chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「明治維新人名辞典」で検索した結果

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  • 明治維新
    Template 日本の歴史? 明治維新(めいじいしん)とは、江戸幕府による幕藩体制から、明治政府による倒幕運動および天皇親政体制の転換と、それに伴う一連の戦争(戊辰戦争)・改革をいう。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・教育・外交・宗教政策など多岐に及び、日本をアジアで最初の西洋的国家体制を有する近代国家へと変貌させた。 概要 開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる1868年10月23日(旧9月8日)となる。しかし一般的にはその前年にあたる1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古以降の改革を指すことが多い(日本の歴史学界における明治維新研究では、前段階である江戸幕府崩壊期(天保の改革あるいは黒船来航以後)も研究対象とされるが、本項目では維新体制が整う以前の政治状況については「幕末」の項であつかうものとする)。終了時期につ...
  • 幕末
    ... 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年 ISBN 978-4-642-03114-1 宮崎十三八他編『幕末維新人名辞典』新人物往来社、1994年 ISBN 978-4-404-02063-5 篠田鉱造『増補 幕末百話』岩波文庫、1996年 ISBN 978-4-003-34691-4 『【決定版】図説・幕末志士199』学習研究社〈歴史群像シリーズ〉、2003年 ISBN 978-4-056-03016-7 『幕末大全 上巻』学習研究社〈歴史群像シリーズ73〉、2004年 ISBN 978-4-056-03402-8 『幕末大全 下巻』学習研究社〈歴史群像シリーズ74〉、2004年 ISBN 978-4-056-03403-5 小西四郎『開国と攘夷』中公文庫〈日本の歴史19〉、2006年 ISBN 978-4-122-04645-0 井上勝生『...
  • 坂本龍馬-2
    前半は坂本龍馬-2参照 文献 原典 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社 各巻タイトル 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p907 - 952 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補改訂版 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p987 - 1032 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p1045 - 1090 1988年12月、岩崎英重...
  • アーネスト・サトウ
    アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助。 生涯 1843年、ドイツ東部地方にルーツを持つソルブ系スウェーデン人を父、イギリス人を母(旧姓、メイソン)としてロンドンで生まれた。1861年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862年9月、英国駐日公使館の通訳見習として来日した。その直後の9月14日、生麦事件が勃発した。当時、駐日総領事ラザフォード・オールコックは一時帰国していた。1863年には薩英戦争の現場に立会い、1864年には四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会った。後に正規の通訳官及び書記官に昇進。駐日公使ハリー・パークス(在任、1865年-1882年)の下で活躍...
  • 昭和維新
    昭和維新(しょうわいしん)とは、昭和初期の日本で起こった国家革新の標語。 概要 大正末期から昭和初期、国内政治の停滞、国際社会の不安定化などから、軍部の急進派や憂国団体を中心に明治維新の精神の復興、天皇親政を求める声が急速に高まった。特に政争を繰り返す政党政治への敵愾心が激しく、また天皇を外界と遮断して国を誤っている(と彼らには見えた)側近達への憎しみも凄まじい。代表的な事柄としては五・一五事件、二・二六事件が挙げられる。 『昭和維新実現』を唱えて数々の事件が起こされたが、そのどれもが『昭和維新実現』のための『討伐』であったり『天誅』であったりで、「彼を暗殺してからどうするのか、その後誰が何をするのか」という部分においては甚だ具体性に欠けるのが特徴である。日本の政治システムを4日間に渡り空白に陥れた二・二六事件でさえ、実行者達は、皇居を占領し天皇に親政を迫る以降の計画を持っていな...
  • 富国強兵
    富国強兵(ふこくきょうへい)とは、国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策をいう。 中国 中国では、春秋戦国時代に諸侯の国が行った政策を「富国強兵」といい、『戦国策』秦策に用例が見える。この時代には各国が諸子百家と呼ばれる思想家たちから人材を登用し、騎馬戦術や戦車などの新兵器を導入して軍事改革を行った。 日本 日本で明治政府の国策の基本を指す。江戸時代の鎖国が原因で欧米列強に国力で大きな差をつけられ、これが安政の不平等条約という新国家を後々まで苦しめる結果となったことを教訓とした日本は、地租改正や殖産興業で経済力をつけ(=富国)、徴兵制や軍制改革により軍備を増強(=強兵)して、列強に追いつくことにより条約の改正と国家の保全を目指した。 関連項目 明治維新 静岡県   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月...
  • 日本資本主義論争
    日本資本主義論争(にほんしほんしゅぎろんそう)とは、1933年頃から1937年頃まで行われたマルクス主義者の論争のこと。広義には1927年頃から1932年頃まで日本共産党と労農派の間で行われた日本民主革命論争を含めていうこともある。日本の資本主義の性格について、講座派と労農派の間で激しく論戦が交わされた。 概要 日本資本主義論争は日本共産党の三十二年テーゼの基づいた『日本資本主義発達史講座』(1932年5月から1933年8月)の刊行を機に起こった。共産党系の講座派は、明治維新後の日本を絶対主義国家と規定し、まず民主主義革命が必要であると論じた(「二段階革命論」)。これに対し、労農派は明治維新をブルジョア革命、維新後の日本を近代資本主義国家と規定し、社会主義革命を主張した。この論争によって、近代日本の本質規定をめぐって理解が深まり、「封建論争」「地代論争」「新地主論争」「マニュファク...
  • 元老院 (日本)
    元老院(げんろういん)は、明治初期の日本の立法機関。新法の制定と旧法の改定を行うこととしたが、議案は天皇の命令として正院(後に内閣)から下付され、緊急を要する場合は事後承認するだけになるなど権限は弱かった。構成者は元老院議官と称した。 概説 1875年に大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退助らの大阪会議での合意に基づき、続いて出された立憲政体の詔書によって1875年4月25日左院にかわり設置された。当初は正副議長各1名が置かれ定員は無制限とされたが、程なく財政上の都合から同年11月25日に職制が改正されて正副議長各1名とこれを補佐する幹事2名(1886年廃止)、その他の議官28名の計32名が定数とされた。 議長は左大臣の兼務とされたが実際には一度もその事例は無く、設置当初は議長は空席で副議長の後藤象二郎が議長の職務を代行した。1875年11月の改正に伴い、これを補佐するために幹事が...
  • 寺島宗則
    寺島 宗則(てらじま むねのり、1832年6月21日(天保3年5月23日)- 1893年(明治26年)6月6日)は、江戸時代後期の幕臣、明治時代の政治家である。爵位は伯爵。名は徳太郎、または藤太郎。別称に松木弘安(松木弘庵)。通称は陶蔵。 日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 来歴・人物 1832年、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現・阿久根市脇本)の郷士長野成宗の次男として生まれる。江戸に出て蘭学を学び、薩摩藩主島津斉彬の侍医となったが、斉彬の死後に藩を離れて幕府の蕃書調所に勤める。 1861年、幕府の第1次遣欧使節の一員として渡海する。 1863年、薩英戦争においては捕虜となる。 1865年、第2次遣欧使節に参加する。 明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。 1873年、参議兼外務卿。 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を...
  • 明治
    Template 日本の歴史? 明治(めいじ)は、日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。明治元年1月1日(1868年1月25日)からTemplate 和暦?7月30日までの期間を指す。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは慶応4年9月8日(1868年10月23日)で、同年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。 改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) - 明治天皇の即位による代始改元。 ただし、改元の詔書には「改慶應四年爲明治元年」(慶応4年を改めて、明治元年となす)とあり、改元が年の呼称を改めるということから、1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用された。法的には慶応4年1月1日より明治元年となる。 Template 和暦?7月30日(Template 和暦?にグレゴリオ暦を施行) - 明治天皇崩御、...
  • 華族
    華族(かぞく)とは、1869年から1947年まで存在した日本近代の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族、と区別することがある。 明治以前まで使用されていた、華族という名称の狭義の意味は、公家の家格を表す名称で、摂家に次ぐ第二位の家格、清華家の別称であった。 前史 明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。公家137家・諸侯270家・明治維新後に公家とされた家5家松崎家・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家・若王子家・維新後に諸侯とされた家16家徳川御三卿の3家...
  • 解放令反対一揆
    解放令反対一揆(かいほうれいはんたいいっき)は、日本の明治時代はじめに各地でおきた暴動、襲撃事件で、解放令に反対して起こされた。当時の俗称では穢多狩りと言われた。 江戸時代に様々に差別されてきた穢多・非人などの身分及び呼称(とそれに伴う死牛馬取得権など)が1871年(明治4年)8月28日の太政官布告(解放令)で一挙に廃止されることになった。しかし従来彼らを差別してきた他の民衆の中にはこれに反発するものがあり、一揆をなして被差別部落民を襲撃する事件を起こした。これが解放令反対一揆である。1871年から1873年(明治6年)まで散発的に起きた。これを上杉聡や中村拡三らは賤民差別から部落問題の発生の移行期とみる上杉聰「壬申戸籍と近代部落問題の発生」『ヒストリア』117号 大阪歴史学会 1987年『明治維新と賤民廃止令』解放出版社 1990年全国解放教育研究会 中村拡三『部落問題概論』学術図書出...
  • 太政官
    太政官 太政官(だいじょうかん、おおいまつりごとのつかさ)とは、日本の律令制における司法・行政・立法を司る最高国家機関を指す。長官は太政大臣(だいじょうだいじん)。通常はこれに次ぐ左大臣と右大臣が長官としての役割を担った。事務局として少納言局と左右弁官局が付属する。唐名から尚書省(しょうしょしょう)、都省(としょう)とも呼ばれた。 太政官(だじょうかん)とは、日本の明治維新政府に設けられた官庁名。1868年6月11日(慶応4年/明治元年旧暦閏4月21日)に公布された政体書(慶応4年太政官達第331号)に基づいて置かれた。太政官とは、議政官以下7官の総称。翌1869年(明治2年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄することとなった。後に、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。1885年(明治18年)、内閣制度が発足したことに伴い廃止された。 律令制の太政官 概説 ...
  • 脱亜入欧
    脱亜入欧(だつあにゅうおう)とは、「後進地帯であるアジアを脱し、欧州列強の一員となる。」ことを目的とした日本に於けるスローガン、およびそれに類する思想のこと。その具現化として断髪令・廃刀令が著名である。 明治以降、富国強兵とともに政府が行った政策の根幹となるものともいえるが、この考え方も、のちの朝鮮半島および中国など、大陸への進出に至る流れの一つの過程と捉えることもできる。 福澤諭吉が書いたとされる論説「脱亜論」なお、同論説はあくまでも無署名文であり、近年は福沢執筆説に対して疑問が提出されている。詳細は同項目参照は、基本的にこの考え方にそっていると指摘されることがある。またよく間違えられることであるが、福澤諭吉は署名著作・時事新報論説のすべてにおいて「入欧」という言葉を一度も使用していない ref name= fukuzawa 「「入欧」という言葉にいたっては(したがって「脱亜入欧」...
  • 岩倉使節団
    thumb|350px|左から[[木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通]] 岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視を正使とし、政府のトップや留学生を含む総勢107名で構成された。 概要 明治4年(1871年)に横浜港を船で出発し、サンフランシスコに上陸。アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問した後、ヨーロッパへ渡り各国を訪問した。ヨーロッパでの訪問国は、イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・オーストリア・イタリア・スイスの12カ国に上る。帰途はアジア各国への訪問も行われたがこれはヨーロッパでの滞在に比べれば短いものであった。日本に帰国したのは出発から2年後の明治...
  • 東京大学史料編纂所
    東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称 Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。 沿革 史料編纂所の起源は、1793年(寛政5年)に開設された塙保己一の和学講談所とされる。明治維新後、史料編輯国史校正局、大学校国史編輯局、太政官歴史課、臨時修史局などと変遷している。 1888年(明治21年)、帝国大学(現・東京大学)に修史事業が移管されるが、のちに編年史の編纂は中止と決まり、代わって蒐集した史料自体を編纂、刊行することになり、1895年(明治28年)文科大学(現・文学部)に史料編纂掛が設置される。1901年(明治34年)に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。1929年(昭...
  • 天皇制
    天皇制(てんのうせい)は、天皇を君主又は象徴とする国家体制。特に天皇を元首又は象徴とする近代以降の国家体制(近代天皇制)を指すこともある。大日本帝国憲法(明治憲法)では天皇を元首とし、また日本国憲法では天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴として位置付けている。明治後期から敗戦までは天皇制などと表現することは不敬な表現であり、国体(=くにがら、くにぶり/漢書成帝紀)とよばれた。 概要 「天皇制」という用語は「君主制」を意味するドイツ語のMonarchieの和訳とされ、本来はマルクス主義者が使用した造語であった。1922年、日本共産党が秘密裏に結成され、「君主制の廃止」をスローガンに掲げた。1932年のコミンテルンテーゼ(いわゆる32年テーゼ)は、共産主義革命を日本で行うため日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえて「天皇制」と表記し、天皇制と封建階級(寄...
  • 版籍奉還
    版籍奉還(はんせきほうかん)とは、明治2年6月17日(1869年7月25日)に日本の明治政府により行われた中央集権化事業の1つである。諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還。 慶応4年(1868年)4月、江戸幕府の解体により成立した明治新政府は、政体書において地方制度では大名領を藩とし、大名を知事に任命して諸大名統治のかたちを残す府藩県三部制を確立する。10月には藩行政と家臣の分離を定める藩治職制を設け、政府による藩統制を行う。翌明治2年(1869年)1月に新政府樹立に貢献した薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩が建白書を提出し、同年5月には上局、公議所において諮問が行われて実施され、同年9月には藩制布告が行われる。明治4年(1871年)には薩長土を主体とする御親兵とする軍事力を持って廃藩置県を行い、府県制が確立する。 版籍奉還は次の廃藩置県までの過渡的措置であるが、当時藩に対す...
  • 明治神宮
    {{記事名の制約|明治神Template lang?}} {{神社| 名称=明治神宮| 画像= 内拝殿| 所在地=東京都渋谷区代々木神園町1番1号| 位置=Template ウィキ座標2段度分秒?| 祭神=明治天皇昭憲皇太后| 社格=官幣大社| 創建=大正9年(1920年)| 例祭=11月3日(明治天皇御誕生日)}} thumb|[[鳥居|大鳥居]] 明治神宮(めいじじんぐう)は、東京都渋谷区にある神社。初詣では例年日本一の参拝者数を集め、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神Template lang?』明治神宮サイト Q A。 由緒 Template 和暦?に明治天皇が崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、なんらかの記念(紀念と...
  • 鰻香内閣
    鰻香内閣(まんこうないかく)とは、1914年のシーメンス事件による山本権兵衛内閣の総辞職後に、枢密院顧問清浦奎吾が組閣の大命降下を受けながら辞退に追い込まれた騒動を皮肉った表現である。 貴族院と山本内閣倒閣運動 シーメンス事件で山本権兵衛首相の出身母体である海軍と特定企業の癒着が問題になった際に、新年度予算案における海軍予算の削減が問題となった。貴族院では最大会派の研究会と同じく有力会派の茶話会が実現不可能な削減要求を成立させて山本内閣を総辞職に追い込んだ。研究会と茶話会はいずれも元老山縣有朋の側近である清浦奎吾と平田東助が貴族院議員時代に代表者を務めていた会派であり、超然主義を奉じて政党政治に否定的な姿勢を示していた。特に当時貴族院の最大会派であった研究会は政党との関係を持っただけで議員が会派から除名されるほどの徹底ぶりであったとされるほどの反政党主義であり、ともに山本が立憲政友...
  • 森有礼
    {{政治家 |各国語表記 = もり ありのり |画像 = Arinori Mori 2.jpg |画像説明 = 森 有礼 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1847年8月23日(弘化4年7月13日) |出生地 = 薩摩国鹿児島 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 東京府 |出身校 = 藩校造士館、藩洋学校開成所 |所属政党 = |称号・勲章 = 正二位子爵 |配偶者 = 常(静岡事件犯人・広瀬重雄の親族)、 /br 寛子(岩倉具視五女、有馬頼萬先妻) |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第2代文部大臣 |内閣 = 黒田内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1888年4月30日 |退任日 = 1889年2月12日 |...
  • 副島種臣
    {{政治家 |各国語表記 = そえじま たねおみ |画像 = Taneomi Soejima 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1828年10月17日(文政11年9月9日) |出生地 = 肥前国佐賀藩 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 弘道館 |所属政党 = 愛国公党 |称号・勲章 = 勲一等旭日桐花大綬章、伯爵 |配偶者 = |サイン = |国旗 = JPN |職名 = 第3代外務卿 |就任日 = 1871年11月4日 |退任日 = 1873年10月28日 |退任理由 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第7代内務大臣 |内閣2 = 第1次松方内閣 |就任日2 = 1892年3月11日 |退任日2 = 1892年6月8日 |退...
  • 松方デフレ
    松方デフレ(まつかたでふれ)とは、西南戦争による戦費調達で生じたインフレーションを解消しようと、大蔵卿松方正義が行った、デフレーション誘導の財政政策のことである。松方財政(まつかたざいせい)とも。 西南戦争の戦費調達のために不換紙幣が濫発された事によって、戦争後に大規模なインフレーションが発生していた。当時の大蔵卿大隈重信は、このインフレーションの原因を経済の実態は紙幣流通量に近く、正貨である銀貨が不足しているだけだと考えて、「積極財政」を維持して外債を発行してそこで得た銀貨を市場に流して不換紙幣を回収すれば安定すると主張した(大隈財政)。一方、次官たる大蔵大輔の松方は単に明治維新以来の政府財政の膨張がインフレーションの根本原因であって不換紙幣回収こそが唯一の解決策であると唱えた。松方の主張は長年財政に携わってきた大隈の財政政策を根幹から否定するものであり、大隈の激怒を買う。この対立を憂...
  • 大政奉還
    thumb|「大政奉還図」 邨田丹陵 筆 大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に、江戸幕府第15代征夷大将軍徳川慶喜が、統治権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許した政治的事件である。 概略 江戸時代後期には、江戸幕府の全国統治は天皇から将軍への委任関係に由来するという大政委任論と呼ばれる学説が唱えられていた。 薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び倒幕運動を推し進めていた幕末も大詰めの時期、公議政体論を主張し将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩は、慶応3年(1867年)10月3日に将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出した。これを受け、10月13日、慶喜は京都・二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。10月14日(11月9日)に明治天皇へ上奏文を提出した。そして翌・10月15日(11月10日)、...
  • 明治六年政変
    明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われ...
  • 尊王論
    尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。 尊王論は、武力(覇道)をもって支配する「覇」(覇者)に対し、徳(王道)をもって支配する「王」(王者)を尊ぶことを説く。中国においては「王」のモデルは古代周王朝の王であったことからもともと「尊王」と書いた。尊王論が日本に受容されるに際して、日本では天皇が「王」であり、江戸幕府の将軍が「覇」であると読み換えられたが、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏まえて「尊皇」という漢字に置き換えて用いることもあった。 幕藩体制においては、朝廷は幕府の制約を受けていたが、権威的秩序、宗教的な頂点の存在として位置づけられた。幕政改革の混乱や、異国船の来航による対外的緊張など政治的混乱が起こると、幕府は秩序維持のため大政委任論に依存して朝廷権威を政治利用し、朝廷の権威...
  • 征韓論
    thumb|350px|征韓議論図。[[西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)作。]] 征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われている毛利敏彦『明治六年政変』中央公論社〈中公新書〉、1979年(ISBN 4-12-100561-9)による。。 江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。 ...
  • 井上馨
    {{政治家 |各国語表記 = いのうえ かおる |画像 = Kaoru Inoue 4.jpg |画像説明 = 井上馨 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1836年1月16日 |出生地 = 周防国湯田村 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 静岡県静岡市 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位大勲位、侯爵 |配偶者 = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 初代外務卿 |内閣 = |当選回数 = |就任日 = 1879年 |退任日 = 1885年 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = 日本 |職名2 = 初代外務大臣 |内閣2 = 第1次伊藤博文内閣 |当選回数2 = |就任日2 = 18...
  • 元老
    元老(げんろう。英:elder statesman)とは、明治時代後期から昭和時代初期にかけて、日本政府の最高首脳であった重臣である。 明治維新に功績のあった人物を元勲と呼ぶが、彼らが明治新政府において長期間に渡って事実上政治を牽引していたことから、主にマスコミ周辺から誕生した略称だと言われている(長老元勲→元勲老→元老、もしくは元勲諸老の略)。 法制上にその定めはなかったが、勅命または勅語によって任命され、天皇の諮問に答えて内閣更迭の際の後継内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の最高意思決定に参与した。特に宮中問題を執るのが元老の権威の源泉となっており、このことは宮中某重大事件で敗退した山縣有朋が事実上失脚してしまったことからも明らかである。 沿革 最初に元老の詔勅を受け取ったのは、伊藤博文、黒田清隆である。当初は伊藤博文が枢密院議長の職を辞することから、明治天皇が詔勅を出そ...
  • 伊藤博文
    Template 日本の内閣総理大臣? 伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の政治家である。 明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老。位階勲等は従一位大勲位。爵位は公爵。称号は名誉博士(エール大学)。死後に大韓帝国より功績を讃えられ、「文忠公」の諡号が送られた。 幼名は利助、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。名の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある。 生涯 幼年期 - 挙兵 周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻...
  • 山縣有朋
    Template 日本の内閣総理大臣? Template Infobox 軍人? 山縣 有朋(やまがた ありとも、1838年6月14日(天保9年閏4月22日)- 1922年(大正11年)2月1日は、日本の政治家、軍人。幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。 奇兵隊を率いて倒幕で活躍。明治新政府では日本陸軍の基礎を築いた。晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。第3代、第9代内閣総理大臣。元老。位階勲等は元帥陸軍大将・従一位・大勲位・功一級・公爵。また、大英帝国のメリット勲章も受章している。 経歴 幕末期 萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の中間・山縣有稔の長男として生まれる。将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。 久坂玄瑞の紹介で吉田松陰が主催する...
  • 文明開化
    文明開化(ぶんめいかいか)とは、明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。近代化=西欧化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。 概要 文明開化は、江戸時代を通じて連綿と続いてきた封建制色濃い日本文化が鎖国などの事情で飽和状態に達していた所に、政治体制の刷新にも伴い流入した西洋文化によって発生した日本での西洋文明の吸収・取り込み現象であり、「文明開化」という言葉は福澤諭吉が『文明論之概略』明治8年(1875年)の中で、civilizationの訳語として使ったのが始まりである。この中では単純に西洋の文化・風俗を模倣したものから、或いはそれら文化や風俗を手本としながら日本の既存文化との融合を図ったもの、更には既存文化を西洋風に...
  • 後藤象二郎
    Template 政治家? 後藤 象二郎 / 象次郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日)- 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の武士・土佐藩士、政治家。爵位は伯爵。農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、他に保弥太、良輔。雅号は暢谷。 生涯 生い立ち 土佐藩の高知城下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んだ。 安政5年(1858年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍したが、翌年に吉田が暗殺され、拠り所を失った後藤は失脚する。 文久3年(1863年)に、再び役職を得、また前藩主山内容堂の信頼を...
  • 大隈重信
    Template 日本の内閣総理大臣? 大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現:早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。 略歴 生い立ち 佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は、知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政...
  • 明治天皇
    Template 基礎情報 天皇? 明治天皇(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)は、第122代天皇(在位 慶応3年(1867年) - 明治45年(1912年))。諱は睦仁(むつひと)。幼少時の御称号は祐宮(さちのみや)。印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代国家日本の指導者として活躍した。その功績から戦前には、明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも呼ばれたこともあった。 略歴 出生 明治天皇は、孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、京都・中山忠能邸で生まれ、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名した。 万延元年(1860年)5月、儲君(皇太子)となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」...
  • 満州国軍
    満州国軍(まんしゅうこくぐん)とは満州国の国軍。1932年に創設。1945年に解体。 当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から実質的な国軍化が進められたが、その時を迎えることなく終戦を迎え、満州国軍も解体された。 軍制 指揮系統 各軍(当初は6軍、後に11軍)の長は司令と称し、警備司令官(陸軍)・艦隊司令官(海軍)共に満州国執政(皇帝即位後は満州国皇帝)である溥儀の直接指揮下に置かれた(溥儀は天皇同様、軍を統帥する大元帥の地位にあった)。但し、それはあくまで制度上の話である。実際の満州国の軍事権力は関東軍の支配下にあり、異動・演習の実施・装備の変更・昇格人事のいずれも、関東軍司令部の批准が必要であった。 士官以上の階級 満州国では...
  • 廃藩置県
    廃藩置県(はいはんちけん)とは明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 背景 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古のクーデターは事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。 一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを府藩県三治制という。なお「藩」とい...
  • 皇国史観
    皇国史観(こうこくしかん)は、日本国と日本人は歴代天皇を中心とした国造りが行われ、現代までに到る伝承と歴史が紡がれ継承されて来たとする歴史観。 第二次世界大戦以前 南北朝時代に南朝の北畠親房が南朝の正統性を示すために著した『神皇正統記』が先駆的なものであり、江戸時代に展開した水戸学や国学でその基礎が作られた。幕末の尊王攘夷運動の過程で強化され、明治維新後には政治体制によって正統な歴史観として確立した。 しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批...
  • 秩禄処分
    秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。 明治初期の財政 江戸時代後期の1867年に15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い幕府が解体され、王政復古により明治政府が成立する。明治政府は抵抗した旧幕臣らとの戊辰戦争における戦費などで発足直後から財政難で全国3000万石のうち800万石を確保できているのみであり、また軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治はそのまま維持された。 江戸時代の幕藩体制において、諸藩の家臣は藩主が家臣に対して世襲で与えていた俸禄制度を基本に編成、維持されていたが、明治後も俸禄は家禄として引き継がれ、士族などに対して支給されていた。年に行われた維新功労者に対する賞典禄の支給により74万5750石...
  • 天皇
    thumb|200px|right|[[十六弁八重表菊紋。天皇および天皇家の御紋である。後鳥羽天皇の日本刀の御所焼に付した菊紋に始まる。]] 天皇(てんのう)は、日本国憲法において、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴と定められる地位、もしくはその地位にある個人。また、皇帝・君主を敬っていう称号(君主号)もしくは謚号。 古代から世襲により受け継がれた日本の君主であり、古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。近年の研究では、「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力である。伝統的に「てんおう」と訓じられていたが、連声により「てんのう」に変化したとされる。歴史的仮名遣いでは「てんわう」と表記する。 本項目では、初代神武天皇以降の歴代天皇の地位および個人に関する...
  • 政党内閣
    政党内閣(せいとうないかく)とは、議会に議席を保持する政党を基礎に組織された内閣のこと。議院内閣制ともいい、議会の信任に基づいて政権を運営する。 現在では議会制民主主義(間接民主制)の制度を取り入れている諸国の内閣が政党内閣の形態である。ただし、アメリカ合衆国のように議院内閣制を採用していない国では、政党政治が実施されていても、その政権をさして政党内閣とは呼ばない場合が多い。また、社会主義・共産主義国家やファシズム国家などに見られる一党独裁体制も政党が政権を掌握していたとしても政党内閣とはいえない。 各国の政党内閣 イギリス 政党内閣が典型的な発展を見せたのは17世紀後半のイギリスである。ホイッグとトーリーの両党派が相互に勢力を競い、後に自由党と保守党による二大政党制へと移行した。1900年前後に議院内閣制の慣行が確立されると政党内閣による政権運営が定着した。 日本 日本...
  • 秩父事件
    秩父事件(ちちぶじけん)は、1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。 事件の背景 江戸時代末期以来、富国強兵の大義名分のもと年々増税等が行われる中、1881年(明治14年)10月に大蔵卿に就任した松方正義によるいわゆる松方財政の影響により、現在でいうデフレスパイラルが発生し(松方デフレ)、いまだ脆弱であった日本の経済、とりわけ農業部門には深刻な不況が発生した。農作物価格の下落が続き、元来決して裕福とはいえない農産地域の中には、さらなる困窮に陥る地域も多く見られるようになっていった。 国内的には主として上記の松方財政の影響、さらには1873年から1896年ごろにかけて存続したヨーロッパ大不況のさなかに発生した1882年のリヨン生糸取引...
  • 労農派
    労農派(ろうのうは)は、戦前の非日本共産党系マルクス主義者集団。1927年創刊の雑誌『労農』に依ったので、こう呼ばれる。日本資本主義論争において講座派と対抗した経済学者、最左派の無産政党に拠った社会運動家、「文戦派」のプロレタリア文学者などからなる。 形成過程 日本共産党は1922年7月創立されたとされる(第一次共産党)。堺利彦、山川均、荒畑寒村ら明治以来の古参の運動家も参加しその中心となった。しかし日本共産党結成はコミンテルンの働きかけなどによるものであり運動の盛り上がりの結果ではなかったため、セクト主義など組織的な未熟さが目立ち、党員の多くは1924年2、3月頃当時の日本には共産党結成の条件はないとして解党を決定した。荒畑は解散に反対し、事後処理のための少人数の委員会(ビューロー)を作ることを主張し認めさせた。 山川らは、大衆から切り離された少数の革命党ではなく、あらゆる反ブ...
  • 日本の分割統治計画
    thumb|320px|アメリカ国立公文書館に現存する計画書による日本の[[分割統治計画。東京23区は米中ソ英4か国、近畿と福井県は米中2か国による共同統治。]] 日本の分割統治計画(にほんのぶんかつとうちけいかく)は、第二次世界大戦において、ドイツやオーストリアが降伏後米・英・ソ・仏4カ国に分割統治されたように、本土決戦後の日本も北海道・本州・九州・四国を連合国それぞれが統治しようとした計画。 概要 実際の歴史 連合国は第二次世界大戦中、日本が明治維新以降に『暴力的に獲得した地域』を連合国によって分割する方針を打ち出していた。連合国は日本降伏後、かかる地域を以下のように分割占領した。 ソ連 南樺太(ポーツマス条約で獲得、内地、1943年3月31日までは外地) 千島列島(樺太・千島交換条約で獲得、内地) 朝鮮北緯38度線以北(日韓併合条約で獲得、外地) 関東州(旅...
  • 木戸孝允
    {{政治家 |各国語表記 = |画像 = Takayoshi Kido suit.jpg |画像説明 = |国略称 = |生年月日 = 天保4年6月26日(1833年8月11日) |出生地 = Template JPN?長門国・萩・呉服町(現:山口県・萩市) |没年月日 = 明治10年(1877年)5月26日 |死没地 = |出身校 = |前職 = 長州藩士 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = 木戸松子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第2代文部卿 |就任日 = 明治7年(1874年)1月25日 |退任日 = 明治7年5月13日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第2代内務...
  • 大日本帝国陸軍
    大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん)とは、1871年から1945年まで、日本の天皇が統帥していた陸軍である。通常は単に日本陸軍と呼び、大日本帝国陸軍とは呼ばない。他に帝国陸軍と呼ばれることもある。また、本来は日本陸海軍を指す呼称である国軍(こくぐん)、皇軍(こうぐん)という呼称も、日本陸軍を指す場合が多い。 概要 大日本帝国憲法制定前はその位置づけが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は、軍事大権については憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属するものとされた。 最高指揮官は天皇で、大元帥として陸海軍を統帥する。軍令を参謀本部、軍政を陸軍省が司った。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、陸軍では参謀総長、海軍では軍令部総長である。 略史 創成期 帝国陸軍の起源は、明治維新後の187...
  • 西郷隆盛-3
    前半は、西郷隆盛及び西郷隆盛-2参照 人物評 愛称 「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。 肥大 「先生の肥大は、始めからぢや無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」『西南記伝』引高島鞆之助実話...
  • 住友財閥
    thumb|350px|  旧住友本社 設計:[[長谷部竹腰建築事務所]] 住友財閥(すみともざいばつ)は、日本の三大財閥の1つ。 世界最古の財閥 住友財閥は、ロスチャイルド財閥を超える世界最古の財閥と言われており、その歴史は400年以上前にさかのぼる。住友は、製造業を主業として、その隣接部門への多業種化と垂直的統合によって発展した。また、三井と並んで日本の最も古い独占企業体であるが、ただ異なる点は、三井は原則として商いと高利貸でその活動を始め、その事業を継続してきたのに対して、住友は基本的に鉱工業活動に携わってきたことである。 始祖・家祖・業祖の3人がいる財閥のルーツ 世界財閥家系のなかでも、最も古い歴史を持つ住友家だが、住友家の先祖は平家一門といわれ、桓武天皇の曾孫・高望王の二十二代目に備中守忠重が現れ、「住友姓」を称し、室町将軍に仕えたとされている。いわば、この武家...
  • 安田財閥
    安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。 金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。 沿革 奉公人からの出発 20歳で奉公人として上京した安田善次郎が26歳になり露店の両替商から始まって、慶応二年に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得る。 明治維新に至ると、当時まだ信頼を得ていない額面割れした明治政府の太政官札に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を収集。明治2年に至り正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えにより更なる巨万の利益を得ることになる。 明治9年に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、明治13年には安田商店を安田銀行(後の富士銀行。現...
  • 大日本帝国憲法
    Template 日本の法令?大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう、大日本帝國憲法)は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法大日本帝国憲法では、表題に「大日本帝国」が使用されているが、正式な国号と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた1936年(昭和11年)まで、「日本国」「日本」等の名称も使用された。 。明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。 1876年に公布されたオスマン帝国憲法に次いで、アジアでは2番目の近代憲法である。オスマン帝国憲法は、公布されて間もない1878年に停止され、その後も長らく専制政治が続いたため実際には機能していない。安定的に運用された近代憲法としては、大日本帝国憲法がアジア初である。ま...
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