chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「島津斉彬」で検索した結果

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  • 寺島宗則
    ...蘭学を学び、薩摩藩主島津斉彬の侍医となったが、斉彬の死後に藩を離れて幕府の蕃書調所に勤める。 1861年、幕府の第1次遣欧使節の一員として渡海する。 1863年、薩英戦争においては捕虜となる。 1865年、第2次遣欧使節に参加する。 明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。 1873年、参議兼外務卿。 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を目指し、1879年には諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対などで挫折している。その後、外交官を辞職し、元老院議官、枢密院副議長、枢密顧問官などを務める。 1884年、伯爵。 1893年、62歳で死去。 関連書籍 高橋善七『日本電気通信の父 寺島宗則』図書刊行会 犬塚孝明『寺島宗則』吉川弘文館 関連項目 明治の人物一覧 徳川恒孝 徳川家広 出典...
  • 西郷隆盛
    ...士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。復帰するが、新藩主の実父で事実上の藩主の島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪にあう。しかし、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。勝海舟との降伏交渉に当たっては、新政府の後ろ盾となっていたイギリスが、江戸湾を拠点とした貿易に支障がでることを恐れて新政府に江戸総攻撃の中止を命令したため、西郷隆盛をはじめとする新政府はイギリスの命令に従い、江戸総攻撃を中止した(江戸無血開城)。 その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使...
  • 西郷従道
    ...俊斎の推薦で薩摩藩主島津斉彬に出仕し、茶坊主となり、竜庵と号す。 文久元年(1861年)9月30日に還俗し、本名を隆興、通称は信吾と称す。斉彬を信奉する精忠組に加入、尊王攘夷運動に身を投じる。 文久2年(1862年)、勤王倒幕のため京に集結した精忠組内の有馬新七らの一党に参加するも、寺田屋事件で藩から弾圧を受ける。従道は年少のため帰藩謹慎処分となる。文久3年(1863年)、薩英戦争が起ると謹慎も解け、西瓜売りを装った決死隊に志願。戊辰戦争では、鳥羽伏見の戦いで貫通銃創の重傷を負うも、各地を転戦した。 明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し軍制を調査。明治3年(1870年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。 明治6年(1873年)には兄の隆盛が征韓論をめぐり下野。薩摩藩出身者の多くが従うが従道は政府に留まる。明治7年(1874...
  • 幕末
    ...前藩主、のち春嶽)・島津斉彬(薩摩藩主)ら親藩・外様大名をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動のなか、将軍徳川家慶が死去。子の家定が13代将軍に就任する。 翌安政元年(1854年)正月に再来したペリー艦隊は、重ねて開国を要求。全権の林復斎らとの交渉により、日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。同年、ロシア帝国のプチャーチン艦隊との間でも川路聖謨らの交渉により日露和親条約が締結された。日米和親条約では、薪水の給与のための下田・箱館開港と並んで、両国の必要に応じて総領事が置かれることとなり、米国はハリスを下田に派遣する。ハリスの目的は通商条約の締結であった。 阿部死後、老中首座となった堀田正睦は、ハリスの圧力や第二次アヘン戦争における清の敗北などの情勢から通商条約締結は不可避と考え、孝明天皇の勅許を求めるべく、京都において関白九条尚忠を通じて工作を...
  • 大久保利通
    ...れ謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると復職する。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教に友人・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。文久元年(1861年)、御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる御小納戸役は6人扶持以上の職であるので、小姓与格が就任すると、一代小番になれる。なお、この職についた御小姓与クラスの人物に大山巌の玄祖父である大山綱栄や調所広郷がいる。。文久元年12月15日(1862年1月14日)から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から一蔵の名を賜り改名する。 慶応元年(1865年)、利通と改名する。 久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩...
  • 西郷隆盛-3
    ...嘉永4年)、薩摩藩主島津斉彬の台湾偵察の密命を受け、若き日の西郷隆盛は、台湾北部基隆から小さな漁村であった宜蘭県蘇澳鎮南方澳に密かに上陸、そこで琉球人を装って暮らした。およそ半年で西郷は鹿児島に帰るが、南方澳で西郷の世話をして懇ろの仲になっていた娘が程なく男児を出産した。この西郷の血筋は孫の代で絶えたという。 その他 幼少期、近所に使いで水瓶(豆腐と言う説もある)を持って歩いている時に、物陰に隠れていた悪童に驚かされた時、西郷は水瓶を地面に置いた上で、心底、驚いた表現をして、その後何事も無かったかのように水瓶を運んで行った。 身長 182cm、体重 114kgこの当時、薩摩沖では鰯、秋刀魚が豊漁で、薩摩人は栄養状態がよく体格は当時の日本人の平均を大きく凌駕していた。盟友大久保も身長178cmあった。平均身長が155cmだった当時の常識からは西郷はまさに雲を突く巨漢であ...
  • 西郷隆盛-2
    ...えた人々と思想 島津斉彬 西郷は水戸学派や国学の皇国史観に止まってはおらず、開国して富国強兵をし、日・清・韓の三国同盟をするという島津斉彬の持論の影響で、東アジアと欧米諸国の対置という形の世界観を持っていた。列強の内、特にロシアとイギリスに対し強い警戒観を持っていた。 当時の清国が列強の侵略下にあり、朝鮮がその清の冊封国であるという現状を踏まえて、まず三国が完全に独立を果たす、次いで三国の同盟を目指すという形で将来の東アジア像を描いていた。そしてそこに、維新に成功し、列強の侵略を一応は防いだ日本の経験が活かせるとしていた。 しかし、この世界観・史観には、後の石原莞爾の大東亜共栄圏論ほどの強い日本のリーダーシップ論は無かった。これは西郷の思想が儒学を一方の柱にしていたことと無縁ではないだろう。 勝海舟 福沢諭吉 坂本龍馬 龍馬の西郷評「西郷という男はど...
  • 勝海舟
    ...時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。 渡米 1860年、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった。妻には、「ちょっと品川へ船を見に行って来る」とだけ言ったらしい。この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。 米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福沢諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。船酔いでダウン寸前だ...
  • 生麦事件
    生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷した事件である。この事件の賠償問題から薩英戦争が起こり、結果として、薩摩藩とイギリスが相互理解を深めるきっかけとなった。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。 事件の概要 thumb|350px|『生麦之発殺』早川松山画 明治になって想像で描かれた錦絵で、名前が出ているのは[[島津久光と小松帯刀のみ。当時は久光の武勇伝として一般に親しまれていた。]] 文久2年(1862年)、薩摩藩主島津忠義(当時茂久)の父・島津久光は、幕政改革を志し、700人にのぼる軍勢を引き連れて江戸へ出向いていたが、ほぼ目的を達し、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。...
  • 懇話会
    懇話会(こんわかい)とは、大日本帝国憲法下における貴族院における院内会派の名称。通称は勤倹尚武連(きんけんしょうぶれん)。後に月曜会(げつようかい、1891年3月18日-)、庚子会(こうしかい、1900年3月3日-)と改称しながら、1901年12月7日まで続いた。 明確な時期は不明だが、帝国議会が設置された1890年11月から程なく谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・山川浩・島津忠済らによって結成された。翌年には名称を「月曜会」と改めると、50人を有して研究会・三曜会とともに初期議会を代表する会派となった。 この会派は陸軍右派として排除された「四将軍派」のうち谷・曾我・鳥尾が揃った(残りの三浦梧楼は三曜会に属した)事に代表されるように国粋主義色の強い右派が多く、藩閥政府――特に伊藤博文に対しては国家の混乱を招いた人物として敵対意識が強く、また山縣有朋系の会派に移行した研究会の方針に不満を抱い...
  • 香淳皇后
    Template 基礎情報 君主? 香淳皇后(こうじゅんこうごう、1903年3月6日 - 2000年6月16日)は、昭和天皇の皇后。名は良子(ながこ)。お印は桃。 家系 父は久邇宮邦彦王、母は十二代薩摩藩主公爵島津忠義七女俔子(ちかこ)。祖父久邇宮朝彦親王は男子九人にめぐまれた子福者で、東久邇宮稔彦王は皇后の叔父の一人である。また、五女島津貴子の夫の島津久永は母方の従弟に当たる。 生涯 少女時代 1903年(明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王の第一王女子として誕生。良子と名づけられ、久邇宮良子女王と号す。 1907年(明治40年)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。幼稚園では皇族は別室で昼食をとるが、そのとき妹・信子女王の他、迪宮裕仁親王(後の昭和天皇)・淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と一緒であった。優しい一方運動神経に優れ(昭和天皇からゴルフを教わり、度々天皇を...
  • 華族
    華族(かぞく)とは、1869年から1947年まで存在した日本近代の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族、と区別することがある。 明治以前まで使用されていた、華族という名称の狭義の意味は、公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格、清華家の別称であった。 前史 明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家・維新後に諸侯とされた家16家徳川御三卿の3家...
  • 松方正義
    Template 日本の内閣総理大臣? 松方 正義(まつかた まさよし、1835年3月23日(天保6年2月25日) - 1924年(大正13年)7月2日)は日本の武士・薩摩藩士、政治家。幼名は金次郎。通称は助左衛門。近代日本を代表する財政家であり、明治13年(1880年)に内務卿、明治14年(1881年)に大蔵卿を歴任、翌・明治15年(1882年)に日本銀行を設立。第4代、第6代内閣総理大臣。ほか大蔵大臣、内大臣などを歴任。元老従一位大勲位公爵。 経歴 生い立ち 現在の鹿児島県に松方正恭、袈裟子の四男として生まれる。わずか13歳にして両親を亡くす。弘化4年(1847年)、薩摩の武士の子弟が通う藩校造士館に入る。 嘉永3年(1850年)、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認め...
  • 薩長同盟
    薩長同盟 (さっちょうどうめい)は、江戸時代後期の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に幕末の薩摩藩と長州藩の間で締結された政治的、軍事的同盟である。薩長盟約、薩長連合ともいう。 幕末の政治世界で影響力を持った薩摩藩と長州藩は討幕の思想では共通していたが、西郷隆盛・大久保利通らの薩摩は、1864年(元治元年)の会津藩と協力した八月十八日の政変や禁門の変で長州を京都から追放し、第一次長州征伐(幕長戦争)などで薩摩が長州を屈服させて以来感情的には敵対していた。長州、薩摩共に伝のある土佐藩脱藩の坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋により、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが1月21日(22日説も)京都小松清廉邸(京都市上京区)で坂本を介して西郷隆盛、大久保利通、薩摩藩家老の小松清廉(帯刀)と長州藩の木戸孝允(当時は桂小五郎)が倒幕...
  • 大阪会議
    大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。 会議に至る背景 征韓論をめぐる明治6年10月政変で政府首脳が分裂した結果、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、急速かつ無秩序に行われたこれまでの制度改革を整理すべく大久保を中心に内務省を設置。大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、ほぼ大久保専制体制となる。 大久保主導政府の急進的な改革に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児...
  • 王政復古 (日本)
    王政復古(おうせいふっこ)は、江戸時代末期の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に討幕派の計画により「天皇親政」が宣言された政変である。 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)とも呼ばれる。 経過 江戸時代後期には、諸外国との通商条約の締結などを巡って、朝廷の伝統的権威が復興し、幕府と朝廷の提携による公武合体政策が取られたが、一方では尊皇攘夷派など反幕府思想、武力による倒幕運動が存在した。 土佐藩からの建言もあって、第15代将軍徳川慶喜は公議政体論に基づき、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)、264年間に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上し討幕の名分を失わせた。ただし、徳川家は天皇の下に一元化された政治の中枢に入り、引き続き実権を掌握する事を想定していた。 朝廷は新たな公議政体を創設するため、徳川...
  • 大東亜省
    大東亜省(だいとうあしょう)は、大日本帝国の委任統治領であった地域及び同国が第二次世界大戦(大東亜戦争)に於いて占領した地域を統治するために置かれた省である。 概説 東條英機内閣(提案の中心となったのは鈴木貞一企画院総裁)によって、昭和17年(1942年)11月1日に設置される。拓務省が他省庁(興亜院、対満事務局、外務省東亜局及び南洋局)とともに一元化され、官房、参事、総務局、満洲事務局、支那事務局及び南方事務局によって構成される。いわゆる大東亜共栄圏諸国を他の外国とは別扱いとして外務省の管轄から分離させて、日本の対アジア・太平洋地域政策の中心に据える構想であった。イギリスにおけるインド植民省をモデルとしていた。 が、当時の外務大臣東郷茂徳はこれは「二元外交」を招くもので、アジア諸国や敵国(連合国)に日本がこれらの地域の植民地支配を画策していると言う誤ったメッセージとして受け取られか...
  • 宮中某重大事件
    宮中某重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)は、1921年(大正10年)に、裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(のちの香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝があるとして、元老・山縣有朋たちが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件である。 概要 良子女王の兄・朝融王が、学習院の身体検査において色弱だったことが発見されたのが発端となった。元老の山縣らは、良子女王の家系が色盲の遺伝があるとして、女王及び久邇宮家に婚約辞退を迫った。 当時軍部と政界に隠然たる勢力を持っていた山縣による皇室への干渉は、宮中・政府・世間を巻き込んだ騒動になった。1920年(大正9年)6月18日に宮内大臣波多野敬直が更迭され、これに代わって元満鉄総裁の中村雄次郎が色覚異常の真偽を確かめることになった。 これを受けた当初は久邇宮家も辞退やむなしの動きを見せたが、当時病気療養中であ...
  • 薩英戦争
    薩英戦争(さつえいせんそう、英:Anglo-Satsuma War、文久3年7月2日(1863年8月15日) - 7月4日(8月17日))とは生麦事件の解決を迫るイギリスと薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における砲撃事件である。鹿児島では「まえんはまいっさ」(前之浜戦)と呼ばれる。薩英戦争の結果、薩摩藩は攘夷が実行不可能であることを理解しイギリスは幕府支持の方針を変更して薩摩藩に接近した。 生麦事件 文久2年8月21日(1862年9月14日) - 生麦事件発生。横浜郊外の生麦村で薩摩藩の行列を乱したとされるイギリス人4名のうち3名を薩摩藩士・奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷(死亡1名負傷2名)。 交渉 Template 正確性? 交渉までの経緯については、備考を参照のこと。 文久3年(1863年) 5月(5or6月) - イギリス公使代理のジョン・ニールは幕府...
  • 徴兵令
    徴兵令(ちょうへいれい、太政官布告無号)は、1873年(明治6年)に制定され、国民の兵役義務を定めた日本の法令。1927年(昭和2年)、兵役法に移行した。 前史 明治新政府の軍は、長州(長)・薩摩(薩)・土佐(土)など諸藩の軍の集合で、大村益次郎、西郷隆盛、板垣退助らがそれぞれ指揮しており、政府独自の軍を持たなかった。大村や西郷従道、山縣有朋(論主一賦兵徴兵令 ( ちょうへいれい)-国民皆兵と壮丁教育)らは早くから四民平等の理念もあり「国民皆兵」の必要性を唱えていたが、政府内にも島津久光を筆頭に前原一誠・桐野利秋ら保守的な反対論者を多数抱えており、また西郷隆盛も「壮兵」といって、中下層士族の立場を考慮した志願兵制度を構想していて徴兵制には消極的であった。そのうち、大村が暗殺された事もあって構想は一旦は挫折する事となった。 明治3年11月13日(新暦:1871年1月3日)に山縣有朋...
  • 山本権兵衛
    Template 日本の内閣総理大臣? 山本 権兵衛(やまもと ごんべえ または やまもと ごんのひょうえ とも 、1852年11月26日(嘉永5年10月15日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は、日本の武士・薩摩藩士、海軍軍人、政治家。第16および第22代の内閣総理大臣。階級位階勲等爵位は海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。本名:進水式で祝詞用に神主がつけた名前のごんのひょうえを通称にしていたが、本称は「ごんべえ」である。諱は盛武。 海軍軍人として数々の軍政改革を行い、日清戦争・日露戦争を屋台骨から支えた。この頃の山本を、司馬遼太郎などは、「日本海軍のオーナー」という言葉で評している。その後大正期に二度首相となりリベラルな姿勢を見せるが、二度ともスキャンダルに見舞われ、満足な業績を残せぬまま辞職した。 また、様々な文献で元帥となっている場合があるが、山本が元帥だった事実は無い。...
  • 中江兆民
    Template Infobox Celebrity? 中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。 父は土佐藩足軽の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(176...
  • 岩倉具視
    {{政治家 |各国語表記 = いわくら ともみ |画像 = Tomomi Iwakura 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1825年10月26日(旧暦)1825年9月15日 |出生地 = 京都 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 京都 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正一位・大勲位 |配偶者 = 野口槇子 |国旗 = 日本 |職名 = 第2代外務卿 |内閣 = |当選回数 = |就任日 = 1871年7月14日 (旧暦) |退任日 = 1871年11月4日 (旧暦) |退任理由 = |元首職 = 天皇 |元首 = 明治天皇 }} 岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日)- 明治16年(1883年)...
  • 近衞文麿
    Template 日本の内閣総理大臣? 近衞 文麿(このえ ふみまろ、明治24年(1891年)10月12日 - 昭和20年(1945年)12月16日)は、日本の政治家。第5代貴族院議長。第34、38、39代内閣総理大臣。 爵位は公爵であり、かつ五摂家筆頭である近衛家の当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。 来歴・人物 生い立ち 1891年(明治24年)10月12日、公爵近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵前田慶寧の三女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。文麿は皇別摂家の生まれであり、父系をさかのぼると天皇家に行き着く。しかし母は文麿が幼いときに病没、篤麿は衍子の妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由といわれる。一方の文麿は貞を長年実母と...
  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • 昭和天皇
    Template 半保護S?Template 基礎情報 天皇? 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日 - 1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。歴代天皇の中で(神話上を除き)在位期間は最も長く、最も長寿であった。 (現在の)今上天皇の実父にあたる。 略歴 thumb|200px|[[香淳皇后とともに。]] thumb|200px|[[1922年、イギリス皇太子エドワード・デイヴィッド(右)訪日時、貞明皇后(中)とともに。]] thumb|200px|[[1928年、即位の礼。]] thumb|200px|[[1946年11月3日、日本国憲法に署名。]] 昭和天皇は、1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、大正天皇と皇后・九条節子(貞明皇后)の第一皇子として、東...
  • 日本海海戦-2
    前半は日本海海戦参照 バルチック艦隊の敗因 長途の航海 バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がなく、またウラジオストクでも補給は期待できないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復元力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。 長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入ら...
  • 東郷茂徳
    Template 日本の閣僚? 東郷 茂徳(とうごう しげのり、明治15年(1882年)12月10日 - 昭和25年(1950年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。 人物 東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務め...
  • 廃藩置県
    廃藩置県(はいはんちけん)とは明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 背景 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古のクーデターは事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。 一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを府藩県三治制という。なお「藩」とい...
  • 西園寺公望
    Template 日本の内閣総理大臣? 西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日(1849年12月7日) - 昭和15年(1940年)11月24日)は日本の公家、政治家。立憲政友会第2代総裁。第12・14代内閣総理大臣。贈従一位、大勲位、菊花章頸飾、公爵。本姓は藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。 大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。 文化人、趣味人としても名高く、陶庵と号し書を能くし、叙情あふれる漢詩も多く残している。 そして森鴎外ら第一級の文人たちを招じ雨声会と称したサロンを主催した。 生涯 生い立ち 西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。両家は藤原房前を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統である。...
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