chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「尊王攘夷運動」で検索した結果

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  • 尊王攘夷
    尊王攘夷(そんのうじょうい、尊攘)とは、天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという表現で、江戸幕末に革命の旗印になり、各藩や公家または幕府内の間で熱く論じられた思想である。 概要 国の存在の根拠としての尊王と、侵掠・侵入してくる外敵に対抗する攘夷が結びついたもの。「王(きみ=天子)を尊び、夷(い=外国人)を攘(はら)う」の意。古代中国において、周王朝の天子(王)を尊び、王朝を守るため侵入する夷狄(いてき=周辺諸民族。この時代の夷狄は南方の楚を指していた)を打ち払う、という意味で使われた言葉を、国学者が輸入して流用したものである。なお、中国では、周の天子(王)を「王」のモデルとしていたことから、本来「尊王」と書くが、尊王論が日本に受容されるに際して「王」とは天皇のことであるという読み換えが行われたことから、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏ま...
  • 征韓論
    ...して朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。 明治維新後に対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気おおいにあがっていた。明治3年2月、明治政府は佐田白茅、森山茂を派遣したが、佐田は朝鮮の状況に憤慨し、帰国後、征韓を建白した。「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A01100124300、国立公文書館)9頁に次のように記されている:「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑 覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力涖焉、則不爲我用 也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於 皇國、君辱臣死、實不戴...
  • 攘夷論
    攘夷論(じょういろん)は、日本に於いては、江戸末期に広まった考えで、夷人(外国人)をしりぞける。つまり外国人を実力行使で排斥しようという思想。元は中国の春秋時代の言葉。 帝国主義の発想を持つ欧米のアジアへの接近(侵略・進出・植民地化)により、それまでの江戸の天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を維持したいという発想として盛り上がった。 概要 元々は朱子学を重んじた水戸学から発して全国に尊皇攘夷思想として広まった。だが、それが勤皇思想と結んだ結果において倒幕と言うエネルギーに一転した。これは一種のすり替えであった。 開港以後は、国学の発展によって強化されつつあった日本は神国であるというナショナリズムの発想である尊皇論と結びつき、尊皇攘夷論となって諸藩の志士や公卿によって支持された。 しかし薩英戦争や下関戦争において外国艦隊との力の差に直面したことにより、単純な攘夷論に対する批判...
  • 皇国史観
    ...礎が作られた。幕末の尊王攘夷運動の過程で強化され、明治維新後には政治体制によって正統な歴史観として確立した。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。 その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も...
  • 尊王論
    尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。 尊王論は、武力(覇道)をもって支配する「覇」(覇者)に対し、徳(王道)をもって支配する「王」(王者)を尊ぶことを説く。中国においては「王」のモデルは古代周王朝の王であったことからもともと「尊王」と書いた。尊王論が日本に受容されるに際して、日本では天皇が「王」であり、江戸幕府の将軍が「覇」であると読み換えられたが、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏まえて「尊皇」という漢字に置き換えて用いることもあった。 幕藩体制においては、朝廷は幕府の制約を受けていたが、権威的秩序、宗教的な頂点の存在として位置づけられた。幕政改革の混乱や、異国船の来航による対外的緊張など政治的混乱が起こると、幕府は秩序維持のため大政委任論に依存して朝廷権威を政治利用し、朝廷の権威...
  • 幸徳秋水
    ...なお、妻の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。 明治20年(1887年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。新聞記者をめざし、『自由新聞』などに勤めた。明治31年(1898年)より『万朝報』記者となる。 国民英学会などで学び、明治33年(1900年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党がかつての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを受け、万朝報に「嗚呼自由党死すや」と書き記した「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。 明治34年(1901年)、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を道徳的な見地から批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。また、この年田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず幸徳が書き、田中が手を加えたものである(田中が直訴状の執筆を...
  • 佐幕
    佐幕(さばく)は、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。 しばしば倒幕派と対比するために佐幕派とも呼ばれる。 佐幕といっても、勤王・攘夷の志はあるものの、朝廷より征夷大将軍の宣下を受けて大政を預かっている幕府あってこその尊王攘夷である、という考えを持つものもいた(尊皇佐幕)。佐幕は朝廷に反対意見で対抗した。 関連項目 征夷大将軍 徳川将軍家 新撰組 戊辰戦争 彰義隊 奥羽越列藩同盟 五稜郭 蝦夷共和国 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 09 41。     
  • 西郷従道
    ...奉する精忠組に加入、尊王攘夷運動に身を投じる。 文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受ける。従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起ると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。 明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。明治3年(1870年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。 明治6年(1873年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野。薩摩藩出身者の多くが従うが従道は政府に留まる。明治7年(1874年)に陸軍中将となり、同年の台湾出兵では蕃地事務都督として軍勢を指揮。隆盛が明治10年(1877年)の西南戦争で敗死すると、代わって薩摩閥の重鎮とな...
  • 幕末
    Template 日本の歴史? 幕末(ばくまつ)とは、ある幕府による国内統治の末期のことをいう。単に「幕末」といった時は、江戸幕府末期の時代(19世紀半ば)を指す。 概説 幕末の期間に関する厳密な定義はないが、嘉永6年(1853年)の黒船つまりアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍のサスケハナ号、サラトガ号、ポーハタン号、ミシシッピ号による艦隊の来航から、慶応3年(1867年)に徳川慶喜が大政奉還をおこなって幕府が日本の全国政権としての地位を失い、翌1868年に明治天皇が即位して元号が「明治」と改元されたときまでとするのが、一般的である。幕府という名目が失われた大政奉還(1867年)、旧幕府軍による抵抗が終了した箱館戦争の終戦(1869年)、幕藩体制が完全に終結した廃藩置県(1871年)なども画期となりうる。 幕末は、徳川宗家の当主が征夷大将軍職に就き、幕府の主宰者とし...
  • 副島種臣
    {{政治家 |各国語表記 = そえじま たねおみ |画像 = Taneomi Soejima 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1828年10月17日(文政11年9月9日) |出生地 = 肥前国佐賀藩 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 弘道館 |所属政党 = 愛国公党 |称号・勲章 = 勲一等旭日桐花大綬章、伯爵 |配偶者 = |サイン = |国旗 = JPN |職名 = 第3代外務卿 |就任日 = 1871年11月4日 |退任日 = 1873年10月28日 |退任理由 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第7代内務大臣 |内閣2 = 第1次松方内閣 |就任日2 = 1892年3月11日 |退任日2 = 1892年6月8日 |退...
  • 岩崎弥太郎
    岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。 人物 土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。 幕末、土佐藩参政吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事する。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国、職を辞した。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され、坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当した。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、...
  • 下関戦争
    下関戦争(しものせきせんそう)とは、幕末に起きた馬関戦争(ばかんせんそう)の現代的表現である。 馬関戦争は、幕府による安政の開国(1854年)後も過激な攘夷政策をとっていた長州藩と、英 仏 蘭 米の列強四国との間に起きた、前後二回にわたる武力衝突事件である: 前段: 1863年(文久三年)5月、攘夷実行という大義のもと長州藩が馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖、航行中の米仏商船に対して砲撃を加えた。約半月後の6月、報復として米仏軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。 後段: 1864年(元治元年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていた英国は、長州に対する懲戒的報復措置をとることを決定し、仏 蘭 米の三国に参加を呼びかけて、艦船17隻で連合艦隊を...
  • 条約改正
    条約改正(じょうやくかいせい)とは、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約を改正するための外交交渉をさす。 概説 江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結ぶ。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある川島信太郎『条約改正関係日本外交文書別冊・条約改正経過概要』(日本国際連合協会 1950年)35ページ)内容であった。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになった。 江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を...
  • 岩倉具視
    ...まぐるしい情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井と親しくしていたことなどから尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていった。そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。公卿正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で岩倉具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白近衛忠煕に提出するにいたる。いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。岩倉は逆ら...
  • 南進論
    南進論(なんしんろん)とは、日本が南方地域へ進出すべきであるという第二次世界大戦前の対外論である。 概要 古くは明治時代から提唱され台湾領有や第一次世界大戦後の南洋諸島の委任統治の際にも論じられ、特に日中戦争の頃に主唱された。初期の南進論は必ずしも日本による領土拡張や軍事的進出と結びついたものではなかったが、1930年代以降、日本における「自存自衛」理念他国から見るともちろん侵略行為である。また大東亜戦争も危機的な情勢としては日露戦争と同様に生存戦争だが、日本人自身も戦後教育のため、「軍国主義による侵略戦争」として捉えられることが多い。但し、盧溝橋事件後の日中戦争については自他共に認める侵略行為で、結果的に自らの首を絞め、太平洋戦争を起こす要因となった。と結びつき、「武力による南進」が志向されるようになった幕末に佐久間象山などが唱えた攘夷運動(外国の力を取り入れ、日本が植民地になる...
  • 天皇制
    天皇制(てんのうせい)は、天皇を君主又は象徴とする国家体制。特に天皇を元首又は象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置付けている。明治後期から敗戦までは天皇制などと表現することは不敬な表現であり、国体(=くにがら、くにぶり/漢書成帝紀)とよばれた。 概要 「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄...
  • 井上馨
    {{政治家 |各国語表記 = いのうえ かおる |画像 = Kaoru Inoue 4.jpg |画像説明 = 井上馨 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1836年1月16日 |出生地 = 周防国湯田村 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 静岡県静岡市 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位大勲位、侯爵 |配偶者 = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 初代外務卿 |内閣 = |当選回数 = |就任日 = 1879年 |退任日 = 1885年 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代外務大臣 |内閣2 = 第1次伊藤博文内閣 |当選回数2 = |就任日2 = 18...
  • 山縣有朋
    Template 日本の内閣総理大臣? Template Infobox 軍人? 山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日は、日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。 奇兵隊を率いて倒幕で活躍。明治新政府では日本陸軍の基礎を築いた。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。 経歴 幕末期 萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。 久坂玄瑞の紹介で吉田松陰が主催する...
  • 伊藤博文
    Template 日本の内閣総理大臣? 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の政治家である。 明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老。位階勲等は従一位大勲位。爵位は公爵。称号は名誉博士(エール大学)。死後に大韓帝国より功績を讃えられ、「文忠公」の諡号が送られた。 幼名は利助、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。名の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある。 生涯 幼年期 - 挙兵 周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻...
  • 陸奥宗光
    {{政治家 |各国語表記 = むつ むねみつ |画像 = Munemitsu Mutsu 2.jpg |画像説明 = 陸奥宗光 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1844年8月20日 |出生地 = 紀伊国名草郡(現・和歌山県和歌山市) |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 西ヶ原本邸(現・東京都北区西ヶ原) |出身校 = 神戸海軍操練所 |前職 = 海援隊隊士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正二位勲一等伯爵 |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 陸奥蓮子陸奥亮子 |サイン = |国旗 = 日本 |職名 = 第8代外務大臣 |内閣 = 第2次伊藤内閣 |当選回数 = |就任日 = 1892年8月8日 |退任日 = 1896年5月30日 |退任理由 = 肺結核...
  • 木戸孝允
    {{政治家 |各国語表記 = |画像 = Takayoshi Kido suit.jpg |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = 天保4年6月26日(1833年8月11日) |出生地 = Template JPN?長門国・萩・呉服町(現:山口県・萩市) |没年月日 = 明治10年(1877年)5月26日 |死没地 = |出身校 = |前職 = 長州藩士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 木戸松子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第2代文部卿 |就任日 = 明治7年(1874年)1月25日 |退任日 = 明治7年5月13日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第2代内務...
  • 国体
    国体(こくたい)は、天皇が、すべしろしめす日本の国柄を指す。  概要 国体とは、「神の御子孫たる皇孫が、天地が果てることの無きが如く、統べ治め給う。」皇典編纂局編『熊沢天皇箴言集』第2巻、247頁 1942年、皇典編纂局。 というわが国固有の御神勅に基づく国のあり方を中心的観念とする。『国体の本義』には以下のようにある。「天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)宝祚(あまつひつぎ)の...
  • 五四運動
    五四運動(ごしうんどう)は1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がった反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五・四運動、5・4運動とも表記される。 背景 遠景―世界的ナショナリズムの高揚とロシア革命― 近代とは帝国主義という嵐が席巻して世界を一つにした時代であり、アヘン戦争以来、中国も列強からの侵略にさらされた結果、その近代の嵐に巻き込まれ世界の一つに組み込まれるようになった。しかしやがてそうした帝国主義に風穴をあけるような事件が世界各地で起き、中国もそれに大きな影響を受けた。それがロシア革命(1917年)、ウッドロウ・ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)、三一運動(1919年)である。これらは中国におけるナショナリズムの高揚を促進させたといえる。 近景―反日気運の...
  • 護憲運動
    護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。 第一次憲政擁護運動 第一次憲政擁護運動の背景と発端 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このよう...
  • 融和運動
    融和運動(ゆうわうんどう)とは、戦前の日本における被差別部落の地位向上、環境改善のための運動である。 水平運動との比較 差別糾弾的傾向の強かった水平社運動に対し、融和運動は一般国民以上に天皇への忠誠を誓い、国粋主義者や富裕層の力を借りる事によって部落民の地位向上を実現しようとした。戦後、水平社の思想が部落解放同盟や全解連に引き継がれたのに対し、融和運動の思想は自由同和会や全日本同和会へと引き継がれた。 歴史 明治時代に部落出身の代議士森秀次、和歌山の郷土史家岡本弥らによって始められた。大正時代には、1914年に大江卓が帝国公道会を設立、1921年に華族で東京帝国大学助教授だった有馬頼寧が同愛会を設立、1925年にはこれらの団体を結集した全国融和連盟が発足した。1925年には国粋主義者の平沼騏一郎を会長とする中央融和事業協会(中融)が発足した。昭和初期には、ファシズム台頭によ...
  • 自由民権運動
    自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。1874年の民撰議院設立建白書以降、藩閥政府による政治に対して、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の改正、言論と集会の自由の保障などの要求を掲げた。1890年の帝国議会開設頃まで続く。 運動のはじまり 1873年の征韓論政変により下野した板垣退助は1874年、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成、民撰議院設立建白書を政府左院に提出し、高知に立志社を設立する。翌年1875年には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、すぐに消滅する。江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、武力闘争と紙一重であった。しかし、武力を用いる士族...
  • 大同団結運動
    大同団結運動(だいどうだんけつうんどう)とは、1887年-1889年に発生した帝国議会開設に備えた自由民権運動各派による統一運動。 自由民権運動は政府の弾圧によって衰微し、自由党は解党、立憲改進党も休止状態にあったが、1887年にいわゆる三大事件建白運動が発生すると、かつての自由党の領袖である後藤象二郎は自由民権運動各派が再結集して来るべき第1回衆議院議員総選挙に臨み、帝国議会に議会政治の打ち立てて条約改正や地租・財政問題という難題にあたるべきだと唱え、3月に旧自由党・立憲改進党の主だった人々に呼びかけたのがきっかけである。 だが、自由党元総裁板垣退助は自分が疎外された事から運動から距離を置き、立憲改進党の大隈重信も懐疑的であった。これに対して政府は同年12月26日に保安条例を制定して活動家の弾圧を始める一方、翌1888年2月には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣として入閣させて立憲改...
  • 新体制運動
    新体制運動(しんたいせいうんどう)とは、昭和初頭から昭和20年(1945年)の敗戦にかけての日本において約20年間、主張された政治運動。 日本におけるファシズム運動であるという認識が根強いが、あくまで天皇の輔弼を目的とし、ナチス・ドイツ型の政治体制をとったわけではないため、この語は適当ではないといわれる。主に大政翼賛会に代表される。 バスに乗り遅れるな 新体制運動が進められた背景には、世界的なファシズムの台頭が挙げられる。当時、欧米諸国、とりわけソビエト連邦・イタリア・ドイツで一党独裁による挙国一致体制が進められていた。世界恐慌から通ずる情勢不安において、これらの国々が経済成長(不況脱却)をしているかのように見受けられたことから、全体主義こそが今後の世界の指針になりうると考えられた。 日本の知識人、特に時の首相、近衛文麿はこれを世界的潮流と認識し、やがて世界は「ソ連」、「ドイツ・イ...
  • 台湾抗日運動
    台湾抗日戦争(たいわんこうにちせんそう)とは、1895年の乙未戦争を基点とし、「西来庵事件(タパニー事件)」終息までの約二十年にわたって継続した台湾人による日本植民地支配への武力闘争の中国における呼び名。 概要 台湾民主国 Template main? 1895年に日清戦争の敗北が決定的になった清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。 しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧...
  • 三・一独立運動
    Template 朝鮮の事物? 三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)は、日本統治時代の朝鮮で起こった独立運動。1919年3月1日に起こったことからこう呼ばれる。独立万歳運動や万歳事件とも(日本では三・一運動、三・一事件という名称が一般的)。韓国では3月1日を三一節として祝日に指定している。 背景 第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより 十四か条の平和原則 が発表されている。これを受け、民族自決の意識が高まった日本に留学中の朝鮮人学生たちが東京に集まり、「独立宣言書」を採択したことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。 三一運動の直接的な契機は高宗の死であった。高齢だったとはいえ、その死は驚き...
  • 選挙粛正運動
    選挙粛正運動(せんきょしゅくせいうんどう)とは、1930年代の日本において、普通選挙法制定後に公正明大な選挙の実施を目指して行われた選挙浄化運動の事である。だが、後に変質させられて国家による選挙干渉の手段として用いられて後に翼賛選挙のモデルとされた。 第2次護憲運動の結果、普通選挙法が制定されて政党内閣が慣例化した。だが、その一方で選挙にまつわる買収や贈収賄などの問題も浮上してきた。これを憂慮した後藤新平らによって国民の選挙への関心を高めて啓蒙する事によって選挙にまつわる腐敗を防止しようとした。これが、「選挙粛正(あるいは選挙革正)」と呼ばれるようになる。これを受けて浜口内閣では選挙革正審議会が打ち立てられるが、五・一五事件によって政党内閣は終焉を迎えた。 政党内閣が終わり、中間内閣の時代となると、これに目を付けたのがいわゆる「革新官僚」であった。彼らは政党政治以前にもこうした腐敗があ...
  • 三大事件建白運動
    三大事件建白運動(さんだいじけんけんぱくうんどう)とは、1887年(明治20年)10月に片岡健吉が元老院に提出した建白書(「三大事件建白」)をきっかけに起きた政治運動。大同団結運動と並んで自由民権運動の最後を飾る運動として知られている。 1886年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行うが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示した。このため、小村寿太郎や鳥尾小弥太、法律顧問ボアソナードがこれに反対意見を提出し、更に翌1887年には農商務大臣谷干城が辞表を提出する騒ぎとなった。 これを知った民権派が一斉に政府を非難し、東京では学生や壮士によるデモも起こされた。このような中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあると唱えて、①言論の自由の確立②地租軽減による民心の安定...
  • 天皇-2
    これ以前の内容は天皇参照 天皇の歴史 天皇は日本の歴史において重要な権威を有していたが、実際に君主として統治権を行使していた期間は、天皇が存在していた期間と比べ極端に短く、ほとんどが天皇以外の貴族や武家、官僚などによって統治権は行使されている。とりわけ鎌倉幕府成立以後は武家の棟梁の一族が代々世襲で征夷大将軍に就任し、少なくとも基本的に内政や外交では日本の最高権力者として君臨してきた。しかし、天皇の地位がそれらの権力者によって廃されたことはなく、時の権力者も形式上はその権威を尊重し、それを背景に地位についていたことが多い。例えば全国に支配権を敷いていた武家政権の君主である征夷大将軍への就任も形式上は天皇の宣下によって行われることになっており、その権力者は天皇の権威を利用し、その政敵を朝敵(天皇の敵)などに指定させ、その統治権を正当化することが多かった。ただし、外交において有事が発生し...
  • 木戸孝允-2
    前半は木戸孝允を参照 人物 木戸孝允の苦悩の原因 木戸自身は、文明開化を自ら実践し、自ら世間に開明諸施策を率先して推進し続けた大胆かつ繊細な開明派である。ところが同時に、安政の大獄や新選組や長州征伐や戊辰戦争など数々の修羅場の経験に裏打ちされた用心深い漸進(ぜんしん)派でもある。 このため、木戸は、開明思想乏しくして明治政府に参加してしまった守旧派からも、また、現実や経験を踏まえず輸入物の知識による理念だけで権力闘争したがる急進派からも、上策ないし是とは判断し得ない下策をいちいち訴えられ続けた。つまり真反対の両方向から全く相異なる苦悩を同時に抱え込まされ続けるという非常に割に合わない難業に木戸は耐え続けていたことになる。 そのため、病気が再発・悪化した明治6年以降は、明治政府とはしばしば明確に距離を置き始める。 そして、一方ではその当時としては余りにも先見的な提言を残した...
  • 安重根
    Template 朝鮮の事物? 安重根(アン・ジュングン、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は朝鮮の民族主義運動家。両班の家庭に生まれた。伊藤博文の暗殺者として有名。キリスト教徒であり、洗礼名はトマス。日本語読みは「あん じゅうこん」。 事績 1905年以降、大韓帝国に於ける日本の影響力が増したことに憤激し、抗日義兵闘争を組織。亡命を繰り返す。1909年10月26日、哈爾浜駅の構内にて、韓国統監府初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文を暗殺した。伊藤は満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ココフツォフと会談するためハルビンに赴いていた。旅順の関東都督府地方院で死刑判決を受け、旅順刑務所で絞首刑に処せられた。 彼の決意の堅さを表すものとして、同志と共に薬指を切り、その血をもって国旗に大韓独立の文字を書いたという断指同盟の逸話が伝わっている。 獄中で安の取調べを行った日...
  • 禁門の変
    Template Battlebox? 禁門の変(きんもんのへん)は、江戸時代後期の元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた事変。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)、元治甲子の変とも呼ばれる。 「禁門」とは「禁裏の御門」の略した呼び方である。蛤御門の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為である。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていた。禁門の変が蛤御門の変とも呼ばれるのは、蛤御門付近が激戦区であった為である。その為今も門の梁には弾痕が残る。 概要 尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変で京都を追放されていた。 ...
  • 三条実美
    三条 実美(さんじょう さねとみ、正字体:三條 實美、天保8年2月7日(1837年3月13日)- 明治24年(1891年)2月18日)は、江戸時代後期、幕末から明治の公卿、政治家である。明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。 藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。父は贈右大臣実万、母は土佐藩主山内豊策の女紀子。妻は関白鷹司輔煕の九女治子(1848-1924)。「梨堂」と号す。華族制度の発足後は本人の功が考慮され公爵となった。 来歴 三條實美は安政元年(1854年)、兄の三条公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として、文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年国事御用掛となった。長州と密接な...
  • 明治六年政変
    明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われ...
  • 神戸事件
    right|180px|thumb|当時のものと同型の[[大砲]] 神戸事件(こうべじけん)とは慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸三宮神社前で備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させた事件である。明治政府初の外交問題となった。 この事件により一時、外国軍が神戸中心部を占拠するなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た。 相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けた。 事件の発端 慶応4年1月3日(1868年1月27日)、戊辰戦争が開戦、間も無く、徳川方の尼崎藩(現・兵庫県)を牽制するため、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警備を命じた。備前藩では1月5日(1月29日)までに2,000人の兵を出撃させ、このうち家老・日置帯刀(へきたてわき)率いる500人(800人説もある)は...
  • 西郷隆盛
    Template Infobox 軍人? 西郷 隆盛(さいごう たかもり、文政10年12月7日〈グレゴリオ暦1828年1月23日・ユリウス暦1828年1月11日〉 - 明治10年〈グレゴリオ暦1877年〉9月24日)は、日本の武士・薩摩藩士、軍人、政治家。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。 人物 名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。西郷家の家長は吉兵衛と名乗り、西郷の本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う、初代は熊本より鹿児島に移り住む、幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛の名は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大...
  • 李氏朝鮮-2
    前半は、李氏朝鮮参照 開国圧力と大韓帝国 - 高宗時代前期~中期 59年間に渡る安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなくなっていたために、手をこまねいているしかなかったが、その中から安東金氏より権力を取り戻そうという動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)とTemplate lang?応(Template lang?は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。Template lang?応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明...
  • 大隈重信
    Template 日本の内閣総理大臣? 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現:早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。 略歴 生い立ち 佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政...
  • 生麦事件
    生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件である。この事件の賠償問題から薩英戦争が起こり、結果として、薩摩藩とイギリスが相互理解を深めるきっかけとなった。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。 事件の概要 thumb|350px|『生麦之発殺』早川松山画 明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは[[島津久光と小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。]] 文久2年(1862年)、薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。...
  • 王政復古 (日本)
    王政復古(おうせいふっこ)は、江戸時代末期の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に討幕派の計画により「天皇親政」が宣言された政変である。 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)とも呼ばれる。 経過 江戸時代後期には、諸外国との通商条約の締結などを巡って、朝廷の伝統的権威が復興し、幕府と朝廷の提携による公武合体政策が取られたが、一方では尊皇攘夷派など反幕府思想、武力による倒幕運動が存在した。 土佐藩からの建言もあって、第15代将軍徳川慶喜は公議政体論に基づき、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)、264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上し討幕の名分を失わせた。ただし、徳川家は天皇の下に一元化された政治の中枢に入り、引き続き実権を掌握する事を想定していた。 朝廷は新たな公議政体を創設するため、徳川...
  • 日米修好通商条約
    日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)は、安政5年6月19日(グレゴリオ暦1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結んだ(安政五ヶ国条約)。 この不平等条約の改正は、日本が日清戦争において清に勝利した後で、明治32年(1899年)7月17日に日米通商航海条約(昭和15年(1940年)1月26日失効)が発効されたことにより失効した。 経緯 日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかし、ハリスの強硬な主張により、交渉担当者の間で通商条約やむを得ずという雰囲気が醸成されると、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲...
  • 坂本龍馬-2
    前半は坂本龍馬-2参照 文献 原典 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社 各巻タイトル 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p907 - 952 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補改訂版 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p987 - 1032 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p1045 - 1090 1988年12月、岩崎英重...
  • 光州学生事件
    Template 朝鮮の事物? 光州学生事件(こうしゅうがくせいじけん、Template Lang?)、あるいは光州学生独立・光州学生運動は、1929年に朝鮮の光州で起こった学生による民族運動。 1929年10月30日、全羅南道の羅州行きの列車で日本人中学生生徒の福田修三らが朝鮮人女子生徒の朴己玉らをからかい、朴己玉の従兄弟の朴準埰が福田を殴りながら 日本人生徒と朝鮮人生徒の間に決闘が始まった。警察が朴準埰と朝鮮人生徒だけを逮捕したので、生徒の不満が高まった。これが原因となり、11月3日、朝鮮人生徒らは 日本警察や歪曲報道をした光州日報に抗議をしながら朝鮮人学生と日本人学生の衝突が発生し、警察が朝鮮人学生を検挙した。このことが光州高等学校の高校生を激高させ、 検挙者の釈放を求めるとともに日本による植民地政策を批判して示威運動を展開した。その中250人の朝鮮人が逮捕され、朝鮮人生徒...
  • 大同協和会
    大同協和会(だいどうきょうわかい)は、日本最初の自由党解散後、大同団結運動の一片として、1889年 (明治22年) 5月10日に結成され、翌1890年 (明治23年)1月21日に解散した。 1884年に自由党が解散してからしばらく後、1886年に民権派政治家の力を結集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。1889年にはこの運動に沿った組織結成の機運が高まったが、この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬養毅ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。そして大同団結運動の主導者であった後藤象二郎が突如黒田内閣の逓信大臣として入閣して運動からの離脱を表明したのを機に両派は4月に決別し、5月に政社派の団体として大同倶楽部が、非政社派の団体として大同協和会が発足した。 大井は新井省吾・小久保喜七・石阪昌孝らとともに自由党再興を目指して運動を繰り広げる...
  • 治安警察法
    Template 日本の法令? 治安警察法(ちあんけいさつほう)は、かつて日本に存在した法律。日清戦争の後、高まりを見せ始めていた労働運動を取り締まるために、それまで自由民権運動を念頭に置いて政治活動の規制を主な目的としていた集会及政社法に、労働運動の規制という新たな役割を付加した上で継承発展させる形で制定された。 沿革 明治33年(1900年) 2月23日に制定、同年3月10日公布、3月30日施行された。 大正11年(1922年)、大正15年(1926年) 一部改正。 昭和20年(1945年) 第二次世界大戦後のGHQの指令に基づき、昭和20年(1945年)11月21日「治安警察法廃止等ノ件(昭和20年勅令第638号)」により廃止となる。 内容 全33条より成る。治安維持法とともに戦前の有名な治安立法として知られる。 第17条はストライキを制限するもので...
  • 大正デモクラシー
    大正デモクラシーとは日本の大正時代に現れた政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動を指す。何をもって「大正デモクラシー」とするかの定義については諸説あり、その定義によって大正デモクラシーと呼称される期間もTemplate 和暦?-Template 和暦?とする説、Template 和暦?-Template 和暦?とする説、Template 和暦?-Template 和暦?とする説など諸説あるが、いずれも大正天皇の在位期間(Template 和暦?-Template 和暦?)を中心とし1918年の第一次世界大戦の終了と富山県で発生した米騒動をデモクラシー運動はじまりの中核として取り上げる点については共通している。 概要 大正デモクラシー運動(あるいは単に大正デモクラシー)は、大正時代に興った日本全体を巻き込む民主主義的あるいは自由主義的な風潮・思潮の総称であり、政治...
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