chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「戦略」で検索した結果

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  • 戦略爆撃
    thumb|300px|right|ドイツを空襲する連合軍の戦略爆撃機[[B-17 フライングフォートレス]] 戦略爆撃(せんりゃくばくげき)とは、戦争において戦略的理由にもとづいて行なわれる航空機などによる爆撃のことである。 戦略(strategy) とは戦争の全局的な帰趨を国益に導くべく企画する方法論である。具体的には、実働部隊ではなく、戦略的な要地・要線に対して攻撃を加える長距離爆撃をいう。都市、工業地帯や交通拠点に爆撃を加え、生活基盤、産業基盤を破壊する事などで、相手国の経済力や国民の戦意を削ぎ、継戦能力を減ずることを目的としている。これに対し、その戦闘を有利に進める事を目的とした敵部隊に対する直接爆撃は戦術爆撃と呼ばれる。 無差別爆撃や絨毯爆撃と同一視されがちだが、それらは戦略爆撃の手段の一つであり、イコールではない。例えば、現代では誘導爆弾や巡航ミサイルなどの精密誘導兵器...
  • 帝国国防方針
    ...日本帝国における軍事戦略についての基本的な方針を定めたもの。 概要 帝国国防方針は国防の基本戦略を記した軍事機密文章である。黒川雄三『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年)64項帝国国防方針、国防に要する兵力、帝国軍の用兵要領の三部から構成されている。第一部の国防方針は国家目標と国家戦略、また導かれる国防目的と国防方針、仮想敵国と情勢判断、所要軍備などについて述べられている。 第二部には所要兵力、即ち軍事政策の具体的な目標としての師団数、軍艦数などの数値目標が定められている。第三部には日本の軍事ドクトリンと仮想敵国に対する個々の作戦計画大綱が述べられている。黒川雄三『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年) 67項 - 68項 日本陸軍が陸海軍作戦の統合的な国防方針を策定しようと発案したことがきっかけとなり、明治40年4月4日明治天皇により裁可さ...
  • 戦術爆撃
    ...。工場や都市部などの戦略目標に爆撃を浴びせる戦略爆撃と対比される。 概要 戦術爆撃が始まったのは第一次世界大戦においてである。戦術爆撃は戦闘機、戦闘爆撃機(攻撃機)または軽爆撃機によって行われる。戦術目標は戦略目標と異なり、移動能力を有するため高高度からの水平爆撃ではなく、急降下爆撃によって行われることが多かった。一般に戦術爆撃が行われる目的は地上部隊の援護である。例えば第二次世界大戦においてはJu87スツーカは電撃戦において、重要な役割を果たした。 現代の戦術爆撃は対空兵装が進化したことにより、精密誘導爆弾などによる高高度からの爆撃となっている。このため、以前は戦略爆撃と戦術爆撃は目標と方法の両方が異なっていたのに対し、現在では目標のみの差になりつつある。 戦術爆撃機 戦術爆撃を主な目的とする爆撃機を戦術爆撃機と呼ぶ。戦略爆撃機と対となる言葉であり、主により小型の爆撃...
  • 重慶爆撃
    ...行われた重慶に対する戦略爆撃を指す日付・回数は『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』(前田哲男 凱風社)による。。中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。 背景 1938年に各地に中国国民党が優勢だったが、様々な軍閥の割拠する内乱状態の中国に攻め込んだ日本軍は、上海に続いて中華民国の首都南京を攻撃、日本政府は中華民国・中国国民党が和睦を乞うことを期待した。 これに対して日本軍への徹底抗戦を宣言していた国民党政府は、中国大陸で権益を確保・拡大したいアメリカや権益を守りたいイギリスの援助を受けて、首都を南京から漢口に移転し、次いで漢口が陥落必至とみるや四川の奥地である重慶に移転させた。 大本営は地上軍による重慶の攻略を計画したが、重慶は天然の要害の地であり、補給の問題もあり、直ちには困難であるという結論に達した。また、漢口占領の時点で...
  • 絨毯爆撃
    ...起されたものである。戦略・戦術両方の目的で使用される。 第二次世界大戦期にアメリカ合衆国とイギリスが大型爆撃機を用いたドイツや日本の都市に対する戦略爆撃の形容に用いられることが多い。ピカソの『ゲルニカ』は同名の都市への無差別絨毯爆撃に際し描かれたものとして著名である。 戦術目的の絨毯爆撃の例としては、1944年の北フランスで行われた連合軍のコブラ作戦支援の爆撃や、アメリカのアフガニスタン侵攻におけるB-52による地上軍支援などがある。 初期には複数の航空機を使用した反復爆撃によってその真価を発揮した。現在では、作戦地域が小さければB-52に代表される大型爆撃機単独でも同様な被害を与えうる。また、MLRS(多連装ロケットシステム)など一部の野戦火力も効果面で絨毯爆撃と似通う。 被害が無差別かつ広範にわたる絨毯爆撃には批判も多く、巡航ミサイルや誘導爆弾の発達した今日では精密爆撃に...
  • 大日本帝国海軍
    ...本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。 また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。主な戦役に日清戦争の黄海海戦や日露戦争時の日本海海戦、太平洋戦争での真珠湾攻撃などがある。海上自衛隊(その前身たる海上警備隊、保安庁警備隊も含めて。)の前身とも言え、海上自衛隊自身も日本海軍の伝統を尊重する傾向がある。 英国を倣った組織であったため、ユーモアを重視し「ユーモアを解せざる者は海軍士官の資格なし」と言われていた。また、様々な国に寄港する...
  • 軍国主義
    ...m)とは軍事力を国家戦略的に重視し、政治体制・戦略・財政・経済体制・社会構造などの総合的な国力を軍事力の増強のため集中的に投入する国家の体制や思想を意味する。軍事主義とも呼ばれる。軍事力増強に向けて国内のあらゆる領域を統制・管理しようとする傾向があり、非民主的な独裁政治となる場合がある。 通俗的に戦争を支持する人や国の考え、傾向を大まかに指すこともあり、平和主義、民主主義の対義語として用いられる。しかし平和主義と同じように非常に包括的な概念である側面を持っており、絶対的な定義は難しい。 概説 軍国主義に基づいた国家体制は、さまざまな国力が軍事力の造成のために投入されるため、国民や各種の組織が軍事的な目的で動員され、その目的のためにしばしば人権や思想の自由などが侵害される場合がある。 戦時体制と社会現象的には似ている。戦時体制とは戦争という非常事態において軍事力行使に切迫した必...
  • 渡洋爆撃
    ...定爆撃に重点をおき、戦略爆撃をおこなっていない。海軍航空隊がどのような判断から市街地を目標として選択したかは不明である。旧日本軍機は防御性能が十分ではなかった為、損害が回を重ねるごとに増えていった。また、護衛の九六式艦上戦闘機の航続距離が短かったのも原因のひとつとされる。この爆撃を見たアメリカやイギリスはその効率のよさを評価して、後の太平洋戦争での日本の本土空襲を行う際の参考にしたという。 関連項目 支那事変 日中戦争 注 _   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月26日 (火) 12 10。     
  • 長征
    ...、その後の行軍方針と戦略を決定する遵義会議が開催され、毛沢東が政治局員のリーダーに選出される。しかし、海外留学経験のない毛沢東はまだ単独で共産党を指導できる立場に無く、周恩来、王稼祥との三頭政治となった。また、瑞金第5次囲剿に際して戦略的にも戦術的にも致命的ミスを起こしたウィッテは更迭された。この遵義会議が中国共産党における一大転換点となっている。 西進・北進 遵義に中華ソビエト地区を設定した紅軍・中国共産党は、まず貴州から四川省に入る。ここでさらに西進した第一軍は念願の紅軍別働隊との合流を果たすが、目指していた第二軍ではなく第四軍(総指揮官徐向前)との邂逅となった。第四軍も同様に長征中であったが、敵は国民党軍ではなく四川軍閥であった。引き続き行く手には国民党・共産党とも受け入れを拒否する少数民族、急峻な山々や執拗に追いすがる国民党軍が待ち受けていた。 四川省を転戦中に紅軍は赤...
  • 何応欽
    ...出。渡台後は、総統府戦略顧問委員会主任委員・台湾紅十字総会会長・中日文経協会会長等を歴任した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月12日 (月) 23 33。        
  • 日本軍
    ...事機構の問題 政戦略の不一致 国家が国防方針を策定する場合には国家戦略と軍事戦略との整合性が重要であり、この整合を政戦略の一致と言う。大正・昭和に入ると、旧日本軍の統帥権の独立を巡って軍部が政府と対立するという深刻な政軍関係上の問題が発生することになり、この政治的対立によって政戦略の不一致がもたらされることになった。 1889年に制定された大日本帝国憲法第11条にある「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という文言は統帥権、すなわち軍事作戦に関する命令・実行の権限が行政・司法・立法から独立していることを保障したものとする憲法解釈が次第に行われるようになる。これは立憲君主制に基づいた、陸軍は陸軍大臣の輔弼(ほひつ)、海軍は海軍大臣の輔翼(ほよく)責任のもと政府と陸軍省・海軍省の統制下にあり、統帥大権も統治大権と同じく大臣の補弼責任の下にあり、決して統帥大権の独立を保障するものではないという解...
  • 五族共和
    ...。この中華民国の国家戦略は中華人民共和国にも引き継がれ、現在は漢族と55の公認された少数民族からなる中華民族が、古代からの中国の分割不能な国民であるとする公式見解へとつながっている。 関連項目 五族協和 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月7日 (月) 10 58。    
  • 沖縄戦
    ...の背景 日本軍の戦略 太平洋戦争で日本の劣勢が明確になると、アメリカ軍の日本本土への侵攻が予想された。その際、アメリカはまず沖縄本島を占領して前線基地とすることが考えられたため、日本はそれに対抗すべくTemplate 和暦?2月、沖縄守備軍(第32軍)を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。島全体を航空基地として航空機によって抗戦する予定で、当初の主な任務は飛行場建設であり、警備程度の兵力であった。4月には、海軍の沖縄方面根拠地隊が置かれるとともに、九州-沖縄県間の航路防衛を任務とする第4海上護衛隊が創設され、沖縄県方面への軍需輸送や本土への住民疎開船団の護衛を担当することとなった。しかし、これらの海軍部隊も防衛戦力というよりは、後方組織としての性格が強かった。 1944年7月のサイパン島玉砕という事態に大本営は司令部人事を一新し、新司令官に牛島満中将を任命した...
  • 日独防共協定
    ...嶋信雄『ナチズム極東戦略 日独防共協定を巡る諜報戦』(講談社選書メチエ、1997年) ISBN 4-06-258096-9 関連項目 共産主義 ソ連 八・一宣言 反共    出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 19 19。    
  • ワシントン会議 (1922年)
    ...、西太平洋海域、特に戦略的に重要な島々の防備に関する日本海軍の拡大を阻止することだった。付随するいくつかの目的には最終的に日本の拡大を制限するのみならず、イギリスとの間に起こり得る対立に対する懸念を軽減する意図があった。それらは 日英同盟の廃止による米英間の緊張を排除 日本に対して劣位に立たない海軍軍備比率で合意 中国における門戸開放政策の継続を日本に正式に受け入れさせる の三点だった。 イギリス 一方、イギリスは、より用心深い姿勢で会議に臨んだ。英国代表は総合的な要求を会議に提出した。それは 西太平洋の平和と安定の達成 アメリカ合衆国との海軍軍備拡大競争の回避 英国の影響下にある地域への日本進出阻止 シンガポール・香港等の自治領の安全の維持 というようなものであった。しかし、多くの要求をリストにして会議に参加するのではなく、合意の後に...
  • 兒玉源太郎
    ...ある。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という日本側にとって圧倒的不利を覆し、日本を勝利に導いた戦略家の1人とて有名である。 兒玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く家庭を大事にし友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。また、彼は己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分...
  • 日本本土空襲
    ...ついては、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。 概要 日本本土の初空襲は1942年4月18日のドーリットル空襲で、航空母艦から陸上機であるB-25中型爆撃機を発進させ、空爆を成功させた。この空襲は大本営に危機感を抱かせ、ミッドウェー海戦に繋がった。 その後、B-29戦略爆撃機による本格的な大規模空襲は1944年6月より北部九州に対して中国大陸の基地から行われた。同月マリアナ諸島が陥落すると、東京をはじめ日本本土の大半が爆撃圏内に入り、1944年末頃から空襲は熾烈化した。但し、B-29の航続距離限界から北海道に対する空襲は 空母艦載機及び艦砲射撃に限定された。 軍需工場が主たる目標となっていたが高高度爆撃であったために精度が低く被害は限定的で、爆撃を指揮していたヘイウッド・S・ハンセル准将は人道的な配慮から民間施設への空襲は行わなかった...
  • 奉天会戦
    ...にとって奉天失陥は「戦略的撤退」であった。100年前のナポレオン戦争でもロシア軍が採用した伝統的な戦法であり、欧米のマスコミも当初はこの撤退を「戦略的撤退である」と報じていた。さらにロシア軍と日本軍ではの補給能力に格段の差があった。しかし、クロパトキンが罷免されたことでロシア軍が自ら敗北を認めた形となり、国際的にもそのように認知されることとなった。代わりに総帥として就任したリネウィッチ将軍は、軍隊秩序を乱した者を処罰していくことによって、軍の建て直しに腐心した。ロシア軍は敗北を認めた上で、やがて日本軍に反撃することを意図していたと言える。 ロシア側は奉天会戦に敗北したとは言っても、ロシア陸軍(現役兵の兵力は約200万人で、大日本帝国の約10倍)はいまだ半分の動員しか行っておらずまだ健在であり、またインド洋にはバルチック艦隊が極東への航海の途上であり、陸海軍ともに継戦能力はまだ十分に...
  • 統制派
    ...制派は『太平洋五十年戦略方針』などの編集で細川嘉六や中西功、平野義太郎ら共産主義運動に詳しい人物を積極的に起用した国民のための大東亜戦争正統抄史 1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い 79~87近衛上奏文解説。また、池田純久が『国防の本義と其強化の提唱』にて「われわれ統制派の最初に作成した国家革新案は、やはり一種の暴力革命的色彩があった」と述べているように、最初から合法性に依っていたわけではなかった。 中心人物の永田鉄山が皇道派の相沢三郎陸軍中佐に暗殺された(相沢事件)後、皇道派との対立を激化させる。この後、皇道派による二・二六事件が鎮圧されると、皇道派将校は予備役に追いやられた。さらに退役した皇道派の将校が陸軍大臣になることを阻むべく軍部大臣現役武官制を復活させ、これにより陸軍内での対立は統制派の勝利という形で一応の終息をみる。その後、陸軍内での勢力を急速に拡大し、軍部大臣...
  • ノモンハン事件-2
    前半は、ノモンハン事件参照 ノモンハン事件の戦略と戦術 兵力の集中と兵站 ソ連軍司令官のジューコフは、この戦いで兵站上の革新を成し遂げた。19世紀後半から1939年までの陸軍の兵站線は鉄道を主体とするものであり、鉄道と港湾を離れて大軍を運用することはきわめて困難とされていた。しかしジューコフは、後方基地からの650-750kmに渡る長大な兵站線を大規模自動車輸送によって確保し、8月までに大量の物資を蓄積したことで、8月攻勢の前に十分な戦力を整備したのであった。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ノモンハンは例外であった。 ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。この為、日本側は「敵よりも距離が短いので我が方が補給上有利」と考えていた。しかし、輸送力がはるか及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。満州国内の民間...
  • 陸軍悪玉論
    ...迷であったため多くの戦略的失敗を繰り返し、敗戦をもたらした。」「それに対して大日本帝国海軍は、世界の情勢に明るく、開明的で、連合国には勝てないという情勢を良く把握していたが、陸軍を説得することが出来ず、不承不承ながら戦争を遂行し、壊滅に追い込まれた。」というものが多い。日本陸軍は二・二六事件を起こし、満州事変から日中戦争にいたる中国大陸での戦線拡大を主導したという事実がある。昭和の軍部独裁政治は陸軍の軍閥によるものであり、満州事変は関東軍の暴走によって引き起こされた。これらは最終的には太平洋戦争の開戦原因の一つとなった。したがって陸軍悪玉論には一定の説得力がある。最後の陸軍大臣下村定大将は1945年11月28日の国会答弁において、自らそのような軍国主義に陥って暴走した陸軍の非を認めてこれを総括している。また、陸軍悪玉論は単なる善悪の問題だけでなく、最後まで英語教育を止めようとしなかっ...
  • 旅順攻囲戦
    ...い、203高地以外の戦略目標の占領に成功する。 第二回総攻撃 第一回総攻撃失敗後、大本営は、有坂砲で有名な有坂成章少佐の発案で、日本の主要な港に配備していた二八センチ榴弾砲(当時は二八サンチ砲と呼ばれた)を送り込む。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため移動が難しく、まして戦地に設置するのは困難とされていたが、工兵の努力によって克服している。10月26日、二八センチ砲も参加し、第二回旅順総攻撃を開始。その前に旅順港の一部が見渡せる観測点を確保していたので(南山披山の占領)、旅順港に対する砲撃も行い旅順艦隊に損害を与える。しかし、要塞の主要な防衛線を突破するには至らず、要塞攻略は失敗。戦死者1,000を数えた。 第三回総攻撃 10月バルチック艦隊がウラジオストックに向かったという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を受けるようになる。陸軍は内地に残っ...
  • 本土決戦
    ...という海軍の斬減迎撃戦略(凡庸艦である駆逐艦や潜水艦、航空隊で敵艦隊にダメージを与えつつ、日本近海に引き付け、艦隊決戦を行い勝敗を決するという大艦巨砲主義の戦略)が採用された。ちなみに、この計画大網で同時に立案された海軍案も裁可され、これは天号作戦(千島・小笠原・沖縄以南の南西諸島・台湾が対象地域の作戦)と呼称されている。 陸軍 指揮系統の一新 1945年1月22日、既に沖縄戦前に解体されていた北方軍・台湾軍に加えて、1944年より本土防衛の総指揮を執っていた防衛総司令部の隷下にあった東部軍・中部軍・西部軍、及び朝鮮軍を廃止して、新たに方面軍と軍管区を新設した。これによって、作戦と軍政の分離を行い、本土決戦における指揮系統の明確化を図った。防衛総司令部はこれまでと同様に、直接部隊として東京防衛のための第36軍と第6航空軍を指揮下においていた。 さらに4月8日、指揮の円滑...
  • 焼夷弾
    ...青森市に与えた。米国戦略爆撃調査団は「M74は青森のような可燃性の都市に使用された場合有効な兵器である」と結論している。 2008年9月24日に、 青森県青森市栄町二丁目の住宅新築工事現場で、ショベルカーで掘削作業をしていたところ、M74六角焼夷弾を発見、破片に残っていた黄燐が酸化し一時は炎や煙が上がったが、陸上自衛隊第九師団が出動、同日午後三時ごろ回収されている。 人体への直撃による被害 焼夷弾は目標を焼き払う為の兵器であるが、M69は子弾が非常に小型であり、尚且つ分離し大量に降り注ぐため、直撃による即死が多くの被災者の証言に見られている。 例えば戦争を題材にしたアニメ・映画では、落下した焼夷弾が家屋や地面に激突し大爆発を起こし燃え上がる描写が多く見られる。だが実際には避難民でごった返す大通りに大量に降り注ぎ子供を背負った母親や、上空を見上げた人間の頭部・首筋・背中に突...
  • ウィンストン・チャーチル
    ...励。戦意を保ち、軍事戦略を立案し、ついにはアメリカ・ソ連と同盟しイギリスを勝利に導いた。彼はたぐいまれな軍事的知識をもち、その戦略家としての名声は卓越したものがある。しかし批判者の中には「彼の提案する壮大で無謀な作戦戦略は、しばしば現場と衝突し、混乱させた。」と主張するものもある。これは、チャーチルには幼少時からハンニバルやカエサル、ナポレオンなどの英雄に対する強い憧れがあり、それに後述する躁うつ症状が重なったことが大きく影響したとする。ナポレオンへの思い入れは深く少年時は、錫製のナポレオン時代の兵士の人形をコレクションしていた。 彼の政治キャリアは長きにわたるが、そこには幾たびかの不遇期があった。特に戦間期にはチャーチルは古い帝国主義的幻想にしがみついた時代遅れの政治家と考えられていた。また彼はマルバロー家特有の躁うつ病を患い、生涯に心臓発作を含むさまざまな病と闘った(彼は自身の...
  • 東京大空襲
    ...[B-29|B-29戦略爆撃機]] 1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、サイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土に対する空襲の基地となった。同年11月24日、軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年1月27日には有楽町・銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。 この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。 3月10日の空襲 250px|thumb|焼けこげた遺体の山。死者・行方不明者は8万人(民間の調査では10万人)以上と言われている。([[石川光陽撮影)]] 3月10日の...
  • @_ソ連対日宣戦布告
    ...占領を主張し、米国に戦略物資の支援を要求した。 米国統合参謀本部は、ソ連が戦争の決着がついた所に便乗してくるとの見方を強めていた。一方、米国大統領ルーズベルトは完成寸前の原爆製造についてヤルタ会談ではソ連に対して一言も言及せず、もしスターリンが便乗的な侵略を満州及び日本国北方で開始しても日本本土に対する原爆投下で十分その意図を挫くことができると考えていた。またソ連側のその火事場的泥棒ともいえる米国に対してのその戦略物資支援の要求には半ば呆れた。1945年7月16日、米国は世界で初めて原爆実験を実施して成功する。こうして満州とソ連国境でそんな双方の思惑を外に徐々にその不穏なソ連軍の動きは対日参戦が開始される1945年8月9日に向けて増していく。 日本 日本においては小磯国昭内閣が和平工作を推進し、危機的な状況を主に外交交渉によって打開しようと模索していた。小磯内閣は発足当初、...
  • 八路軍
    ...たものであるが、この戦略は完全に裏目に出てしまう。抗日戦で果敢に日本軍と戦った八路軍が特に華北を中心に民衆の支持を集めたのに対し、国民党軍は民衆と完全に乖離してしまった。また国民党を援助していたアメリカも、国民党の態度に不審を覚え、むしろ八路軍に好意を抱く事となった。 結果的に八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において大衆の支持を集めて勝利したとされ、中華人民共和国設立に貢献した。 八路軍に降った日本軍将兵はソ連軍に下った将兵と比較すると内地帰還・収容所待遇などに厚遇を受けたため、八路軍に対しては好意的な意識を持つ旧日本軍将兵は少なくない。但し特殊技能を持つ旧日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)は永く留め置かれ、帰国が遅れた者も少なくない。 八路軍将兵に対しては「三大紀律八項注意」という規則があったが実際に守られていたかは疑義が残る。 また占...
  • 第二次上海事変
    ...撤兵に追い込むという戦略があった。このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは国共内戦を戦う蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であった。 この戦略の基礎となったのが1930年代における中独合作である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して築かれた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、日本の侵略にたいし国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。 この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が...
  • 日本近代史
    ...大軍を広大な大陸に無戦略に送り込み、最後には敵勢力を把握しない稚拙極まる戦いを続けていた中国大陸での消耗も激しかった。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで大日本帝国への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともにアメリカ合衆国の数10分の1でしかない大日本帝国の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年に解散し、国民義勇隊に改組された。 1944年7月にはサイパン島が陥落し、このことで大日本帝国本土は連日のように空襲に晒され、1945年3月10日には、大量無差別に民間人8万人以上殺され、焼失家屋は約27万8千戸、東京の3分の1以上の面積(40平方Km)が焼失するという東京大空襲が行なわれた。大日本帝国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた...
  • パリ講和会議
    ...の四カ国は大戦中から戦略会議を開いていたという古い関係があり、ここに日本を加える予定は全くなかったのであるが、珍田捨巳駐英大使他の必死の奔走で辛くも日本代表を含ませることができたのであった。 日本の全権は政権与党である立憲政友会前総裁で元首相・元老でもある西園寺公望侯爵(個人的にもクレマンソーフランス首相とは親友であった)及び牧野伸顕らが任命されたが、会議では日本が「五大国」と称されながら実際の発言力が低かった事で批判を浴びた。 山東問題 日本は第一次世界大戦への参戦に際して、山東半島の旧ドイツ権益を獲得した。日本は同大戦中の所謂対華21ヶ条要求を通じて、中華民国の袁世凱政権に対し、同権益の日本の継承を認めさせた。 一方、袁世凱政権自身も、幾分か名目的なものではあるものの、連合国の勝色が濃厚となった段階で同盟国側に対して宣戦布告をしており、この会議にあたっては中国代表とし...
  • 山本権兵衛
    ...軍務局長として海軍の戦略の中枢に位置した。 その後も海軍次官を経て、山県内閣の海相に就任、以後8年間にわたってその地位を保つ。立憲政友会の伊藤内閣でも留任されて重んじられたことから以後同党に好意的な立場を取る事になる。 1904年(明治37年)には海軍大将に昇進し、同年から翌年にかけての日露戦争中は海軍大臣の地位にあり、軍政面から戦争を支えた。連合艦隊司令長官に東郷平八郎を推挙する際、明治天皇に「東郷は運の良い男でありますので」と奏したという話は有名である。戦争後にその功績により、伯爵に叙せられた。その後軍部の要人として存在感を強め、護憲運動などにも理解を示した。 総理大臣時代 thumb|[[内閣総理大臣山本權兵衞]] 1913年(大正2年)2月20日に退役となり、立憲政友会を与党として内閣総理大臣に就任した。第一次山本内閣では、軍部大臣現役武官制を廃止したが、シーメン...
  • 昭和
    ...ついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数10分の1でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年に解散し、国民義勇隊に改組された。 1944年7月にはサイパン島が陥落し、これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり、1945年3月10日には、大量無差別の東京大空襲が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答しなかった。核の被害実験、ソビエト連邦への軍事力の誇...
  • インパール作戦
    ...、援蒋ルートの遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のこと。 補給線を軽視した杜撰な作戦により、歴史的敗北を喫し日本陸軍瓦解の発端となった。 無謀な作戦の代名詞としてしばしば引用される。 経緯 インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ-インド間の要衝にあって連合国から中国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられた。 大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわ...
  • 玉砕
    ...敵の負担になるから、戦略的に見て玉砕は非合理的な行動であるとも言える。但し、敵が捕虜を虐待するような場合もあり、単純に損得は論じるのは困難ともいう意見もある。 日本軍における玉砕においては、テニアンの戦いなどに見られるよう、刹那的な自殺的攻撃や自決を伴うこともあり、長期的な抵抗と結びつかなかったことも軍事的評価を下げている。また玉砕と伝えられる戦闘でも、実際には相手側(米軍)に虐殺された例もいくつか指摘されている 田中徳祐 『今日の話題. 戦記版 第三十二集 サイパン玉砕記』 土曜通信社 (1956年) 田中徳祐 『我ら降服せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』 立風書房 (1983年) 田中徳祐 「岡兵団 われサイパン戦に生きて」『丸・別冊 太平洋戦争証言シリーズ(6) 玉砕の島々 中部太平洋戦記』 潮書房 (1987年)。 「玉砕」の始まり 第二次大戦の中で最...
  • 国定教科書
    ...がなされ、ソ連の国家戦略、極東ソ連軍の状況、ソ連の輸送能力などから「ソ連軍の攻勢は時間の問題であり、今年(1945年)の八月か遅くても九月上旬あたりが危険」「八月以降は厳戒を要する」と結論づけている。 関東軍首脳部 関東軍首脳部は日本政府よりも事態を重大に見ていなかった。総司令官は昭和20年8月8日には新京を発ち、関東局総長に要請されて結成した国防団体の結成式に参列していたことに、それは表れている。時の山田総司令官は戦後に「ソ軍の進行はまだ先のことであろうとの気持ちであった」と語っている。ただし、山田総司令官は事態急変においては直ちに新京に帰還できる準備を整えており、事実ソ連軍の攻勢作戦が発動してすぐに司令部に復帰している。なお、六月に大本営の第五課課長白木末政大佐は新京において、状況の切迫性を当時の関東軍総参謀長に説得したところ、「東京では初秋の候はほとんど絶対的に危機だと...
  • 第一次世界大戦-2
    ...権力を獲得するために戦略的に使用した。10月24日、ボリシェヴィキは武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、臨時政府を打倒した。 12月、ボリシェヴィキ政府は中央同盟国との休戦交渉を開始した、初めボリシェヴィキ政府はヨーロッパの労働者の蜂起を当てにして中央同盟国が出した条件を拒絶した。そうしている間に、1918年2月にボリシェヴィキと対立していたウクライナ国民共和国が中央同盟国と結び、中央同盟軍が戦争を再開、瞬く間に全ウクライナを奪回した。窮地に立たされたボリシェヴィキ政府は3月3日にブレスト=リトフスク条約に同意した。それは戦争を終結させる代わりに、中央同盟国へフィンランド、バルト地方、ポーランドおよびウクライナを含む広大な領土を割譲するという厳しい内容だった。 シベリア出兵 Template main? ロシアが戦争から離脱したことで、日本、イギリス、アメリカを...
  • 明治六年政変
    ...備わっていないという戦略的判断、外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題(台湾出兵参照)、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えた。 10月14日-15日に開かれた閣議は紛糾したが、採決で同数になった結果、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府から抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した議長の三条が即時派遣を決定。反対(延期)派の参議である大久保、木戸、大隈、大木は辞表を提出、右大臣の岩倉も辞意を伝える。 後は明治天皇に上奏し勅裁を仰ぐのみであったが、この事態にどち...
  • 戦史叢書
    ...が記述の中心を占め、戦略全般に渡る大本営レベルで展開されたであろう作戦指導の根本的なあり方や、それをめぐる議論とその経過分析については不足の観を免れない。 国会図書館を始めとして防衛研究所史料閲覧室や大学図書館、都道府県や政令指定都市レベルの中核となる図書館、および靖国神社靖国偕行文庫室等に全102巻が保管され閲覧可能のほか、一般に流れたものが古書店で売られている。 なお、2003年8月に防衛研究所戦史部はこれまで知られていなかった史料・資料(主にソ連の崩壊に伴う旧東側のもの)が利用可能になったため、これらに基づいて戦史叢書の全面的な増補改訂を行なう計画があることを発表している。 巻目 巻番号書名発行年月巻番号書名発行年月 1マレー進攻作戦昭和41年10月52陸軍航空の軍備と運用(1)昭和十三年初期まで昭和46年12月 2比島攻略作戦昭和41年10月53満洲方...
  • 日露戦争
    ... 開戦時の両軍の基本戦略 日本側  陸軍は第一軍で朝鮮半島へ上陸、鴨緑江を渡河しつつ、在朝鮮のロシア軍と第一会戦を交えた後に満洲へ進撃。第二軍をもって遼東半島へ橋頭堡を立て旅順を孤立させる。そののち、満洲平野にて第三軍、第四軍を加えた四個軍でもって、ロシア軍主力を早めに殲滅する。のちに沿海州へ進撃し、ウラジオストックの攻略まで想定。海軍は旅順及びウラジオストックにいるロシア太平洋艦隊を黄海上にて殲滅した後に、ヨーロッパより回航してくるバルチック艦隊と決戦し、殲滅する。軍令機関が陸海軍並列対等となった初めての戦争であることに留意。 ロシア側  黄海の制海権確保の前提に基づき、日本側の上陸を朝鮮半島南部と想定。鴨緑江付近に軍を集結させ、北上する日本軍を迎撃させる。失敗した場合は日本軍を引き付けて、順次ハルビンまで後退して、補給線の延びきった日本軍を殲滅...
  • 大韓民国臨時政府
    ...無。をする。アメリカ戦略事務局(OSS)と協約を結んで光復軍の特務工作訓練を受ける。しかし米軍潜水艦と飛行機での本国進撃準備途中、日本の降伏を迎えた。 組織 1919年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植・盧伯麟が国務総理代理を引き受けた。国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出した。1926年末に構成された金九内閣は1927年、集団指導体制である国務委員制に改編した。 大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局があり,海外には居留民団組職があった。 連通府と交通局は朝鮮北西地方に結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が代行した。この時大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会...
  • 関東軍
    ...存の国家外交安全保障戦略を、現地の佐官級の参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく左右する端緒となった。 また、これら一連の行動は参謀本部・陸軍省等当時の軍中央での国防政策の指針からも逸脱しており、その後の陸軍内の「下克上」的な組織体質、「手続軽視・結果重視」といった軍の運用体質を作りあげていった、という批判もある。 また、関東軍は、阿片王と呼ばれた里見甫と結託し、アヘン取引組織を作った。 歴史 日露戦争後にロシアから獲得した関東州租借地(遼東半島)と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年に関東都督府が関東庁に改組されると同時に関東軍として独立した。当初は独立守備隊6個大隊と内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団の編成。 1928年には、北伐による余波が満州に及ぶことを恐れ...
  • 田中隆吉
    ...937年1月)。対ソ戦略の一環として内蒙工作に従事。徳王と連携して綏遠事件を起こす。 1937年(昭和12年)8月 - 陸軍大佐任官。第19師団(朝鮮)山砲兵第25連隊長に着任。 1938年(昭和13年)8月 - 張鼓峰事件の戦闘に参加。 1939年(昭和14年)1月 - 陸軍省兵務局兵務課長に着任。 1940年(昭和15年) 3月 - 少将に昇進、第1軍(中国)参謀長として閻錫山工作に従事。 12月 - 陸軍省兵務局長。 1941年(昭和16年) 6月 - 陸軍中野学校長を兼ねる。 10月、兼職を免ぜられる。 1942年(昭和17年) 9月 - 東部軍司令部付に異動。 11月~12月 - 初老期憂鬱症状のため国府台陸軍病院に入院。 1943年(昭和18年)3月 - 予備役編入。 1945年(昭和20年)3月 - 召集され羅津...
  • 参謀本部 (日本)
    ...) 課長 戦略戦術課(第13課。昭和11年8月新設。課長は戦史課長の兼任が多かった) 課長 第5部 部長 外局 陸軍大学校 陸軍中野学校 陸地測量部 参考文献 大江志乃夫(著)、『日本の参謀本部』、中央公論社、1985年 外部リンク 皇居桜田濠と参謀本部(長崎大学附属図書館蔵) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月8日 (水) 10 45。      
  • 華族
    ...清美 『華族社会の家戦略』 吉川弘文館 ISBN 4642037381 関連項目 皇室 皇族 士族 平民 爵位 新家 貴族院 王公族 朝鮮貴族 霞会館 家憲 斜陽 豊饒の海 日本の華族一覧 華族ゆかりの人物・団体 外部リンク Template wikisource? 華族一覧表 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月24日 (水) 09 05。     
  • 石原莞爾
    ...る。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した論文(『長岡藩士・河井継之助』)であった。 在外武官時代 ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中...
  • 陸奥宗光
    ...る川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。 戦勝後は伊藤博文とともに高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章と の談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤 が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとはおれが引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を 取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。全権として明治28年(1895年)、下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するも...
  • ヨシフ・スターリン
    ...済大国へと躍進させた戦略的指導者として認識している人々も少なくない。その一方で、党内反対派や「反革命分子」「人民の敵」に対し、粛清と称して無数の国民を虐殺し、過酷な抑圧政策を取ったことでも知られる。 ボリシェヴィキ(ソ連共産党)の書記局長に就任し、党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの権力の地盤を築いた。ロシアでは総書記に当たる語で呼ばれる。ウラジーミル・レーニンの死後、レフ・トロツキーやニコライ・ブハーリンなど、政治的ライバルや反対派の粛清を経て実質的な最高指導者となり、独裁的な権力を振るうに至った。彼が存命の頃のソ連は、強力なプロパガンダによって共産主義の希望の星として憧憬の目が注がれていた。しかし、その死後はニキータ・フルシチョフのスターリン批判などによって、スターリンによる独裁の時代の政治体制や主張・理論は、スターリン主義として右翼陣営だけでなく左翼陣営からも否定...
  • 戦時国際法
    ...られた都市圏に対する戦略爆撃は違法化されている。第二に文民と民用物への被害を最小化することである。軍事作戦においては文民や民用物が巻き添えになることは不可避であるが、攻撃実行にあたっては、その巻き添えが最小限になるように努力し、攻撃によって得られる軍事的利益と巻き添えとなる被害の比例性原則に基づいて行われなければならない。第三に同一の軍事的利益が得られる二つの攻撃目標がある場合、文民と民用物の被害が少ないと考えられるものを選択しなければならない。 海戦法規 海戦法規(海戦法、海上作戦法規)は海上での武力紛争に適用される戦時国際法である。海戦法規は海上での軍事目標、武力紛争における臨検・拿捕、機雷使用などについて定めたものである。海戦法規は陸戦法規とは異なり、その大部分が19世紀まで慣習国際法に基づいたものである。ただし海上戦力の多様化や新しい海洋法や環境法の成立があったことで...
  • 頭山満
    ...なか、日本は対ロシア戦略のもとに日英同盟を締結し、頭山も対露同志会を設立した。明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると玄洋社は若者を中心に満州義軍を結成、参謀本部の協力を得て満州の馬賊を組織し、ロシア軍の背後を撹乱するゲリラ戦を展開した。 日韓併合 玄洋社は孫文の革命運動への支援と並行して、明治43年(1910年)の日韓併合にも暗躍したとされている。杉山茂丸や内田良平などの社員もしくは250余名の関係者が日韓の連携のために奔走したのは事実だが、玄洋社が目指していたのは植民地化ではなく、「合邦」という理想主義的な形態だったと見られている。「合邦」の詳細については定かではないが、内田は現実の日韓併合に対して憤激しており、初めは協力的だった玄洋社と日本政府の関係は後に大きく離間していった。玄洋社は侵略主義の権化と見られがちだが、政府からはむしろ危険視されていた。 諸国の...
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