chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「家禄」で検索した結果

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  • 秩禄処分
    ...族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 明治初期の財政 江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。 江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石、20万3376両の出費となり、華士族に対する家禄支給は歳出の30パーセント以上を占めていた。...
  • 士族反乱
    ...秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う文明開化、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入、朝鮮出兵を巡る征韓論で政府が紛糾し、明治六年の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれる。 1874年には江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年(明治9)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧される。1877年には鹿児島県で私学校生徒ら薩摩士族が西郷を擁立して、最大規模となる西南戦争が起こるが、これも士族側の敗戦に終わった。 西南戦争以後に、不平士族の反対運動は国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動に移行する。 関連項目 日本史の出来事一...
  • 後藤象二郎
    ...の功によって中老職、家禄700石。のち執政に就任、役料を合わせて1500石に栄進している。 慶応4年(1868年)、パークス襲撃事件の際の功績により、中井弘蔵と共に英国ビクトリア女王から、名誉の宝剣を贈られている。 明治時代 明治期には徴士として新政府への参加を皮切りに、参議、参与などに就任するが、明治6年(1873年)に板垣退助・西郷隆盛らと共に征韓論争に敗れて公職を離れる。 しかし翌年には板垣退助、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を組織し、民選議院設立を申し立てたが成功しなかった。明治14年(1881年)には再び板垣を中心に、自由党を設立した。 のちには薩長政府の懐柔策に応じて協力に転じ、黒田内閣や第1次松方内閣で逓信大臣、第2次伊藤内閣で農商務大臣に就任している。その後も政界にて活躍して、進歩党結成にも尽力している。 また実業家としての一面もあり、明治7年(1874年...
  • 加藤友三郎
    ...れる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。 明治17年(1884年)10月、海軍兵学校7期卒業。明治21年(1888年)11月、海大甲号学生。日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、黄海海戦に大いに活躍した。日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。東郷平八郎司令長官と加藤参謀長は弾丸あめあられの中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の志気を鼓舞した。その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、大正4年(1915年)8月10日、第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年8月28日、海軍大将に昇進。以後、加藤は寺内正毅・原敬・高橋是清と3代の内閣で海相に留任。大正10年(1921年(大正10)、ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。大正11年(1922年)6月12日、政友会に支持され...
  • 兒玉源太郎
    ...テロにより惨殺され、家禄を失った一家は困窮した。 熊本鎮台准参謀時の明治9年(1876年)には神風連の乱鎮圧、同鎮台参謀副長(少佐)時の明治10年(1877年)には西南戦争・熊本城籠城戦に参加。鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護りきる。この経験が後の日露戦争に生かされる事となる。ちなみに、この時東京から現地へ真っ先に送られた電報「児玉少佐ハ無事ナリヤ」は、当時24歳の一少佐にかける期待がどれほどのものであったかを物語る逸話として有名。 台湾総督時代には、日清戦争終了後の防疫事務で才能を見いだした後藤新平を総督府民政長官に任命し、全面的な信頼をよせて統治を委任した。後藤は台湾人を統治に服せしめるため植民地統治への抵抗は徹底して弾圧しつつ、統治に従ったものには穏健な処遇を与えるという政策をとり、統治への抵抗運動をほぼ完全に抑えることに成功した。二人...
  • 黒田清隆
    ...て生まれた。黒田家は家禄わずか4石の下級武士だった。 長じて砲手になった。文久2年(1862年) 6月の生麦事件には、随行の一人としていあわせたが、自らは武器を振るわず、抜刀しようとした人を止めたという。なお、黒田自身は示現流門下でも有数の使い手で、後年宗家の東郷重矯より皆伝している。 文久3年(1863年)、薩英戦争に参加した後、江戸で砲術を学び、皆伝を受けた。慶応2年(1866年)の薩長同盟に際しては、盟約の前に薩摩側の使者として長州で同盟を説き、大坂で西郷隆盛と桂小五郎の対面を実現させた後、再び長州に使者として赴いた。 戊辰戦争 慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年3月、北陸道鎮撫総督高倉永祜の参謀に、山県有朋とともに任命された。北越戦争に際して、黒田は長岡藩を降伏させて河井継之助を登用すべきと考え、河井に書簡を送っ...
  • 木戸孝允
    ...(養父:桂九郎兵衛(家禄150石))、長州藩の大組士という武士の身分と秩禄を得る。翌年、桂家の養母も亡くなったため、生家の和田家に戻って、実父、実母、次姉と共に育つ。 少年時代は、病弱でありながら、他方、いたずら好きの悪童でもあった。萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉(かいさい・かいや)を叫ぶといういたずらに熱中していた。あるとき、水面から顔を出し「さあ船をひっくり返そう」と船縁に手をかけたところを、業を煮やしていた船頭に櫂(かい)で頭を叩かれてしまう。小五郎は、想定の範囲内だったのか、岸に上がり、額から血を流しながらも、ニタニタ笑っていたという。この当時の、いたずら好きとしての勲章が額の三日月型の傷跡として後世まで残り続ける(写真では見えない)。 10代に入ってからは、藩主毛利敬親による親試で二度ほど褒賞を受け(即興の漢詩と『孟子』の解説)、長州藩の若き俊英と...
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