐する幹事2名(1886年廃止)、その他の議官28名の計32名が定数とされた。 議長は左大臣の兼務とされたが実際には一度もその事例は無く、設置当初は議長は空席で副議長の後藤象二郎が議長の職務を代行した。1875年11月の改正に伴い、これを補佐するために幹事が...
  • 大隈重信
    Template 日本の内閣総理大臣? 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現:早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。 略歴 生い立ち 佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政...
  • 京都学連事件
    京都学連事件(きょうとがくれんじけん)は1925年(大正14年)12月以降、京都帝国大学などでの左翼学生運動に対して行われた弾圧事件。日本内地では最初の治安維持法適用事件として知られる。 経緯 背景 1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。学連はまたたくまに会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行い、1925年7月には第2回全国大会を京都帝大で開催、代議員80名が参加した。 弾圧 1925年12月、京都府警察部特高課は、全市の警察署高等係を動員して京都帝大・同志社大などの社研会員の自宅・下宿などを急襲、家宅捜索および学生33名を検束した。しかし京...
  • 明治政府の修史事業
    明治政府の修史事業(めいじせいふのしゅうしじぎょう)では、明治期に新政府によって進められた正史(国家史)の編纂事業について述べる。 沿革 1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明明治2年4月4日(1869年5月3日)に明治天皇から三条実美に下された宸翰沙汰書(現在は東京大学史料編纂所所蔵)には、修史ハ萬世不朽ノ大典、祖宗ノ盛挙ナルニ、三代実録以後絶ヘテ続クナキハ、豈大闕典ニ非スヤ。今ヤ鎌倉已降ノ武門専権ノ弊ヲ革除シ、政務ヲ振興セリ。故ニ史局ヲ開キ、祖宗ノ芳躅ヲ継ギ、大ニ文教ヲ天下ニ施サント欲シ、総裁ノ職ニ任ズ。須ク速ニ君臣ノ名分ノ誼ヲ正シ、華夷内外ノ弁ヲ明ニシ内外ノ命ヲ明ニシ、以テ天下ノ綱常ヲ扶植セヨ。と記されている。、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。しかし1877年に財政難のため修史局は廃止され、...
  • 廃刀令
    Template 日本の法令? 廃刀令(はいとうれい)とは、Template 和暦?3月28日に発せられた大禮服竝ニ軍人警察官吏等制服著用ノ外帶刀禁止の太政官布告の略称。いわゆる帯刀禁止令のことである。 概略 すでに1869年(明治2年)ころから廃刀の議論はおこなわれていた。明治2年3月、公議所がひらかれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。はやく蛮風をのぞくべしというものであったが、王政復古からまもないころであったから、公議所の公議人らは反対意見で、廃刀をもって武士の精神をなくし、皇国の元気を消滅させるものとして否決された。明治3年(1870年)には庶民の帯刀を禁止、明治4年8月9日(1871年9月23日)には士族の帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、Template 和暦?3月28日、廃刀令の発布をみた。 発布の直接の因となったのは、Templat...
  • 国立銀行条例
    国立銀行条例(こくりつぎんこうじょうれい)は、1872年に制定された日本の法律である。 制定までの経緯 それまで日本は兌換貨幣(金との交換が保証された通貨)を使用していた。だが海外流出などで金不足が深刻化しており、兌換制度を止める必要があった。1871年に新貨条例が出され、「円」を貨幣とする最初の近代貨幣制度が導入された。しかし金本位制のため金貨不足のせいで銀貨がよく使われるようになった。その後伊藤博文が発券銀行制度を導入しているアメリカ合衆国のナショナル・バンク制度(国法銀行制度)を参考に建議し、国立銀行条例として1872年に制定した。これにより、渋沢栄一が1873年に日本初の国立銀行である第一国立銀行(現 みずほ銀行)を設立。その後もこの条例を基に民間が数多くの国立銀行を設立した。 制定当時の内容 兌換制度を止める。 そして、国立銀行が発行する銀行券には金貨などの兌換硬貨との...
  • 大日本帝国
    大日本帝國 国旗 準国章 菊花紋章 標語 (なし) 公用語 日本語(事実上の公用語)朝鮮語、台湾語なども使われていた。 首都 東京 面積 675千km sup 2 /sup (昭和初期の領土) 人口 9770万人 (昭和10年国勢調査での領土内の人口) 政府 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制。1930年代以降は軍国主義の傾向。 国家元首 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照 通貨 円 国歌 君が代 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使...
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