chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「日中国交樹立」で検索した結果

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  • 顧維鈞
    Template 中華圏の人物? 顧維鈞(こいきん 光緒14年(1888年)1月29日-1985年11月14日)は、中華民国の国民党政府の外交官出身の政治家。字は少川(しょうせん シャウツァン Shǎochuān)、欧名はヴィ=キュイン・ウェリントン・クウ(Vi-Kyuin Wellington Koo)。外交総長、国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議、関税会議の各中国全権代表などの要職を歴任した。 祖父は郷紳の出身で、江蘇省嘉定県(現 上海市嘉定区)の官職にあったが、太平天国の時期に暴徒によって拷問の上、殺害され、財産を奪われた。顧の誕生後、父・顧溶は官営の招商局所属の汽船の会計係となり、生活は安定した。 1899年キリスト教衛理公会経営の上海英華学院に入学、初めて英語を学習した。1900年には病気のため、実家の近くにある育才学校に転校。 1901年キリスト教聖...
  • 南京大虐殺論争
    ...っかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(昭和46年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、“百人斬りは虚構である”という主張から論争は始まった。この時、否定論の先陣を担ったのは、山本七平と鈴木明である。 1982年から1995年まで 三番目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年の教科書問題の時である。それは、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟(家永教科書裁判)であり、この訴訟では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多両氏を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって南京事件調査研究会を発足。研究会は日中双方の資料や証言を突き...
  • 加藤高明内閣
    {{日本の内閣記事|かとうたかあき ないかく|24|加藤高明|Template 和暦?|6月11日|Template 和暦?|1月28日|護憲三派(憲政会、立憲政友会、革新倶楽部)|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/24.html|貴族院議員・立憲政友会総裁}}前の清浦内閣が第二次護憲運動により倒れた後を引き継いだ。 概要 加藤高明内閣は、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部による護憲三派連立内閣である。しかし、組閣から1年余が経過した1925年(大正14年)8月2日以後、憲政会単独内閣となる。この憲政会単独内閣を組織した際に、摂政裕仁親王(後の昭和天皇)から改めて大命降下を受けて組閣しているため、この時点で内閣は一旦総辞職したものと見なして、同日以後を第2次内閣とする説もあるが、現在の内閣府の公式見解ではこの日以後も第2次内閣...
  • 毛沢東
    {{大統領 | 人名=毛沢東 | 各国語表記= | 画像=Mao1946.jpg | キャプション= | 代数= | 職名=中央人民政府主席 | 国名=中華人民共和国 | 就任日=1949年10月1日 | 退任日=1954年9月27日 | 代数2=初 | 職名2=主席 | 国名2=中華人民共和国 | 就任日2=1954年9月27日 | 退任日2=1959年4月27日 | 出生日=1893年12月26日 | 生地=Template QIN1890? 湖南省湘潭県韶山村 | 死亡日=1976年9月9日 | 没地=北京(廟:毛主席紀念堂) | 配偶者=羅一秀、楊開慧、賀子珍、江青 | 政党= 中国共産党 | サイン= }} {{中華圏の人物 | 名前=毛沢東 | 画像= | 画像の説明= | 出生= | 死去= | 出身地= |...
  • 日中戦争
    日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である1931年(昭和6年)の満洲事変を起点として「日中十五年戦争」ととらえる見方もある。。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)。また英語では、Second Sino-Japanese Warと表記するFirst Sino-Japanese Warは日清戦争。。 Template Main2? 「戦争」か「事変」か 日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が...
  • 幣原外交
    幣原外交(しではらがいこう)とは、大正末期から昭和初期の両大戦間期に、幣原喜重郎が外務大臣となって行なわれた穏健な対外協調外交をいう。 自主的な外交による日本の国際社会における地位向上に貢献した、との評価がある。一方で地政学の立場からは、協調外交の結果として日英同盟などの軍事同盟の維持が不可能になり、大恐慌後の軍人による対外拡張政策に歯止めを与える存在を無くしてしまう結果になった、などの指摘もある。 第一次 幣原は大正13年(1924年)から昭和2年(1927年)、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣と若槻禮次郎内閣の外相として、ワシントン海軍軍縮条約を尊重し、アメリカ・イギリスとの協調、中国への内政不干渉を唱え、経済的には中国市場拡大、満州の特殊権益の維持を図った。このため大正14年(1925年)には日ソ基本条約を結んで日ソの国交を樹立し、また昭和2年(1927年)、中国で国民革命...
  • 国民政府
    thumb|250px|国民政府が使用した[[中華民国の国旗。1928年12月17日に、「青天白日滿地紅旗」が中国の正式な国旗として制定された。]] 国民政府(こくみんせいふ)とは、中華民国における中国国民党による政府のことである。略称は国府(こくふ)。国家元首は主席(しゅせき)。ただし日本と中国では、一般的な「国民政府」の定義にそれぞれ差異がある。 日本:1925年以降に国民党が樹立した政府。中華人民共和国の意向を反映し、1925年から1949年までの間に国民党が中国大陸で樹立した政府とする場合もある。いずれにせよ、1971年に中華民国が国際連合から脱退し、その後日本との国交が断絶してからは、国民政府という呼び方は用いられなくなった。 中国:1925年の広州国民政府樹立から、1948年に中華民国憲法に基づく政府が樹立(憲政の開始)されるまでの間、「訓政時期約法」に...
  • 華北分離工作
    華北分離工作(かほくぶんりこうさく)とは、華北五省(河北省・察哈爾省・綏遠省・山西省・山東省)を国民政府の支配から切り離し、日本軍の支配下・影響下に置くために日本が行った一連の軍事的・政治的工作の総称である。華北工作・北支分治工作などともいう。 概要 1934年冬から1935年1月にかけては、満州国と中国の国境で、中国軍と日本軍の小規模な衝突がたびたび発生しており、日本軍は華北から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。 1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で華北に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、華北での日本の経済権益を伸張すること、華北に親日的な傀儡を配置させること、排日意識を低下させることなどが目標に掲げられた。また、1935年1月はじめに関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が...
  • 中国国民党
    {{政党 |国名 = Template ROC-TW? |党名 = 中国国民党 |公用語名 = 中國國民黨(Kuomintang of China) |党首職名 = 党首 |党首氏名 = 呉伯雄 |議院代表職名 = 秘書長 |議院代表氏名 = 呉敦義 |成立年月日 = 1919年10月10日 |本部所在地 = 台北市中山区八徳路2號232樓 |議院 = 立法院 |議員数 = 81 |議員定数 = 113 |議員集計年月日 = 2008年1月現在 |党員・党友数 = 1,089,000 |党員・党友数集計年月日 = 2006年 |政治的思想・立場 = 保守、中道右派、泛藍連盟 |ウェブサイト = http //www.kuomintangnews.org/client/jpn/ |サイトタイトル = 中国国民党公式サイト |シンボル = 青天白日...
  • 護憲運動
    護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。 なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。 第一次憲政擁護運動 第一次憲政擁護運動の背景と発端 明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者で、法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。 しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このよう...
  • 日ソ基本条約
    日ソ基本条約(にっそきほんじょうやく)は、1925年に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で結ばれた二国間条約。1922年のソ連の建国後、日本との間で初めて結ばれた条約で、1917年のロシア革命以来ロシアを統治するソビエト政権と日本との間で断絶していた日露国交正常化の基本原則を定めた。1月20日締結、2月25日に批准。 締結に至る経緯 1917年のロシア革命で共産主義を掲げるボリシェヴィキのソビエト政権がロシアの中央政権を奪取すると、共産主義の極東への波及を恐れた日本は、同じくソビエトを敵視するイギリス・フランス・イタリアなどの諸国と歩調をあわせてロシア内戦への干渉を決定、1918年初頭にイギリスと共同で居留民保護を名目とした艦隊をウラジオストクに派遣、同年夏にはシベリアで孤立するチェコ軍団の救出を名目としてシベリア出兵を開始。ソビエト政権と日本との間の関係は決定的な対立に陥っていた。1...
  • 日清戦争
    Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反...
  • 蒋介石
    {{大統領 | 人名=蔣介石 | 各国語表記= | 画像=Chiang Kai-shek Colour.jpg | 画像サイズ=175px | キャプション=蔣介石(1945年5月) | 代数=初 | 職名=総統 | 国名=中華民国 | 就任日=1948年5月20日 | 退任日=1975年4月5日 | 出生日=1887年10月31日 | 生地=Template QIN1890?浙江省奉化県 | 死亡日=1975年4月5日 | 没地=Template Flagicon?中華民国台北市 | 配偶者=宋美齢 | 政党= 中国国民党 | サイン= }} Template Chinese? thumb|220px|[[張学良とともに]] 220px|thumb|[[宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに]] 220px|thumb|カイロ会...
  • 中華民国維新政府
    {{基礎情報 過去の国 |略名 =中華民国 |日本語国名 =中華民国維新政府 |公式国名 =Template Lang? |建国時期 =1938年 |亡国時期 =1940年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =汪兆銘政権 |次旗1 =Flag of the Republic of China.svg |国旗画像 =Flag of the Republic of China 1912-1928.svg |国旗リンク = |国旗説明 = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = |標語 =和平、建國 |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 =Pacific Area - The Imperial Powers 1939 -...
  • 南京攻略戦
    Template Battlebox? 南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争中の戦い。日本軍は、中華民国の首都南京を陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰, Template Lang?である。 背景 第二次上海事変で日中の全面衝突が始まった後、上海付近の敵を掃討し中国側の戦意を喪失させ、事変終結をねらう目的で11月7日に中支那方面軍を編成、上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線までを作戦制限区域とする。11月16日、国民政府は重慶に遷都を宣言。中支那方面軍は独断で作戦制限区域を越え、さらに南京攻略の必要性を上申。11月24日、大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。 経過 11月7日「中支那方面軍」(第10軍と上海派遣軍を隷下に置く)編合の下令が出され、作戦地域は蘇州から嘉興を結ぶ線の東側に限定される。 11月9日上海戦線の中国...
  • 九カ国条約
    九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9カ国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。 四カ国条約が、列強による日本牽制の意味が強いことに対し、こちらはアメリカの権威拡大を象徴し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。 これ以後、国際社会は、ワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。 日本とワシントン体制 ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条...
  • リットン調査団
    リットン調査団(-ちょうさだん/The Lytton Commission)は、国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスのヴィクター・リットン卿を団長とする国際連盟日支紛争調査委員会より出された調査団の通称である。 概要 調査団派遣の経緯 1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。 調査団の要員構成 1932年1月、リットン調査団が結成された。委員は下記の5名。 リットン(Victor Alexander George Robert Lytton)卿(イギリス)56歳:枢密顧問官・元インド総督 アンリ・クローデル陸軍中将(フ...
  • 十五年戦争
    1931年の満州事変から日中戦争を経て1945年のポツダム宣言受諾による無条件降伏に至るまでの約15年間にわたる戦争を、総称して十五年戦争と呼ぶ。鶴見俊輔が1956年にこの言葉を使用したのが最初とされ、1960年代後半から一般にもこの言葉が浸透していった。この呼称は、満州事変以後繰り返された日中衝突及び太平洋戦争までの戦争は連続した日本による侵略戦争であるという見方に基づいているとして、侵略性を主張することに反発ないし消極的な人々からは否定的に受け取められることもある。 また、イデオロギー上の論争とは別に、満州事変(1931年 - )は塘沽協定(1933年)で一応、停戦が成立しており、盧溝橋事件を発端とする日中戦争(1937年 - )との連続性を認めるのは、非合理的とする意見もある。 略年表 日本の大陸介入 1925年(大正14)1月 蒋介石の広東政府、北伐を開始 19...
  • 汪兆銘
    汪 兆銘(おう ちょうめい、Wāng Zhàomíng、 1883年5月4日 - 1944年11月10日)は、知日派として知られた中国の政治家。字は季新。号は精衛。 日本留学から東南アジアでの活動まで 1884年、10人兄弟の末子として広東省番禺県に生まれる。1904年9月、清朝の官費生として日本の法政大学に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、1905年、革命党に入党した。やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。 1906年6月、法政大学速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けることとした。この頃、ペナン島の有力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳壁君も運動に参加している。 やがて清朝の意を受けた日本政府の取締りに...
  • 中華民国の歴史
    中華民国の歴史(ちゅうかみんこくのれきし)は、1912年に中国で建国されたアジア最初の共和制国家である中華民国の歴史を記述する。なお、本稿では中華民国が中国大陸を支配していた1949年までの歴史を記述する。それ以降の中華民国の歴史については台湾の歴史と国民政府を、現在の中華民国政府自体については中華民国を参照のこと。 概要 中華民国は、1926年以降の中国国民党による北伐の前後で、北京政府期と南京国民政府期に大別される。建国初期の袁世凱による統治期を除いて、中華民国の代表政府が同時期に2つ存在する時期もあるなど各地の軍閥がそれぞれ「中国を統治する国家」を主張していた時期もあるが、日本やイギリス、フランスやアメリカなどのいわゆる「列強」をはじめとする国際社会(その中には世界最初の社会主義国家であるソビエト連邦も含まれる)では「中国を統治する国家」と認識されている。 第二次世界大戦後の1...
  • トラウトマン工作
    トラウトマン工作とは、昭和12年(1937年)11月初から昭和13年(1938年)1月16日までの期間にドイツの仲介で行われた、日本と中華民国国民政府間の和平交渉である。当時のオスカー・トラウトマン (Oscar P. Trautmann 1877年5月 - 1950年12月10日) 駐華ドイツ大使の名を取って、こう呼ばれる。工作という言葉の負のイメージを嫌ってトラウトマン和平工作とも呼ばれる事もある。 和平交渉の期間は、日中戦争(支那事変)時の上海陥落直前から南京陥落1箇月後の間にあたる。実際には7月に起こった蘆溝橋事件直後より和平の道は探られていたが、具体的な和平交渉が始まったのは、11月初旬である。 概要 当時、ドイツは中国に軍事顧問を派遣するなど友好関係を築いていた。ただし、中国侵出の意欲は低く、また日本の目が中国に向かって北方のソ連から逸れるのは望まざるところであったので、...
  • 日朝修好条規
    日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年、朝鮮暦高宗13年)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。江華島事件後に調印されたため江華(島)条約(Template lang?)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約ともいう。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。 概要 1875年におきた江華島事件の後、日朝間で結ばれた条約であるが、条約そのものは全12 款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文がある。これら全てを含んで一体のものとされる。 朝鮮が清朝の冊封から自立した国家であることを明記していること、片務的領事裁判権の設定や関税自主権の喪失といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。 それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝...
  • 汪兆銘政権
    汪兆銘政府(おうちょうめいせいふ)は、1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)にかけて中国に存在した中華民国・国民政府の一つ。行政院長(首相)は汪兆銘。なお、首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府とも呼称された。 {{基礎情報 過去の国 |略名 =中華民国 |日本語国名 =中華民国南京国民政府 |公式国名 =Template Lang? |建国時期 =1940年 |亡国時期 =1945年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国 |次旗1 =Flag of the Republic of China.svg |国旗画像 =Wang flag.png |国旗コメント= 青天白日滿地紅旗 |国章画像 =Republic of China National E...
  • 国共合作
    国共合作(こっきょうがっさく)とは、1924年から1927年と、1937年から1945年の2度に渡り中国国民党と中国共産党の間に結ばれた協力関係のことである。「合作」は協力関係を意味する。 第一次国共合作 第一次国共合作は、軍閥および北京政府に対抗する共同戦線であった。国民党は1924年1月20日、広東で開催した第一次全国代表大会で、綱領に「連ソ」「容共」「扶助工農」の方針を明示し、第一次国共合作が成立した。中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を取った。 1925年孫文が死去し、蒋介石が国民革命軍総司令官になった。1926年に北伐を開始し、1927年に南京に国民政府が成立。1927年4月の上海クーデターによって国共合作は事実上崩壊。7月13日、中国共産党は対時局宣言を発し第一次国共合作の終了を宣言、国共内戦に突入した。 第二次国共合作 1937年から1945年に...
  • 梁鴻志
    梁 鴻志(りょう こうし、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1882年 - 1946年11月9日)は、中国の中華民国時代の政治家。字は衆異。福建省長楽県(現在の福州市長楽市)の人。北京政府安徽派の有力政治家で、後に中華民国維新政府の首脳を務めたことで知られる。 事跡 安徽派時代 6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後の光緒29年(1903年)に挙人となる。光緒31年(1905年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。光緒34年(1908年)の卒業後、山東省の登莱高胶道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。 民国5年(1916年)6月の袁世凱死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段...
  • 江華島事件
    thumb|250px|right|江華島に上陸する[[雲揚 (軍艦)|雲揚の陸戦隊]] 江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる。日朝修好条規締結の契機となった。 背景 江戸時代後期に開国し、明治新政府が成立した日本では1868年(慶応4年)12月19日に新政権樹立の通告と国交と通商を求める国書を持つ使者を李氏朝鮮政府に送った。しかし国書の中に「」「」の文字が入っており、冊封体制下では「皇」は中国の皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味していたので、朝鮮側は受け取りを拒否した。その後何度も国書を送ったが、朝鮮側はその都度受け取りを拒否した(書契問題)。 日本側は、先に清国と日清修好...
  • 武漢国民政府
    武漢国民政府(ぶかんこくみんせいふ) 1926年~1927年の間、武漢に存在した国共合作の政権。単に武漢政府とも呼ばれる。本項で説明。 1937年~1938年の間の南京国民政府の別称 。日中戦争時に、南京政府が武漢へと遷都していた時期の呼称。 概要 1926年蒋介石率いる[1]国民革命軍の北伐軍が武漢を占領し、同年12月汪兆銘らの国民党左派が共産党のメンバーと提携、広州国民政府(広東政府)が広州から武漢に遷都して成立した。1927年4月蒋介石ら国民党右派が反共クーデターを起こし(上海クーデター)、南京国民政府を樹立して共産党を弾圧、対立した。その後、経済不安や土地革命をめぐる共産党との対立によって、武漢政府も共産党を弾圧して同年7月に反共方針を明確化(国共分離)・分裂し、同年9月南京政府に合流した。 関連項目 汪兆銘 国民政府 広州国民政府 出典 フ...
  • 成都事件
    成都事件(せいとじけん)は、1936年(昭和11年)に四川省成都でおきた、日本人4名が殺傷された排日事件である。 概要 1936年(昭和11年)8月24日、四川省成都で、大毎特派員渡辺洸三郎、上海毎日新聞社員深川経二、満鉄上海事務所員田中武夫、漢口邦商瀬戸尚の4名が同地の中国人学生をふくむ暴徒の襲撃を受け、渡辺、深川の2名が殺害され、田中、瀬戸の2名が重傷を負った。 これより先、日本の外務省は満州事変後閉館中の成都総領事館を再開すべく岩井総領事代理を派遣したところ、中国側は日本の既得権益を無視し、開館絶対反対を表明し、民衆運動によってこれを阻止しようと図った。 この結果、8月初旬以来、四川省、殊に成都において「開館反対、岩井代理人川阻止」の学生大会、市民大会などがあいついで開かれ、排日の風潮は高まった。 そのため岩井代理は重慶に足止めされ、成都入りはできなくなった。 岩井代理と...
  • 満州事変
    Template Battlebox? 満州事変(満洲事変、まんしゅうじへん、Manchurian Incident)は、1931年(昭和6年)9月18日に奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍(大日本帝国陸軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年(昭和8年)5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事変)。関東軍はわずか5ヶ月の間に満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。中国側の呼称は九一八事変現在柳条湖の事件現場には九・一八歴史博物館が建てられている。この博物館には事件の首謀者としてただ2人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。。 この軍事衝突を境に、中華民国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化した。日本では軍部が発言力を強めて日中戦争(1937...
  • 大韓民国臨時政府
    Template 朝鮮の事物? 大韓民国臨時政府(だいかんみんこくりんじせいふ)は、1919年に朝鮮の独立運動を進めていた人々によって中国の上海(シャンハイ)に設立された亡命政府。 李承晩(イ・スンマン)、呂運亨(ヨ・ウニョン)、金九(キム・グ)といった人々によって設立され、日中戦争勃発後、重慶に移った。当時の日本人は「上海仮政府」と呼んでいた。 創設 三・一独立運動後、独立運動の継続と拡大のため、内外各地で政府樹立の計画が進められていた。当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していたが、彼らは臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言した。同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていく。 活動 1919年6月、内務総長に安昌浩が着任し、連通制(朝鮮内地と...
  • 上海クーデター
    上海クーデター(しゃんはいクーデター)は、1927年4月12日、中国国民党右派の蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧した事件のことを指す。四・一二事件とも言う。中国国民党は清党と称する一方、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と称す。 日本語版では中国国民党、中国共産党のどちらの立場にも立たず、日本でよく使われる用語として上海クーデターを用いる。 背景 1923年、孫文はソ連が中国革命の最大の支持者であると認めた。そして、コミンテルンと中国共産党の李大釗らの援助の下、孫文は国民党を改組し、広州で国民政府を樹立し、連ソ容共政策を提出し、翌1924年には黄埔軍官学校を開校した。大量の共産党員が身分をそのまま保持したまま、国民党に加入し、幾人かは要職を得た(周恩来など)。 しかし、1925年孫文没後、汪精衛が政治的指導者となる一方で、黄埔軍官学校校長の蒋介石は軍権を掌握し...
  • 冀東防共自治政府
    {{基礎情報 過去の国 |略名 =冀東防共自治政府 |日本語国名 =冀東防共自治政府 |公式国名 =Template Lang? |建国時期 =1935年 |亡国時期 =1938年 |先代1 =中華民国 |先旗1 =Flag of the Republic of China.svg |次代1 =中華民国臨時政府 (北京) |次旗1 =Flag of the Republic of China 1912-1928.svg |国旗画像 =Flag of the Republic of China 1912-1928.svg |国旗リンク = |国旗説明 = |国旗幅 = |国旗縁 = |国章画像 = |国章リンク = |国章説明 = |国章幅 = |標語 = |国歌名 = |国歌追記 = |位置画像 = |位置画像説明 = |公用語 =中国語 ...
  • 上海天長節爆弾事件
    上海天長節爆弾事件とは、上海事変の末期の1932年(昭和7年)4月29日に発生した爆弾テロ事件である。また事件があった場所をとって虹口公園爆弾事件とも呼称される。 事件の背景 1932年、日本と中華民国の両軍が上海国際共同租界周辺において軍事衝突する上海事変が発生していた。この事変は日本の関東軍が引き起こした満州事変とその後樹立された満州国に対する欧米列強の関心をそらすかのように発生したものであった。しかしその事が中国国内の反日感情を激化させることになり、著しく状況を悪化させていた。 欧米4ヶ国による停戦交渉中であった4月29日は天長節(昭和天皇誕生日)であり、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民は上海の虹口公園(現在の魯迅公園)において大観兵式と天長節祝賀会を執り行うことになった。この行事は日本軍の上海における軍事行動の勝利を祝賀するものでもあった。しかしながら、日本...
  • 日朝関係史
    Template 日本の国際関係?  日朝関係史(にっちょうかんけいし)あるいは日韓関係史(にっかんかんけいし)では日本と朝鮮半島の両地域及びそこに存在した国家間の関係について述べる。 古代 古代には、朝鮮が中国と日本(7世紀まで倭国と呼ばれていた)を媒介する位置にあったことから、鉄や紙の生産技術・仏教・医学は中国から朝鮮を通過して日本に伝来したと言われている。稲作も朝鮮経由と言われてきたが、稲遺伝子の研究や各種遺跡からの出土品、水耕田跡の証左などから、南方の東南アジア経由にて伝来したという学説が、考古学的には主流となりつつある。静岡大学農学部佐藤洋一郎助教授やアメリカの多くのバイオ系研究機関の分析によると、日本及び朝鮮半島、遼東半島などの極東アジアに存在する稲は、温帯性ジャポニカ種及び熱帯性ジャポニカ種の大きく2種類にわけられ、その一部遺伝子を持つ種苗群の遺伝子を確認すると、中...
  • 孫文
    孫 文 初代中華民国臨時大総統 プロフィール 出生 1866年11月12日Template QIN1890?広東省 死去 1925年3月12日Template Flagicon?北京 出身地 清国広東省中山市(香山県) 職業 政治家、革命家、中華民国臨時大総統 政党 同盟会、 中国国民党 各種名称 譜名 德明 幼名 帝象 字名 載之 号・教名(受洗名) 日新、逸仙 日本名 中山樵(なかやましょう)、高野長雄(たかのながお) 慣称 孫中山 各種表記 簡体字 孙中山 繁体字 孫中山 ピン音 Sūn Zhōngshān 和名読名 そん ちゅうざん 発音転記 スン ヂョンシャン ラテン字 Sun Chung-shan 英語名 Sun Yat-sen ■ ポータル ■テンプレート ■ノート...
  • エルトゥールル号遭難事件
    エルトゥールル号遭難事件(エルトゥールルごうそうなんじけん)とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が、和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件。この事件は、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。 現在、和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号遭難慰霊碑およびトルコ記念館が立つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。 事件の経過 木造フリゲート艦エルトゥールル号(1864年建造、全長76m)は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、訓練不足のオスマン帝国海軍の練習航海を兼ねて日本へ派遣されることとなった。 1889年7月、イスタンブルを出港。数々の困難に遭...
  • 上海日本人僧侶襲撃事件
    上海日本人僧侶襲撃事件(しゃんはいにほんじんそうりょしゅうげきじけん)とは、1932年(昭和7年)に発生した中国人による抗日(反日)事件とされており、この事件をきっかけに日中が武力衝突する上海事変が勃発した。ただし現在では関東軍による策謀であるとの説が有力である。 事件の概要 前年の満州事変によって中国国内における反日感情が高揚していた。1932年1月18日午後4時ころ、中華民国上海の道路を南無妙法蓮華経を唱えながら勤行していた、日本人僧侶2名と信者3名が、排日運動の根拠地と見なされていた三友實業公司のタオル製造工場前の路地で、突如中国人と見られる数十人の集団に襲撃された。そのため日本人の日蓮宗僧侶の水上秀雄が死亡し、天崎天山ら2名が重傷を負った。中国の警察官の到着が遅れたため、犯人は逃亡した。 事件の背景 その後、上海事変が勃発し日中は果てしない戦乱に明け暮れることになる...
  • 第二次上海事変
    Template Battlebox? 第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年(昭和12)8月13日から始まる中華民国軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。 盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日中戦争が波及した。1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。 発生の背景 発生の背景には異見が色々あるので、主だった見解を2つ挙げる。見解1は、中華民国総統の蒋介石の意向を述べた日本軍上海引き付け作戦であり、見解2は、見解1を含む当時の状況を総括した見解である。 【見解1】 この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は現時点では満州における領土回復は後回しと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦...
  • 東亜新秩序
    東亜新秩序(とうあしんちつじょ)とは、昭和13年(1938年)11月3日にときの内閣総理大臣近衛文麿(第1次近衛内閣)が発表した日本、満州、支那3箇国についての構想。大東亜共栄圏構想はここから始まる。 内容 「昭和十三年十一月三日付 今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。 この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の...
  • 蔵本書記生失踪事件
    蔵本書記生失踪事件(くらもとしょきせいしっそうじけん)は、1934年に発生した日本の外交官の失踪騒動。日本側が中国側によるテロと早合点したために、あわや日中両国の軍事衝突寸前にまで陥った。 概要 1934年6月8日、当時中華民国の首都であった南京総領事館に勤務する書記生・蔵本英昭(当時)が突然行方不明となった。当時の南京駐在総領事であった須磨弥吉郎は当時の中華民国国内の反日感情から蔵本は中国人に拉致されて殺害されたものと判断して、当時の南京国民政府に対して抗議を行ったのみならず、海軍に要請してたまたま東シナ海にいた第三艦隊旗艦出雲を揚子江に侵入させて南京近くまで遡上させて責任を追及する態度を示した。 この強硬な日本の態度ために中華民国の世論は激昂して日中両国の衝突は避けられないとの見方も出た。これを憂慮した汪兆銘が須磨の説得にあたったものの、須磨は「全ての責任は中国側にある」との...
  • 対華21ヶ条要求
    対華21ヶ条要求(たいか21かじょうようきゅう)は、第一次世界大戦中、日本が中国政府に行った21か条の要求と希望。二十一か条要求などとも呼ばれる(中国語版では「二十一条」)。 経緯 第一次世界大戦勃発後の1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)が中華民国の袁世凱政権に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった。 ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること 関東州の租借期限を延長すること 満鉄の権益期限を延長すること 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中国最大の製鉄会社)の日中合弁化 沿岸部を外国に割譲しないこと 5号条項として、中国政府に政治経済軍事顧問として日本人を雇用すること など 5号条項は秘密・希望条項とされていたが、中国側が21ヶ条要求を突きつけられたと喧伝し、国際的、主にアメリカからの批判を浴びた。日本は5号...
  • 王 (皇族)
    王(おう、みこ、古くはおおきみ)は、皇族の身位または称号の一つ。または、王の身位を授けられた皇族のこと。 律令では皇族の男子のうち親王宣下のない者を指した。現行の皇室典範では、天皇から直系で三親等以上離れた皇族男子を指す(傍系でなく直系尊属の天皇から数える)。ちなみに、王の妃を王妃という。 ただし、2007年9月時点で日本には女王は存在するものの、王は一人も出生していない。 王は皇族身位令に準じ、成年となったときに桐花大綬章を授与される(2003年11月2日までに成年に達した場合は勲一等旭日桐花大綬章であった)。 なお、韓国併合条約及び関連する詔書により、「韓国皇帝陛下太皇帝陛下皇太子殿下並其ノ后妃及後裔」に該当する者を王族とし、李王家の当主も王というが、皇族の王と王族の王は全く違うものである。 なお、幕末以後日本が西洋と国交を開いた直後には、西洋の皇帝(=天皇)と王の関係を日本...
  • 支那事変
    支那事変(しなじへん)は、日中戦争の呼称として、大日本帝国政府が定めた公称昭和12年9月2日閣議決定、事変呼称ニ関スル件「今回ノ事変ハ之ヲ支那事変ト称ス」である。 当項目では「支那事変」という呼称に関する問題について述べる。Template main2? 概要 事変は、昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件を発端として北支(北支那、現中国の華北地方)周辺へと拡大し、部隊衝突は8月の第二次上海事変勃発により中支(中支那)へ飛び火、やがて中国大陸全土へと飛散して行き、大日本帝国と中華民国とは次第に戦争の様相を呈していった。しかし昭和16年(1941年)12月までの間は、双方が宣戦布告や最後通牒を行わず、戦争という体裁を望まなかった。戦争が開始された場合、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対する軍事的支援は、これに反する敵対行動となるためである。国際的孤立を避けたい日本...
  • 武漢作戦
    Template Battlebox? 250px|right|thumb|[[国民革命軍]] 武漢作戦(ぶかんさくせん)は、日中戦争の戦い。武漢攻略戦とも言う。中国側呼称は武漢会戦、武漢保衛戦。 背景 徐州会戦後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日中戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は同年5月5日に国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。 経過 大本営は6月18日に武漢作戦の準備を命令。8月22日に目的は要地武漢三鎮の占領であるとし、通城と岳州を進出限界線として要地の占領とその間の敵の撃破を命令した。新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻...
  • 西安事件
    西安事件(せいあんじけん、西安事変 -じへん、ともいう)は民国25年(1936年)12月12日に西安で起きた、張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件。 概要 1936年10月、国民政府主席蒋介石は、紅軍(共産党軍)の根拠地に対する総攻撃を命じた。この攻撃に参加していた張学良は、父である張作霖が殺害されたことから抗日的気運が高く、共産党の内戦の停止、一致抗日の主張に対してシンパシーを感じており、紅軍に対する攻撃が消極的となっていた。蒋介石は消極的な張学良を督戦するため、12月4日に西安に行った。西安に来た蒋介石に対し、張学良は内戦を停止するように説いたが、蒋介石にこれを拒絶された。このことを切っ掛けに、蒋介石を監禁し、以下の8項目の要求を全国に流した。 8項目の要求 南京政府の改組、諸党派共同の救国 内戦の停止 抗日七君子の釈放 政治犯の釈放 民衆愛国運動の解禁 人民の政...
  • 盧溝橋事件
    盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。 事件の経緯 7月7日 22時40分頃:永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、まず豊台の一木清直大隊長、ついで北平の牟田口廉也連隊長に伝達される。 23時00分頃:行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり) 7月8日 現地の動き 3時25分:...
  • 中ソ不可侵条約
    中ソ不可侵条約(ちゅうそふかしんじょうやく)は日中戦争中の1937年8月21日、中華民国とソビエト連邦の間で調印された条約である。同条約に従い、ソ連は中国国民政府に対して空軍支援を送り(Zet作戦)、これは日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。条約はまた、中国とナチス・ドイツとの友好関係の悪化に寄与し、それはドイツによる満州国の正式承認と在華ドイツ軍事顧問団の終結で頂点に達した。 関連事項 中ソ友好同盟条約 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月18日 (木) 05 43。    
  • 田中上奏文
    thumb|300px|田中上奏文 田中上奏文(たなかじょうそうぶん)は、昭和初期に中国を中心として流布した怪文書・偽書である。田中メモリアル・田中メモランダム・田中覚書とも呼ばれ、中国では田中奏摺、田中奏折と呼ばれる。英語表記はTanaka Memorialである。 田中上奏文は、その記述によれば第26代内閣総理大臣田中義一が1927年(昭和2年)、昭和天皇へ極秘に行った上奏文であり、中国侵略・世界征服の手がかりとして満蒙(満州・蒙古)を征服するための手順が記述されている。この文書は発表当初から偽書であることが指摘されており、現在の史学でも偽書であるとされている。松岡洋右、重光葵などの当時の外交官は、日本の軍関係者が書いた文書が書き換えられたものではないかと見ていた。しかし、田中上奏文を本物であると考える人は現在でも特に日本の国外に存在する服部龍二「「田中上奏文」と日中関係」、劉傑・...
  • 綏遠事件
    Template Battlebox? 綏遠事件(すいえんじけん)は、1936年末の、綏遠省東部での内蒙軍と、中国軍との戦闘である。中国側では綏東事件とも。 内蒙における自治の要求はつとに強いものであったが、1933年7月、百霊廟の自治会議から雲王、徳王を中心とする自治運動がめざましくなった。10月の百霊廟の五次会議、11月の中央の黄紹雄、趙丕廉の派遣を経て、翌年2月行政院直属の蒙古地方自治政務委員会(蒙政会)を設けて、何応欽を指導長官とし、雲王、徳王などを委員とした。 西北問題、内蒙古問題が発展すると、国民政府はこれに安んじることなどなく、1936年1月、綏遠省境内蒙古各盟旗政務委員会(綏境蒙政会)を設け、閻錫山を指導長官とし、傅作義(zh)の監督の下に沙王以下の委員を任命し、中央的色彩を濃くした。これをもって勢力は二分された。 1935年12月、省主席代理との折衝で宝昌、沽源、...
  • 甲申政変
    Template 朝鮮の事物? 甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月に朝鮮で起こったクーデター。甲申事変とも呼ばれる。 事件の概要 当時の李氏朝鮮は、壬午軍乱(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。 このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、福澤諭吉や大隈重信をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。 開化派の狙いは、日本と同じように国王を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗...
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