chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「憲政記念館」で検索した結果

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  • 尾崎行雄
    ...会前庭の敷地内にある憲政記念館は尾崎の功績を称えて建設されたものであり、銅像も建立されている。 東京市長在任中にアメリカ合衆国へソメイヨシノ2000本を贈り、ポトマック川に植樹された。だがこれらのソメイヨシノは虫害によって焼却されてしまい、後に3100本の桜が新たに植樹されている。 難民を助ける会創立者の相馬雪香は、英国育ちの妻テオドラとの間に生まれた三女。 金銭的にも清廉潔白で有名であった。もっとも戸川猪佐武によると、犬養毅に「そりゃ確かに君は清廉潔白で献金をもらわんかもしらんが、そのかわりわれわれに借金をするじゃないか。そしてその金を返さないじゃないか。借りた金を返さんのも清廉潔白のうちか」とやりこめられてさすがにグーの音も出なかったという。戸川によると尾崎は「原敬は金が欲しい議員には金をやってポストが欲しい議員にはポストをまわして、それで子分を増やしたのだ」と言っていたと...
  • 憲政党
    憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年6月22日-同10月29日、自由系 1898年10月29日-1900年9月13日)。1898年(明治31年)、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が8月10日に予定されていた第6回衆議院議員総選挙に備えて藩閥政府に反対するために合同してできたものである。だが、総選挙直後に再分裂して旧自由党側が「憲政党」の名称保護を強行して引き続き「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は憲政本党と名乗った。 本項記事では、1898年6月22日から同年10月29日までの統一された憲政党と10月29日から1900年9月13日の旧自由党系の憲政党(「自由派憲政党」などと呼称されることが多い)の双方を扱うものとする。 概要 憲政党 第2次松方内閣が計画した地租増徴法案に対して同内閣の与党であった進歩党は与党離脱を決定して、野党自由党との連携を強め...
  • 憲政会
    憲政会(けんせいかい)は、大正期から昭和初期にかけて護憲運動の中心となった政党。 概要 1916年(大正5年)10月10日、第2次大隈内閣の与党であった加藤高明を総裁とする立憲同志会(加藤の他に河野広中・若槻禮次郎・濱口雄幸・安達謙蔵・片岡直温ら)に立憲政友会に不満を持つ尾崎行雄の中正会・公友倶楽部などの諸政党が合同して結成する。総裁には加藤が就任して、総務7名(尾崎行雄・武富時敏・高田早苗・若槻禮次郎・濱口雄幸・安達謙蔵・片岡直温)がこれを補佐した。当初は198議席を有して衆議院第1党であった。 しかし次の寺内内閣に対して野党の立場を取ったために次の総選挙で大敗し、以後第39~48議会(1917年(大正6年)‐1924年(大正13年))において立憲政友会につぐ第2党として元老の否認やシベリア出兵反対、労働組合の公認、憲政の常道に基づく政権交代を主張したものの、政友会の原敬が総理...
  • 憲政本党
    憲政本党(けんせいほんとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年11月3日-1910年3月13日)。 概要 1898年、自由党と進歩党が合同して憲政党を結成して第1次大隈内閣を組織するが間もなく分裂、10月29日に先手を打った旧自由党系が憲政党解散決議と同時に党名・綱領・規約はそのままとして役員を全て旧自由党系に入れ替えた新しい憲政党の届出を内務省に提出した。当時の内務大臣は旧自由党の党首であった板垣退助であったことから、直ちに承認された。これに対して大隈重信首相を擁する旧進歩党系(進歩派とも)はこれに対抗して正式な党大会を開催しようとしたが、内務省はこれを違法な政治集会と認定して開催を許可せず、11月2日には旧進歩党系に対して、同一の政党名を用いて結社を行い(旧自由党系)憲政党の政治活動を妨害を企てたとして、「憲政党」という名称の使用禁止命令が発せられた。このため、やむなく...
  • 憲政の常道
    憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一党に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。 概説 大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリスの議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する...
  • 清浦奎吾
    Template 日本の内閣総理大臣? 清浦 奎吾(きようら けいご、嘉永3年2月14日(1850年3月27日) - 昭和17年(1942年)11月5日)は、日本の政治家。第23代内閣総理大臣。正二位伯爵。肥後(熊本県)出身。幼名は普寂(ふじゃく)。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任。1924(大正13)年の組閣では、ほぼ全閣僚を貴族院議員としたため(超然内閣)、護憲三派が激しく非難。わずか5ヶ月で総辞職した。清浦首相時代は、大正デモクラシーが最も高揚した時代でもあった。 生涯 山縣有朋側近中の側近 清浦奎吾は1850年(嘉永3年)2月14日、肥後国鹿本郡来民村(現・山鹿市)の明照寺住職・大久保了思の5男に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865年(慶応元年)から、豊後日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学び、日田で知り合った...
  • 立憲政体の詔書
    立憲政体の詔書(りっけんせいたいのしょうしょ)は、1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した詔書。五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した。元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸時立憲政体樹立ノ詔勅、漸次立憲政体樹立の詔勅、元老大審二院を置くの詔などとも呼ばれる。 沿革 1875年(明治8年)1月から2月にかけての大阪会議において、明治政府の大久保利通・伊藤博文と、在野の木戸孝允・板垣退助・井上馨らとの間で合意が成立し、木戸・板垣の政府復帰と政治体制の改革が約束された。 同年3月、木戸・板垣は参議に復帰すると、大久保・伊藤とともに大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案を作成し、太政大臣三条実美に提出した。そして、4月14日、この政体改革案を元にした文書が、明治天皇の詔書の形で発表された。この詔書が、立憲政体の詔書...
  • 孫文
    孫 文 初代中華民国臨時大総統 プロフィール 出生 1866年11月12日Template QIN1890?広東省 死去 1925年3月12日Template Flagicon?北京 出身地 清国広東省中山市(香山県) 職業 政治家、革命家、中華民国臨時大総統 政党 同盟会、 中国国民党 各種名称 譜名 德明 幼名 帝象 字名 載之 号・教名(受洗名) 日新、逸仙 日本名 中山樵(なかやましょう)、高野長雄(たかのながお) 慣称 孫中山 各種表記 簡体字 孙中山 繁体字 孫中山 ピン音 Sūn Zhōngshān 和名読名 そん ちゅうざん 発音転記 スン ヂョンシャン ラテン字 Sun Chung-shan 英語名 Sun Yat-sen ■ ポータル ■テンプレート ■ノート...
  • 大隈重信
    Template 日本の内閣総理大臣? 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現:早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。 略歴 生い立ち 佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政...
  • 犬養毅
    Template 日本の内閣総理大臣? 犬養 毅(いぬかい つよし、時に いぬかい つよき 或いは いぬかい こわし、1855年6月4日(安政2年4月20日)- 1932年5月15日〉)は、日本の政治家。第29代内閣総理大臣。立憲政友会第6代総裁。通称は仙次郎。号は木堂。勲一等旭日桐花大綬章。 経歴 備中国賀陽郡庭瀬村(現・岡山市川入)に大庄屋 犬飼源左衛門の次男としてうまれる(後に犬養と改姓)。一時二松学舎にも通い、最終学歴は慶應義塾退学。 郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍(ちなみに、抜刀隊が「戊辰の復讐!」と叫びながら突撃した事実は、一説には犬養の取材によるものとも言われている)。東海経済新報記者をへて、1882年(明治16年)、大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、活躍する。1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18...
  • 立憲政友会
    立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、日本の明治後期から昭和前期までの、立憲民政党とならぶ二大政党の1つである(1900年9月15日 - 1940年7月16日(正統派・統一派)/同7月30日(革新派))。略称は政友会(せいゆうかい)。 沿革 1900年(明治33年)9月15日、超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に第4次伊藤内閣を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を...
  • 下関条約
    下関条約(しものせき じょうやく)とは、1895年4月17日に日清戦争後の講和会議で調印された講和条約の通称。日清講和条約(正字体:日清媾和條約 Template DEFAULTSORT ?にっしんこうわじょうやく)ともいう。会議が開かれた山口県の赤間関市(あかまがせき-し、現在の下関市)の別称である「馬関」「赤間関」は本来は「赤馬関」で、江戸時代の漢学者がこれを漢文風に縮めて「馬関」としたもの。をとって、馬関条約(ばかん じょうやく)と呼ばれた条約調印後に「馬関」が「下関」になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは戦後になってからである。。「下関条約」はこの「馬関条約」の言い換えである。なお中国語では現在でも「馬關條約」という。 == 概説 == 主な内容 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 斎藤実
    Template 日本の内閣総理大臣? 齋藤 実(さいとう まこと、正字体:齋藤 實、安政5年10月27日(1858年12月2日) - 昭和11年(1936年)2月26日)は日本の海軍軍人で政治家。 第30代内閣総理大臣(在任1932年 - 1934年)。官位は海軍大将従一位大勲位子爵。ボーイスカウト日本連盟第2代総長。 略歴 ※日付は生年のみ旧暦 安政5年(1858年10月27日 - 水沢藩士・齋藤耕平の子として陸奥国水沢(現:岩手県奥州市)に生まれる。 明治6年(1873年)10月27日 - 海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学。 明治12年(1879年)4月20日 - 海軍兵学校卒業(6期)。 明治15年(1882年)9月8日 - 海軍少尉に任官。 明治17年(1884年) 2月25...
  • 桜田門事件
    桜田門事件(さくらだもんじけん)とは、1932年(昭和7年)1月8日に昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件(大逆事件)である。なお犯人(後述)は現在の刑法では廃止されている天皇に対する暗殺未遂の罪である大逆未遂罪に問われ、処刑された。 事件の概要 桜田門は皇居にある門のひとつであり、1860年には井伊直弼が殺害された桜田門外の変の現場でもある。1932年1月8日に昭和天皇が乗車した馬車が桜田門外を進行中に、沿道からの手榴弾が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、宮内大臣一木喜徳郎乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。結果として近衛兵一人が負傷、馬車を破壊し馬2頭も負傷した。 事件の背景 犯人は、朝鮮半島に対する日本の植民地支配からの解放を目指す金九が首班の「大韓民国臨時政府」(在・中国上海)が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって刺客として派遣され...
  • 玄洋社
    玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、頭山満ら旧福岡藩士を中心によって、1881年(明治14年)に結成された政治団体。 概要 当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散させた。 主な活動 1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、進藤喜平太(進藤一馬元福岡市長の実父)らが創立した。旧福岡藩士らが中心となった。 戦前、戦中期にかけて軍部・官僚...
  • 板垣退助
    {{政治家 |各国語表記 = いたがき たいすけ |画像 = Taisuke Itagaki 2.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1837年5月21日(天保8年4月17日) |出生地 = 土佐国高知藩(土佐藩) |没年月日 = 1919年(大正8年)7月16日 |死没地 = 東京市 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = |国旗 = 日本 |職名 = 第17代内務大臣 |内閣 = 第1次大隈内閣 |当選回数 = |就任日 = 1898年6月30日 |退任日 = 1898年11月8日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} 板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919...
  • 日米和親条約
    日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)とは、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した和親条約で神奈川条約とも言う。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。 概要 幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。 この条約の締結によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は崩壊した。 条約の日本語批准書原本は、幕末の江戸城火災により焼失した。オランダ語によって書かれた批准書原本のうち、アメリカ合衆国が持ち帰った物については、アメリカ国立公文書記録管理局で保管されており、現存する。2004年(平成16年)には、日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へ条約批准書のレプリカが贈られた。 日米の、日は日本...
  • 明治神宮
    {{記事名の制約|明治神Template lang?}} {{神社| 名称=明治神宮| 画像= 内拝殿| 所在地=東京都渋谷区代々木神園町1番1号| 位置=Template ウィキ座標2段度分秒?| 祭神=明治天皇昭憲皇太后| 社格=官幣大社| 創建=大正9年(1920年)| 例祭=11月3日(明治天皇御誕生日)}} thumb|[[鳥居|大鳥居]] 明治神宮(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社。初詣では例年日本一の参拝者数を集め、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神Template lang?』明治神宮サイト Q A。 由緒 Template 和暦?に明治天皇が崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、なんらかの記念(紀念と...
  • 伊藤博文
    Template 日本の内閣総理大臣? 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の政治家である。 明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老。位階勲等は従一位大勲位。爵位は公爵。称号は名誉博士(エール大学)。死後に大韓帝国より功績を讃えられ、「文忠公」の諡号が送られた。 幼名は利助、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。名の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある。 生涯 幼年期 - 挙兵 周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻...
  • 山縣有朋
    Template 日本の内閣総理大臣? Template Infobox 軍人? 山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日は、日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。 奇兵隊を率いて倒幕で活躍。明治新政府では日本陸軍の基礎を築いた。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。 経歴 幕末期 萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。 久坂玄瑞の紹介で吉田松陰が主催する...
  • 安重根
    Template 朝鮮の事物? 安重根(アン・ジュングン、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は朝鮮の民族主義運動家。両班の家庭に生まれた。伊藤博文の暗殺者として有名。キリスト教徒であり、洗礼名はトマス。日本語読みは「あん じゅうこん」。 事績 1905年以降、大韓帝国に於ける日本の影響力が増したことに憤激し、抗日義兵闘争を組織。亡命を繰り返す。1909年10月26日、哈爾浜駅の構内にて、韓国統監府初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文を暗殺した。伊藤は満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ココフツォフと会談するためハルビンに赴いていた。旅順の関東都督府地方院で死刑判決を受け、旅順刑務所で絞首刑に処せられた。 彼の決意の堅さを表すものとして、同志と共に薬指を切り、その血をもって国旗に大韓独立の文字を書いたという断指同盟の逸話が伝わっている。 獄中で安の取調べを行った日...
  • 海軍記念日
    海軍記念日(かいぐんきねんび)は、世界各国で独自に祝われる海軍のための記念日。 インド インドでは12月4日。1971年の第三次印パ戦争において、カラチ港爆撃に成功したことにちなむ。 オーストラリア 王立オーストラリア海軍においては、3月中に行われる。 チリ チリでは、Día de las Glorias Navalesとして、5月21日に祝われる。太平洋戦争におけるイキケの海戦での勝利を記念して制定された。 ロシア ロシアでは7月の最終日曜日に祝われる。 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国では、海軍に理解のある大統領であったセオドア・ルーズベルトの誕生日を記念して、1922年に10月27日が制定された。1949年に国防総省の指示により、合衆国海軍は海軍記念日を取りやめ、5月の第3土曜日の軍隊記念日(Armed Forces Day)を祝うようになった。...
  • 第1次大隈内閣
    Template 日本の内閣記事? 与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を特に内務大臣に迎えて組織したため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣(わいはんないかく)ともいう。 概要 第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備のために総辞職し、元老が議会勢力に妥協した結果、当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈と板垣に大命が降下されて組閣された。首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によってかためたという点では、日本史上初の政党内閣であるといえる。 しかし寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、自由党系が求めていた星亨の外相任命を大隈が拒んで自ら兼務を続けたことに加え、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展...
  • 陸軍記念日
    陸軍記念日(りくぐんきねんび)は、大日本帝国陸軍の場合、戦前・戦中の休日のことで、3月10日。 1905年3月10日、日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領し、奉天城に入場したのがこの日であった。これを記念して翌1906年から休日としたもの。 1945年の敗戦(第二次世界大戦)に伴い廃止された。 1945年東京大空襲は、意識的にこの日を狙って行なわれたと言われている。実際には、当時の日本でこの記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になってのも事実であるかのように出回ったものである。日本では、事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認出来ない。因みに海軍記念日は5月27日。5月27日には空襲はなく、2日前の5月25日に東京大空襲、2日後の5月29日に横浜大空襲があった。 世界の陸軍記念日 アメリカ合衆国:4...
  • 革新倶楽部
    革新倶楽部(かくしんくらぶ)は、日本の大正時代の政党である。 1922年11月8日、立憲国民党を解党した犬養毅、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らを中心に結成された。立憲国民党・無所属倶楽部や憲政会脱退派などの非政友会系を合同して絶対多数であった立憲政友会に対抗した。政治的主張として、普通選挙に基づく政党内閣制、軍部大臣現役武官制廃止、師団半減などの軍縮、知事公選、行財政整理、金解禁、義務教育の延長、労働および小作問題の立法的解決、ソビエト連邦承認などを掲げていた。 第二次護憲運動では、立憲政友会、憲政会と護憲三派を組んで、清浦奎吾内閣を打倒した。選挙後、成立した加藤高明を首班とする護憲三派内閣では犬養は逓信大臣として入閣した。だが、この時の総選挙で立憲政友会と憲政会の間で埋没した形となった革新倶楽部は議席を43から30に大幅に減らした事から、両党への不信感や党の将来に対する不安を抱く議員...
  • 立憲国民党
    立憲国民党(りっけんこくみんとう)は、日本の明治末期・大正時代の政党。 立憲政友会が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、1910年(明治43年)3月14日 立憲改進党の系譜につながる憲政本党を中心に又新(ゆうしん)会と戊申倶楽部の3派(代議士は計92名)が合同して結党された。 党首は不在で、憲政本党の大石正巳、犬養毅、又新会の島田三郎、河野広中、戊申倶楽部の片岡直温、仙石貢らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して民党の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする「非改革派」と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る「改革派」が対立していた。1911年(明治44年)1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。第2次桂内閣や第2次西園寺内閣では南北朝正閏問題や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。 19...
  • 民撰議院設立建白書
    民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)は、1874年(明治7年)1月17日、前参議・板垣退助、後藤象二郎らが、政府に対して最初に民選の議会開設を要望した建白書。自由民権運動の端緒となった文書である。 建白書の提出まで 1873年(明治6年)末、いわゆる明治六年の政変で、征韓論に敗れて下野した板垣ら前参議は、イギリスに留学して帰朝した古沢滋(迂郎)、小室信夫らの意見を聞き、政党の結成を思い立った。1874年1月12日、板垣らは愛国公党を結成し、反政府運動を始めた。愛国公党は、天賦人権論に立ち、専制政府を批判して、天皇と臣民一体(君民一体)の政体を作るべきと主張した。そのため、士族や豪農・豪商ら平民に参政権を与え、議会を開設せよとも主張した。 建白書の内容 愛国公党を結成して5日後の1874年1月17日、板垣退助(前参議)、後藤象二郎(前参議)、江藤新平(前参...
  • 護憲運動
    護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。 第一次憲政擁護運動 第一次憲政擁護運動の背景と発端 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このよう...
  • 大正政変
    大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)2月、前年末から起こった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れたことを指す。広義には、第2次西園寺内閣の倒壊から、第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされる ref name=okubo 大久保(1964)。 狭義の大正政変 概略 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」1911年(明治44年)1月26日の桂・西園寺会談の結果、1月29日に発表した合意のこと。第2次桂内閣が立憲政友会の支援を必要としていることから、桂は次期首班に政友会を推し、自分は再び政権につかないという確約を政友会の原敬とのあいだに結んだ。これにより、政府と政友会の提携が成立した。のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。 明治天皇崩御...
  • 共和演説事件
    共和演説事件(きょうわえんぜつじけん)は、第1次大隈内閣(隈板内閣)の文部大臣であった尾崎行雄が1898年8月21日に行った演説が問題となり、内閣瓦解の発端となった事件。 経緯 尾崎は1898年8月21日に帝国教育会で行った演説の中で、Template quotation?と発言した。この発言の趣旨は当時蔓延していた財閥中心の腐敗した金権政治の風潮を批判したものだった。 ところが、これが大日本帝国憲法下の当時の日本では「不敬の言」であると曲解され、まず宮内省から批判の声が挙がり、初の政党内閣である隈板内閣に批判的な枢密院・貴族院に非難の声は広がり、さらに与党憲政党内旧自由党派の実力者星亨が、陸軍大臣桂太郎らと密かに連携して尾崎排除を計画、隈板内閣を嫌っていた伊藤博文の盟友伊東巳代治が社主を務める東京日日新聞も尾崎攻撃を開始した。 尾崎は辞職をするなら一蓮托生と大隈重信首相に食い...
  • 交友倶楽部
    交友倶楽部(こうゆうくらぶ)は、1912年12月24日より1947年5月3日の日本国憲法公布まで存在していた貴族院の院内会派。ただし、上記の設立日は院内交渉団体として届出があった日であり、実際には遅くても同年初めには親睦団体として存在していた(『原敬日記』)。貴族院における立憲政友会系の会派として活動した。 元は立憲政友会の第2次西園寺内閣を支持する勅選議員や多額納税議員の親睦団体であったが、1912年12月24日に院内交渉団体として届出を行って正式に発足した。結成時の幹事は勅選議員(奥田義人・岡野敬次郎・安楽兼道)・多額納税議員(佐藤友右衛門・森田庄兵衛・山下喜兵衛)ともに3名ずつ選出され、他に石渡敏一・杉田定一・水野錬太郎・江原素六・松岡康毅・室田義文らを合わせて25名が参加していた。立憲政友会の勢力拡大とともに会員を常時30名を超え、最盛期には47名を数えた。また、非政党内閣であっ...
  • 田中義一内閣
    {{日本の内閣記事|たなかぎいち ないかく|26|田中義一|Template 和暦?|4月20日|Template 和暦?|7月2日|立憲政友会|第16回衆議院議員総選挙|1928年(昭和3年)1月21日普選解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/26.html|立憲政友会総裁・貴族院議員}} 概要 昭和金融恐慌の発生によって窮地に陥った第1次若槻内閣は、緊急勅令によって事態切り抜けを図ったが、幣原外交に反感を抱く枢密院の平沼騏一郎や伊東巳代治の策動で否決されて倒れた。元老西園寺公望と内大臣牧野伸顕はともに憲政常道の観点から立憲政友会総裁の田中義一を後継に推挙し、陸軍出身の田中に幣原外交路線の破棄を期待する反西園寺派の平沼・伊東までがこれに便乗した。金融恐慌に動揺する貴族院にも田中待望論の動きが高まった。 大命降下を受けた田中は平沼...
  • 第3次桂内閣
    {{日本の内閣記事|だい3じ かつら ないかく|15|桂太郎|Template 和暦?|12月21日|Template 和暦?|2月20日|官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/15.html|元老・内大臣兼侍従長}}在任期間は62日間で、東久邇宮内閣(54日間)に次いで史上第2位の短命内閣である。 概要 これまで「桂園時代」と呼ばれて桂太郎と西園寺公望が交替して政権を担当しており、順番からすれば桂が推挙される筈であったが、この頃、桂と山縣有朋の確執が深刻化し、4ヶ月前の大正天皇践祚を機に内大臣兼侍従長に祭り上げられていた。そのため、元老の中から松方正義が推されたが78歳であることを理由に辞退し、山本権兵衛・平田東助も組閣の自信がないとして辞退した。このため、山縣もやむなく桂を再度推挙することとした。桂は山縣には依存...
  • 昭和天皇-3
    前半は、昭和天皇、昭和天皇-2参照 短歌 昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだと言われている。公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。宮中行事や歌会始に代表される歌会、行幸やおことばに代表されるパフォーマンスに伴っての作品発表は、いずれも宮内庁の目を経ており、相聞が一首も発表されていない点をとっても、一般の短歌作者とは同列に論じられない部分もある。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。このような作風は「おおらか」とも、「非文学的」ともされてきた。(詳しくは昭和天皇の大御歌を参照) 昭和天皇の歌集 みやまきりしま:天皇歌集 (毎日新聞社編...
  • 第2次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい2じ やまがた ないかく|9|山縣有朋|Template 和暦?|11月8日|Template 和暦?|10月19日|藩閥内閣、官僚内閣|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/09.html|貴族院議員・元老}} 概要 憲政党分裂騒動によって前内閣が倒れると、Template 和暦?11月5日に山縣が大命降下を受けて、自派の藩閥官僚を中心とした組閣を行った。当初、地租増徴を実現させるために憲政党(自由派)と連携して地租増徴や日本興業銀行法を実現させた。だが、その後、同党からの入閣の約束を一方的に反故にして、文官任用令改正を行い、続いて文官分限令・文官懲戒令・治安警察法の制定、軍部大臣現役武官制の導入などで、政党を政府から排して超然主義による国家運営を目指した。だが、これによって衆議院を敵に回した山縣の政...
  • 加藤高明内閣
    {{日本の内閣記事|かとうたかあき ないかく|24|加藤高明|Template 和暦?|6月11日|Template 和暦?|1月28日|護憲三派(憲政会、立憲政友会、革新倶楽部)|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/24.html|貴族院議員・立憲政友会総裁}}前の清浦内閣が第二次護憲運動により倒れた後を引き継いだ。 概要 加藤高明内閣は、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部による護憲三派連立内閣である。しかし、組閣から1年余が経過した1925年(大正14年)8月2日以後、憲政会単独内閣となる。この憲政会単独内閣を組織した際に、摂政裕仁親王(後の昭和天皇)から改めて大命降下を受けて組閣しているため、この時点で内閣は一旦総辞職したものと見なして、同日以後を第2次内閣とする説もあるが、現在の内閣府の公式見解ではこの日以後も第2次内閣...
  • 昭和金融恐慌
    昭和金融恐慌(しようわきんゆうきょうこう)は、1927年3月から発生した経済恐慌である。単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)と呼ばれる事もある。金融恐慌は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本においては特に断らない場合は1927年の経済恐慌を指すことが多い。 概要 日本経済は第一次世界大戦時の好況から一転して不況となり、さらに関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷...
  • 西園寺公望
    Template 日本の内閣総理大臣? 西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日(1849年12月7日) - 昭和15年(1940年)11月24日)は日本の公家、政治家。立憲政友会第2代総裁。第12・14代内閣総理大臣。贈従一位、大勲位、菊花章頸飾、公爵。本姓は藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。 大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。 文化人、趣味人としても名高く、陶庵と号し書を能くし、叙情あふれる漢詩も多く残している。 そして森鴎外ら第一級の文人たちを招じ雨声会と称したサロンを主催した。 生涯 生い立ち 西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。両家は藤原房前を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統である。...
  • 政党内閣
    政党内閣(せいとうないかく)とは、議会に議席を保持する政党を基礎に組織された内閣のこと。議院内閣制ともいい、議会の信任に基づいて政権を運営する。 現在では議会制民主主義(間接民主制)の制度を取り入れている諸国の内閣が政党内閣の形態である。ただし、アメリカ合衆国のように議院内閣制を採用していない国では、政党政治が実施されていても、その政権をさして政党内閣とは呼ばない場合が多い。また、社会主義・共産主義国家やファシズム国家などに見られる一党独裁体制も政党が政権を掌握していたとしても政党内閣とはいえない。 各国の政党内閣 イギリス 政党内閣が典型的な発展を見せたのは17世紀後半のイギリスである。ホイッグとトーリーの両党派が相互に勢力を競い、後に自由党と保守党による二大政党制へと移行した。1900年前後に議院内閣制の慣行が確立されると政党内閣による政権運営が定着した。 日本 日本...
  • 清浦内閣
    {{日本の内閣記事|きようら ないかく|23|清浦奎吾|Template 和暦?|1月7日|同年|6月11日|官僚、貴族院。|第15回衆議院議員総選挙|1924年(大正13年)1月31日懲罰解散|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/23.html|枢密院議長}} 清浦は枢密院議長から出て組閣し、政党から閣僚を入れることなく、貴族院を背景にした超然主義を貫いた。立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が起こした第二次護憲運動により、わずか5ヶ月で総辞職となった。与党は立憲政友会を脱党した政友本党である。 閣僚 内閣総理大臣 清浦奎吾(子爵・前枢密院議長) 外務大臣 松井慶四郎(男爵・外務官僚) 内務大臣 水野錬太郎(貴族院交友倶楽部) 大蔵大臣 勝田主計(貴族院研究会) 陸軍大臣 宇垣一成(陸軍中将) 海軍大臣 村上格一(海軍...
  • 自由民権運動
    自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)とは、明治時代の日本において行われた政治運動・社会運動。1874年の民撰議院設立建白書以降、藩閥政府による政治に対して、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の改正、言論と集会の自由の保障などの要求を掲げた。1890年の帝国議会開設頃まで続く。 運動のはじまり 1873年の征韓論政変により下野した板垣退助は1874年、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成、民撰議院設立建白書を政府左院に提出し、高知に立志社を設立する。翌年1875年には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により、すぐに消滅する。江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、武力闘争と紙一重であった。しかし、武力を用いる士族...
  • スバス・チャンドラ・ボース
    スバス・チャンドラ・ボース (Subhas Chandra Bose, デーヴァナーガリー文字:सुभाष चन्द्र बोस, ベンガル文字:সুভাষ চন্দ্র বসু, 1897年1月23日 - 1945年8月18日)はインドの急進的独立運動家、インド国民会議派議長、自由インド仮政府国家主席兼インド国民軍最高司令官。ベンガル人。ネタージ(指導者:नेताजी, Netaji)の敬称で呼ばれる。 プロフィール 独立運動家 1897年にインド(当時はイギリス領インド帝国)のオリッサ州に生まれ、カルカッタ(現在のコルカタ)の大学を卒業、両親の希望でケンブリッジ大学に留学したが、1921年にマハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に身を投じた。 1924年にカルカッタ市執行部に選出されるも、逮捕・投獄されビルマのマンダレーに流される。釈放後の1930年にはカルカッタ市長に選出...
  • 又新会
    又新会(ゆうしんかい)は、明治末期に存在した革新派政党。立憲政友会に対抗して都市生活者の支援と対外強硬論を軸とした。ここではその母体となった猶興会(ゆうこうかい)についても合わせて解説するものとする。 猶興会 猶興会(ゆうこうかい)は、1906年12月20日に政交倶楽部を中心とした既成政党に不満を持つ36名の代議士によって結成された政党である。菊池武徳・山口熊野を幹事(代表)とし、河野広中・大竹貫一・島田三郎・小川平吉・尾崎行雄・奥田義人・花井卓蔵らが参加した。 日露戦争後の政府の膨張予算とそれに伴う増税方針に強く反対し、「政界革新同志会」を旗揚げして全国運動を展開する。憲政本党・大同倶楽部と連携して政友会の第1次西園寺内閣の政策を糾弾して国民負担の軽減と軍事優先政治の解消を求めた。その反面、対外的にはタカ派的色彩が強く、ハーグ密使事件では政府・韓国統監府の対応を「弱腰」であると...
  • 加藤高明
    Template 日本の内閣総理大臣? 加藤 高明(かとう たかあき)、1860年1月25日(安政7年1月3日) - 1926年(大正15年)1月28日)は日本の外交官、政治家。第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。幼名は総吉。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。 生涯 財界への歩み 尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。明治5年(1872年)祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、東京大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。...
  • エルトゥールル号遭難事件
    エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が、和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件。この事件は、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。 現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号遭難慰霊碑およびトルコ記念館が立つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。 事件の経過 木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されることとなった。 1889年7月、イスタンブルを出港。数々の困難に遭...
  • 桂園時代
    桂園時代(けいえんじだい/けいおんじだい)とは、陸軍・山縣有朋閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派...
  • 第4次伊藤内閣
    {{日本の内閣記事|だい4じ いとう ないかく|10|伊藤博文|Template 和暦?|10月19日|Template 和暦?|6月2日|立憲政友会|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/10.html|立憲政友会総裁・元老}} 概要 これまでの3度の伊藤内閣と異なり、伊藤系官僚と旧憲政党によって結成された立憲政友会を与党とする事実上の政党内閣である。Template 和暦?10月1日に同党が結成されると、前首相山縣有朋が結党直後の同党を揺さぶるために総裁に就任した伊藤に強引に政権を押し付ける形で成立した。外務大臣と軍部大臣以外は全員が政友会に入党していた。だが、山縣は陸軍と貴族院を利用して政友会攻撃を行い、明治天皇の詔書によって漸く事態を収拾した。加えて政友会の実力者であった逓信大臣星亨が汚職で辞職に追い込まれると、未だに...
  • 岐阜事件
    thumb|right|250px|板垣退助が襲われた場所に建つ板垣退助の銅像 br / [[岐阜公園にて(岐阜市)]] 岐阜事件(ぎふじけん)とは、1882年(明治15年)4月6日に岐阜で、自由党党首板垣退助が暴漢(相原尚褧)に襲われた事件である。板垣退助遭難事件、岐阜遭難事件ともいう。このとき板垣が「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだとして知られるが、事実であるかは不明である。 事件前の状況 1881年(明治14年)10月18日、10年後の帝国議会開設の詔が出されたのを機に自由党(日本初の政党の一つ)が結成され、自由民権運動は頂点を迎える。そのような中、11月9日に板垣退助は自由党総理(党首)に就任する。 1882年(明治15年)3月10日、板垣退助は竹内綱、宮地茂春、安芸喜代香らとともに、東海道遊説旅行の為に東京を出発。静岡、浜松を経て、3月29日に名古屋で演説後、4月5...
  • 護憲三派
    護憲三派(ごけんさんぱ)とは、第二次護憲運動を起こした立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の三政党のことである。 政党内閣樹立や、普通選挙の実現、貴族院改革、行財政改革などを掲げた。 大正13年(1924年)1月18日、各党の党首である高橋是清・加藤高明・犬養毅が会合した際に成立したが、翌年に革新倶楽部が政友会に吸収され、更に第一次加藤高明内閣の辞職の際に解消した。 関連項目 大正 大正デモクラシー 普通選挙法 政党政治 三浦梧楼 両税委譲   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月18日 (水) 02 42。   
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