chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「島田東助」で検索した結果

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  • 第1次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ かつら ないかく|11|桂太郎|Template 和暦?|6月2日|Template 和暦?|1月7日|官僚内閣、帝国党|第7回衆議院議員総選挙第8回衆議院議員総選挙第9回衆議院議員総選挙|(1902年(明治35年)8月10日任期満了)1902年(明治35年)12月28日1903年(明治36年)12月11日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/11.html|陸軍大将}}この後、10年以上にわたって続く桂園時代の初めの内閣である。 概要 前の第4次伊藤内閣の崩壊後、当初井上馨に大命降下されたが、期待していた渋沢栄一の大蔵大臣就任が実現せず、同じく立憲政友会も混乱状態にあったため、井上は組閣辞退を表明した。元勲世代からの総理大臣擁立は困難と考えた元老によって、新たに推されたのが桂であった。山縣有朋系官僚を中心...
  • 桂園時代
    桂園時代(けいえんじだい/けいおんじだい)とは、陸軍・山縣有朋閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派...
  • 第2次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ かつら ないかく|13|桂太郎|Template 和暦?|7月14日|Template 和暦?|8月30日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/13.html|陸軍大将・軍事参議官}} 概要 第2次桂内閣は、1908年(明治41年)7月12日に大命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園...
  • 第2次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ やまがた ないかく|9|山縣有朋|Template 和暦?|11月8日|Template 和暦?|10月19日|藩閥内閣、官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/09.html|貴族院議員・元老}} 概要 憲政党分裂騒動によって前内閣が倒れると、Template 和暦?11月5日に山縣が大命降下を受けて、自派の藩閥官僚を中心とした組閣を行った。当初、地租増徴を実現させるために憲政党(自由派)と連携して地租増徴や日本興業銀行法を実現させた。だが、その後、同党からの入閣の約束を一方的に反故にして、文官任用令改正を行い、続いて文官分限令・文官懲戒令・治安警察法の制定、軍部大臣現役武官制の導入などで、政党を政府から排して超然主義による国家運営を目指した。だが、これによって衆議院を敵に回した山縣の政...
  • 第3次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ かつら ないかく|15|桂太郎|Template 和暦?|12月21日|Template 和暦?|2月20日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/15.html|元老・内大臣兼侍従長}}在任期間は62日間で、東久邇宮内閣(54日間)に次いで史上第2位の短命内閣である。 概要 これまで「桂園時代」と呼ばれて桂太郎と西園寺公望が交替して政権を担当しており、順番からすれば桂が推挙される筈であったが、この頃、桂と山縣有朋の確執が深刻化し、4ヶ月前の大正天皇践祚を機に内大臣兼侍従長に祭り上げられていた。そのため、元老の中から松方正義が推されたが78歳であることを理由に辞退し、山本権兵衛・平田東助も組閣の自信がないとして辞退した。このため、山縣もやむなく桂を再度推挙することとした。桂は山縣には依存...
  • 第4次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい4じ いとう ないかく|10|伊藤博文|Template 和暦?|10月19日|Template 和暦?|6月2日|立憲政友会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/10.html|立憲政友会総裁・元老}} 概要 これまでの3度の伊藤内閣と異なり、伊藤系官僚と旧憲政党によって結成された立憲政友会を与党とする事実上の政党内閣である。Template 和暦?10月1日に同党が結成されると、前首相山縣有朋が結党直後の同党を揺さぶるために総裁に就任した伊藤に強引に政権を押し付ける形で成立した。外務大臣と軍部大臣以外は全員が政友会に入党していた。だが、山縣は陸軍と貴族院を利用して政友会攻撃を行い、明治天皇の詔書によって漸く事態を収拾した。加えて政友会の実力者であった逓信大臣星亨が汚職で辞職に追い込まれると、未だに...
  • 内大臣府
    内大臣府(ないだいじんふ)は、大日本帝国(日本)において、宮中にあって天皇を補佐し、宮廷の文書事務などを所管した政府機関である。1885年創設、1945年廃止。長は内大臣(ないだいじん)。 概要 明治政府が1885年に太政官制を改め内閣制度を発足させた折に、内閣を構成し政務を司る内閣総理大臣はじめ国務大臣と分離し、閣外の宮中職としての内大臣の官職を復活させ、その職掌を司る庁として創設された。 明治政府下における内大臣は常に天皇の側にあって補佐する宮中の官職であり、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他の宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、人民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、天皇の意向に従って、これを処理するなど側近としての重要な役割を果たした。内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、憲法学者ですら明確に定義することができないほど、非常に曖昧かつ抽象的なもので、全ては就任した...
  • 岩倉使節団
    thumb|350px|左から[[木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]] 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名で構成された。 概要 明治4年(1871年)に横浜港を船で出発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問した後、ヨーロッパへ渡り各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。帰途はアジア各国への訪問も行われたがこれはヨーロッパでの滞在に比べれば短いものであった。日本に帰国したのは出発から2年後の明治...
  • 超然主義
    超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。ま...
  • 鰻香内閣
    鰻香内閣(まんこうないかく)とは、1914年のシーメンス事件による山本権兵衛内閣の総辞職後に、枢密院顧問清浦奎吾が組閣の大命降下を受けながら辞退に追い込まれた騒動を皮肉った表現である。 貴族院と山本内閣倒閣運動 シーメンス事件で山本権兵衛首相の出身母体である海軍と特定企業の癒着が問題になった際に、新年度予算案における海軍予算の削減が問題となった。貴族院では最大会派の研究会と同じく有力会派の茶話会が実現不可能な削減要求を成立させて山本内閣を総辞職に追い込んだ。研究会と茶話会はいずれも元老山縣有朋の側近である清浦奎吾と平田東助が貴族院議員時代に代表者を務めていた会派であり、超然主義を奉じて政党政治に否定的な姿勢を示していた。特に当時貴族院の最大会派であった研究会は政党との関係を持っただけで議員が会派から除名されるほどの徹底ぶりであったとされるほどの反政党主義であり、ともに山本が立憲政友...
  • 平泉澄
    ...と、特攻作戦の実施を島田東助に伝え、1945年(昭和20年)になると、陸軍大臣阿南惟幾に昭和天皇の松代大本営行幸案に対して反対の意を示し、さらにはアメリカ本土への空爆を主張した。ポツダム宣言が受諾された8月10日以降には、一部の将校が徹底抗戦を主張して平泉に決起を促した。だが、平泉は「承詔必謹」(天皇の命令には必ず従わなければならない、という意味)を唱えて、彼等の主張に乗らず、そのため青々塾出身の将校の中には、平泉の態度に憤慨した者もいたという。結局、平泉門下の者も含めて一部将校らは、ポツダム宣言受諾表明前夜の1945年8月14日に宮城事件を引起したものの、このクーデターは失敗に終わっている。 戦争が終結した1945年8月17日、平泉は敗戦の責任をとって東京帝国大学教授を辞職した(辞表の日付は昭和20年8月15日)。辞表を提出した後、その結果を聞くことなく、直ちに白山神社に帰郷し、...
  • 大正政変
    大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる ref name=okubo 大久保(1964)。 狭義の大正政変 概略 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会を推し、自分は再び政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだに結んだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御...
  • 山縣有朋
    Template 日本の内閣総理大臣? Template Infobox 軍人? 山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日は、日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。 奇兵隊を率いて倒幕で活躍。明治新政府では日本陸軍の基礎を築いた。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。 経歴 幕末期 萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。 久坂玄瑞の紹介で吉田松陰が主催する...
  • 川俣事件
    川俣事件は、1900年2月13日、群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現明和町)で、足尾鉱毒事件に関して、政府に請願するために出かける途中の農民と警官が衝突した事件。当時は兇徒聚集事件と呼ばれた。明治期の大規模な集会・言論弾圧事件として有名。 農民67名が逮捕され、うち51名が兇徒聚集罪などで起訴されたが、1902年12月25日、仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着した。 概要 第1回~第3回押出し 足尾銅山による鉱毒被害が増大すると、衆議院議員田中正造の主導の下、1896年10月4日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現館林市)にある雲龍寺に、栃木・群馬両県鉱毒事務所がおかれた。 農民らは結束して東京に請願に出かけることにし、1897年3月2日、第1回の請願が行われた。当時、このような活動には名前がなく、農民らは東京大挙押出しと呼んだ。参加者は2000人。農民らは、米を持...
  • 貴族院 (日本)
    貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下において1890年(明治23年)から1947年(昭和22年)まで存在した帝国議会の一院。衆議院とは同格の関係にあった(ただし衆議院には予算先議権があった)。 非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく、議員の多くが終身任期だった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、良くも悪くも「衆議院のカーボンコピー」という批判は存在しなかった。 概要 thumb|250px|[[1936年(昭和11年)、貴族院開院式にて貴族院議長近衛文麿が勅語奉答文を朗読]] 議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)その他の法令に定められた。 議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち伯爵・子爵・男爵議員...
  • 西郷隆盛-3
    前半は、西郷隆盛及び西郷隆盛-2参照 人物評 愛称 「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。 肥大 「先生の肥大は、始めからぢや無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」『西南記伝』引高島鞆之助実話...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 岩崎弥太郎
    岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。 人物 土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。 幕末、土佐藩参政吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事する。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国、職を辞した。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され、坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当した。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、...
  • 後藤象二郎
    Template 政治家? 後藤 象二郎 / 象次郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日)- 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の武士・土佐藩士、政治家。爵位は伯爵。農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、他に保弥太、良輔。雅号は暢谷。 生涯 生い立ち 土佐藩の高知城下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んだ。 安政5年(1858年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍したが、翌年に吉田が暗殺され、拠り所を失った後藤は失脚する。 文久3年(1863年)に、再び役職を得、また前藩主山内容堂の信頼を...
  • 紀尾井坂の変
    紀尾井坂の変(きおいざかのへん、1878年(明治11年)5月14日)は、明治の元勲・大久保利通が東京の紀尾井町清水坂で士族6名によって暗殺された事件。「紀尾井坂事件」「大久保利通暗殺事件」ともいう。 事件の経緯 当時、大久保は1877年(明治10年)の西南戦争で政府軍を指揮したばかりであった。また、薩摩や土佐などといった不平士族または自由民権運動者からは、「有司専制」と非難されていた。事件はそのような最中に起こる。 大久保は1878年(明治11年)5月14日午前8時ごろ、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、二頭立ての馬車で赤坂仮皇居へ向かう。同日午前8時30分頃、東京の紀尾井町清水坂(紀尾井坂)において、石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名が大久保の乗る馬車を襲撃。日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を...
  • 又新会
    又新会(ゆうしんかい)は、明治末期に存在した革新派政党。立憲政友会に対抗して都市生活者の支援と対外強硬論を軸とした。ここではその母体となった猶興会(ゆうこうかい)についても合わせて解説するものとする。 猶興会 猶興会(ゆうこうかい)は、1906年12月20日に政交倶楽部を中心とした既成政党に不満を持つ36名の代議士によって結成された政党である。菊池武徳・山口熊野を幹事(代表)とし、河野広中・大竹貫一・島田三郎・小川平吉・尾崎行雄・奥田義人・花井卓蔵らが参加した。 日露戦争後の政府の膨張予算とそれに伴う増税方針に強く反対し、「政界革新同志会」を旗揚げして全国運動を展開する。憲政本党・大同倶楽部と連携して政友会の第1次西園寺内閣の政策を糾弾して国民負担の軽減と軍事優先政治の解消を求めた。その反面、対外的にはタカ派的色彩が強く、ハーグ密使事件では政府・韓国統監府の対応を「弱腰」であると...
  • 革新倶楽部
    革新倶楽部(かくしんくらぶ)は、日本の大正時代の政党である。 1922年11月8日、立憲国民党を解党した犬養毅、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らを中心に結成された。立憲国民党・無所属倶楽部や憲政会脱退派などの非政友会系を合同して絶対多数であった立憲政友会に対抗した。政治的主張として、普通選挙に基づく政党内閣制、軍部大臣現役武官制廃止、師団半減などの軍縮、知事公選、行財政整理、金解禁、義務教育の延長、労働および小作問題の立法的解決、ソビエト連邦承認などを掲げていた。 第二次護憲運動では、立憲政友会、憲政会と護憲三派を組んで、清浦奎吾内閣を打倒した。選挙後、成立した加藤高明を首班とする護憲三派内閣では犬養は逓信大臣として入閣した。だが、この時の総選挙で立憲政友会と憲政会の間で埋没した形となった革新倶楽部は議席を43から30に大幅に減らした事から、両党への不信感や党の将来に対する不安を抱く議員...
  • 鳩山一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年(明治16年)1月1日 - 1959年(昭和34年)3月7日)は、日本の政治家、弁護士。第52・53・54代内閣総理大臣。正二位 大勲位。 初代自民党総裁であり、日本国とソビエト社会主義共和国連邦との二国間の国交回復を成し遂げた内閣総理大臣でもある。 経歴 1883年(明治16年) 東京市牛込区東五軒町に出生、父・鳩山和夫は文部省第1期留学生、弁護士、東京府議会議員。母・春子は東京女子師範学校の英語教師、明治19年共立女子職業学校(共立女子大学)を創立 1907年(明治40年) 東京帝国大学英法科卒、父の弁護士事務所に勤める 1908年(明治41年) 右翼団体玄洋社出身の衆議院議員秘書課長寺田栄の長女寺田薫と結婚。 1911年(明治44年) 父・和夫が死去(衆議院議員兼東京市議、東京...
  • 立憲政友会
    立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、日本の明治後期から昭和前期までの、立憲民政党とならぶ二大政党の1つである(1900年9月15日 - 1940年7月16日(正統派・統一派)/同7月30日(革新派))。略称は政友会(せいゆうかい)。 沿革 1900年(明治33年)9月15日、超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に第4次伊藤内閣を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を...
  • 犬養内閣
    {{日本の内閣記事|いぬかいないかく|29|犬養毅|Template 和暦?|12月13日|Template 和暦?|5月26日|立憲政友会|第18回衆議院議員総選挙|1932年(昭和7年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/29.html|立憲政友会総裁・衆議院議員}} 概要 立憲政友会を中心とする政党内閣である。しかし、この内閣は五・一五事件により崩壊し、これ以後日本は一気に軍国主義に傾くため、これが事実上戦前最後の政党内閣となる。 1932年(昭和7年)5月の五・一五事件によって犬養毅が暗殺され、宮中席次の序列に則り、大蔵大臣高橋是清が内閣総理大臣臨時代理を務めた。 閣僚 総理大臣 犬養毅(1931年(昭和6年)12月13日 - 1932年(昭和7年)5月16日) 高橋是清(臨時兼任、1932...
  • 廣田内閣
    {{日本の内閣記事|ひろた ないかく|32|広田弘毅|Template 和暦?|3月9日|Template 和暦?|2月2日|挙国一致内閣。立憲民政党・昭和研究会など中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/32.html|外務大臣| |廣田内閣の閣僚}} 概要 廣田内閣は、元老・西園寺公望の奏薦により、前の岡田内閣の外務大臣であった廣田弘毅が、二・二六事件の後に組閣した内閣である。軍部の抵抗により組閣は難航した。広義国防国家の樹立を目標とし、経済の国家統制を進めるなど、準戦時体制の整備に努める。五相会議で軍備増強と国家総動員体制の構築を目指す「国策の基準」を定め、軍部大臣現役武官制を復活し、日独防共協定を締結するなど、軍国主義国家体制の先鞭をつけた。また、国民精神の作興を掲げて『国体の本義』を発行し、文化勲章を制定した...
  • 立憲改進党
    立憲改進党(りっけんかいしんとう)は明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つ(1882年4月16日-1896年3月1日)。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。 概要 明治14年の政変によって政府を追放された大隈が新党結成を構想、1882年3月14日に新党の趣意書を発表して4月16日に東京の明治会堂で結党式を開催した。都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤として、「王室の尊栄」・「人民の幸福」を2大方針として政治漸進主義を唱え、イギリス流立憲君主制・二院制議会・財産制限選挙制・国権拡張などの穏健な立憲政治を目標に掲げた。総理には大隈、副総理には河野、これを補佐する掌事には小野梓・牟田口元学・春木義彰が就任した。主なメンバーとしては他に矢野文雄、沼間守一、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、島田三郎、箕浦勝人らがいる。だが、メンバーも多彩で慶應義塾系や自由党...
  • 帝人事件
    帝人事件(ていじんじけん)は、昭和初期の疑獄事件。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となり、倒閣を目的にしたでっち上げと言われた。 経緯 帝国人造絹絲株式会社(帝人)は鈴木商店の系列であったが、1927年の恐慌で鈴木商店が倒産すると、帝人の株式22万株は台湾銀行の担保になった。業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こっていた。元鈴木商店の金子直吉が株を買戻すため、鳩山一郎や「番町会」という財界人グループに働きかけ、11万株を買戻した。その後帝人が増資を決定したため、株価は大きく値上がりした。 1934年1月、時事新報(武藤山治社長)が「番町会」を批判する記事を掲載、その中で帝人株をめぐる贈収賄疑惑を取り上げた。当時文部大臣の鳩山一郎は議会で関連を追及され「明鏡止水の心境」と述べたところ、辞任の意思表示だと報道されたため、嫌気がさして辞任。(なお...
  • 米内内閣
    {{日本の内閣記事|よない ないかく|37|米内光政|Template 和暦?|1月16日|同年|7月22日|官僚・軍人が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/37.html|海軍大将}} 概要 前の阿部内閣が総辞職した後、新内閣の首相には当初陸軍大臣畑俊六が噂されていた。しかし、昭和天皇が当時の日独伊三国同盟締結を求める風潮を憂慮したために、海軍良識派である海軍大将の米内光政に組閣の大命が降下された。米内は組閣と同時に自ら現役を退き予備役となるが、親英米派で日独伊三国同盟反対論者だったこと、近衛文麿らによる新体制運動にも冷淡な姿勢を貫いたこと等により陸軍や親軍的な世論から不評を買う。米内内閣成立後の斎藤隆夫(立憲民政党)による反軍演説も陸軍の反発を招いた。 組閣から半年後の1940年(昭和15年)6月、フランス...
  • 上海停戦協定
    上海停戦協定(しゃんはいていせんきょうてい)とは、1932年1月28日より開始した第1次上海事変における日本と中華民国との間で締結された停戦協定文である。 本協定文には本来標題は無いが、当時、外務省において便宜上、同標題が付けられた。 本文 第1条 日本国及中国の当局は既に戦闘中止を命令したるに依り昭和七年五月五日より停戦が確定せらるること合意せらる。双方の軍は統制の及ぶ限り一切の且有あらゆる形式の敵対行為を上海の周囲に於て停止すべし。停戦に関し疑を生ずるときは、右に関する事態は参加友好国の代表者に依り確めらるべし。 第2条 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。 第3条 日本国軍隊は昭和七年一月二十八日の事件前に於けるが如く、共同租界及虹口方面に於ける租界外拡張...
  • シーメンス事件
    シーメンス事件(シーメンスじけん)は、ドイツのシーメンス社の行った日本海軍高官への贈賄事件のこと。ヴィッカース社への巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。大正3年(1914年)1月に発覚し同年3月には海軍長老の山本権兵衛を首班とする山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた。 事件の背景 海軍は明治初年以来、イギリス・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。 明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の大正2年(1913年)には、大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けら...
  • 小磯内閣
    {{日本の内閣記事|こいそ ないかく|41|小磯國昭|Template 和暦?|7月22日|Template 和暦?|4月7日|翼賛政治会など。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/41.html|予備役陸軍大将・朝鮮総督|画像= |画像説明=小磯内閣の閣僚。最前列右端が米内海相、その左隣が小磯首相。}}1945年(昭和20年)4月5日に内閣総辞職し、次の鈴木貫太郎内閣成立までの間、職務を執行した。 概要 前の東條内閣は、政策・軍事指導の両面に行き詰まっていたため、重臣たちが倒閣に動き、渋る東條英機首相を説得してようやく降ろすことに成功した。しかし、その後任として適当な人物はなかなか見出せず、結局、朝鮮総督の小磯國昭が大命降下を受け、小磯内閣が組閣された。昭和天皇は、久しく中央政官界から離れており、国内にさしたる政治基盤を...
  • 坂本龍馬
    Template Infobox 革命家? 坂本龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊 (浪士結社)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈官位、正四位。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事跡についてはさまざまな論議がある。 諱は直陰のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。「龍馬」は慣用音(『広辞苑』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたこと...
  • 岩倉具視-2
    前半は岩倉具視参照 官歴 ※日付は明治4年までは旧暦。 天保9年(1838年) 10月28日、従五位下叙位。 12月11日、元服し、昇殿を許される。 天保12年(1841年)6月4日、従五位上昇叙。 弘化2年(1845年)2月18日、正五位下昇叙。 嘉永7年1854年) 3月20日、侍従任官。 6月10日、従四位下昇叙し、侍従元の如し。 万延元年(1860年)12月29日、右近衛権少将に転任。 万延2年(1861年)1月5日、正四位下昇叙し、右近衛権少将元の如し。 文久2年(1862年) 5月15日、左近衛権中将に転任。 8月20日、左近衛権中将辞任し、蟄居。 8月22日、落餝。法名:友山 慶応3年(1867年) 12月9日、明治政府参与兼務。 12月27日、明治政府参与から議定に異動兼務。 慶応4年...
  • 皇室会議
    皇室会議(こうしつかいぎ)は、皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範28条以下に定められる。重要事項について、皇室会議の「議を経」または「議によ」ることとされ、諮問機関とは一線を画する。 なお、宮内庁長官が議員として参加する、会議が宮内庁本庁舎において行われる等宮内庁とは関係は深いものの、それぞれはお互いに独立した機関である。 皇室会議で決すべき事項 「皇室会議は、この法律及び他の法律に基く権限のみを行う」(皇室典範37条)と定められているので、皇室会議で決すべき事項は、新たな法律の制定・改廃がされない限り以下のもののみである。※印が付されているものは、出席議員の3分の2以上の多数で決する事項。 皇位継承関係 皇位継承順位の変更(皇室典範3条)※ 婚姻関係 立后(天皇の婚姻)と皇族男子の婚姻(皇室典範10条) 他の事項が皇室会議の「議による」...
  • 木戸孝允-2
    前半は木戸孝允を参照 人物 木戸孝允の苦悩の原因 木戸自身は、文明開化を自ら実践し、自ら世間に開明諸施策を率先して推進し続けた大胆かつ繊細な開明派である。ところが同時に、安政の大獄や新選組や長州征伐や戊辰戦争など数々の修羅場の経験に裏打ちされた用心深い漸進(ぜんしん)派でもある。 このため、木戸は、開明思想乏しくして明治政府に参加してしまった守旧派からも、また、現実や経験を踏まえず輸入物の知識による理念だけで権力闘争したがる急進派からも、上策ないし是とは判断し得ない下策をいちいち訴えられ続けた。つまり真反対の両方向から全く相異なる苦悩を同時に抱え込まされ続けるという非常に割に合わない難業に木戸は耐え続けていたことになる。 そのため、病気が再発・悪化した明治6年以降は、明治政府とはしばしば明確に距離を置き始める。 そして、一方ではその当時としては余りにも先見的な提言を残した...
  • 孫文
    孫 文 初代中華民国臨時大総統 プロフィール 出生 1866年11月12日Template QIN1890?広東省 死去 1925年3月12日Template Flagicon?北京 出身地 清国広東省中山市(香山県) 職業 政治家、革命家、中華民国臨時大総統 政党 同盟会、 中国国民党 各種名称 譜名 德明 幼名 帝象 字名 載之 号・教名(受洗名) 日新、逸仙 日本名 中山樵(なかやましょう)、高野長雄(たかのながお) 慣称 孫中山 各種表記 簡体字 孙中山 繁体字 孫中山 ピン音 Sūn Zhōngshān 和名読名 そん ちゅうざん 発音転記 スン ヂョンシャン ラテン字 Sun Chung-shan 英語名 Sun Yat-sen ■ ポータル ■テンプレート ■ノート...
  • 大久保利通
    {{政治家 |各国語表記 = おおくぼ としみち |画像 = Toshimichi Okubo 4.jpg |画像説明 = 大久保利通 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1830年9月26日 |出生地 = 薩摩国鹿児島城下 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 東京府麹町区 |称号・勲章 =従一位、勲一等旭日大綬章 |配偶者 = 大久保満寿子 |国旗 = 日本 |職名 = 第3代大蔵卿 |就任日 = 1871年8月13日 |退任日 = 1873年10月12日 |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代内務卿 |就任日2 = 1873年11月29日 |退任日2 = 1874年2月14日 |退任理由2 = |国旗3 = 日本 |職名3 = 第3代内務卿 |就任日3 = ...
  • 幕末
    Template 日本の歴史? 幕末(ばくまつ)とは、ある幕府による国内統治の末期のことをいう。単に「幕末」といった時は、江戸幕府末期の時代(19世紀半ば)を指す。 概説 幕末の期間に関する厳密な定義はないが、嘉永6年(1853年)の黒船つまりアメリカ合衆国のマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍のサスケハナ号、サラトガ号、ポーハタン号、ミシシッピ号による艦隊の来航から、慶応3年(1867年)に徳川慶喜が大政奉還をおこなって幕府が日本の全国政権としての地位を失い、翌1868年に明治天皇が即位して元号が「明治」と改元されたときまでとするのが、一般的である。幕府という名目が失われた大政奉還(1867年)、旧幕府軍による抵抗が終了した箱館戦争の終戦(1869年)、幕藩体制が完全に終結した廃藩置県(1871年)なども画期となりうる。 幕末は、徳川宗家の当主が征夷大将軍職に就き、幕府の主宰者とし...
  • 国体
    国体(こくたい)は、天皇が、すべしろしめす日本の国柄を指す。  概要 国体とは、「神の御子孫たる皇孫が、天地が果てることの無きが如く、統べ治め給う。」皇典編纂局編『熊沢天皇箴言集』第2巻、247頁 1942年、皇典編纂局。 というわが国固有の御神勅に基づく国のあり方を中心的観念とする。『国体の本義』には以下のようにある。「天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)宝祚(あまつひつぎ)の...
  • マレー作戦
    Template Battlebox? マレー作戦(まれーさくせん, Battle of Malaya, 日本側作戦名「E作戦」)は、大東亜戦争(太平洋戦争)序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。 1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホールバル市に突入した。これは戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。 背景 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時における日本軍の戦略目標はオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールは戦艦プリンス・オブ・ウェールズと...
  • 勝海舟
    勝 海舟/勝 安芳(かつ かいしゅう/かつ やすよし、文政6年1月30日(1823年3月12日) - 明治32年(1899年)1月21日)は、幕臣、政治家。明治期の枢密顧問官、位階勲等は正二位勲一等伯爵。 幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳 /small 。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音(あ−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」からとったという。 父は旗本小普請組の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟にあたる。海舟も十代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。 山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。哲学館(現:東洋大学)に対して多くの寄付をし、「哲学館の三恩人」の一人にも...
  • 西郷隆盛
    Template Infobox 軍人? 西郷 隆盛(さいごう たかもり、文政10年12月7日〈グレゴリオ暦1828年1月23日・ユリウス暦1828年1月11日〉 - 明治10年〈グレゴリオ暦1877年〉9月24日)は、日本の武士・薩摩藩士、軍人、政治家。薩摩藩の盟友大久保利通、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。 人物 名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛(たかもり)と改めた。西郷家の家長は吉兵衛と名乗り、西郷の本名は8代目西郷吉兵衛隆永と言う、初代は熊本より鹿児島に移り住む、幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。隆盛の名は父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたため、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大...
  • 西郷隆盛-2
    前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革...
  • 軍歌
    軍歌(ぐんか)とは、主に軍隊内で、士気を高めるために歌われる歌のことをいう。歴史的な出来事を扱ったものから、戦死した犠牲者を悼むことを目的とするものまで内容は様々である。また、一部の軍歌は、国歌としてそのままもしくは楽譜を使用されることもある。 世界の軍歌 世界的に有名な軍歌というと、フランスの国歌であるラ・マルセイエーズ(ライン軍軍歌)等があり、現在でも国歌として歌われているものもある。国歌として歌われているもののほとんどは革命歌であり、他国との戦争時に歌われたものでないことが多い。しかし、元は軍歌であるため、内容が過激であるという指摘もある。ラ・マルセイエーズを冬季オリンピック開会式にて少女に歌わせた際、フランス国内から過激すぎるとの批判も出るなど、国歌を変更しようとする論争にもなることがあった。 世界の代表的な軍歌 抜刀隊(分列行進曲) (大日本帝国陸軍、陸上自衛隊、警察...
  • 沖縄戦-2
    前半は、沖縄戦参照 戦闘推移 事前攻撃 thumb|right|180px|[[1945年、沖縄戦に参加するため、日本各地から集結した平均年齢17歳の特攻隊員達(陸海軍計2500機の特攻機が投入された)]] アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。 沖縄本島への侵攻作戦の可能性が高いと判断した大本営は、3月20日に天号作戦を下令した。現地の第32軍も2...
  • 足尾鉱毒事件
    足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、19世紀から20世紀の栃木県、群馬県で起きた足尾銅山の公害事件。明治時代後期に発生した日本の公害の原点である。足尾銅山鉱毒事件と表記される場合も多い。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。 経緯 鉱山の近代化 現在の栃木県日光市足尾地区では江戸時代から銅が産出していたが、その最盛期は江戸時代前期であり、幕末はほとんど廃山の状態で国有となった。 明治維新後、民間に払い下げられ、1877年に古河市兵衛の経営となる。古河は鉱山発掘の近代化を進めると1885年までに大鉱脈が発見され、西欧の近代鉱山技術を導入し、日本最大の鉱山となり、年間生産量が数千トンと東アジア一の銅の産地となる。この銅は当時の日本の輸出品となったこの時期の全国の銅生産量の1/4は足尾銅山が占めていた。。しかし、精錬排煙や精製時に発生する鉱毒ガス(主成分...
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