chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「政治団体」で検索した結果

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  • 立志社 (政治団体)
    立志社(りっししゃ)は、自由民権運動の中心となった高知県の政治団体。1874年に板垣退助・片岡健吉・植木枝盛・林有造らにより設立された。人民主権・一院制議会・周到な人権保障など民主主義の理念に貫かれた立志社憲法見込案を発表するなど国会期成同盟の中心的役割を果たした。『海南新誌』『土陽雑誌』『土陽新聞』を発行し、また立志学舎で近代的な教育を行うなど民権思想の普及に努めた。1883年に解散。 関連項目 立志社の獄 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月19日 (木) 12 18。     
  • 東方会
    ...た日本の思想団体及び政治団体。 概要 元来、1917年に中野が東則正の『東方時論』に招かれたのを機に開かれた勉強会の名称であった。当時は小村欣一・荒木貞夫・林銑十郎・金子直吉・吉野作造・内藤湖南などが会員として名を連ねていた。後に中野の政界転出などで自然消滅するが、1933年に中野の手によって同名の新たな勉強会・思想団体として再建された。 立憲民政党を離党し国民同盟を結成していた中野正剛は、1935年(昭和10年)、国家社会主義化していった国民同盟を離脱。翌1936年(昭和11年)5月、「内なる民主主義、外なる民族主義」を標榜した思想団体だった東方会を政治団体とした。 1939年(昭和14年)、社会大衆党の麻生久らと東方会と社会大衆党の合同を画策するも失敗。社会大衆党は翌1940年(昭和15年)に解党した。 1940年(昭和15年)10月12日、国民の統制や強大な政治体...
  • 大日本生産党
    ...「国粋ファシスト」の政治団体。 概要 当初は黒龍会大阪支部長の吉田益三が提唱し、玄洋社系の内田良平の賛同を得て大阪中央公会堂において結成された。その後、1931年(昭和6年)11月20日、玄洋社系の頭山満・内田良平等の黒龍会の主な構成員、日本国民党、津久井龍雄の急進愛国党などが合同し東京の赤坂の「三会堂」において結党式を行った。約1500名が参集した。本部は当時の東京市麹町区永田町に置かれた。1932年(昭和7年)1月には愛国急進党、大衆党長野県連の秦数馬の一派、大日本帝国陸軍大阪労働組合、横浜自治革正党などが解消・入党し勢力を拡大した。 多くの国家主義団体は上部構造偏重であったが、大日本生産党は大衆に密着し、党員2万人を称していた。 しかし、1933年(昭和8年)7月の神兵隊事件において青年部員が多数連座し検挙され、さらに内部対立の影響もあって党員数は減少。1942年(...
  • 護国同志会
    ...日に結成された日本の政治団体。1945年8月15日に解散した。会長は井野碩哉であるが、実際は岸信介を中心としていた。 概要 1945年、太平洋戦争の敗戦が濃厚になると一国一党を目指した東條英機や大麻唯男ら翼賛政治会の幹部たちは大日本政治会の結成に動きだした。しかし、岸信介らはこの動きには加わらず東条とは一線画す護国同志会を結成した。 岸の元に集まったメンバーは、政党解消以前に小会派に所属していた議員では赤城宗徳、小山亮、木村武雄、永山忠則、今井新造らが、翼賛選挙で初当選した議員では井野碩哉、橋本欣五郎、池田正之輔、中谷武世らが、立憲政友会に所属していた議員では船田中が(船田は1939年の政友会分裂後は政党解消まで政友会革新派所属)、社会大衆党に所属していた議員では杉山元治郎、三宅正一、川俣清音、三輪寿壮がおり、反東条のもとに様々な会派から集まったといえる。 内務省は政治団...
  • 国民協会 (日本)
    国民協会(こくみんきょうかい)は、日本に存在した政党、政治団体。現在、「国民協会」の名を持つ政党は日本には存在しない(政治団体としては名称変更した国民政治協会が存在する)。 国民協会 (1892-1899) 明治時代に存在した国粋主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院の院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日-1899年7月4日)。 1892年、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基・牧朴真・白井遠平が選出され(後に安場保和が幹事長に就任)、他に中央交渉部の佐々友房、佐藤昌蔵、津田真道、大岡育造、古荘嘉門、曾禰荒助・元田肇などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰...
  • 大同協和会
    ...、この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬養毅ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。そして大同団結運動の主導者であった後藤象二郎が突如黒田内閣の逓信大臣として入閣して運動からの離脱を表明したのを機に両派は4月に決別し、5月に政社派の団体として大同倶楽部が、非政社派の団体として大同協和会が発足した。 大井は新井省吾・小久保喜七・石阪昌孝らとともに自由党再興を目指して運動を繰り広げる。だが、各グループ間の対立は解消されず、遂に翌年1月に大井らは中江兆民らとともに新党・自由党を結成した。その後、自由党元党首の板垣退助の復帰工作に成功した大井は各グループの再結集の好機を得て、半年後に各グループは合同して立憲自由党を結成する事になった。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2007年5月20日 (日)...
  • 大日本政治会
    ...た衆議院の院内会派・政治団体(1945年3月30日-同年9月14日)。総裁は元陸軍大臣南次郎。略称は日政または日政会。 概説 第21回衆議院議員総選挙以後、全ての国会議員が所属する事になっていた翼賛政治会であったが、1945年に入ると、小磯国昭首相の意向を受けて本土決戦に備えた大政翼賛会・翼賛政治会の改組を準備していた小林躋造総裁(小磯内閣国務大臣)に対する反発が表面化する。これに対して小林総裁は新党結成を公式に表明して事態の収拾を図るが、脱退者が相次いだ。このため、小林に代わる総裁を立てて出直しを図ることとなった。 1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎南は当時枢密顧問官(総裁就任時に辞任)。陸軍大臣・関東軍司令官・朝鮮総督を務め、当時総辞職が時間の問題と見られていた小磯首相の後継候補としても名前が挙がっていた事から、金光庸夫が陸軍と協調出来てかつ首相候補にもな...
  • 大同倶楽部
    ...、この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬養毅ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。そして大同団結運動の主導者であった後藤象二郎が突如黒田内閣の逓信大臣として入閣して運動からの離脱を表明したのを機に両派は4月に決別し、5月に政社派の団体として大同倶楽部が、非政社派の団体として大同協和会が発足した。 翌1890年には、最初の衆議院議員選挙を目前にして、大同団結運動とは距離を置いていた自由党の元代表板垣退助の擁立構想が浮上したのを機に他の民権派との合同の交渉が進んだ。この選挙で大同倶楽部は55議席を獲得した。1890年8月に解散し、9月に他の民権派とともに立憲自由党に合流した。 大同倶楽部 (1905年 - 1910年) 大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、明治時代後期に存在した日本の政党(1905年12月23日-1910年3月2日)。...
  • 高砂義勇隊
    ...盟をはじめとする台湾政治団体、西村修平を中心とした日本の保守系政治団体による抗議があったことや、高金素梅宛に脅迫状が届いた事を理由に騒乱を懸念した警察が高金素梅を説得、結果儀式の挙行は断念された。 今回の高金素梅らの行為は台湾の各種メディアで大きく報道され、台湾内部でその行為の是非について議論を呼んだ。支持者と反対派では、この報道についての受け取り方が大きく異なっている。 支持者から見た見方 台湾原住民の習慣に先祖を自宅で祭る文化があり、自宅で先祖を祭らない者は「不孝者」として、コミュニティ、世間体から軽蔑視される文化があった。このような背景の下で、台湾原住民及びその他台湾出身の旧日本軍遺族の強い意思で、「迎霊招魂」の儀式の挙行を望んでいるのに、靖国神社が断固として台湾の遺族の意思、そして台湾の文化を無視した点については、台湾の一部メディアは高金素梅ら及び遺族に対して同情を...
  • 新体制運動
    ...防衛するために強力な政治団体が必要と感じた近衛は、昭和15年(1940年)、大政翼賛会を結成、ナチス・ドイツ型の新政体を目指した。 しかし、立憲君主として天皇を戴く日本においてこの新思想は違憲であるとする勢力や、外国の政治体制を基にした新思想は天皇を戴く国家体制が世界で最も優れた政治体制であるとした国体明徴声明に反するとする勢力、天皇以外の勢力が政治の実権を有するのは天皇を軽んじてきた幕府政治の復活であるとする勢力、さらには政党政治こそが日本の国体であると主張していた一部の政治家や既得権益を脅かされることを危惧する一部官僚からの反発も大きく、大政翼賛会の理念は骨抜きにされたと言っても良く、結局のところ大政翼賛会は国家総動員法を国民に浸透させ戦時生活を支えるだけの組織であった。 関連項目 天皇制ファシズム 特高課長講演問題 出典 フリー百科事典『ウィキペデ...
  • 翼賛政治会
    ...族院合同の院内会派・政治団体(1942年5月20日-1945年3月30日)。略称は翼政会。 日本の歴史上、唯一の「一国一党」体制を樹立した団体である。 概説 1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)においては、大政翼賛会及びその傘下の大日本翼賛壮年団推薦を受けた候補者が過半数を遥かに上回る議席数を獲得したものの、東條内閣に批判的な非推薦候補も少なからず当選した。これを憂慮した内閣総理大臣東條英機は、5月7日に政界・財界・言論界の代表70名を招いて翼賛政治結集準備会を結成させ、座長に住友財閥出身の小倉正恒元大蔵大臣を起用した。その後、現職閣僚5名と追加代表2名を加えた77名を発起人として有志による結成の体裁を保ちつつ、5月14日に会名・綱領・規則を発表して新組織への参加要請状を各界要人に発送した。だが、実態としては衆議院における大政翼賛会の別働隊で今回の選挙...
  • 日本の政党一覧
    ...要件を満たしていない政治団体 国会に議席を有したことのある政党 立憲養正會 (1923-1942,1946-) 第二院クラブ (1983-) - 院内会派として1962-1983の間存在し、1983年に政党化 自由連合 (1994-) 新社会党 (1996-) 政党そうぞう (2005-) 国政選挙に候補を擁立したが、国会に議席を有したことのない政党 大日本愛国党(1952-) 社会主義労働者党 (1972-) 日本労働党 (1974-) 国家社会主義日本労働者党 (1980-) 国民党 (1988-) 議員を半減させる会(旧 国会議員を半分に減らす会、1989-) 女性党 (1993-) 維新政党・新風 (1995-) 進歩自由連合 (1995-) 世界経済共同体党 (1997-) 新党フリ...
  • 愛国社
    愛国社(あいこくしゃ)は、 明治時代の自由民権運動前期の政治団体。 昭和時代初期の右翼団体。 1. 愛国社 (1875年-1880年) 明治8年(1875年)2月22日、大阪会議に参加した板垣退助が、大阪で旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ創設した。愛国社に参加したのは、西日本の士族層で、これを板垣など高知県の立志社員が中心になって運営にあたった。本社を東京に置き、愛国社に加盟する各地方の政社からは、委員を本社に送って中央と地方での情報収集及び相互連絡に当たることになっていたが、結成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。 西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山...
  • 一進会
    ...、親日派/非親日派の政治団体の対立による治安の混乱を収拾するため、全ての政治団体を解散させた。この解散は一進会も同様であり、一進会は併合直後の1910年9月12日に日本政府によって解散を命じられ、同年9月25日に解散した。その後、宋秉畯には伯爵位が与えられている。その後の一進会参加者の中には自らの対等合邦の主張が受け入れられず、結果的に祖国を日本に吸収させる一翼を担ってしまったことから後悔の気持ちと共に日本に騙されたとの印象を持つものも少なくなかった。 評価 一進会に対する評価はその活動の解釈や政治的立場によって大きく異なるが、一般的には批判的意見が主流である。以下には日韓において出版されている一般書籍での評価について概述する。(順不同) 平凡社の『朝鮮を知る事典』では、一進会を「親日御用団体」と呼び、表立った運動以外にスパイ活動などにも協力したとしている。また、親日団体とし...
  • 大政翼賛会
    ...案が提示され、直後に政治団体化を目指していた近衛公爵側近の有馬頼寧伯爵が事務総長を引退するなど、やがて次第にその性格は政府の施策に側面から協力していく補完的・行政組織的なものに縮退していった。そして、総裁を首相が、道府県支部長を道府県知事がそれぞれ兼任することとなった。 歴代総裁 近衛文麿 東條英機 小磯国昭 鈴木貫太郎Template 要出典? 関連項目 Template Commonscat? 翼賛選挙・翼賛議会 治安維持法 ファシズム 軍国主義 公職追放 清瀬一郎・葛生能世 特高課長講演問題 大政翼賛の歌                     出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月2日 (日) 19 35。    
  • 自由党 (日本)
    ...つ政党は存在しない(政治団体としては存在する)。 自由党 (明治) 本節では、明治時代に創設された日本最初の近代政党である「自由党」と同党解散後、帝国議会開設時の大同団結運動を経て、旧自由党勢力による再結集によって再興された「立憲自由党」(後に旧称である「自由党」に戻す)を扱う。 自由党 (日本 1881-1884) {{政党 |国名 = Template JPN? |党名 = 自由党 |公用語名 = |成立年月日 = 1881年10月18日 |解散年月日 = 1885年10月29日 |解散理由 = 内部対立のため |後継政党 = |郵便番号 = |本部所在地 = |政治的思想・立場 = 自由主義 |機関紙 = |シンボル = |国際組織 = |その他 = 創設者:板垣退助 }} 1880年 - 板垣退助らが結成した日本最初...
  • 進歩党 (日本)
    ...明を求める若手党員が政治団体「進歩党をまじめに考える会」を結成したり、田川らを東京地検特捜部に告発し、田川も告発した党員を誣告罪で逆告訴するという泥沼状態に陥った。このことで党勢拡大はストップし、党東京都連代表依田米秋ら離党者も相次いだ。そして田川の政界引退とともに党は解散するに至った。 東京地検特捜部を舞台にした告訴合戦は双方とも不起訴に終わった。横浜地方裁判所で続いていた山口県連党員と進歩党所属鎌倉市議会議員助川邦男助川はその後、鎌倉市議会議長となるが、市の公務を無視して海外旅行に行っていたことが発覚し、辞任の民事訴訟は山口県連党員の実質勝訴だった。 党勢の推移 衆議院 選挙 当選/候補者 定数 備考 (結党時) 1/- 512   第39回総選挙 ○1/7 512   参議院 選挙 当選/候補者 非改選 定数 備考 (結党時) 0/...
  • 玄洋社
    ...14年)に結成された政治団体。 概要 当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散させた。 主な活動 1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、進藤喜平太(進藤一馬元福岡市長の実父)らが創立した。旧福岡藩士らが中心となった。 戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関...
  • 満州国-2
    ...いう官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、政策の国民への浸透や国政の指導を執り行った。 外交 1932年に国際連盟で否認されたとは言っても、満洲国はその後少なからぬ国家から承認を受けた。第二次世界大戦の終結以前には枢軸国を中心として、日本の同盟国と傀儡国、中立国など、以下の20ヶ国が承認をし、ドミニカ共和国(ラファエル・トルヒーヨの独裁政権)、エストニア、リトアニアは正式承認しなかったが国書の交換を行った。また、ソ連は日ソ中立条約締結時に出された声明書で「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重することを確約し、事実上承認していたと言える。 大日本帝国(枢) - 日満議定書によって承認 エルサルバドル - 日本に続いて二番目の承認国 中華民国南京国民政府(枢) タイ(枢) ビルマ(枢) フィリピン(枢) 蒙古聯合自治政府(枢) 自...
  • 石原莞爾
    ...923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたと言われる。 関東軍参謀時代 昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領...
  • 軍部
    軍部(ぐんぶ)は、最広義には、陸軍・海軍・空軍など、国家が保有する軍隊全体を指していう言葉である。 この「軍部」が用いられるのは、文民政府との関係を論じる文脈で、軍部による政治介入、軍部クーデターによる文民政府の倒壊、軍事専門職集団である軍部に対する文民統制、アジア・ラテンアメリカの権威主義体制下における民政移管など、いわゆる「政軍関係 civil-military relations 」を論じる場合である。 日本における軍部 日本における狭義の軍部は、大日本帝国陸軍及び同海軍の上部組織、すなわち、陸海軍省・陸軍参謀本部・海軍軍令部等の上部組織を指す(空軍は当時の日本に存在しなかった)。 戦前期日本における軍部の制度的前提となったのは、軍部の政府からの独立性を保障した統帥大権(大日本帝国憲法第11条)、軍部大臣現役武官制、帷幄上奏権などであった。 ただし、実際に軍部がその実体...
  • 韓国併合
    ...と日本がみなしていた政治団体・一進会も、日韓併合に賛成していた。日韓併合は多くの朝鮮人に歓迎された。しかし、一進会などが主張する対等合併は両国の国力の差、大韓帝国の混乱した実情などから非現実的で、朝鮮が従属的な地位に置かれるのは必然的であった。地方の農民反乱についてはその多くが既得権益を失った両班によるものであり、何らかの手段を用いて貧農を反乱に駆り立てたのに違いない。 韓国では、朝鮮の植民地化は武力による脅迫によって断行されたものであるという認識が大多数を占める。ゆえに韓国併合に関する全ての条約は締結時から違法であり、国際法上も違法であるという認識が主である。この認識に基づいて、締結前の日韓協定に遡及して、それによってもたらされた結果にまで日本の責任を問う者も多い。日本の革新派では、併合条約が違法だという立場をとらない論者も植民地化の不正義を遡及して追及するべきと考えている者が多...
  • 治安警察法
    Template 日本の法令? 治安警察法(ちあんけいさつほう)は、かつて日本に存在した法律。日清戦争の後、高まりを見せ始めていた労働運動を取り締まるために、それまで自由民権運動を念頭に置いて政治活動の規制を主な目的としていた集会及政社法に、労働運動の規制という新たな役割を付加した上で継承発展させる形で制定された。 沿革 明治33年(1900年) 2月23日に制定、同年3月10日公布、3月30日施行された。 大正11年(1922年)、大正15年(1926年) 一部改正。 昭和20年(1945年) 第二次世界大戦後のGHQの指令に基づき、昭和20年(1945年)11月21日「治安警察法廃止等ノ件(昭和20年勅令第638号)」により廃止となる。 内容 全33条より成る。治安維持法とともに戦前の有名な治安立法として知られる。 第17条はストライキを制限するもので...
  • 翼賛議会
    翼賛議会(よくさんぎかい)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中に於ける帝国議会の呼称。その始期については新体制運動の中で既存政党が解党されて大政翼賛会が結成された1940年とするのが一般的であるが、翼賛議会としての体裁が本格的に整うのは、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)以後のことである。 概説 戦時下で行われた唯一の国政選挙となる1942年4月30日の第21回衆議院議員総選挙は、大政翼賛会が推薦した候補者(主に大政翼賛会の別働隊的院内会派である翼賛議員同盟の議員を中心としていた)に対してよく翼賛会の下部組織の一つである大日本翼賛壮年団(翼壮)をはじめとする官民からの支援が行われ、逆に非推薦候補者に対しては選挙干渉とも言えるような圧迫が加えられたとされている。この結果、466の定数のうち381名の翼賛会推薦議員が当選した。このため、この選挙を翼賛選挙とも呼ぶ。 翼賛選挙...
  • 翼賛議員同盟
    翼賛議員同盟(よくさんぎいんどうめい)は、昭和時代に存在した衆議院の院内会派(1941年9月2日-1942年5月19日)。 概説 1940年の大政翼賛会の結成によって既成の政党は全て解党され、12月20日には翼賛会の下に衆議院統一会派である衆議院倶楽部(435名)が結成されたが、一部右翼からの「大政翼賛会違憲論」に押されて、翌1941年に近衛文麿首相が大政翼賛会を政事結社ではなく公事結社であるとして、一切の政治活動を禁じたられたために衆議院倶楽部は解散を余儀なくされ、全ての衆議院議員が無所属議員となってしまったために、衆議院は大混乱に陥った。 一方、近衛側近の前司法大臣風見章は元鉄道大臣前田米蔵と図って、貴族院議員である近衛首相を長とする貴族院・衆議院合同の会派結成を模索する。ところが、長年政党を嫌悪してきた貴族院の華族議員がこれに反発したために失敗に終わった。このため、前田は自...
  • 選挙粛正運動
    選挙粛正運動(せんきょしゅくせいうんどう)とは、1930年代の日本において、普通選挙法制定後に公正明大な選挙の実施を目指して行われた選挙浄化運動の事である。だが、後に変質させられて国家による選挙干渉の手段として用いられて後に翼賛選挙のモデルとされた。 第2次護憲運動の結果、普通選挙法が制定されて政党内閣が慣例化した。だが、その一方で選挙にまつわる買収や贈収賄などの問題も浮上してきた。これを憂慮した後藤新平らによって国民の選挙への関心を高めて啓蒙する事によって選挙にまつわる腐敗を防止しようとした。これが、「選挙粛正(あるいは選挙革正)」と呼ばれるようになる。これを受けて浜口内閣では選挙革正審議会が打ち立てられるが、五・一五事件によって政党内閣は終焉を迎えた。 政党内閣が終わり、中間内閣の時代となると、これに目を付けたのがいわゆる「革新官僚」であった。彼らは政党政治以前にもこうした腐敗があ...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • 日本統治時代 (台湾)
    ...年、日本統治期最後の政治団体である地方自治連盟が解散に追い込まれ、「台湾人」による政治運動は終わりを告げた。 皇民化運動(1937年-1945年) Template main? 1937年に盧溝橋事件が発生すると日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることなった。台湾における国民意識の向上が課題となった総督府により皇民化政策が推し進められることになる。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動である。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情があった。 国語運動は日本語使用を徹底化する運動で、各地に日本語講習所が設けられ、日本語家庭が奨励された。日本語家庭とは家庭においても日本語が使われるというもので、国語運動の最終目標でもあった。その過程で台湾語・客家...
  • 大成会
    大成会(たいせいかい)は、明治時代の日本の温和派の院内会派である(1890年8月23日-1891年12月26日)。 1890年の第1回衆議院議員総選挙後、立憲自由党及び立憲改進党に属しない議員の糾合の動きが盛んになった。彼らは党派色の強い民権派系の自由・改進両党(民党)に対抗する意図を有していたが、政府との関係や新しい組織を政党とするか院内会派にするかなどその意見は様々であった。 それでも、1890年8月22日に会則と「大成会」の名称が定められ、翌日に東京の愛宕館で正式な結成大会が開かれて、この会が衆議院議員有志によって構成される団体であると位置付けて政党である事を否定した。これは、日本の議会に政党自体を不要と考える超然主義を唱える議員に配慮したものである。代表者として3名の常務委員(増田繁幸・堀部勝四郎・俣野景孝)が選出された。この他、杉浦重剛・元田肇・津田真道・末松謙澄・岡田良一郎...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 政党内閣
    政党内閣(せいとうないかく)とは、議会に議席を保持する政党を基礎に組織された内閣のこと。議院内閣制ともいい、議会の信任に基づいて政権を運営する。 現在では議会制民主主義(間接民主制)の制度を取り入れている諸国の内閣が政党内閣の形態である。ただし、アメリカ合衆国のように議院内閣制を採用していない国では、政党政治が実施されていても、その政権をさして政党内閣とは呼ばない場合が多い。また、社会主義・共産主義国家やファシズム国家などに見られる一党独裁体制も政党が政権を掌握していたとしても政党内閣とはいえない。 各国の政党内閣 イギリス 政党内閣が典型的な発展を見せたのは17世紀後半のイギリスである。ホイッグとトーリーの両党派が相互に勢力を競い、後に自由党と保守党による二大政党制へと移行した。1900年前後に議院内閣制の慣行が確立されると政党内閣による政権運営が定着した。 日本 日本...
  • 国体明徴声明
    国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)とは、1935年(昭和10年)の天皇機関説事件の中で、美濃部達吉の天皇機関説を排撃することで政治的主導権を握ろうとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた政府声明。天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であると宣言した。 国体明徴運動の経緯 そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。しかし、軍部ファシズムの台頭と共に起こった国体明徴運動の中で、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け始めた。 1935年2月19日、貴族院本会議の演説において菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。この...
  • 統帥権
    統帥権(とうすいけん)とは、軍隊における最高指揮権をいう。 近代日本における統帥権 近代日本では大日本帝国憲法第11条が定めていた天皇大権のひとつである陸軍や海軍への統帥の権能を指す日本国憲法下では、憲法の実際的な解釈と自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定されている。。 明治憲法下で天皇の権能は、特に規定がなければ国務大臣が補弼することとなっていた。併しそれは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については、国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた1932年に陸軍大学校が教本として作成した『統帥参考』には「統帥権ノ独立ヲ保障センカ為ニハ“武官ノ地位ノ独立”ト“其職務執行ノ独立”トヲ必要トス 政治機関ト統帥機関トハ飽ク迄対立平等ノ地位ニ在リテ何レモ他ヲ凌駕スルヲ得サルヘ...
  • 昭和維新
    昭和維新(しょうわいしん)とは、昭和初期の日本で起こった国家革新の標語。 概要 大正末期から昭和初期、国内政治の停滞、国際社会の不安定化などから、軍部の急進派や憂国団体を中心に明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)側近達への憎しみも凄まじい。代表的な事柄としては五・一五事件、二・二六事件が挙げられる。 『昭和維新実現』を唱えて数々の事件が起こされたが、そのどれもが『昭和維新実現』のための『討伐』であったり『天誅』であったりで、「彼を暗殺してからどうするのか、その後誰が何をするのか」という部分においては甚だ具体性に欠けるのが特徴である。日本の政治システムを4日間に渡り空白に陥れた二・二六事件でさえ、実行者達は、皇居を占領し天皇に親政を迫る以降の計画を持っていな...
  • 特高課長講演問題
    特高課長講演問題(とっこうかちょうこうえんもんだい)とは、大政翼賛会の結成を巡って千葉県で1940年に起きた政争。中央を舞台として大政翼賛会結成を推進した新体制運動と、地方政治の中心であった内務官僚を中心とする県庁及び地方政界を代表する県議会との意識格差が露呈され、のちの大政翼賛会の行政補助機関化の嚆矢となった事件の一つである。 大政翼賛会に対する千葉県の対応 大政翼賛会の結成に際して、地方でも立憲政友会・立憲民政党をはじめとする諸政党が解党され、自由民権運動を由来とする現存の数少ない政治結社であった夷隅郡の以文会(当時は政友会郡支部を兼ねていた)も同年10月13日解散した。 当時、右翼(主として革新系)は、現状に不満を抱く青年団や戦時体制強化を進める警察の一部と連携して千葉県内でも新体制運動を推進しようとした。だが、大政翼賛会の支部を構成する常務委員会の人選は県知事に事実上一任...
  • 東久邇宮稔彦王
    Template 日本の内閣総理大臣? 東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の第43代内閣総理大臣(在任 1945年8月17日-1945年10月9日)。元皇族。陸軍軍人。皇族で唯一の、かつ戦後初の内閣総理大臣。階級は陸軍大将。位階は従二位、勲等功級は大勲位功一級。 第二次世界大戦後、敗戦処理内閣として憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を行い、一億総懺悔を唱えたが、GHQの民主化方針についてゆけず、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。 生涯 戦前 久邇宮朝彦親王の九男として1887年(明治20年)に誕生。1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。内親王の降嫁先確保のための特例措置であった。陸軍に入り...
  • 軍閥
    軍閥(ぐんばつ)とは多義的な用語であり、一つの定義に規定するのは不可能であるが、主なものについて挙げる。 国家における単一の近代的軍事組織が軍事を独占した状態になっている国家において、その官僚組織としての軍部内部における派閥のこと。特に旧日本軍内における派閥のことを言う。 軍事力を背景に地方に割拠する(国際的に承認・未承認を問わず、ある程度の実効支配地域を持つ)組織・集団のこと。 軍部内部における派閥 旧・大日本帝国陸軍における皇道派・統制派、旧・大日本帝国海軍における艦隊派・条約派などが挙げられる。しかし、軍部内における派閥は日本軍に限らずどこの軍隊にもありえるが、「軍閥」という名称では呼ばれない場合も多い。例えば、韓国軍における秘密組織であった「一心会」(ハナフェ)、やはり秘密組織である旧エジプト王国軍の自由将校団(ナセルなどが在籍)などは、その政治的野心も強かったも...
  • 東久邇宮内閣
    {{日本の内閣記事|ひがしくにのみや ないかく|43|東久邇宮稔彦王|Template 和暦?|8月17日|同年|10月9日|貴族院が中心。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/43.html|皇族・陸軍大将|内閣名=東久邇宮内閣内閣総理大臣としての正式な表記は宮号を冠さない「内閣総理大臣 稔彦王」であり、官報にもそのように掲載された。|画像= |画像説明=東久邇宮内閣の閣僚最前列東久邇宮稔彦王、二列目左より重光葵、米内光政、中島知久平、近衛文麿、岩田宙造、三列目左より松村謙三、千石興太郎、山崎巌、津島寿一、小日山直登、緒方竹虎、最後列が村瀬直養。}}皇族が首相となった内閣は史上唯一、在任期間は54日間で史上最短。最後の挙国一致内閣でもある。 1945年(昭和20年)10月5日に内閣総辞職し、次の幣原内閣が発足するまで、職...
  • 天皇制
    天皇制(てんのうせい)は、天皇を君主又は象徴とする国家体制。特に天皇を元首又は象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置付けている。明治後期から敗戦までは天皇制などと表現することは不敬な表現であり、国体(=くにがら、くにぶり/漢書成帝紀)とよばれた。 概要 「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄...
  • 立憲政友会
    立憲政友会(りっけんせいゆうかい)は、日本の明治後期から昭和前期までの、立憲民政党とならぶ二大政党の1つである(1900年9月15日 - 1940年7月16日(正統派・統一派)/同7月30日(革新派))。略称は政友会(せいゆうかい)。 沿革 1900年(明治33年)9月15日、超然主義の破綻と政党政治の必要性を感じた伊藤博文が自らの与党として組織した。伊藤自身が初代総裁となり、伊藤系官僚と憲政党(旧自由党)・帝国党が中心となって創立された。政党に不信感を持っていた明治天皇は伊藤の政党結党に対して強く反対したが、伊藤は議会の中に天皇と国益を重んじる政党が必要であることを力説して了承を得る(このとき、伊藤を通じて下賜金2万円が政友会に与えられた)。10月に政友会を中心に第4次伊藤内閣を成立させる。だが、依然として超然主義を奉じる貴族院最大会派の研究会は伊藤の入党要請を拒絶する会派決議を...
  • 上海クーデター
    上海クーデター(しゃんはいクーデター)は、1927年4月12日、中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のことを指す。四・一二事件とも言う。中国国民党は清党と称する一方、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と称す。 日本語版では中国国民党、中国共産党のどちらの立場にも立たず、日本でよく使われる用語として上海クーデターを用いる。 背景 1923年、孫文はソ連が中国革命の最大の支持者であると認めた。そして、コミンテルンと中国共産党の李大釗らの援助の下、孫文は国民党を改組し、広州で国民政府を樹立し、連ソ容共政策を提出し、翌1924年には黄埔軍官学校を開校した。大量の共産党員が身分をそのまま保持したまま、国民党に加入し、幾人かは要職を得た(周恩来など)。 しかし、1925年孫文没後、汪精衛が政治的指導者となる一方で、黄埔軍官学校校長の蒋介石は軍権を掌握し...
  • 宋美齢
    {{中華圏の人物 | 名前=宋美齢 | 画像= | 画像の説明= | 出生=1897年3月5日(諸説あり) | 死去=2003年10月23日 | 出身地=Template QIN1890?、上海 | 職業=中国国民党中央委員会委員中国国民党航空委員会秘書長 | 簡体字=宋美龄 | 繁体字=宋美齡 | ピン音=Sòng Měilíng | 注音= | 和名=そう びれい | 発音= | ラテン字=Sòng Měilíng | 英語名=Madame Chiang Kai-shek }} 宋美齢(そう びれい、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン Template lang?、1897年3月5日(1896年、1901年3月5日など諸説あり)- 2003年10月23日)は、中華民国の指導者、蒋介石の妻。欧米で...
  • 大正デモクラシー
    大正デモクラシーとは日本の大正時代に現れた政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動を指す。何をもって「大正デモクラシー」とするかの定義については諸説あり、その定義によって大正デモクラシーと呼称される期間もTemplate 和暦?-Template 和暦?とする説、Template 和暦?-Template 和暦?とする説、Template 和暦?-Template 和暦?とする説など諸説あるが、いずれも大正天皇の在位期間(Template 和暦?-Template 和暦?)を中心とし1918年の第一次世界大戦の終了と富山県で発生した米騒動をデモクラシー運動はじまりの中核として取り上げる点については共通している。 概要 大正デモクラシー運動(あるいは単に大正デモクラシー)は、大正時代に興った日本全体を巻き込む民主主義的あるいは自由主義的な風潮・思潮の総称であり、政治...
  • 韓日合邦を要求する声明書
    韓日合邦を要求する声明書(かんにちごうほうをようきゅうするせいめいしょ)とは、1909年12月4日、大韓帝国で日本の影響下にあった親日団体一進会(公称会員数百万人・実数数万人程度)が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った朝鮮と日本の対等合併を要望する声明書である。 この声明書の中で、「これまでの朝鮮の歴史の悲劇は自分達が招いたことであり、我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」 ref name= 警秘第4106号-1 統監府文書 8、警秘第4106号の1と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、大韓帝国と大日本帝国が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。 南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派の李完...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 梅津美治郎
    Template Infobox 軍人? 梅津 美治郎(うめづ よしじろう、1882年(明治15年)1月4日 - 1949年(昭和24年)1月8日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。通称「無言の将軍」。 東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。Template 和暦?に靖国神社に合祀される。 経歴 大分県中津市出身。中学済々黌出身。関東軍総司令官、参謀総長などを務める。 誕生日は軍人勅諭が発布された日である。 陸士、陸大ともトップの成績で卒業した秀才である梅津は、学究肌の軍人と呼ばれ、政治の表舞台に出ることを避け続けていたという。その梅津の生涯で最も歴史に残る有名な事件は、支那駐屯軍司令官時代のTemplate 和暦?6月に日中間で結ばれた「梅津・何応欽協定」である。当時、華北で相次いだ反日テロが国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、 河北省内の国民党支部をすべて...
  • 経済新体制確立要綱
    経済新体制確立要綱 とは1941年12月7日に第二次近衛内閣によって閣議決定された経済体制についての要綱である。 内 容 昭和15年12月7日 閣議決定 第一、基本方針 日満支を一環とし大東亜を包容して自給自足の共栄圏を確立し、其の圏内に於ける資源に基きて国防経済の自主性を確保し官民協力の下に重要産業を中心として総合的計画経済を遂行し以て時局の緊急に対処し国防国家体制の完成に資し依って軍備の充実国民生活の安定国民経済の恒久的繁栄を図らんとす 而して之が為には  (一)企業体制を確立し資本、経営、労務の有機的一体たる企業をして国家総合計画の下に国民経済の構成部分として企業担当者の創意と責任とに於て自主的経営に任ぜしめ其の最高能率の発揮に依って生産力を増強せしめ (二)公益優先、職分奉公の趣旨に従って国民経済を指導すると共に経済団体の編成に依り国民経済をして有機的一体として...
  • 石黒忠篤
    石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、明治17年(1884年)1月9日 - 昭和35年(1960年)3月10日)は、大正・昭和期の農林官僚、政治家。「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省・農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。妻は穂積陳重の次女。息子に石黒孝次郎。 経歴・略伝 1884年(明治17年)1月9日、石黒忠悳の長男として、東京に生まれる。 1908年(明治41年)第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)を経て東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省。 1910年、新渡戸稲造宅で柳田國男らと郷土会を開く。 1914年(大正3年)ヨーロッパに農政を研究するため留学する。 1919年(大正8年)農務局農政課長。 1924年(大正13年)農務局小作課長。小作慣行調査、小作調停法案作成に関わる。農林省農務局長、蚕糸局長を歴任。 1931年(...
  • 国家総動員法
    Template 日本の法令? 国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、1938年(昭和13年)に第1次近衛内閣によって制定された法律。総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。1945年の敗戦によって名目を失い、同年12月20日に公布された国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律(昭和20年法律第44号)に基づいて1946年4月1日をもって廃止された。 背景と影響 第一次世界大戦の戦訓より、戦争における勝利は国力の全てを軍需へ注ぎ込み、国家が総力戦体制をとることが必須であるという認識が広まっていた。日中戦争の激化に伴い、当時の日本経済では中国で活動する大軍の需要を平時の経済状態のままで満たすことが出来なくなっていたため、経済の戦時体制化が急務であった。 この法案は当時企画院を中心とした革新官僚と呼ばれたグループによって策定された。...
  • 天皇機関説
    天皇機関説(てんのうきかんせつ、天皇機關說)とは、大日本帝国憲法下で確立された、天皇に関する憲法学説である。統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いた。ドイツの公法学者イェリネックに代表される国家法人説に基づく。 概要 天皇機関説は、明治時代の終わりからTemplate 和暦?頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である衆議院憲法調査会事務局「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)」、Template 和暦?。。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、Template 和暦?。。 国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見...
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