chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「時代の一面」で検索した結果

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  • 東郷茂徳
    ...役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務めた東郷文彦は女婿。元ワシントンポスト記者の東郷茂彦、元オランダ大使・外務省欧亜局長の東郷和彦は双子の孫。 略歴 明治15年(1882年) 鹿児島県日置郡苗代川村(後の下伊集院村。現在の日置市東市来町美山)で、陶工・朴寿勝の長男「朴茂德」として生まれる(誕生日は12月20日、12月10日、10月25日など諸説あり、戸籍上は12月10日) 明治19年(1886年) 父・朴寿勝が鹿児島城下士の東郷某の士族株を購入し、「東郷」を名乗る 明治21年(1888年) 下伊集院村立尋常高等小学校(現美山小学校)へ入学 明治29年(1896年) 鹿児島県尋常中学校(現鹿児島県立鶴丸高等学校)へ入学 明治34年(1901年) 第七高等学校造士館(鹿児島大学の前身)へ入学 明治37年(1904年) 東京帝国大学(...
  • 日本統治時代の朝鮮
    Template 基礎情報 過去の国? Template 朝鮮の歴史? 日本統治時代の朝鮮(にほんとうちじだいのちょうせん、英語:Korea under Japanese rule、朝鮮語 Template lang?)(1910年8月22日 - 1945年9月2日)では、大日本帝国による韓国併合から太平洋戦争(第二次世界大戦)での敗戦までの間、日本の領有下にあった朝鮮について述べる。 総督府の所在地は京畿道京城府(現在のソウル特別市)であった。 概要 1910年、当時の大韓帝国は「韓国併合ニ関スル条約」(日韓併合条約)によって朝鮮総督府の統治下に置かれ、日本の領土となった韓国併合条約の解釈については、現在の日本政府の見解ならびに日本側の研究者の一部の意見では「合法不当」、対して韓国・北朝鮮の多くの研究者ならびに日本の研究者の一部の意見では「不法不当」となっているTempla...
  • 日本統治時代 (台湾)
    台湾の日本統治時代(にほんとうちじだい)は、日清戦争の敗戦に伴い清朝が台湾を日本に割譲した1895年(明治28年)4月17日から、第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月25日、中華民国統治下に置かれるまでの植民地支配の約50年間を指す。 なお、台湾では政治的立場や、歴史認識に対する観点の相違などによって、日本統治時代をそれぞれ日治時代、日據時代、日本殖民時期と呼称しているが、日據時代と表記する場合については日本統治時代に対し批判的な意味合いがある。 沿革 Template 台湾の歴史? 統治初期の政策 日本統治の初期段階は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができる。この時期、台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招いた。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関...
  • 寺島宗則
    寺島 宗則(てらじま むねのり、1832年6月21日(天保3年5月23日)- 1893年(明治26年)6月6日)は、江戸時代後期の幕臣、明治時代の政治家である。爵位は伯爵。名は徳太郎、または藤太郎。別称に松木弘安(松木弘庵)。通称は陶蔵。 日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 来歴・人物 1832年、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現・阿久根市脇本)の郷士長野成宗の次男として生まれる。江戸に出て蘭学を学び、薩摩藩主島津斉彬の侍医となったが、斉彬の死後に藩を離れて幕府の蕃書調所に勤める。 1861年、幕府の第1次遣欧使節の一員として渡海する。 1863年、薩英戦争においては捕虜となる。 1865年、第2次遣欧使節に参加する。 明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。 1873年、参議兼外務卿。 西南戦争後の政府の財政難から税権回復を...
  • 五榜の掲示
    五榜の掲示(ごぼうのけいじ)とは、慶応4年3月15日(1868年4月7日)に立てられた五つの高札のことであり、明治政府が出した民衆に対する最初の禁止令である。 その前日に出された五箇条の御誓文が、公卿や大名に示され、都市で発売されていた太政官日誌で布告されただけだったが、五榜の掲示はほぼ全国に対し出されている。また、君主や家長に対する忠義の遵守すること、集団で謀議を計ることや、許された宗教以外(邪宗門、はっきり言えばキリスト教)の禁止など、江戸幕府の政策を継承する内容となっている。その一方で、同時に旧幕府時代の高札の廃棄も命じているところから、新政府の権威とその支配圏を象徴するものであった(その証拠として、奥羽越列藩同盟加盟藩では、五榜の掲示は立てられないから新政府との開戦と同時に破棄されている事が挙げられる。また、その他の佐幕派の大名・旗本領でも掲示されていない)。 明治6年(187...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 万世一系
    万世一系(ばんせいいっけい)は、天皇の皇位継承について、皇統の一系や天皇制の永続などを主眼とする思想のこと。日本神話に登場する初代神武天皇から現在まで、王朝が断絶することもなく、一貫して天皇家によって日本は統治されてきたとする史観に基づいている。現在では、史実に基づくものか、様々な議論がなされている。 概説 万世一系とは、日本の君主である天皇の地位が、過去一度の例外もなく以下の3つの条件を満たしてきたことを示している。 血統による世襲 男系のみによる皇位継承 皇統が分裂・対立することがない 実際には下記の例にもあるように、皇統が分断する危機があった(大覚寺統と持明院統、他)が、1.と2.については例外は存在しないとされる。 1.について、武烈天皇が後嗣なく崩御し皇統の断絶が危惧されたが、応神天皇5世の孫とされる継体天皇の皇位継承により、血統による世襲は継続した。 2....
  • 桂園時代
    桂園時代(けいえんじだい/けいおんじだい)とは、陸軍・山縣有朋閥に属する桂太郎と、伊藤博文の後継者として立憲政友会総裁に就いた西園寺公望が、政権を交互に担当した1905年から1912年の8年間をいう。「桂園」とは、両者の名前から「桂」と「園」の字をとったものである。 桂園時代は、桂に代表される官僚・軍部と西園寺に代表される有力政党である立憲政友会が「情意投合」と呼ばれる連携体制を組んで交互に首相に就任した(この間にも松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たずにいずれも断念に追い込まれている)。特に政治的に安定した時期とされ、期間中に行われた第10回衆議院議員総選挙、第11回衆議院議員総選挙は、いずれも任期満了に伴うものである。2回連続で任期満了・総選挙が行われたのは、日本憲政史上においてこの時代だけである。 なお、「桂園」は和歌の流派...
  • 富国強兵
    富国強兵(ふこくきょうへい)とは、国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策をいう。 中国 中国では、春秋戦国時代に諸侯の国が行った政策を「富国強兵」といい、『戦国策』秦策に用例が見える。この時代には各国が諸子百家と呼ばれる思想家たちから人材を登用し、騎馬戦術や戦車などの新兵器を導入して軍事改革を行った。 日本 日本で明治政府の国策の基本を指す。江戸時代の鎖国が原因で欧米列強に国力で大きな差をつけられ、これが安政の不平等条約という新国家を後々まで苦しめる結果となったことを教訓とした日本は、地租改正や殖産興業で経済力をつけ(=富国)、徴兵制や軍制改革により軍備を増強(=強兵)して、列強に追いつくことにより条約の改正と国家の保全を目指した。 関連項目 明治維新 静岡県   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月...
  • 大同倶楽部
    大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、明治時代の日本の政党である。時期をずらして、民党の大同倶楽部と、吏党の大同倶楽部の二つが結成されたが、いずれも短命であった。 大同倶楽部 (1889年 - 1890年) 大同倶楽部(だいどうくらぶ)は、日本最初の自由党解散後、大同団結運動の一片として、1889年 (明治22年) 5月10日に結成され、翌1890年 (明治23年) 8月17日に解散した。 1884年に自由党が解散してからしばらく後、1886年に民権派政治家の力を結集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。1889年にはこの運動に沿った組織結成の機運が高まったが、この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬養毅ら政社派と、ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派の対立が表面化した。そして大同団結運動の主導者であった後藤象二郎が突如黒田内閣の逓信大臣として入閣して運動からの離脱を...
  • 両班
    兩班(りょうはん、양반(ヤンバン・大韓民国)、량반(リャンバン・朝鮮民主主義人民共和国))は、高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った身分階級のこと。士大夫と言われる階層とこの身分とはほぼ同一である。なお、朝鮮半島の身分制度は韓国併合後に廃止された。 李氏朝鮮王朝時代には、良民(両班、中人、常人)と賤民(奴婢、白丁)に分けられる身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。現在の韓国においても李氏朝鮮の両班のような労働を忌み嫌う精神構造の事を両班精神、両班意識などと呼んだりする。 しかし、高麗時代に両班が作られた時は身分階級では無く官僚制度を指す言葉だった。 なお、両班の家系を自称する韓国人は多いとされるが、真偽は不明である。 両班の始まり 高麗が国家を建設する時、唐・宋の官僚制度を参考にしながら、文臣(文班)と武臣(武班)の二つの班からなる官僚制度を採用した。...
  • ノモンハン事件-2
    ...春秋) 東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』(中公文庫) マクシム・コロミーエツ『独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦  ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い』小松徳仁(訳),鈴木邦宏(監)、大日本絵画、2005年、ISBN 4499228883 伊藤桂一『静かなノモンハン』講談社、2005年、ISBN 4-06-198410-1 シーシキン他,田中克彦(編)『ノモンハンの戦い』、田中克彦(訳)、岩波書店、2006年、ISBN 4-00-603127-0 月刊グランドパワー 2002年10・11月号 BT快速戦車シリーズ (デルタ出版) ノモンハン事件を描いた作品 映画 『戦争と人間 第三部 完結編』(日本、山本薩夫監督、1973年) 関連項目 ノムンハン(ノモンハンと言う語のルーツ) 張鼓峰事件 外部リンク ノモンハ...
  • 革新倶楽部
    革新倶楽部(かくしんくらぶ)は、日本の大正時代の政党である。 1922年11月8日、立憲国民党を解党した犬養毅、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らを中心に結成された。立憲国民党・無所属倶楽部や憲政会脱退派などの非政友会系を合同して絶対多数であった立憲政友会に対抗した。政治的主張として、普通選挙に基づく政党内閣制、軍部大臣現役武官制廃止、師団半減などの軍縮、知事公選、行財政整理、金解禁、義務教育の延長、労働および小作問題の立法的解決、ソビエト連邦承認などを掲げていた。 第二次護憲運動では、立憲政友会、憲政会と護憲三派を組んで、清浦奎吾内閣を打倒した。選挙後、成立した加藤高明を首班とする護憲三派内閣では犬養は逓信大臣として入閣した。だが、この時の総選挙で立憲政友会と憲政会の間で埋没した形となった革新倶楽部は議席を43から30に大幅に減らした事から、両党への不信感や党の将来に対する不安を抱く議員...
  • 慶応
    Template 改名提案? 慶應(けいおう、新字体では慶応)は、日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 改元 元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日) 禁門の変や社会不安などの災異のために改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) 明治に改元、同年1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用。 江戸時代最後の改元。将軍徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が指示してきた改元制度が終焉した事を示すものとなった。 ちなみに、慶應改元の際には候補の一つとして「平...
  • 仮82
    Template 改名提案? 慶應(けいおう、新字体では慶応)は、日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間を指す。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。 改元 元治2年4月7日(グレゴリオ暦1865年5月1日) 禁門の変や社会不安などの災異のために改元 慶応4年9月8日(グレゴリオ暦1868年10月23日) 明治に改元、同年1月1日(グレゴリオ暦1868年1月25日)に遡って適用。 江戸時代最後の改元。将軍徳川家茂が朝廷に対して「何以被採用所存無之候」「叡慮之通慶応可然被存候」と述べて改元については孝明天皇の意向に全て従うという意見書を出し、改元当日の御所での儀式を諸藩代表に公開するなど、江戸幕府創設以来幕府が指示してきた改元制度が終焉した事を示すものとなった。 ちなみに、慶應改元の際には候補の一つとして「平...
  • 文明開化
    文明開化(ぶんめいかいか)とは、明治時代の日本に西洋の文明が入ってきて、制度や習慣が大きく変化した現象のことを指す。近代化=西欧化そのものは明治時代に於いて一貫した課題であったが、文明開化という言葉は、一般に明治初期に、世相風俗がこれまでの封建社会から大きく変わった時期を指して使われる。 概要 文明開化は、江戸時代を通じて連綿と続いてきた封建制色濃い日本文化が鎖国などの事情で飽和状態に達していた所に、政治体制の刷新にも伴い流入した西洋文化によって発生した日本での西洋文明の吸収・取り込み現象であり、「文明開化」という言葉は福澤諭吉が『文明論之概略』明治8年(1875年)の中で、civilizationの訳語として使ったのが始まりである。この中では単純に西洋の文化・風俗を模倣したものから、或いはそれら文化や風俗を手本としながら日本の既存文化との融合を図ったもの、更には既存文化を西洋風に...
  • 後藤象二郎
    Template 政治家? 後藤 象二郎 / 象次郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日)- 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の武士・土佐藩士、政治家。爵位は伯爵。農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、他に保弥太、良輔。雅号は暢谷。 生涯 生い立ち 土佐藩の高知城下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んだ。 安政5年(1858年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍したが、翌年に吉田が暗殺され、拠り所を失った後藤は失脚する。 文久3年(1863年)に、再び役職を得、また前藩主山内容堂の信頼を...
  • 大韓帝国
    大韓帝国(だいかんていこく、Template lang?、テハンジェグク)とは、1897年 - 1910年に李氏朝鮮が使用していた国号。大韓国(Template lang?、テハングク)、韓国(Template lang?、ハングク)とも言った。また、現在の大韓民国(韓国)と区別するため、「旧韓国」と呼ばれることもある。清の冊封国時代と日本統治時代の狭間の短い時期であり、朝鮮半島最後の専制君主国である。 {{基礎情報 過去の国 |略名 = 韓国 |日本語国名 = 大韓帝国 |公式国名 = Template Lang? |建国時期 = 1897年 |亡国時期 = 1910年 |先代1 = 李氏朝鮮 |先旗1 = Flag of Korea 1882.svg |次代1 = 日本統治時代の朝鮮 |次旗1 = Flag of Japan - variant.svg |次代2 ...
  • 重慶爆撃
    重慶爆撃(じゅうけいばくげき)とは、日中戦争最中の1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃を指す日付・回数は『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』(前田哲男 凱風社)による。。中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。 背景 1938年に各地に中国国民党が優勢だったが、様々な軍閥の割拠する内乱状態の中国に攻め込んだ日本軍は、上海に続いて中華民国の首都南京を攻撃、日本政府は中華民国・中国国民党が和睦を乞うことを期待した。 これに対して日本軍への徹底抗戦を宣言していた国民党政府は、中国大陸で権益を確保・拡大したいアメリカや権益を守りたいイギリスの援助を受けて、首都を南京から漢口に移転し、次いで漢口が陥落必至とみるや四川の奥地である重慶に移転させた。 大本営は地上軍による重慶...
  • 愛国公党
    愛国公党(あいこくこうとう)は、 最初の自由民権運動の政治結社。 明治時代中期の政党。 愛国公党 (1874年) 征韓論、明治六年の政変で下野した板垣退助らは、幸福安全社を基礎に明治7年(1874年)1月12日、東京の京橋区銀座副島種臣邸に同士を集めて結成。天賦人権論に基づき、基本的人権を保護し民撰議院設立を政府に要求することが当面の政治課題の第一であると謳っている。1月17日、板垣、副島らは政府に対して『民撰議院設立建白書』を提出した。建白書には、この他、後藤象二郎、江藤新平、小室信夫、由利公正、岡本健三郎、古沢滋が署名している。愛国公党は、日本でも初期の政治結社に数えられるが、議会の開催前に活動を開始したこともあり、その誕生は時代の流れよりも早すぎた、という感は否めない。後に板垣退助や片岡健吉が帰郷し、江藤も佐賀の乱に加わったため活動を停止し、自然消滅を迎えることとな...
  • 立憲帝政党
    立憲帝政党(りっけんていせいとう)は、明治時代の政党。結成は1882年。勃興する自由民権運動に対して、政府支持政党として結成された。 1882年3月13日自由党、立憲改進党などの民党に対抗し東京日日新聞社長の福地源一郎(桜痴)、明治日報の丸山作楽、東洋新聞の水野寅次郎によって結成された。4月4日には大阪で機関紙である大東日報を創刊(社長羽田恭輔・主筆原敬)する。 立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などを政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶ら宗教家など体制擁護を意図する保守層の支持を受けたが、組織が弱く、さらに政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌1883年9月24日に解党した。 なお、大東日報は解党以後も独立系の政府派新聞として存続し、1885年5月15日には内外新報と改題するものの、18...
  • 立憲改進党
    立憲改進党(りっけんかいしんとう)は明治時代の自由民権運動の代表的政党の一つ(1882年4月16日-1896年3月1日)。略称は改進党。初代総理(党首)は大隈重信、副総理は河野敏鎌。 概要 明治14年の政変によって政府を追放された大隈が新党結成を構想、1882年3月14日に新党の趣意書を発表して4月16日に東京の明治会堂で結党式を開催した。都市の商業資本家・知識人層・三菱を支持基盤として、「王室の尊栄」・「人民の幸福」を2大方針として政治漸進主義を唱え、イギリス流立憲君主制・二院制議会・財産制限選挙制・国権拡張などの穏健な立憲政治を目標に掲げた。総理には大隈、副総理には河野、これを補佐する掌事には小野梓・牟田口元学・春木義彰が就任した。主なメンバーとしては他に矢野文雄、沼間守一、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、島田三郎、箕浦勝人らがいる。だが、メンバーも多彩で慶應義塾系や自由党...
  • 関東都督府
    関東都督府(かんとうととくふ)は、大日本帝国時代の遼東半島先端部の関東州を統治する機関。 概要 日露戦争後の1905年、遼陽に設置された関東総督府が翌1906年、旅順に移転・改組され関東都督府になった。 関東州の統治のほか、南満州鉄道株式会社の業務監督や満鉄附属地の警備も行った。 1919年の関東軍と関東庁に分かれるまで続いた。 都督 長官の都督は陸軍大将・中将から任命された。都督は「都督府令」を発し、禁錮1年以下又は罰金200円以下の罰則を科すことができた。 外務大臣の監督下で清国(後に中華民国)の地方官と交渉することもできた。 また、都督は軍人であるので、関東州駐屯軍司令官も兼ね強大な権限を持った。 歴代都督 関東総督 大島義昌 大将 (1905年10月18日 - 1906年9月1日) 関東都督 大島義昌 大将 (1906年9月1日 -)...
  • 韓国併合
    韓国併合(かんこくへいごう)は、1910年8月22日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて日本が大韓帝国(今日の韓国と北朝鮮に相当する地域)を併合した事を指す。日韓併合(にっかんへいごう)、朝鮮合併(ちょうせんがっぺい)、日韓合邦(にっかんがっぽう)などの表記もある(韓国では韓日併合、中国では日韓併合と表記する)。 韓国併合によって大韓帝国は消滅し、日本はその領土であった朝鮮半島を領有した。1945年の第二次世界大戦終戦に伴い実効支配を喪失し、1945年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に日本による朝鮮支配は終了した。 併合条約の日韓の見解 日本側が韓国併合は現在において「もはや無効」であるという立場をとることで韓国併合ニ関スル条約の締結自体は合法であったという考えを内包しているのに対して、韓国・北朝鮮とも韓国併合ニ関スル条約は違法に結ばれ...
  • 南洋興発
    南洋興発株式会社(なんようこうはつかぶしきかいしゃ)は、大日本帝国時代の日本の国策会社。大正10年(1921年)設立。満州を中心とした南満州鉄道に対して、南洋興発は南洋諸島を舞台として発展した。このため、この会社を『海の満鉄』と呼ぶこともある。 概要 第一次世界大戦のドイツ敗戦により南洋の旧ドイツ領を国際連盟・委任統治領として日本が統治することになった。これを契機として内地の資本が次々と進出したが初期のそれら進出会社は経営に行き詰まり、入れ替わる形として設立されたのが南洋興発である。 南洋興発の当初の主たる事業は製糖事業であった。その後、事業を水産業・農園業・製酒業などから鉱業・油脂工業・交通運輸業・貿易業に至るまで拡張し南洋における最大の企業となった。従業員は5万人弱と満鉄に匹敵する規模の国策会社に成長した。 しかし、太平洋戦争の激化に伴い、南洋諸島は連合国の1国であるアメリカ軍...
  • 蹇々録
    『蹇々録』(けんけんろく)は、明治時代の外交官陸奥宗光が執筆した外交記録。『蹇蹇録』と書く場合もある。 陸奥の晩年の1892年以降に執筆されたが、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、1929年に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。 内容 甲午農民戦争(東学党の乱)から三国干渉までの陸奥宗光自身の外交の経験・苦労・感想が書かれている。たとえば、日清戦争開戦の動機については、内村鑑三は当初、中国の不当な朝鮮支配を打破するための義戦であると唱え、日本の世論もだいたいにおいてこれに一致していたが、『蹇々録』にははっきりと日本の国益のための戦争であって義侠の精神はまったくないと書かれている。 日朝関係については三期に分けて記述されているが、日清戦争までの第一期、井上馨による韓国の改革のいきさつを記す第二期と異なり、第三期の記述は自ら省略すると書かれている。こ...
  • 露仏同盟
    露仏同盟(ろふつどうめい)とは、フランスとロシアの間で成立した軍事同盟。1891年より両国の交渉が公然化し、最終的には1894年に締結された。ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められた。 背景 1890年、ドイツ帝国の宰相ビスマルクの辞任にともない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視する観点から対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体制参照)、この年より親政を行う皇帝ヴィルヘルム2世はこのことに固執しなかった。そのため、1887年より継続していた独露再保障条約が更新されないことになり、ロシアは新たな同盟相手を必要としていた。また、国内の近代化推進のためにも外資導入が必要であり、フランスとの同盟樹立は経済的観点からもメリットがあった。一方、フランス側...
  • 元老
    元老(げんろう。英:elder statesman)とは、明治時代後期から昭和時代初期にかけて、日本政府の最高首脳であった重臣である。 明治維新に功績のあった人物を元勲と呼ぶが、彼らが明治新政府において長期間に渡って事実上政治を牽引していたことから、主にマスコミ周辺から誕生した略称だと言われている(長老元勲→元勲老→元老、もしくは元勲諸老の略)。 法制上にその定めはなかったが、勅命または勅語によって任命され、天皇の諮問に答えて内閣更迭の際の後継内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の最高意思決定に参与した。特に宮中問題を執るのが元老の権威の源泉となっており、このことは宮中某重大事件で敗退した山縣有朋が事実上失脚してしまったことからも明らかである。 沿革 最初に元老の詔勅を受け取ったのは、伊藤博文、黒田清隆である。当初は伊藤博文が枢密院議長の職を辞することから、明治天皇が詔勅を出そ...
  • 三条実美
    三条 実美(さんじょう さねとみ、正字体:三條 實美、天保8年2月7日(1837年3月13日)- 明治24年(1891年)2月18日)は、江戸時代後期、幕末から明治の公卿、政治家である。明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。 藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。父は贈右大臣実万、母は土佐藩主山内豊策の女紀子。妻は関白鷹司輔煕の九女治子(1848-1924)。「梨堂」と号す。華族制度の発足後は本人の功が考慮され公爵となった。 来歴 三條實美は安政元年(1854年)、兄の三条公睦の早世により家を継いだ。安政の大獄で処分された父・実万と同じく尊皇攘夷(尊攘)派の公家として、文久2年(1862年)に勅使の1人として江戸へ赴き、14代将軍の徳川家茂に攘夷を督促し、この年国事御用掛となった。長州と密接な...
  • 台北帝国大学
    台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は、日本領時代の台湾に設置された帝国大学。当時は臺北帝國大學と表記された。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/...
  • 真珠湾攻撃陰謀説
    ...な衝撃に打たれた」『時代の一面』(原書房、1989年)と回顧しており、日本にとっては到底受け入れられない内容であった。開戦後日本はアメリカの最後通牒であったと発表したが、実際はもう出撃していてたしかに内容は挑発的だったがこれが戦争原因とはいえない。しかしハル・ノートは開戦派と和戦派の争いに決着をつけ、対米戦に一丸となって行くことを決意させた。 1941年11月26日、ホワイトハウスに朝九時に財務長官のモーゲンソーが尋ねているが、大統領はハル国務長官との長い電話だった。状況からハルが暫定協定案の放棄の許可を求めてきたものと思われるが、証拠はない。 ハルノートが戦争を誘発するかもしれないとする認識はハルにもルーズベルトにもあったと思われる。ルーズベルトは「先に日本に一発撃たせる方法はないか」と語ったそうである。この事からルーズベルトは日本と戦争をしたがっていることはまず明白であり、何...
  • 洪思翊
    Template 韓国の人物? Template 基礎情報 軍人? 洪 思翊(ホン・サイク、こう しよく;1889年3月4日 - 1946年9月26日)は朝鮮人の日本陸軍軍人。陸軍中将。戦犯としてフィリピンで処刑された。 出自 1889年、京畿道安城の両班の家に生まれた。本貫は南陽洪氏である。1905年の日韓保護条約締結後、大韓帝国の陸軍武官学校に入学している。1909年に陸軍武官学校廃止にともない、日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学した。当時、陸軍士官学校には大韓帝国からの派遣留学生が何人も在籍しており、1910年の日韓併合に衝撃を受けて抗日独立運動に身を投じた者も多数いたが、洪思翊は現在決起するのは朝鮮の独立を回復するのに繋がらず、しばらく研鑽を積み実力を養成した後戦うべきとして級友達と路線を分かつ。 軍歴 1914年に陸軍士官学校...
  • 天皇主権
    天皇主権(てんのうしゅけん)とは、大日本帝国憲法において、天皇が保持するとされた主権。西欧における君主主権を日本に適用したもので、天皇主権を君権ともいう。天皇主権を中心として構成された憲法学説を天皇主権説という。 歴史 Template 和暦?に公布され、翌Template 和暦?に施行された大日本帝国憲法は4条で「天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リテ之ヲ行フ」と定めた。この条文の解釈や憲法全体の解釈運用にあたっては天皇主権(君権)を重んじる穂積八束や上杉慎吉ら君権学派(神権学派とも言う)と議会制を中心とした立憲主義を重んじる美濃部達吉や佐々木惣一ら立憲学派の二大学派に分かれて論じ合われた。 憲法施行当初は超然主義を唱えた藩閥政治家や官僚らにより天皇主権を中心とした君権学派の解釈が重用された。明治時代の終わりには上杉と美濃部の天皇機関説論争が行われ、大正デモクラシ...
  • 昭和-2
    前半は昭和参照 略年表 ()内は昭和での年代を表す。 昭和 X 年と西暦 Y 年とは X = Y - 1925 の関係にある。 昭和前期 1927年(2年):昭和金融恐慌 1928年(3年):張作霖を爆殺。男子普通選挙実施 1929年(4年):世界恐慌 1930年(5年):金輸出解禁 1931年(6年):柳条湖事件、満州事変 1932年(7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件 1933年(8年):12月23日 継宮明仁親王(のちの皇太子となり、後に今上天皇)誕生、滝川事件、国際連盟脱退 1935年(10年):天皇機関説問題 1936年(11年):二・二六事件、日独防共協定締結 1937年(12年):日中戦争開戦 、日独伊防共協定締結 朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。 1938年(13年):国家総動員法制定 1939年(14年):ノモンハン事件、ドイツが...
  • 竹槍事件
    竹槍事件(たけやりじけん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1944年(昭和19年)に発生した東條英機首相による言論弾圧事件。事件対応をめぐり陸軍と海軍が対立する一幕もあった。陸軍悪玉論の根拠として出される。 概要 日米開戦時の首相であった東條英機は、戦争遂行のために「東條幕府」と揶揄されるほどの独裁的政治を行ったことで様々な問題や軋轢を生んでいた。また、軍務や政務に私情を持ち込む傾向があり、反対意見に耳を塞いだのみならず、個人的に嫌いな人物や敵対者を懲罰召集して激戦地に送る仕打ちをした。 東條が出した『非常時宣言』の中の「本土決戦」によると、「一億玉砕」の覚悟を国民に訴え、銃後の婦女子に対しても死を決する精神的土壌を育む意味で竹槍訓練を実施した。そうした中、1944年2月23日付の毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と新名丈夫記者(当時37歳)が執筆した記事が掲載された...
  • 李氏朝鮮
    李氏朝鮮/李朝 朝鮮語表記 ハングル 조선(왕조)시대 朝鮮の漢字 朝鮮(王朝)/李朝(封建)時代 片仮名転写 チョソン(ワンジョ)/リジョ(ボンゴン)シデ ラテン文字転写 Joseon/Chosŏn Wangjo 中国語表記 繁体字 李氏朝鮮/李朝 簡体字 李氏朝鲜/李朝 ピンイン lǐshì cháoxiǎn/lǐcháo 英語表記 アルファベット Joseon Dynasty 李氏朝鮮(りしちょうせん、1392年 - 1910年)は、朝鮮半島の最後の王朝。李朝(りちょう)とも言う(李王朝の意)。高麗の次の王朝。 現在の大韓民国(だいかんみんこく)では、李氏朝鮮が統治していた時代を「朝鮮時代」(ちょうせんじだい)、李氏朝鮮の王室を「朝鮮王朝」(ちょうせんおうちょう)と言う。 139...
  • 御前会議
    御前会議(ごぜんかいぎ)とは、天皇が臨席し、国の重要な政策を閣僚・元老と共に決定するために開催される会議の通称である。この御前会議で天皇が決定することは「聖断」として高い権威を持った。 御前会議は戦争遂行等を決定するときに開かれた。主な例では明治時代の1904年2月4日、日露戦争開戦の可否をめぐって開かれている。変わった所では、京成電鉄が恩賜公園である上野公園の敷地の地下を経由して上野に乗り入れる際にも御前会議が招集された。 大東亜戦争(太平洋戦争)と御前会議 昭和時代では、1941年7月2日、独ソ不可侵条約破棄して独ソ戦が開始されたとき、事態対応するための方策として、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定されている。独ソ戦がドイツ有利に戦況が進んだ場合、ソ連に対して開戦すること、「対英米戦準備を整え、対英米戦を辞せず」とし、南部仏印進駐開始を決めた。 同年9月6日、御前会議が開か...
  • 天皇機関説
    天皇機関説(てんのうきかんせつ、天皇機關說)とは、大日本帝国憲法下で確立された、天皇に関する憲法学説である。統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いた。ドイツの公法学者イェリネックに代表される国家法人説に基づく。 概要 天皇機関説は、明治時代の終わりからTemplate 和暦?頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である衆議院憲法調査会事務局「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)」、Template 和暦?。。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、Template 和暦?。。 国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見...
  • 征韓論
    thumb|350px|征韓議論図。[[西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)作。]] 征韓論(せいかんろん)は、日本の明治初期において、当時留守政府の首脳であった西郷隆盛、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようとする主張である。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われている毛利敏彦『明治六年政変』中央公論社〈中公新書〉、1979年(ISBN 4-12-100561-9)による。。 江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。 ...
  • 悌輔騒動
    悌輔騒動(ていすけ そうどう)とは、1872年(明治5年)4月、新潟県および柏崎県(現新潟県)で起きた農民一揆。明治新政府に不満を持つ旧会津藩士渡辺悌輔らが、大河津分水掘削工事の負担に苦しむ農民等を糾合し、新潟県庁の襲撃を図った事件。日本の封建社会における最後にして最大の農民一揆と言われる。 一揆は、旧暦4月4日から6日にかけて柏崎県庁へ強訴を行った一行と、4月6日から8日にかけて新潟県庁へ向かった一行とから成る。2つの一揆の間に繋がりは無く、偶発的とするのが通説であり、その意味では新潟県側の一揆のみを「悌輔騒動」と呼ぶべきであろうが、事件の性質から合わせて記述する。 事件の背景 新潟平野を流れる信濃川およびその支流である中ノ口川は、かつては毎年のように洪水を引き起こす暴れ川として恐れられて来た。この抜本的治水策として、2つの川の分岐点より上流に当たり、且つ日本海に最も近い現在の燕市...
  • 東洋拓殖
    東洋拓殖株式会社(とうようたくしょくかぶしきがいしゃ)は、大日本帝国時代の朝鮮の植民地事業を進めることを目的として設立された国策会社である。 1908年(明治41)12月18日、東洋拓殖株式会社法(東拓法)を根拠法として、大韓帝国政府と日韓民間資本の共同出資などにより設立された。初代総裁は宇佐川一正(陸軍中将)。当初は漢城(日韓併合後、京城に改名)(現在のソウル特別市)に本店を置き、朝鮮の土地5700町歩を所有して、日本からの移民と開拓をその事業として掲げた。 会社発足当初から、政府の補助金も受けて土地の買収を進めた。土地調査事業(1910年~1918年)で日本が接収した土地のうちから1万1400町歩が現物出資されるなどし、朝鮮農民の反発を受けて買収が停滞するものの1919年には7万8000町歩(全耕作面積の約1.8%)を保有した。 同社の日本人移民事業は挫折したが、接収した土地で朝...
  • 中野正剛
    中野 正剛(なかの せいごう、1886年(明治19年)2月12日 - 1943年(昭和18年)10月27日)は昭和期のジャーナリスト、右翼団体東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。 経歴 生い立ち・学生時代 旧福岡藩士中野泰次郎と母トラの長男として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社で...
  • 立憲同志会
    立憲同志会(りっけんどうしかい)は、1913年12月23日に成立した大正時代の日本の政党。元は内閣総理大臣桂太郎(結党2ヶ月前に病死)を党首にする予定であった事から「桂新党」の異名があった。 2度の内閣を組織し、その経験から自らが政党を組織することを志向した桂は、自派の官僚と桂に気脈を通じる議員らとともに「桂新党」を結成しようとした。しかし、桂の自立をよしとしない政党嫌いの山縣有朋によって宮中に押し込められた桂がこの構想を公にするのは、護憲運動に遭遇した第3次桂内閣時であり、立憲国民党からの入党はあったが、立憲政友会の離反を招き、又、期待した田健治郎など官僚や貴族院からの入党もさして上手くいかなかった。 昂揚する第一次護憲運動で帝国議会を大衆のデモが取り巻く中で桂内閣は総辞職。桂首相も失意の内に癌で死去した。桂の死後、新総裁の有力候補と目されていた後藤新平と、仲小路廉は同志会から脱党す...
  • 愛国社
    愛国社(あいこくしゃ)は、 明治時代の自由民権運動前期の政治団体。 昭和時代初期の右翼団体。 1. 愛国社 (1875年-1880年) 明治8年(1875年)2月22日、大阪会議に参加した板垣退助が、大阪で旧愛国公党の同志に再結集を呼びかけ創設した。愛国社に参加したのは、西日本の士族層で、これを板垣など高知県の立志社員が中心になって運営にあたった。本社を東京に置き、愛国社に加盟する各地方の政社からは、委員を本社に送って中央と地方での情報収集及び相互連絡に当たることになっていたが、結成後間もなく、板垣が参議に復帰した上、参加者のうち、西南戦争に西郷軍に参加した者も多く、自然消滅した。 西南戦争後、自由民権運動は、武力による専制政府打倒から、言論と大衆組織による運動へと転換することになる。明治11年(1878年)4月に立志社が中心となり、愛国社の再建を決定。9月に石川、愛知、和歌山...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 大成会
    大成会(たいせいかい)は、明治時代の日本の温和派の院内会派である(1890年8月23日-1891年12月26日)。 1890年の第1回衆議院議員総選挙後、立憲自由党及び立憲改進党に属しない議員の糾合の動きが盛んになった。彼らは党派色の強い民権派系の自由・改進両党(民党)に対抗する意図を有していたが、政府との関係や新しい組織を政党とするか院内会派にするかなどその意見は様々であった。 それでも、1890年8月22日に会則と「大成会」の名称が定められ、翌日に東京の愛宕館で正式な結成大会が開かれて、この会が衆議院議員有志によって構成される団体であると位置付けて政党である事を否定した。これは、日本の議会に政党自体を不要と考える超然主義を唱える議員に配慮したものである。代表者として3名の常務委員(増田繁幸・堀部勝四郎・俣野景孝)が選出された。この他、杉浦重剛・元田肇・津田真道・末松謙澄・岡田良一郎...
  • 新聞紙条例
    Template 日本の法令? 新聞紙条例(しんぶんしじょうれい)は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための条例のこと。 反政府的言論活動を封ずることを目的として制定された。 沿革 明治8年(1875年) 従前の新聞紙発行条目(明治6年10月19日太政官第352号(布))を実質的に改正するかたちで成立した。 明治42年(1909年) 新聞紙法(明治42年5月6日法律第41号)の成立により失効。 概要 自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定した。 新聞紙発行条目を全面改定し、適用範囲を新聞以外の雑誌・雑報にまで広げたものであった。 以下主な内容を示す。 発行を許可制とした。 違反の罰金・懲役を明確に定めた。 社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、違反時の罰則を定めた。 同時発布の讒謗律との関係...
  • 榎本武揚
    {{Infobox Military Person Template Infobox 軍人? 榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) - 明治41年(1908年)10月26日)は、江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。徳川育英会育英黌農業科(東京農業大学の前身)の創設者でもある。 通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。父は幕臣榎本武規(円兵衛)、妻は林洞海の娘で林研海の妹でもあるたつ。家紋は丸に梅鉢。 生涯 海軍副総裁就任まで のちに榎本武揚を称する榎本釜次郎は、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。父はもとの名を箱田良助といい、備後福山藩箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、江戸へ出て幕臣榎本家の株を買い、榎本家の娘と結婚することで養子縁組みし...
  • 攘夷論
    攘夷論(じょういろん)は、日本に於いては、江戸末期に広まった考えで、夷人(外国人)をしりぞける。つまり外国人を実力行使で排斥しようという思想。元は中国の春秋時代の言葉。 帝国主義の発想を持つ欧米のアジアへの接近(侵略・進出・植民地化)により、それまでの江戸の天下泰平の世の中(鎖国体制下の社会)を維持したいという発想として盛り上がった。 概要 元々は朱子学を重んじた水戸学から発して全国に尊皇攘夷思想として広まった。だが、それが勤皇思想と結んだ結果において倒幕と言うエネルギーに一転した。これは一種のすり替えであった。 開港以後は、国学の発展によって強化されつつあった日本は神国であるというナショナリズムの発想である尊皇論と結びつき、尊皇攘夷論となって諸藩の志士や公卿によって支持された。 しかし薩英戦争や下関戦争において外国艦隊との力の差に直面したことにより、単純な攘夷論に対する批判...
  • 冊封
    冊封(さくほう)とは、中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と「名目的」な君臣関係を結ぶこと。これによって作られる国際秩序を冊封体制と呼ぶ。  概要 冊封の原義は「冊(文書)を授けて封建する」と言う意味であり、封建とほぼ同義である。 冊封を受けた国の君主は、王や侯といった中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結ぶ。この冊封によって中国皇帝の(形式的ではあるが)臣下となった君主の国のことを冊封国という。このようにして成立した冊封関係では、一般に冊封国の君主号は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。したがって冊封関係を結んだからといって冊封国がそのまま中国の領土となったと言う意味で...
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