chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「小畑敏四郎」で検索した結果

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  • 永田鉄山
    ...仁六郎、小川恒三郎、小畑敏四郎。 その後、1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。1921年(大正10年)10月頃、陸士同期である小畑敏四郎、岡村寧次や一期下の東條英機と共に、ドイツ南部の温泉地バーデン・バーデンにおいて、陸軍の薩長閥除去を目指す等の「バーデン・バーデンの密約」を行なったという。 以後、麻布歩兵第3連隊長を勤めた後、1930年(昭和5年)に陸軍省軍事課長となる。さらに南次郎陸軍大臣の下で、国家総動員法の策定に関わる。1932年(昭和7年)に陸軍少将に昇進。 1934年(昭和9年)に陸軍省軍務局長となる。1935年(昭和10年)7月15日に真崎甚三郎教育総監を更迭。同年7月19日に有末精三中佐の紹介により歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐と面会し辞職を迫られる。同年8月12日、その相沢に軍務局長室で斬殺された(相沢事件)。死亡時は陸軍少将であったが、特...
  • 東久邇宮内閣
    ... 国務大臣 小畑敏四郎(予備役陸軍中将[陸士16期]) 1945年(昭和20年)8月19日 - 同年8月26日 内閣書記官長 緒方竹虎(国務相兼任・貴族院所属・無所属) 1945年(昭和20年)8月17日 - 同年8月26日 法制局長官 村瀬直養(貴族院所属・研究会) 1945年(昭和20年)8月17日 - 同年8月26日 政務次官 Template 節stub? 省庁再編後(8月26日以後) 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日 国務大臣 内閣総理大臣 東久邇宮稔彦王(軍人 陸軍大将[陸士20期]・貴族院所属・無所属) 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年10月9日 外務大臣 重光葵(貴族院所属・無所属) 1945年(昭和20年)8月26日 - 同年9月17日 吉田茂(官僚 外務省) 1945年...
  • 皇道派
    ...・通信担当)となった小畑敏四郎、憲兵司令官ついで第二師団長となった秦真次、幕僚の満井佐吉らが首脳部をなしていたが、彼らが「国家革新」の切り札と頼むクーデターの計画に当たったのは、村中孝次・磯部浅一ら尉官クラスの青年将校団である。 皇道派がクーデター計画に狂奔したのは、彼らが統制派ほどに具体的な情勢判断と方針を持たず、互いに天皇への忠誠を誓い、結果を顧みずに「捨石」たらんとしたという思想的特質にもよる。 青年将校らは自分たちの行動を起こした後は、「陛下の下に一切を挙げておまかせすること」 (※2・26事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉の尋問調書より)に期待するのみであった。 また、彼らの信頼を集めた荒木や真崎も、自分たちが首班となって内閣をつくることを予期するだけで、その後の計画も無く、各方面の強力な支持者もいなかった。とくに財閥や官僚には皇道派を危険視する空気が強く、彼らが政権を...
  • 近衞文麿
    ...成功させた。後任には小畑敏四郎を考えたが、摩擦が生じることを懸念。そこで不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えることを決意し、山東省の最前線にいた板垣への使者として民間人の古野伊之助を派遣している。この時期の内閣改造では、陸軍の非主流派や不拡大派の石原莞爾らが、以前閣僚にと考えていた人たちが主に入閣し、これにより軍部を抑える考えがあったものとされるが、板垣は結局「傀儡」となり失敗した。この際に近衞は、宇垣一成を外相に迎えたが、宇垣の和平工作を十分に助けようとしなかった。宇垣はこれに不満を覚え、また近衞が興亜院を設置しようとしたこともあり、9月に辞任した。 8月には、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、大日本党の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。これは、大政翼賛会へと至る独裁政党への第一歩である。11月3日に「東亜新秩序」声明を発表。1939年(昭和14年)1月5日に...
  • 板垣征四郎
    Template Infobox 軍人? 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、明治18年(1885年)1月21日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人である。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 敗戦後、東京裁判にて死刑判決を受ける。現在は靖国神社に合祀されている。 元参議院議員の板垣正は次男。 生涯 出自 岩手県盛岡市出身。盛岡中学、仙台の陸軍幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人...
  • 日本共産党査問リンチ事件
    Template NPOV? Template 出典の明記? 日本共産党査問「リンチ」事件(にほんきょうさんとうさもんりんちじけん)日本共産党リンチ殺人事件、日共リンチ殺人事件、スパイ査問事件、スパイリンチ事件、リンチ共産党事件などと呼ばれることがある。昭和51年10月5日の参議院予算委員会では呼び名について公明党の小平芳平から質問があり、稻葉修法務大臣の回答により「共産党リンチ事件」として扱われた。質問者であった小平芳平も質問中は「共産党リンチ事件」の名称を使用している。当時総理であった三木武夫は、自民党内の総務会では「共産党リンチ殺人事件」と呼ばれていたとしている。一方、当時の共産党は「スパイ調査問題」の名称を用いた。 ref name=inaba510130 昭和51年01月30日、衆議院予算委員会、稻葉修法務大臣答弁。は、治安維持法下の1933年に東京府東京市(現東京都)で発生...
  • 企画院
    企画院(きかくいん)は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関。 概要 前身は昭和10年5月10日に設置された内閣総理大臣直属各省大臣と同様の立場での行政事務の分担及びその補助部局→新憲法施行後に総理庁→総理府へ統合。他方で、「合議体としての内閣」の所管部局に法制局と賞勲局があったの国策調査機関である内閣調査局にある。「重要産業統制法」(昭和6年7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まり、より強力な重要政策を立案する組織として、昭和12年5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日に内閣資源局大正7年の軍需工業動員法制定の後、物資動員企画立案機関として昭和2年5月27日に設立と統合し企画院が発足した。重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下...
  • 蝦夷共和国
    蝦夷共和国(えぞきょうわこく)は、明治元年12月(1869年1月)に成立し、蝦夷地(北海道)に短期間存在した佐幕派の政権である蝦夷島政府に対する俗称である。明治2年5月18日、箱館戦争終結によって消滅した。 概要 江戸時代後期、慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定する。徳川慶喜の静岡下向を見届けた海軍副総裁榎本武揚は旧幕臣の保護と北辺防備を目的として慶応4年(1868年)8月19日に品川沖から開陽丸を旗艦に8隻の軍艦を率いて江戸を脱出し、蝦夷地に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した伝習隊、旧新選組や彰義隊の残党を吸収し、北上、鷲ノ木に上陸し、各地を平定、五稜郭を攻略し、府知事清水谷公考を敗走させ、蝦夷全島を支配下に置いた。...
  • 満鉄調査部事件
    満鉄調査部事件(まんてつちょうさぶじけん)は、第二次世界大戦中、多数の満鉄調査部員が関東軍の憲兵隊によって2回にわたり検挙された事件。満鉄事件とも呼ばれる。1941年に起こった合作社事件をきっかけとして、1942年には調査部員の第一次検挙、1943年には第二次検挙が行われた。 経緯 満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。 橘樸の影響を受けていた佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。この運動は多くの日本人「前歴者」が結集したこ...
  • 清浦内閣
    {{日本の内閣記事|きようら ないかく|23|清浦奎吾|Template 和暦?|1月7日|同年|6月11日|官僚、貴族院。|第15回衆議院議員総選挙|1924年(大正13年)1月31日懲罰解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/23.html|枢密院議長}} 清浦は枢密院議長から出て組閣し、政党から閣僚を入れることなく、貴族院を背景にした超然主義を貫いた。立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が起こした第二次護憲運動により、わずか5ヶ月で総辞職となった。与党は立憲政友会を脱党した政友本党である。 閣僚 内閣総理大臣 清浦奎吾(子爵・前枢密院議長) 外務大臣 松井慶四郎(男爵・外務官僚) 内務大臣 水野錬太郎(貴族院交友倶楽部) 大蔵大臣 勝田主計(貴族院研究会) 陸軍大臣 宇垣一成(陸軍中将) 海軍大臣 村上格一(海軍...
  • 鶴見騒擾事件
    鶴見騒擾事件(つるみそうじょうじけん)とは、1925年(大正14年)の暮れに現在の横浜市鶴見区で起きた乱闘事件である。日本最大の喧嘩と呼ばれるこの事件は一度に500人以上の検挙者を出し、騒擾罪(法改正により騒乱罪)で起訴されているため鶴見騒擾事件と呼ばれる。 なお鶴見駅周辺から見た場合、鶴見川対岸の潮田地区が主な闘争の現場であるため、本来は事件を別の名称で呼ぶべきであったとする向きもある(注)。当時は橋一つの「川向こう」でも風土や歴史には大きな違いがあり、そこには日本の資本主義の成長の歪みがあった。 (注)事件当時の行政区域は市制施行前の「橘樹郡鶴見町」であるが、事件現場となる「橘樹郡潮田町」と合併した直後であり、その町境が鶴見川であったことから。 大正電力戦争 未曾有の大惨事となった関東大震災は、同時に工場用地が東京市及びその近郊から移転する契機となり神奈川の建設ラッシュに拍...
  • 上海日本人僧侶襲撃事件
    上海日本人僧侶襲撃事件(しゃんはいにほんじんそうりょしゅうげきじけん)とは、1932年(昭和7年)に発生した中国人による抗日(反日)事件とされており、この事件をきっかけに日中が武力衝突する上海事変が勃発した。ただし現在では関東軍による策謀であるとの説が有力である。 事件の概要 前年の満州事変によって中国国内における反日感情が高揚していた。1932年1月18日午後4時ころ、中華民国上海の道路を南無妙法蓮華経を唱えながら勤行していた、日本人僧侶2名と信者3名が、排日運動の根拠地と見なされていた三友實業公司のタオル製造工場前の路地で、突如中国人と見られる数十人の集団に襲撃された。そのため日本人の日蓮宗僧侶の水上秀雄が死亡し、天崎天山ら2名が重傷を負った。中国の警察官の到着が遅れたため、犯人は逃亡した。 事件の背景 その後、上海事変が勃発し日中は果てしない戦乱に明け暮れることになる...
  • A級戦犯
    A級戦犯(エイきゅうせんぱん)は、ポツダム宣言に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪人で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた者をさす。起訴された者を含む場合もある。 逮捕までの経緯 1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて米英中により、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言(ポツダム宣言)が行われた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。 同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場。 同年8月10日、日本がポツダム宣言を受諾。15日、終戦。 同年8月29日、ア...
  • 関東軍
    Template 軍隊資料? 関東軍(かんとうぐん)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。 概要 Template 日本陸軍? 南満州鉄道附属地警備を目的とした守備隊が前身で、1919年(大正8年)に関東軍と改称する。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都新京(現・吉林省長春)に移転。名称は警備地の関東州に由来する。 張作霖爆殺事件や満州事変の画策・実行は、20年代からの既存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。 また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。 また、...
  • 西郷隆盛-2
    前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革...
  • 大成会
    大成会(たいせいかい)は、明治時代の日本の温和派の院内会派である(1890年8月23日-1891年12月26日)。 1890年の第1回衆議院議員総選挙後、立憲自由党及び立憲改進党に属しない議員の糾合の動きが盛んになった。彼らは党派色の強い民権派系の自由・改進両党(民党)に対抗する意図を有していたが、政府との関係や新しい組織を政党とするか院内会派にするかなどその意見は様々であった。 それでも、1890年8月22日に会則と「大成会」の名称が定められ、翌日に東京の愛宕館で正式な結成大会が開かれて、この会が衆議院議員有志によって構成される団体であると位置付けて政党である事を否定した。これは、日本の議会に政党自体を不要と考える超然主義を唱える議員に配慮したものである。代表者として3名の常務委員(増田繁幸・堀部勝四郎・俣野景孝)が選出された。この他、杉浦重剛・元田肇・津田真道・末松謙澄・岡田良一郎...
  • 第1次若槻内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ わかつき ないかく|25|若槻禮次郎|Template 和暦?|1月30日|Template 和暦?|4月20日|憲政会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/25.html|内務大臣}} 閣僚 内閣総理大臣 若槻禮次郎 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 外務大臣 幣原喜重郎 1926年(大正15年)1月30日 - 1927年(昭和2年)4月20日 内務大臣 若槻禮次郎(兼任) 1926年(大正15年)1月30日 - 同年6月3日 濱口雄幸 1926年(大正15年)6月3日 - 1927年(昭和2年)4月20日 大蔵大臣 濱口雄幸 1926年(大正15年)1月30日 - 同年6月3日 早速整爾 1926年(大正15年)6月3日...
  • 武漢作戦
    Template Battlebox? 250px|right|thumb|[[国民革命軍]] 武漢作戦(ぶかんさくせん)は、日中戦争の戦い。武漢攻略戦とも言う。中国側呼称は武漢会戦、武漢保衛戦。 背景 徐州会戦後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日中戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は同年5月5日に国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。 経過 大本営は6月18日に武漢作戦の準備を命令。8月22日に目的は要地武漢三鎮の占領であるとし、通城と岳州を進出限界線として要地の占領とその間の敵の撃破を命令した。新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 井上準之助
    Template Infobox Celebrity? 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、大正~昭和初期の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。 来歴・人物 浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。 金輸出解禁政策は失敗であったが、当時としては異例の全国各地を歩いて国民に政策の理解を求めるPR活動を行うなどの真摯な態度や、当時の経済学において正統な経済のあり方とされた金本位制を維持しようとしたのは常識的判断であり世界恐慌の深刻さがそれを上回ったと擁護する向きもある。しかし、金融界の意向に配慮した旧平価解禁の強行やその後のドル買事件に際しては一転して金融界と過度な全面衝突を起こすなど...
  • 平沼内閣
    {{日本の内閣記事|ひらぬま ないかく|35|平沼騏一郎|Template 和暦?|1月5日|同年|8月30日|官僚・軍人が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/35.html|枢密院議長|画像=250px|画像説明=平沼内閣の閣僚}} 概要 平沼内閣は、前の第1次近衛内閣の崩壊を受けて、枢密院議長の平沼騏一郎が組閣した内閣である。日独軍事同盟の締結交渉を進めていたが、1939年(昭和14年)8月に突然、ドイツ(ナチス・ドイツ)がソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結したため、衝撃を受けた平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」との言葉を残して同月末に内閣総辞職。 閣僚 総理大臣 男爵平沼騏一郎(枢密院) 1939年(昭和14年)1月5日 - 同年8月30日 外務大臣 有田八郎(貴族院所属 昭和研究会)(第1次近...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 箱館戦争
    Template Battlebox? 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いである。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。 背景 慶応4年(1868年)4月、江戸城の無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた徳川家海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓ににあたらせようと画策する。 榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の幕臣勝海...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    Template 軍隊資料? 朝鮮軍(ちょうせんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。朝鮮を管轄した。 概要 日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(かんこくちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍(ちょうせんちゅうさつぐん)に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。 昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。 歴代朝鮮軍司令官 Template 日本陸軍? 韓国駐剳軍司令官 原口兼済中将:明治37年(1904年)3月11日 - 明治37年(1904年)9月8日 長谷川好道大将:明治37年(190...
  • 幣原内閣
    {{日本の内閣記事|しではら ないかく|44|幣原喜重郎|Template 和暦?|10月9日|Template 和暦?|5月22日}}公職追放によりTemplate 和暦?1月13日に一部の閣僚が入れ替えられた。 公職追放前 1945年(昭和20年)10月9日 - 1946年(昭和21年)1月13日 閣僚 内閣総理大臣 男爵幣原喜重郎(貴族院同和会→日本進歩党) 外務大臣(留任) 吉田茂(官僚 外務省) 内務大臣 堀切善次郎(貴族院研究会) 大蔵大臣 子爵渋沢敬三(貴族院研究会) 陸軍大臣(留任) 下村定(軍人 陸軍) 1945年10月9日 - 同12月1日 1945年12月1日、陸軍省廃止。 第一復員大臣 幣原喜重郎(兼任) 1945年12月1日 - 昭和21年1月13日 1945年12月1日、陸軍省残務処理のため設...
  • 幣原喜重郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日)は日本の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月)、第40代衆議院議長に就任した。従一位勲一等男爵。 略歴 生い立ち 大阪府門真一番村(現門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪中学校、第三高等中学校を経て、1895年 帝国大学法科大学卒業。 戦前 1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻禮次郎内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。 この間に対米...
  • 三井財閥
    thumb|250px|東京都中央区日本橋室町 [[三井本館]] 三井財閥(みついざいばつ)は、三井高利の創業した三井越後屋(現在の三越・三井住友銀行)を元に始まった日本屈指の財閥。三菱財閥・住友財閥とともに日本三大財閥の一つとされる。 江戸時代 thumb|170px|名所江戸百景 駿河町([[歌川広重)越後屋の暖簾を見ることができる。現在、通りの右側に三井本館、左側に三越日本橋本店がある。手前左右の通りが中央通り。]] 伊勢国松坂の商人、三井高利が創業した越後屋三井呉服店(三越)は、「現銀掛値なし、切売り」など当時としては画期的商法で、またたくまに成功した。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。 幕末は、他の商人同様経営は乱れるも、新政府に取り入り政商としての道を歩んでいく。 明治以後 三野村利左衛門、中上...
  • 岩崎弥太郎
    岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。 人物 土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。 幕末、土佐藩参政吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事する。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国、職を辞した。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され、坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当した。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、...
  • 美濃部達吉
    美濃部 達吉(みのべ たつきち、1873年(明治6年)5月7日 - 1948年(昭和23年)5月23日)は、日本の憲法学者。天皇機関説事件により、貴族院議員を辞職する。勲一等旭日大綬章(1948年(昭和23年))を受章。 妻の多美子は菊池大麓菊池大麓(箕作阮甫の孫)は東京帝大総長。の長女である。東京都知事を務めた美濃部亮吉は長男。商工省および企画院官僚だった美濃部洋次は甥にあたる。 人物・来歴 前半生 美濃部達吉は、1873年(明治6年)5月7日、兵庫県加古郡高砂町の漢方医・美濃部秀芳の次男として生まれた。長じて東京帝国大学に進み、天皇機関説を主唱した一木喜徳郎に師事する。1897年(明治30年)に大学を卒業し、内務省に勤務する。1899年(明治32年)にドイツやフランス、イギリスに留学し、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に教授となる。帝国大...
  • 徐州会戦
    Template Battlebox? 徐州会戦(じょしゅうかいせん)は、日中戦争中の1938年3月15日から5月19日に発生した日本軍と中国国民軍と大規模な戦闘である。日本側は北支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。 背景 1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、北京と南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。 台児荘 1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天...
  • 辻政信
    thumb|250px|出身地[[東谷奥村の中心であった加賀市山中温泉荒谷町入り口に建つ「辻政信之碑」]] 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。 辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、マレー作戦等の辣腕振りが評価される一方、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける責任を追及する意見もある。またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。毀誉褒貶両極端の評価を受けているが、GHQでは「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」とされた(後述)。 1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20...
  • 幸徳事件
    幸徳事件(こうとくじけん)とは、1910年11月、旧刑法73条(大逆罪、1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」)により幸徳秋水ら25名が大審院に付され翌年1月に24名に死刑判決(12名は翌日無期に減刑)が出され12名が処刑された事件。 刑法73条が適用された初めての事件であり、被告とされた人数が多いことから、一般的には固有名を付けず「大逆事件」といわれる。「幸徳事件」の名称は他の「大逆罪適用事件」と区別する場合に用いられ、被告たちの中心人物とされた幸徳秋水の姓による。他に「幸徳秋水事件」の呼称もある。 被告の内、宮下太吉外3人は爆裂弾により明治天皇への攻撃を考えていたが実行計画は中途半端なままで実現に至るには曖昧なものであった。 それは大審院判決理由において「爆裂弾を用い馬...
  • 会津戦争
    Template Battlebox? 会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・長州藩を中心とする明治新政府と会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力との間で行われた戦いである。主に現在の福島県、新潟県、栃木県が戦場となった。なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として区別される場合が多い。 背景 文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、尊攘派志士の取り締まりや禁門の変において幕府方の中核となって奮闘した。この経緯もあり、薩摩・長州を中心とした新政府に幕府方の首謀者として会津藩は、鳥羽・伏見の戦い後の慶応4年(1868年)、新政府から追討令を受ける。追討を命じられた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽...
  • 田中隆吉
    Template Infobox 軍人? 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、陸軍少将。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、東京裁判において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 略歴 1893年(明治26年) - 島根県安来市の商家に生まれる。島根県立松江中学校へ進む。 1907年(明治40年) - 陸軍広島地方幼年学校入学。 1910年(明治43年) - 陸軍中央幼年学校入学。 1913年(大正2年)3月 - 陸軍士官学校砲兵科卒業(26...
  • 輔弼
    輔弼(ほひつ)は、大日本帝国憲法の観念で、天皇の行為としてなされ、あるいは、なされざるべきことについて進言し、その全責任を負うこと。 国務上の輔弼は国務大臣が、宮務上の輔弼は宮内大臣と内大臣が、統帥上の輔弼は参謀総長と軍令部総長が就いていた。ところが、後に国務大臣である筈の陸軍大臣・海軍大臣にも両軍を代表する形で帷幄上奏を行う権利が認められたことから、一般行政にまで統帥権に基づく輔弼行為の行使として帷幄上奏をするようになり、結果的に軍部の暴走を招いた。 歴史 大日本帝国憲法以前にも、「輔弼」という概念は存在した。1871年の太政官制度の改革により三院制が導入され、このうち最高機関である正院においては、天皇の臨御の下、太政大臣、納言(左右大臣)、参議の三職がおかれることになる。三職のうち、天皇を「輔弼」することができるのは前二者のみであり、参議は前二者を「補佐」することしかできない...
  • 国民協会 (日本)
    国民協会(こくみんきょうかい)は、日本に存在した政党、政治団体。現在、「国民協会」の名を持つ政党は日本には存在しない(政治団体としては名称変更した国民政治協会が存在する)。 国民協会 (1892-1899) 明治時代に存在した国粋主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院の院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日-1899年7月4日)。 1892年、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基・牧朴真・白井遠平が選出され(後に安場保和が幹事長に就任)、他に中央交渉部の佐々友房、佐藤昌蔵、津田真道、大岡育造、古荘嘉門、曾禰荒助・元田肇などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰...
  • 第1次近衛内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ このえ ないかく|34|近衛文麿|Template 和暦?|6月4日|Template 和暦?|1月5日|挙国一致内閣。貴族院・官僚が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/34.html|貴族院議長}}Template 和暦?1月4日に総辞職し、次の平沼内閣発足まで、職務を執行した。 概要 第1次近衛内閣は、元老・西園寺公望の奏薦を受けて、公爵・貴族院議長の近衛文麿に大命降下され、組閣した内閣である。内閣発足の1ヶ月後に勃発した日中戦争(支那事変)については、当初、不拡大方針を閣議決定して、事態の早期収束を図った。しかし、軍部強硬派の圧力により戦争は拡大。和平交渉にも失敗して、翌1938年(昭和13年)1月には、「爾後国民政府を対手とせず」という、いわゆる「近衛声明」(第一次近衛声明)を発...
  • 坂本龍馬-2
    前半は坂本龍馬-2参照 文献 原典 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社 各巻タイトル 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p907 - 952 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補改訂版 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p987 - 1032 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p1045 - 1090 1988年12月、岩崎英重...
  • ポツダム宣言
    thumb|240px|[[降伏文書に調印する梅津美治郎]] ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、ポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、昭和20年(1945年)7月26日に大日本帝国に対し発した第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結に関する13条から成る勧告の宣言。 宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」(玉音放送の原文では「米英支蘇」)ソ連は8月9日に対日参戦して宣言に参加したともいう。1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを駐スイス大使館経由で連合国側へ申し出、またラジオトウキョウを通じてアナウンス。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇(元首であり大元帥また正式には大日本帝国陸海軍大将)の裁可を受けた政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅...
  • 軍需省
    軍需省(ぐんじゅしょう)は太平洋戦争期に設置された日本の行政機関の一つ。戦時の軍需産業強化の必要性のため、1943年11月1日、商工省の大半と企画院とを統合して設置(軍需省官制(昭和18年勅令第824号)による)された省。軍需大臣(ぐんじゅだいじん)を長として、軍需次官以下、内部部局の大臣官房、総動員局と八つの局、および外局、さらに地方支分部局によって構成され、軍需関連会社を所管した。 軍部と密接に関わる行政だったことから陸海軍人が要職に就く例が多かった。1945年2月、戦局の更なる悪化、本土への空襲の本格化に対応して軍需工場の疎開を円滑に行う為、省内に臨時生産防衛対策中央本部が設置された。同本部の総裁は軍需大臣、事務総長は総動員局長、事務次長は総動員局第2部長がそれぞれ就いた。戦後の進駐軍上陸を目前としていた1945年8月26日、椎名悦三郎次官らの指導によって商工省に復帰した。 ...
  • 二・二六事件
    二・二六事件(ににろくじけん、にてんにろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日-29日に、日本において、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした未曾有のクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。 事件概要 大日本帝国陸軍の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し腐敗が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して 岡田啓介(内閣総理大臣) 鈴木貫太郎(侍従長) 斎藤実(内大臣) 高...
  • 日本の政党一覧
    日本の政党一覧(にほんのせいとういちらん)では、現在活動している日本の政党と、現在活動していない日本の政党の一覧を示す。 現在活動している政党 国会に議席を有する政党と議席数 政党名 衆議院 参議院 計 自由民主党 (1955-) 305 83 388 民主党 (1996-)  114 109 223 公明党 (1964-1994,1998-) 31 21 52 日本共産党 (1922-) 9 7 16 社会民主党 (1996-) 7 4 11 国民新党 (2005-) 5 4 9 改革クラブ (2008-) 1 4 5 新党大地 (2005-) ※ 1 0 1 沖縄社会大衆党 (1950-) ※ 0 1 1 新党日本 (2005-) 0 1 1 政党所属人数と院内会派の所属数とは一致しない 無所属...
  • 赤旗事件
    赤旗事件(あかはたじけん)とは、1908年(明治41年)6月22日に発生した社会主義者弾圧事件である。別名「錦輝館事件(きんきかんじけん)」、「錦輝館赤旗事件(きんきかんあかはたじけん)」。 背景 明治期の日本では、極めて過酷な労働環境への反発から労働組合期成会が結成されるなど、社会運動が高まりを見せていた。これに対し、政府側は1900年に治安警察法を制定して運動の規制に乗り出した。1901年5月20日、安部磯雄、片山潜、幸徳秋水、西川光次郎ら6名を発起人として、日本初の社会主義政党「社会民主党」が結成されるが、第4次伊藤内閣は直後にこれを禁止した。1900年にやはり安部らが結成した社会主義協会は、4年後に第1次桂内閣により解散の憂き目に遭っている。 1906年1月7日、桂太郎に替わって西園寺公望が首相に就任、第1次西園寺内閣が発足した。西園寺は社会主義をみだりに弾圧することを避け、...
  • 近衛師団
    Template 軍隊資料? 近衛師団(このえしだん)とは、日本陸軍に置かれた師団の一つ。 なお、イギリス陸軍等でも禁闕守護を任務とする師団を「近衛師団」と呼称する。日本以外の近衛師団については近衛兵を参照のこと。 時代により変遷があるが、近衛歩兵第一、第二、第三旅団が基幹となりその他騎兵、砲兵、工兵等各種兵科による部隊が置かれていた。 沿革 最初期 Template 日本陸軍? 江戸幕府を倒し、明治新政府が樹立された当初、明治政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。 そのため1871年(明治4年)、明治政府は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設した。この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。 この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 板垣退助
    {{政治家 |各国語表記 = いたがき たいすけ |画像 = Taisuke Itagaki 2.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1837年5月21日(天保8年4月17日) |出生地 = 土佐国高知藩(土佐藩) |没年月日 = 1919年(大正8年)7月16日 |死没地 = 東京市 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = |国旗 = 日本 |職名 = 第17代内務大臣 |内閣 = 第1次大隈内閣 |当選回数 = |就任日 = 1898年6月30日 |退任日 = 1898年11月8日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} 板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919...
  • 五・一五事件
    thumb|300px|五・一五事件を伝える[[朝日新聞|大阪朝日新聞。]] 五・一五事件(ごいちごじけん、ごてんいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退したといわれる。 犯行背景 当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。 しかし、19...
  • 連合艦隊
    聯合艦隊(れんごうかんたい、新字体:連合艦隊)とは、旧日本海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した、非常設の艦隊である。日本海軍が使用した略称は GF(Grand Fleet または General Fleet から)、ただし英語では Combined Fleet という。 概要 聯合艦隊は2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないという意見がでてきた。一時は「警備艦隊」を「常備艦隊」に統合する案が出たが、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と「西海艦隊」をもって「聯合艦隊」を組織するという案を...
  • 戦史叢書
    『戦史叢書』(せんしそうしょ)とは防衛研修所戦史室 (現在の防衛省防衛研究所戦史部の前身)によって1966年(昭和41年)から1980年(昭和55年)にかけて編纂され、朝雲新聞社(あさぐもしんぶんしゃ)より刊行された公刊戦史である。 概要 陸軍68巻、海軍33巻、共通年表1巻、全102巻から構成され、別に図・表類が付属する。一時期、『大東亜戦争叢書』『太平洋戦史叢書』とも呼ばれたが、その後単に『戦史叢書』と表記され、一般では『公刊戦史』と呼ばれる。 記述の元となったのは、戦中に占領軍の接収から秘匿されて残された大本営内部の文書(大本営陸軍部戦争指導班『機密戦争日誌』など)と、引き揚げてきた部隊の関係者が執筆を求められて執筆した準公式の報告書、及び、自発的に執筆された私的な回想録が主である。 刊行された年代が古いため、現在から見ると若干の誤りも指摘されているが(特に対ソ関係やノモ...
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