chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「引き揚げ」で検索した結果

検索 :
  • イルティッシュ号投降事件
    ...という話もあり何度か引き揚げが試みられた。特に1959年(昭和34年)には大規模な引き揚げ作業が試みられたものの機雷を発見しただけに終わった。 現在、イルティッシュ号の乗組員の遺留品などは和木公民館に保管されており、近年になりロシアから視察や取材のために和木地区へ訪れる人が多くなっている。 参考文献 江津市編『江津市誌』下巻(204頁~215頁)1982年 外部リンク 江津市 和木公民館  山陰中央新報2007年10月16日 「江津市沖に沈没したイ号の船体を撮影」 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月20日 (火) 06 19。     
  • エルトゥールル号遭難事件
    ...おり、海底からの遺品引き揚げを進めている。「船甲羅周辺で遺品多数 トルコ軍艦調査団」『紀伊民報』、2007年1月27日 「来年、遺品引き揚げ トルコ軍艦調査団」『紀伊民報』、2007年1月27日 「串本町沖で沈没したエルトゥールル艦の引き上げプロジェクト、今月実施」Milliyet、2007年1月5日(東京外国語大学による日本語訳)。 2008年(平成20年)6月7日に行われた追悼式典には、来日中のアブドゥラー・ギュル大統領も出席した。 遭難事件後の日土関係 日本でもエルトゥールル号遭難事件は衝撃的なニュースとして伝わり、政府を通じて多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。 茶道宗 #24487;流の跡取り、山田寅次郎もこの事件に衝撃を受けた日本人のひとりであった。彼は日本の民間からエルトゥールル号事件の犠牲者の遺族に対する義捐金を集めるキャンペーンを行い、事件の翌々年に集...
  • 阿部信行
    ...米軍に護送され早々に引き揚げたが、邦人の保護より自分の生命、財産を守ることを優先したといわれたのは阿部にはやや酷な批判だった。しかし、宇垣一成陸相の下で次官を務め、「宇垣の寵児」といわれながら、宇垣が事実上失脚すると離反した。その後は東條英機と密着し、東條内閣の実現に一役買った。機を見るに敏なところがあったものだから、こうした批判も出たのだろう。「野戦の将軍ではなくて処世の将軍」との厳しい評が生まれるのも故なしとしない。軍令・軍政畑の要職を歴任したことにも見られるように、軍人への道よりも東大か京大を出て官僚への道を進む方が向いていたとも批評されている。 戦後は、首相在任中に、陸軍の暴走を止められなかった自己を責め続けたといわれている。 年譜 1897年(明治30年)11月29日 - 陸軍士官学校卒業(9期)。 1898年(明治31年)6月27...
  • 戦史叢書
    ...戦争日誌』など)と、引き揚げてきた部隊の関係者が執筆を求められて執筆した準公式の報告書、及び、自発的に執筆された私的な回想録が主である。 刊行された年代が古いため、現在から見ると若干の誤りも指摘されているが(特に対ソ関係やノモンハン事件に関する箇所)満州事変・日中戦争から太平洋戦争について研究する者にとっては最重要の基礎史料の一つとされる。ただ、現代から見ると、師団以下のレベルの細かな要所要所の作戦経過が記述の中心を占め、戦略全般に渡る大本営レベルで展開されたであろう作戦指導の根本的なあり方や、それをめぐる議論とその経過分析については不足の観を免れない。 国会図書館を始めとして防衛研究所史料閲覧室や大学図書館、都道府県や政令指定都市レベルの中核となる図書館、および靖国神社靖国偕行文庫室等に全102巻が保管され閲覧可能のほか、一般に流れたものが古書店で売られている。 なお、200...
  • 榎本武揚
    ...開陽丸に座乗し江戸へ引き揚げた。 新政府軍が江戸を占領すると、徳川家に対する政府の処置を不満とし榎本は抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、千代田形丸、神速丸他の旧幕府艦隊を率いて脱出する。新選組や奥羽越列藩同盟軍、桑名藩藩主松平定敬らを収容し蝦夷地(北海道)に逃走、箱館の五稜郭に拠り、蝦夷島政府を設立して入札の実施により総裁となった。 翌明治2年(1869年)、開陽丸座礁沈没、戦費の枯渇、相次ぐ自軍兵士の逃亡、新政府軍斥候による弁天台場砲台閉鎖、箱館湾海戦による全軍艦喪失など劣勢は決定的となり、榎本は降伏した。降伏を決意した榎本は、オランダ留学時代から肌身離さず携えていたオルトラン著「万国海律全書」(自らが書写し数多くの脚注等を挿入)を戦災から回避しようと蝦夷征討軍海軍参謀黒田了介(黒田清隆)に送った。黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭...
  • 京城帝国大学
    ...る日本人学生は日本に引き揚げ、アメリカ軍政下で京城帝国大学は閉鎖された。しかし、閉鎖後2ヶ月で、城大の固定資産を受け継いでソウル大学校が開学した。 ソウル大学校の公式表明ではその建学を1946年としており、京城帝国大学との連続性を認めてはいない。ただし、農科大学(現:農業生命科学大学)の場合は水原高等農林学校(農林専門学校)が前身であり、さらに同校は大韓帝国期における農商工部の農林学校まで遡るため、部局史レベルでは日本統治時代の記述もなされている。 1946年、京城大学と改称 1946年8月22日 米軍法令102号によって閉鎖。 1946年10月15日 ソウル・水原に立地していた9つの専門学校を統合してソウル大学校となった。 歴代総長 有吉忠一(事務取扱;1924年5月-1924年7月) 下岡忠治(同上;1924年7月-1925年11月) 湯浅倉平(同上;192...
  • 香淳皇后
    ...鶏も行った。敗戦後は引き揚げ者のための布団や着物作りを行なった。 皇室の在り方が一変して後は、皇后同伴の公務が一般的になったこともあり、積極的に国民と親しもうとする昭和天皇の意向を汲んで各種の活動を活発に行った。1947年(昭和22年)の日本赤十字社名誉総裁就任をはじめとして、1952年(昭和27年)以降の全国戦没者追悼式、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開会式、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会式、1972年(昭和47年)の札幌オリンピック開会式および沖縄復帰記念式典などへの出席はその例である。靖国神社への天皇親拝にも度々同行している。 また皇女たちの結婚にあたり、長女・成子内親王の例から、娘達の意思を尊重するためのお見合いやデートをすすめた。その一方で、皇太子と平民出身である美智子との婚約が決定された際には秩父宮妃勢津子及び高松宮妃喜久子、側近の松平信子ら...
  • 帝国大学
    ...本人)が大量に日本に引き揚げたため、大学の建物は残っても修業年限全てに渡って充分な講義をすることが困難になった。そのような大学組織の内部事情と日本の統治の仕方の違い(→日本統治時代 (朝鮮)、日本統治時代 (台湾))も影響して、台湾大学は、設立母体を台北帝国大学としているが、ソウル大学校は1946年(昭和21年)に新設した大学として、設立母体を京城帝国大学とはしていない。また、講義に用いられる言語については、戦前は日本語が用いられたが、戦後、ソウル大学校では朝鮮語、台湾大学では中国語への変更がなされた。なお、台湾大学では、日本各地の小・中・高の教育を受けた国民党側の子弟の留学枠が存在し、中国語が拙いこれらの学生に対し、戦前に日本語で教育された教授陣が個人的に日本語で教育する例も見られた。 内地においては、1947年(昭和22年)に帝国大学令が国立綜合大学令と名称変更され、それに伴い...
  • 米内光政
    ...艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったのだが、沈没場所が水深数百メートルな上に潮の流れが速く作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」とモチベーションが下がっていたのだが、それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に行ったところ、当時次官の山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励、米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ。それを現場に伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了、参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。 戦後に昭和天皇も招かれた学士院会員の会食の際、天皇が小泉信三に、「雑誌(『心』昭和24年1月号)に米内のことを書いたね」と尋ねて小泉も「拙文が...
  • 松岡洋右
    ...択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)。2月24日、軍縮分館で行われた総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決された。松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで議場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。翌日の新聞には『連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。「英雄」として迎えられた帰国後のインタビューでは「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。 議員辞職・再び満鉄へ 帰国した松岡は「言うべきことを言ってのけた」「国民の溜飲を下...
  • 満州国
    ...れたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、漸く46年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。その間多くの餓死者・凍死者・病死者を出したとされる。 一方ソ連軍の侵攻は満洲国内で日本人による抑圧を受けていた中国人、朝鮮人、蒙古人にとっては『解放』であり、彼らの多くはソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が相次ぎ、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。 皇帝溥儀たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い通化省臨江県大栗子に避難していたが、8月15日の玉音放送によって戦争、そして自らの帝国の終わりを知ることとなる。2日後の8月17日、国務院は満洲国の解体を決定、翌18日には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲帝国は建国より僅か13年で地上から消滅した。 なお溥儀は退位宣言の翌...
  • 関東軍
    ...かにしたため満州から引き揚げる民間人多数が巻き込まれ死傷。 基本情報 通称号:徳兵団 編制時期:大正8年4月 最終位置:満州・新京 関東軍の人事 階級は全て就任時のもの 総軍制度が設けられたことに伴い、昭和17年10月1日から総司令官、総参謀長、総参謀副長と呼称変更。 昭和8年7月28日から昭和8年8月22日の間を除き関東軍(総)司令官が満州国在勤特命全権大使を兼ねた。 司令官 立花小一郎 (1919年 - 1921年) 河合操 (1921年 - 1922年) 尾野実信 (1922年 - 1923年) 白川義則 (1923年 - 1926年) 武藤信義 (1926年 - 1927年) 村岡長太郎 (1927年 - 1929年) - 張作霖爆殺事件 畑英太郎 (1929年 - 1930年) 菱刈隆 (1930年 ...
  • 大輝丸事件
    大輝丸事件(だいきまるじけん)は、1922年(大正11年)におこった、日本の海賊によるロシア人殺害事件である。 概要 大正11年9月、茨城県結城町の江連力一郎(当時34歳)は、神戸西之宮の相沢汽船会社所有の船 大輝丸740トンを用船し、オホーツク海に砂金採取に行くと称して、人夫60名を募集した。 9月26日、北海道・小樽を出航し、黒竜江河口の沖合でロシアのランチ1隻、発動機船1隻を略奪し、さらに北樺太のポコピー、デスカストリー付近で帆船1隻およびその積荷を略奪し、それと同時にロシア人船長以下12名および先の発動機船の乗組員4名を大輝丸の船員室に監禁した。 10月22日、23日、この全員を甲板に引き出し、日本刀で殺害した。江連は、略奪品を小樽に荷揚げしたのち、人夫らを脅迫し僅かの金銭をあたえて解散した。 この事件は、人夫であった田中三木蔵および菊池種松の自首によって発覚した。 ...
  • 太平洋戦争-2
    ...22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没し、多数の犠牲者を出した。 また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した、皇帝の、愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は、日本への逃命を図るも、侵攻したソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、アメリカ軍の先遣部隊が厚木海軍飛行場に到着し、8月30日には、後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになる、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。 9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリア、フランスや...
  • 真珠湾攻撃
    ...8隻のうち6隻は後に引き揚げられ復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は2隻であった。大東亜戦争中この時以外でアメリカ戦艦の喪失はない。主力空母は真珠湾外で輸送などの任務に従事していたため無傷であり、その後の作戦において大きな力を発揮した。当初からアメリカの国力差から、日本軍は短期決戦を想定していたが、攻撃目標に含まれていた主力空母を撃沈できなかった事は、緒戦でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となった。 参加兵力 日本海軍 第一航空艦隊 - 司令長官:南雲忠一中将、参謀長:草鹿龍之介少将 第一航空戦隊 - 南雲長官直率、空母「赤城」「加賀」 第二航空戦隊 - 司令官:山口多聞少将、空母「蒼龍」「飛龍」 第五航空戦隊 - 司令官:原忠一少将、空母「瑞鶴」「翔鶴」 艦載航空機350機(零式艦上戦闘機78機、九九式...
  • 軍歌
    ...吉田正・元陸軍伍長が引き揚げてきて、原曲となった大興安嶺突破演習の歌(今日も昨日も)の作曲者だと判明した。シベリアでの辛抱を表すような哀切極まる歌詞とメロディーで、いまだ元将兵の心をつかんでいる。昭和24年には、全国高等学校野球選手権大会の入場行進曲にも選ばれた。 ああモンテンルパの夜は更けて 作詞 代田銀太郎 作曲 伊東正康 B・C級戦犯として捕縛され、フィリピン・モンテンルパのニュービリビット刑務所に収監されていた日本軍将校の代田と伊東によって作詞作曲され、収容されていた日本軍将兵によって歌われていた曲。昭和27年1月、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから同刑務所に収容されている日本軍将兵がいることを聞いた歌手の渡辺はま子が、オルゴールを差入れとして贈ったところ、「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、歌詞と楽譜が彼女のもとに送られ、これを受けて...
  • 沖縄戦-2
    ...の疎開者、海外からの引き揚げ者・復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より実際の戦没者数の方が大きいと推定される。 なお、沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者までも含めた数値である。 沖縄戦初期の住民避難 1944年7月7日にサイパン島が陥落すると東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることを決定、沖縄県に通達し、それまで戦争を身近に感じていなかった沖縄県民に大きな衝撃を与えた。 軍も「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の考えから県民の疎開を希望していた。また、沖縄県では消費米の2/3を県外からの移入に頼っているという事情もあった。 ...
  • 昭和天皇-2
    ...たことがある。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。 同地ではまた満州入植者の遺児を紹介され「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には再会を約する言葉を残している。 行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし国民は敬意を新たにした。 行幸先で労働者から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、お互いにお辞儀をするという提案をして実行した。 独立回復後 アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、...
  • 援蒋ルート
    援蒋ルート(えんしょうるーと)は、日中戦争において大日本帝国の侵略に対し対決姿勢を強めていた中国(国民政府)を主にアメリカ、イギリス、ソ連が軍事援助するための輸送路である。名前の由来は蒋介石を援助するためのルート。国民政府は、米英ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した。太平洋戦争の開戦は、国民政府の原動力である援助物資の輸送路である援蒋ルートの遮断もその目的の一つであったと見られている。 日本では単に援蒋ルートと言った場合後述のビルマルートを想定していることが多い。 経路 援蒋ルートの経路は、日中戦争の開戦から太平洋戦争の終戦まで途中、日本軍によって遮断されたり独ソ戦の開戦によって援助が滞ったものも数えて、4つある。 香港からのルートは、...
  • 又新会
    又新会(ゆうしんかい)は、明治末期に存在した革新派政党。立憲政友会に対抗して都市生活者の支援と対外強硬論を軸とした。ここではその母体となった猶興会(ゆうこうかい)についても合わせて解説するものとする。 猶興会 猶興会(ゆうこうかい)は、1906年12月20日に政交倶楽部を中心とした既成政党に不満を持つ36名の代議士によって結成された政党である。菊池武徳・山口熊野を幹事(代表)とし、河野広中・大竹貫一・島田三郎・小川平吉・尾崎行雄・奥田義人・花井卓蔵らが参加した。 日露戦争後の政府の膨張予算とそれに伴う増税方針に強く反対し、「政界革新同志会」を旗揚げして全国運動を展開する。憲政本党・大同倶楽部と連携して政友会の第1次西園寺内閣の政策を糾弾して国民負担の軽減と軍事優先政治の解消を求めた。その反面、対外的にはタカ派的色彩が強く、ハーグ密使事件では政府・韓国統監府の対応を「弱腰」であると...
  • 国家総動員法
    Template 日本の法令? 国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣によって制定された法律。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に公布された国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)に基づいて1946年4月1日をもって廃止された。 背景と影響 第一次世界大戦の戦訓より、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。日中戦争の激化に伴い、当時の日本経済では中国で活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。 この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。...
  • 満蒙開拓移民
    満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)は太平洋戦争下に日本政府の国策によって推進された、大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称。 概要 1931年の満州事変以降に本格化した日本からの満州国への移民は、当時の広田弘毅内閣は1936年に「満州開拓移民推進計画」を決議し、1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画、これを日本政府により推めた。この政策には、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出されており、国策に裏打ちされた入植者の大陸への送り込みが図られた。 日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。 背景 日本の政府により戦前に進められていた、北米アメリカ、南米ブラジ...
  • 翼賛議会
    翼賛議会(よくさんぎかい)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中に於ける帝国議会の呼称。その始期については新体制運動の中で既存政党が解党されて大政翼賛会が結成された1940年とするのが一般的であるが、翼賛議会としての体裁が本格的に整うのは、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)以後のことである。 概説 戦時下で行われた唯一の国政選挙となる1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙は、大政翼賛会が推薦した候補者(主に大政翼賛会の別働隊的院内会派である翼賛議員同盟の議員を中心としていた)に対してよく翼賛会の下部組織の一つである大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする官民からの支援が行われ、逆に非推薦候補者に対しては選挙干渉とも言えるような圧迫が加えられたとされている。この結果、466の定数のうち381名の翼賛会推薦議員が当選した。このため、この選挙を翼賛選挙とも呼ぶ。 翼賛選挙...
  • 融和運動
    融和運動(ゆうわうんどう)とは、戦前の日本における被差別部落の地位向上、環境改善のための運動である。 水平運動との比較 差別糾弾的傾向の強かった水平社運動に対し、融和運動は一般国民以上に天皇への忠誠を誓い、国粋主義者や富裕層の力を借りる事によって部落民の地位向上を実現しようとした。戦後、水平社の思想が部落解放同盟や全解連に引き継がれたのに対し、融和運動の思想は自由同和会や全日本同和会へと引き継がれた。 歴史 明治時代に部落出身の代議士森秀次、和歌山の郷土史家岡本弥らによって始められた。大正時代には、1914年に大江卓が帝国公道会を設立、1921年に華族で東京帝国大学助教授だった有馬頼寧が同愛会を設立、1925年にはこれらの団体を結集した全国融和連盟が発足した。1925年には国粋主義者の平沼騏一郎を会長とする中央融和事業協会(中融)が発足した。昭和初期には、ファシズム台頭によ...
  • 超然主義
    超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。ま...
  • 伏石事件
    伏石事件(ふせいしじけん)とは、香川県香川郡太田村伏石(現在の高松市伏石町)で、大正12年(1923年)に起きた小作争議である。後述のとおり、日本農民組合(日農)香川県連合会長および顧問弁護士を巻き込んだ一大刑事事件に発展し、抗議行動が全国で行われたため、各種の小作争議を扱った文書でも伏石事件と呼ばれる事が多い。 概要 伏線 伏石での小作争議は、小作農民側が大正11年(1922年)夏に日農伏石支部を結成し、小作料を恒久的に30パーセント減額するよう地主に要求して、小作米の70パーセントから80パーセントのみを納入したことに端を発する。 これに対し地主側も団体を結成し減額を拒否するとともに、未納分の小作米の納入を求める訴訟を起こしている。 差押え・競売と刈り取り・脱穀 翌年、大正12年(1923年・ちなみにこの年は全国的な旱魃で稲は不作であったという)に入っても、小作農民側は引き続...
  • 陸奥宗光
    {{政治家 |各国語表記 = むつ むねみつ |画像 = Munemitsu Mutsu 2.jpg |画像説明 = 陸奥宗光 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1844年8月20日 |出生地 = 紀伊国名草郡(現・和歌山県和歌山市) |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 西ヶ原本邸(現・東京都北区西ヶ原) |出身校 = 神戸海軍操練所 |前職 = 海援隊隊士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = 正二位勲一等伯爵 |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 陸奥蓮子陸奥亮子 |サイン = |国旗 = 日本 |職名 = 第8代外務大臣 |内閣 = 第2次伊藤内閣 |当選回数 = |就任日 = 1892年8月8日 |退任日 = 1896年5月30日 |退任理由 = 肺結核...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • 台湾出兵
    台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵である。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。 背景 琉球王国は江戸時代には日本(薩摩藩)と中国大陸の清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると、帰属を巡る政治問題が起こっていた。 1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難。漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。 先住民とは交流ができなかったらしく、12月17日に遭難者達は集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々に殺害し54名を馘首した。12名の生存者は、漢...
  • 日本資本主義論争
    日本資本主義論争(にほんしほんしゅぎろんそう)とは、1933年頃から1937年頃まで行われたマルクス主義者の論争のこと。広義には1927年頃から1932年頃まで日本共産党と労農派の間で行われた日本民主革命論争を含めていうこともある。日本の資本主義の性格について、講座派と労農派の間で激しく論戦が交わされた。 概要 日本資本主義論争は日本共産党の三十二年テーゼの基づいた『日本資本主義発達史講座』(1932年5月から1933年8月)の刊行を機に起こった。共産党系の講座派は、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定し、まず民主主義革命が必要であると論じた(「二段階革命論」)。これに対し、労農派は明治維新をブルジョア革命、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。この論争によって、近代日本の本質規定をめぐって理解が深まり、「封建論争」「地代論争」「新地主論争」「マニュファク...
  • 高橋内閣
    {{日本の内閣記事|たかはし ないかく|20|高橋是清|Template 和暦?|11月13日|Template 和暦?|6月21日|立憲政友会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/20.html|大蔵大臣}}首相を除く、すべての大臣を前の原内閣から引き継ぎ、再任した。 閣僚 内閣総理大臣 高橋是清 外務大臣 内田康哉 内務大臣 床次竹二郎 大蔵大臣 高橋是清(兼任) 陸軍大臣 山梨半造 海軍大臣 加藤友三郎 司法大臣 大木遠吉 文部大臣 中橋徳五郎 農商務大臣 山本達雄 逓信大臣 野田卯太郎 鉄道大臣 元田肇 内閣書記官長 三土忠造(1921年(大正10年)11月24日 - 1922年(大正11年)6月21日) 法制局長官  横田千之助(1921年(大正10年)11月24日 - 1922年(...
  • 憲政の常道
    憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一党に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。 概説 大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリスの議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する...
  • 松方デフレ
    松方デフレ(まつかたでふれ)とは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようと、大蔵卿松方正義が行った、デフレーション誘導の財政政策のことである。松方財政(まつかたざいせい)とも。 西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信は、このインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、正貨である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官たる大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。この対立を憂...
  • 戦時国際法
    戦時国際法(せんじこくさいほう、英:Law of War, Jus in Bello)とは、戦争状態においてもあらゆる軍事組織が遵守するべき義務を明文化した国際法であり、狭義には交戦法規を指す。戦争法、戦時法とも言う。ただし現代では国連憲章により法的には「戦争」が存在しないため、武力紛争法、国際人道法(International humanitarian law, IHL)とも呼ばれる。ここでは戦時国際法という用語を用いる。戦時国際法は、戦時のみに適用されるわけではなく、宣戦布告のされてない状態での軍事衝突であっても、あらゆる軍事組織に対し適用されるものである。 概説 武力行使に訴える権利および手続を規制する国際法をユス・アド・ベルム(jus ad bellum 開戦法規、法的規制)、武力紛争において当事国の行動を規制する国際法をユス・イン・ベロ(jus in bello 交戦法規...
  • 十四か条の平和原則
    十四か条の平和原則(じゅうよんかじょうのへいわげんそく)は、1918年1月8日、第一次世界大戦終結のために、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンがアメリカ連邦議会での演説を通じて発表した平和原則。 概要 この提案がドイツの降伏を引き出し、1919年のパリ講和会議では、アメリカの中心的な主張となった。 主に以下のことが柱になっている。 秘密外交の廃止 海洋の自由 経済障壁の撤廃 軍備縮小 国際平和機構の設立 民族自決 植民地問題の公正解決 国際平和機構は後に国際連盟として結実した。 しかしながら、パリ講和会議ではイギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなった。形式的に東欧で民族自決の原則により独立が認められた国々があったがこれはあくまでもロシア革命やハンガリー革命から西欧を防衛することを目的とした方便によるものであり(そして、70年後のチ...
  • 渡洋爆撃
    渡洋爆撃(とようばくげき)とは、大日本帝国海軍が昭和12年(1937年)から中国大陸本土に対する長距離爆撃を行ったことをいう。 最初の渡洋爆撃と呼ばれるのは、8月15日の南京に対する空襲である。初期は九州大村基地から海を越えて南京に対する攻撃を中心として爆撃していたが、日本軍の占領地の拡大に伴い目的地・発進基地ともに中国奥地へと前進した。中国国民党が遷都した重慶に対する「重慶爆撃」は有名である。機体は双発の九六式陸上攻撃機が用いられ、のちに一式陸上攻撃機が引き継いだ。 なお、陸軍は敵基地限定爆撃に重点をおき、戦略爆撃をおこなっていない。海軍航空隊がどのような判断から市街地を目標として選択したかは不明である。旧日本軍機は防御性能が十分ではなかった為、損害が回を重ねるごとに増えていった。また、護衛の九六式艦上戦闘機の航続距離が短かったのも原因のひとつとされる。この爆撃を見たアメリカやイギリ...
  • 日仏協約
    日仏協約(にちふつきょうやく)とは、1907年6月10日にパリにおいて日本・フランス両国間で締結された条約。 駐フランス大使栗野慎一郎とフランス外相ステファン・ピションの間で調印され、アジアにおける両国の利益と安全保護を約束した。これによってフランスは日本との関係を相互的最恵国待遇に引き上げることを同意する代わりに日本はフランスのインドシナ半島支配を容認して、ベトナム人留学生による日本を拠点とした独立運動(ドンズー運動)を取り締まることを約束した。また、両国は清国の独立を保全するとともに清国内におけるお互いの勢力圏を認め合った。これによってフランスは広東・広西・雲南省を、日本は満州と蒙古、それに秘密協定によって福建省を自国の勢力圏として相手国側に承認させたのである。なお、フランス側が議会・世論対策のために自国マスコミに交渉内容をリークしたために、清国側からの抗議を受ける事態も生じた。また...
  • 日ソ基本条約
    日ソ基本条約(にっそきほんじょうやく)は、1925年に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で結ばれた二国間条約。1922年のソ連の建国後、日本との間で初めて結ばれた条約で、1917年のロシア革命以来ロシアを統治するソビエト政権と日本との間で断絶していた日露国交正常化の基本原則を定めた。1月20日締結、2月25日に批准。 締結に至る経緯 1917年のロシア革命で共産主義を掲げるボリシェヴィキのソビエト政権がロシアの中央政権を奪取すると、共産主義の極東への波及を恐れた日本は、同じくソビエトを敵視するイギリス・フランス・イタリアなどの諸国と歩調をあわせてロシア内戦への干渉を決定、1918年初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊をウラジオストクに派遣、同年夏にはシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目としてシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。1...
  • 第3次近衛内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ このえ ないかく|39|近衛文麿|Template 和暦?|7月18日|同年|10月18日|大政翼賛会など。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/39.html|引き続き}} 概要 第3次近衛内閣は、前の第2次近衛内閣において外交策に強硬論を唱え、閣内から浮き上がっていた存在の松岡洋右外相を更迭するために、一度内閣総辞職の形式を取って、あらためて大命降下を受け、組閣した内閣である(大日本帝国憲法のシステムでは、日本国憲法と異なり、容易に内閣改造を行えなかったため、このような方策を採ったとされる。)。なお、総辞職した後に引き続き内閣総理大臣に就く例は、第3次近衛内閣が初めて。 松岡の後任の外相には、第2次内閣で商工相を務めた豊田貞次郎があてられた。これは軍需品などの生産実態を把握しているため...
  • 安田財閥
    安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。 金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。 沿革 奉公人からの出発 20歳で奉公人として上京した安田善次郎が26歳になり露店の両替商から始まって、慶応二年に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得る。 明治維新に至ると、当時まだ信頼を得ていない額面割れした明治政府の太政官札に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を収集。明治2年に至り正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えにより更なる巨万の利益を得ることになる。 明治9年に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、明治13年には安田商店を安田銀行(後の富士銀行。現...
  • 風船爆弾
    240px|thumb|[[アッツ島近辺で撃墜される風船爆弾(ガンカメラによるもの)]] 風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて日本陸軍が用いた兵器である。「ふ号兵器」という秘匿名称で呼ばれていた。効果こそ僅少でほぼ無誘導であったものの、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器となった。 概要 風船爆弾は、和紙で作られた気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカを攻撃しようとする兵器である。神奈川県の陸軍登戸研究所で開発された。満州事変後の昭和8年(1933年)頃から関東軍、陸軍によって研究され、昭和19年(1944年)から実用化した。当初は海軍もゴム引き絹製の気球を用いた対米攻撃を研究していたが、海軍の計画は途中で放棄され、機材と資料は陸軍に引き渡された。海軍式のゴム引き気球も少...
  • 真珠湾攻撃陰謀説
    真珠湾攻撃陰謀説(しんじゅわんこうげきいんぼうせつ)は日本時間の1941年12月8日、大日本帝国海軍の真珠湾攻撃をアメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、事前察知をしながらそれをわざと放置した、という説である。この説は戦時中の日本でも唱えられていた。 背景と出版物 日本海軍による真珠湾(パールハーバー)攻撃はアメリカにとっても大事件であり、日本人が想像する以上の屈辱的事件であった。それは二度の原爆投下を経てこの太平洋戦争に完全勝利しても拭い切れないものだった。ヒトカップ湾からハワイのパールハーバーまで、31隻からなる艦隊で北太平洋を横断する大長征を行い、しかも戦艦や駆逐艦が多数駐留しているところへ、奇襲に成功したことは、非常に稀なケースである。それだけに様々な憶測が生まれた。なかでも「ルーズベルトは日本の攻撃を諜報局から知らされていたにも拘らず、あえて放置し、攻撃を許す...
  • 中江兆民
    Template Infobox Celebrity? 中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。 父は土佐藩足軽の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(176...
  • 第2次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ かつら ないかく|13|桂太郎|Template 和暦?|7月14日|Template 和暦?|8月30日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/13.html|陸軍大将・軍事参議官}} 概要 第2次桂内閣は、1908年(明治41年)7月12日に大命降下を受けた桂が、首相と大蔵大臣を兼務して発足する。戊申詔書による風紀引き締めと同時に社会主義運動を弾圧、大逆事件(幸徳事件)の摘発や南北朝正閏問題への介入、出版物の取締強化を行った。また、徹底した緊縮財政とともに地方改良運動を起こして地方の立て直しを図った。外交面では韓国併合を実現し、関税自主権の回復による条約改正の終了などが日本の国際的地位向上に尽くした。大逆事件に対する責任追及が上がると、立憲政友会との「情意投合」を宣言して、秘かに西園...
  • 井上日召
    井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は日蓮宗の僧侶で右翼活動家。戦前の右翼団体血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とす。 出身地 群馬県利根郡川場村 学歴 旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校) 東洋協会専門学校(現拓殖大学)中退 略歴 群馬県の医師の家に生まれる。 旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1909年東洋協会専門学校(現拓殖大学)入学も翌年中退。 1909年 南満州鉄道入社。諜報活動等を行う。 1920年 帰国し、日蓮宗の僧侶となる。 1925年 護国聖社に入る 1928年 茨城県大洗町の立正護国堂の住職になる。  その後、海軍の過激派藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長橘孝三郎らと知り合い、暴力的改造以外に道はないと説得され同調、テロ...
  • 満州国軍
    満州国軍(まんしゅうこくぐん)とは満州国の国軍。1932年に創設。1945年に解体。 当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満州国軍も解体された。 軍制 指揮系統 各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に満州国執政(皇帝即位後は満州国皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた(溥儀は天皇同様、軍を統帥する大元帥の地位にあった)。但し、それはあくまで制度上の話である。実際の満州国の軍事権力は関東軍の支配下にあり、異動・演習の実施・装備の変更・昇格人事のいずれも、関東軍司令部の批准が必要であった。 士官以上の階級 満州国では...
  • 三菱財閥
    三菱財閥(みつびしざいばつ)は、日本三大財閥の1つ。 岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業・鉱業・鉄道・貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された。 財閥の起源 三菱財閥は、俗に三井、住友とともに三大財閥であるが、三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがある。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この...
  • 箱館戦争
    Template Battlebox? 箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いである。この戦いの最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。 背景 慶応4年(1868年)4月、江戸城の無血開城により、戊辰戦争は北陸、東北へ舞台を移した。5月、新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というものであった。これにより約8万人の幕臣を養うことは困難となり、多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた徳川家海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓ににあたらせようと画策する。 榎本は新政府への軍艦の引渡しに応じず、悪天候を理由に艦隊を館山沖へ移動。恭順派の幕臣勝海...
  • 企画院
    企画院(きかくいん)は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関。 概要 前身は昭和10年5月10日に設置された内閣総理大臣直属各省大臣と同様の立場での行政事務の分担及びその補助部局→新憲法施行後に総理庁→総理府へ統合。他方で、「合議体としての内閣」の所管部局に法制局と賞勲局があったの国策調査機関である内閣調査局にある。「重要産業統制法」(昭和6年7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まり、より強力な重要政策を立案する組織として、昭和12年5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日に内閣資源局大正7年の軍需工業動員法制定の後、物資動員企画立案機関として昭和2年5月27日に設立と統合し企画院が発足した。重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下...
  • 三大事件建白運動
    三大事件建白運動(さんだいじけんけんぱくうんどう)とは、1887年(明治20年)10月に片岡健吉が元老院に提出した建白書(「三大事件建白」)をきっかけに起きた政治運動。大同団結運動と並んで自由民権運動の最後を飾る運動として知られている。 1886年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団と改正会議を行うが、その提案には関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示した。このため、小村寿太郎や鳥尾小弥太、法律顧問ボアソナードがこれに反対意見を提出し、更に翌1887年には農商務大臣谷干城が辞表を提出する騒ぎとなった。 これを知った民権派が一斉に政府を非難し、東京では学生や壮士によるデモも起こされた。このような中で片岡健吉を代表とする高知県の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧にあると唱えて、①言論の自由の確立②地租軽減による民心の安定...
  • @wiki全体から「引き揚げ」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。