chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「戦犯」で検索した結果

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  • BC級戦犯
    B級戦犯(ビーきゅうせんぱん)およびC級戦犯(シーきゅうせんぱん)とは、第二次世界大戦の戦勝国である連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪または戦争犯罪人とされる罪状に問われた一般の兵士ら。 A級と同様に、B、Cは罪の重さのことではない。 日本のBC級戦犯は、連合国軍総司令部(GHQ)により横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、のちに減刑された人も含め約1000人が死刑判決を受けたとされる。なお、極東国際軍事裁判(東京裁判)においてもA項目の訴追事由では無罪になったが、B項、C項の訴追理由で有罪になった人があった。 由来 ナチス・ドイツのポーランド侵攻以降、ナチス・ドイツによる残虐行為に関して各国政府やその代表などから非難の声があがっていた。この声はその後、ロ...
  • A級戦犯
    A級戦犯(エイきゅうせんぱん)は、ポツダム宣言に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪人で、極東国際軍事裁判(東京裁判)で有罪判決を受けた者をさす。起訴された者を含む場合もある。 逮捕までの経緯 1945年7月26日、ポツダム会談での合意に基づいて米英中により、大日本帝国に対して発した第二次世界大戦に関する13条から成る降伏勧告の宣言(ポツダム宣言)が行われた。第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とある。 同年8月8日、米英仏ソが「欧州枢軸諸国の重要戦争犯罪人の訴追及び処罰に関する協定」(ロンドン協定・戦犯協定)を締結。ここで「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場。 同年8月10日、日本がポツダム宣言を受諾。15日、終戦。 同年8月29日、ア...
  • 日本の戦争犯罪
    ...が、国内では専らA級戦犯と呼称されているが日本国内法上A級戦犯という犯罪者は存在しない。それは条例a項目により裁かれたという意味合であるが、日本においては戦争を行ってしまった事が戦争責任として主に左派勢力から指摘追求される場合が多く、戦争を引き起こした人物達の「平和に対する罪」がもっとも重視されており、等級的上位を連想させるA級が定着したと誤解している人間も少なからず存在する。 日本が降伏するにあたって受諾したポツダム宣言には「戦争犯罪人」の処罰が規定されていた。アメリカ合衆国占領軍は日本占領直後から、戦争犯罪人には、捕虜を虐待したといった通常の戦争法規違反者と、戦争を国家の政策の手段とした者「政治的戦争犯罪人」の二種類があるとしており、それぞれに判定作業が行われていた。1945年(昭和20年)9月9日には第一号「政治的戦争犯罪人」として39名が指名され、指名を受けていた東條は、同...
  • 巣鴨拘置所
    ...後、東條英機ら7名の戦犯の死刑が執行されたことでも知られる。 来歴 1895年 警視庁監獄巣鴨支署が設置される。 1897年 巣鴨監獄と改称される。 1922年 巣鴨刑務所と改称される。 1937年 刑務所としての機能を府中刑務所に移管し、その後「巣鴨拘置所」と改称される。 1945年11月 GHQに接収される。「スガモプリズン」と呼ばれる。 1958年5月 GHQから返還される。東京拘置所と改称される。 1958年5月30日 米関係戦犯18名釈放され、全員釈放となる。 1970年 東京拘置所が葛飾区小菅に移転され、小菅拘置所が東京拘置所と改称される。 1971年 建物が解体される。 1978年4月6日 拘置所跡地にサンシャインシティ開業。 関連項目 私は貝になりたい 参考文献 小林弘忠著『巣鴨プリズン――教誨師花山信勝と死...
  • 松井石根
    ...にて死刑判決(BC級戦犯松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。)を受け、処刑された。現在は靖国神社に合祀されている。 生涯 出自 愛知県出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)を卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍した。 中国に駐在中は孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。昭和8年...
  • 土肥原賢二
    ...判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるが、このとき諸外国にその事実が露顕した際には、溥儀もろともその乗船を沈没させる予定だったとも言われる。 その後、華北分離工作を推進し、土肥原・秦徳純協定を締結。この結果河北省に冀東防共自治政府を成...
  • 木村兵太郎
    ...。太平洋戦争後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。 略歴 生い立ち・前歴 埼玉県出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。 昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。 ビルマからの撤退 Template see also? 昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導はほぼ不可能な状態に陥っていた。 4月13日、ラングーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になる...
  • 鈴木貞一
    ...5年12月3日、A級戦犯に指定された。極東国際軍事裁判で鈴木がA級戦犯として告訴された最大の要因は前述の御前会議において開戦を主張したことにあるとされている(陸軍中将ではなく、企画院総裁という文官としての立場で起訴された)。終身禁固の判決を受け服役する。1955年9月17日に橋本欣五郎、賀屋興宣とともに仮釈放され、1958年に赦免された。 赦免後は、「電力王」と呼ばれた松永安左エ門の要請で産業計画会議委員へ一度就いたが、岸信介内閣成立後の1959年に、自民党から参院選出馬への要請を受けるも、「もう私の時代は終わった」「一度、頂点の舵取りを誤った者は、二度とその職に付くべきではない」と拒否し、公的な役職に就くことはなかった。しかし、保守派の御意見番として、自民党の国会議員から意見を求められることが多く、佐藤栄作のブレインとして彼を支え続けたほか、岸信介や福田赳夫、三木武夫とも懇意にし...
  • 洪思翊
    ...陸軍軍人。陸軍中将。戦犯としてフィリピンで処刑された。 出自 1889年、京畿道安城の両班の家に生まれた。本貫は南陽洪氏である。1905年の日韓保護条約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校に入学している。1909年に陸軍武官学校廃止にともない、日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年の日韓併合に衝撃を受けて抗日独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪思翊は現在決起するのは朝鮮の独立を回復するのに繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきとして級友達と路線を分かつ。 軍歴 1914年に陸軍士官学校を卒業し(26期。卒業時の成績は742人中31番)、日本陸軍に勤務、1923年には陸軍大学校(35期)も卒業している。彼は士官学校時代からの旧友である韓国光復軍司令...
  • 極東国際軍事裁判
    ...各連合国に設けられた戦犯法廷の判決が無効化され、裁判が終結していない場合は即刻釈放しなければならなくなることを回避するために設けられた条項である。 しかし、この条項の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、判決手続き一般の受諾と考える立場に2分されている。(「裁判の受託」という文節の本文は『Japan accepts the judgments』であり、判決主文に基づいた刑を意味する『sentence』とは明確に区別されている。また「judgment」は「判決」と訳されることもあるが、沖縄返還協定のように「裁判」と訳されることもある。) 日本国内においては、1952年12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。さらに翌年、極東軍...
  • 南次郎
    ...満州事変の責任でA級戦犯に指名され、東京裁判で終身禁固刑となる。昭和29年(1954年)、仮出獄。南は軍事思想として、国防は政治に優先すると常に唱えた。外交に関しては、重光葵が認めた『巣鴨日記』(『文藝春秋』昭和27年8月号掲載)によると、巣鴨プリズン内での重光との会話の中で「外交とは軍の行動のしり拭いをすることであったと思っていたが、今度初めて外交の重要性を了解した」と語ったことがあるという。 人物 生前の南は、「南のある所春風あり」と言われるほどの人情家で、明るくユーモラスで誰からも親しまれる性格であった。重光によると、南の白髭は戦犯の間でも名物となり、巣鴨プリズンにおける獄中生活ですら楽しんでいる様子だったという。 年譜 1895年(明治28年)2月 - 陸軍士官学校卒業(6期)。 5月 - 少尉に昇進。騎兵第6大隊附。 1896年(明治29年)9月 - ...
  • 便衣兵
    ...判を行っていない。(戦犯裁判で、弁護側は裁判を行ったはずと主張したが、記録は提出されなかった。 日本軍の記録に、不意をつかれて被害がでたという記録があるが、単に不意をつかれただけのことで夜襲と同じで違反行為でない。    
  • 白鳥敏夫
    ...後、連合国側よりA級戦犯指定を受け極東国際軍事裁判にて終身禁固刑の判決、服役中に喉頭癌により死去。 1978年(昭和53年)10月17日、靖国神社の合祀祭にて昭和殉難者として合祀される。 エピソード 情報部長時代には、満州国の承認に関して、アメリカ人記者から「日本はいつ承認するのか?」と聞かれた際、白鳥は「日本は急ぎはしない。建設すべき運河をそこにもたないから」と答えたという。これは、パナマ運河を建設するために、アメリカがパナマで軍事革命を起こし、傀儡政権を立て、それをすぐさま承認したことに対する皮肉である。 イタリア赴任前に同盟通信社の岩永裕吉と会議で揉めて、「イタリア大使となる人物」と「国家代表通信社のボス」が背広を脱いで喧嘩を始めるところへ、有田八郎外務大臣が止めに回っている。 巣鴨プリズンに服役中、戦争放棄や軍備撤廃を新憲法の条項に盛り込むべきだとする提案をまと...
  • 平沼騏一郎
    ...戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予備門入学。1888年(明治21年)帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法科大学、戦後の東京大学法学部)を卒業し、その後司法界で出世していった。 首相就任まで thumb|200px|left|[[林内閣の総辞職を受けて後継首班の選出に奔走する湯浅倉平内大臣 (右) の訪問を受ける平沼枢密院議長(1937年(昭和12年)5月31日)]] 1908年、刑法改正(現行刑法制定)を機に設置され...
  • 広田弘毅
    ...かった。 A級戦犯 right|200px|thumb|[[ウィリアム・ウェブ裁判長から死刑宣告を聞かされる広田]] 大戦終結後、進駐してきた連合国軍によりA級戦争犯罪人容疑者として逮捕される。巣鴨プリズンに収容された広田に対し、GHQの組織した国際検察局が、極東国際軍事裁判の訴追対象とするかどうかを決定するための尋問を行った尋問調書が米国の国立公文書館に保存されている。以下、内容については2007年8月13日放送のNHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか ~東京裁判・尋問調書より~」による。。この中で国際検察局側は、組閣時に閣僚人事に軍の干渉を受けたことや、首相時代に軍部大臣現役武官制を復活した点を重視した。広田は後者については「この決定が現在の情勢を招いたとは思わない」と回答している。ただし、「軍の活動が緊迫したものになると外交政策はそれに引きずられてしまうことが多い...
  • 河本大作
    ...、河本は捕虜となり、戦犯として大原収容所に収監された。1953年(昭和28)8月25日、河本は収容所にて病死した。享年72。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月6日 (月) 17 44。      
  • 東條英機-2
    ...には親しい関係者に「戦犯の指定を受けたとは言え、国に忠義を尽くした国民の一人である。被告人として立たせるのは忍びない」と言い悲しんでいた。 東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察している。また学習研究社から発売している『実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌』の「東條英機」の項目の中でも中野正剛の事件について「憲兵の情報を鵜呑みにして過剰反応したのではないか」という同様の推察がある。 終戦工作の妨害 だが、天皇の信任が去って以降の東條は、“誠忠無二”とは逆の方向に変質していく。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年4月の重臣会議で東條は、鈴木貫太郎首相に不満で選出後も畑俊六元帥陸軍大将を首相に推薦し「人...
  • 東郷茂徳
    ...争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務めた東郷文彦は女婿。元ワシントンポスト記者の東郷茂彦、元オランダ大使・外務省欧亜局長の東郷和彦は双子の孫。 略歴 明治15年(1882年) 鹿児島県日置郡苗代川村(後の下伊集院村。現在の日置市東市来町美山)で、陶工・朴寿勝の長男「朴茂德」として生まれる(誕生日は12月20日、12月10日、10月25日など諸説あり、戸籍上は12月10日) 明治19年(1886年) 父・朴寿勝が鹿児島城下士の東郷某の士族株を購入し、「東郷」を名乗る 明治21年(1888年) 下伊集院村立尋常高等小学校(現美山小学校)へ入学 明治29年(1896年) 鹿児島県尋常中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)へ入学 明治34年(1901年) 第七...
  • 田中隆吉
    ...事変に関与しており、戦犯行為を行なっているので、検事側に協力しなければ起訴されていたという説もある。一説では、武藤が軍務局長の頃に、田中は武藤の地位を狙って策謀したが、未遂に終わって予備役に回された事から、武藤を逆恨みしていたと言われている。だが、田中には終戦間際中将への昇進の話があったが、自ら断ったというエピソードがある。裁判後、田中は武藤の幽霊が現れると言う精神錯乱に陥ったとも言われている。 しかし、元外務省主任分析官佐藤優は「田中の軍歴が示す通り、全てが計算された戦後における謀略であった」と指摘している。真に売国奴であるならば、戦後においても継続された陸軍中野学校の国土遊撃戦計画(泉工作)などをGHQに売り払うはずであり、A級戦犯に対する告発も「被害者」を「最小限」に食い止める為の一つの手段であったと、考えることもできる。また、田中の目的が、絶対に国体護持を念頭していたことも...
  • 重光葵
    ...て、強硬に重光をA級戦犯として起訴するよう要求してきた。当初、GHQは重光を戦犯として起訴する意思は皆無で、キーナンをはじめとするアメリカ側検事団も強く反対した。しかし、当時の民主党政権は「要求を受け入れられないのなら、裁判に参加しない」というソ連側の揺さぶりに屈する形となり、マッカーサーも要求を容認さぜるを得なくなった。結局、4月29日の起訴当日に逮捕され、昭和23年(1948年)11月12日に有罪判決を受けた。裁判においては、高柳賢三・ジョージ・ファーネス両弁護人の尽力などもあって、その判決は禁固7年というA級戦犯の中では最も軽いものとなったが、日本だけではなく当時の欧米のメディアも重光の無罪は間違いないと予想していただけに、有罪判決はGHQによるソ連を満足させるための政治的妥協によるものだと評する声も多かった。事実、当時の巣鴨プリズンで憲兵を務めていたブルーム大尉は「驚いた。貴...
  • 米内内閣
    ...東京裁判においてA級戦犯被告となった畑はこのことを厳しく問われることになる。。米内は後任の陸相を求めたが陸軍が推挙しなかったため、軍部大臣現役武官制により、総辞職に追い込まれた。 昭和天皇は米内内閣総辞職について「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と、後年まで悔いていたという。 閣僚 総理大臣 米内光政(予備役海軍大将) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 外務大臣 有田八郎(貴族院所属 昭和研究会) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 内務大臣 児玉秀雄(貴族院所属 昭和研究会) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 大蔵大臣 桜内幸雄(立憲民政党) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 陸軍大臣 畑俊六(軍人 陸軍大将...
  • 荒木貞夫
    ...に邁進した。 A級戦犯に処せられて終身禁固の判決を受け服役。1955年、仮釈放。東京裁判ではのらりくらりとしながらもその堂々とした態度が、他の被告人らを奮い立たせたともいわれている。非常に饒舌で罪状認否で起訴状の内容に対し無罪を主張して熱弁を振るい、ウェッブ裁判長から注意された。判決時にはモーニング姿で被告席に現れた。しかし、重光葵の証言によれば、巣鴨プリズン内のアメリカ人憲兵の不遜な態度に反発するあまりに、親ソ的な言動をとるようになるなど、その思考には多少短絡的な部分もあったようだ。 皇道派のシンボル 昭和初期の陸軍首脳は、「青年将校を煽動する恐れあり」という理由で、1929年(昭和4年)当時、第1師団長であった真崎甚三郎を台湾軍司令官として追いやったときに、荒木も左遷される運命にあった。 しかし、教育総監の武藤信義が「せめて荒木は助けてやってくれ」と詫びを入れる形で、荒木...
  • 牟田口廉也
    ...戦を迎える。終戦後、戦犯容疑で逮捕されてシンガポールに送致されるが、作戦失敗で日本軍の甚大な損害を招き、英軍の作戦遂行をむしろ容易にしただけであったため、不起訴処分となって釈放された。 戦後は東京都調布市で余生を送るが、インパール作戦失敗の責任を問われると、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と牟田口は頑なに自説を曲げずに自己弁護に終始した。さらにラジオやテレビ、雑誌などで、機会さえあれば同様の主張を繰り返している。ついには国立国会図書館が盧溝橋事件についての証言の録音を牟田口に求めたときにも、最初予定のなかったインパール作戦の録音を無理に頼み込んで行わせた。1966年死去。なお兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かった。それどころか遺言を残して、自分の葬儀においても、自己弁護を印刷したチラシを参列者に対して配布させた。 エピソード これらのエピソードは常...
  • 大東亜戦争
    ...占領下で実施された「戦犯」裁判は、国際法上は戦闘行為の継続と解釈され、A、B、C級の「戦犯」刑死者に対して、日本政府は戦死者と同等の待遇を与え、その遺族に年金を支給している。同様の理由で、「戦犯」刑死者(服役中の死亡や未決拘禁中の死亡者を含む)は、戦死者と共に靖國神社にも合祀されている。 脚注 Template 脚注ヘルプ? 関連項目 Template ウィキポータルリンク? 日本における検閲 連合国軍占領下の日本 大東亜共同宣言 外部リンク 大東亜戦争研究室 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月3日 (金) 01 19。    
  • 真崎甚三郎
    ...11月19日に、A級戦犯として逮捕命令が発令され、巣鴨プリズンに入所する。第一回の尋問は巣鴨への収監に先立つ12月2日に第一ホテルで行われた。以降は、3回に亘って尋問が行われたが、供述内容は責任転嫁と自己弁明に終始した。特に、敵対していた東條英機等統制派軍人や木戸幸一に対する敵意と憎悪に満ちた発言と、親米主義の強調は事あるごとに繰り返しており、その態度からは「皇道派首領としての威厳や格調、陸軍を過ちへ導いた事への自責の念は全く見られなかった」と野口恒等から酷評されている。極東国際軍事裁判で不起訴処分。 1956年死去。 年譜 1897年(明治30年)11月 - 陸軍士官学校卒業(9期)。 1898年(明治31年)6月 - 少尉に昇進。歩兵第46連隊附。 1899年(明治32年)5月 - 対馬警備隊附 1900年(明治33年)11月 - 中尉に昇進。 12月 - 陸軍...
  • 学徒出陣
    ...が生じた。このBC級戦犯裁判で死刑が宣告され、帰還後に日本であるいは降伏した現地で命を落とす学徒兵もいた。 帰国後の活躍 このような戦中・戦後の死線をくぐり、日本に帰還した学徒兵は多くが元の学校に復学し卒業した後は戦後日本の復興や発展の牽引役となった者も現れた。答辞を読んだ江橋も生還し、後に東京大学教育学部教授や鹿屋体育大学学長になった。早稲田大学第一商学部から出征した竹下登も戦後に卒業して故郷の島根県で県議となり、後に内閣総理大臣まで務めた。一方、竹下の後に内閣総理大臣となった宇野宗佑は神戸商業大学在学中に学徒動員となり、シベリア抑留を経て帰国した後も大学には戻らず滋賀県議から政治家の道を歩んだ。宇野内閣では内閣官房長官の塩川正十郎も慶應義塾大学経済学部の学生として明治神宮外苑の壮行会から出征した(出征中に卒業扱いとなる)。竹下と宇野、それに明治大学専門部政治経済学科から194...
  • 石原莞爾
    ...際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。 元衆議院議員の加藤精三は従兄弟であり、その息子は現衆議院議員の加藤紘一。 東亜連盟 東亜連盟は日本人のみならず、中国人や朝鮮人からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに 牛島辰熊(全日本2連覇の柔道家、木村政彦の師匠) 大山倍達(極真会館の創設者) 武田邦太郎(農政と平和研究所所長、参議院議員) 橘撲(ジャーナリスト・中国研究家、中国社会研究の先駆...
  • 連合国軍最高司令官総司令部
    ...。彼等はいわゆるA級戦犯として極東国際軍事法廷(東京裁判)により国際法に違反した事後法による裁判により判決を言い渡され、東條以下7名を絞首刑による処刑、多数を禁固刑などに処した。平和条約により日本はその判決を受諾(ただし裁判自体は受諾していない)した。 公職追放 軍人ほか、戦時中に軍に協力的であったと認定された政治家、思想家など個人20万人がこれを理由に職を解かれて公職追放され、思想面での統制が行われた。また、戦争犯罪人や大政翼賛会に関与していたと見なされた者は、政府機関の職に就くことを禁止された。戦意高揚映画を製作した東宝など、映画界にもこれは及んだ。 情報統制 総司令部が政策として最初に行ったことは検閲である。1945年(昭和20年)9月に発した「プレスコード」によって、軍国主義的なもの、戦前・戦中の日本を肯定するもの、連合国軍の行為を批判するもの、原子爆弾や無差...
  • 東條英機
    ...れた東京裁判にてA級戦犯とされ、軍国主義の代表人物として処刑された。その高い事務処理能力から「カミソリ東條」とあだ名された。 日本の戦前の独裁者とされる場合があるが、東條が独裁する権限が法制度上はなかった(各大臣と総理大臣は天皇の輔弼という点では対等の立場である)。これはアドルフ・ヒトラー等とは違い、東京裁判での論点となった。 生い立ちと経歴 東條英機は1884年(明治17年)7月30日、東京市麹町区(現在の千代田区)に東條英教陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)と千歳の間の三男として生まれる。本籍地は岩手県。長男・次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた誕生日は「明治17年7月30日」だが、長男・次男を既に亡くしていた英教は英機を里子に出したため、戸籍上の出生は「明治17年12月30日」となっている。 東條家は江戸時代、宝生流ワキ方の能楽師として...
  • 板垣征四郎
    ...ていた。しかし、A級戦犯に指定された為、東京裁判開廷初日の昭和21年(1946年)5月3日に、空路東京へ移送されてきた。裁判においては満州事変の罪を問われ、死刑の判決を受け、昭和23年(1948年)12月23日に絞首刑に処せられた。死刑が宣告された後、板垣は教誨師の花山信勝に対して「自分のようなものが、この糞土の身を変えて黄金の身とさせてもらえるということは、実に幸福である。ポツダム宣言を実行されて、自分が永久平和の基礎となるならば、非常に幸いであり喜びである」と述べた。 辞世の句は、 「ポツダムの宣のまにまにとこしえの 平和のために命捧ぐる」 「とこしえの平和のために身を捨てて 糞土を黄金にかえる嬉しさ」 「大神の御魂の前にひれふして ひたすら深き罪を乞うなり」 「今はただ妙法蓮華と唱えつつ 鷲の峰へといさみたつなり」 「さすらいの身の浮き雲も散りはてて 真...
  • 張学良
    ...れる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。その後1991年に釈放され、アメリカのハワイに隠棲。そのまま生涯を終えた。100歳であった。 評価 国共合作を成立させたことから、中華人民共和国では「千古の功臣」、「民族の英雄」と呼ばれ、非常に高く評価されている。逆に中華民国内では正反対の「千古の罪人」として扱われ、特に黄文雄ら親日派は激しく批判している。何より最終的に共産党に中国大陸を追われたことが、中華民国での張学良評価を厳しくしている。但し、釈放など時間の経過に伴い、再評価の動きも起きている。 参考文献 臼井勝美:NHK取材班『張...
  • 阿部信行
    ...している。戦後、A級戦犯容疑で逮捕されるが、極東国際軍事裁判(東京裁判)開廷直前になって突如起訴予定者のリストから外されたといわれており、同裁判を巡る謎の一つとされている。 処世の将軍 Template Infobox 軍人? 平沼内閣の突然の崩壊で、それまで首相選びの任に当たってきた元老・西園寺公望も「自分には意見がない」と言い出す有様であった。近衛文麿や広田弘毅の再登板説が出たり、宇垣一成陸軍大将、勝田主計元蔵相の名前が挙がったが、なかなかまとまらない。そんなとき、陸軍が阿部を推し、皆が飛びついた。阿部は陸軍大学校では成績優秀の「恩賜の軍刀」組。日露戦争、シベリア出兵で出征はしたものの、実戦には参加せず、「戦わぬ将軍」のあだ名で有名だった。その代わり、軍務局長、陸軍次官の職を無難にこなし、事務屋として力量を発揮した。また陸軍次官の時、宇垣一成陸相が病気入院し、その代理として...
  • 小磯國昭
    ...8年(昭和23年)、戦犯として極東国際軍事裁判で終身禁錮刑となり、巣鴨プリズン内で食道癌により死去。Template 享年?。 首相就任後の迷走 アメリカ軍が本土に迫り風雲急を告げるとき、後継首班の選出はあまりにも安易なものだった。東條英機を退陣させることで重臣の意見が一致し、東条内閣を倒閣した後の後任選びとして、南方軍司令官の寺内寿一と小磯の2人に絞られ、前線指揮官の寺内は動かせないということで、朝鮮総督だった小磯に落ち着いた。重臣達は東条内閣を倒すことのみに目が向いて後任として誰を擁立するかを考えていなかったとされる。 昭和天皇は『昭和天皇独白録』において、「小磯は三月事件(1931年/昭和6年 3月に発覚した、大日本帝国陸軍によるクーデター未遂事件)にも関係があったと云われてゐるし、又神がヽりの傾向もあり、且経済の事も知らない」と述懐している。首相になった...
  • 辻政信
    ...経由で帰国して潜伏、戦犯時効後の1950年に逃走中の記録「潜行三千里」を発表して同年度のベストセラーとなる(同時に「十五対一」もベストテン入りしている)。 戦後 旧軍人グループとの繋がりで反共陣営に参画。ベストセラー作家としての知名度と旧軍の参謀だったという事から、追放解除後の1952年に旧石川1区から衆議院議員に初当選。自由党を経て自由民主党・鳩山一郎派、石橋湛山派に所属。衆議院議員4期目の途中だった1959年に岸信介攻撃で除名されて衆議院を辞職し、参議院議員(全国区)に鞍替えして第3位で当選、院内会派無所属クラブに属した。これは地元からの陳情を受けるのが嫌で鞍替えしたとされる。 CIAの資料によると、服部卓四郎ら旧日本軍幹部の一部が1952年、国粋勢力に敵対的であった当時の首相吉田茂を暗殺しようとした際に、辻は時期を見誤らないよう諭し、計画の中止を説得したという「旧日本軍将...
  • 大川周明
    ...平洋戦争終戦後、A級戦犯として起訴される。東京裁判に出廷した被告の中で唯一の民間人だった。 大川は水色のパジャマを着、素足に下駄を履いて東京裁判に出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がする程はたいたり(軍人は坊主頭)、「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳 インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、または「イッツア、コメディ!(「It s a comedy! 英訳 これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。 翌日の法廷で、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した(この時下記のように脳梅毒に罹...
  • 愛新覚羅溥儀
    ...のみだった。 戦犯 その後の1950年には、ソ連と同じく連合国の1国であった中華民国ではなく、国共内戦にソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に中国大陸に建国された中華人民共和国の中国共産党政府へ身柄を移された。 その後、裁判で裁かれる事すらないままに、第二次世界大戦当時には存在すらしていなかった同国の「戦犯」として、撫順の政治犯収容所(「戦犯管理所」と称される)に弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満洲国の閣僚や軍の上層部61人、さらに1000人を超える日本軍の捕虜らとともに収監され、「再教育(中国共産党による共産主義の洗脳教育)」を受けることとなった。その後同年10月にハルビンの政治犯収容所に移動させられ、1954年には再び撫順の政治犯収容所に移動させられた。なお収監中の溥儀は「模範囚」と言われるような礼儀正しい言動を行っていたと伝えられている。 一市民へ...
  • 百人斬り競争
    ...報じている。 戦犯裁判 戦後、向井・野田両少尉は、東京日日新聞の報道などを基に南京軍事法廷において起訴され、死刑判決を受け、1948年1月28日に南京郊外で処刑された。 論争 その後この事件は忘れられていたが、1971年に本多勝一が書いたルポルタージュ『中国の旅』(朝日新聞連載、のちに単行本化された)でこの事件とその報道が取り上げられた。これに対し、イザヤ・ベンダサン(山本七平とされる)が百人斬り競争は「伝説」だとし、これに対し本多が反論した。その後、鈴木明が議論に加わった。更に、山本七平は『中国の旅』批判の一部として“100人を斬り殺すなど不可能”として議論した。これらの議論に対して洞富雄が批判を行った。 それ以来、南京大虐殺について虐殺「あった」派から「百人斬り競争」が言及され、大虐殺「なかった」派は『肯定論の非論理性』を指摘するという構図となっている。そもそも...
  • 松岡洋右
    ...せ細る。敗戦後はA級戦犯容疑者としてGHQ命令により逮捕され、周囲に「俺もいよいよ男になった」と力強く語り、巣鴨プリズンに向かった。しかし、結核悪化のため東京裁判公判法廷には一度のみ出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。昭和21年(1946年)6月27日、駐留アメリカ軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。 辞世の句は次のとおりであった。 「悔いもなく 怨みもなくて 行く黄泉(よみじ)」 逸話 山田風太郎は自著『人間臨終図鑑』の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。 細川護貞によれば、外務大臣時、松岡は大変な話し好きであり、朝から晩まで喋っていたということである。細川が近衛首相の使いで書類を持って松岡のところへ伺っても、その書類を出す機会がないほど喋り続...
  • 太平洋戦争-2
    ...弘毅らが連合国により戦犯として裁かれ、7名がA級戦犯として死刑(絞首)に処されたほか、元内大臣の木戸幸一、元陸軍大臣の荒木貞夫らが終身刑、元外相の東郷茂徳は禁固20年、元外相の重光葵は禁固7年となった。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎らは不起訴となった。また、フィリピンや中華民国など各地で同じように戦争裁判(B、C級戦犯)が行われた。一部の人々は、これらの裁判に対して、裁判の体を成していないものも多く、多くの無実の人も罪に問われ処刑されたと、批判している。その理由は全てが事後法による裁きのためである。また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等の国際法違反行為に対する裁きを受けておらず、勝者による一方的な裁判であるとの批判もある。 改革 GHQは大規模な国家改造を行い、大日本帝国の国家体制(国体)を壊滅した上で、新たに連合国(...
  • 軍歌
    ...る)、「西条と古関が戦犯指名される」との噂も飛び交ったが、当のマッカーサーは全く関心をもたずに何も起こらなかった。後にレコード会社が古関裕而の全集を発売する時、許諾のため古関本人に尋ねたところ「もうこの歌だけは勘弁してくれ」とレコード化を拒否されたという。尚、本作は古関の死後、戦後50周年企画として新たに吹き込まれている(この際、江口夜詩の息子で作曲家の江口浩司が編曲している)他、藍川由美、小沢昭一がその前後にレコーディングをしている。 軍歌の終焉 昭和20年8月15日の終戦、その年の11月30日をもって、明治以来の大日本帝国陸海軍は解体・消滅。軍歌が新たに作られることは少なくなった。しかし、パチンコ店で軍艦行進曲が流されるなど、軍歌自体の寿命はまだまだ続いており、自衛隊音楽隊でも旧軍の軍歌を隊歌として演奏している。 噫呼聖断は降りたり 作詞 喜多紀世雄 作曲 須摩洋朔 ...
  • 近衞文麿
    ...ものだった。 戦犯容疑 1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終結すると東久邇宮内閣で近衞は国務大臣を務めた。10月4日に、近衞は連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪ね、持論の軍部赤化論を説いて、開戦時には天皇を中心とした封建勢力や財閥はブレーキの役割を果たした、と主張し、皇室と財閥を除けば日本はたちまち赤化すると説いた。マッカーサー、サザーランド参謀長およびアチソンGHQ政治顧問はこれに肯き、近衞に憲法改定を託したTemplate 要出典?。 しかし、国内外の新聞では、戦時体制を敷いた近衞の責任問題の追及が激しくなり、白洲次郎たちは近衞がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衞を助けようと試みた。しかし、メディアの反応を恐れたマッカーサーは、11月1日に、近衞の憲法改定にはGHQは関与しないとして、近衞を切り捨てたTemplate...
  • 満州国軍
    ...共和国に引き渡されて戦犯収容所に収監されるなどして処罰された。構成員はソ連撤退後に国共内戦が発生した際に、国民党軍や人民解放軍に編入された。 満州国軍が参戦した戦役 満州国軍が参戦した戦役。 1933年、熱河省侵攻作戦 1937年-1945年、日中戦争 1939年、ノモンハン事件 1941年-1945年、太平洋戦争 1945年、ソ連対日参戦 軍装 軍服 (満州国)を参照。 軍旗一覧 関連項目 関東軍 軍服 (満州国) 満州関係記事の一覧 池上本門寺 - 東京都大田区に在り、満州国軍将兵の慰霊碑が存在する。 海上警察隊 (満州国) - 満州国の沿岸警備隊。   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年4月12日 (土) 02 45。  ...
  • 蒋介石
    ...いる。しかし、BC級戦犯として、多くの罪もない日本軍人を処刑したのも蒋介石の政府であった。 カイロ会談では、中華民国は日本に進駐する考えのないことを表し連合国側の占領政策を変えさせた結果、ソ連の北海道進駐を阻止する重大な起点になった(カイロ会談において、日本の分割統治計画があった)。もっとも、蒋介石は、戦後の国共内戦の勃発を予想しており、兵力を日本占領に割くことをためらっていたという説もある。兵力の不足は、台湾の占領が漸く10月になってからであったことや、陳儀長官と共に台湾へ渡った中国軍のレベルが低かったことなどからも十分想像できる。 文化や習俗の面で、非常に日本を尊敬していた。寒い冬の朝でも冷たい水で顔を洗う(中国人にはこのような習慣はない)日本人の話を聞いて、感心したという。また、明治天皇を尊敬しており、戦後も総統代理として蒋経国を明治神宮へ公式参拝させている(許國雄...
  • 米内光政
    ...裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨拘置所へ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮稔彦王内閣、幣原喜重郎内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から(血圧は最高250、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた)辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。 東京裁判 戦後の東京裁判では証人として1946年3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。その上で、満州事変、日中戦争、日米開戦を推進した責任者として、土肥...
  • アメリカ本土空襲
    ...現地に到着するまで「戦犯として収監されるのかもしれない」と思っており、寄贈した軍刀は戦後も密かに所持していたものを、収監されそうになった時には自決するため、荷物に忍ばせて持参したものであった。 その後、藤田飛曹長は贖罪の意味を込めて同市に植林を行ったり、同市市民を日本に招待するなど日米友好に残りの半生を費やした。また、そのような貢献を受けて、後にロナルド・レーガン大統領よりホワイトハウスに掲揚されていた星条旗が贈られた。なお、現在爆弾片と星条旗は、茨城県土浦市の「まちかど蔵 野村」に保存公開されている。 このエピソードは1995年12月29日放送の『たけし・さんまの世界超偉人伝説』(日本テレビ)で取り上げられ、藤田飛曹長本人も出演している。しかし日本では余り知られる事がなかった事もあり、ゲストで出演していた元海軍軍人の西村晃も「この話は全く知らなかった」と発言している。 関...
  • 十五年戦争
    ...月6日の沈釣儒報告「戦犯の検挙と懲罰について」の中で、「中国軍民の蒙った生命の損失は一千万人以上である」との言及が見られ、しばらくはこの数字がしばしば引用されていた。 その後『中国新民主主義革命時期通史』に「確かな統計によっただけでも、人民の死傷者は1,800万人に達し(軍隊の死傷者数は含めず)」との記述が見られ、負傷者も含めた死傷者数ではあるが、これが、「統計」をもとに算出した、と主張する最初の数字である(当文献の初版は1961年だが、現在知られているものは1979年の第三版)。 軍人の死傷者については1985年8月11日付「人民日報」宋時輪論文にて「380万人余」との数字が提出された。これ以降、中国軍民の死傷者2,168万5千人」という数字が「中国人民革命軍事博物館」に展示されるようになる。 さらに1987年には、劉大年・中国社会科学院名誉所長により、「現存する戦争当時の戸...
  • 東京大空襲
    ...負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」と述べている。ルメイの前任者ハンセル少将は高高度からの軍事目標への精密爆撃にこだわった故に解任されている。無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ大統領たちの選択であったと言ってよい。もっとも、同じアメリカ軍内でもチェスター・W・ニミッツ元帥などはルメイをあからさまに批判しており評価は分かれている。 記録 この空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁の石川光陽によって33枚の写真に残された(上の画像参照)。それらは戦後GHQから引き渡すよう命令が下るが、光陽はこれを拒否し、庭に埋めて保管した。東京大空襲を今に伝える大切な資料となっている(光陽自身、本当はこのような写真は取りたくないと言っていた)。 慰霊 身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀る震災慰霊堂に合わせて納められ、現在は東京都慰霊堂になっている...
  • 住友財閥
    ...ことなどを説明、当時戦犯のうわさのあった当主の立場を釈明した。 10月18日、クレーマー大佐は自ら大阪にきて、住友本社で古田総理事と会談した。この席上クレーマー大佐の質問は、当主住友吉左衛門の事業責任にも及んだが、古田は敢然と無関係無責任であると答えた。そして翌19日、住友本社理事会は自発的解体、すなわち本社の解体と傘下企業に対する統轄の廃止を決定し、家長の決裁を得た。 住友が三井や三菱とくらべて解体に順応的にあった理由としては、監事の大島堅造が大内兵衛、田村幸策の両氏とともにGHQの非公式顧問であって、情報が得やすかったことのほかに、安田財閥の自発的解体が後押しとなった。こうして住友では、早くも10月24日に本社・連系会社の全主管者を招集して次のように内示した。 住友本社を解散する 住友本社の現業部門については農林業・鉱業部門は住友鉱業へ移管する。 代表取締役住友...
  • 読売新聞
    ...正力松太郎社長がA級戦犯容疑で逮捕。巣鴨拘置所に収容される(1947年(昭和22年)不起訴で釈放後公職追放)。 1945年馬場恒吾、社長就任。 1946年5月1日 題号「讀賣新聞」に復帰。 1946年(昭和21年)11月12日、「漢字を廃止せよ」との社説を掲載し漢字廃止(国語国字問題参照)を推進。 1950年6月1日 読売新聞社が株式会社に改組。 1951年(昭和26年)正力松太郎の公職追放解除。 1952年11月25日 大阪市で「大阪讀賣新聞」創刊、関西に進出。 1959年5月1日 札幌市に北海道支社開設。現地印刷開始。 1961年5月25日 富山県高岡市に北陸支社開設。現地印刷開始。 1964年9月23日 北九州市に「読売新聞西部本社」設立。現地印刷開始。 1966年6月29日 この日から7月2日まで行われたビートルズ日本公演を主催。 1975年3月25日 ...
  • 日本の戦争謝罪発言一覧
    ...大東亜戦争 A級戦犯 戦争犯罪 極東国際軍事裁判 歴史教科書問題 太平洋戦争 南京大虐殺 南京大虐殺論争 従軍慰安婦 外部リンク 先の大戦をめぐる諸問題 (外務省まとめ) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月16日 (木) 06 00。     
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