chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「指揮 (軍事)」で検索した結果

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  • 唐生智
    ...おける南京防衛戦の総指揮官を蒋介石より任命される。7日に蒋介石が南京を脱出した後も徹底抗戦の指示を守り、12月9日の日本軍からの降伏勧告にも抵抗を以て返答。その後、南京陥落直前の12日夕方に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出し自らは南京城を脱出。この時に明確な撤退命令を出さず、更にこの指示は中国軍の末端までは伝わらず、多くの中国兵が指揮系統不在のまま南京に取り残され、結果、その後も散発的に戦闘が続けられる事になった南京陥落時の混乱については南京大虐殺参照。。中華人民共和国の成立以降も大陸に残る。1949年、湖南省の知事に命じられ、中国国民党革命委員会の委員、全国人民代表大会の常務委員を歴任した。 中国語版翻訳2007年6月1日の版であり、また翻訳の正確さを保証しないので正しくは原版参照のこと。 唐生智(1889年―1970年4月6日)、字(あざな)...
  • 何応欽
    ...加。国民革命軍東路総指揮・参謀長など歴任。「蒋介石の片腕」と評される存在になる。1927年に南京国民政府が成立すると、第一路軍総指揮、翌年には総司令部参謀長となった。1933年に北平に赴任し、国民党軍事委員会北平分会会長に任ぜられ塘沽協定、1935年には梅津・何応欽協定を結ぶ。日中戦争時は、第四戦区司令長官・軍政部長・参謀総長等を務めた。 1945年、支那派遣軍総司令官岡村寧次が降伏文書に調印し、中国代表の何応欽に呈示。その後は国防部長・行政院院長を務めるが、1949年、国共内戦に敗れ蒋介石らとともに台湾へ脱出。渡台後は、総統府戦略顧問委員会主任委員・台湾紅十字総会会長・中日文経協会会長等を歴任した。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月12日 (月) 23 33。     ...
  • 学校教練
    ...練に関しては学校長の指揮監督を受けた。 師範学校(官立又は公立のみ) 中学校(官立、公立又は私立) 実業学校(官立、公立又は私立) 高等学校(官立、公立又は私立) 大学予科(官立、公立又は私立) 専門学校(官立、公立又は私立) 高等師範学校(官立又は公立のみ) 臨時教員養成所(官立又は公立のみ) 実業学校教員養成所(官立又は公立のみ) 実業補習学校教員養成所(官立又は公立のみ) 大学学部(官立、公立又は私立) 関連項目 予備役将校訓練課程(米国の大学等に設置された予備役将校を養成する課程) 外部リンク 京都大学百年史資料編 学校(軍事)教練の本当の担い手 陸軍現役将校学校配属令公布 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月30日 (金) 15 44。 ...
  • 日本軍
    ...天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防衛司令部が設置され、また内地に14個師団と北海道に1個師団が配備されていた。朝鮮には朝鮮軍司令部と2個師団が配備され、台湾では台湾軍司令部と台湾守備隊が置かれた。関東州・満州には関東軍司令部と関東軍守備隊、内地、朝鮮には第一航空軍が設置されていた。 海軍は、平時の編制ではまず艦船を現役艦と予備艦に分け、現役艦を以って第一艦隊と第二艦隊から構成される連合艦隊、または警備艦として鎮守府に所属した。 当初は、徴兵告諭の「海陸二軍ヲ備ヘ」など海軍を先に表記することもあったが、後世は陸海軍を併記する場合は陸軍を先に表記することが通常となった。 天皇 元帥府 - 天皇に対する軍事問題の最高顧問。元帥によって構成される。法的に定められた職責はな...
  • 長州征討
    ...の合議制により作戦が指揮された。 大島口では、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩の兵が、大島に上陸し占領した。宇和島藩は幕府の出兵命令を拒んだ。幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、奇襲戦法により幕府海軍は敗走した。その後、世良修蔵指揮下の長州軍が大島の奪還を果たすも、島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討が終戦まで続く。 芸州口では、長州藩と岩国藩が幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が行われる。彦根藩と高田藩が小瀬川であっさりと壊滅したが幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に替わって戦闘に入ると幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着状況に陥る。また芸州藩は幕府の出兵命令を拒んだ。 石州口では、大村が指揮し(指揮役は清末藩主毛利元純)、中立的立場を取った津和野藩を通過して徳川慶喜の弟が藩主を務める浜田藩へ侵攻し、18日に浜田城を陥落させる。明治まで浜田城と天領だった石見銀山は長州が制圧した。 小倉...
  • 仮70
    ...の4月12日蒋介石の指揮により上海で大規模な共産党員弾圧(上海クーデター)が開始され、第一次国共合作は完全に崩壊するに至った。 関連項目 蒋介石 汪兆銘 中国国民党 国共合作 黄埔軍官学校 北伐 上海クーデター 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 14 47。    
  • 北越戦争
    ...山縣有朋と黒田清隆を指揮官としていた。新政府軍は越後における旧幕府軍の平定と会津藩征討のため、長岡にほど近い小千谷(現・新潟県小千谷市)を占領した。 長岡藩は、大政奉還以後も徳川家を支持し、長岡藩主・牧野忠訓と上席家老、軍事総督・河井継之助のもと、軍事顧問に招いたプロシアの商人・スネル兄弟を通じて独自に当時日本に3門しか無かったガトリング砲の2門を購入し、フランスの新型銃2,000挺を購入するなどの火器・兵器を購入し富国強兵に努めていた。また河井の指導の下、恭順派の安田鉚蔵一部の書籍に安井柳蔵とあるが、長岡藩には安井姓の藩士は存在しない。安田鉚蔵の誤りである可能性がある。らを退け藩論を武装中立論に統一していた。会津藩は佐川官兵衛を使者として長岡藩に奥羽越列藩同盟への参加を申し入れるが、河井は同盟への参加を拒んだ。 小千谷談判 5月2日(6月21日)、河井は長岡への侵攻の中止...
  • 中山艦事件
    ...の4月12日蒋介石の指揮により上海で大規模な共産党員弾圧(上海クーデター)が開始され、第一次国共合作は完全に崩壊するに至った。 関連項目 蒋介石 汪兆銘 中国国民党 国共合作 黄埔軍官学校 北伐 上海クーデター 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月7日 (日) 14 47。    
  • 玉砕
    ...て、一部の兵を残して指揮官を失い部隊が全滅した場合でも、残された兵に許されるのは後退して再起を図る(攻撃再興)か、絶望的な抗戦を行うかであった。このような認識を共有する軍隊において、兵の後送手段の無い島嶼や遠隔地での戦いに敗れた場合、敗残兵に軍事的判断として降伏の選択肢は無いため、補給の途絶した現地部隊と軍中央との暗黙の了解として敵陣地への勝算無き突撃が常態化したのが大東亜戦争末期の日本軍の玉砕といえる。 こうした最後の一兵まで戦う姿勢は当時の陣地浸透戦術に対しては粘り強い抵抗力として軍事的貢献も認められ、装備が貧弱で士気の低い中国軍に対しては数的優位を覆したり、米軍の陣地強襲に対しては昼間の戦闘で失った陣地を米軍が掃討できない場合に夜襲により奪回する際に残置された兵による支援につながったりよい面もあると言えるが、装備に優れたカナダ軍を相手にするフィリピンや島嶼部での絶望的抗戦の果...
  • 日本の戦争犯罪
    ...、BC級戦犯はA級の指揮棒に踊らされたものだという考えにも見られるように、「戦争犯罪」の加害者でありながら被害者的側面でも理解されるなど、本来は戦争忌避の有益な意識ながら、戦場において個人が犯した「戦争犯罪」への認識を希薄化してしまう一助になっているなどという指摘もある。一方加害者でもあるが被害者でもあるとする事実の指摘も近年では多い。 日本では戦争放棄を憲法にうたい、国として政府見解において戦争の惨禍をあるいは侵略戦争そのものを謝罪する事で、悪の根元としての「戦争」との決別を示すことで、既に裁かれた戦犯の個としての「戦争犯罪」を深く追求する必要性よりも将来を見据えた見解が多い。このため政府首脳や要人の発言や行動が、国として示している戦争への反省や謝罪に反して見える場合、その発言や行動の度事に「平和に対する罪」という「戦争犯罪」をどう自覚しているかについて、国内の左派勢力と軍備増強...
  • 甲州勝沼の戦い
    ...要 新選組は会津藩指揮下で京都市街の治安維持などに従事していたが、慶応4年1月、旧幕府軍の一員として鳥羽・伏見の戦い、淀千両松の戦いで新政府軍と戦って敗れ、江戸へ移った。新政府軍は東海道・東山道・北陸道に別れ、江戸へ向けて進軍した。 新選組局長の近藤勇は、抗戦派と恭順派が対立する江戸城において勝海舟と会い、天領である甲府を新政府軍に先んじて押さえるよう出陣を命じられた(一説には、江戸開城を控えた勝海舟が、暴発の恐れのある近藤らを江戸から遠ざけたとも言われる)。新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲府へ向かった。 近藤は混成部隊を指揮するため、行軍中に大名旅行のように振舞い、さらに天候の悪化なども重なり時間を空費する(沖田総司は途中で江戸に戻った)。その間に、土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが...
  • 二・二六事件
    ...兵第7連隊らの部隊を指揮して 岡田啓介(内閣総理大臣) 鈴木貫太郎(侍従長) 斎藤実(内大臣) 高橋是清(大蔵大臣) 渡辺錠太郎(陸軍教育総監) 牧野伸顕(前内大臣) 後藤文夫(内務大臣) の殺害を図り、斎藤内大臣、高橋蔵相、及び渡辺教育総監を殺害、また岡田総理も殺害と発表された(但し誤認)。 その上で、彼らは軍首脳を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えた。しかし軍と政府は、彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。反乱将校たちは下士官・兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。 襲撃決意の背景 革命的な国家社会主義者北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた...
  • 特務機関
    ...関はシベリア派遣軍の指揮下で活動し、機関員の辞令はシベリア派遣軍司令部附として発令され、その業務は軍参謀長の監督を受けた。はじめ、ウラジオストク、ハバロフスク等各地に設置されたが、戦局の推移にともない改廃・移動が度々なされた。シベリア撤退後は、そのままハルピン特務機関を中心に、ソ連各地で情報収集にあたっていた。1940年にそのハルピン特務機関は関東軍情報部に、それ以外の各特務機関は情報部支部へと改編された。それら11支部あった情報部支部は1945年8月には特別警備隊に改編され、終戦を迎えた。 また明治期後半から、陸軍は中国各地の地方政権や軍閥に軍事顧問(団)を派遣した。それらの軍事顧問と配下の機関員ら含む、組織全体でもって「特務機関」として活動していた。例えば袁世凱政権・張作霖政権等に軍事顧問が派遣されていた(形の上では招聘)。また、東南アジア各地においても中国における軍事顧問と同...
  • BC級戦犯
    ...概要」においてB級は指揮・監督にあたった士官・部隊長、C級は直接捕虜の取り扱いにあたった者、主として下士官、兵士、軍属であるという主旨の説明している。 なお、A級、B級、C級の区別は国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判所条例(英 Charter of the International Military Tribunal for the Far East)における単なる分類であり、「級」という語が使われているためしばしば誤解されるが、罪の軽重を指しているわけではない。 戦争犯罪人のリストアップ 連合国は戦時中・戦後と戦争犯罪に関する情報を収集していた。 これらの情報は連合国戦争犯罪委員会に提出され、それを基に1948年3月までに36,529名(日本人容疑者は440名)の容疑者リストを作成した。また、日本の戦犯を対象として、中華民国の重慶に設置された同委員会極東太平洋...
  • 木村兵太郎
    ...ーン北西部の防衛戦を指揮していた第28軍司令官桜井省三中将は、木村に対し、「戦局の推移が迅速でいつラングーンが戦場になるかもわからない。ラングーンが攻撃されてから方面軍司令官が移動しては逃げ出したことになり、作戦指導上困難が生ずる」として、「方面軍司令部を速やかにシヤン高原に前進させ、第一線で作戦を指導すべき」と進言したが、木村はこれを却下した。同様に田中新一方面軍参謀長も「方面軍司令部は敢然としてラングーンに踏みとどまり、いまや各方面で破綻に瀕しつつある方面軍統帥の現実的かつ精神的中心たるの存在を、方面軍自らラングーンを確保することにより明らかにすべき」と主張していたが、司令部の撤退が田中参謀長の出張中に決定された。 Template 要出典範囲?。前線で苦戦する隷下部隊や、日本が支援したビルマ政府のバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席、自由インド仮政府初代公...
  • 本土決戦
    ...。 陸軍 指揮系統の一新 1945年1月22日、既に沖縄戦前に解体されていた北方軍・台湾軍に加えて、1944年より本土防衛の総指揮を執っていた防衛総司令部の隷下にあった東部軍・中部軍・西部軍、及び朝鮮軍を廃止して、新たに方面軍と軍管区を新設した。これによって、作戦と軍政の分離を行い、本土決戦における指揮系統の明確化を図った。防衛総司令部はこれまでと同様に、直接部隊として東京防衛のための第36軍と第6航空軍を指揮下においていた。 さらに4月8日、指揮の円滑化を図るため、防衛総司令部は第1総軍・第2総軍に分割された。両総軍の指揮範囲は鈴鹿山脈を境界としていた。また、航空戦力の一元運用のため、航空総軍が新設された。この際に、第36軍は第12方面軍隷下になり、第6航空軍は航空総軍の隷下となった。 これら一連の新指揮系統の確立の結果を以下に示す。 第1総軍 ...
  • 石原莞爾
    ...小澤開作(歯科医師、指揮者小澤征爾の父、ミュージシャン小沢健二の祖父) 辻政信(陸軍参謀、参議院議員) 等がいる。 東京裁判での主張 東京裁判には証人として出廷し、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」石原莞爾平和思想研究会編。 また、よく法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります。」と満州事変と満州国建国に...
  • 上海事変
    ...のも当然だった。 指揮官の蔡廷鍇(さい ていかい)は日本軍との交渉において「私の指揮下にある軍隊は、中華民国政府の正規軍であって、政府の命令によってのみ行動する」と言った。しかし、それは偽りで実際に十九路軍に命令する者は彼だけだった。その上、蔡廷鍇は日本軍との戦いを避けたい蒋介石の代弁者でもなく、蒋介石も上海市同様、蔡廷鍇を警戒していた。 蔡廷鍇は、給与が支給されるまでは去らないと通告した ref name=Sergeant ハリエット・サージェント『上海―魔都100年の興亡』浅沼昭子訳、新潮社、1996年10月。このとき共同租界の防衛委員会は、義勇軍、市参事会会長、警視総監の他に、英、米、日、仏、伊各軍の司令官によって構成されていたが蔡廷鍇の目的は未払いの給与の支払いだけではなく、繁栄を極めていた上海の街を手に入れようとしているというのが全員の意見だった ref name=Se...
  • 国民義勇隊
    ...しょう)を身に付け、指揮をとる職員は腕章により標識するものとされた。 陸海軍刑法などの各種規律が適用または準用されたが、刑罰の適用対象や科刑範囲が限定されるなどの取り扱いになっていた。 なお、名称は「義勇」とされるが、一方的に召集されて刑罰により強制される兵役であり、本来の意味での義勇兵には該当しない。年齢制限外の者の志願の場合も、国家の軍事組織への自主参加であるので、志願兵ではあっても義勇兵とは異なる。 連合国軍(特に米軍)側は、この制度を「日本国民全員が戦闘員となった。すなわち、日本に戦争法規上攻撃してはならない民間人はいなくなった」と恣意的に解釈し、絨毯爆撃に代表される無差別攻撃を正当化した。Template 要出典? 戦史 実際の編成が行われたのは、後述する一部地域の例外を除くと、鉄道義勇戦闘隊(7月23日発令、8月1日編成完結)と船舶義勇戦闘隊(8月1日発令、8月...
  • 国共合作
    ...の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込んだ。しかし、蒋は毛沢東の長征までは防ぐことが出来ず、その後も国共内戦は継続されていった。 日本による満州の掌握 同時期には日本の関東軍が、1931年9月に勃発した満州事変を契機として満州地域一帯を掌握し、その後の1932年3月1日に、かつて清朝最後の皇帝であった宣統帝の愛新覚羅溥儀を「執政」に推戴する親日国家の満州国を建国した(いわゆる、十五年戦争の始まり)。 これを受けて、南京国民政府の統治区域でも全国的に一致抗日を要求する世論が高まったが、蒋は日本との国力の差を考慮...
  • 上原勇作
    ...日本軍(乃木希典大将指揮)が大苦戦したことを受け、上原は『私は日本の工兵を厳しく鍛え上げたが、ただ一つの手抜かりは、要塞攻略の為の工兵による坑道作戦の研究と訓練を怠ったことだ。これをやっておれば旅順であんなに苦戦しなかった』と語り、日露戦争後に直ちに上原の指導の下、要塞攻略戦の研究が始まり、明治39年に小倉練兵場にて第一回要塞攻略演習を行った。 その他 東京南部大森に邸宅があり、陸軍関係者の隠語で、「大森」は上原を指した(田中隆吉)。 千葉県一宮町に別荘を所有した。 俳優上原謙(本名の姓は「池端」)の祖父、従って加山雄三の曾祖父であるとの噂がある(柘植久慶『日露戦争名将伝―人物で読む「激闘の軌跡」』(PHP研究所 ISBN 978-4-56-966153-7)等)。上原謙の記事中には「父親は鹿児島出身の陸軍大佐だが、上原が中学生の時に死亡する。母方の祖父は、陸軍元帥の上原...
  • 戦時国際法
    ...義務付けられ、さらに指揮系統の存在、反徒の組織性、軍事行動の時間的継続性と事実上の領域支配、という要件を満たすことができれば文民保護などの交戦法規が義務付けられる。小寺彰、岩沢雄司、森田章夫編『講義国際法』(有斐閣、2006年)468項―470項 交戦法規 陸戦法規 陸戦法規(Rules of land warfare)は陸上作戦における武力行使についての規則であり、現代では主に1977年に署名された「1949年8月12日のジュネーブ諸条約の国際的な武力紛争の犠牲者の保護に関する追加議定書」によって規定される。その内容は主に攻撃目標の選定と攻撃実行の規則でありここでいう攻撃とは攻勢作戦、防勢作戦や、その戦術行動に拘らない暴力行為をさす。第1追加議定書第49条第1項、従来の戦闘教義にも変化を促した。 攻撃目標の選定の原則は、攻撃を行う目標をどのように選定するのかについての...
  • 満州国軍
    ...。 軍制 指揮系統 各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に満州国執政(皇帝即位後は満州国皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた(溥儀は天皇同様、軍を統帥する大元帥の地位にあった)。但し、それはあくまで制度上の話である。実際の満州国の軍事権力は関東軍の支配下にあり、異動・演習の実施・装備の変更・昇格人事のいずれも、関東軍司令部の批准が必要であった。 士官以上の階級 満州国では士官以上の階級を「将」「校」「尉」に分け、さらにそれぞれを三等に分けて下記のような三等九級に分けた。 上将 - 中将 - 少将 (日本軍の将官に相当) 上校 - 中校 - 少校 (日本軍の佐官に相当) 上尉 - 中尉 - 少尉 (日本軍の尉官に相当) 満州国軍では軍官学校(日本でいう士官学校)を卒業後、まず少尉に任...
  • 憲兵 (日本軍)
    ...大臣以外の主務大臣の指揮を承るものとされた。 具体的には、憲兵は、陸軍大臣の管轄に属し主として軍事警察(軍事警察に係るものは陸軍大臣及び海軍大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり。)を掌り兼て行政警察(行政警察に係るものは内務大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり。)、司法警察(司法警察に係るものは司法大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり。)を掌るものとされた。海軍には独自の憲兵は置かれず、海軍大臣は軍事警察に係るものについては憲兵を直接指揮できるものとされた。そのため、海軍の要人警護等には陸軍の憲兵が当たった。 憲兵は武装していたが、警察比例の原則から、暴行を受けたとき・その占守する土地若しくは委託された場所又は人を防衛するに兵力を用いるほかに、他に手段がないとき又は兵力を以ってしなくては抗抵に勝つことができないときにのみ、武器を使用することができるも...
  • 枢密院
    ...政を統轄したが軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、北宋、金、南宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。 元王朝の枢密院は、行政の中書省、監察の御史台と並ぶ、1262年(中統3年)に設置された軍事を司る最高機関。名目上の長は枢密使であるが、枢密使は常に皇太子が兼職する名誉職とされたため、実務は知枢密院事が担った。 イギリス thumb|right|300px|[[1837年、即位した日に枢密院会議を開催するヴィクトリア女王。]] イギリスにおける枢密院は、イギリス国王の政治上の諮問機関で、Privy Councilの訳語である。 その前身は、ノルマン朝以来存在した、国王の政治上の諮問機関として全貴族からなる封臣会議(ほうしんかいぎ)である。14世紀末ごろリチャード2世の時代に枢密院(Privy Council)の名称で呼ばれるようになり、現在に至っている...
  • 南機関
    ...た。南機関も第15軍指揮下に移り、全員がバンコクに集結、南方企業調査会の仮面を脱ぎ捨てタイ在住のビルマ人の募兵を開始した。 12月28日、今日のミャンマー軍事政権の源流とも言うべき「ビルマ独立義勇軍」(Burma Independence Army, BIA)が宣誓式を行い、誕生を宣言した。鈴木大佐がBIA司令官となり、ビルマ名「ボーモージョー」大将を名乗った。BIAには「30人の同志」たちのほか、将校、下士官、軍属など74名の日本人も加わり、日本軍での階級とは別にBIA独自の階級を与えられた。発足時のBIAの兵力は140名、幹部は次の通りであった。 司令官 - ボーモージョー大将(鈴木大佐) 参謀長 - 村上少将(野田大尉) 高級参謀 - 面田少将(オンサン) 参謀 - 糸田中佐(ラミヤン) 参謀 - 平田中佐(オンタン) ダヴォイ兵団長 - ...
  • 台湾総督府
    ...内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝鮮総督より地位が低かった。初代総督は樺山資紀で当初は陸海軍の将官が総督を務めた。兒玉源太郎総督の下で1898年に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進し、一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという『飴と鞭』の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。 歴代台湾総督 代 氏名 身分 在職期間 1 樺山資紀かばやま すけのり 武官 1895年5月10日 - 1896年6月2日 2 桂太郎かつら たろう 1896年6月2日 - 1896年10月14日 3 乃木希典のぎ まれすけ 1896年10月14日 - 1898年2月26日 4 兒玉源太郞こだま ...
  • 長征
    ...に転進し、第二軍(総指揮官賀龍)との合流を企図した。しかし、この目論見は蒋介石も見通しており、兵力を湖南省に集中させた。蒋介石は経済基盤の強い大都市の失陥を恐れ、重点的に都市を防衛したのである。 国民党軍の動きにより再び進路を失った紅軍部隊は貴州省方面へ転進、長征途上唯一といっても良い都市・遵義に入城する。 遵義会議 (遵義会議を記した当時の文書は存在せず、また共産党からも公開されてない。以下は1949年以降共産党が出した文書を元に通説を記す。) ここまでの行軍で疲弊しきった紅軍及び党中央は遵義で10日あまりの休養を得る。この休養期間中、その後の行軍方針と戦略を決定する遵義会議が開催され、毛沢東が政治局員のリーダーに選出される。しかし、海外留学経験のない毛沢東はまだ単独で共産党を指導できる立場に無く、周恩来、王稼祥との三頭政治となった。また、瑞金第5次囲剿に際して戦略的にも戦...
  • 近衛師団
    ...宮能久親王台湾征討を指揮する。戦病死。 3明治28年11月9日野津道貫  4明治29年5月10日佐久間左馬太  5明治29年10月14日黒木為楨  6明治30年10月27日奥保鞏  7明治31年1月14日長谷川好道  8明治37年9月8日浅田信興  9明治39年7月6日大島久直  10明治41年12月21日上田有沢  11明治44年9月6日閑院宮載仁親王  12大正元年11月27日山根武亮  13大正4年2月15日秋山好古  14大正5年8月18日仁田原重行  15大正6年8月6日由比光衛  16大正7年8月9日久邇宮邦彦王  17大正8年11月25日藤井幸槌  18大正1...
  • 軍令部
    ...ら、海軍全体の作戦・指揮を統括する。 概要 長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。 軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。 設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、参謀本部での軍令部は陸軍の下に置かれた。しかし、太平洋戦争時の最高戦争指導会議では大きな発言力を持つこととなる。 沿革 1884年2月 海軍省達丙第21号により海軍省の外局組織として軍事部が設置 1886年3月 参謀本部条例改正により参謀本部海軍部が設置され、軍政と軍令が分離された。 1888年5月 海軍参謀本部となる。 1889年3月 海軍参謀部となり、再び海軍省の管轄下となる。 ...
  • ヴィシー政権
    ...大戦時にフランス軍の指揮を取ったフィリップ・ペタン元帥が高齢の身にも関わらず就任し、副首相にはピエール・ラヴァルが就任した。海外植民地及び海軍は降伏前からのものを引き続き保有した。本国の陸軍は10万人に制限されたが、マダガスカルやインドシナなどの植民地軍はこの制限の適用範囲外とされた。 新たに制定された憲法の内容は「全権力をペタン将軍に委任する」の1条のみという、かなりお粗末なもので、その後の政策はドイツの意図に沿うもののみが適用されたため、連合国側から「傀儡政権」とされ、連合国側の勝利、第四共和政の樹立とともにそのような評価が一般的となった。しかし、第四共和政以降、政治家や官僚として戦後フランスの政治を支えた人物の中には、フランソワ・ミッテランをはじめ、ヴィシー政権下でそのキャリアの最初を送った者も少なくない。 内外の反応 コラボラシオン(対独協力) 多くのフランス人...
  • 大日本帝国海軍
    ...それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。 また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。主な戦役に日清戦争の黄海海戦や日露戦争時の日本海海戦、太平洋戦争での真珠湾攻撃などがある。海上自衛隊(その前身たる海上警備隊、保安庁警備隊も含めて。)の前身とも言え、海上自衛隊自身も日本海軍の伝統を尊重する傾向がある。 英国を倣った組織であったため、ユーモアを重視し「ユーモアを解せざる者は海軍士官の資格なし」と言われていた。また、様々な国に寄港する海軍士官は外交官的役割を持つことがあるため、専用に冊子を作製しテーブルマナーなども重視していた。ドイツ帝国陸軍を規範とした陸軍と比べ、リベラルな組織であった。中曾根康弘海軍主計中...
  • 日本海海戦-2
    ...海戦 / 。 指揮統率 バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の勢いを鈍らせた。結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい ref name = 双葉社 日本海海戦 / 。 後年、東郷は緒戦でロシア艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。木村勲著 『日本海海戦とメディア...
  • 蝦夷共和国
    ...のは、旧幕府脱走軍の指揮役(士官)クラス以上であり、下士官・兵卒クラスは除外、むろん箱館住民も参加していない。明治元年(1868年)12月15日の政府誕生と同時に日本初の「入札(選挙)」がおこなわれた。 投票結果 「投票」総数856票の内訳は、以下の通りであった。 榎本武揚:156 松平太郎:120 永井尚志:116 大鳥圭介:86 松岡四郎次郎:82 土方歳三:73 松平定敬:55 春日左衛門:43 関広右衛門:38 牧野備後守:35 板倉勝静:26 小笠原長行:25 榎本道章(対馬):1 このように榎本武揚が最大投票を得た。ただし、投票数の2割以下で、圧倒的多数ではなく、各グループごとに投票は分かれている。 閣僚 この「入札」の結果を参考にして、主要閣僚は以下のように決定された。 thumb|300px|...
  • ロシア革命
    ...・ポベドノーセツは、指揮官により座礁させられた。また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。 これに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令でドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。 1906年にドゥーマが開設されると、首相に就任したストルイピンによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村というロシア社会の根幹は変化せず、さらにストルイピンの暗殺(1911年)や第一次世界大戦への参戦(1914年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。 一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、1912年にウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキとゲオルギー・プレハーノフらのメ...
  • 国定教科書
    ...て作戦命令は下され、指揮下全部隊はこれを徹底されるものであった。 関東軍前線部隊 関東軍の前線部隊においてはソ連軍の動きについて情報を得ており、第三方面軍作戦参謀の回想によれば、ソ連軍が満ソ国境三方面において兵力が拡充され、作戦準備が活発に行われていることを察知、特に東方面においては火砲少なくとも200門以上が配備されており、ソ連軍の侵攻は必至であると考えられていた。そのため8月3日に直通電話によって関東軍作戦課の作戦班長草地参謀に情勢判断を求めたところ、「関東軍においてソ連が今直ちに攻勢を取り得ない体勢にあり、参戦は9月以降になるであろうとの見解である」と回答があった。その旨は関東軍全体に明示されたが、8月9日早朝、草地参謀から「みごとに奇襲されたよ」との電話があった、と語られている。さらに第四軍司令官上村幹男中将は情勢分析に非常に熱心であり、七月ころから絶えず北および西方...
  • 疎開
    ...家) 北村協一(指揮者) 橋本實(実業家) 菊池康郎(囲碁棋士) 松浦元男(樹研工業社長) 宇井純(沖縄大学名誉教授) 奈良節雄(元バスケットボール選手) 塩瀬盛道(元プロ野球選手) 福田繁雄(グラフィックデザイナー) 本多延嘉(中核派最高指導者) 海老名香葉子(エッセイスト) 半藤末利子(随筆家) 中山忠彦(洋画家) 半藤一利(作家) 川崎洋(放送作家) 松井康成(陶芸家) マイケル・ケイン(俳優) ピーター・オトゥール(俳優) ロジャー・ムーア(俳優) 建物疎開 一般的に当時の人の多くは家屋疎開とも呼んでおり、それは空襲により火災が発生した際に重要施設への延焼を防ぐ目的で、密集した建物群一部除去し、防火地帯(防空緑地・防空空地)を作る事である。移動させるのではなく、破壊してしまう事が人の疎開と異なる。...
  • 大村益次郎
    ...戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)。諱は永敏。位階は贈従三位、後に従二位。家紋は丸に桔梗。 生涯 村医 周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市鋳銭司)に村医の村田孝益と妻うめの長男として生まれる。天保13年(1842年)、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び、翌年4月梅田の勧めで豊後国日田の広瀬淡窓の門下となり、1844年6月まで学ぶ。弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾在籍の間に長崎で1年間遊学し、その後適塾の塾頭まで進んだ。 嘉永3年(1850年)、父親に請われて帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。翌年、隣村の農家の娘琴子と結婚し...
  • 南京大虐殺
    ...を襲われる形となり、指揮命令系統に混乱を来たしたまま総退却する。11月15日 - 11月18日、南京において高級幕僚会議が行われ、トラウトマン和平調停工作の影響の考慮から、南京固守作戦の方針が決まる。11月20日蒋介石は南京防衛司令官に唐生智を任命する。同時に、重慶に遷都することを宣言し、暫定首都となる漢口に中央諸機関の移動を始める。11月下旬、南京防衛作戦のため、緊急的(場当たり的)な増兵を行なった結果、南京防衛軍の動員兵力は約10万人に達したと言われる(台湾の公刊戦史他)。12月7日、南京郊外の外囲陣地が突破される。南京は日本軍の砲撃の射程内に入り、また、空爆が激しくなってきたことから、蒋介石は南京を離れる。この後、中国軍の戦線は崩壊し続け、12月11日、蒋介石は南京固守を諦め、唐生智に撤退を命令する。一方、唐生智は死守作戦にこだわったが、12月12日夕方には撤退命令を出す。しか...
  • 野村吉三郎
    ...= 海軍大将 | 指揮 = 第三艦隊司令長官呉鎮守府司令長官横須賀鎮守府司令長官 | 部隊 = | 戦闘 = | 戦功 = | 賞罰 = 従二位勲一等旭日桐花大綬章 | 除隊後 = 学習院院長外務大臣(阿部内閣)駐米大使(日米開戦時)参議院議員(戦後) | 廟 = }} 野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、明治10年(1877年)12月16日 - 昭和39年(1964年)5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。位階勲功等は海軍大将・従二位・勲一等旭日桐花大綬章。 駐米大使として真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走した。 経歴 海軍軍人時代 明治28年(1895年)、和歌山中学校を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校...
  • 寺内正毅
    ...のため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。 閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐在武官を兼務)後、明治20年(1887年)陸軍士官学校長に就任。日清戦争では兵站の最高責任者である運輸通信長官を務めた。明治31年(1898年)教育総監、同33年(1900年)参謀次長などを勤め、第1次桂内閣(1901年6月2日 - 1905年12月21日)が成立すると陸軍大臣となり、日露戦争の勝利に貢献した。第1次西園寺内閣や第2次桂内閣(1908年7月14日 - 1911年8月25日)でも再び陸相をつとめた渡辺淳一の直木賞受賞作『光と影』は、寺内の生涯をモデルとしたとされる。。明治39年(1906年)には南満洲鉄道設立委員長・陸軍大将・子爵に相次いで任じられた。 明治42年(1909年)10月26日のハルビンにおける伊藤博文暗殺後、第2代韓国統監曾禰荒...
  • 満州事変
    ...郎大尉らが爆破工作を指揮し、河本末守中尉らが工作を実行した。第二次世界大戦後に発表された花谷の手記によると、関東軍司令官本庄繁中将、朝鮮軍司令官林銑十郎中将、参謀本部第1部長建川美次少将、参謀本部ロシア班長橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同していた。 1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、中華民国の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊された満洲事変は、第二次世界大戦前のナチ独裁のきっかけとなった1933年2月27日のドイツ帝国議会議事堂(ライヒスターク (Reichstag) 、現・ドイツ連邦議会議事堂)炎上事件(ドイツ国会議事堂放火事件)と比較されることがある。Template 要出典? /REF 。関東軍は、これを張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中華民国東北地方の占領行動に移った。 ...
  • 中華民国の歴史
    ...コミンテルンと、その指揮下にある中国共産党の指令、扇動による日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの列強諸国の領事館を襲撃する南京事件が起こる。この事件により蒋介石は共産勢力を敵視するようになり、1927年 4月国共合作を解消すると、上海、武漢などの各地方で国民党内部から共産党を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。この際、北伐は一時停滞、国民政府は蒋介石の南京国民政府(1927年4月18日)と、これに反対する汪兆銘等の「武漢国民政府」に分裂する。 しかし、劣勢な武漢国民政府は数カ月後の1927年8月19日には南京国民政府に合流することになり、結果、南京国民政府を主導する蒋介石の権力はより一層強固なものとなった。1928年4月8日に、北伐が再開される。北伐におされ、北京から撤退した北方軍閥の張作霖が、6月4日に日本軍(関東軍)によって爆殺された(張作霖爆...
  • 兒玉源太郎
    ...、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という日本側にとって圧倒的不利を覆し、日本を勝利に導いた戦略家の1人とて有名である。 兒玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く家庭を大事にし友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見られるような相手を見下したり、我を張り通すといった面はなく、内省的に己を見つめ、諧謔の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。また、彼は己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木希典...
  • 百人斬り競争
    ...ある。当時の日本刀は指揮官用の指揮刀としての性格が強く、人を一人斬っただけでも刃がガタガタになってしまうものもあったが、軍刀は将校の通常装備品として多数戦場に存在し、「百人斬り」に必要な本数を調達するのは困難ではなかったとも言われている。しかし、わざわざ「百人斬り」の為に必要な本数を調達する事は現実問題としてありえないとも言われている。 この他に、百人斬り競争の存在を否定する根拠、肯定する根拠は以下の通りとなっている。 否定する根拠 当時向井少尉は手足を負傷しており、百人斬り競争に参加することは不可能であったという証言がある。 銃器が発達した近代の陸上戦闘では、白兵戦における個人の戦果を競うという概念はない。 向井少尉は砲兵隊の小隊長であり、野田少尉は大隊の副官であった。両者とも所属が異なり、最前線で積極的に白兵戦に参加する兵科ではない。さらに、兵科の違う二人が、相談し...
  • 内閣総理大臣
    ...あり、これによって「指揮」される参議と各省の卿には輔弼責任がない、また太政大臣が極度に多忙なかたわら左右大臣の職責は不明瞭という、迂遠かつ非効率なものであった。 1880年 (明治13年) ごろから参議伊藤博文はこの太政官制の改革を試みはじめたが、これに対して保守派の右大臣岩倉具視が反発した。当時の伊藤には岩倉に対抗するだけの政治力が無かった(明治14年の政変による大隈重信追放が岩倉が宮中を動かして進められたために、伊藤も岩倉との衝突によって「第二の大隈」になる可能性があった)。そのため、伊藤は一旦この提案を引き下げて1882年 (明治15年) 3月から伊東巳代治、西園寺公望らとともに渡欧し、ドイツ、オーストリア、イギリスなどで憲法を含む立憲体制の調査に当たったが、この時から「文明諸国と同等の政府」の骨格が具体的に構築されていく。そして、岩倉の死後に帰国した伊藤はドイツで研究した立...
  • 壬午事変
    ...び仁礼景範海軍少将の指揮する、軍艦4隻、歩兵第11連隊の1個歩兵大隊及び海軍陸戦隊を伴わせ、朝鮮に派遣する。 日本側は当初、朝鮮政府による謝罪と遺族への扶助料、犯人の処罰、巨済島または鬱陵島の割譲を要求したが、清国軍とアメリカの軍艦派遣による牽制のため、領土の割譲は諦めTemplate 要出典? ref name= uso 韓国のWEBには同様な記述があるが、外交資料には一切の記述はない。レフェリーのある学術研究誌または一次資料での出典を求む。交渉を終え日本と朝鮮は済物浦条約を結び、日本軍による日本公使館の警備を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった。 このことは、朝鮮は清の冊封国であるという姿勢の清を牽制する意味もあった。こうして、朝鮮半島で対峙した日清両軍の軍事衝突を避けることができたが、朝鮮への影響力を確保したい日本と、冊封体制を維持したい清との対立が高まることになり...
  • 奉直戦争
    ...5個旅団約10万人を指揮し、涿州に駐屯し、馮玉祥率いる第11師団は瑠璃河、良郷に軍を進め、4月28日は馬厰(左翼)、長辛店(右翼)、霸県(主翼)に軍隊を展開した(固安の戦い、永清の戦い、長辛店の戦い)。激戦の中、両軍の勝敗はつかなかったが、呉佩孚は迂回して奉天派軍の後方に奇襲をかけた。奉天派軍は前後から敵の攻撃を受け、全軍崩壊した。5月4日、直隷派は長辛店、永清、静海を占領した。そこで孫文は北伐をやめ、広州に引き返した。直隷派が最終的に勝利し、張作霖は山海関の外に退却し、秦皇島で直隷派海軍の攻撃を受けた。6月、張作霖は東北保安総司令を自任し、「自治」を宣言、海軍と空軍の育成ならびに軍隊の訓練に励んだ。外国の宣教師の調停により秦皇島にあった英国艦上で、双方は停戦した。呉佩孚は徐世昌に引退を迫り、曹錕は1923年10月賄賂を使い、総統に当選した。 第二次奉直戦争 第一次奉直戦争が...
  • 小磯國昭
    ...の2人に絞られ、前線指揮官の寺内は動かせないということで、朝鮮総督だった小磯に落ち着いた。重臣達は東条内閣を倒すことのみに目が向いて後任として誰を擁立するかを考えていなかったとされる。 昭和天皇は『昭和天皇独白録』において、「小磯は三月事件(1931年/昭和6年 3月に発覚した、大日本帝国陸軍によるクーデター未遂事件)にも関係があったと云われてゐるし、又神がヽりの傾向もあり、且経済の事も知らない」と述懐している。首相になった時には、予備役にまわされてから7年も経っており、「日本はこんなに負けているのか」と発言するほど、非常に戦況には疎かった。また、予備役のまま組閣した事から、規則で戦局を検討する大本営の会議にも出席させてもらえないという有様だった。軍部だけではなく、近衛文麿・木戸幸一の両名も小磯への不信感は強く、近衛の発案で小磯と元首相で海軍の重鎮米内光政の二人に「協力...
  • ノモンハン事件
    ...2082人であった。指揮は歩兵第64連隊長山県武光大佐がとり、山県支隊と呼ばれた。 ソ連軍も部隊を送り込み、25日にハルハ川東岸に入った。その兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊と偵察中隊からなり、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6装甲車16両を持ち、兵力約1200人であった。これにモンゴル軍第6騎兵師団の約250人をあわせ、ソ連・モンゴル軍の総兵力は約1450人、装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲6門であった。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。ソ連軍の指揮官は機械化狙撃大隊長のブイコフ大佐で、歩兵の3個中隊のうち第2中隊を北に、第3中隊を南に置き、正面の東をモンゴル軍に守らせて、半円形に突出する防衛線を作った。西岸には第1中隊を控えさせ、砲兵を配した。 山県はソ連軍が刻々増強されつつあることを知っていたが、敵兵力を...
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