chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「手形」で検索した結果

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  • 震災手形
    震災手形(しんさいてがた)は、関東大震災のため支払いができなくなった手形のこと。往時の報道では震手と略称された。特別に震災手形と呼ばれるものが出回ったのではなく、一般に流通する手形のうち、被災地に関わるもののみが緊急勅令によるモラトリアムや法令により日本銀行が再割引することで補償の対象となり、こう呼ばれる。再割引の際にはスタンプを捺して識別した。但し、混乱に乗じて、折からの不況で不良債権となったものも大量に紛れ込んだ。 起因 1923年9月1日に起こった関東大震災は当時の日本銀行の推計で45.7億円の損害が出た。当時の国家予算が15億円であった事を見ても、甚大な被害であることが判る。このため被害を受けた企業が支払いが出来なくなる事態を想定して、9月7日緊急勅令によるモラトリアムが出され、9月中に支払期限を迎える金融債権のうち被災地域の企業・住民が債務者となっているものについては支払期限...
  • 昭和金融恐慌
    ...災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。3月14日の衆議院予算委員会の中での片岡直温蔵相の「失言」をきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に鈴木商店が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。これに対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。 昭和金融恐慌は、後年起きた昭和農業恐慌(1929年の世界恐慌の影響を受けて主に農業に経済的打撃を受けた)と合わせて昭和恐慌と言われる事もある。 背景 昭和金融恐慌の原因として、未熟な金融システムと、経済的危機に正しく対処し得なか...
  • 鈴木商店
    ...生すると、政府は震災手形割引損失補償令を公布。これは震災前に銀行が割り引いた手形のうち決済不能になった損失を日本銀行が補填するというものであった。この制度成立には金子から政治家への働きかけがあったといわれている。鈴木商店と台湾銀行はこの制度を利用し損失の穴埋めを行う。政府も黙認の態度をとっていた。1926年末の震災手形の合計2億680万円のうち台湾銀行は1億4万円で48%を占め、その台湾銀行の手形のうち7割が鈴木商店のものであった。鈴木商店の震災手形の総額は現代の物価に換算すると438億3752万8千円という巨額であった。 終焉期 1927年3月、当時の大蔵大臣・片岡直温の「とうとう東京渡辺銀行が破綻した」との失言(片岡の発言時点では東京渡辺銀行はまだ破綻していなかった)により東京渡辺銀行は実際に破綻、他行でも取り付け騒ぎが発生する。そんな中で同年3月27日、台湾銀行は鈴木商...
  • 台湾銀行
    ...が危機に陥ると、震災手形で一時凌ぐが、膨大な不良債権を抱え、1927年の昭和金融恐慌で休業に陥る。モラトリアムの実施と政府の支援措置によって再建した。 第二次世界大戦後に閉鎖機関に指定され、清算、解散(昭和20年大蔵外務内務司法省令第1号「外地銀行、外国銀行及び特別戦時機関の閉鎖に関する件」)。 なお、国内の残余資産によって日本貿易信用株式会社(現:株式会社日貿信)が設立された。 また、旧東京支店の跡地に東洋信託銀行・本社ビル(後のUFJ信託銀行・本社、三菱UFJ信託銀行・東京営業部ビル)が建設された。 第二次世界大戦後 第二次世界大戦後、1946年に台湾貯蓄銀行、三和銀行を合併し、設立された台湾銀行 (Bank of Taiwan、臺灣銀行) は台湾最大の商業銀行。法的な位置づけとしては新設の金融機関であるが、実態としては前述の台湾銀行の後身である。また本行...
  • 大正
    ...庫の更なる膨張、震災手形とその不良債権化問題の発生などによって、景気回復の見通しが全く立たないままに昭和金融恐慌・世界恐慌を迎える事になる。 震災復興 1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺...
  • 朝鮮銀行
    ...行と同じような融資・手形割引などの業務も行ない、朝鮮総督府に対する資金の貸付も行った。だが、密かに日本国内企業への貸付も行って、朝鮮における産業育成という設立当初の目的から逸脱した行動をするようになり、第一次世界大戦終結後に長く続いた不況で融資の焦げ付きが明るみに出た。これに激怒した日本政府は1924年に監督権を朝鮮総督から大蔵大臣に移して、日本銀行からの緊急融資を受けて事態を乗り切った。 一方、日本軍とともに占領地へ進出したため朝鮮以外に内地及び満州、中国北部及びシベリアに支店等を持った。後に満州に関しては満州国と折半で満州興業銀行を設置して業務を譲渡している。1938年には華北を中心に中国聯合準備銀行が創設され相互に架空の預金を持ち合ったことにして大量に軍事用の通貨を発行し満州の軍閥の発行した通貨の整理を図った。だが、戦局の拡大とともに戦火を直接受けなかった朝鮮半島では、景気が...
  • 関東大震災
    ...経済にとっては、震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化して後の昭和恐慌の遠因となる。 震災復興事業として作られた代表的な建築物には同潤会アパート、聖橋、復興小学校、復興公園、震災復興橋(隅田川)、九段下ビルなどがある。 後藤新平により帝都復興計画が提案され、被災地を全ていったん国が買い取る提案や、自動車時代を見越した100m道路(低速車と高速車を分離する)の建設、ライフラインの共同溝化など、現在から見ても理想的な近代都市計画が出された。しかし当時の政党間の対立などにより予算が縮小され、当初の計画は実現できなかった。これが失策であった事は、東京大空襲時の火災の拡がり方や、戦後の自動車社会になって思い知らされることとなった。例えば道路については首都高速等を建設(防災のために造られた広域避難のための復興公園(隅田公園)の大部分を割り当てたり、...
  • 昭和
    ...年には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。 一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵をおこない、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この...
  • 日本近代史
    ...)には、関東大震災の手形の焦げ付きが累積し、それをきっかけとする銀行への取り付け騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。 一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利害を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件...
  • 西郷隆盛
    ...盛全集』第一巻、往来手形を持参していない商人らにも帰国するよう命じ、併せて藩内での取締りも強化し、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した『西郷隆盛全集』第五巻。 4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。池田屋事件からまもない6月27日、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し、西郷は薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7月8日の徳川慶喜の出兵命令を小松清廉と相談のうえで断った。しかし、18日、長州勢(長州・因州・備前・浪人志士)が伏見・嵯峨・山崎の三方から京都に押し寄せ、皇居諸門で幕軍と衝突すると、西郷・伊地知正治らは乾御門で長州勢を撃退したばかりでなく、諸所の救援に薩摩兵を派遣して、長州勢を撃退した(禁門の変)。このとき、西郷は銃弾を受けて軽傷を負った。この事変で西郷らがとった中立の方針は、長州や幕府が朝廷を独占するのを防ぎ、朝廷をも...
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