chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「支那駐屯歩兵第3連隊」で検索した結果

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  • 支那駐屯軍
    ...38年)3月12日に支那駐屯歩兵第3連隊が増加され支那駐屯兵団と改称、6月21日に第27師団に改編された。。 軍概要 歴代司令官 清国駐屯隊司令官 (兼)山口素臣 中将 明治33年(1900年)10月2日 - 明治34年(1901年)6月1日 清国駐屯軍司令官 大島久直 中将 明治34年(1901年)6月1日 - 明治34年(1901年)7月4日 山根武亮 少将 明治34年(1901年)7月4日 - 明治34年(1901年)10月 秋山好古 大佐 明治34年(1901年)10月25日 - 明治36年(1903年)4月2日 仙波太郎 大佐 明治36年(1903年)4月2日 - 明治38年(1905年)6月25日 神尾光臣 少将 明治38年(1905年)6月25日 - 明治39年(1906年)11月27日 中村愛三 少将 明治39年(1906年)11月2...
  • 梅津美治郎
    Template Infobox 軍人? 梅津 美治郎(うめづ よしじろう、1882年(明治15年)1月4日 - 1949年(昭和24年)1月8日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。通称「無言の将軍」。 東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。Template 和暦?に靖国神社に合祀される。 経歴 大分県中津市出身。中学済々黌出身。関東軍総司令官、参謀総長などを務める。 誕生日は軍人勅諭が発布された日である。 陸士、陸大ともトップの成績で卒業した秀才である梅津は、学究肌の軍人と呼ばれ、政治の表舞台に出ることを避け続けていたという。その梅津の生涯で最も歴史に残る有名な事件は、支那駐屯軍司令官時代のTemplate 和暦?6月に日中間で結ばれた「梅津・何応欽協定」である。当時、華北で相次いだ反日テロが国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、 河北省内の国民党支部をすべて...
  • 牟田口廉也
    牟田口 廉也(むたぐち れんや、明治21年(1888年)10月7日 - 昭和41年(1966年)8月2日)は、佐賀県出身の陸軍軍人。陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒。 盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開始時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮する。最終階級は中将。今日における評価は非常に低い。木村兵太郎や富永恭次と同じく東条英機に重用され、いわゆる三奸四愚と並んで東条の腹心の部下の一人であったが、インパール作戦における様々な行動は批判されることが多い。 また、当時の大日本帝国陸軍の将官の評価の際にはその全体的なレベルの低さを象徴する人物として、杉山元、富永恭次等と共に真っ先に名前が挙がることの多い人物である。 人物 少佐時代にカムチャッカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。昭和12年(1937年)盧溝橋事件で中国側への攻撃を「支那軍カ...
  • 永田鉄山
    Template Infobox 軍人? 永田 鉄山(ながた てつざん、1884年1月14日 - 1935年8月12日)は、日本の陸軍軍人。統制派の中心人物。陸軍省軍務局長、参謀本部第2部長、歩兵第1旅団長を歴任し、階級は陸軍中将に至る。追贈であるが、正四位勲一等に叙され瑞宝章を受けている。 略歴・人物 長野県諏訪郡上諏訪町本町出身。陸軍幼年学校、陸軍士官学校をいずれも首席、陸軍大学校も2位で卒業する秀才ぶりで、軍務官僚として常に本流を歩み、「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と評される人物だったが、陸軍内部の派閥抗争に絡んで陸軍中佐相沢三郎に暗殺される。皇道派の領袖、陸軍大将真崎甚三郎を教育総監の要職から更迭したことが暗殺の引き金となっている。死亡当時、陸軍省軍務局長で階級は陸軍少将。 郡立高島病院長永田志解理の子として生まれ、高島尋常小学校・諏訪高等小学校(現諏訪市立高島小...
  • 盧溝橋事件
    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 事件の経緯 7月7日 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) 7月8日 現地の動き 3時25分:...
  • 二・二六事件
    二・二六事件(ににろくじけん、にてんにろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日-29日に、日本において、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした未曾有のクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。 事件概要 大日本帝国陸軍の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し腐敗が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下1936年(昭和11年)2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの部隊を指揮して 岡田啓介(内閣総理大臣) 鈴木貫太郎(侍従長) 斎藤実(内大臣) 高...
  • 近衛師団
    Template 軍隊資料? 近衛師団(このえしだん)とは、日本陸軍に置かれた師団の一つ。 なお、イギリス陸軍等でも禁闕守護を任務とする師団を「近衛師団」と呼称する。日本以外の近衛師団については近衛兵を参照のこと。 時代により変遷があるが、近衛歩兵第一、第二、第三旅団が基幹となりその他騎兵、砲兵、工兵等各種兵科による部隊が置かれていた。 沿革 最初期 Template 日本陸軍? 江戸幕府を倒し、明治新政府が樹立された当初、明治政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。 そのため1871年(明治4年)、明治政府は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設した。この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。 この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • 青島の戦い
    青島の戦い(ちんたおのたたかい, Battle of Tsingtao, 1914年10月31日 - 11月7日)は、第一次世界大戦中のTemplate 和暦?に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した戦闘である。 概要 1897年、ドイツは青島を含む膠州湾一帯を当時の中国政府から租借、湾口の青島に要塞を建設、ドイツ東洋艦隊 (de) を配備した。 1914年の第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告し青島の攻略に乗り出した。マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊は開戦後すぐに港内封鎖を恐れ、ドイツ本国へ向かったがフォークランド沖海戦で壊滅した。青島には駆逐艦「タークー」と「S90」が残り、S90 は10月18日0時、雷撃により日本海軍の防護巡洋艦「高千穂」を撃沈している。 1914年10月31日、神尾光臣大将指揮する第18師団(約29,0...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • 板垣征四郎
    Template Infobox 軍人? 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、明治18年(1885年)1月21日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人である。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 敗戦後、東京裁判にて死刑判決を受ける。現在は靖国神社に合祀されている。 元参議院議員の板垣正は次男。 生涯 出自 岩手県盛岡市出身。盛岡中学、仙台の陸軍幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人...
  • マレー作戦
    Template Battlebox? マレー作戦(まれーさくせん, Battle of Malaya, 日本側作戦名「E作戦」)は、大東亜戦争(太平洋戦争)序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。 1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホールバル市に突入した。これは戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。 背景 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時における日本軍の戦略目標はオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールは戦艦プリンス・オブ・ウェールズと...
  • 旅順攻囲戦
    Template Battlebox? 旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, Siege of Port Arthur, 1904年8月19日 - 1905年1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。 背景 日本が日露戦争に勝利するためには、朝鮮半島周辺海域の制海権を抑えることが必須であった。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。 ...
  • 教育総監
    教育総監(きょういくそうかん)は、日本陸軍の教育を掌る役職で、その事務は教育総監部が行った。 概要 教育総監及び総監部は、明治20年5月31日に監軍部条例(明治20年勅令第18号)によって設置された監軍(事務は監軍部)が前身で、1898年(明治31年)1月20日に教育総監部条例(明治31年勅令第7号)により設置された、陸軍における教育統轄機関であり、所轄学校や陸軍将校の試験、全部隊の教育を掌った。ただし、航空に関しては航空総監部が教育の大半を行い、参謀の養成は参謀本部が管掌した。 総監は陸軍中将以上をもって補職した。陸軍大臣・参謀総長と総称して陸軍三長官と呼ばれた。 教育総監の発言は重視され、渡辺錠太郎大将は、天皇機関説に理解を示す発言をしたこと、及び皇道派将校の信奉する真崎甚三郎大将の後任として教育総監に就任したことから、皇道派による襲撃の対象となり、渡辺総監は在職中に二・二六事...
  • 日中戦争
    日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である1931年(昭和6年)の満洲事変を起点として「日中十五年戦争」ととらえる見方もある。。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)。また英語では、Second Sino-Japanese Warと表記するFirst Sino-Japanese Warは日清戦争。。 Template Main2? 「戦争」か「事変」か 日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が...
  • 真崎甚三郎
    Template Infobox 軍人? 眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、明治9年(1876年)11月27日 - 昭和31年(1956年)8月31日)は、日本の軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。 来歴・人物 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)から1895年12月、士官候補生を経て、1896年9月、陸軍士官学校へ。陸士第9期卒後日露戦争に従軍。 陸軍大学校第19期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。 久留米俘虜収容所長2006年公開の映画「バルトの楽園」で板東英二が演じた久留米俘虜収容所長は真崎がモデルとみられる。、陸軍大佐、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、陸軍少将、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、陸軍中将、第8師団長、1929年7...
  • 華北分離工作
    華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が...
  • 渡辺錠太郎
    渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。 家族 愛知県の出身。煙草店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も陸士20期卒で陸軍少佐になっている。子息の恭二は陸士57期の陸軍中尉。 次女にノートルダム清心学園理事長で修道女の渡辺和子がいる。二・二六事件に際して、父の殺害を目撃した。 教育総監への就任 1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。 翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選...
  • 松井石根
    Template Infobox 軍人? 松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将。正三位勲一等功一級。ポツダム宣言受諾後、南京大虐殺の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項で有罪となったため、実際にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという認識が浸透している。)を受け、処刑された。現在は靖国神社に...
  • 大韓帝国軍
    大韓帝国軍(だいかんていこくぐん)は大韓帝国の国軍である。皇帝の統帥権の下に置かれた。 概要 大韓帝国の基本法典である「大韓国国制」第5条によると「大韓国大皇帝におかれては、国内陸海軍を統率し、編制を定め、戒厳解戒を命ずる。」とし、大日本帝国軍に倣った国軍を編成することになっていた。しかし日本軍とは異なり、徴兵制度を採用せず、李氏朝鮮時代以来の志願兵制を採用していた。法制上の兵力は約9000人であった。 1907年(光武11年)7月24日に結ばれた第三次日韓協約に伴う秘密協定により、同年8月1日に国軍としての大韓帝国軍は解散され、皇帝を護衛する小規模な近衛兵としての「近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊」に再編成された。これを不満とする元将兵の一部は、武力による抗日運動である義兵闘争に参加した。 なお、後身である近衛騎兵隊及び近衛歩兵隊は日韓併合後も「朝鮮騎兵隊」「朝鮮歩兵隊」として存続してい...
  • 小磯國昭
    Template 日本の内閣総理大臣? 小磯 國昭(こいそ くにあき、「國」は「国」の正字体、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の第41代内閣総理大臣。陸軍大将、従二位、勲一等、功二級。 経歴 栃木県宇都宮に山形県士族で警察署警部・小磯進の長男として生まれる。山形県中学校・陸軍士官学校(12期)・陸軍大学校(22期)卒業。陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・朝鮮総督などを歴任。 朝鮮軍司令官時代に、大命が降下された宇垣一成から陸相入閣要請があった。この要請は軍部大臣現役武官制のため、陸軍が陸相候補を擁立拒否をしたため、現役武官だった小磯を入閣させて、宇垣内閣を発足させることを意図したものであった。結局、小磯は入閣しなかったため、宇垣内閣は組閣流産となった。 1922年(大正11年)の欧州航空兵力視察の経験から、空軍力の...
  • ノモンハン事件
    Template Coor title d? Template Battlebox? ノモンハン事件(のもんはんじけん)は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。 概要 満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件、出来事」と呼び、モンゴル人民共和国のみが「ハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)」と称している。 この衝突に対して日本・満洲側が冠して...
  • 辻政信
    thumb|250px|出身地[[東谷奥村の中心であった加賀市山中温泉荒谷町入り口に建つ「辻政信之碑」]] 辻 政信(つじ まさのぶ、1902年10月11日 - 1961年?)は、日本の陸軍軍人、陸軍大佐、政治家。1952年から衆議院議員を四期、参議院議員を一期務めた。 辻を巡っては、“作戦の神様”と謳われ、マレー作戦等の辣腕振りが評価される一方、陸軍士官学校事件、ノモンハン事件、シンガポール華僑虐殺事件、バターン死の行進などにおける責任を追及する意見もある。またポートモレスビー攻略作戦やガダルカナル島の戦いにおける日本軍の敗戦は、辻が独断で拙劣な作戦指揮をした結果であるといわれる。毀誉褒貶両極端の評価を受けているが、GHQでは「第三次世界大戦さえ起こしかねない男」とされた(後述)。 1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20...
  • 沖縄戦
    {{Battlebox |battle_name=沖縄戦 | campaign=沖縄戦 | image= | caption=沖縄南部を占領した米軍 | conflict=第二次世界大戦(太平洋戦争) | date=1945年3月26日-6月23日 | place=沖縄本島および周辺島嶼、海域 | result=アメリカ軍の勝利 | combatant1=Template flagicon?大日本帝国 | combatant2= アメリカ合衆国 オーストラリア カナダ ニュージーランド イギリス | commander1=Template flagicon?牛島満陸軍中将Template flagicon?長勇陸軍中将Template flagicon?大田実海軍少将 | comm...
  • 鈴木貞一
    Template 基礎情報 軍人? 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年12月16日 - 1989年7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東条英機側近三奸の一人とされる。 略歴 千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年に陸軍士官学校(22期)、1917年に陸軍大学校(29期)を卒業。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在。 1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。 鈴木は前述の通り、...
  • 荒木貞夫
    Template Infobox 軍人? 荒木 貞夫(あらき さだお、1877年5月26日 - 1966年11月2日)は大正~昭和の陸軍大将、第一次近衛内閣、平沼内閣の文部大臣。皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。 来歴・人物 東京都狛江市出身。小学校校長で、旧一橋家家臣だった荒木貞之助の長男として生まれる。誕生日は木戸孝允の命日でもある。日本中学中退を経て、1897年11月陸軍士官学校卒業。1907年11月陸軍大学校を首席で卒業。 第一次世界大戦中はロシア従軍武官。シベリア出兵では特務機関長にて参加。その後、憲兵司令官等を歴任。 1931年より犬養毅・斎藤実内閣陸相。1934年、軍事参議官。1935年、男爵。1936年、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。 1938年~1939年、第1次近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣文相として国民...
  • 石原莞爾
    Template Infobox 軍人? 石原 莞爾(いしわら かんじ読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』(日本経済新聞社 ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」とルビが振られている。、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人、満州派の領袖。立命館大学国防学研究所長(1941-42年)。通称「帝国陸軍の異端児」。 軍歴は関東軍作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長兼駐満州国武官、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、最終階級は陸軍中将。 生涯 幼少年時代 明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原...
  • 武藤章
    Template Infobox 軍人? 武藤 章(むとう あきら、Template 和暦?12月15日 - Template 和暦?12月23日)は、昭和の軍人、陸軍中将。東京裁判で唯一中将として絞首刑判決を受けた。 生涯 熊本県出身。済々黌中学を経て、Template 和暦?陸軍士官学校(25期)を卒業。富永恭次・佐藤幸徳・山内正文・田中新一・山崎保代らが同期。 Template 和暦?陸軍大学校(32期)卒業。冨永信政、青木重誠、酒井康、中村正雄、酒井直次、西村琢磨、橋本欣五郎らが同期。 Template 和暦?、盧溝橋事件に際して参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として赴いた。 Template 和暦?に陸軍省軍務局長、Template 和暦?に近衛第2師団長(スマトラ・メダン)、Template 和暦?に第14方面軍(フィ...
  • 徐州会戦
    Template Battlebox? 徐州会戦(じょしゅうかいせん)は、日中戦争中の1938年3月15日から5月19日に発生した日本軍と中国国民軍と大規模な戦闘である。日本側は北支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。 背景 1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、北京と南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。 台児荘 1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天...
  • 八甲田雪中行軍遭難事件
    thumb|right|200px|後藤房之助伍長の像]の台座にある文面 八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、Template 和暦?1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡する、日本の冬山登山史上もっとも多くの遭難者が発生する事件となった。 事件の背景 事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としてすすめていたことが挙げられる。日本陸軍はTemplate 和暦?の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。こうした想定は、事件から2年後のTemplate 和暦?に日露戦争として現実のものとなった。 この演習の目的は、ロシア海軍の艦隊が津軽海峡(北海道と青森との間)に入り、青森の海岸沿いの列車が動かなくな...
  • 阿南惟幾
    Template Infobox 軍人? 阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年2月21日 - 1945年8月15日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大将、終戦時の陸軍大臣。 人物・経歴 陸軍大臣に上り詰めた逸材だが、異才の多い帝国陸軍にあってはごく平均的な軍務官僚で、実戦においても目立った実績を上げたわけではない。しかし誠実な人柄で人望が厚く、様々に解釈される後述の終戦時のエピソードも相まって評伝が数多く著されるなど、今日でも人気の高い人物である。 大分県竹田市出身。終戦時の鈴木貫太郎総理大臣とは、二・二六事件当時、侍従長と侍従武官の関係だった。 太平洋戦争末期、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱えるが、昭和天皇の終戦の意志が固いことを知り、最終的には終戦に同意。軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙妄動を戒めながら、8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に...
  • 南京大虐殺
    南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都 南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。 中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。 なお、この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている(南京大虐殺論争を参照)。 事件の概要 南京攻略戦 1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地...
  • 中支那方面軍
    Template 軍隊資料? 中支那方面軍(なかシナほうめんぐん)は、大日本帝国陸軍の方面軍の一つ。 沿革 1937年(昭和12年)、盧溝橋事件後の緊張の中、張治中により起されたと言われるユン・チアン、ジョン・ハリディ共著『マオ 誰も知らなかった毛沢東(上)』土屋京子訳、講談社、2005年、341-342頁第二次上海事変を受けて、上海派遣軍・第10軍が在留邦人保護のため相次いで派遣された。参謀本部は不拡大の方針であったが戦闘は継続され、戦域が内陸部に拡大していった。 その結果、中支那方面軍は、新たにこの地域を管轄する上級司令部として11月7日に編成開始、司令官には上海派遣軍司令官松井石根大将が着任した。その作戦地域は蘇州と嘉興を結ぶ線から東と限定された。しかし、11月19日には独断でこれを越え無錫と湖州の攻撃を準備し ref name=NSS417 『南京戦史資料集』偕行社、1...
  • 南京攻略戦
    Template Battlebox? 南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争中の戦い。日本軍は、中華民国の首都南京を陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰, Template Lang?である。 背景 第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、上海付近の敵を掃討し中国側の戦意を喪失させ、事変終結をねらう目的で11月7日に中支那方面軍を編成、上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。11月16日、国民政府は重慶に遷都を宣言。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。11月24日、大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。 経過 11月7日「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合の下令が出され、作戦地域は蘇州から嘉興を結ぶ線の東側に限定される。 11月9日上海戦線の中国...
  • 阿部信行
    Template 日本の内閣総理大臣? 阿部 信行(あべ のぶゆき、明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日)は日本の陸軍軍人、政治家。第36代内閣総理大臣。 人物 石川県金沢市に旧金沢藩士の子としてうまれる。東京府尋常中学(のち東京府立一中)を経て、第四高等学校在学時に日清戦争があり、軍人志望に転換、四高を中退し、陸軍士官学校へ。陸士9期生、陸軍大学校19期生。1930年12月22日に第4師団長となる。1933年、軍事参議官。1936年、二・二六事件後の粛軍の結果、陸軍大将を最後に予備役編入。 1939年8月30日に内閣総理大臣に就任した。参謀本部軍務課長・有末精三が内閣成立に暗躍したともいわれる。また同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれた。当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した...
  • 百人斬り競争
    百人斬り競争(ひゃくにんぎりきょうそう)とは、日中戦争初期の南京攻略戦時に、日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる競争である。この模様は、当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞において報道されたが、この行為が事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争となり、訴訟問題としても発展している。 概要 この競争の模様は、大阪毎日新聞と1937年11月30日付けと12月13日付けの東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって報道された。その報道によると、日本軍が南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)のどちらが早く100人を斬るか競争を行っていると報じた。 1937年11月30日付けの東京日日新聞記事では、無錫-常州間で向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬ったと報じ...
  • 何応欽
    何応欽(かおうきん、1890年4月2日 - 1987年9月21日)は中華民国の軍人。字は敬之。 貴州省興義に生まれる。 貴州陸軍小学・武昌陸軍中学を卒業した後、1908年、日本に留学し陸軍士官学校に22期生として入学。同期に牟田口廉也、鈴木貞一、相沢三郎がいる。ちなみに蒋介石は前年に陸軍士官学校に21期生として入学している。1909年、中国同盟会に加盟。1916年に帰国し、貴州第一師歩兵第四団団長・貴州陸軍混成旅旅長などを務めた。 1924年、孫文の広東軍政府に参加。軍校教練部主任・大本営軍事参謀。国民革命軍第一軍軍長に任命される。1926年、北伐参加。国民革命軍東路総指揮・参謀長など歴任。「蒋介石の片腕」と評される存在になる。1927年に南京国民政府が成立すると、第一路軍総指揮、翌年には総司令部参謀長となった。1933年に北平に赴任し、国民党軍事委員会北平分会会長に任ぜられ塘沽協定...
  • 田中隆吉
    Template Infobox 軍人? 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、陸軍少将。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、東京裁判において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 略歴 1893年(明治26年) - 島根県安来市の商家に生まれる。島根県立松江中学校へ進む。 1907年(明治40年) - 陸軍広島地方幼年学校入学。 1910年(明治43年) - 陸軍中央幼年学校入学。 1913年(大正2年)3月 - 陸軍士官学校砲兵科卒業(26...
  • 尼港事件
    尼港事件(にこうじけん、Nikolayevsk Incident)は、シベリア出兵中の1920年(大正9)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる露中共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の大日本帝国陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民が無差別に虐殺された事件。 パルチザンに対して一旦休戦した後、パルチザンが騙し討ちをし、大日本帝国陸軍側が反撃するも敗北。生き残った日本人は軍人であるか民間人であるかを問わず捕虜とされた。そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送るやパルチザンは全ての捕虜を殺害した上で逃亡した。また、日本人以外の市民も殺害した上、町を焼き払った。 のちにこのパルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑に処せられることとなった...
  • 亀戸事件
    亀戸事件(かめいどじけん)とは、1923年9月3日、関東大震災直後の混乱の中で、東京府南葛飾郡亀戸町(現・東京都江東区亀戸)で、社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、同月4日~5日に習志野騎兵第13連隊によって刺殺された事件。また、同月4日に警察に反抗的な自警団員4名が軍により殺された事件を「第一次亀戸事件」と呼び、この事件の被害者に加えることもある。 この事件の事実は発生から1ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められた。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団、南葛飾労働会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付されたのである。 震災時にはこの外、無政府主義者の大杉栄夫妻が殺害された甘粕事件が起こった。 また軍隊・憲兵隊によって人々の不安が...
  • 日本軍
    日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。 組織 以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。 天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防...
  • 宮城事件
    宮城事件(きゅうじょうじけん)とは、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。 日本の降伏時期を遷延しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城を「占拠」した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自決し、日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。 背景 ポツダム宣言の受諾決定 太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて日本の敗戦が既に決定的となっていた1945年8月上旬、6日の広島への原爆投下、9日未明のソ連対日参戦、同日の長崎への原爆投下を受けて、政府内部ではポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。 9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議において、鈴木貫太郎首相はじめ米内光政海軍大臣及び東郷茂...
  • 林銑十郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、明治9年(1876年)2月23日 - 昭和18年(1943年)2月4日))は、日本の陸軍軍人、政治家。第33代内閣総理大臣。陸軍大将、正二位、勲一等、功四級。 略歴 石川県金沢市に士族(旧加賀藩士)の子として生まれる。金沢市尋常師範附属小学校を経て、1894(明治27)年7月、日清戦争が勃発すると、四高補充科を中退し、士官候補生となり陸軍士官学校に入校。1897年(明治30年)6月28日、少尉任官、歩兵第7連隊付、1903(明治36)年、陸軍大学校を卒業。 1905(明治38)年に勃発した日露戦争に従軍し、旅順攻撃に参加。以後、陸軍大学校校長、近衛師団長、朝鮮軍司令官、陸軍大将と進み、斎藤実、岡田啓介内閣で陸軍大臣を務める。1937年(昭和12年)内閣総理大臣。 越境将軍 Templa...
  • 国定教科書
    Template Battlebox? ソ連対日参戦(ソれんたいにちさんせん)とは、当時の満州国において、1945年8月9日深夜から開始された、大日本帝国の関東軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と、大日本帝国の第五方面軍とソビエト連邦の極東ソビエト連邦軍との間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦闘、ソ連軍が圧勝した。 名称 日本の防衛省防衛研究所戦史部ではこの一連の戦闘を「対ソ防衛戦」と呼んでいるが、ソ連では主戦場が満州であったこともあり、「8月の嵐作戦」、「ソ日戦争」または「満州の戦い」と呼ばれることが多い。ここでは日本の歴史教科書でも一般的に用いられている「ソ連対日参戦」を使用する。 背景 19世紀のロシア帝国の時代から日本は対露(対ソ)の軍事的な対決を予想し、その準備を進めてきた。ロシア革命後もソ連は...
  • 沖縄戦-2
    前半は、沖縄戦参照 戦闘推移 事前攻撃 thumb|right|180px|[[1945年、沖縄戦に参加するため、日本各地から集結した平均年齢17歳の特攻隊員達(陸海軍計2500機の特攻機が投入された)]] アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。 沖縄本島への侵攻作戦の可能性が高いと判断した大本営は、3月20日に天号作戦を下令した。現地の第32軍も2...
  • 張鼓峰事件
    Template Battlebox? 張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)は1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。ソ連側は、これをハサン湖事件(ハーサン湖事件)と呼んだ。 背景 張鼓峰は満州領が朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、日本側は張鼓峰頂上一帯は満洲領であるとの見解であった。いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。 戦闘の経過 1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が進軍し、兵力は次第に増強された。朝鮮軍第19師団がこれを撃退したところ、8月6日になってソ連軍大部隊は張鼓峰頂上付近に総攻撃を開始した。...
  • 支那事変
    支那事変(しなじへん)は、日中戦争の呼称として、大日本帝国政府が定めた公称昭和12年9月2日閣議決定、事変呼称ニ関スル件「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」である。 当項目では「支那事変」という呼称に関する問題について述べる。Template main2? 概要 事変は、昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大し、部隊衝突は8月の第二次上海事変勃発により中支(中支那)へ飛び火、やがて中国大陸全土へと飛散して行き、大日本帝国と中華民国とは次第に戦争の様相を呈していった。しかし昭和16年(1941年)12月までの間は、双方が宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本...
  • 乃木希典
    Template Infobox 軍人? 乃木 希典(のぎ まれすけ、1849年12月25日(嘉永2年11月11日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士・長府藩士、軍人。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。贈正二位(1916年)。 「乃木大将」、「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い。 東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な古武士のような生活を旨とするようになったという。 乃木は他の将官と違い省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを軍司令官として過した。 また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は、当時の日本国民に多大な衝撃を与えた。 山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃...
  • 上海派遣軍
    Template 軍隊資料? 上海派遣軍(しゃんはいはけんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。 沿革 盧溝橋事件から飛び火し第二次上海事変が発生したため、上海の在留邦人保護のために上海派遣軍が編成された。よって当初は戦闘序列は発令されず天皇直隷であった。 その後、参謀本部の不拡大方針を押し切り、南京方面への進撃に伴い、1937年(昭和12年)12月1日に新たに編成された中支那方面軍戦闘序列に編入、翌1938年(昭和13年)2月14日に廃止された。 軍概要 Template 日本陸軍? 通称号:無し 編成時期:1937年(昭和12年)8月15日 廃止時期:1938年(昭和13年)2月14日 廃止時の上級部隊:中支那方面軍 最終位置:南京 司令官 松井石根 大将:1937年8月15日 - 朝香宮鳩彦王 中将:1937年12月2日 - 19...
  • 南機関
    Template 日本陸軍? 南機関(みなみきかん)は、1941年から1942年にかけて存在した日本軍の特務機関の1つ。 機関長は鈴木敬司陸軍大佐。ビルマ(現在のミャンマー)の独立運動の支援を任務とし、ビルマ独立義勇軍の誕生に貢献した。その後ビルマ軍政の方針をめぐって軍中央と対立し、消滅させられた。だが南機関は、今日の日本とミャンマーとの友好関係の基礎を築いたとも評価される。 背景 thumb|right|220px|ビルマ([[ミャンマー)全図]] イギリスのビルマ統治 ビルマ(現在のミャンマー)は、1824年に始まった英緬戦争の結果、1886年にイギリス領インド帝国の一州に編入された。イギリスは治安維持の観点からビルマ軍を編成したが、ビルマ族の青年は征服者に協力することを潔しとしなかった。ビルマの人口は1941年の国勢調査によれば1,600万人、民族別ではモンゴル系...
  • @wiki全体から「支那駐屯歩兵第3連隊」で調べる

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