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  • 東莱府
    Template 朝鮮の事物? 東莱(とうらいふ)は、現在の釜山付近に置かれた朝鮮王朝の地方行政機関。単に地方行政機関であるのみならず、中世以降近代初頭までの日朝関係において、朝鮮側の外交窓口として重要な機関であった。 正式名称は東莱都護で、長官は東莱都護使(正三品相当)だが、一般に東莱・東莱使と呼ばれている。 歴史 新羅以降、現在の釜山広域市域の大部分を管轄する東莱郡が置かれ、高麗時代には東莱県となった。朝鮮王朝でもはじめは東莱県として位置づけられていたが、1547年に東莱都護に昇格された。壬辰倭乱(文禄の役)では緒戦の攻撃目標となり、東莱使宋象賢は降伏を拒否して戦死した。乱中の一時期、防衛失敗を問われて東莱県に降格されたが、1599年に東莱都護が再設置された。 近世日朝外交の窓口 朝鮮時代後期(江戸時代)、東莱は釜山の倭館を管轄し、対馬藩との交渉に...
  • 韓国統監府
    韓国統監(かんこくとうかんふ)は、第二次日韓協約に基づき大韓帝国の外交権を掌握した日本が漢城(現・ソウル特別市)に設置した官庁である。1910年(明治43年)の韓国併合後、大韓帝国政の組織と統合の上、朝鮮総督に改組された。 一般に「韓国統監」と呼ばれているが、頭に韓国を冠記せず、単に「統監」と称するのが官制における正式名称である。 組織 内部部局 1907年(明治40年)時点 総務部 秘書課、人事課、文書課、会計課、地方課 農商工務部 商工課、農林課、水産課、鉱務課 警務部 警務課、保安課、衛生課 外務部 韓国課、外国課 法制審査会 所属官庁 1907年(明治40年)時点 通信官署 鉄道管理局 法務院 財政監査庁 観測所 地方機関 1905年(明治38年)時点 京城理事庁 仁川理事庁 釜山理事庁 元山理事庁 鎮南浦...
  • 台湾総督府
    thumb|250px|石川欽一郎作・台湾総督([[1916年)]] 台湾総督(たいわんそうとくふ、旧字体:臺灣總督)は、清国から日本へ割譲され、日本領となった台湾を統治するために設置された当時の日本の官庁名である。 台北市に設置された台湾総督本庁舎は、現在も中華民国の総統として使用されている。また昨今の国際情勢の影響により、近隣にはミサイルを多数配備し、憲兵が小銃を装備し護衛にあたっている。 概略 1895年の下関条約の締結から1945年の日本の敗戦まで台湾を支配・統治した。台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程である(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝...
  • 朝鮮総督府
    朝鮮総督(ちょうせんそうとくふ)は、1910年(明治43年)、日韓併合によって、日本の領土となった朝鮮を統治するために当時の日本政が京畿道京城(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮の敷地内に設置した官庁である。 韓国統監を前身とし、大韓帝国政の組織を改組・統合したが主要高官はほぼ日本人であった。初代総督は寺内正毅。総督は日本の現役の陸軍大将か海軍大将が歴任した。1945年太平洋戦争における日本の敗戦に伴い連合軍の指示により業務を停止。その権限はアメリカ軍政庁に引き継がれた。 総督により、言論の制限や結社の禁止、独立運動などへの取り締まり等が行われた ref name= 相賀 相賀徹夫著・編『日本大百科全書 15』1987年 小学館フランク・B・ギブニー著『ブリタニカ国際大百科事典 13』1974年 TBS-Britannica 下中直人編『世界大百科事典』1988年 平凡社...
  • 内大臣府
    内大臣(ないだいじんふ)は、大日本帝国(日本)において、宮中にあって天皇を補佐し、宮廷の文書事務などを所管した政機関である。1885年創設、1945年廃止。長は内大臣(ないだいじん)。 概要 明治政が1885年に太政官制を改め内閣制度を発足させた折に、内閣を構成し政務を司る内閣総理大臣はじめ国務大臣と分離し、閣外の宮中職としての内大臣の官職を復活させ、その職掌を司る庁として創設された。 明治政下における内大臣は常に天皇の側にあって補佐する宮中の官職であり、御璽・国璽を保管し、詔勅・勅書その他の宮廷の文書に関する事務などを所管した。また、人民より天皇に奉呈する請願を取り継ぎ、天皇の意向に従って、これを処理するなど側近としての重要な役割を果たした。内大臣の職務・権限・助言できる範囲は、憲法学者ですら明確に定義することができないほど、非常に曖昧かつ抽象的なもので、全ては就任した...
  • 関東都督府
    関東都督(かんとうととくふ)は、大日本帝国時代の遼東半島先端部の関東州を統治する機関。 概要 日露戦争後の1905年、遼陽に設置された関東総督が翌1906年、旅順に移転・改組され関東都督になった。 関東州の統治のほか、南満州鉄道株式会社の業務監督や満鉄附属地の警備も行った。 1919年の関東軍と関東庁に分かれるまで続いた。 都督 長官の都督は陸軍大将・中将から任命された。都督は「都督令」を発し、禁錮1年以下又は罰金200円以下の罰則を科すことができた。 外務大臣の監督下で清国(後に中華民国)の地方官と交渉することもできた。 また、都督は軍人であるので、関東州駐屯軍司令官も兼ね強大な権限を持った。 歴代都督 関東総督 大島義昌 大将 (1905年10月18日 - 1906年9月1日) 関東都督 大島義昌 大将 (1906年9月1日 -)...
  • 国民政府
    thumb|250px|国民政が使用した[[中華民国の国旗。1928年12月17日に、「青天白日滿地紅旗」が中国の正式な国旗として制定された。]] 国民政(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政のことである。略称は国(こくふ)。国家元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政」の定義にそれぞれ差異がある。 日本:1925年以降に国民党が樹立した政。中華人民共和国の意向を反映し、1925年から1949年までの間に国民党が中国大陸で樹立した政とする場合もある。いずれにせよ、1971年に中華民国が国際連合から脱退し、その後日本との国交が断絶してからは、国民政という呼び方は用いられなくなった。 中国:1925年の広州国民政樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政が樹立(憲政の開始)されるまでの間、「訓政時期約法」に...
  • 財閥
    ...閥 石原財閥(大阪、鉱業) 弘世財閥(大阪、鉄道、金融、保険業)(弘世助三郎) 安宅財閥(大阪、商事)(安宅弥吉) 広海財閥(大阪、貿易、海運業) 岸本財閥(大阪、貿易、海運業) 久原財閥(大阪、鉱業) 伊藤忠財閥(大阪、金融業、保険、紡績、貿易) 岩井財閥(大阪、貿易)(岩井勝次郎) 武田財閥(大阪、製薬)(武田長兵衛) 山口財閥(大阪、金融業) 藤田財閥(大阪、鉱業) 寺田財閥(大阪、紡績、電力、鉄道) 村井財閥(大阪、金融、鉱業、煙草、他)(村井吉兵衛) 大原財閥(大阪、金融、紡績、電力)(大原孫三郎) 広岡財閥(大阪、金融) 兼松財閥(兵庫県、商事) 北川財閥(兵庫県、商事) 鈴木財閥(兵庫県、商事) 乾財閥(兵庫県、金融、醸造業、海運業)(乾新兵衛) 小曽根財閥(兵庫県、多角的投資) 呉錦堂財閥(兵庫県...
  • 日本統治時代の朝鮮
    ...いて述べる。 総督の所在地は京畿道京城(現在のソウル特別市)であった。 概要 1910年、当時の大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって朝鮮総督の統治下に置かれ、日本の領土となった韓国併合条約の解釈については、現在の日本政の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっているTemplate 要出典?。 朝鮮総督は鉄道から医療まで朝鮮半島へ最新鋭の各種インフラを導入して整備するとともに、当初は憲兵警察制度(併合年で7,712名。その内、朝鮮人は4,440名水田直昌監修『統監時代の財政』122頁。)や言論・結社の自由の厳しい制限などに代表される武断統治により、朝鮮王朝末期からの一部の抗日運動を抑えようとした。1919年の3.1独立運動以後、日中戦争に...
  • 105人事件
    ...て設置された朝鮮総督の筆頭である朝鮮総督に翌日の10月1日に就任した寺内は、朝鮮において憲兵警察制度の実施に象徴される「武断統治」を行なった。寺内は1910年12月、朝鮮北西部の平壌、宣川、新義州などを視察したが、その間に朝鮮人が何度か彼の暗殺を試みたものの、いずれも失敗に終わったという噂が、1911年になって広まった。それをうけて、朝鮮総督は、同年9月までに約700人の朝鮮人を逮捕し、証拠不十分で釈放された人たち以外の122人への裁判が翌1912年に始まった。そして、朝鮮総督や朝鮮語紙『毎日申報』、日本語紙『京城日報』、英字紙『Seoul Press』といった総督系の報道機関は、逮捕者の多くがキリスト教徒だったことから在朝米国人宣教師(特に長老教)が彼らの背後で扇動したのではと疑った。一方、米国政やニューヨークに本部があった長老教教会は、「事件」との関わりを否定し、逆に朝...
  • 日本統治時代 (台湾)
    ...。この時期、台湾総督は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関心を惹起し、1897年の帝国議会では台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」まで登場した戴国煇 『台湾総体相』 1989年。こうした情況の中台湾総督には中将以上の武官が就任し台湾の統治を担当した。 1898年、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、中央政界で活躍していた後藤新平を民政長官に任命し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていく。また1902年末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義が採用されることとなった林衡道 『台湾史』1989年。 日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していた。第1が後藤新平などに代表される特別統治主義である。当時...
  • 海軍工廠
    ...(呉市)、佐世保鎮守に併設されていたが、1936年に舞鶴が工作部から海軍工廠に復帰、第二次世界大戦期間中は軍備増強により、豊川、光、相模(寒川町)、高座(座間市、海老名市)、川棚、沼津、多賀城、鈴鹿の8ヶ所に新たな海軍工廠を設置した。 海軍工廠は造船所を中心に発足し、海軍鎮守の直轄組織とされた。横須賀鎮守では、江戸幕が設置した横須賀造船所を接収した。呉鎮守では、神戸の小野浜造船所を管轄し、ここを閉所して機材を呉に移し、呉造船所を開設した。佐世保鎮守および舞鶴鎮守では、鎮守用地に造船所を新設した。また兵器・需品を製造する造兵廠は東京と呉に設置し、横須賀・佐世保・呉では保管を担当する武庫を設置して管理した。明治30年(1897年)10月より、鎮守が維持管理し、艦政本部の令達に基づいて活動する「造船廠」へと組織が改変された。 明治36年(1903年)11月、造船廠と武...
  • 廃藩置県
    ...月29日)に、明治政がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下のと県に一元化した行政改革である。 背景 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古のクーデターは事実上の中央政が江戸幕から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。 一方、旧天領や旗本支配地等は政直轄地としてと県が置かれ中央政から知事(知事・知県事)が派遣された。これを藩県三治制という。なお「藩」という制度上の呼称はこのとき初めて定められたものであり、江戸幕下の制度...
  • 三・一独立運動
    ...し、それを口実に総督が「凶悪な弾圧手段に出るかもしれない」(崔麟「自叙伝」)という恐れからであった。。参加者は、孫秉熙らの天道教代表15名、その他李昇薫らのキリスト教代表16名、韓龍雲(ハンニョンウン)、白龍城(ペクヨンソン)らの仏教代表2名の計33名であったという。そのためしばしば民族代表33人といわれる民族代表33人、彼等については評価が分かれている。独立宣言発表後すぐに朝鮮総督に自首し運動を積極的に牽引しなかったことについて、大衆に背を向けたとする説(山辺健太郎・姜徳相)と彼等を再評価する説(朴慶植)とがある。。独立宣言書は崔南善(チェナムソン)によって起草され、1919年(大正8年)2月27日までに天道教直営の印刷所で2万1千枚を印刷し、その後、天道教とキリスト教の組織網を通じて朝鮮半島の13都市に配布したとされる。 独立宣言 「吾らはここに、我が朝鮮が...
  • 内閣総理大臣の一覧
    ...らん)は、日本の行政の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 1889年10月25日 544 薩摩藩鹿児島県 後...
  • 京城帝国大学
    ...下の朝鮮の京畿道京城(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監より普通学校令が公布され、5~6年制であった小学校を4年制に改編し、教...
  • 野村吉三郎
    ...三艦隊司令長官呉鎮守司令長官横須賀鎮守司令長官 | 部隊 = | 戦闘 = | 戦功 = | 賞罰 = 従二位勲一等旭日桐花大綬章 | 除隊後 = 学習院院長外務大臣(阿部内閣)駐米大使(日米開戦時)参議院議員(戦後) | 廟 = }} 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、明治10年(1877年)12月16日 - 昭和39年(1964年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。位階勲功等は海軍大将・従二位・勲一等旭日桐花大綬章。 駐米大使として真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走した。 経歴 海軍軍人時代 明治28年(1895年)、和歌山中学校を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校で学び、海軍兵学校(26期、1898年)卒業...
  • 安重根
    ...の構内にて、韓国統監初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文を暗殺した。伊藤は満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ココフツォフと会談するためハルビンに赴いていた。旅順の関東都督地方院で死刑判決を受け、旅順刑務所で絞首刑に処せられた。 彼の決意の堅さを表すものとして、同志と共に薬指を切り、その血をもって国旗に大韓独立の文字を書いたという断指同盟の逸話が伝わっている。 獄中で安の取調べを行った日本人警視からの勧めで自伝「安応七歴史」を著した。 安重根の評価 安重根への評価は日本の植民地支配及び彼の闘争行為を肯定するか否かで分かれる。 大韓民国 (韓国) 現在の韓国では「抗日闘争の英雄」として評価され、「義士」と呼ばれており、暗殺者(テロリスト)であるものの、安を単なる殺人犯とする評価はまれである。またソウル特別市には安重根の偉業を伝える「安重根記念館」なるものもある。...
  • 日本軍
    ...連合艦隊・艦隊・鎮守の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防衛司令部が設置され、また内地に14個師団と北海道に1個師団が配備されていた。朝鮮には朝鮮軍司令部と2個師団が配備され、台湾では台湾軍司令部と台湾守備隊が置かれた。関東州・満州には関東軍司令部と関東軍守備隊、内地、朝鮮には第一航空軍が設置されていた。 海軍は、平時の編制ではまず艦船を現役艦と予備艦に分け、現役艦を以って第一艦隊と第二艦隊から構成される連合艦隊、または警備艦として鎮守に所属した。 当初は、徴兵告諭の「海陸二軍ヲ備ヘ」など海軍を先に表記することもあったが、後世は陸海軍を併記する場合は陸軍を先に表記することが通常となった。 天皇 元帥 - 天皇に対する軍事問題の最高顧問。元帥によって...
  • 大韓帝国軍
    ...に相当) 侍従武官 陪従武官 将官会議所 憲兵司令部 憲兵部 陸軍法院 研成学校 武官学校 幼年学校 軍器廠 衛生隊 侍衛渾成旅団司令部 歩兵第1連隊本部 歩兵第1連隊第1大隊 歩兵第1連隊第2大隊 歩兵第1連隊第3大隊 歩兵第2連隊本部 歩兵第2連隊第1大隊 歩兵第2連隊第2大隊 歩兵第2連隊第3大隊 騎兵隊 砲兵隊 工兵隊 軍楽隊 輜重隊 洪陵守備隊 鎮衛歩兵隊 水原歩兵大隊 清州歩兵大隊 大邱歩兵大隊 光州歩兵大隊 原州歩兵大隊 海州歩兵大隊 平壌歩兵大隊 北青歩兵大隊 階級 韓国軍人 日本軍人 将校 なし 陸軍大将 陸軍副将 陸軍中将 陸軍参将 陸軍少将 陸軍○○正領 陸軍○○大佐 陸軍○○副領 陸軍○○中佐 陸軍○○参領 陸軍○○少佐 陸軍○○正尉 陸軍...
  • 江華島事件
    ...期に開国し、明治新政が成立した日本では1868年(慶応4年)12月19日に新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を持つ使者を李氏朝鮮政に送った。しかし国書の中に「」「」の文字が入っており、冊封体制下では「皇」は中国の皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していたので、朝鮮側は受け取りを拒否した。その後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した(書契問題)。 日本側は、先に清国と日清修好条規を締結する。その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示した。ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱へ出向き、使と...
  • 土地調査事業
    ...なかった。 また政が国地勢を正確に把握していなかったために国土計画も困難であった。 台湾での調査 1898年、台湾総督民政長官に着任した後藤新平の指揮のもとで実施された。 朝鮮での調査 韓国併合後の1910年から1918年にかけて実施された。事業には、朝鮮総督に設置された臨時土地調査局があたり、土地所有権の確定や土地価格の査定などを行った。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月19日 (火) 21 29。    
  • 皇室典範
    ...ている。 総理設置法の制定等に伴う関係法令の整理等に関する法律による改正 当該改正法の趣旨は、総理設置法の施行に伴い、関係法令にある総理庁、宮内の字句をそれぞれ総理、宮内庁と改めることである。これにより、本法にある宮内の字句は、宮内庁と改められることとなった。当該改正法は、1949年6月1日に施行された。 関連項目 皇室典範に関する有識者会議 皇位継承問題 (平成) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月20日 (土) 15 09。     
  • 李氏朝鮮-2
    ...報復としてフランス政は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に発生した2つの戦闘で(文珠山城戦闘、鼎足山城戦闘)で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾。擾は手偏に憂)。 一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ...
  • 朝鮮軍人
    ...た。これらの朝鮮総督設置の際に身分を有していた旧韓国軍人は日本の一般の陸軍軍人に準じた扱いがされ、在職中の者は駐箚軍司令部附又は駐箚憲兵司令部附とされた(「旧韓国軍人ニ関スル件」(明治43年勅令第323号))。もっとも、「旧韓国軍人ニ関スル件」は暫定的な扱いを定めていたに過ぎなかったことから、翌年に「朝鮮軍人ニ関スル件」が制定され、Template 和暦?の復員庁令第3号により同令が廃止されるまで、同令に基づき「朝鮮軍人」の身分が存在した。 Template 和暦?「朝鮮軍人ヲ陸軍将校同相当官ニ任用等ニ関スル件」(大正9年勅令第118号)の制定で、朝鮮軍人のうち将校・同相当官が一般の陸軍将校・同相当官に自動的に任ぜられることとなり大正9年勅令第118号「朝鮮軍人ヲ陸軍将校同相当官ニ任用等ニ関スル件」附則、下士卒のみが朝鮮軍人ということになった。 朝鮮軍人は、朝鮮人たる陸軍軍人と...
  • 台湾銀行
    ...の台湾統治後、日本政の国策により設置された台湾の中央銀行で、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。1899年に開業、1945年に閉鎖された。 台湾における産業の育成、中国への投資などを行った。第一次世界大戦中の戦争景気で投機的な取引を行い莫大な利益を上げた鈴木商店に資金を融通し、この頃から、台湾内の取引額より、日本での取引額が上回った。昭和始めの時点で、総貸出額7億円余りのうち、半分近くの3億5千万円が鈴木商店への貸出しであった。 戦後不況で鈴木商店が危機に陥ると、震災手形で一時凌ぐが、膨大な不良債権を抱え、1927年の昭和金融恐慌で休業に陥る。モラトリアムの実施と政の支援措置によって再建した。 第二次世界大戦後に閉鎖機関に指定され、清算、解散(昭和20年大蔵外務内務司法省令第1号「外地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖に関する件」)。 なお、国内の残余資産によって日本貿易...
  • 北京議定書
    ...外国人殺害のあった市は5年間科挙の受験を禁止する。 清国の武器弾薬及び武器弾薬の原料の輸入を禁止する。 清国は、賠償金として4億5000万両を銀で列国に支払う。この賠償金は年利4パーセントとし、39年間の分割払いとする。 各国公使館所在の区域を特に公使館の使用のみに充てる。この区域は、各国公使館の警察権下に属する。また、この区域内における清国人の居住を認めず、公使館を防御できる状況におく。 大沽砲台および、海岸から北京までの自由交通の妨げとなる砲台をすべて撤去する。 清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める。その地点は、黄村・楊村・郎房・天津・軍糧城・塘沽・盧台・唐山・濼州・昌黎・秦皇島及び山海関とする。 清国政は、以下の上諭を各市に向けて公布すること。 排外的団体に加入することを禁止する。...
  • 韓国併合
    ...革派への弾圧を日本政に依頼することすらあった)、開化は進まなかった。 日本国内では再び朝鮮半島への改革に介入すべきだとの世論が起こり、遅々として進まない朝鮮半島の政治改革に「日本が併合してでも改革を推し進めるべきだ」とする世論が台頭した。 桂太郎は「欧州に並ぶ強国になるには新たな領土が必要だ」という見地からこれを強力に推し進めた。これにより朝鮮の自国領土への編入を望む日本政と、日本世論とは合致した。 韓国統監であった伊藤博文と彼を中心とするグループは、「併合は時期尚早である」として反対した。この反対論は、第一に朝鮮の統治政策に関して「将来、朝鮮で日本への抵抗・独立勢力になり得る芽を先に除去すべき時期である」と考えて抵抗勢力や反乱についての対策に腐心していたこと、特に義兵活動が盛んなところでは村の大部分を焼き払う等の方法を用いた強引な弾圧を推し進める(吉田光男_2004 13...
  • 条約派
    ...た。 ただし、鎮守長官の身で政治的判断の立場にない米内光政や、政治的には微力だが、軍令部との協議で頑強に反抗した井上成美を条約派に含める事もある。定義によっては日独伊三国同盟反対派や対米避戦派など、軍縮会議以降の対立で生じた派閥のメンバーを含める事もある(古賀峯一・長谷川清など)。この様に「条約派」・「艦隊派」の名は広く知られているものの、明確な定義はない。山本五十六は三国同盟反対・対米避戦の主張や米内・井上との盟友関係から条約派とされるが、ロンドン条約当時は財部全権の随員で強硬派として知られていた。 関連 海軍左派 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月26日 (金) 13 36。    
  • 純宗 (朝鮮王)
    ... 朝鮮、京城、昌徳宮 | 埋葬日 = 1926年6月10日 | 埋葬地 = 朝鮮、京畿道南楊州市金谷洞、裕陵 | 継承者 = 李垠 | 継承形式 = 皇太子王世子 | 配偶者1 = 純明孝皇后 | 配偶者2 = 純貞孝皇后 | 子女 = | 王家 = 全州李氏 | 王朝 = 李朝(朝鮮王朝) | 王室歌 = | 父親 = 高宗 | 母親 = 明成皇后閔氏 }} 純宗(じゅんそう、スンジョン、Template lang?、1874年3月25日(高宗11年2月8日) - 1926年4月24日)は、李氏朝鮮時代の第27代国王もしくは大韓帝国の第2代皇帝で、朝鮮王朝最後の王および大韓帝国最後の皇帝(在位:1907年7月20日 - 19...
  • 内閣総理大臣
    ...ん) は、日本の行政である内閣の首長。国会議員の中から国会の議決で指名され、これに基いて、天皇によって任命される。 総理大臣または総理と略され、首相とも通称される。 歴史 明治維新以降、日本の政治は五箇条の御誓文に示された「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の方針を実現するために設けられた太政官制度によって行われてきた。しかし奈良時代から続くこの政体は古色蒼然としていて新時代にはそぐわないものであったばかりか、制度面においても、天皇を輔弼するのは太政大臣・左大臣・右大臣であり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がない、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。 1880年 (明治13年) ごろから参議伊藤博文はこの太政官制の改革を試みはじめたが、これに対して保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤...
  • 霧社事件
    ...前から霧社は台湾総督による理蕃政策の先進地域であった。それにもかかわらず大規模な蜂起がおこった。そのため台湾総督は原住民に対する差別的な政策の方針を修正し、皇民化教育を加速してゆく。 原住民に対する皇民化では、思想教育と同時に、平地定住化と稲作農耕への切り替えという大きな転換が試みられた。霧社事件の生存者が移住した川中島(かわなかしま、現 清流部落)や、霧社でのダム建設のため立ち退きをさせられた人々が移住した中原(川中島に隣接)は、稲作適地であったため結果的に農業生産性が向上し、住民らの生活は以前よりも豊かになったTemplate 要出典?。 また、天皇と国家に対する忠誠を示した者は日本人同様に顕彰されたので太平洋戦争時の高砂義勇隊には自ら志願して戦地に赴いた原住民が多くいた。一説によると霧社事件での山岳戦でタイヤル族がとても強かったため軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言...
  • 大院君
    ...虎の娘)にあたる河東大夫人・鄭氏。長男は河原君(1545年 - 1597年)、次男は河陵君(1546年 - 1592年)、三男が宣祖である。墓は京畿道南楊州市別内面德松里にあり(京畿道記念物第55号)、正式にはあくまでも「墓」だが、宣祖の命により王の墓を指す「陵」字を用いた「徳陵」の別称も通用している。 全渓大院君(1785年 - 1841年) - 25代・哲宗の父 興宣大院君 - 26代・高宗の父 上記の3人以外に16代・仁祖の父定遠君も定遠大院君と称されたが、さらに元宗の廟号を追尊されて王扱いになった。 関連項目 尊号   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月19日 (火) 20 36。   
  • 何応欽
    ...4年、孫文の広東軍政に参加。軍校教練部主任・大本営軍事参謀。国民革命軍第一軍軍長に任命される。1926年、北伐参加。国民革命軍東路総指揮・参謀長など歴任。「蒋介石の片腕」と評される存在になる。1927年に南京国民政が成立すると、第一路軍総指揮、翌年には総司令部参謀長となった。1933年に北平に赴任し、国民党軍事委員会北平分会会長に任ぜられ塘沽協定、1935年には梅津・何応欽協定を結ぶ。日中戦争時は、第四戦区司令長官・軍政部長・参謀総長等を務めた。 1945年、支那派遣軍総司令官岡村寧次が降伏文書に調印し、中国代表の何応欽に呈示。その後は国防部長・行政院院長を務めるが、1949年、国共内戦に敗れ蒋介石らとともに台湾へ脱出。渡台後は、総統戦略顧問委員会主任委員・台湾紅十字総会会長・中日文経協会会長等を歴任した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikiped...
  • 乃木希典
    ...)は、日本の武士・長藩士、軍人。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。 「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。 東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。 乃木は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを軍司令官として過した。 また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。 山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。 年譜 1849年(嘉永2年) - 現在の東京都港区に長州藩(現・山口県)の支藩である長藩の藩士、乃木希...
  • 皇典講究所
    ...に力を注いだ明治新政であったが、政教分離・信教の自由論が世の中に広まり、教導職制が廃止された。それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があるとの考えが強くなっていた。この大教宣布の不振、それに続く祭神論争によりその教学の未成熟さを実感した神道はその教学の深化に迫られ、1882年(明治15年)8月23日に、有栖川宮幟仁親王の令旨を奉じた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者が「専ら国典を講究するため」として研究機関を設立した。 内務省の委託を受けて神職を育成を行ったほか、各種の講演会、『古事類苑』・『延喜式』の編纂事業を行った。後に國學院大學の設立経営を行う。また、日本大学も源流は皇典講究所に付属していた夜間部の法律学校に由来し、その日本大学から近畿大学が分離している。 第2次世界大戦敗戦後の1946年(昭和21年)1月25日にGHQに...
  • 大日本帝国
    ...内の人口) 政 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制。1930年代以降は軍国主義の傾向。 国家元首 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照 通貨 円 国歌 君が代 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使用していた国号のひとつ。1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本国の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。 以下は大日本帝国...
  • 大韓帝国
    ... = 大韓民国臨時政 |次旗2 = Flag of South Korea.svg |国旗画像 = Flag of Korea 1882.svg |国旗リンク = 太極旗 |国旗説明 = 太極旗 |国旗コメント = 太極旗 |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = Ihwamun.jpg |国章リンク = 李王家 |国章説明 = 李花紋 |国章幅 = |標語 = |国歌名 = 愛國歌 |国歌 = |国歌追記 = (en) |位置画像 = Locationmap Korea.png |位置画像説明 = |公用語 = 韓国語 |首都 = 漢城 |元首等肩書 = 皇帝 |元首等年代始1 = 1897年 |元首等年代終1 = 1907年 |元首等氏名1 = 高宗光武帝 |元首等年代始2 = 1907年 |元首等年代終2 = 1...
  • 近衛師団
    ...日本陸軍? 江戸幕を倒し、明治新政が樹立された当初、明治政は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。 そのため1871年(明治4年)、明治政は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政直属の軍隊である「御親兵」を創設した。この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。 この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛を中心とした「近衛兵」として改組され、「天皇および皇居の守護」という任務が課せられた(この当時の近衛兵については近衛参照)。 1873年(明治6年)に徴兵令が制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵は鎮台兵の軍事訓練も担うこととなった。 1891年(明治24年)、鎮台が廃止され、代って師団が編成されることとなり、山縣有朋によって近衛兵は近衛師団へ改称され、陸軍大臣管轄の下、平時...
  • 戊辰戦争
    ...古で成立した明治新政が江戸幕勢力を一掃した日本の内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。この戦争の結果、薩長、薩長協力藩(佐賀藩、土佐藩等)出身者が明治政の主体となり、うねる時代のなかで日本は近代的な中央集権国家への道を歩んでいった。 概要 戊辰戦争は、徳川慶喜の処分の問題に起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階、松平容保の処分の問題に起因する「東北戦争(北越戦争と会津戦争を含む)」の段階、旧幕勢力が最後の抵抗を試みた「箱館戦争」の段階の3段階に区分できる。 鳥羽・伏見の戦いの段階では、石高や兵力数では旧幕軍が優勢であり、新政軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していたと言われる。しかし、旧幕軍は肝心の徳川慶喜が大阪の戦場に将兵を置き去りにしたまま大阪湾から江戸に敵前逃亡するという大失態を演じ、旧幕軍は敗北した。本物かどうかは...
  • 米内光政
    ...。大戦後のドイツの首ベルリンでも情報収集の任に当たっている。将官昇進後は中国勤務も多かった。 海軍内部の良識派 1930年(昭和5年)には中将になり鎮海要港部司令官に任じられるが、この地位は「クビ5分前」と言われる閑職であり、本人も「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、この時に読書三昧の日々を過ごし、その読書の範囲は漢書からロシア文学や社会科学、果ては中学の後輩である野村胡堂の小説まで、軍人の範疇を超えたもので「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」という米内独特の読書法もこの頃に確立したものと思われる。この読書で培った知識・教養は後に海軍大臣や総理大臣になった際に大いに役立てている。 1932年(昭和7年)以後、艦隊司令長官を歴任する。佐世保鎮守長官のとき友鶴...
  • 特務機関
    ...ない組織、つまり元帥・軍事参議院・侍従武官・皇族附武官・外国駐在武官・将校生徒試験委員等に与えられた呼称であった。しかし日露戦争中の明石元二郎大佐による「明石機関」の活動を契機として、シベリア出兵以降、陸軍では特殊任務にあたる実働グループを「特務機関」と呼ぶようになった。本項では上記の意味における特務機関を中心に述べる。 しかしながら、同時期の日本海軍(以下、海軍)や外務省などにも「~機関」と称される特殊組織は存在した。やはりそのいずれもが特殊任務を遂行したことから陸軍での呼称を準用したものと思われる。さらに、第二次世界大戦期やそれ以前の時期に限らずに、また場合によっては日本以外の国や団体が設置した組織についても「特務機関」の語が用いられる例がある。 概要 日露戦争中、スウェーデン駐在武官の明石元二郎大佐は「明石機関」を設置し、ロシア国内の反体制派への支援等の活動を行っ...
  • 労働農民党
    ...選者を出す。特に京都選挙区から立候補した山本は帝国議会で特別高等警察(特高)の拷問行為を暴露することを得意としたが、右翼青年に暗殺される。三・一五事件で日本共産党の活動家が多く労働農民党から出馬していたことから同時に結社禁止処分となった。 労働農民党の流れは、中間派に合流して社会大衆党に参加する者・労農無産団体協議会を経て日本無産党に参加する者・日本共産党に参加する者と四分五裂したが、戦後はその多くが日本社会党を結成、社会党左派と呼ばれるグループを形成するに至った。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月26日 (土) 20 17。     
  • 特別高等警察
    ...由主義など一切の反政運動やそれらの思想も弾圧し、憲兵とともに国民から恐れられた。 一般には、略称の特高警察(とっこうけいさつ)や特高(とっこう)の名で呼ばれる。なお、「特別」と追加されたのは、国体の護持は特別に重要であったから、とされている。 歴史 thumb|right|300px|[[警視庁 (内務省)|警視庁特別高等警察部検閲課による検閲の様子(1938年(昭和13年))]] 無政主義者による天皇暗殺計画とされた大逆事件(幸徳事件)を受け、1911年、警視庁に、従来あった政治運動対象の高等警察から分かれて、社会運動対象の特別高等警察課が設置された。これが特別高等警察の始まりである。この時、地方長官や警察部長などを介さず、内務省警保局保安課の直接指揮下に置かれた。1913年の警視庁官制の改正によって、特別高等警察・外事警察・労働争議調停の三部門を担当する課とし...
  • 南次郎
    ...888年)4月、東京尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身。 生年月日がハーバート・フーヴァー(アメリカ合衆国・第31代大統領)と同じである。偶然にも、南の陸相在任期間(1931年)がフーヴァーの大統領在任期間(1929年 - 1933年)と重なった。 第2次若槻内閣の陸軍大臣の折に満州事変が勃発するが、対応に手をこまねいて結果的に関東軍の方針を全面承認した。また陸相在任中に部下の軍事課長であった永田鉄山が国家総動員法の策定に関わり出した。昭和9年...
  • 枢密院
    ...会とともに英国の司法を構成する。 枢密院議長は通常、内閣の閣僚の一員として、下院あるいは上院の院内総務の任務を果たす。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月9日 (火) 15 56。     
  • バー・モウ
    ...34年にはビルマ州政(当時はイギリス領インドの一州)の教育相、1937年にビルマがインドから分離されて別個の植民地になると、その初代首相となるが、退任後、反乱のかどで投獄された。 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦後の1941年12月16日に、アウン・サンらは日本軍の南機関の支援を得てバンコクに「ビルマ独立義勇軍」を創設。日本軍と共にイギリス軍と戦い、1942年3月にラングーンを陥落させ、1942年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ国防軍に改組した。南機関はバー・モウを中央行政長官に据えビルマに軍政を敷き、1943年8月、ビルマ国の独立を宣言、国家元首に就任し、対連合国への宣戦布告を行う。 1943年11月には東京で開かれた大東亜会議に参加した。しかし、1944年末に日本の敗色が濃くなると、ビルマ国民軍がクーデターを起こしてイギリス側に寝返った...
  • 虎ノ門事件
    ...ち寄ったとされる京都知事は譴責処分となった。また、難波の郷里の全ての村々は正月行事を取り止め喪に服し、難波が卒業した小学校の校長と担任は教育責任を取り辞職した。 庚申倶楽部に所属していた衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるやただちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、餓死自殺した。長兄は勤めていた鉱業会社を退職した。なお、難波の処刑後、皇太子は「家族の更生に配慮せよ」と側近に語った。 参考文献 今井清一 『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』 2006年、ISBN 9784122047174。 関連項目 大逆事件 難波大助 テロリズム 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月15日 (水) 09 16。 ...
  • 明治維新
    ...いしん)とは、江戸幕による幕藩体制から、明治政による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期についても、廃藩置県の断行(1872年)、西南戦...
  • 加藤友三郎
    ...後、海軍次官、呉鎮守司令長官、第一艦隊司令長官を経て、大正4年(1915年)8月10日、第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年8月28日、海軍大将に昇進。以後、加藤は寺内正毅・原敬・高橋是清と3代の内閣で海相に留任。大正10年(1921年(大正10)、ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。大正11年(1922年)6月12日、政友会に支持されて組閣。 二人の加藤 left|200px|thumb|加藤友三郎 高橋内閣が政友会の内紛で瓦解したのを受け、元老・松方正義は、過去4代の内閣で海軍大臣を務めた加藤友三郎を第一候補に、野党憲政会総裁・加藤高明を第2候補として推薦した。憲政会は、当時衆議院で100名くらいの議席しかなく、政友会では、加藤友三郎が辞退すれば高橋への大命再降下もあり得ると考えていたが、第2候補が加藤高明であることを知って、大慌てで加藤友三郎と折衝し、政友...
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