chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「小学館」で検索した結果

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  • 大川周明
    ...による解説書がある。小学館 2006年 『回教概論』(1942年 中公文庫 1991年、ちくま学芸文庫 2008年) 『古蘭』(1950年) 『安楽の門』(1951年)大川周明顕彰会 1988年 『大川周明全集』(1961年-1974年) 『大川周明集 近代日本思想大系21』橋川文三編集解説 筑摩書房 1975年  『頭山満と近代日本』春風社 2007年 『道 大川周明道徳哲学講話集/人格的生活の原則・中庸新註 大川周明道徳哲学講話集』 『特許植民会社制度研究 大航海時代から二十世紀まで』 各書肆心水 2008年 おもな研究書 松本健一『大川周明』(岩波現代文庫、ISBN 4006030991) 大塚健洋『大川周明』(中公新書、1995年、ISBN 4121012763) 『大川周明日記明治36年~昭和24年』(岩崎学術出版社、1986年) 『大川周...
  • 満鉄調査部事件
    ...団」の見果てぬ夢』 小学館、2004年。ISBN 4096260762。 外部リンク 法政大学大原社会問題研究所『日本労働年鑑特集版;太平洋戦争下の労働運動』第五編第二章「学問研究に対する弾圧」 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月2日 (木) 06 19。    
  • 明治神宮
    ...神宮の森」の秘密』(小学館文庫、1999年) ISBN 4-09-411251-0 内山正雄、蓑茂寿太郎『代々木の森』(郷学舎、1981年) 関連項目 神宮 明治神宮外苑 初詣!爆笑ヒットパレード(フジテレビ系で元日生放送されるテレビ演芸番組。第35回まで製作協力) 代々木公園(隣接) 東京ヤクルトスワローズ 伊勢神宮 井上清 佐野利器 伊東忠太 本多静六 上原敬二 王貞治(明治神宮で結婚式を挙げた) 貴乃花光司(明治神宮で結婚式を挙げた) ジーン・ロッデンベリー(同宮で結婚式を挙げた世界的有名人の一人) 外部リンク Template Commonscat? 明治神宮 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 10 22。 ...
  • 脱亜論
    ...だらけ。心訓小説』 小学館、2006年、229頁、ISBN 978-4093861670。「八、ついに福沢諭吉の最大の謎にぶつかる章」の224-235頁を参照。「日本は文明国だから、中国、朝鮮を支配していい、なんて考えておらず、当然のことながらそんなことは書いていない。むしろ、西洋列強の野望渦巻く苛烈な国際情勢下で、ひとり先に文明開化した日本が独立をまっとうせんがためには致し方なく中国、朝鮮と袂(たもと)を分かたなければいけない……それが脱亜という選択肢である」 なお、最近の研究では、「脱亜論」が時事新報に掲載された無署名論説であることに着目した論説執筆者判定が展開されている。 井田進也『歴史とテクスト―西鶴から諭吉まで』、光芒社、2001年、ISBN 978-4895421898を参照。高橋義雄起草・福沢諭吉加筆または福沢諭吉単独執筆が展開されている。 また、福澤が「脱亜 b...
  • 哲学館事件
    哲学館事件(てつがくかんじけん・てつがっかんじけん)とは1902年に私立哲学館(現在の東洋大学)で発生した事件である。 明治期の初め、学校の卒業と同時に無試験で教員になることができたのは国立の学校のみで私立にはその権利がなかった。しかし、哲学普及のために教育者を育成することを目標としていた私立哲学館の井上円了は私立学校にも卒業生に対して無資格で教員となることができるよう、1890年から当時の文部省に対して陳情を行っていた。文部省からなかなか良い返事をもらえなかった井上は、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)、國學院(現在の國學院大學)、東京専門学校(現在の早稲田大学)と私立学校の連合を組んで再度陳情を行い、1899年に中等学校の教員免許について、卒業と同時に無試験で認可されることとなった。 1902年にはこの4校で最初の卒業生が誕生し、私立学校ではじめての無試験教員が誕生するはずであった。し...
  • 世界恐慌
    ...昭和の歴史 第2巻』小学館 1994年。 共和党のフーヴァー大統領は古典的経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやくフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌のピークだったようで恐慌発生直前と比べて株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。 こうした中、修正資本主義に基いたニューディール...
  • 坂本龍馬-2
    ...12 開国と維新』(小学館、1989年。小学館ライブラリー、1993年) 山田一郎『海援隊遺文』(新潮社、1991年) 井上勲『王政復古』(中公新書、1991年) 宮地佐一郎『龍馬百話』(文春文庫、1991年) 下関市立長府博物館編『坂本龍馬と下関』(下関市立長府博物館、1992年) 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(PHP研究所、1992年) 田中彰『日本の歴史15 開国と倒幕』(集英社、1992年) 吉村淑甫『近藤長次郎』(毎日新聞社、1992年) 宮地佐一郎『中岡慎太郎』(中公新書、1993年) 木村幸比古『龍馬暗殺の真犯人は誰か』(新人物往来社、1995年) 田中彰『幕末維新史の研究』(吉川弘文館、1996年) 菊地明・山村竜也編『坂本龍馬日記』上・下(新人物往来社、1996年) 吉田常吉『幕末乱世の群像』(吉川弘文館、1996年) 青山忠正『幕末維新 / ...
  • 満鉄調査部
    ...団」の見果てぬ夢』 小学館、2004年、ISBN 4096260762 加藤一夫 ほか『日本の植民地図書館 アジアにおける日本近代図書館史』 社会評論社、2005年、ISBN 4784505598 小林英夫『満鉄調査部 「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』 平凡社新書、2005年、ISBN 4582852890 小林英夫『満州と自民党』 新潮新書、2005年、ISBN 4106101424 小林英夫『満鉄調査部の軌跡――1907-1945』藤原書店、2006年 ISBN 4894345447   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月17日 (土) 03 29。    
  • 川島芳子
    ...江礼威『翡翠峡奇譚』小学館 2005年 宮脇明子『槿花一朝の夢 - 昭和の天一坊を呼ばれた男』集英社 2007年 ゲーム シャドウハーツ シャドウハーツII ダブルクロス・サプリメント『アウトランド』掲載「ウィアードエイジ」(テーブルトークRPG) ダブルクロス・リプレイ・トワイライトシリーズ(テーブルトークRPGリプレイ) 川島芳子を演じた女優 川島芳子の伝奇的な生涯はしばしば映画、演劇などの題材となっている。 日本 舞台 水谷八重子 (初代):『男装の麗人』(1932年) 松あきら:『見果てぬ蒼海』 保坂知寿:(劇団四季)『ミュージカル李香蘭』 山崎佳美:(劇団四季)『ミュージカル李香蘭』 濱田めぐみ:(劇団四季)『ミュージカル李香蘭』 椿真由美:(劇団青年座)『MANCHURIA-贋・川島芳子伝』(2000年) 酒井...
  • 1918年米騒動
    ...らつきがある。例えば小学館の『日本大百科全書』では1道3府38県の計368ヶ所としている。。検挙された人員は25,000人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴うち700余名が騒乱罪によるもので起訴されている。され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして和歌山県で2名が死刑の判決を受けている。 被差別部落との関わり 米騒動での検事処分者は8185人におよび、被差別部落からはそのうちの1割を超える処分者が出た。1割は人口比率に対して格別に多かった。これは被差別部落民が米商の投機買いによる最大の被害者層であったからである。処分は死刑をも含む重いものであった。1920年、事態を重く見た原敬内閣は部落改善費5万円を計上し、部落改善のための最初の国庫支出を行った。同年、内務...
  • 朝鮮総督府
    ... 15』1987年 小学館フランク・B・ギブニー著『ブリタニカ国際大百科事典 13』1974年 TBS-Britannica 下中直人編『世界大百科事典』1988年 平凡社。インフラの整備が行われ結果として伝染病の予防や出生率の増加におよび ref name= 朝統 朝鮮総督府『統計年報』 ref name= 文雄 黄文雄『歪められた朝鮮総督府』光文社、教育施設では皇民化教育、日本語やハングル ref name= 基鎬 崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』詳伝社の教育が進められた。これらの政策や事業に対しては批判する意見と評価する意見がある。 概要 朝鮮総督は天皇に直隷し、朝鮮における軍事権、立法権、行政権、司法権を掌握し、広大な権限を行使した。朝鮮総督府には政務総監、総督官房と5部(総務、内務、度支、農商工、司法)が設置されたほか、中枢院、警務総監部、裁判所、鉄道局(朝...
  • 閔妃
    ...日本偽史(野平俊水)小学館 ISBN 4094027165 角田房子の示す明成皇后の写真と説明 「日本人写真師・村上天真撮影の閔妃といわれる写真」 「王宮の多くの官女のうち、明成皇后とおぼしき女性を的確に捕えたのは、まさに写真によってである。」(『韓国写真史』姜相圭、蛍雪出版社参照、参考文献 327ページ) 脚注及び外部リンク『明成皇后の写真はなかった』を参照。 参考文献 「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」講談社学術文庫(著者:Isabella L. Bird、翻訳:時岡敬子、講談社)ISBN 4061593404 近世朝鮮史 (著者:林泰輔、早稲田大学出版部 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館) 「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」(著者:角田房子、新潮社)ISBN 4101308047 「明治100年叢書 288巻 日韓外交史料5 韓...
  • 朝日新聞
    ...『朝日新聞の正義』(小学館) 読売新聞論説委員会編『読売VS朝日 21世紀・社説対決』『読売VS朝日 社説対決・北朝鮮問題』『読売VS朝日 社説対決・50年』(中公新書ラクレ) 城山三郎『鼠 鈴木商店焼打ち事件』(文春文庫) 安田将三+石橋孝太郎(共著)『朝日新聞の戦争責任』(太田出版) 田辺敏雄『朝日に貶められた現代史』(全貌社) 国際情勢風刺寓話集ニホンちゃん 脚註 外部リンク asahi.com:朝日新聞の速報ニュースサイト - 朝日新聞による公式ニュースサイト 朝日新聞アスパラクラブ - 愛読者のクラブ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月11日 (金) 09 11。    
  • 連合国軍最高司令官総司令部
    ...箱」の呪縛を解く』(小学館文庫、2002年) ISBN 4-09-402886-2 甲斐 弦『GHQ検閲官』(葦書房、1995年) ISBN 4-7512-0604-4 占領史研究会 編著『GHQに没収された本 総目録』(サワズ出版、2005年) ISBN 4-87902-023-0 関連項目 Template Commonscat? 連合国軍占領期の日本 極東国際軍事裁判 占領行政 憲法改正 日本国憲法 労働組合 連合軍専用列車 アメリカ教育使節団報告書 冷戦 白洲次郎 マッカーサー・ライン 天皇制廃止論 プレスコード ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム (イラク戦争における)連合国暫定当局 極東委員会 赤線 日本における検閲 外部リンク 国立国会図書館・テーマ別調べ方案...
  • ヨシフ・スターリン-2
    ...審問官スターリン』 小学館 2006年 ISBN 4093875278 アブドゥラフマン・アフトルハノフ著/ 田辺稔訳 『スターリン謀殺―スターリンの死の謎 ベリヤの陰謀』 中央アート出版社 1991年 福田ますみ著 『スターリン 家族の肖像』 文藝春秋 2002年 ISBN 416358160X デービッド・シプラー著/ 川崎隆司監訳『ロシア ‐ 崩れた偶像・厳粛な夢(上・下)』 時事通信社 1984年 ISBN 4788784300、ISBN 4788784319 King, David The Comissar Vanishes, Metropolitan Books, 1997, ISBN 0-8050-5294-1 脚注 Template reflist? 関連項目 Template Wikiquote? Template Commons? ...
  • 平泉澄
    平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月16日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。白山神社第3代宮司、名誉宮司。皇学館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。専門は日本中世史。福井県出身。 戦前戦中に、いわゆる皇国史観を主導し、政治・社会・学界に大きな影響を与えた。 略年譜 1895年(明治28年)、誕生。 1901年(明治34年)、龍池尋常小学校入学。 1905年(明治38年)、成器高等小学校入学。 1907年(明治40年)、大野中学校入学。 1912年(大正元年)、第四高等学校入学。 1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科入学。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学国史学科卒業。 1921年(大正10年)、文部省宗教制度調査嘱託。 1923年(大正12年)、...
  • 国民学校
    国民学校(こくみんがっこう)とは、第二次世界大戦、太平洋戦争の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校のことである。ナチス・ドイツの初等教育に起源をもつ。 国民学校は、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「少国民」の育成がめざされていたともいわれている。 1941年(昭和16年)の国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づいて作られ、6年の初等科と2年の高等科からなり、初等科は、それまでの尋常小学校などを母体とし、高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていた。国民学校令の施行とともに、それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は、すべて国民学校とされた。 国民学校令においては、それまで6年間だった義務教育を8年間に延長する規定が設けられたが、施行が延期され、国民学校令による義務教育期間の延長は行われなかった。 第二...
  • 永田鉄山
    Template Infobox 軍人? 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。 略歴・人物 長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小...
  • 教科書疑獄事件
    教科書疑獄事件(きょうかしょぎごくじけん)は、1902年(明治35年)に発覚した、学校の教科書採用をめぐる教科書会社と教科書採用担当者との間の贈収賄事件である。この時期までの学校教科書は検定制だったが、この事件をきっかけに国定化され、第二次世界大戦終戦まで続いた。 概要 事件の背景 明治期の学校教科書は、当初認可制であった。その後、政府が1886年(明治19年)に「教科用図書検定条例」を定め、翌1887年(明治20年)5月に「教科用図書検定規則」を定めたことで、教科書会社が発行した教科書を検定する制度が実施されるようになった。当時の小学校教科書は、各道府県ごとに審査委員を配置し、道府県単位で検定された教科書の採択を行うようになった。 そのような状況の下で、教科書会社による採択働きかけや売り込みなどの活動も激しくなっていった。教科書採択をめぐって不正行為があるという疑惑は、たび...
  • 血税一揆
    血税一揆(けつぜいいっき)とは、新政反対一揆のひとつであり、おもに明治6年(1873年)に施行された徴兵令に反対するために、農民を中心として行われた一揆。徴兵令反対一揆ともよばれる。 概要 血税一揆は、明治6年3月に渡会県牟婁(むろ)郡神内村からはじまり、翌明治7年(1874年)12月高知県幡多郡における蜂起まで16件(または19件、14件とも)、西日本を中心におこった。これは、西日本では徴兵を免れた者の比率が少なかったことが関わっている。これら一揆のうち、北条県(美作)の一揆・鳥取県(伯耆)会見(あいみ)郡の一揆・名東(みょうどう)県7郡(讃岐)の一揆(西讃竹槍騒動)などは特に熾烈であった。 主な一揆 美作地方の一揆 美作地方の一揆は明治6年5月26日、北条県で起きた。その後、6月1日まで蜂起は続き、大変激しいものとなった。「元魁」筆保卯太郎を中心に、北条県西西条郡貞...
  • 日本の学校制度の変遷
    日本の学校制度の変遷(にほんのがっこうせいどのへんせん)では明治から現代の日本における学校制度のうつりかわりをまとめる(以下、戦前の教育課程はほとんど「學校」と表記するのが正しいが、漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により「学校」と書く)。 文部科学省ホームページ ~戦前の学校系統図表 http //www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_185.html 大正~太平洋戦争初期の学制 師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり複線型教育の特色がかなり強い。 ...
  • 若槻禮次郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、新字体:若槻 礼次郎、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。第25代および第28代内閣総理大臣。男爵。旧姓は奥村、幼名は源之丞、号は克堂。 生涯 生い立ち 松江藩の足軽奥村仙三郎の次男として生まれる。奥村家は極めて貧乏であり、内職のようなことをしてようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、木刀一本腰に差して寺子屋に通う。 小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後やめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学をやめ、しばらくは家にいて山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。 16歳のころから3年間程、小学教員をする。司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思い...
  • 何応欽
    何応欽(かおうきん、1890年4月2日 - 1987年9月21日)は中華民国の軍人。字は敬之。 貴州省興義に生まれる。 貴州陸軍小学・武昌陸軍中学を卒業した後、1908年、日本に留学し陸軍士官学校に22期生として入学。同期に牟田口廉也、鈴木貞一、相沢三郎がいる。ちなみに蒋介石は前年に陸軍士官学校に21期生として入学している。1909年、中国同盟会に加盟。1916年に帰国し、貴州第一師歩兵第四団団長・貴州陸軍混成旅旅長などを務めた。 1924年、孫文の広東軍政府に参加。軍校教練部主任・大本営軍事参謀。国民革命軍第一軍軍長に任命される。1926年、北伐参加。国民革命軍東路総指揮・参謀長など歴任。「蒋介石の片腕」と評される存在になる。1927年に南京国民政府が成立すると、第一路軍総指揮、翌年には総司令部参謀長となった。1933年に北平に赴任し、国民党軍事委員会北平分会会長に任ぜられ塘沽協定...
  • 虎ノ門事件
    虎ノ門事件(とらのもんじけん)は、1923年12月27日に、虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が難波大助に狙撃された事件である。 事件発生 1923年12月27日、摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外で群衆の中にいた難波大助が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しなかったが、同乗していた侍従長・入江為守が軽傷を負った。なお、皇太子は事件後、側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされる。 その直後、難波は周囲の群衆によって袋叩きにされ、難波の身柄を確保しようとする巡査は身をもって難波に対する殴打を防がなければならなかった。難波はのちに大逆罪で死刑判決を受けている。 この事件の背景には、亀戸事件などの労働運動弾圧があった。 影響 当時の内閣総理大...
  • 南洋庁
    南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年に事実上消滅した。 人口 昭和14年12月末現在(『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』による) 総人口 129,104人 内訳 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 島民(チャモロ族・カナカ族) 51,723人 外国人 124人 年表 1919年5月7日 - パリ講和会議の英米仏首相会議で、赤道以北のドイツ領諸島は日本の委任統治に決定。 1919年6月28日 - 「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書」(ヴェルサイユ条約)、調印式。 ドイツの植民地放棄(第118条)と放棄された植民地を国際連盟の委任統治とすること(第22条)などを規程...
  • 河本大作
    Template Infobox 軍人? 河本 大作(こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1953年8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の実行犯として知られる。 出自 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に生まれた。高等小学校、陸軍大阪地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治36年.11に陸軍士官学校(15期)を卒業し、大正3年に陸軍大学校(26期)を卒業した。 張作霖爆殺事件 関東軍高級参謀として勤務していた昭和3年6月4日、北京から満州に帰還する途上にあった張作霖を奉天近郊の南満州鉄道線路上で爆殺した(当時は満州某重大事件と報道された)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の仕業であるとも報道されていたが、その後の調査で河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉...
  • 徴兵検査
    徴兵検査(ちょうへいけんさ)は徴兵制度のある国において、一定の年齢に達した者に対して身体検査を行い、合格した者を徴兵対象の候補者とするための検査である(したがって志願制の軍隊に入隊する場合の身体検査のことではない)。 日本(戦前) 20歳に達した男子は誰もが徴兵検査を受けることが義務付けられた。4月~5月頃に通知が届き地域の集会所や小学校で検査が行われた。 検査に合格した者は翌年の1月10日に各連隊に入営する事となる。尚、徴兵検査は20歳以上は義務となるものの、17歳から志願によって入営することが出来た。 内容 身長、体重、病気の有無等。合格し即入営となる可能性の高い者は合格区分が『甲種合格』というが、甲種合格の目安は身長152センチ以上身体頑健だった。始まった当初の明治では合格率がかなり低く、10人に1人か2人合格する程度だった。ただし、後の太平洋戦争末期で...
  • 石原莞爾
    Template Infobox 軍人? 石原 莞爾(いしわら かんじ読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』(日本経済新聞社 ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」とルビが振られている。、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人、満州派の領袖。立命館大学国防学研究所長(1941-42年)。通称「帝国陸軍の異端児」。 軍歴は関東軍作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長兼駐満州国武官、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、最終階級は陸軍中将。 生涯 幼少年時代 明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原...
  • 提岩里虐殺事件
    提岩里虐殺事件(ていがんりぎゃくさつじけん、제암리학살사건)は1919年4月15日、日本の植民地統治下の朝鮮京畿道水原郡(現在の華城市)で、三・一独立運動中に起きた事件。30人程の住民が軍隊によって虐殺された事件である。 概要 事件当時の日本の公式文書では、 「憲兵隊が提岩里(チェアムリ)の教会に、小学校焼き討ちと警察官2名の殺害の容疑者として提岩里のキリスト教徒の成人男達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した」とされていた。そのため日本の右派・保守派には、これに従い韓国側の主張を根拠なしと切り捨てる人もあったたとえば杉...
  • 渡辺錠太郎
    渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。 家族 愛知県の出身。煙草店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も陸士20期卒で陸軍少佐になっている。子息の恭二は陸士57期の陸軍中尉。 次女にノートルダム清心学園理事長で修道女の渡辺和子がいる。二・二六事件に際して、父の殺害を目撃した。 教育総監への就任 1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。 翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選...
  • 血盟団事件
    血盟団事件(けつめいだんじけん)とは、1932年(昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ事件である。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることの多い事件であるが、事件を起こした血盟団は日蓮宗の僧侶(茨城県東茨城郡大洗町・立正護国堂住職)である井上日召(いのうえにっしょう)によって率いられていた集団であった。 経緯 日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」と名指ししてその暗殺を企て、配下の血盟団メンバーに対し「一人一殺」を指令した。「紀元節前後を目途としてまず民間から血盟団がテロを開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが日召の構想であった。 日召は「否定は徹底すれば肯定になる」「破壊は大慈悲」などの言葉...
  • 東京大空襲
    300px|thumb|空襲前(左)と空襲後(右)の[[空中写真|航空写真 ]] 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた東京に対する一連の大規模な空襲。東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。 空襲の経緯 1945年3月10日以前の空襲 right|200px|thumb|空襲を行った[[B-29|B-29戦略爆撃機]] 1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、...
  • 教育ニ関スル勅語
    『教育ニ関スル勅語』(きょういくにかんするちょくご)は、明治時代に日本の教育の根幹をなすものとして発表された勅語である。『教育勅語』(きょういくちょくご)ともいう。 内容 教育勅語は、明治天皇が国民に語りかける形式をとる。まず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの博愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに明治天皇自らこれを守るために努力したいと誓って締めくくる。 これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日...
  • 台湾抗日運動
    台湾抗日戦争(たいわんこうにちせんそう)とは、1895年の乙未戦争を基点とし、「西来庵事件(タパニー事件)」終息までの約二十年にわたって継続した台湾人による日本植民地支配への武力闘争の中国における呼び名。 概要 台湾民主国 Template main? 1895年に日清戦争の敗北が決定的になった清朝は、戦争の早期講和を目指して同年4月17日に日本と下関条約を締結し、その際に日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)の割譲を承認した。 しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • 第1次伊藤内閣
    {{Infobox |tnavbar = 日本の内閣記事 |above = 第1次伊藤内閣 |label1 = 内閣総理大臣 |data1 = 初代 伊藤博文 |label2 = 成立年月日 |data2 = Template 和暦?12月22日 |label3 = 終了年月日 |data3 = Template 和暦?4月30日 |label4 = 与党等 |data4 = 藩閥内閣 |label5 = 施行した選挙 |data5 = なし(帝国議会未設置) |label6 = 衆議院解散 |data6 = なし(帝国議会未設置) |below = 内閣閣僚名簿(首相官邸) }} 第1次伊藤内閣(だい1じ いとう ないかく)は、参議の伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命され、Template 和暦?12月22日からTemplate 和暦?4月30日まで続いた...
  • 憲兵 (日本軍)
    憲兵(けんぺい)とは、旧日本陸軍において陸軍大臣の管轄に属し主として軍事警察を掌り兼て行政警察、司法警察を掌る兵科区分の一種であった。 沿革 thumb|300px|憲兵[[下士官|下士・上等兵たち(1935年)]] 日本陸軍においては、1881年(明治14年)、フランスの国家憲兵制度(フランス国家憲兵隊)を範として、憲兵条例憲兵条例は明治31年勅令第337号によって全面改正された。更に、昭和4年勅令第65号により憲兵条例は憲兵令に改題された。により設置された。なお、この憲兵条例等により置かれる憲兵(以下、「勅令憲兵」という。)のほかに、軍令により編成され軍司令官の命令に服する憲兵(以下、「軍令憲兵」という。)があったが、以下特記のない限り勅令憲兵について記述する。 なお、明治時代に置かれていた屯田兵について、平時は、「屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編制」(屯田兵例則)するものとされ、警察...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 秩父事件
    秩父事件(ちちぶじけん)は、1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。 事件の背景 江戸時代末期以来、富国強兵の大義名分のもと年々増税等が行われる中、1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。 国内的には主として上記の松方財政の影響、さらには1873年から1896年ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した1882年のリヨン生糸取引...
  • 皇国史観
    皇国史観(こうこくしかん)は、日本国と日本人は歴代天皇を中心とした国造りが行われ、現代までに到る伝承と歴史が紡がれ継承されて来たとする歴史観。 第二次世界大戦以前 南北朝時代に南朝の北畠親房が南朝の正統性を示すために著した『神皇正統記』が先駆的なものであり、江戸時代に展開した水戸学や国学でその基礎が作られた。幕末の尊王攘夷運動の過程で強化され、明治維新後には政治体制によって正統な歴史観として確立した。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批...
  • イルティッシュ号投降事件
    イルティッシュ号投降事件(イルティッシュごうとうこうじけん)は、日本海海戦で損傷を受けたロシアのバルチック艦隊の特務艦イルティッシュ号が航行不能となり、1905年(明治38年)5月28日午後2時頃、島根県那賀郡都濃村和木(現・江津市和木町)で投降した事件。 イルティッシュ号 イルティッシュ号は、ドイツ海軍の石炭運送船ベリギヤ号(7,500トン)として1903年にドイツで建造された。1904年にロシアがドイツより購入し、艦隊に所属させるために200万ルーブルをかけて改装した。この改装により石炭艙は各種積荷の貯蔵のため乾燥室と石炭室に分割され、名前も西シベリアを流れるオビ川左岸の支流エルティシ川(全長4,248km)からイルティッシュ号と命名された。排水量15,000トン、全長180m、全幅17m、最大速度10.5ノット。兵装として8つの小口径砲を装備していた。 編成乗組員は251名(士...
  • 南北朝正閏論
    南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは日本の南北朝時代において南北のどちらが正統とするかの論争(閏はうるうと同じで「正統ではないが偽物ではない」の意)。 概要 近代以前の南北朝正閏論 近世以来、南北朝のいずれが正統かをめぐって南北朝正閏論が行われてきた。論者の主張は大きく南朝正統論、北朝正統論、両統対立論、両統並立論に分けられる。徳川光圀は徳川氏の祖とされた新田氏の正統性を示すため、「大日本史」で南朝を正統であると提示した。また同様に南朝正統論を支持した頼山陽は後小松天皇(北朝)は後亀山天皇(南朝)から禅譲を受けたことによって正統な天皇になったので、後小松天皇以後の天皇の正統性の問題を理由として、北朝の皇位継承を正当化とすべきではないと主張した(但し史実では神器帰還の儀式が行われたのみで禅譲の儀式は行われていない)。一方、当時の公家社会では、公家達のほとんどが北朝方公家の末裔...
  • 東條英機
    Template 日本の内閣総理大臣? 東條 英機(とうじょう ひでき、新字体で東条 英機、1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家。現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任した(在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。血液型はB型。東條英機氏の自決未遂は狂言だったのか 階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級。永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導する。太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時の内閣総理大臣。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。敗戦後に行われた東京裁判にてA級戦犯とされ、軍国主義の代表人物として処刑された。その高い事務処理能力から「カミソリ東條」とあだ名された。 日本の戦前...
  • 林銑十郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、明治9年(1876年)2月23日 - 昭和18年(1943年)2月4日))は、日本の陸軍軍人、政治家。第33代内閣総理大臣。陸軍大将、正二位、勲一等、功四級。 略歴 石川県金沢市に士族(旧加賀藩士)の子として生まれる。金沢市尋常師範附属小学校を経て、1894(明治27)年7月、日清戦争が勃発すると、四高補充科を中退し、士官候補生となり陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)6月28日、少尉任官、歩兵第7連隊付、1903(明治36)年、陸軍大学校を卒業。 1905(明治38)年に勃発した日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加。以後、陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務める。1937年(昭和12年)内閣総理大臣。 越境将軍 Templa...
  • 岐阜事件
    thumb|right|250px|板垣退助が襲われた場所に建つ板垣退助の銅像 br / [[岐阜公園にて(岐阜市)]] 岐阜事件(ぎふじけん)とは、1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢(相原尚褧)に襲われた事件である。板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件ともいう。このとき板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとして知られるが、事実であるかは不明である。 事件前の状況 1881年(明治14年)10月18日、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)が結成され、自由民権運動は頂点を迎える。そのような中、11月9日に板垣退助は自由党総理(党首)に就任する。 1882年(明治15年)3月10日、板垣退助は竹内綱、宮地茂春、安芸喜代香らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5...
  • 部落問題-2
    前半は部落問題を参照 地域較差 被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域較差がある。差別の対象となった賤民身分や被差別部落の呼称も地域により様々であり、一般に関西を中心とした西日本には大規模な被差別部落が多く存在し、解放運動が盛んであるが、関東地方では被差別部落自体が比較的少ないことから認知度が低い傾向にある。 北陸地方や東北地方では被差別部落がごく少数点在するのみであり原田伴彦 田中喜男『東北・北越被差別部落史研究』明石書店 1981年、明治期以降解放運動の盛り上がりに欠けていた。学校での教育なども行われないため、これらの地域の住民は部落問題への認知度自体が非常に低く、「部落」と言う言葉も単に一般の集落や町内会を指すことが多い。北海道や南西諸島には歴史的な被差別部落は存在しない。 北陸地方で部落問題が発展しなかったのは全国の被差別民も多く帰依していた浄土真宗が...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • 香淳皇后
    Template 基礎情報 君主? 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年3月6日 - 2000年6月16日)は、昭和天皇の皇后。名は良子(ながこ)。お印は桃。 家系 父は久邇宮邦彦王、母は十二代薩摩藩主公爵島津忠義七女俔子(ちかこ)。祖父久邇宮朝彦親王は男子九人にめぐまれた子福者で、東久邇宮稔彦王は皇后の叔父の一人である。また、五女島津貴子の夫の島津久永は母方の従弟に当たる。 生涯 少女時代 1903年(明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王の第一王女子として誕生。良子と名づけられ、久邇宮良子女王と号す。 1907年(明治40年)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は別室で昼食をとるが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と一緒であった。優しい一方運動神経に優れ(昭和天皇からゴルフを教わり、度々天皇を...
  • 勝海舟
    勝 海舟/勝 安芳(かつ かいしゅう/かつ やすよし、文政6年1月30日(1823年3月12日) - 明治32年(1899年)1月21日)は、幕臣、政治家。明治期の枢密顧問官、位階勲等は正二位勲一等伯爵。 幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳 /small 。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音(あ−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」からとったという。 父は旗本小普請組の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟にあたる。海舟も十代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。 山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。哲学館(現:東洋大学)に対して多くの寄付をし、「哲学館の三恩人」の一人にも...
  • 旧制高等学校
    旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)とは、1950年まで存在した日本の高等教育機関の1つで、2つの高等学校令(1894年および1918年)に基づき設置されたもの、を指す。1886年の中学校令により設立されていた第一~第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を、1894年高等学校に改組して始まった。当初は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制の2系統があったが、学部は順次廃止ないし専門学校として分離され、大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正後は各地で増設され、大学予科は本科に、さらに文科・理科に分かれた。後期には4年間の前置課程を含めた7年制のものもある。 Template 右? 概要 1894年の高等学校令では、専門学科の教育を行なう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定されていた。しかし、専門学科教育は主流となる...
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