chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「日本の海軍軍人」で検索した結果

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  • 大日本帝国海軍
    ... 海軍軍人については日本の海軍軍人の項を参照のこと。 脚注 参考文献 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』(朝雲新聞社・昭和50年6月) 野村実監修・太平洋戦争研究会著『図説日本海軍』(河出書房新社・1997年11月) ISBN 4309725708 半藤一利『日本海軍の興亡』』(PHP研究所PHP文庫・1999年1月) ISBN 4569572308 太平洋戦争研究会『日本海軍がよくわかる事典』(PHP研究所PHP文庫・2002年7月) ISBN 456957763 野村実『日本海軍の歴史』(吉川弘文館・2002年8月) ISBN 4642037454 坂本正器・福川秀樹『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版・2003年7月) ISBN 4829503300 関連項目 大日本帝国海軍艦艇一覧 大日本帝国海軍艦艇要目解説 ...
  • 加藤友三郎
    ...年)8月24日)は、日本の海軍軍人、政治家。第21代内閣総理大臣。元帥海軍大将・正二位・大勲位・功二級・子爵。同じく海軍大将であった加藤隆義は養子。 生涯 海軍軍歴と入閣 広島藩士、加藤七郎兵衛の三男として広島市大手町(現在の中区大手町)に生まれる。父・七郎兵衛は家禄13石の下級藩士だった。 明治17年(1884年)10月、海軍兵学校7期卒業。明治21年(1888年)11月、海大甲号学生。日清戦争に巡洋艦「吉野」の砲術長として従軍、黄海海戦に大いに活躍した。日露戦争では、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長として日本海海戦に参加。東郷平八郎司令長官と加藤参謀長は弾丸あめあられの中、戦艦「三笠」の艦橋に立ちつくし、弾が飛んできても安全な司令塔には入ろうとせず、兵士の志気を鼓舞した。その後、海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、大正4年(1915年)8月10日、第2...
  • ロンドン海軍軍縮会議
    ロンドン海軍軍縮会議(ロンドンかいぐんぐんしゅくかいぎ)は、1930年に開催された列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的とした国際会議。イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドの提唱により、イギリスのロンドンで開かれた。開催期日は1月21日から4月22日。当初、アメリカ(以下米)・イギリス(英)・日本(日)・フランス・イタリアで会議がもたれた。 背景 1922年に締結したワシントン海軍軍縮条約(以下前条約)では、巡洋艦以下の補助艦艇は建造数に関しては無制限であった。そのため、各国とも前条約内で可能な限り高性能な艦、いわゆる「条約型巡洋艦」を建造することになる。特に日本の建造した妙高型重巡洋艦は、他国のそれを上回る性能を持ったため、これを制限するために開催された。 本会議では補助艦の制限について討議されたが、この3年前にもジュネーブ海軍軍縮会議で同じ問題についてが話し合われていた。しかし...
  • 野村吉三郎
    ...、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。和歌山県出身。位階勲功等は海軍大将・従二位・勲一等旭日桐花大綬章。 駐米大使として真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走した。 経歴 海軍軍人時代 明治28年(1895年)、和歌山中学校を修了。上京後、海軍諸学校への予備校であった私立海軍予備校で学び、海軍兵学校(26期、1898年)卒業。以後海軍軍人としての経歴を歩む。 海兵教官、「千歳」航海長などを歴任した後、明治34年(1901年)に完成した戦艦三笠引取りのためにイギリスへ渡ったのをはじめ、オーストリア、ドイツ駐在を経て、駐米日本大使館附武官・パリ講和会議とワシントン軍縮会議の全権団に随員として加わるなど、海外経験が豊富であった。海軍大学校は出ておらず、「僕を教えられる人がいるのかね」と言ったという逸話がある。後にアメリカ大統領となるフランクリン・ルーズベルト(米海軍次官...
  • 第二次ロンドン海軍軍縮会議
    第二次ロンドン海軍軍縮会議(だいにじロンドンかいぐんぐんしゅくかいぎ)は、1935年12月9日にイギリスのロンドンで開かれた国際会議。1930年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としたが、1934年に行われた予備交渉が不調に終わった為、日本は軍縮条約からの脱退を決意。1934年12月、ワシントン海軍軍縮条約の条約破棄を通告(破棄通告後二年間は有効)。1936年(昭和11年)1月15日に本会議を脱退、イタリアもエチオピア侵略の為脱退し、最終的に英・米・仏の三国のみで1936年3月25日に第二次ロンドン海軍軍縮条約が締結された。 予備交渉における日・米・英の主要主張 艦種日本アメリカイギリス 戦艦主砲14インチ、0~6隻 ※各国共通(戦艦の全廃も視野に)主砲14インチ、12隻、合計排水量32万トン。英国と均等なるを要す主砲12インチ、15隻、合計排水量25万トン。艦型...
  • 山本権兵衛
    Template 日本の内閣総理大臣? 山本 権兵衛(やまもと ごんべえ または やまもと ごんのひょうえ とも 、1852年11月26日(嘉永5年10月15日) - 1933年(昭和8年)12月8日)は、日本の武士・薩摩藩士、海軍軍人、政治家。第16および第22代の内閣総理大臣。階級位階勲等爵位は海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。本名:進水式で祝詞用に神主がつけた名前のごんのひょうえを通称にしていたが、本称は「ごんべえ」である。諱は盛武。 海軍軍人として数々の軍政改革を行い、日清戦争・日露戦争を屋台骨から支えた。この頃の山本を、司馬遼太郎などは、「日本海軍のオーナー」という言葉で評している。その後大正期に二度首相となりリベラルな姿勢を見せるが、二度ともスキャンダルに見舞われ、満足な業績を残せぬまま辞職した。 また、様々な文献で元帥となっている場合があるが、山本が元帥だった事実は無い。...
  • ワシントン海軍軍縮条約
    ワシントン海軍軍縮条約(ワシントンかいぐんぐんしゅくじょうやく)とは、1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催された「ワシントン会議」のうち、海軍の軍縮問題についての討議の上で採択された条約。アメリカ(米)、イギリス(英)、日本(日)、フランス(仏)、イタリア(伊)の戦艦・空母等の保有の制限が取り決められた。 背景 第一次世界大戦が終結した後も、戦勝国となった連合国側は海軍力(特に戦艦)の増強を進めた。各国の軍備拡張計画の内、代表的なものは、アメリカの三年艦隊計画(別名ダニエルズプラン)と日本の八八艦隊計画である。 しかし、軍備拡張に伴う経済負担は各国の国家予算を圧迫し、建造計画の遅滞を引き起こすことになった。先の八八艦隊を例に取れば、艦隊建造のためだけに国家予算の1/3を使い、維持だけでも半分弱を使うこ...
  • 斎藤実
    ...6年)2月26日)は日本の海軍軍人で政治家。 第30代内閣総理大臣(在任1932年 - 1934年)。官位は海軍大将従一位大勲位子爵。ボーイスカウト日本連盟第2代総長。 略歴 ※日付は生年のみ旧暦 安政5年(1858年10月27日 - 水沢藩士・齋藤耕平の子として陸奥国水沢(現:岩手県奥州市)に生まれる。 明治6年(1873年)10月27日 - 海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学。 明治12年(1879年)4月20日 - 海軍兵学校卒業(6期)。 明治15年(1882年)9月8日 - 海軍少尉に任官。 明治17年(1884年) 2月25日 - 海軍中尉に進級。 9月19日 - 駐アメリカ合衆国公使館付武官(~明治21年(1888年)10月26日) 明治19年(1886年)7月14日 - 海軍大尉に進級。 明治26年(1893年)12月...
  • 聯合艦隊解散之辞
    聯合艦隊解散之辞(れんごうかんたいかいさんのじ)とは、日露戦争終結後の連合艦隊解散式において東郷平八郎長官が読み上げた訓示のことである。海軍・海軍軍人の心得を示し、名文の誉れが高い。 概要 日露戦争は日本にとっての総力戦であり、各所で苦戦しつつもロシア軍に勝利を収めることができた。日本海軍は、ロシア海軍に対抗するために、開戦時に常備艦隊を再編成し、連合艦隊を編成した。連合艦隊は旅順や日本海海戦でロシア艦隊を撃破し、日本の勝利に貢献した。 終戦後、戦時編成の連合艦隊を解散し、平時編成に戻すこととなり、解散式が1905年12月21日に行われた。その解散式において連合艦隊司令長官・東郷により聯合艦隊解散之辞が読まれることとなった。訓示は東郷の筆であるが、文面の起草は参謀秋山真之と言われている。 訓示の骨子は、日露戦争と歴史を紐解きつつ国家における海軍の大事を説き、平時における海軍や海...
  • 藩閥
    藩閥(はんばつ)は明治から大正にかけて、日本の政府と軍の要職を占めた旧・西南諸藩(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩のいわゆる薩長土肥)出身者のグループに対する批判的呼称である。藩閥の構成員が閣僚の多数を占める内閣を、藩閥政府あるいは藩閥内閣という。薩長土肥とはいうものの、土佐・肥前出身者は少数にとどまり、薩摩・長州両藩出身者が群を抜いて大規模な閥族を形成した。 Template 和暦?の廃藩置県後に整った新しい官制で、薩長土肥の出身者が参議や各省の卿の大部分を独占したため、藩閥政府が形成された。やがて西郷隆盛の下野と西南戦争での死、紀尾井坂の変での大久保利通の暗殺によって薩摩閥は勢いを失い、実質的に伊藤博文や山縣有朋ら長州閥の一人勝ちとなった。Template 和暦?に内閣制度ができたあとも、薩長出身者の多くが内閣総理大臣、国務大臣、元老となった。 藩閥は議会政治に対する抵抗勢力であり、...
  • 伏見宮博恭王
    Template Infobox 軍人? 伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう、明治8年(1875年)10月16日 - 昭和21年(1946年)8月16日)は、日本の皇族、海軍軍人。伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将・大勲位・功一級。初め名を愛賢(なるかた)王といい、華頂宮相続に当り名を博恭と改めた。 日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加し戦傷を負う。また艦長や艦隊司令官を務める等、皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富であった。 生涯 華頂宮博厚親王薨去に際して、華頂宮の家督を継承し名を博恭と改める。当初実系である伏見宮の家督は弟宮の邦芳王(くにかおう)が継承するはずであったが、邦芳王が病弱との理由から伏見宮に復籍し貞愛親王の継嗣となった。 昭和6年末(1932年)、陸軍参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、昭和7年(1932年)...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 海軍工廠
    海軍工廠(かいぐんこうしょう)とは、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことである。ほかに海軍が直営する軍需工場としては、航空機の修理整備(末期には製造)を担当する航空本部所管の「空廠」、火薬製造・充填を担当する艦政本部所管の「火薬廠」、石炭採掘や石油精製を担当する艦政本部所管の「燃料廠」、軍服・保存食製造を担当する軍需局所管の「衣糧廠」、医薬品・医療機器の製造を担当する医務局所管の「療品廠」がある。 日本の海軍工廠 日本においては、1931年の満州事変勃発までは横須賀、呉、広(呉市)、佐世保鎮守府に併設されていたが、1936年に舞鶴が工作部から海軍工廠に復帰、第二次世界大戦期間中は軍備増強により、豊川、光、相模(寒川町)、高座(座間市、海老名市)、川棚、沼津、多賀城、鈴鹿の8ヶ所に新たな海軍工廠を設置した。 海軍工廠は造船所を中心に発足し...
  • ワシントン会議 (1922年)
    ワシントン会議(ワシントンかいぎ、1921年11月12日 - 1922年2月6日)とは、第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウオレン・G・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍事会議。 概要 国際連盟の賛助を得ずに実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカ合衆国における初の国際会議であり、歴史上初の軍縮会議となった。国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議としての意義があるTemplate fact?。 このワシントン会議を中心に形成されたアジア太平洋地域の戦後秩序をワシントン体制と呼ぶ。 アメリカ ヒューズ国務長官に率いられたアメリカ代表団にとって、会議の主な目的は、西太平洋海域、特に戦略的に重要な島...
  • 軍人勅諭
    軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)は、Template 和暦?1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる勅諭』という。 沿革 西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋‎が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。 Template 和暦?6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。 内容 通常の勅語が漢文調であるのに対し、変体仮名交じりの文語体で、総字数2700字におよぶ長文である...
  • 五・一五事件
    thumb|300px|五・一五事件を伝える[[朝日新聞|大阪朝日新聞。]] 五・一五事件(ごいちごじけん、ごてんいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に起きた大日本帝国海軍急進派の青年将校を中心とする反乱事件。武装した海軍の青年将校たちが首相官邸に乱入し、当時の護憲運動の旗頭ともいえる犬養毅首相を暗殺した。この事件により日本の政党政治は衰退したといわれる。 犯行背景 当時は1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況、企業倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には石原莞爾率いる関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが、政府はこれを収拾できず、かえって引きずられる形であった。犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し、陸軍との関係も悪くなかった。 しかし、19...
  • 西郷従道
    Template Infobox 軍人? thumb|180px|旧西郷従道住宅(国の[[重要文化財。東京都目黒区上目黒にあったものを明治村へ移設)]] 西郷 従道(さいごう じゅうどう、天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日)は、日本の武士・薩摩藩士、政治家、軍人。元帥海軍大将・従一位・大勲位・功三級・侯爵。元老。父は西郷吉兵衛、母は政子。兄弟に兄の西郷隆盛ほか。幼名竜助。のち、出家して茶坊主になった時は竜庵、通称は慎吾。本名は隆興、隆道。 なお名前の読みとして、「つぐみち」が広く流布しているが、西郷家の子孫によると「じゅうどう」が正式の読みである(#エピソードを参照)。 略歴 薩摩藩鹿児島城下加治屋町山之口馬場(下加治屋町方限)に生まれる。剣術は薬丸兼義に薬丸自顕流を、兵学は伊地知正治に合伝流を学んだ。有村俊斎の推薦で薩摩藩主島津...
  • 参謀本部 (日本)
    Template 日本陸軍? 参謀本部(さんぼうほんぶ)は大日本帝国陸軍(明治36年までは海軍の軍令を統括した)の軍令を司った機関。 参謀総長(最終的な名称)を長として、作戦計画の立案等を職務とする。なお、軍政は陸軍省が担当したが、当然のことながら軍政と軍令を明確に分けることは不可能で、広範囲にあいまいな領域が生じた結果、混乱を招くことにもなった。 なお、明治19年から明治21年までの間、海軍の軍令機関が陸軍と統合されていた時期を除いた、海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む。)については軍令部を参照。 沿革 1971年(明治4年)7月 - 兵部省に陸軍参謀局が設けられる。 1872年(明治5年)2月 - 兵部省が陸軍省及び海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。 1873年(明治6年)4月1日 - 参謀局が第六局に改称される。 ...
  • 朝鮮軍人
    朝鮮軍人(ちょうせんぐんじん)とは、Template 和暦?4月1日からTemplate 和暦?までの間、「朝鮮軍人ニ関スル件」(明治44年勅令第36号)により、大日本帝国陸軍に置かれた軍人の分類である。 日韓併合により、大日本帝国陸軍に編入された旧大韓帝国軍人に与えられた身分の総称が「朝鮮軍人」であり、朝鮮が日本領となった以降に帝国陸軍に入隊した朝鮮人を指す呼称ではない。 概要 Template 和暦?に日本と韓国との間で締結された第三次日韓協約により、大部分が解散していた大韓帝国軍であったが、Template 和暦?の日韓併合時にも、なお相当数の在職中の韓国軍人が存在していた。これらの朝鮮総督府設置の際に身分を有していた旧韓国軍人は日本の一般の陸軍軍人に準じた扱いがされ、在職中の者は駐箚軍司令部附又は駐箚憲兵司令部附とされた(「旧韓国軍人ニ関スル件」(明治43年勅令第323号...
  • シーメンス事件
    シーメンス事件(シーメンスじけん)は、ドイツのシーメンス社の行った日本海軍高官への贈賄事件のこと。ヴィッカース社への巡洋戦艦「金剛」発注にまつわる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。大正3年(1914年)1月に発覚し同年3月には海軍長老の山本権兵衛を首班とする山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた。 事件の背景 海軍は明治初年以来、イギリス・ドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。 明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の大正2年(1913年)には、大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けら...
  • 米内光政
    ...3年)4月20日)は日本の海軍軍人。連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任、その後最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。海軍大将・従二位・勲一等・功一級。 生涯 生い立ち 1880年(明治13年)旧盛岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。父が選挙に落選したり事業に失敗したため一家は困窮の中にあった。その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け苦学の後、1901年(明治34年)旧制盛岡第一中学校を卒業、海軍兵学校へ進む。 1903年(明治36年)任海軍少尉。1905年(明治38年)日露戦争に従軍。1914年(大正3年)海軍大学校を卒業。第一次世界大戦後のロシアとポーランドに大使館付駐在武官として駐在し、革命の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析していた。ロシア革命に関する論文もある。大戦後...
  • 岡田啓介
    Template 日本の内閣総理大臣? 岡田 啓介(おかだ けいすけ、慶応4年1月20日(1868年2月13日)) - 昭和27年(1952年)10月17日)は、日本の軍人、政治家。海軍大将。第31代内閣総理大臣。 生涯 海軍時代 1868年(慶応4年)福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。1884年(明治17年)9月、旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業。翌1885年(明治18年)1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しいと感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸士受験に志望変更した。陸士受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、12月1日、結局は海軍兵学校に入校した。...
  • 日本軍
    日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。 組織 以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。 天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。 陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防...
  • 幣原外交
    幣原外交(しではらがいこう)とは、大正末期から昭和初期の両大戦間期に、幣原喜重郎が外務大臣となって行なわれた穏健な対外協調外交をいう。 自主的な外交による日本の国際社会における地位向上に貢献した、との評価がある。一方で地政学の立場からは、協調外交の結果として日英同盟などの軍事同盟の維持が不可能になり、大恐慌後の軍人による対外拡張政策に歯止めを与える存在を無くしてしまう結果になった、などの指摘もある。 第一次 幣原は大正13年(1924年)から昭和2年(1927年)、第二次護憲運動で成立した加藤高明内閣と若槻禮次郎内閣の外相として、ワシントン海軍軍縮条約を尊重し、アメリカ・イギリスとの協調、中国への内政不干渉を唱え、経済的には中国市場拡大、満州の特殊権益の維持を図った。このため大正14年(1925年)には日ソ基本条約を結んで日ソの国交を樹立し、また昭和2年(1927年)、中国で国民革命...
  • 濱口内閣
    {{日本の内閣記事|はまぐち ないかく|27|濱口雄幸|Template 和暦?|7月2日|Template 和暦?|4月14日|立憲民政党|第17回衆議院議員総選挙|1930年(昭和5年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/27.html|立憲民政党総裁・衆議院議員}} 概要 立憲民政党を中心とする政党内閣であるが、一方で貴族院の親民政党議員を多く入閣させたところに特色がある。 外務大臣には、協調外交で知られる幣原喜重郎を起用。 財界からの信任のある井上準之助蔵相を起用して金解禁、緊縮政策、産業合理化を断行し、また政友会の反対を排除してロンドン海軍軍縮条約を結んだ。これらが右翼からの反感を買い、1930年(昭和5年)11月に濱口雄幸が銃撃され、幣原喜重郎が臨時代理を務めた。その後、濱口が復帰するが病状の悪化により総...
  • 濱口雄幸
    Template 日本の内閣総理大臣? 濱口 雄幸(はまぐち おさち、明治3年4月1日(1870年5月1日) - 昭和6年(1931年)8月26日)は、日本の官僚、政治家。第27代内閣総理大臣。正二位勲一等。初の明治生まれの内閣総理大臣である。 来歴 高知県長岡郡五台山村(現高知市)の林業を営む水口家に水口胤平の3人兄弟の末子として生まれる。幸雄と命名されるが、父親が出生届を出しに役所に行く途中で酒を飲み、役所に着いたときには酩酊状態になっていた。その状態で出生届を記入し、誤って名前を前後逆に記入した届が受理されてしまい雄幸となった。 明治22年(1889年)、高知県安芸郡田野村(現田野町)濱口義立の長女夏子と結婚し、濱口家の養嗣子となる。旧制高知中学(現高知県立高知追手前高等学校)、第三高等学校を経て、明治28年(1895年)東京帝国大学法科を卒業。 大蔵省に入り、専売局長官、...
  • 大日本帝国陸軍
    大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん)とは、1871年から1945年まで、日本の天皇が統帥していた陸軍である。通常は単に日本陸軍と呼び、大日本帝国陸軍とは呼ばない。他に帝国陸軍と呼ばれることもある。また、本来は日本陸海軍を指す呼称である国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん)という呼称も、日本陸軍を指す場合が多い。 概要 大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。 最高指揮官は天皇で、大元帥として陸海軍を統帥する。軍令を参謀本部、軍政を陸軍省が司った。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長である。 略史 創成期 帝国陸軍の起源は、明治維新後の187...
  • 東郷平八郎
    Template Infobox 軍人? 東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1847年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であった英国のジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督とし...
  • 大本営
    大本営(だいほんえい)は、戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ。 日清戦争と日露戦争で設置され、戦時の終了後に解散した。支那事変(日中戦争)では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま太平洋戦争(大東亜戦争)終戦まで存続した。連合国からはインペリアル・ジェネラル・ヘッドクォーターズ(Imperial General Headquarters)と呼ばれた。 概要 大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月19日に勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された。日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時において...
  • 統帥権
    統帥権(とうすいけん)とは、軍隊における最高指揮権をいう。 近代日本における統帥権 近代日本では大日本帝国憲法第11条が定めていた天皇大権のひとつである陸軍や海軍への統帥の権能を指す日本国憲法下では、憲法の実際的な解釈と自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定されている。。 明治憲法下で天皇の権能は、特に規定がなければ国務大臣が補弼することとなっていた。併しそれは憲法に明記されておらず、また、慣習的に軍令(作戦・用兵に関する統帥事務)については、国務大臣ではなく、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた1932年に陸軍大学校が教本として作成した『統帥参考』には「統帥権ノ独立ヲ保障センカ為ニハ“武官ノ地位ノ独立”ト“其職務執行ノ独立”トヲ必要トス 政治機関ト統帥機関トハ飽ク迄対立平等ノ地位ニ在リテ何レモ他ヲ凌駕スルヲ得サルヘ...
  • 軍歌
    軍歌(ぐんか)とは、主に軍隊内で、士気を高めるために歌われる歌のことをいう。歴史的な出来事を扱ったものから、戦死した犠牲者を悼むことを目的とするものまで内容は様々である。また、一部の軍歌は、国歌としてそのままもしくは楽譜を使用されることもある。 世界の軍歌 世界的に有名な軍歌というと、フランスの国歌であるラ・マルセイエーズ(ライン軍軍歌)等があり、現在でも国歌として歌われているものもある。国歌として歌われているもののほとんどは革命歌であり、他国との戦争時に歌われたものでないことが多い。しかし、元は軍歌であるため、内容が過激であるという指摘もある。ラ・マルセイエーズを冬季オリンピック開会式にて少女に歌わせた際、フランス国内から過激すぎるとの批判も出るなど、国歌を変更しようとする論争にもなることがあった。 世界の代表的な軍歌 抜刀隊(分列行進曲) (大日本帝国陸軍、陸上自衛隊、警察...
  • 日本の戦争犯罪
    日本の戦争犯罪(にほんのせんそうはんざい)とは、一般に第二次世界大戦で大日本帝国が犯したとされる戦争犯罪の事。  各地で開かれた軍事法廷などで戦勝国によって一方的に裁かれた戦争犯罪人は日本の国内法上犯罪人として扱われていないこともあり、日本において戦争犯罪として認知・認識されるに至っていない。 軍事法廷の評価・戦争犯罪とされた事例の存否・あるいは近年になって新たに提起されるようになった事例についての検証と議論が巻き起こっているが、それらを含んだ戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約・協定等が締結、履行された事と各地の軍事裁判で判決を受け入れたことで償われており、国際法上、既に決着している。 日本の戦争犯罪観 極東国際軍事裁判で裁かれた被告は、条例の第1条に「重大戦争犯罪人」と記されているが、国内では専らA級戦犯と呼称されているが日本国内法上A級戦犯という犯罪者は存在...
  • 鈴木貫太郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、海軍軍人、政治家。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等を歴任し、終戦時の第42代内閣総理大臣。官位は海軍大将、従一位鈴木は死後12年を経た1960年(昭和35年)8月15日(終戦15周年記念日)に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少なく、日本国憲法施行後はこの鈴木が唯一の例である。勲一等功三級、男爵。最後の江戸時代生まれの総理大臣でもある。 経歴 大阪府堺市中区伏尾(和泉国大鳥郡久世村伏尾、関宿藩の飛び地)に関宿藩士の鈴木由哲・きよの長男として生まれる。本籍地は、千葉県野田市(旧・関宿町)。 前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884...
  • 九カ国条約
    九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、1922年(大正11年)のワシントン会議に出席した9カ国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約。 四カ国条約が、列強による日本牽制の意味が強いことに対し、こちらはアメリカの権威拡大を象徴し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。 これ以後、国際社会は、ワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。 日本とワシントン体制 ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約、ワシントン海軍軍縮条...
  • 加藤友三郎内閣
    {{日本の内閣記事|かとうともさぶろう ないかく|21|加藤友三郎|Template 和暦?|6月12日|Template 和暦?|9月2日|官僚、貴族院を基盤。立憲政友会の閣外協力。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/21.html|海軍大将}} 概要 高橋内閣の総辞職後、元老会議は立憲政友会の内紛を理由に高橋以外の人選を進め、加藤を後任として推挙したが、現役海軍大将である加藤は衆議院における政治基盤の無さを理由にこれを辞退する。一方、政友会では高橋是清総裁(前首相)・岡崎邦輔・山本悌二郎の両総務・横田千之助幹事長が会談を開き、加藤辞退の場合には候補者不足のために憲政会の加藤高明が推挙されることが予想されたことから、加藤友三郎に対しては「党員入閣でも好意的局外中立でも無条件をもって内閣組織を援助する」意向を伝え、一方...
  • 軍令部
    軍令部(ぐんれいぶ)とは日本海軍の中央統括機関(海軍省と共同で行う)である。海軍省が内閣に従属し軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を輔翼(ほよく)する立場から、海軍全体の作戦・指揮を統括する。 概要 長たるものは軍令部長(後に軍令部総長)であり、天皇によって海軍大将又は中将が任命される。また、次長は総長を補佐する。この二官は御前会議の構成員でもある。 軍令部は主として作戦立案、用兵の運用を行う。また、戦時は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行うが、作戦目標は軍令部が立案する。 設置当初、政府上層部は陸軍を尊重していたため、参謀本部での軍令部は陸軍の下に置かれた。しかし、太平洋戦争時の最高戦争指導会議では大きな発言力を持つこととなる。 沿革 1884年2月 海軍省達丙第21号により海軍省の外局組織として軍事部が設置 1886年3月 参謀本...
  • 日本の鉄道史
    日本の鉄道史(にほんのてつどうし)では、日本の鉄道の展開過程について述べる。なお年表に関しては、鉄道の歴史 (日本)を参照のこと。 日本の鉄道の歴史 草創期 日本の鉄道史は、幕末にエフィム・プチャーチンやマシュー・ペリーなどが鉄道模型を持ち込み、日本人に見せ走らせたことで始まったと言える。イギリスを端緒とする鉄道開業の情報そのものは、それ以前にも長崎にある出島のオランダ人から伝えられていたが、実物の模型を見たときの衝撃は大きかったと言われ、佐賀藩のようにその模倣で自製の模型機関車を製造し、現実の鉄道敷設計画を立てるところまで現れたほどであった。 その後、薩摩藩や江戸幕府などでも鉄道敷設計画が立てられ、実物機関車を長崎でイギリスがデモンストレーションのため走らせるということも行われたりしたが、実際に敷設計画が具体化したのは明治維新後のことである。 明治2年(1869年)、明治新政...
  • アジア主義
    アジア主義(あじあしゅぎ)とは、19世紀後半に活発となった欧米諸国のアジア進出に対抗する方策として展開された日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。 概要 欧米諸国からの脅威の排除とアジアの自立を目指した主張であるが、その内容は開国文明化、協同、合邦、新秩序構築など、主張する側の思想、立場によって異なり一義的な定義はない。また、時代ごとの国際情勢によって主張内容が変化する。当初は日本と中国、朝鮮の関係論から始まり、日露戦争以降、アジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(大アジア主義)、そして大東亜共栄圏構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。 その後の国際的な地域統合の流れの中で生まれた東アジア共同体構想も、しばしばアジア主義と関連付けられて言及されるこ...
  • 岡田内閣
    {{日本の内閣記事|おかだ ないかく|31|岡田啓介|Template 和暦?|7月8日|Template 和暦?|3月9日|官僚・政党(立憲民政党・昭和会など)|第19回衆議院議員総選挙|1936年(昭和11年)1月21日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/31.html|退役海軍大将}} 概要 岡田内閣は、元老・西園寺公望の奏薦により、退役海軍大将の岡田啓介が組閣した内閣である。官僚と政党を中心とした弱体内閣。天皇機関説問題の対応に苦慮。軍部からの圧力に抗しきれず、第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退し、軍の華北進出を容認した。衆議院で野党・立憲政友会の提出した内閣不信任決議が可決されたことを受けて、1936年(昭和11年)1月21日に衆議院解散。同年2月20日に行われた第19回衆議院議員総選挙の結果、与党・立憲民政党が第一党となるも...
  • 日本海海戦
    Template Battlebox? 日本海海戦(にほんかいかいせん, 1905年5月27日 - 5月28日)は、日露戦争中に日本とロシア帝国との間で戦われた海戦である。 日本以外では一般に対馬海戦(つしまかいせん, Battle of Tsushima)と呼ばれる。対馬東沖を戦場として、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2及び第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で行われた。日本艦隊の司令官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅した。日本側の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となった。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開いた。 背景 バルチック艦隊 ロシア海軍は日露戦争開戦時に日本海軍の3倍近い戦力を保有していたが、艦隊をバレンツ海、バルト海、黒海、太平洋の...
  • 河本大作
    Template Infobox 軍人? 河本 大作(こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1953年8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の実行犯として知られる。 出自 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に生まれた。高等小学校、陸軍大阪地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治36年.11に陸軍士官学校(15期)を卒業し、大正3年に陸軍大学校(26期)を卒業した。 張作霖爆殺事件 関東軍高級参謀として勤務していた昭和3年6月4日、北京から満州に帰還する途上にあった張作霖を奉天近郊の南満州鉄道線路上で爆殺した(当時は満州某重大事件と報道された)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の仕業であるとも報道されていたが、その後の調査で河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉...
  • 日本の政党一覧
    日本の政党一覧(にほんのせいとういちらん)では、現在活動している日本の政党と、現在活動していない日本の政党の一覧を示す。 現在活動している政党 国会に議席を有する政党と議席数 政党名 衆議院 参議院 計 自由民主党 (1955-) 305 83 388 民主党 (1996-)  114 109 223 公明党 (1964-1994,1998-) 31 21 52 日本共産党 (1922-) 9 7 16 社会民主党 (1996-) 7 4 11 国民新党 (2005-) 5 4 9 改革クラブ (2008-) 1 4 5 新党大地 (2005-) ※ 1 0 1 沖縄社会大衆党 (1950-) ※ 0 1 1 新党日本 (2005-) 0 1 1 政党所属人数と院内会派の所属数とは一致しない 無所属...
  • 憲政の常道
    憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一党に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。 概説 大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリスの議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する...
  • 満州国軍
    満州国軍(まんしゅうこくぐん)とは満州国の国軍。1932年に創設。1945年に解体。 当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満州国軍も解体された。 軍制 指揮系統 各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に満州国執政(皇帝即位後は満州国皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた(溥儀は天皇同様、軍を統帥する大元帥の地位にあった)。但し、それはあくまで制度上の話である。実際の満州国の軍事権力は関東軍の支配下にあり、異動・演習の実施・装備の変更・昇格人事のいずれも、関東軍司令部の批准が必要であった。 士官以上の階級 満州国では...
  • 寺内正毅
    Template 記事名の制約? Template 日本の内閣総理大臣? 寺内 正毅(てらうち まさたけ、嘉永5年2月5日(1852年2月24日) - 大正8年(1919年)11月3日)は、日本の陸軍軍人(元帥)、政治家。第18代内閣総理大臣(在任 大正5年(1916年)10月9日 - 大正7年(1918年)9月29日)。元帥陸軍大将従一位勲一等功一級伯爵。  経歴 1852年、現在の山口市に長州藩士宇多田正輔の三男として生まれる。後に母方の寺内家を継いだ。 明治元年(1868年)、御盾隊隊士として戊辰戦争に従軍し、箱館五稜郭まで転戦した。その後山田顕義の推薦によって陸軍士官として累進し、西南戦争最大の激戦とされた田原坂の戦いで負傷して右手の自由をなくした。そのため、以降は実戦の指揮を執ることはなく、軍政や軍教育の方面を歩んだ。 閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学(駐...
  • 山東出兵
    山東出兵(さんとうしゅっぺい)は、日本(大日本帝国)が1927年(昭和2年)と1928年(昭和3年)に、3度にわたって行った中華民国山東省への派兵と、その地で起こった戦闘。 背景 日本は第一次世界大戦(1914年~1918年)でドイツ帝国の権益であった山東省と租借地の青島(膠州湾租借地)、植民地である南洋群島を攻略し、山東省については1919年(大正8年)のパリ講和会議およびヴェルサイユ条約によって、ドイツの権益を全て日本が引き継ぐこととなったが、日本はこれに先駆け、中国政府に対して1915年(大正4年)にドイツ権益を日本に譲り渡すことなどを記載した所謂「21か条の要求」を突きつけ、中国側の反感を買っていた。ヴェルサイユ条約調印直前には、学生を中心にこれに反対する運動が盛んになり、五・四運動となった。 状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)の日中山東条約...
  • 日清戦争
    Template Battlebox? 日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と清朝中国の戦争。日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国語では中日甲午戦争と呼ぶ。英語ではFirst Sino-Japanese War(第一次中日戦争)と呼ぶ。 日本の戦費総額は2億テール(日本円で3億円)、死者1.3万人。この戦争期間は10ヶ月であった。 経緯 開戦まで 征韓論 日本は明治政府成立直後から、朝鮮半島に対し経済進出を含む深い関心を抱いており、その成立直後から朝鮮との国交渉を始めていた。当時、朝鮮は鎖国状態で、国王高宗の父である大院君が政治の実権を握っていたが、対外政策では欧米諸国の侵入に激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交樹立に反...
  • 木村兵太郎
    Template 基礎情報 軍人? 木村 兵太郎(きむら へいたろう、明治21年(1888年)9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。太平洋戦争後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。 略歴 生い立ち・前歴 埼玉県出身。広島一中、広島陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校卒。 昭和15年(1940年)、関東軍参謀長。昭和16年(1941年)4月から同18年(1943年)3月まで陸軍次官。昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。 ビルマからの撤退 Template see also? 昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導...
  • 寺内寿一
    寺内 寿一(てらうち ひさいち、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日は、日本の陸軍軍人、元帥陸軍大将、政治家。伯爵。第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。山口県出身。 経歴 東高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、成城学校を経て 1899年(明治32年)11月 陸軍士官学校(11期)卒業 1904年(明治37年)3月 日露戦争に出征 1909年(明治42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業 1919年(大正8年)7月 大佐に昇進 1919年(大正8年)12月 伯爵を襲爵 1924年(大正13年)2月 少将に昇進 1926年(大正15年)9月 山陽本線特急列車脱線事故に遭遇。34名も死亡した事故であったが、寺内は無傷であった。 1927年(昭和2年) 朝鮮軍参謀長 1929年(昭和4年)8月 中将に昇進 193...
  • 柳川平助
    Template Infobox 軍人? 柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年10月2日 - 1945年1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。司法大臣、国務大臣。 出自 1879年に長崎県西彼杵郡村松(むらまつ)村(2007年現在・長崎市村松町、旧西彼杵郡琴海(きんかい)町村松郷大石)に生まれる。幼少時に佐賀県の柳川家に養子に出る。実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)は、長崎県大村市の開業医(眼科)。 村松小から旧制長崎中学を経て、1900年に陸軍士官学校(12期)を卒業。中尉で日露戦争に従軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。 陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。...
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