chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「明治神宮外苑」で検索した結果

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  • 明治神宮
    ...誠館などがある。 明治神宮外苑は、明治天皇・昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝える為、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、広く国民より募った寄付と全国青年団の勤労奉仕によって造営された。聖徳記念絵画館を中心に明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)・明治神宮野球場・神宮水泳場などがある。 Template 和暦?10月21日に明治神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会が開催され、雨のなか、約7万の入隊学徒が行進した。 Template 和暦?の空襲の際に社殿のほとんどが消失したが、Template 和暦?10月31日に再建された。 第二次世界大戦後は宗教法人神社本庁の被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、Template 和暦?に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった。 Template 和暦?現在の初詣では、大晦日から正月三が日の間で300万人前後...
  • 学徒出陣
    ...10月21日、東京の明治神宮外苑競技場では文部省学校報国団本部の主催による出陣学徒壮行会が開かれ、東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった。出陣学徒壮行会は、各地でも開かれた。しかし翌年の第2回出陣以降、壮行会は行われなかった。 学徒出陣によって、陸海軍に入隊することになった学生らは陸軍甲種・乙種幹部候補生や海軍予備学生・海軍予備生徒として、不足していた下士官や下級将校の充足に当てられた。 なお、1943年(昭和18年)10月には教育に関する戦時非常措置方策が閣議決定され、文科系の高等教育諸学校の縮小と理科系への転換、在学入隊者の卒業資格の特例なども定められた。さらに翌1944年(昭和19年)年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ、学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される。 対象 1943年(昭和18年)の徴兵対象者拡...
  • 明治天皇
    Template 基礎情報 天皇? 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位 慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 略歴 出生 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。 万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」...
  • 大正
    ...街へと変貌した。 明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが大正15年、その前年出発した「東京六大学野球」が愈々隆盛をきわめるようなる。「 b 大阪朝日新聞 /b 」、「 b 大阪毎日新聞 /b 」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した読売新聞も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。大正14年3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになる。都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長、飲食店のあり方に変革をもたらした。又、コロッケなどの登場によりそれまで洋食とは縁のなかっ...
  • 五箇条の御誓文
    ...箇條御誓文』と題して明治神宮外苑聖徳記念絵画館で展示されている。教科書や歴史書にもよく載っている。 小泉純一郎は首相在任当時、御誓文を元にした決まり文句「万機公論に決すべし」をよく使っていた。2001年に小泉首相の所信表明演説が書籍として出版された際のタイトルは「万機公論に決すべし」であったTBSブリタニカ(現:阪急コミュニケーションズ)編集部編『万機公論に決すべし―小泉純一郎首相の「所信表明演説」』阪急コミュニケーションズ、2001年7月。ISBN 978-4484012148。 2005年7月7日、由利公正が作成し福岡孝弟の加筆訂正のある草稿が競売にかけられる旨の報道があり、5日後に福井県が2388万8000円で落札したと発表した。福井県立図書館(福井市)・福井県立若狭図書学習センター(小浜市)で公開された。 国税庁と在日朝鮮人商工連合会の間で取り交わされたとされる以下の五...
  • 昭憲皇太后
    Template 基礎情報 君主? 昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう、1849年4月17日(新暦5月9日) - 1914年4月9日)は、日本の皇族。明治天皇の皇后。旧名、一条 美子(いちじょう はるこ)。お印は若葉。病弱で実子はなかったが、嫡妻として、夫の側室が生んだ大正天皇を養子とした。 生涯 嘉永2年(1849年)4月17日誕生。従一位左大臣一条忠香の三女で、生母は側室新畑民子(忠香の正室は伏見宮順子女王)。右大臣一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君(照姫)は実の姉であり、千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子(忠香養女、実は今出川公久の娘)とも義理の姉妹となる。 はじめの諱は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、寿栄君(すえぎみ)と改名。 慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新...
  • 太平洋戦争の年表
    ...10月21日 東京・明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催(学徒出陣のはじまり)。 10月24日 スバス・チャンドラ・ボースがシンガポールで自由インド仮政府の成立を宣言。 10月26日 自由インド、英米に宣戦布告。 11月 東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。 11月1日 ブーゲンビル島沖海戦 11月21日 米軍、マキン島・タラワ島上陸(11月23日 日本軍玉砕)。 11月22日~26日 エジプト・カイロで英米中首脳会談(カイロ会談)。 11月24日 セント・ジョージ岬沖海戦 11月28日~12月1日 イラン・テヘランで英米ソ首脳会談(テヘラン会談)。 12月5日 マーシャル諸島沖航空戦 1944年(昭和19年) thumb|200px|2機の特攻機に攻撃された米空母[[バンカー・ヒル (空母)|バンカーヒル]] ...
  • 教育ニ関スル勅語
    『教育ニ関スル勅語』(きょういくにかんするちょくご)は、明治時代に日本の教育の根幹をなすものとして発表された勅語である。『教育勅語』(きょういくちょくご)ともいう。 内容 教育勅語は、明治天皇が国民に語りかける形式をとる。まず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの博愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに明治天皇自らこれを守るために努力したいと誓って締めくくる。 これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日...
  • 熱田神宮
    {{神社 |名称 = 熱田神宮 |画像 = 熱田神宮本宮 |所在地 = 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1 |位置 = Template ウィキ座標2段度分秒? |祭神 = 熱田大神(天叢雲剣) |社格 = 式内社(名神大)官幣大社別表神社 |創建 = 不詳 |本殿 = 神明造 |別名 = |例祭 = 6月5日(熱田祭) |神事 = 歩射神事御煤納神事 }} 熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区にある神社である。 概要 祭神は熱田大神であり、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ。天叢雲剣)を神体としている。同項に詳しいが、剣は壇ノ浦の戦いで遺失したとも神宮に保管されたままとも言われている。 相殿に天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命を祀る。 創建は不詳だが、景行天皇朝...
  • 伊勢神宮
    伊勢神宮(いせじんぐう)は三重県伊勢市にある神社。神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は神宮。ほかの神宮と区別する場合には伊勢の神宮と呼ぶ。神階が無く全国の神宮で神階が無いのは、伊勢神宮・日前神宮・國懸神宮の3宮だけである。、また明治時代から戦前までの国家神道における近代社格制度で別格とされたため、格付けはされない。 概要 建物は皇大神宮(こうたいじんぐう)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)からなる。通常は皇大神宮を内宮(ないくう)と呼び、豊受大神宮を外宮(げくう)と呼ぶ。内宮は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、外宮は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祭る。近世江戸時代を除いて、古代から政治的権威と結びつくことが多かった。 広くは、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた一連の社宮を神宮と総称する。この場合、所在地は伊勢市に...
  • 明治
    Template 日本の歴史? 明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。明治元年1月1日(1868年1月25日)からTemplate 和暦?7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で、同年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。 改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) - 明治天皇の即位による代始改元。 ただし、改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて、明治元年となす)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。 Template 和暦?7月30日(Template 和暦?にグレゴリオ暦を施行) - 明治天皇崩御、...
  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • 明治六年政変
    明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われ...
  • 明治政府の修史事業
    明治政府の修史事業(めいじせいふのしゅうしじぎょう)では、明治期に新政府によって進められた正史(国家史)の編纂事業について述べる。 沿革 1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明明治2年4月4日(1869年5月3日)に明治天皇から三条実美に下された宸翰沙汰書(現在は東京大学史料編纂所所蔵)には、修史ハ萬世不朽ノ大典、祖宗ノ盛挙ナルニ、三代実録以後絶ヘテ続クナキハ、豈大闕典ニ非スヤ。今ヤ鎌倉已降ノ武門専権ノ弊ヲ革除シ、政務ヲ振興セリ。故ニ史局ヲ開キ、祖宗ノ芳躅ヲ継ギ、大ニ文教ヲ天下ニ施サント欲シ、総裁ノ職ニ任ズ。須ク速ニ君臣ノ名分ノ誼ヲ正シ、華夷内外ノ弁ヲ明ニシ内外ノ命ヲ明ニシ、以テ天下ノ綱常ヲ扶植セヨ。と記されている。、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。しかし1877年に財政難のため修史局は廃止され、...
  • 森有礼
    {{政治家 |各国語表記 = もり ありのり |画像 = Arinori Mori 2.jpg |画像説明 = 森 有礼 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1847年8月23日(弘化4年7月13日) |出生地 = 薩摩国鹿児島 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 東京府 |出身校 = 藩校造士館、藩洋学校開成所 |所属政党 = |称号・勲章 = 正二位子爵 |配偶者 = 常(静岡事件犯人・広瀬重雄の親族)、 /br 寛子(岩倉具視五女、有馬頼萬先妻) |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第2代文部大臣 |内閣 = 黒田内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1888年4月30日 |退任日 = 1889年2月12日 |...
  • 明治十四年の政変
    明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)は、1881年(明治14年)自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すドイツ憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文が、後者を支持する大隈重信を政府から追放した政治事件をさす。この事件により後に制定される大日本帝国憲法は君主大権を残すドイツ憲法を範とされることが決まったといえる。 概要 立憲体制の導入を巡る議論 大久保利通亡き後、明治政府はいつ立憲体制に移行するかという疑問が持ち上がっていた。そのような状況下で、消極論者の右大臣岩倉具視を擁しながら、漸進的な伊藤博文・井上馨(長州閥)とやや急進的な大隈重信(参議・大蔵卿・肥前藩出身)を中心に運営されていた。大隈重信は政府内にあって、財政政策(西南戦争後の財政赤字を外債によって克服しようと考えていた)を巡って松方正義らと対...
  • 華族
    華族(かぞく)とは、1869年から1947年まで存在した日本近代の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族、と区別することがある。 明治以前まで使用されていた、華族という名称の狭義の意味は、公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格、清華家の別称であった。 前史 明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家・維新後に諸侯とされた家16家徳川御三卿の3家...
  • 昭和天皇
    Template 半保護S?Template 基礎情報 天皇? 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年(明治34年)4月29日 - 1989年(昭和64年)1月7日)は、日本の第124代天皇。名は裕仁(ひろひと)。印は若竹(わかたけ)。歴代天皇の中で(神話上を除き)在位期間は最も長く、最も長寿であった。 (現在の)今上天皇の実父にあたる。 略歴 thumb|200px|[[香淳皇后とともに。]] thumb|200px|[[1922年、イギリス皇太子エドワード・デイヴィッド(右)訪日時、貞明皇后(中)とともに。]] thumb|200px|[[1928年、即位の礼。]] thumb|200px|[[1946年11月3日、日本国憲法に署名。]] 昭和天皇は、1901年(明治34年)4月29日(22時10分)、大正天皇と皇后・九条節子(貞明皇后)の第一皇子として、東...
  • 宮城事件
    宮城事件(きゅうじょうじけん)とは、1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。 日本の降伏時期を遷延しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城を「占拠」した。しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自決し、日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。 背景 ポツダム宣言の受諾決定 太平洋戦争(大東亜戦争)に於いて日本の敗戦が既に決定的となっていた1945年8月上旬、6日の広島への原爆投下、9日未明のソ連対日参戦、同日の長崎への原爆投下を受けて、政府内部ではポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。 9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議において、鈴木貫太郎首相はじめ米内光政海軍大臣及び東郷茂...
  • 国立銀行 (明治)
    国立銀行(こくりつぎんこう)は、1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて開設された金融機関のこと。 概要 時の大蔵少輔・伊藤博文のもとで制度が創られた。アメリカのnational bank(現在では国法銀行と訳すことが多い)の直訳で、国家が設立した銀行ではなく、渋沢栄一、三井組などの民間資本が設立したものである。金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一から第五の4行(当時、第三は欠番)が設立された。 1876年、不換紙幣の発行も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された(これ以降は設立許可は認められなかった)。 銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。これらのナンバー銀行は現存する物もあるが、現在存在する八十二銀行だけは第十九銀行と六十三銀行が合併し、両者の数字の和を取って名付けられた銀行(82...
  • 尾崎行雄
    尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。 号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。 略歴・人物 11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明治元年)に番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に上京し慶應義塾童児局に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、...
  • 蒋介石
    {{大統領 | 人名=蔣介石 | 各国語表記= | 画像=Chiang Kai-shek Colour.jpg | 画像サイズ=175px | キャプション=蔣介石(1945年5月) | 代数=初 | 職名=総統 | 国名=中華民国 | 就任日=1948年5月20日 | 退任日=1975年4月5日 | 出生日=1887年10月31日 | 生地=Template QIN1890?浙江省奉化県 | 死亡日=1975年4月5日 | 没地=Template Flagicon?中華民国台北市 | 配偶者=宋美齢 | 政党= 中国国民党 | サイン= }} Template Chinese? thumb|220px|[[張学良とともに]] 220px|thumb|[[宋美齢、アメリカ軍の准将スティルウェルとともに]] 220px|thumb|カイロ会...
  • 日本の鉄道史
    日本の鉄道史(にほんのてつどうし)では、日本の鉄道の展開過程について述べる。なお年表に関しては、鉄道の歴史 (日本)を参照のこと。 日本の鉄道の歴史 草創期 日本の鉄道史は、幕末にエフィム・プチャーチンやマシュー・ペリーなどが鉄道模型を持ち込み、日本人に見せ走らせたことで始まったと言える。イギリスを端緒とする鉄道開業の情報そのものは、それ以前にも長崎にある出島のオランダ人から伝えられていたが、実物の模型を見たときの衝撃は大きかったと言われ、佐賀藩のようにその模倣で自製の模型機関車を製造し、現実の鉄道敷設計画を立てるところまで現れたほどであった。 その後、薩摩藩や江戸幕府などでも鉄道敷設計画が立てられ、実物機関車を長崎でイギリスがデモンストレーションのため走らせるということも行われたりしたが、実際に敷設計画が具体化したのは明治維新後のことである。 明治2年(1869年)、明治新政...
  • 大正天皇
    Template 基礎情報 天皇? 大正天皇(たいしょうてんのう、1879年8月31日 - 1926年12月25日)は、第123代天皇。諱は嘉仁(よしひと)。幼少時の御称号は明宮(はるのみや)。印は壽(じゅ)。在位中の元号から採って、大正天皇と追号された。明治以降の近代天皇制で初の一夫一妻制をとった天皇である。 生涯 誕生 大正天皇は明治12年(1879年)8月31日午前8時20分、明治天皇の第三皇子として東京の青山御所で誕生した。生母は典侍 柳原愛子である。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気に悩まされた。侍医(主治医)の浅田宗伯(漢方医)は「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」(後に消失)とのちに記録している。 このような状態ではあったが、父:明治天皇と皇后:昭憲皇太后(一条美子)との間には皇子女がおらず、...
  • 後藤新平
    {{政治家 |各国語表記 = ごとう しんぺい |画像 = Shimpei Gotō.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1857年7月24日 |出生地 = 陸奥国胆沢郡塩釜村 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 京都 |出身校 = 須賀川医学校 |所属政党 = |称号・勲章 = 伯爵 |配偶者 = 後藤和子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第39代内務大臣 |内閣 = 第2次山本内閣 |就任日 = 1923年 |退任日 = 1924年 |退任理由 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 第34代内務大臣 |内閣2 = 寺内内閣 |就任日2 = 1916年 |退任日2 = 1918年 |退任理由...
  • 第1次松方内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ まつかた ないかく|4|松方正義|Template 和暦?|5月6日|Template 和暦?|8月8日|藩閥内閣|第2回衆議院議員総選挙|Template 和暦?12月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/04.html|前職 = 大蔵大臣}} 概要 山縣有朋(第1次山縣内閣)の後継総理として伊藤博文や西郷従道、山田顕義などの名前も挙げられたが、5月2日に松方正義に組閣の大命が下った。松方は、組閣にあたって前任者たちの全面協力無くしては引き受けられないと述べて全閣僚の留任を唱えて、総理就任の条件とした。そこで前内閣の閣僚が当面留任することになった。このため、民党からは「黒幕内閣」「二流内閣」と揶揄された。だが直後から辞意を表明する閣僚が続出し、更に大津事件が発生して責任を負って外務大臣や内務大臣...
  • 第1次伊藤内閣
    {{Infobox |tnavbar = 日本の内閣記事 |above = 第1次伊藤内閣 |label1 = 内閣総理大臣 |data1 = 初代 伊藤博文 |label2 = 成立年月日 |data2 = Template 和暦?12月22日 |label3 = 終了年月日 |data3 = Template 和暦?4月30日 |label4 = 与党等 |data4 = 藩閥内閣 |label5 = 施行した選挙 |data5 = なし(帝国議会未設置) |label6 = 衆議院解散 |data6 = なし(帝国議会未設置) |below = 内閣閣僚名簿(首相官邸) }} 第1次伊藤内閣(だい1じ いとう ないかく)は、参議の伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命され、Template 和暦?12月22日からTemplate 和暦?4月30日まで続いた...
  • 第1次山縣内閣
    {{日本の内閣記事|だい1じ やまがた ないかく|3|山縣有朋|Template 和暦?|12月24日|Template 和暦?|5月6日|藩閥内閣|第1回衆議院議員総選挙|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/03.html|前職 = 陸軍中将・監軍}} Template 和暦?11月29日に大日本帝国憲法が施行されたため、この内閣の在任時に日本で議会制度(帝国議会)が開始された。 概要 条約改正交渉に失敗して倒れた黒田内閣の後を受けて成立した。内閣職権を廃して内閣官制を導入、「大宰相主義」を否定して内閣総理大臣を「同輩中の首席」と位置づけた。教育勅語の発布、第1回衆議院議員総選挙の実施(Template 和暦?7月1日)、府県制・郡制の導入などを行った。 1890年(明治23年)11月25日に召集された第1議会において、...
  • 黒田内閣
    {{日本の内閣記事|くろだ ないかく|2|黒田清隆|Template 和暦?|4月30日|Template 和暦?|10月25日|超然内閣|なし(帝国議会未設置)|なし(帝国議会未設置)|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/02.html|前職 = 農商務大臣}} 本項では、黒田内閣の事績とともに、黒田の総理辞任後2ヵ月間にわたって存在した内大臣・三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょう ざんてい ないかく)の背景についても解説する。三條暫定内閣は、Template 和暦?10月25日から同年12月24日まで続いた内閣である。 在任期間 黒田内閣 Template 和暦?4月30日 - Template 和暦?10月25日 在任期間544日。 三條暫定内閣 1889年(明治22年)10月25日 - 同年12月24...
  • 参謀本部 (日本)
    Template 日本陸軍? 参謀本部(さんぼうほんぶ)は大日本帝国陸軍(明治36年までは海軍の軍令を統括した)の軍令を司った機関。 参謀総長(最終的な名称)を長として、作戦計画の立案等を職務とする。なお、軍政は陸軍省が担当したが、当然のことながら軍政と軍令を明確に分けることは不可能で、広範囲にあいまいな領域が生じた結果、混乱を招くことにもなった。 なお、明治19年から明治21年までの間、海軍の軍令機関が陸軍と統合されていた時期を除いた、海軍の軍令機関(明治21年乃至明治22年の海軍参謀本部を含む。)については軍令部を参照。 沿革 1971年(明治4年)7月 - 兵部省に陸軍参謀局が設けられる。 1872年(明治5年)2月 - 兵部省が陸軍省及び海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。 1873年(明治6年)4月1日 - 参謀局が第六局に改称される。 ...
  • 南洋庁
    南洋庁(なんようちょう)は、ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島に設置された施政機関。所在地はパラオ諸島のコロール島。その下に支庁が置かれた。1922年に開設され、1945年に事実上消滅した。 人口 昭和14年12月末現在(『第9回南洋庁統計年鑑 昭和14年』による) 総人口 129,104人 内訳 日本人(台湾人・朝鮮人を含む) 77,257人 島民(チャモロ族・カナカ族) 51,723人 外国人 124人 年表 1919年5月7日 - パリ講和会議の英米仏首相会議で、赤道以北のドイツ領諸島は日本の委任統治に決定。 1919年6月28日 - 「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書」(ヴェルサイユ条約)、調印式。 ドイツの植民地放棄(第118条)と放棄された植民地を国際連盟の委任統治とすること(第22条)などを規程...
  • 閑院宮載仁親王
    Template Infobox 軍人? 閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう、慶応元年9月22日(1865年11月10日) - 昭和20年(1945年)5月20日)は日本の皇族、陸軍軍人。伏見宮邦家親王第16王子。元帥陸軍大将大勲位功一級。 経歴 3歳で出家し真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続するが、明治4年(1871年)伏見宮に復籍のうえ、翌年前当主閑院宮第5代愛仁親王の没後、孝仁親王妃吉子が当主格に遇されていた閑院宮家を継承する。 1877年(明治10年)上京し陸軍幼年学校に入学、1878年(明治11年)8月26日に親王宣下、幼名「易宮」を改めて載仁親王と称した。幼年学校の同期には明石元二郎、由比光衛等がいる。1883年(明治16年)幼年学校を卒業するや、フランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊...
  • 第1次大隈内閣
    Template 日本の内閣記事? 与党となった憲政党のうち、旧進歩党系の大隈を首相に、旧自由党系の板垣退助を特に内務大臣に迎えて組織したため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣(わいはんないかく)ともいう。 概要 第3次伊藤内閣が伊藤博文の政党組織準備のために総辞職し、元老が議会勢力に妥協した結果、当時衆議院第一党であった憲政党の首班大隈と板垣に大命が降下されて組閣された。首班が議会(衆議院)に議席を持たないという意味ではやや条件を欠くが、軍部大臣以外を政党人によってかためたという点では、日本史上初の政党内閣であるといえる。 しかし寄合所帯の憲政党内部では、旧進歩党系と旧自由党系の軋轢が強く、自由党系が求めていた星亨の外相任命を大隈が拒んで自ら兼務を続けたことに加え、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展...
  • 皇室令
    Template 日本の法令? 皇室令(こうしつれい)は大日本帝国において皇室典範(旧皇室典範)を根拠とし、皇室典範に属する法体系、いわゆる「宮務法」のもとで制定されていた皇室に関係する一連の諸法を指す。これは大日本帝国憲法を根拠とし、憲法に属する法体系、いわゆる「国務法」とは異なり、皇室典範と同様、制定・改定には帝国議会は関与しない。 日本国憲法施行に伴い、1947年(昭和22年)5月2日を最後に廃止された。 概説 皇室典範(旧皇室典範)に基づく諸規則、宮内官制及びその他の皇室の事務に関して、勅定を経た規定で発表を要するものは、皇室令として制定し、上諭を附してこれを公布した。皇族に準じた礼遇を受けていた王公族や、貴族である華族・朝鮮貴族の権利・義務などについてもこの法形式で規律していた。日本国憲法施行に伴い、この法形式が廃止されることとなり、1947年(昭和22年)5月2日公...
  • 太政官布告・太政官達
    太政官布告(だじょうかんふこく)・太政官達(だじょうかんたっし)とは、ともに太政官によって公布された明治時代初期の法令の形式である。 概要 太政官布告、太政官達は、いずれも、明治時代初期に最高官庁として設置された太政官によって公布された法令の形式である。 布告と達の区別については、当初から厳密な区別はなかったが、1873年(明治6年)には、各官庁及び官員に対する訓令としての意味を持つものを「太政官達」、全国一般へ布告すべきものを「太政官布告」として区別することを定めた(明治6年太政官布告第254号)。しかし、実際の取扱いとしては、その後もそのような区別が厳密にされていたとは言い難く、一般国民を拘束する内容を持つものであっても太政官達の形式により定めたものもあったただし、1869年の版籍奉還以前に藩に対して出された指示は全て「太政官達」である。これは、幕藩体制においては、藩(藩主)...
  • 支那駐屯軍
    Template 軍隊資料? 支那駐屯軍(しなちゅうとんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つであり、中華民国成立以前は清国駐屯軍(しんこくちゅうとんぐん)であった。天津にあったことから天津軍とも通称される。 沿革 Template 日本陸軍? 明治33年(1900年)5月、北清事変が勃発し、日本政府は清国臨時派遣隊を天津に送った。その後の事態の悪化により、6月に第5師団を中心とした部隊を増派し、欧米諸国との連合軍を構成し、8月に事変は沈静化した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成一個旅団により清国駐屯隊を編成し、他の部隊は順次復員した。明治34年(1901年)5月から清国駐屯隊も順次復員した。 そして、同年5月31日には北京議定書に基づき新たに清国駐屯軍が編成され、日本の公使館、領事館、在留邦人の保護を担うこととなった。その後、清国の滅亡に伴い明治45年(1912年)4月...
  • 副島種臣
    {{政治家 |各国語表記 = そえじま たねおみ |画像 = Taneomi Soejima 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1828年10月17日(文政11年9月9日) |出生地 = 肥前国佐賀藩 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 弘道館 |所属政党 = 愛国公党 |称号・勲章 = 勲一等旭日桐花大綬章、伯爵 |配偶者 = |サイン = |国旗 = JPN |職名 = 第3代外務卿 |就任日 = 1871年11月4日 |退任日 = 1873年10月28日 |退任理由 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第7代内務大臣 |内閣2 = 第1次松方内閣 |就任日2 = 1892年3月11日 |退任日2 = 1892年6月8日 |退...
  • 南次郎
    Template Infobox 軍人? 南 次郎(みなみ じろう、明治7年(1874年)8月10日 - 昭和30年(1955年)12月5日)は、日本の陸軍軍人。陸軍大将。 来歴 大分県西国東郡高田町(現・豊後高田市)生まれ。明治17年(1884年)7月、叔父・宮崎義一の下に単身上京、9月に鞆絵小学校(現・港区立御成門小)初級入学。その後成績良好のために鞆絵小高等科に進級した。明治21年(1888年)4月、東京府尋常中学(現・都立日比谷高校)入学。翌・明治22年(1889年)9月、校長となる勝浦鞆雄から1ヶ月の停学処分を受けたのを機にかねてからの陸士志望であったことから、児玉源太郎が校長に就任する成城学校へ転校した。明治23年(1890年)4月の17歳の時、陸軍中央幼年学校へ。明治25年(1892年)4月、陸士入校。明治28年(1895年)4月、陸士6期卒業。陸軍大学校17期出身...
  • 大審院
    大審院(たいしんいん、だいしんいん)とは、明治時代初期から現在の最高裁判所が設置されるまで存続した日本における最高の司法裁判所である。 概要 フランスの破棄院をモデルとして設置され、主として民事・刑事の終審として、特別裁判所(大日本帝国憲法60条。皇室裁判所・軍法会議など。)及び行政裁判所(同憲法61条)の管轄に属しない事項について、裁判を行った。現在の最高裁判所に相当し、大審院長は最高裁判所長官に相当する。 大審院は、終審として上告及び控訴院等がした決定・命令に関する抗告を受け、また、第一審かつ終審として刑法の皇室に対する罪(不敬罪など。昭和22年削除。)、内乱に関する罪、皇族の犯した罪にして禁錮以上の刑に処すべきものの予審及び裁判を行うものとされた(裁判所構成法50条)。 大審院の重要な判例は、1921年(大正10年)までのものについては『大審院判決録』(民録・刑録)に、1...
  • 朝鮮軍 (日本軍)
    Template 軍隊資料? 朝鮮軍(ちょうせんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つ。朝鮮を管轄した。 概要 日露戦争を機に大韓帝国に駐留した韓国駐剳軍(かんこくちゅうさつぐん)を前身とし、明治43年(1910年)の韓国併合に伴い朝鮮駐剳軍(ちょうせんちゅうさつぐん)に名称変更、大正7年(1918年)に朝鮮軍となった。司令部は当初漢城の城内に置かれたが、後に郊外の京城府龍山(現・ソウル特別市龍山区)に移転した。 昭和20年(1945年)2月、戦況逼迫に伴い第17方面軍が設けられ朝鮮軍は廃止されたため、管轄区域の朝鮮軍管区は第17方面軍司令部が兼ねた朝鮮軍管区司令部が管轄した。 歴代朝鮮軍司令官 Template 日本陸軍? 韓国駐剳軍司令官 原口兼済中将:明治37年(1904年)3月11日 - 明治37年(1904年)9月8日 長谷川好道大将:明治37年(190...
  • 征韓論
    thumb|350px|征韓議論図。[[西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)作。]] 征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われている毛利敏彦『明治六年政変』中央公論社〈中公新書〉、1979年(ISBN 4-12-100561-9)による。。 江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。 ...
  • 近衛師団
    Template 軍隊資料? 近衛師団(このえしだん)とは、日本陸軍に置かれた師団の一つ。 なお、イギリス陸軍等でも禁闕守護を任務とする師団を「近衛師団」と呼称する。日本以外の近衛師団については近衛兵を参照のこと。 時代により変遷があるが、近衛歩兵第一、第二、第三旅団が基幹となりその他騎兵、砲兵、工兵等各種兵科による部隊が置かれていた。 沿革 最初期 Template 日本陸軍? 江戸幕府を倒し、明治新政府が樹立された当初、明治政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的に薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。 そのため1871年(明治4年)、明治政府は「天皇の警護」を名目に薩摩、長州、土佐の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である「御親兵」を創設した。この軍事力を背景に廃藩置県を断行した。 この御親兵は、1872年(明治5年)に近衛都督西郷隆盛...
  • 中江兆民
    Template Infobox Celebrity? 中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。 父は土佐藩足軽の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(176...
  • 士族反乱
    士族反乱(しぞくはんらん)は、日本の明治初期に旧武士階級であった士族が明治政府に対して起こした一連の反政府活動である。 江戸時代後期に開国し、王政復古により成立した明治政府は四民平等政策のもと、大名、武士階級を廃止して華族、士族を創設する。秩禄処分により俸禄(家禄)制度は撤廃され、廃刀令の施行など身分的特権も廃された。また、明治政府が行う文明開化、殖産興業政策による西洋技術・文化の輸入、朝鮮出兵を巡る征韓論で政府が紛糾し、明治六年の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すると士族層に影響を与え、明治政府に反対する士族は「不平士族」と呼ばれる。 1874年には江藤が故郷の佐賀県で擁立されて反乱(佐賀の乱)し、1876年(明治9)には熊本県で神風連の乱、呼応して福岡県で秋月藩士による秋月の乱、10月には山口県で前原一誠らによる萩の乱など反乱が続き、それぞれ鎮圧される。1877年には鹿児...
  • 三条実美
    三条 実美(さんじょう さねとみ、正字体:三條 實美、天保8年2月7日(1837年3月13日)- 明治24年(1891年)2月18日)は、江戸時代後期、幕末から明治の公卿、政治家である。明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。 藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。父は贈右大臣実万、母は土佐藩主山内豊策の女紀子。妻は関白鷹司輔煕の九女治子(1848-1924)。「梨堂」と号す。華族制度の発足後は本人の功が考慮され公爵となった。 来歴 三條實美は安政元年(1854年)、兄の三条公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として、文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年国事御用掛となった。長州と密接な...
  • 大韓帝国
    大韓帝国(だいかんていこく、Template lang?、テハンジェグク)とは、1897年 - 1910年に李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(Template lang?、テハングク)、韓国(Template lang?、ハングク)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある。清の冊封国時代と日本統治時代の狭間の短い時期であり、朝鮮半島最後の専制君主国である。 {{基礎情報 過去の国 |略名 = 韓国 |日本語国名 = 大韓帝国 |公式国名 = Template Lang? |建国時期 = 1897年 |亡国時期 = 1910年 |先代1 = 李氏朝鮮 |先旗1 = Flag of Korea 1882.svg |次代1 = 日本統治時代の朝鮮 |次旗1 = Flag of Japan - variant.svg |次代2 ...
  • 鹿鳴館
    鹿鳴館(ろくめいかん)とは外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ。 経緯 計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため、井上は日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。 それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは三田の蜂須賀邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束...
  • 条約改正
    条約改正(じょうやくかいせい)とは、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約を改正するための外交交渉をさす。 概説 江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結ぶ。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある川島信太郎『条約改正関係日本外交文書別冊・条約改正経過概要』(日本国際連合協会 1950年)35ページ)内容であった。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになった。 江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を...
  • 板垣退助
    {{政治家 |各国語表記 = いたがき たいすけ |画像 = Taisuke Itagaki 2.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1837年5月21日(天保8年4月17日) |出生地 = 土佐国高知藩(土佐藩) |没年月日 = 1919年(大正8年)7月16日 |死没地 = 東京市 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = |国旗 = 日本 |職名 = 第17代内務大臣 |内閣 = 第1次大隈内閣 |当選回数 = |就任日 = 1898年6月30日 |退任日 = 1898年11月8日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} 板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919...
  • 解放令反対一揆
    解放令反対一揆(かいほうれいはんたいいっき)は、日本の明治時代はじめに各地でおきた暴動、襲撃事件で、解放令に反対して起こされた。当時の俗称では穢多狩りと言われた。 江戸時代に様々に差別されてきた穢多・非人などの身分及び呼称(とそれに伴う死牛馬取得権など)が1871年(明治4年)8月28日の太政官布告(解放令)で一挙に廃止されることになった。しかし従来彼らを差別してきた他の民衆の中にはこれに反発するものがあり、一揆をなして被差別部落民を襲撃する事件を起こした。これが解放令反対一揆である。1871年から1873年(明治6年)まで散発的に起きた。これを上杉聡や中村拡三らは賤民差別から部落問題の発生の移行期とみる上杉聰「壬申戸籍と近代部落問題の発生」『ヒストリア』117号 大阪歴史学会 1987年『明治維新と賤民廃止令』解放出版社 1990年全国解放教育研究会 中村拡三『部落問題概論』学術図書出...
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