chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「学部」で検索した結果

検索 :
  • 台北帝国大学
    ...月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/地質学/化学/生物化学/植物病理学の各講座より構成。 1928年4月1日 文政学部及び理農学部開講。理農学部に附属植物園、附属農場を設置。台北高等...
  • 旧制高等学校
    ...始まった。当初は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制の2系統があったが、学部は順次廃止ないし専門学校として分離され、大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正後は各地で増設され、大学予科は本科に、さらに文科・理科に分かれた。後期には4年間の前置課程を含めた7年制のものもある。 Template 右? 概要 1894年の高等学校令では、専門学科の教育を行なう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定されていた。しかし、専門学科教育は主流となることはなく、後に廃止または専門学校として分離され、帝国大学入学前の高等教育機関としてのみ発展した。1918年に改正された高等学校令では、男子の国民道徳を充実させ、高等普通教育を完成する事を目的とし、また公立、私立の高等学校設置が認められるようになり、終戦後まで発展を遂げた。これら高等学校のエッセンスは帝国大...
  • 森戸事件
    ...戸辰男はこの年、経済学部機関誌『経済学研究』にロシアの無政府主義者クロポトキンに関する「クロポトキンの社会思想の研究」を発表した。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼団体から攻撃を受けて、雑誌は回収処分となった。さらに、新聞紙法第42条の朝憲紊乱罪により森戸は起訴され、休職処分となる。当時の助教授・大内兵衛も掲載の責任を問われて起訴される。 10月2日、大審院は上告を棄却して有罪が確定。両名は失職し、同じ頃ILO日本代表派遣問題をめぐって東大を辞職した師の高野岩三郎(初代経済学部長)とともに大原社会問題研究所に参加、同所の中核メンバーとなった。その後、大内は復職したが、人民戦線事件で検挙、再び東大を追われた。 同じ経済学部の教授である渡辺銕蔵などは、森戸の論文は論理も学術的価値もない、と批判した。 なお岸信介は森戸を排斥した興国同志会に属していたが、この事件をきっかけに興国...
  • 学徒出陣
    ...上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。それまで(旧制)高校や(旧制)大学に在籍する学生は、26歳まで徴兵猶予されていた。 概要 日本は1937年(昭和12年)以来、当初は中華民国、続いて1941年(昭和16年)からはアメリカ合衆国・イギリスなどとの長期戦を続けていた。特にアジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や1942年(昭和17年)以降の戦局悪化で戦死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。 従来、兵役法などの規定により大学(旧制大学)・高等学校(旧制高等学校)・専門学校(旧制専門学校)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予の対象は狭くされていった。 まず1941年(昭和16年)10月、大学、専門学校などの修業年限を3ヶ月短縮することを定め同...
  • 学習院
    ...華族女学校を学習院女学部と改称する。 1908年(明治41年) 東京府下高田村(現・目白)に移転する(初等学科と女学部は旧位置)。 1918年(大正7年) 女学部が青山に移転して、女子学習院となる。 1919年(大正8年) 学習院の初等学科・中等学科・高等学科を初等科・中等科・高等科に改める。 1928年(昭和3年) 学習院開校創立五十年祝典を挙行する。 1935年(昭和10年) 女子学習院開校五十年記念式を挙行する。 1946年(昭和21年) 女子学習院は牛込区戸山町に、学習院中等科(1・2年)は小金井(現在の都立小金井公園の敷地内)に移転する。 1947年(昭和22年) 学習院学制・女子学習院学制廃止 歴代学習院院長一覧 財団法人学習院、学校法人学習院のもとでの歴代院長は学校法人学習院の当該節を参照 代氏名就任時期備考 初代立花種恭1877年 ...
  • 滝川事件
    ...件は、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容(トルストイの思想について「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張、司法試験委員であった滝川を非難した。 滝川の処分と京大法学部の抵抗 1933年4月、内務省は滝川の著書『刑法講義』『...
  • 李完用
    ...)に就任する。翌年、学部大臣(文部大臣)になるが、ロシア公使ウェーベルと対立し、地方に転出される。1901年中央に戻り、親米派の立場をとり親日勢力を圧迫するが、1904年の日露戦争を境に日本寄りの態度を取るようになる。 1905年、学部大臣だった李完用は第二次日韓協約の調印に賛成し、これを推進した。これに賛同した5大臣は韓国で「乙巳五賊」に数えられている。このころから大衆の非難の的にもなった。 1907年、韓国統監伊藤博文の推薦により内閣総理大臣に就任。同年6月の高宗が起こしたハーグ密使事件に際しては日本側に立って、伊藤博文統監と共に日本に対し反抗的な高宗皇帝に強い態度で退位を迫り、ついに廃位に追いやるなどして第三次日韓協約の成立にも重要な役割を担った。 1909年、12月22日に明洞聖堂前で、反対勢力が送り込んだ刺客の李在明に襲われる。全身をメッタ刺しにされ重傷を負ったが、一...
  • 京城帝国大学
    ...し、1926年に法文学部・医学部の各学部が設置されて大学レベルの教育体制が整った。所在地は、鍾路区大学路(旧:京城府東崇町。予科は清涼里)。 1929年から大規模な水力発電所が鴨緑江とその支流に造られ、1930年代の朝鮮は工業化が急速に進んだこと、また、1931年の満州事変と1932年の満州国設立により、資源が豊富な満州での工業化が見込まれたことなどから、高度な技術を持つ人材の需要が高まり、その供給源として1941年には理工学部が設置された。 城大の教授陣は東京帝国大学卒を中心としており、他の帝国大学の設立期と似ている。日本語で専門教育の講義がなされる城大では、入学者は予め日本語での普通教育が必要であり、日中戦争開戦(1937年)後には「第三次朝鮮教育令」が公布(1938年)され、「内鮮教育の一元化」が唱えられた(皇民化政策)。しかし、1942年の朝鮮人の就学率は55%、日本語普...
  • 学校教練
    ...公立のみ) 大学学部(官立、公立又は私立) 関連項目 予備役将校訓練課程(米国の大学等に設置された予備役将校を養成する課程) 外部リンク 京都大学百年史資料編 学校(軍事)教練の本当の担い手 陸軍現役将校学校配属令公布 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月30日 (金) 15 44。    
  • 帝国大学
    ...称して設置され、後に学部を新設したり、他の高等教育機関を包摂したりして、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられた。今日においても旧帝国大学出身者は同会への入会資格が与えられる。 終戦前、帝国大学は略して帝大と呼ばれていた。戦後に帝国大学令が廃止されたため、現在、これらの大学群は「旧帝国大学」または「旧帝大」とも呼ばれている。この呼称の場合、旧外地の京城・台北の両帝国大学を含む場合と含まない場合とがある。 一覧 かつて存在した帝国大学は次のとおり。番号は設置された順番を示す。 帝国大学(後の東京帝国大学。現在の東京大学) 京都帝国大学(現在の京都大学) 東北帝国大学(現在の東北大...
  • 伏石事件
    ...大阪府立大学人間社会学部図書室資料) 『伏石事件の経緯』 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月8日 (月) 00 10。     
  • ラダ・ビノード・パール
    ...年にカルカッタ大学理学部、法学部を卒業し、1920年に法学修士試験に最優等にて合格、翌年弁護士として登録。 1924年にカルカッタ大学にて法学博士号 (LLD) を取得(論文は「マヌ法典前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」)。 1923年から1936年までカルカッタ大学法学部教授を務める。 1925年にはインド学会最高の栄誉であるカルカッタ大学タゴール記念法学教授に選出され、1930年、1938年にも選出された。 1927年にインド政府の法律顧問に就任、1937年には国際法学会総会に招聘され、議長団に選出される。 1941年にカルカッタ高等裁判所判事、1944年にカルカッタ大学副総長に就任。 1946年の極東国際軍事裁判ではインド代表判事として派遣されたインドは1947年にイギリスから独立している。従ってパールの立場は、裁判が開始された19...
  • 内閣総理大臣の一覧
    ...藩愛知県 東京大学法学部卒業三菱役員外務官僚 憲政会総裁衆議院議員憲政会・政友会・革新倶楽部連立(1925年8月2日以降憲政会単独)在任中に病死 ― (若槻禮次郎)(わかつき れいじろう) (加藤高明内閣)1926年1月28日- 1926年1月30日 (内務大臣若槻禮次郎が内閣総理大臣臨時兼任) 25 15 若槻禮次郎 第一次若槻内閣1926年1月30日- 1927年4月20日 446 松江藩島根県 帝国大学法科卒業大蔵官僚衆議院議員ロンドン海軍軍縮会議主席全権 憲政会総裁 昭和 26 16 田中義一たなか ぎいち 田中義一内閣1927年4月20日- 1929年7月2日 805 長州藩山口県 陸軍大学校卒業陸軍軍人 立憲政友会総裁(予備役陸軍大将) 27 17 濱口雄幸はまぐち おさち 濱口内閣1929年7月2日- 1931年4月14日...
  • 香淳皇后
    ...)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は別室で昼食をとるが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と一緒であった。優しい一方運動神経に優れ(昭和天皇からゴルフを教わり、度々天皇を負かしたと伝わる)しっかりとした性格で、二人の妹が彼女の行動を全て真似ることもあったという。 同小学科を経て(1909年入学)、1915年(大正4年)には学習院女学部中学科進学。在学中の1918年(大正7年)1月14日に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定。内定の理由には、彼女の性格や素質以外にも、明治天皇が久邇宮家を気にかけていたこと等が挙げられる。内定にともない学習院を退学し、同年4月13日以降久邇宮邸内に設けられた学問所で皇后としての教育を受ける。学問所は お花御殿 と呼ばれ、妹たちの他・親しい学友が学習院の授業を終えた後に通い、ともに学ん...
  • 九州大学生体解剖事件
    ...(現在の九州大学)医学部において米軍捕虜に対する生体解剖実験が行われた事件である。相川事件とも言われる。 概要 1945年5月、九州方面を爆撃米空軍は福岡市において市街地に対して無差別爆撃を敢行している。(上坂(1982)、34頁)するために飛来したB-29が熊本県・大分県境で撃墜され、搭乗員のウイリアム・フレドリック少佐ら12名が捕らえられた。西部軍司令部は、裁判なしで12名の搭乗員の内、8名を死刑処分とすることにした。それを知った九州帝大卒で病院詰の小森見習士官は、岩山福太郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという。 生体解剖は1945年5月17日から6月2日にかけて行われた。指揮...
  • 脱亜論
    ...静岡県立大学国際関係学部助教の平山洋は『福沢諭吉の真実』(文春新書、文藝春秋)、200-203ページ、において、「脱亜論」がこの論説(後編)の要約になっていることに注意している。 そこでは、次の記述が「脱亜論」にも影響を与えたのではないかと指摘している(201ページ)。 人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり。而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は即ち支那人なり。我輩は千里遠隔の隣国に居り、固より其国事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。 「脱亜論」掲載後の論説 「脱亜論」の5ヶ月後に掲載された論説に、「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」「朝鮮人民のためにその国の滅亡...
  • 東京大学史料編纂所
    ...年)文科大学(現・文学部)に史料編纂掛が設置される。1901年(明治34年)に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。1929年(昭和4年)に史料編纂所と改称。 戦後は、1950年4月に文学部から独立し、1954年より教授・助教授(現在は准教授)・助手(現在は助教)の教官制となった。 組織 現在の編纂所は研究部、図書部、史料保存技術室、事務室から構成されており、研究部は古代史料部門、中世史料部門、近世史料部門、古文書・古記録部門、特殊史料部門の5部門がある。 また、附属施設として画像史料解析センターをもつ。 所在地 東京都文京区本郷7-3-1 東京大学本郷キャンパス内の赤門そばに所在する。 刊行史料 「大日本史料」1901~刊行 「大日本古文書」1901~刊行 (正倉院文書、東大寺文書、高野山文書、浅野...
  • 皇典講究所
    ...年、予科2年 文学部 修身科 歴史科 法令科 文章科 作業部 礼式科 音楽科 体操科 設立に携わった人物 有栖川宮幟仁親王 久我建通 山田顕義 松野勇雄 井上頼囶 歴代総裁 1882年~1907年 有栖川宮幟仁親王 1908年~1908年 竹田宮恒久王 1908年~1924年 北白川宮成久王(竹田宮の弟) 1925年~1930年 久邇宮邦彦王(元帥、陸軍大将) 1930年~1945年 閑院宮載仁親王(元帥、陸軍大将) 1945年~1946年 梨本宮守正王(久邇宮邦彦王の弟) 歴代所長 1889年~1895年 山田顕義(司法大臣) 1896年~1909年 佐佐木高行(枢密院顧問官) 1910年~1910年 芳川顕正 1911年~1918年 鍋島直大(元佐賀藩藩主) 1919年~1919年 土方久元(農商務・宮内大臣) 19...
  • 日本の学校制度の変遷
    ...工大は大阪帝国大学工学部に編入) 医科大学 4年制(19歳以上)(千葉.岡山.金沢.長崎.新潟.熊本など) 太平洋戦争末期の学制 青年学校令改正(1939年)、国民学校令(1941年)、中等学校令(1943年)によって以下の学制が成立した。中等学校令では、中学校令、高等女学校令、実業学校令を廃止し、高等学校は2年制、中等学校は4年制に年限短縮した。概ね以下4段階である。 就学前教育機関 初等教育機関 中等教育機関  高等教育機関 大学/大学院 就学前教育機関 幼稚園 1~3年制(3歳以上)→初等教育1 初等教育機関 国民学校初等科 義務教育6年制(6歳以上)→中等教育1.2.3.8.9.10 (聾唖/盲学校初等部 6年制(6歳以上)→中等教育11) 中等教育機関 国民学校高等科    2年制(12歳以上)→中等教育4.5.6.7.[女子のみ選...
  • 華族
    ...なかったので、学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。 1889年の大日本帝国憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。また同年定められた旧皇室典範により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。大正天皇第二皇子の雍仁親王(秩父宮)が松平恒雄長女の節子(勢津子妃)と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(会津松平家の当主は恒雄の兄の松平容大子爵)。に限定された。 華族の身分 華族のうち爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されず、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された。なお、華族とされる者は...
  • 大阪商大事件
    ...春に東北帝国大学法文学部講師に転じていた立野保男が、同年3月30日から11月にかけていずれも治安維持法違反により検挙された。12月には学生約40名が短期拘留ないし不拘束のまま特高の取り調べを受け、1945年1月にはさらに2名が検挙された。 上記の被検挙者約50名のうち約30名が起訴され3名が実刑判決を受けた(うち若干名は執行猶予により釈放された)。起訴されなかった者もそのまま未決囚として拘置所・刑務所に拘留された。このため拷問、栄養失調などにより3名が獄死、数名が精神に異常をきたす結果となった。この事件の被告・拘留者は、1945年10月のGHQ/SCAPによる政治犯釈放指令をまって初めて解放された。 関連書籍 上林貞治郎 『大阪商大事件の真相;大阪市大で何が起こったか』 日本機関紙出版センター、1986年。 関連項目 満鉄調査部事件 横浜事件 外部リンク ...
  • 第1次大隈内閣
    ...梅謙次郎(帝国大学法学部教授) 1898年(明治31年)6月30日 - 同年10月27日 神鞭知常(衆議院・憲政党 旧進歩党系) 1898年(明治31年)10月27日 - 同年11月8日 第1次大隈内閣 1898年(明治31年)6月30日 同年7月27日 同年10月27日 内閣総理大臣 大隈重信 大隈重信 大隈重信 外務大臣 大隈重信(兼務) 大隈重信(兼務) 大隈重信(兼務) 内務大臣 板垣退助 板垣退助 板垣退助 大蔵大臣 松田正久 松田正久 松田正久 陸軍大臣 桂太郎 桂太郎 桂太郎 海軍大臣 西郷從道 西郷從道 西郷從道 司法大臣 大東義徹 大東義徹 大東義徹 文部大臣 尾崎行雄 尾崎行雄 犬養毅 農商務大臣 大石正巳 大石正巳 大石正巳 逓信大臣 林有造 林有造 林有造 内閣書記官長 鮫島武之助 竹富時敏...
  • 企画院
    ...通動員計画事務 科学部→第七部 - 科学動員及び科学研究に関する事務 沿革 1937年10月 企画院発足に伴い、総裁・次長がそれまでの政治任用による兼務からそれぞれ親任官・勅任官となる。 1939年4月 第一次改組にて各部署は番号制に変更及び科学部設置。 1941年5月 第二次改組にて次長直轄の総裁官房総務室設置。 1942年1月 第七部は新制の技術院に移行。 1942年4月 第三次改組にて第四部を各庁統一事務にあて、第二部に生産力拡充及び物資動員計画事務をあてた。 1942年11月 第四次改正にて六部を五部制に及び減員。 1943年11月 業務を軍需省総動員局に吸収統合した。 人事 歴代総裁 代 氏名 在職年月日 退任後の主な公職・役職 1(企画庁総裁) 結城豊太郎(兼任) 1937年5月14日 - 1937年6月4日 日...
  • 岩崎弥太郎
    ...立東京海洋大学海洋工学部)創設者である。 系譜 岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られている。三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたる。また弥太郎の孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子やエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜、経済評論家の木内信胤らがおり、曾孫には鎮西清高(古生物学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子やその兄で鎮西と同じく古生物学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)、泰頴・由利子兄妹の又従兄で東山農事(小岩井農牧の親会社)の社長を務める岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の当主)らがいる。家紋は重ね三階菱。 なお弥太郎の死後、嫡男の久弥が父の業績に対し男爵を授けられた。岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族...
  • 第3次近衛内閣
    ...橋田邦彦(東京帝大医学部教授)(第2次近衛内閣から留任) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 農林大臣 井野碩哉(官僚 農林省)(第2次近衛内閣から留任) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 商工大臣 左近司政三(予備役海軍中将[海兵28期]・貴族院所属 同和会) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 逓信大臣 村田省蔵(貴族院所属 同和会)(第2次近衛内閣から留任) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 鉄道大臣 村田省蔵(逓信相兼任・貴族院所属 同和会) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月18日 拓務大臣 豊田貞次郎(外相兼任・予備役海軍大将[海兵33期]) 1941年(昭和16年)7月18日 - 同年10月1...
  • 原敬
    ...校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。これらの官立高等教育機関の大半は、地方都市に分散設置された。 また私立大学では大正9年(1920年)に大学令の厳しい要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大學・同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格した。 この高等教育拡張政策は第一次世界大戦の好景気を背景とした高等教育への、求人需要、志願需要の激増に応えたものである。そして高等教育拡散は皇室への危険思想につながるとしてこれを反対した山縣有朋を説得したものであった。 さらに、軍事費にも多額の予算を配分し、1921年予算は1917年度予算の2倍を超える15億8000万円にまで膨れ上がった。多額の公債発行を前提とする予算案には野党憲政会、貴族院...
  • 近衛師団
    ...小泉親彦(東京帝大医学部卒):昭和7年(1932年)-近衛師団軍医部長(陸軍軍医監(少将相当官))。後に軍医中将となり厚生大臣となった。 黒田長久(東京帝大理学部動物学科卒):第2次世界大戦中、近衛師団に属した。 最終所属部隊 近衛歩兵第3連隊(東京) 近衛歩兵第4連隊(甲府) 近衛歩兵第5連隊(佐倉) 鉄道連隊 特徴 近衛師団は他の師団と異なり、特定の地域からの徴兵によるのではなく、全国からの徴兵から選抜された兵によって充足されていた。 軍服にも特徴があり、正装が他の部隊と異なっているほか、軍帽の帽章が五芒星の周囲を桜葉が囲む意匠となっていた。 東宮(皇太子)は近衛歩兵第1連隊付となるのが通例で、嘉仁親王(後の大正天皇)・裕仁親王(後の昭和天皇)も近衛歩兵第1連隊付となった。 近衛師団の活躍 日露戦争中の明治37年(1904...
  • 平沼騏一郎
    ...学、戦後の東京大学法学部)を卒業し、その後司法界で出世していった。 首相就任まで thumb|200px|left|[[林内閣の総辞職を受けて後継首班の選出に奔走する湯浅倉平内大臣 (右) の訪問を受ける平沼枢密院議長(1937年(昭和12年)5月31日)]] 1908年、刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪者異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、指紋による前科登録が導入される事となった。 1910年の大逆事件では、検事として幸徳秋水らに極刑を要求した。 幸徳事件 1913年4月、司法相の松室致とはかり、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令した。この法律は、裁判官と検事を...
  • お雇い外国人
    ...大学校(現東京大学工学部)初代都検 (英) ハインリッヒ・エドムント・ナウマン - フォッサ・マグナの発見、ナウマンゾウ (独) 外交 ヘンリー・デニソン - 外務省顧問。下関条約・ポーツマス条約交渉(米) 医学 エルウィン・ベルツ - 医学 (独) フェルディナント・アダルベルト・ユンケル - 医師 (墺) テオドール・ホフマン - 軍医 (独) レオポルト・ミュルレル - 軍医 (独) 法律 グイド・フルベッキ (Verbeck, Guido Herman Fridolin 1830-1898) - 法律、旧約聖書の翻訳(蘭) ボアソナード - 民法(仏) アルベルト・モッセ (Albert Mosse) (独) オットマール・フォン・モール (Ottmar von Mohl 1848-1922) - (独) ヘルマン・ロエスエル (Hermann R...
  • 宮中顧問官
    ...博士、東京帝国大学医学部教授) 花房義質(子爵、ロシア公使、伏見宮別当、宮内次官、帝室会計検査局長、日本赤十字社社長) 原恒太郎(従三位勲二等) 土方久元(伯爵、内閣書記官長、元老院議官、農商務大臣、宮内大臣、帝室制度調査局副総裁、臨時帝室編修局総裁、皇典講究所所長、國學院大學学長) 船越衛(男爵、千葉県知事、宮城県知事、貴族院議員) 北条時敬(貴族院議員) 穂積八束(東京帝国大学教授、貴族院議員、枢密院書記官、法典調査会査定委員) 三島毅(東京帝国大学教授、東宮侍講、大審院判事、新治裁判所長、二松学舎創設者:1830年~1919年) 三室戸敬光(子爵) 平山成信(男爵、内閣書記官長、枢密顧問官、日本赤十字社社長、行政裁判所評定官) 福岡孝弟(子爵、司法大輔、元老院議官、文部卿、参議、参事院議長、枢密顧問官) 福羽逸人(正三位勲一等子爵農学...
  • 済南事件
    ...」『名古屋商科大学商学部論集』第44巻第2号(2000年3月)、145-156頁 高文勝「済南事件の解決交渉と王正延」『情報文化研究(名古屋大学)』第16号(2002年10月)、163-188頁 関連項目 山東出兵 万県事件 南京事件 外部リンク 戦史 山東出兵/南京事件、済南事件 済南事件 ゆうのページ「済南事件」 クリック20世紀 済南事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月9日 (水) 16 01。    
  • 鹿鳴館
    ...と壁紙は、東京大学工学部建築学科に保存されている。また、その際に売却されたシャンデリアが江戸川区の灯明寺に残っている。 建築家谷口吉郎は、鹿鳴館の滅失について、11月8日の東京日日新聞に「明治の哀惜」というタイトルで記事を寄せた。「明治に生れた人達が、自分の所持品を持ちよつて、それを小博物館にすることは出来なかつたらうか。それこそいい明治の記念物となったらうに。明治時代の人から、次の時代に贈るほんとにいい贈物になつたことと思ふ」「新体制が活発な革新意識に燃えるものであるなら、それと反対に古い文化財に対しては極度に保守的であつて欲しいと思ふ」。谷口は後に博物館明治村の開設に尽力し、初代館長となった。 参考文献 鳥海基樹「我国戦前における近代建築保存概念の変遷に関する基礎的研究」(東京大学大学院都市工学専攻 1994年(平成6年)度修士論文) 東京倶楽部 188...
  • 関東軍
    ...日~終戦) 化学部長 ※昭和14年8月1日に技術部から独立 勝村福治郎大佐(陸士27期:昭和14年8月1日~昭和14年11月1日) 小柳津政雄大佐(陸士28期:昭和14年11月1日~昭和15年12月2日) 宮本清一大佐(陸士29期:昭和15年12月2日~昭和18年1月18日) 山脇正男少将(陸士28期:昭和18年1月18日~昭和19年6月20日) 秋山金正少将(陸士30期:昭和19年6月20日~昭和20年7月28日) 丹羽利男大佐(陸士34期:昭和20年7月28日~終戦) 防疫給水部長 ※関東軍防疫給水部の項参照 軍馬防疫廠 高島一雄:一等獣医正(昭和11年8月1日~昭和15年3月9日) 並河才三:獣医中佐(昭和15年3月9日~昭和17年7月1日) 若松有次郎:獣医大佐(昭和17年7月1日~終戦) 大陸鉄道司令官 ※...
  • 尾崎行雄
    ...大学、現・東京大学工学部)に再入学する。1882年(明治15年)大隈重信の立憲改進党の創立に参加。1887年(明治20年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて”愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)。1890年(明治23年)第1回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選、以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる。その後、進歩党・憲政党に属した。この間第2次松方内閣において外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、大隈と首相の松方正義が対立するとともに辞任した。1898年(明治31年)第1次大隈内閣において40歳の若さで文部大臣に就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結...
  • 加藤高明
    ...校を経て、東京大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。明治20年(1887年)より官界入りした。 財界から官界、政界へ 明治20年から大隈重信外相の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。 明治33年(1900年)には第4次伊藤博文内閣の外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。その後、東京日日新聞(後の毎日新聞)社長、第1次西園寺公望内閣の外相鉄道国有化反対を理由にわずか2ヶ月で辞任したが、実際には日露戦争後の陸軍の撤兵の遅さに対する不満と健康問題もあったとされている。、駐英大使、第3次桂太郎内閣の外相を歴任する。その間、衆議院議員を1期務め、後に貴族院勅撰議員となった。 大正2年(1913年)、桂の主導による立憲同志会の結成に参...
  • 東條内閣
    ...田邦彦 東京帝大医学部教授 1941年(昭和16年)10月18日 - 1943年(昭和18年)4月20日 東條英機首相兼任 1943年(昭和18年)4月20日 - 同年4月23日 岡部長景 貴族院議員(研究会)・官僚(外務省) 1943年(昭和18年)4月23日 - 1944年(昭和19年)7月22日 農林大臣 井野碩哉 官僚(農林省) 1941年(昭和16年)10月18日 - 1943年(昭和18年)4月20日 山崎達之輔 衆議院議員(翼賛政治会) 1943年(昭和18年)4月20日 - 同年11月1日廃止 商工大臣 岸信介 官僚(商工省) 1941年(昭和16年)10月18日 - 1943年(昭和18年)10月8日 東條英機首相兼任 1943年(昭和18年)10月8日 - 同年11月1日廃止 農商大臣 山崎達...
  • 鈴木貞一
    ...のことから東京大学農学部を志望していたが、直前に予行演習のつもりで受けた陸軍士官学校に合格したので、そのまま軍人になった。 人格円満で社交術に長け、周囲に対しても非常に気立てが良いことで知られており、新聞班長に任命されたのもそのような性格に起因したものだったと言われている。 長年、朝になると発声による健康管理を行っていた。特に巣鴨プリズン収監中は、鈴木の声が獄中の目覚まし代わりになっていたという。 NHKドキュメンタリー『スガモ・プリズン解体』(1971年放送)出演時のインタビューでは、東京裁判について「連合軍が我々を裁く根拠がない。そう言ったら、彼らは『人民の名に於いて』とか言った。人民の名などという法的根拠はない。結局、戦争に負けたから、我々は裁かれるのだ」と語っていた。 NHK特集『戒厳指令 交信ヲ傍受セヨ ~二・二六事件秘録~』(1979年2月26日放送)に出演し、二...
  • 横浜事件
    ...件) 松山大学法学部教授・田村譲のホームページ:横浜事件、再審決定要旨 日本弁護士連合会 - 会長談話 横浜事件東京高裁の再審開始決定に際して(2005年3月10日) Yahoo!ニューストピックス 横浜事件 デイリーテレグラフ Japan reopens wartime trial of Communist cell (英語。2005年10月28日、問題の写真を掲載) 東京新聞神奈川版 『濁流泳ぎ、たどり着いた』- 横浜事件再審初公判(2005年10月18日 記事は掲載期間経過で削除) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月13日 (土) 17 03。     
  • 朝日新聞
    ...4日号にて熊本大学医学部の水俣奇病総合研究班が水俣病の原因が有機水銀中毒であることを確認したと7月21日に予定されていた医学部水俣病研究会報告に先駆けてスクープ。先にこの情報をキャッチしていたらしい状況証拠のある熊本日日新聞は地元との利害関係に縛られて自由に動けなかったと推測されており、これより2日遅れの報道となる。この時点まで新日本窒素肥料水俣工場首脳部は工場付属病院が熊本大学に出している研究生から水銀説が確認されつつあるとの情報を得ていたものの黙殺しており、この報道で急遽水銀説否定のための資料集めを開始している。 疑義が持たれた報道、スキャンダル 1989年4月20日付の夕刊において、沖縄の自然環境保全地域指定海域にある世界一の大きさを誇るアザミサンゴ太平洋資源開発研究所ホームページ内アザミサンゴ発見に傷がつけられていることを取り上げ、その象徴として「K・Y」というイニシ...
  • 若槻禮次郎
    ...仏法科(現東京大学法学部)を首席で卒業。同期に小川平吉(弁護士、政治家)、水野錬太郎(官僚、政治家)らがいる。大蔵省試補 1894年3月 - 愛媛県収税長として松山市に赴任 1898年11月 - 大蔵省主税局内国税課長 政府委員 1904年10月 - 主税局長兼行政裁判所評定官 1907年4月 - 政府財政委員としてロンドンおよびパリに駐在 1908年7月 - 大蔵次官に就任 1911年8月 - 大蔵次官を辞し勅撰議員となる 1912年12月 - 第3次桂内閣で大蔵大臣に就任 1913年2月 - 立憲同志会入党 1914年4月 - 第2次大隈内閣で大蔵大臣に就任 1924年6月 - 加藤内閣で内務大臣在任中、普通選挙法、治安維持法成立 1926年1月 - 第1次若槻内閣成立 1930年1月 - ロンドン海軍軍縮会議において首席全権として出席 1931年4月 ...
  • 八幡製鐵所
    ...こで、東京帝国大学工学部教授を退任して民間の技術指導に当たっていた野呂景義に、原因調査が依頼された。炉内をより高温に保つため、高炉の形状を改め、操業方法も改善するという野呂の提案を受け、高炉が改造され、7月23日に第3次火入れが行われた。この改良は成功し、その後は順調に操業を進めて、多くの銑鉄を得ることができた。そして、翌年の2月25日には、以前から建設が進められていた東田第二高炉に火入れが行われ、銑鉄の生産量がほぼ2倍になった。 戦争が終わると今度は民間から鉄の需要が増え、技術革新、重工業の発展に伴う需要増加に応えるため、第一期拡張工事(1906年~1910年)、第二期拡張工事(1911年~1915年)、そして第一次世界大戦で大幅に増えた鉄鋼需要に応え、第三期拡張工事(1917年)、1927年には年間銑鉄生産量年100万トン計画が立案され、海に築く製鉄所の先駆けとなった洞岡高炉群...
  • 真珠湾攻撃陰謀説
    ...ミシガン州立大学歴史学部のジョン・F・ブラッツェルとレスリー・B・ラウトの二人がFBIファイルのなかで発見したと発表した。ポポフは明らかにFBIに真珠湾の調査を依頼されていたことを報告した証拠がある、とした。秦郁彦氏の『検証・真珠湾の謎と真実』のなかのP130で「そのフーバーFBI長官は、一度だけ、真珠湾攻撃について証言したことがある。中略。真珠湾爆撃のその瞬間まで絶対的な警戒態勢をとるべしとの指示であった。11月26日に『太平洋の調査員』が入手した情報ということになっている」が、ここの内容はバンコク、シンガポール、クラ地峡であり、真珠湾とは書いていない。明らかに秦郁彦氏のミスで、これはポポフの情報とみて間違いないだろう。ヒトラーも日本の真珠湾攻撃の可能性をコメントしている。 日本側では海軍士官の吉川猛夫を、森村正という名前でスパイとして送り込んでいるので、必要な情報は送られてき...
  • 満州事変
    ...秦郁彦(元日本大学法学部教授)が花谷中将など関係者のヒアリングを実施し、柳条湖事件の全容を明らかにしたものである。花谷中将の証言は秦が整理し、後に花谷正の名で月刊誌『知性別冊 秘められた昭和史』(河出書房)で発表し大反響が出た。後に、秦が事件に係わった他の軍人の聴取内容からも花谷証言の正確性は確認されている。(詳細は秦郁彦『昭和史の謎を追う』上(文春文庫)参考。)。 関東軍の軍事行動 事件現場の柳条湖近くには、中華民国軍の兵営である「北大営」がある。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中華民国兵を射殺し、北大営を占拠した。関東軍は、翌日までに、奉天、長春、営口の各都市も占領した。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行った。...
  • 重光葵
    ...経て、東京帝国大学法学部を卒業する。 外交官として 各国において日本国公使として勤務していたが、昭和5年(1930年)には駐華公使となる。昭和6年(1931年)9月、日本陸軍の一部が突如中国東北部を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著『昭和の動乱』より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。昭和7年(1932年)1月、上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の元、中国との停戦交渉を行う。何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮の独立運動家・尹奉吉の爆弾テロに遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。重光は激痛...
  • 後藤新平
    ...校(現・名古屋大学医学部)で医者となる。ここで彼はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たっている。またこの間、岐阜で遊説中に暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。後藤の診察を受けた後、板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と口にしたという。またこの時期安場の次女、和子を妻にもらう。 医師として高い評価を受ける一方で、先進的な機関で西洋医学を本格的に学べないまま医者となったことに強い劣等感を抱いていたとも伝わっている。 明治15年(1882年)2月、愛知県医学校での実績を認められて内務省衛生局に入り、医者としてよりも病院・衛生に関する行政に従事することとなった。 明治23年(1890年)、ドイツに留学。西洋文明の優れた一面を強く認識する一方で同時にコンプレックスを抱くことになったという。帰国後、留学中の研究の成果を認められて医学博士号を与えら...
  • 松岡洋右
    ...の末、オレゴン大学法学部に入学、明治33年(1900年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられる三輪(1989)、p.33。が、母親の健康状態悪化などを理由に明治35年(1902年)、9年振りに帰国する。 外務省時代 帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明治大学の前身)に籍を置きながら東京帝国大学を目指すことにした豊田(2003) 上巻 p.68、『松岡洋右 その人と生涯』pp.49-50。。しかし帝国大学の授業内容を調べ物足りなさを感じた洋右は、独学で外交官試験を目指すことを決意。明治37年(1...
  • 広田弘毅
    ...学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学生時代から山座円次郎ら外交官の私邸に出入りし、1903年(明治36年)には満州・朝鮮の視察を命じられている。大学卒業後1905年(明治38年)に外交官試験を受けるが英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備え、翌年には首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂、武者小路公共、林久治郎らがいる。 外交官時代 1907年(明治40年)、清国公使館付外交官補として北京に在勤、その後は三等書記官としてロンドンの在英大使館に赴任。5年後、本省の通商局第一課長となり第一次世界大戦後、中国への「対華21ヶ条要求」の条約作製に参加するものの最後通牒の形で出すことには強く反対した。1919年(大正8年)、ワシントンに赴任することになり、その際サンフランシスコに着くと外務省の役人として初めて日本人移民村の視察を行い、移民たちから歓迎を受...
  • 坂本龍馬
    ...考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年)・佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(吉川弘文館、2004年)・井上勲「大政奉還運動の形成過程(一)」(『史学雑誌』81-11、1972年)などが参考になる。を全く考慮に入れていないところが最大の問題で、その点で根拠が弱い。この説には一部で熱狂的な支持者がいる幕藩側に立って書かれた大河ドラマ『新選組!』やテレビ東京新春ワイド時代劇『竜馬が行く』ではこの説に則って龍馬の暗殺を描いている。時空警察 PART4でもこの説に基づいて龍馬暗殺犯を解説するなど、テレビ・小説などではこの説を採用することが多く、一般ではこの説を信じている人が多い傾向が見られる。ものの、歴史学界ではほとんど相手にされていないのが実情薩摩藩陰謀説が成り立たないことを政治史的な観点から論証したものに、桐野作人「龍馬遭難事件の新視角-海援隊士・佐々木多門書状の再検討- 第1回・...
  • 坂本龍馬-2
    ...考-」(『京都大学文学部研究紀要』41、2002年。高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館、2007年に再録) 高橋秀直「幕末史の中の薩長同盟」(『幕末から明治へ』同志社大学人文科学研究所、2004年) 北野雄士「横井小楠と坂本龍馬-その共通性と異質性-」(『大坂産業大学人間環境論集』3、2004年) 田中彰「天保の青年たちの「明」と「暗」」(『歴史読本』49-7、2004年) 三野行徳「坂本竜馬と幕府浪士取立計画-杉浦梅潭文庫「浪士一件」の紹介を兼ねて-」(『歴史読本』49-7、2004年) 松下祐三「薩長商社計画の虚実」(『歴史読本』49-7、2004年) 前田宣裕「竜馬暗殺と会津藩」(『歴史読本』49-7、2004年) 井上勲「開国と幕末の動乱」(井上勲編『日本の時代史20 開国と幕末の動乱』吉川弘文館、2004年) 中城正堯「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊-...
  • 日朝関係史
    ...つつある。静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中国東北部から朝鮮半島を原産とする改良種群には、当該遺伝子の存在が確認されないことが明確になっている。 また、炭素分析法による年代分析においても、日本での炭化米は紀元前4000年程度まで溯る事が確認されており、これらの証左をもって、東南アジアから南方伝来ルートが日本への稲作伝来ルートであったようである。そのため、各種歴史教科書の稲作の伝来経路も修正されつつある。 この頃の朝鮮は三国時代にあった。日本(倭国)は、6世紀頃まで任那や百済との外交関係を通じて朝鮮半島と関わりをもっていた。朝鮮三国は主導権をめぐって争っていた。広開...
  • @wiki全体から「学部」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。