chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「旧制中学校」で検索した結果

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  • 旧制高等学校
    ...入学資格は、高等科は旧制中学校4年修了時、尋常科は小学校もしくは国民学校卒業時だった。高等商業学校などの専門学校の受験資格は旧制中学卒業年次(5年)であったが、高等学校は下記のとおり7年制高校の出現により1年間の「飛び級」が認められていたため、高等科の受験資格はそれより1年早い旧制中学4年修了であった。このため4年修了で高等学校を受験するのが一般的であり、合格するものも数多くいた。 1894年の高等学校令に基づく初期の官立高等学校はすべて3年制だったが、大正7年の新高等学校令では修業年限は尋常科4年と高等科3年をあわせて7年が基本とされた。しかし、旧来の高等科のみの設置も許されたため、実際には官立の高校は新設の東京高等学校を除いて戦前最後の旅順高等学校まですべて高等科のみの3年制であり、逆に私立はすべて「飛び級」のできる7年制であった。なお、太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措...
  • 日本の学校制度の変遷
    ...校 師範学校 旧制中学校 実業学校 高等女学校 旧制高等学校 旧制専門学校 旧制大学 新制学校 新制大学 外部リンク 文部科学省 学制百年史、学制百年史 資料編 学制百二十年史 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月14日 (木) 05 11。     
  • 旧制大学
    旧制大学(きゅうせいだいがく)とは、日本において学校教育法(1947年4月1日施行)より前の学校制度における大学の全般を指す言葉である。 旧制大学については、第二次世界大戦後の1947年に施行された学校教育法によって新規に設立された大学(新制大学)と対比する意味で用いられる事が多い。なお、新制大学のうち国立大学については、国立学校設置法(1949年施行、2004年廃止)によって設置された。 旧制大学は、現在(1991年の大学設置基準の大網化以降)の大学の3・4年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程などに相当すると考えられている。現在の大学の1・2年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。なお、旧制大学には旧制専門学校に相当する専門部という組織も設置されていたことがあった。 定義 旧制大学とは、学制、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学である。第二次...
  • 井上日召
    井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は日蓮宗の僧侶で右翼活動家。戦前の右翼団体血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とす。 出身地 群馬県利根郡川場村 学歴 旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校) 東洋協会専門学校(現拓殖大学)中退 略歴 群馬県の医師の家に生まれる。 旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1909年東洋協会専門学校(現拓殖大学)入学も翌年中退。 1909年 南満州鉄道入社。諜報活動等を行う。 1920年 帰国し、日蓮宗の僧侶となる。 1925年 護国聖社に入る 1928年 茨城県大洗町の立正護国堂の住職になる。  その後、海軍の過激派藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長橘孝三郎らと知り合い、暴力的改造以外に道はないと説得され同調、テロ...
  • 憲兵 (日本軍)
    ...の旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・旧制実業学校)への進学率は18.5%に過ぎなかった。昭和初期においても8割以上が小学校卒だったということになる。。合格後の待遇は破格のもので、一般兵卒の月収が当時8円80銭、小学校教員の月収が46円(昭和4年)ほどだったのに対し、憲兵上等兵は基本給7円に加え、憲兵加棒7円50銭、営外加棒36円の支給を受け月額50円50銭の月収があった(昭和2年の陸軍給与令による支給規定)全国憲友会連合会編纂委員会『日本憲兵正史』全国憲友会連合会本部、1976年 P1411。 装備 既述の通り、憲兵の武器使用には制限があったため、平時は拳銃のみで武装しており、有事の際にはこれ加え下士官以下は騎銃を携行した。またこのほか、勤務手帳、呼笛、捕縄、包帯などを携帯することが定められていた。なお、朝鮮憲兵隊の一部は警備のため手榴弾の支給を受けることがあった。 ...
  • 学校教練
    学校教練(がっこうきょうれん)とは、第二次世界大戦以前の日本の学校における教練をいう。軍事教練ともいう。これによって配属された陸軍現役将校を一般に配属将校という。 学校教練を履修した者は陸軍では幹部候補生(学校教練制度設立当初は一年現役兵)を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられた。 目的 本制度設立の目的としては、主に次の点が考えられる。 総力戦であった第1次世界大戦の経験に鑑みて、広く軍事的予備教育を施す必要が認識された。 宇垣軍縮により剰員となる相当数の陸軍現役将校の予備役編入(失業)を防止し、補職を確保する必要があった。 配属を受けた学校 1925年(大正14年)4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布された。同令によって、一定の官立又は公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属された。私立学校につ...
  • 南洋庁
    南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年に事実上消滅した。 人口 昭和14年12月末現在(『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』による) 総人口 129,104人 内訳 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 島民(チャモロ族・カナカ族) 51,723人 外国人 124人 年表 1919年5月7日 - パリ講和会議の英米仏首相会議で、赤道以北のドイツ領諸島は日本の委任統治に決定。 1919年6月28日 - 「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書」(ヴェルサイユ条約)、調印式。 ドイツの植民地放棄(第118条)と放棄された植民地を国際連盟の委任統治とすること(第22条)などを規程...
  • 国民学校
    国民学校(こくみんがっこう)とは、第二次世界大戦、太平洋戦争の社会情勢によって日本に設けられ、初等教育と前期中等教育を行っていた学校のことである。ナチス・ドイツの初等教育に起源をもつ。 国民学校は、こどもが鍛錬をする場と位置づけられ、国に対する奉仕の心を持った「少国民」の育成がめざされていたともいわれている。 1941年(昭和16年)の国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づいて作られ、6年の初等科と2年の高等科からなり、初等科は、それまでの尋常小学校などを母体とし、高等科はそれまでの高等小学校などを母体としていた。国民学校令の施行とともに、それまでの尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校は、すべて国民学校とされた。 国民学校令においては、それまで6年間だった義務教育を8年間に延長する規定が設けられたが、施行が延期され、国民学校令による義務教育期間の延長は行われなかった。 第二...
  • 来栖三郎 (外交官)
    来栖 三郎(くるす さぶろう、1886年3月6日 - 1954年4月7日)は日本の外交官。駐ドイツ特命全権大使、駐米特命全権大使等を歴任。 プロフィール 生い立ち 神奈川県横浜市生まれ。旧制横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒、1909年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒。 外交官 1909年外交官及び領事官試験合格、1910年外務省入省。ハンブルク総領事等を経て、1932年外務省通商局長、1936年駐ベルギー特命全権大使、1939年駐ドイツ特命全権大使。 日独伊三国軍事同盟締結時の駐ドイツ大使として、日本代表として同同盟の調印式に出席した。その後、近衛文麿内閣では戦争回避のための日米交渉を担当する遣米特命全権大使を拝命、異例の「第二の大使」としてワシントン入りし、野村吉三郎駐米大使を補佐するかたちで日米交渉にあたるが、この人事はかえっ...
  • 皇典講究所
    皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ 1882年 - 1946年)は、日本に設置された神道の研究・教育機関である。 1867年(明治元年)に大教宣布の詔が発布され、1876年(明治9年)に神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成に力を注いだ明治新政府であったが、政教分離・信教の自由論が世の中に広まり、教導職制が廃止された。それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があるとの考えが強くなっていた。この大教宣布の不振、それに続く祭神論争によりその教学の未成熟さを実感した神道はその教学の深化に迫られ、1882年(明治15年)8月23日に、有栖川宮幟仁親王の令旨を奉じた山田顕義ら内務省高官と、松野勇雄ら数名の国文学者が「専ら国典を講究するため」として研究機関を設立した。 内務省の委託を受けて神職を育成を行ったほか、各種の講演会、『古事類苑』・『延喜式』の編纂事業を行...
  • 学徒出陣
    学徒出陣(がくとしゅつじん)とは第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。それまで(旧制)高校や(旧制)大学に在籍する学生は、26歳まで徴兵猶予されていた。 概要 日本は1937年(昭和12年)以来、当初は中華民国、続いて1941年(昭和16年)からはアメリカ合衆国・イギリスなどとの長期戦を続けていた。特にアジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や1942年(昭和17年)以降の戦局悪化で戦死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。 従来、兵役法などの規定により大学(旧制大学)・高等学校(旧制高等学校)・専門学校(旧制専門学校)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予...
  • 柳川平助
    Template Infobox 軍人? 柳川 平助(やながわ へいすけ、1879年10月2日 - 1945年1月22日)は、長崎県出身の日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。司法大臣、国務大臣。 出自 1879年に長崎県西彼杵郡村松(むらまつ)村(2007年現在・長崎市村松町、旧西彼杵郡琴海(きんかい)町村松郷大石)に生まれる。幼少時に佐賀県の柳川家に養子に出る。実兄・楠木志能夫(くすきしのぶ、1953年死去)は、長崎県大村市の開業医(眼科)。 村松小から旧制長崎中学を経て、1900年に陸軍士官学校(12期)を卒業。中尉で日露戦争に従軍。1912年に陸軍大学校(24期)を優等で卒業。 陸軍騎兵実施学校教官、陸軍大学校教官を経て、1918年に北京陸軍大学校に教官として着任。国際連盟派遣、欧州駐在を経て荒木貞夫陸軍大臣の下で1932年に陸軍次官、真崎甚三郎らと皇道派の重鎮となる。...
  • 鶴見騒擾事件
    鶴見騒擾事件(つるみそうじょうじけん)とは、1925年(大正14年)の暮れに現在の横浜市鶴見区で起きた乱闘事件である。日本最大の喧嘩と呼ばれるこの事件は一度に500人以上の検挙者を出し、騒擾罪(法改正により騒乱罪)で起訴されているため鶴見騒擾事件と呼ばれる。 なお鶴見駅周辺から見た場合、鶴見川対岸の潮田地区が主な闘争の現場であるため、本来は事件を別の名称で呼ぶべきであったとする向きもある(注)。当時は橋一つの「川向こう」でも風土や歴史には大きな違いがあり、そこには日本の資本主義の成長の歪みがあった。 (注)事件当時の行政区域は市制施行前の「橘樹郡鶴見町」であるが、事件現場となる「橘樹郡潮田町」と合併した直後であり、その町境が鶴見川であったことから。 大正電力戦争 未曾有の大惨事となった関東大震災は、同時に工場用地が東京市及びその近郊から移転する契機となり神奈川の建設ラッシュに拍...
  • 樺太庁
    世界 アジア 東アジア 大日本帝国 樺太地方 樺太庁 樺太庁のデータ 面積 36090.3km² (海豹島・海馬島含む) 樺太の位置 東端 東経144度45分00(北知床岬)西端 東経141度12分45(海馬島)南端北緯45度47分25(二丈岩)北端 北緯50度線(北緯50度以北は、ロシア領) 世帯数 ?世帯(年月日) 総人口 406,557人(1941年12月1日) 樺太庁 所在地 樺太豊原市東4条南5丁目 樺太庁(からふとちょう、Template lang-ru?、Template lang-en?)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。 この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。 1...
  • 寺内寿一
    寺内 寿一(てらうち ひさいち、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日は、日本の陸軍軍人、元帥陸軍大将、政治家。伯爵。第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。山口県出身。 経歴 東高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、成城学校を経て 1899年(明治32年)11月 陸軍士官学校(11期)卒業 1904年(明治37年)3月 日露戦争に出征 1909年(明治42年)12月 陸軍大学校(21期)を卒業 1919年(大正8年)7月 大佐に昇進 1919年(大正8年)12月 伯爵を襲爵 1924年(大正13年)2月 少将に昇進 1926年(大正15年)9月 山陽本線特急列車脱線事故に遭遇。34名も死亡した事故であったが、寺内は無傷であった。 1927年(昭和2年) 朝鮮軍参謀長 1929年(昭和4年)8月 中将に昇進 193...
  • 加藤高明
    Template 日本の内閣総理大臣? 加藤 高明(かとう たかあき)、1860年1月25日(安政7年1月3日) - 1926年(大正15年)1月28日)は日本の外交官、政治家。第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。幼名は総吉。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。 生涯 財界への歩み 尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。明治5年(1872年)祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、東京大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。...
  • 谷寿夫
    谷 寿夫(たに ひさお、1882年12月23日 - 1947年4月26日)は、岡山県出身の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。南京大虐殺(南京事件)の責任を問われ南京裁判において処刑された。 経歴 岡山中学校、東京府立四中を経て、陸軍士官学校卒(15期)、陸軍大学校卒(24期 恩賜)。 陸軍士官学校卒業後、日露戦争に従軍し、イギリス駐在武官(1915年 - 1918年)中、第一次世界大戦にも従軍する。その後、陸軍大学校の教官(兵学)に任命される。その時、兵学の教科書として、日露戦争を研究する時の必読書として知られる、『機密日露戦史』をあらわす。 1935年、第6師団長(熊本)に親補される。1937年12月、中支那方面軍(松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。 1939年...
  • 軍歌
    ...れた)長く歌われた。旧制中学校以来の歴史の古い高校などでは、今でも応援歌として使用しているところがいくつかある。北朝鮮にはこの歌のメロディを「日本海軍」(?)と組み合わせたような「決死戦歌」という歌がある。 元寇 作詞・作曲 永井建子 日清戦争前の1890年代に、国民鼓舞の目的から元寇撃退を記念する運動が起こった際作られた曲。日清戦争を戦った将兵の士気の大きな原動力ともなり、内地の国民の間でも幅広く愛唱された唱歌でもある。 君が代行進曲 作曲 吉本光蔵 国歌の君が代を行進曲に編曲したもの。重厚、ともすれば鈍重とも取られがちな君が代を、軽快にしかも威厳を損なわずまとめあげ、今なお高評価を受けている。トリオ部分には軍歌の「来たれや来たれ」が流用されているが、歌が稚拙で古すぎたのと、この行進曲にあまりに自然に組み込まれているため、今では元の曲自体が忘れ去られ、君が代行進曲の...
  • 吉田茂-2
    前半は、吉田茂参照 年譜 明治11年(1878年)9月22日 東京神田駿河台に生まれる 明治14年(1881年)8月 吉田家と養子縁組 戸太町立太田学校(現・横浜市立太田小学校)卒業 明治22年(1889年)2月 寄宿制私立中学耕余義塾入学 明治27年(1894年) 4月 耕余義塾卒業 9月 日本中学校(現・日本学園 )入学 明治28年(1895年) 9月 高等商業学校(現・一橋大学)入学 11月 高等商業学校退校 明治29年(1896年) 3月 正則尋常中学校(現・正則高等学校)卒業 9月 東京物理学校(現・東京理科大学)入学 明治30年(1897年)10月 学習院高等学科入学 明治34年(1901年) 8月 学習院高等学科卒業 9月 学習院大学科入学 明治37年(1904年) 7月 学習...
  • 広田弘毅
    Template 日本の内閣総理大臣? 広田 弘毅(廣田 弘毅、ひろた こうき。明治11年(1878年)2月14日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の外交官、政治家。第32代内閣総理大臣。 生涯 生い立ち 1878年(明治11年)2月14日、福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれる。徳平は箱崎の農家の息子で、広田家に徒弟で入り真面目さと仕事熱心が買われ、子どもがいなかった広田家の養子になった。今日でも福岡市の東公園内にある亀山上皇像の銘板には設置に功績があった石工として徳平の名が刻まれている。 初名は丈太郎(じょうたろう)。信仰している禅宗の僧侶に相談に行き、「おまえが自分で自分に責任を持てると思うなら自分で名前を考えろ」と言われて『論語』巻四 泰伯第八にある「士不可以不弘毅」(士はもって弘毅...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 帝国大学
    帝国大学(ていこくだいがく)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された大学のことである。以下のように、1校のみの時期はその大学の名称として、2校以上になってからは大学群の総称として使われた。 1886年~1897年:日本唯一の大学であった東京大学(1877年設立)が帝国大学令に基いてつけられた名称。 1897年~:帝国大学令に基いて設置された複数の大学群の総称。最終的に、内地に7校、外地に2校設置された。 概要 帝国大学は、前身となる高等教育機関を改組・改称して設置され、後に学部を新設したり、他の高等教育機関を包摂したりして、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられ...
  • 井上準之助
    Template Infobox Celebrity? 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、大正~昭和初期の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。 来歴・人物 浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。 金輸出解禁政策は失敗であったが、当時としては異例の全国各地を歩いて国民に政策の理解を求めるPR活動を行うなどの真摯な態度や、当時の経済学において正統な経済のあり方とされた金本位制を維持しようとしたのは常識的判断であり世界恐慌の深刻さがそれを上回ったと擁護する向きもある。しかし、金融界の意向に配慮した旧平価解禁の強行やその後のドル買事件に際しては一転して金融界と過度な全面衝突を起こすなど...
  • 台湾総督府
    thumb|250px|石川欽一郎作・台湾総督府([[1916年)]] 台湾総督府(たいわんそうとくふ、旧字体:臺灣總督府)は、清国から日本へ割譲され、日本領となった台湾を統治するために設置された当時の日本の官庁名である。 台北市に設置された台湾総督府本庁舎は、現在も中華民国の総統府として使用されている。また昨今の国際情勢の影響により、近隣にはミサイルを多数配備し、憲兵が小銃を装備し護衛にあたっている。 概略 1895年の下関条約の締結から1945年の日本の敗戦まで台湾を支配・統治した。台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程である(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝...
  • 岡田啓介
    Template 日本の内閣総理大臣? 岡田 啓介(おかだ けいすけ、慶応4年1月20日(1868年2月13日)) - 昭和27年(1952年)10月17日)は、日本の軍人、政治家。海軍大将。第31代内閣総理大臣。 生涯 海軍時代 1868年(慶応4年)福井藩士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。1884年(明治17年)9月、旧制福井中学(のち藤島高校)を卒業。翌1885年(明治18年)1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち開成高校)などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しいと感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸士受験に志望変更した。陸士受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、12月1日、結局は海軍兵学校に入校した。...
  • 陸軍士官学校事件
    陸軍士官学校事件(りくぐんしかんがっこうじけん)とは、1934年(昭和9年)におきた日本陸軍の事件。別名十一月事件。 1934年(昭和9年)11月20日、陸軍士官学校でクーデター計画が発覚したとして、皇道派の青年将校の村中孝次大尉・磯部浅一一等主計ら3人と士官学校生徒5人が逮捕された。事件は証拠不十分として不起訴処分となるが、村中・磯部両名は停職、士官学校生徒5名が退学処分となった。 この逮捕は統制派による謀略であり、以前から皇道派の有力将校を狙い撃ちされたものであった。これは辻政信の陰謀によるものとの説が有力であるが、片倉衷が辻に加担したとも、また永田鉄山軍務局長の指示によるとも言われる。事件摘発後に磯部は、辻と片倉によるでっち上げだとして二人を誣告罪で訴えたが、軍法会議で却下された。 この事件が皇道派の結束力を深め、相沢事件や二・二六事件を起こす一因となったとの見方がある。 ...
  • 連合国軍最高司令官総司令部
    連合国軍最高司令官総司令部(れんごうこくぐんさいこうしれいかんそうしれいぶ、聯合国軍最高司令官総司令部)とは、第二次世界大戦終結に際してポツダム宣言の執行のために日本を占領し、間接統治を行なった連合国軍の日本における司令本部である。日本では「GHQ」という通称が用いられた。連合国軍総数は20万人、うち12万人が横浜市に上陸した。 名称 英語の General Headquarters/ Supreme Commander for the Allied Powers の日本語訳。「総司令部/ 聯合国軍最高司令官」が正式名称となるが、この記事名のほか、「軍」という語を使わずに連合国最高司令官総司令部、これを略して連合国総司令部としたり、軍を含めて連合国軍最高司令部日本教育制度ニ対スル管理政策(昭和二十年十月二十二日連合国軍最高司令部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府ニ対スル覚書)、...
  • 米内光政
    Template 日本の内閣総理大臣? 米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は日本の海軍軍人。連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任、その後最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。海軍大将・従二位・勲一等・功一級。 生涯 生い立ち 1880年(明治13年)旧盛岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。父が選挙に落選したり事業に失敗したため一家は困窮の中にあった。その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け苦学の後、1901年(明治34年)旧制盛岡第一中学校を卒業、海軍兵学校へ進む。 1903年(明治36年)任海軍少尉。1905年(明治38年)日露戦争に従軍。1914年(大正3年)海軍大学校を卒業。第一次世界大戦後のロシアとポー...
  • 皇国史観
    皇国史観(こうこくしかん)は、日本国と日本人は歴代天皇を中心とした国造りが行われ、現代までに到る伝承と歴史が紡がれ継承されて来たとする歴史観。 第二次世界大戦以前 南北朝時代に南朝の北畠親房が南朝の正統性を示すために著した『神皇正統記』が先駆的なものであり、江戸時代に展開した水戸学や国学でその基礎が作られた。幕末の尊王攘夷運動の過程で強化され、明治維新後には政治体制によって正統な歴史観として確立した。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批...
  • 幣原喜重郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう、1872年9月13日(明治5年8月11日)- 1951年(昭和26年)3月10日)は日本の政治家、外交官。戦前に4回外務大臣を務め、党人派の幣原外交として軍人派の田中外交と対立する。終戦後は第44代内閣総理大臣(在任:1945年10月 - 1946年5月)、第40代衆議院議長に就任した。従一位勲一等男爵。 略歴 生い立ち 大阪府門真一番村(現門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪中学校、第三高等中学校を経て、1895年 帝国大学法科大学卒業。 戦前 1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻禮次郎内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。 この間に対米...
  • 平泉澄
    平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月16日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。白山神社第3代宮司、名誉宮司。皇学館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。専門は日本中世史。福井県出身。 戦前戦中に、いわゆる皇国史観を主導し、政治・社会・学界に大きな影響を与えた。 略年譜 1895年(明治28年)、誕生。 1901年(明治34年)、龍池尋常小学校入学。 1905年(明治38年)、成器高等小学校入学。 1907年(明治40年)、大野中学校入学。 1912年(大正元年)、第四高等学校入学。 1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科入学。 1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学国史学科卒業。 1921年(大正10年)、文部省宗教制度調査嘱託。 1923年(大正12年)、...
  • 鈴木貫太郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 鈴木 貫太郎(すずき かんたろう、1868年1月18日(慶応3年12月24日) - 1948年(昭和23年)4月17日)は、海軍軍人、政治家。連合艦隊司令長官、海軍軍令部長等を歴任し、終戦時の第42代内閣総理大臣。官位は海軍大将、従一位鈴木は死後12年を経た1960年(昭和35年)8月15日(終戦15周年記念日)に、最高位階である従一位を贈位されている。従一位を没時追賜した例は多いが、死去から年数を経て贈位するのは例が少なく、日本国憲法施行後はこの鈴木が唯一の例である。勲一等功三級、男爵。最後の江戸時代生まれの総理大臣でもある。 経歴 大阪府堺市中区伏尾(和泉国大鳥郡久世村伏尾、関宿藩の飛び地)に関宿藩士の鈴木由哲・きよの長男として生まれる。本籍地は、千葉県野田市(旧・関宿町)。 前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、1884...
  • 小磯國昭
    Template 日本の内閣総理大臣? 小磯 國昭(こいそ くにあき、「國」は「国」の正字体、1880年(明治13年)3月22日 - 1950年(昭和25年)11月3日)は、日本の第41代内閣総理大臣。陸軍大将、従二位、勲一等、功二級。 経歴 栃木県宇都宮に山形県士族で警察署警部・小磯進の長男として生まれる。山形県中学校・陸軍士官学校(12期)・陸軍大学校(22期)卒業。陸軍省軍務局長・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・朝鮮総督などを歴任。 朝鮮軍司令官時代に、大命が降下された宇垣一成から陸相入閣要請があった。この要請は軍部大臣現役武官制のため、陸軍が陸相候補を擁立拒否をしたため、現役武官だった小磯を入閣させて、宇垣内閣を発足させることを意図したものであった。結局、小磯は入閣しなかったため、宇垣内閣は組閣流産となった。 1922年(大正11年)の欧州航空兵力視察の経験から、空軍力の...
  • 超然主義
    超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。ま...
  • 対華21ヶ条要求
    対華21ヶ条要求(たいか21かじょうようきゅう)は、第一次世界大戦中、日本が中国政府に行った21か条の要求と希望。二十一か条要求などとも呼ばれる(中国語版では「二十一条」)。 経緯 第一次世界大戦勃発後の1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)が中華民国の袁世凱政権に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった。 ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること 関東州の租借期限を延長すること 満鉄の権益期限を延長すること 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中国最大の製鉄会社)の日中合弁化 沿岸部を外国に割譲しないこと 5号条項として、中国政府に政治経済軍事顧問として日本人を雇用すること など 5号条項は秘密・希望条項とされていたが、中国側が21ヶ条要求を突きつけられたと喧伝し、国際的、主にアメリカからの批判を浴びた。日本は5号...
  • 野村吉三郎
    {{基礎情報 軍人 | 氏名 = 野村 吉三郎 | 各国語表記 = | 生年月日 = 1877年12月16日 | 没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? | 画像 = Kichisaburo Nomura as Foreign Minister 1939 cropped.jpg | 画像サイズ = | 画像説明 = 阿部内閣の外務大臣に迎えられ記者団を前に抱負を語る野村(1939年9月26日) | 渾名 = | 生誕地 = 和歌山県 | 死没地 = | 所属政体 = Template JPN? | 所属組織 = 大日本帝国海軍 | 軍歴 = 1898 - 1937 | 最終階級 = 海軍大将 | 指揮 = 第三艦隊司令長官呉鎮守...
  • 鈴木貞一
    Template 基礎情報 軍人? 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年12月16日 - 1989年7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東条英機側近三奸の一人とされる。 略歴 千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年に陸軍士官学校(22期)、1917年に陸軍大学校(29期)を卒業。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在。 1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。 鈴木は前述の通り、...
  • 安田財閥
    安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。 金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。 沿革 奉公人からの出発 20歳で奉公人として上京した安田善次郎が26歳になり露店の両替商から始まって、慶応二年に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得る。 明治維新に至ると、当時まだ信頼を得ていない額面割れした明治政府の太政官札に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を収集。明治2年に至り正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えにより更なる巨万の利益を得ることになる。 明治9年に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、明治13年には安田商店を安田銀行(後の富士銀行。現...
  • 原敬
    Template 日本の内閣総理大臣? 原 敬(はら たかし、安政3年2月9日(1856年3月15日) -大正10年(1921年)11月4日)は、日本の政治家。幼名は健次郎。立憲政友会第3代総裁。第19代内閣総理大臣(在任1918年9月29日 - 1921年11月4日)。正二位大勲位。 概説 郵便報知新聞記者を経て外務省に入省。後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後退官。その後、発足時から立憲政友会に参加。政界に進出し、大正7年(1918年)に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われている。 大正10年(1921年)11月4日、東京駅丸の内南口コンコースにて、右翼青年中岡艮一に襲撃され、即死した。満Template 没年齢?。 なお、通称名である「はら けい」が用いられる...
  • 田中隆吉
    Template Infobox 軍人? 田中 隆吉(たなか りゅうきち、1893年(明治26年)7月9日 - 1972年(昭和47年)6月5日)は、陸軍少将。第一次上海事変(1932年)・綏遠事件(1936年)において主導的役割を果たし、太平洋戦争開戦時の陸軍省兵務局長という要職にありながら、東京裁判において検事側の証人として被告に不利な証言もした。 田中は日本軍の数々の謀略に直接関与しており、日本軍の闇の部分に通じた人物であった。また、驚異的な記憶力の持ち主で、これらが東京裁判において発揮された。 略歴 1893年(明治26年) - 島根県安来市の商家に生まれる。島根県立松江中学校へ進む。 1907年(明治40年) - 陸軍広島地方幼年学校入学。 1910年(明治43年) - 陸軍中央幼年学校入学。 1913年(大正2年)3月 - 陸軍士官学校砲兵科卒業(26...
  • 石原莞爾
    Template Infobox 軍人? 石原 莞爾(いしわら かんじ読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』(日本経済新聞社 ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」とルビが振られている。、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人、満州派の領袖。立命館大学国防学研究所長(1941-42年)。通称「帝国陸軍の異端児」。 軍歴は関東軍作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長兼駐満州国武官、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、最終階級は陸軍中将。 生涯 幼少年時代 明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原...
  • 何応欽
    何応欽(かおうきん、1890年4月2日 - 1987年9月21日)は中華民国の軍人。字は敬之。 貴州省興義に生まれる。 貴州陸軍小学・武昌陸軍中学を卒業した後、1908年、日本に留学し陸軍士官学校に22期生として入学。同期に牟田口廉也、鈴木貞一、相沢三郎がいる。ちなみに蒋介石は前年に陸軍士官学校に21期生として入学している。1909年、中国同盟会に加盟。1916年に帰国し、貴州第一師歩兵第四団団長・貴州陸軍混成旅旅長などを務めた。 1924年、孫文の広東軍政府に参加。軍校教練部主任・大本営軍事参謀。国民革命軍第一軍軍長に任命される。1926年、北伐参加。国民革命軍東路総指揮・参謀長など歴任。「蒋介石の片腕」と評される存在になる。1927年に南京国民政府が成立すると、第一路軍総指揮、翌年には総司令部参謀長となった。1933年に北平に赴任し、国民党軍事委員会北平分会会長に任ぜられ塘沽協定...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 真土事件
    真土事件(しんどじけん)は1878年(明治11年)、神奈川県大住郡真土村(現平塚市)に起こった農民暴動。「真土騒動」「松木騒動」とも言う。 村の戸長は勝手に村人の質地を自分の名義に変えてしまい裁判となる。一審では村人が勝訴したが、二審では敗訴。再審の費用の無い村人は暴動を起こし、戸長一家を殺害した。また泉鏡花はこの事件を素材とした『冠弥左衛門』を書いて文壇にテビューした。 関係年表 経過 1876年(明治9年)11月、冠弥右衛門ら六五名は区長兼戸長職にあった松木長右衛門に土地の請け戻しを横浜裁判所に訴え、勝訴。 1878年(明治11年)9月、松木は上等裁判所に控訴。二審では冠弥右衛門らは敗訴し、訴訟費用や延納小作料の厳しい請求を受け、大審院への控訴費用がないどころか、凍餓の危機を迎える。 1878年(明治11年)10月26日深夜、冠弥右衛門以下26名...
  • 東郷茂徳
    Template 日本の閣僚? 東郷 茂徳(とうごう しげのり、明治15年(1882年)12月10日 - 昭和25年(1950年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。 人物 東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務め...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • 板垣征四郎
    Template Infobox 軍人? 板垣 征四郎(いたがき せいしろう、明治18年(1885年)1月21日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人である。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。 敗戦後、東京裁判にて死刑判決を受ける。現在は靖国神社に合祀されている。 元参議院議員の板垣正は次男。 生涯 出自 岩手県盛岡市出身。盛岡中学、仙台の陸軍幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人...
  • 真崎甚三郎
    Template Infobox 軍人? 眞崎 甚三郎(まさき じんざぶろう、明治9年(1876年)11月27日 - 昭和31年(1956年)8月31日)は、日本の軍人。陸軍大将。皇道派の中心人物。佐賀県出身。弟に海軍少将・衆議院議員の眞崎勝次。 来歴・人物 佐賀中学(現・佐賀県立佐賀西高等学校)から1895年12月、士官候補生を経て、1896年9月、陸軍士官学校へ。陸士第9期卒後日露戦争に従軍。 陸軍大学校第19期卒業。荒木貞夫、阿部信行、松木直亮、本庄繁、小松慶也が同期にいる。荒木が首席で卒業している。 久留米俘虜収容所長2006年公開の映画「バルトの楽園」で板東英二が演じた久留米俘虜収容所長は真崎がモデルとみられる。、陸軍大佐、軍務局軍事課長、近衛歩兵第1連隊長、陸軍少将、歩兵第1旅団長、陸軍士官学校本科長、教授部長兼幹事、陸軍士官学校長、陸軍中将、第8師団長、1929年7...
  • 昭和-2
    前半は昭和参照 略年表 ()内は昭和での年代を表す。 昭和 X 年と西暦 Y 年とは X = Y - 1925 の関係にある。 昭和前期 1927年(2年):昭和金融恐慌 1928年(3年):張作霖を爆殺。男子普通選挙実施 1929年(4年):世界恐慌 1930年(5年):金輸出解禁 1931年(6年):柳条湖事件、満州事変 1932年(7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件 1933年(8年):12月23日 継宮明仁親王(のちの皇太子となり、後に今上天皇)誕生、滝川事件、国際連盟脱退 1935年(10年):天皇機関説問題 1936年(11年):二・二六事件、日独防共協定締結 1937年(12年):日中戦争開戦 、日独伊防共協定締結 朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。 1938年(13年):国家総動員法制定 1939年(14年):ノモンハン事件、ドイツが...
  • 毛沢東
    {{大統領 | 人名=毛沢東 | 各国語表記= | 画像=Mao1946.jpg | キャプション= | 代数= | 職名=中央人民政府主席 | 国名=中華人民共和国 | 就任日=1949年10月1日 | 退任日=1954年9月27日 | 代数2=初 | 職名2=主席 | 国名2=中華人民共和国 | 就任日2=1954年9月27日 | 退任日2=1959年4月27日 | 出生日=1893年12月26日 | 生地=Template QIN1890? 湖南省湘潭県韶山村 | 死亡日=1976年9月9日 | 没地=北京(廟:毛主席紀念堂) | 配偶者=羅一秀、楊開慧、賀子珍、江青 | 政党= 中国共産党 | サイン= }} {{中華圏の人物 | 名前=毛沢東 | 画像= | 画像の説明= | 出生= | 死去= | 出身地= |...
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