chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「東洋書林」で検索した結果

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  • 壬申戸籍
    ...纂、速水融復刻解題、東洋書林、1992年   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月20日 (土) 03 21。   
  • 東洋拓殖
    東洋拓殖株式会社(とうようたくしょくかぶしきがいしゃ)は、大日本帝国時代の朝鮮の植民地事業を進めることを目的として設立された国策会社である。 1908年(明治41)12月18日、東洋拓殖株式会社法(東拓法)を根拠法として、大韓帝国政府と日韓民間資本の共同出資などにより設立された。初代総裁は宇佐川一正(陸軍中将)。当初は漢城(日韓併合後、京城に改名)(現在のソウル特別市)に本店を置き、朝鮮の土地5700町歩を所有して、日本からの移民と開拓をその事業として掲げた。 会社発足当初から、政府の補助金も受けて土地の買収を進めた。土地調査事業(1910年~1918年)で日本が接収した土地のうちから1万1400町歩が現物出資されるなどし、朝鮮農民の反発を受けて買収が停滞するものの1919年には7万8000町歩(全耕作面積の約1.8%)を保有した。 同社の日本人移民事業は挫折したが、接収した土地で朝...
  • 東洋自由新聞
    東洋自由新聞(とうよう じゆう しんぶん)は、明治初期に刊行された新聞。 1881年(明治14年)3月18日に東京で創刊。山城屋の稲田政吉を社主とする東洋自由新聞者発行。社は東京銀座通りの活版印刷所績文社に同居。 自由民権運動が興隆した明治14年10月に結党される自由党の準備会において機関紙発行が否決されたため、フランス留学経験のある華族の西園寺公望や仏学塾を経営する中江兆民(篤助)、光妙寺三郎らフランス派知識人と、新潟の山際七司、信州の松沢求策ら地方で活躍した民権派が合流して独自に創刊された。 幹事の松田正久、監督委員に森新三郎。編集委員には主筆の中江のほか、柏田盛文、上条信次、桑野鋭、松沢求策、林正明らを社員に東京で創刊。自由民権と君民共治、フランス流急進自由主義を主張。当初は2000部を印刷し、後に1600部に減じた。 西園寺の社長就任は明治政府や宮中でも物議を呼び、右大臣岩...
  • 哲学館事件
    哲学館事件(てつがくかんじけん・てつがっかんじけん)とは1902年に私立哲学館(現在の東洋大学)で発生した事件である。 明治期の初め、学校の卒業と同時に無試験で教員になることができたのは国立の学校のみで私立にはその権利がなかった。しかし、哲学普及のために教育者を育成することを目標としていた私立哲学館の井上円了は私立学校にも卒業生に対して無資格で教員となることができるよう、1890年から当時の文部省に対して陳情を行っていた。文部省からなかなか良い返事をもらえなかった井上は、慶應義塾(現在の慶應義塾大学)、國學院(現在の國學院大學)、東京専門学校(現在の早稲田大学)と私立学校の連合を組んで再度陳情を行い、1899年に中等学校の教員免許について、卒業と同時に無試験で認可されることとなった。 1902年にはこの4校で最初の卒業生が誕生し、私立学校ではじめての無試験教員が誕生するはずであった。し...
  • 井上日召
    井上 日召(いのうえ にっしょう、1886年4月12日 - 1967年3月4日)は日蓮宗の僧侶で右翼活動家。戦前の右翼団体血盟団、戦後の右翼団体護国団の指導者。本名は井上昭。昭の字を分けて日召とす。 出身地 群馬県利根郡川場村 学歴 旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校) 東洋協会専門学校(現拓殖大学)中退 略歴 群馬県の医師の家に生まれる。 旧制前橋中学校(現群馬県立前橋高等学校)を経て、1909年東洋協会専門学校(現拓殖大学)入学も翌年中退。 1909年 南満州鉄道入社。諜報活動等を行う。 1920年 帰国し、日蓮宗の僧侶となる。 1925年 護国聖社に入る 1928年 茨城県大洗町の立正護国堂の住職になる。  その後、海軍の過激派藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長橘孝三郎らと知り合い、暴力的改造以外に道はないと説得され同調、テロ...
  • 旧制大学
    旧制大学(きゅうせいだいがく)とは、日本において学校教育法(1947年4月1日施行)より前の学校制度における大学の全般を指す言葉である。 旧制大学については、第二次世界大戦後の1947年に施行された学校教育法によって新規に設立された大学(新制大学)と対比する意味で用いられる事が多い。なお、新制大学のうち国立大学については、国立学校設置法(1949年施行、2004年廃止)によって設置された。 旧制大学は、現在(1991年の大学設置基準の大網化以降)の大学の3・4年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程などに相当すると考えられている。現在の大学の1・2年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。なお、旧制大学には旧制専門学校に相当する専門部という組織も設置されていたことがあった。 定義 旧制大学とは、学制、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学である。第二次...
  • 台北帝国大学
    台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は、日本領時代の台湾に設置された帝国大学。当時は臺北帝國大學と表記された。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/...
  • 八幡製鐵所
    八幡製鐵所(やわたせいてつしょ)は、福岡県北九州市戸畑区・八幡東区にある製鉄所である。日本初の近代製鉄所で、現在は新日本製鐵が運営する。戸畑地区と八幡地区に分かれており、かつての本事務所に相当する総合センターは戸畑地区の正門前、北九州市戸畑区飛幡町1-1に立地する。 読みは「やわた」であるが、現在では何故「やわた」と読むのかはっきりと分からないため、「やはたせいてつしょ」と読む人がほとんどである(後述参照)。 概要 敷地面積 1614万m² 従業員数 約2900人 年間粗鋼生産量は約369万トン 生産品 鋼板 ブリキ レール 形鋼 鋼管 専用鉄道 八幡製鐵所は八幡地区と戸畑地区を結ぶために約6kmの専用鉄道(八幡製鐵鉱滓鉄道くろがね線)を所有している。 名称 八幡製鐵所は「やわた」と読み、所在地の八幡は「やはた」と読む...
  • 青島の戦い
    青島の戦い(ちんたおのたたかい, Battle of Tsingtao, 1914年10月31日 - 11月7日)は、第一次世界大戦中のTemplate 和暦?に、ドイツ帝国の東アジアの拠点青島を日本・イギリス連合軍が攻略した戦闘である。 概要 1897年、ドイツは青島を含む膠州湾一帯を当時の中国政府から租借、湾口の青島に要塞を建設、ドイツ東洋艦隊 (de) を配備した。 1914年の第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告し青島の攻略に乗り出した。マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊は開戦後すぐに港内封鎖を恐れ、ドイツ本国へ向かったがフォークランド沖海戦で壊滅した。青島には駆逐艦「タークー」と「S90」が残り、S90 は10月18日0時、雷撃により日本海軍の防護巡洋艦「高千穂」を撃沈している。 1914年10月31日、神尾光臣大将指揮する第18師団(約29,0...
  • アーネスト・サトウ
    アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助。 生涯 1843年、ドイツ東部地方にルーツを持つソルブ系スウェーデン人を父、イギリス人を母(旧姓、メイソン)としてロンドンで生まれた。1861年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862年9月、英国駐日公使館の通訳見習として来日した。その直後の9月14日、生麦事件が勃発した。当時、駐日総領事ラザフォード・オールコックは一時帰国していた。1863年には薩英戦争の現場に立会い、1864年には四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会った。後に正規の通訳官及び書記官に昇進。駐日公使ハリー・パークス(在任、1865年-1882年)の下で活躍...
  • 立憲帝政党
    立憲帝政党(りっけんていせいとう)は、明治時代の政党。結成は1882年。勃興する自由民権運動に対して、政府支持政党として結成された。 1882年3月13日自由党、立憲改進党などの民党に対抗し東京日日新聞社長の福地源一郎(桜痴)、明治日報の丸山作楽、東洋新聞の水野寅次郎によって結成された。4月4日には大阪で機関紙である大東日報を創刊(社長羽田恭輔・主筆原敬)する。 立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などを政治要綱に掲げた。自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶ら宗教家など体制擁護を意図する保守層の支持を受けたが、組織が弱く、さらに政府が超然主義を採ったため存在意義を失い、翌1883年9月24日に解党した。 なお、大東日報は解党以後も独立系の政府派新聞として存続し、1885年5月15日には内外新報と改題するものの、18...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 南洋興発
    南洋興発株式会社(なんようこうはつかぶしきかいしゃ)は、大日本帝国時代の日本の国策会社。大正10年(1921年)設立。満州を中心とした南満州鉄道に対して、南洋興発は南洋諸島を舞台として発展した。このため、この会社を『海の満鉄』と呼ぶこともある。 概要 第一次世界大戦のドイツ敗戦により南洋の旧ドイツ領を国際連盟・委任統治領として日本が統治することになった。これを契機として内地の資本が次々と進出したが初期のそれら進出会社は経営に行き詰まり、入れ替わる形として設立されたのが南洋興発である。 南洋興発の当初の主たる事業は製糖事業であった。その後、事業を水産業・農園業・製酒業などから鉱業・油脂工業・交通運輸業・貿易業に至るまで拡張し南洋における最大の企業となった。従業員は5万人弱と満鉄に匹敵する規模の国策会社に成長した。 しかし、太平洋戦争の激化に伴い、南洋諸島は連合国の1国であるアメリカ軍...
  • 戦時体制
    戦時体制(せんじたいせい)は、近現代の戦争において、国家が戦争遂行を最優先の目標として、その達成のために各種の政策を行うことをいう。 戦時体制下においては、軍需物資の生産を極大化するために企業や国民が組織化されて動員が図られ、しばしばその目的の障害となる国民の私的領域である人権やプライバシーの抑圧が伴う。第二次世界大戦では、日本は1938年の国家総動員法制定、1940年の大政翼賛会および大日本産業報国会の結成により、世界経済から孤立していたソ連の戦時共産主義政策をモデルケースとする戦時体制の確立をした。しかし航空機の生産機数や粗鋼生産量など各種の指標を見ても、日本はアメリカ合衆国やソビエト連邦はおろかイギリスやナチス・ドイツにも及ばず、経済政策としては失敗している。 しかしながら、経済統制の手法は戦後の経済政策にも生かされていく。企業構造や財政システムなどにおける日本特有の要素は戦時体...
  • 王道楽土
    王道楽土(おうどうらくど)は、1932年、満州国建国の際の理念。 アジア的理想国家(楽土)を、西洋の統治(覇道)ではなく東洋の統治(王道)で造るという意味が込められている。 「五族協和」「王道楽土」と並び称されたが、「五族協和」とは、満日蒙漢朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うとする趣旨の言葉。満州には五族以外にも、ロシア革命後に逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 満州には内戦の続く疲弊した中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人、そして大日本帝国政府と満州国政府の政策に従った満蒙開拓団(満蒙開拓移民・満州武装移民)らの移住・入植が相次ぎ、人口も急激に増加した。 大日本帝国本土(日本列島地域)においても、(当時の農村不況も相まって)困窮する零細農民や土地を持たぬ小作農、土地を相続できない農家の次男三男以下など、または大陸にて雄飛し名をあげる野望を抱く「大陸浪人」らの間で、...
  • 大西洋憲章
    大西洋憲章(たいせいようけんしょう、Atlantic Charter)は、1941年8月の大西洋会談において、英国首相のウィンストン・チャーチルと、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトによって調印された憲章。 ニューファンドランド島沖の戦艦、プリンス・オブ・ウェールズ上で調印された。太平洋戦争開戦前で合衆国はまだ参戦していなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものである。 八項目からなり、その内容は要約すると以下になる。 合衆国と英国の領土拡大意図の否定 領土変更における関係国の人民の意思の尊重 政府形態を選択する人民の権利 自由貿易の拡大 経済協力の発展 恐怖と欠乏からの自由の必要性 航海の自由の必要性 一般的安全保障のための仕組みの必要性 憲章の第3条については、ルーズヴェルトとチャーチルの間で見解の相違があった。ルーズヴェル...
  • 岩崎弥太郎
    岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。 人物 土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。 幕末、土佐藩参政吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事する。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国、職を辞した。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され、坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当した。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、...
  • 後藤象二郎
    Template 政治家? 後藤 象二郎 / 象次郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日)- 明治30年(1897年)8月4日)は、日本の武士・土佐藩士、政治家。爵位は伯爵。農商務大臣、逓信大臣、大阪府知事など。諱は元曄(もとはる)。象二郎は通称、他に保弥太、良輔。雅号は暢谷。 生涯 生い立ち 土佐藩の高知城下にて上士・馬廻格150石の後藤助右衛門の長男として生まれる。将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合いであり、後藤の姉の夫で、義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学んだ。 安政5年(1858年)より、吉田東洋の進言もあって、幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として土佐藩政で活躍したが、翌年に吉田が暗殺され、拠り所を失った後藤は失脚する。 文久3年(1863年)に、再び役職を得、また前藩主山内容堂の信頼を...
  • 日英和親条約
    日英和親条約(にちえいわしんじょうやく、 Anglo-Japanese Friendship Treaty)は1854年、日本とイギリスの間で締結された最初の条約。幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。日英約定(にちえいやくじょう)とも。 1854年9月7日、ジェームズ・スターリング提督(Admiral Sir James Stirling)率いるイギリス東洋艦隊が長崎に来港、日本との通航を要求した。 砲艦外交の圧力の下、江戸幕府の許可を得た長崎奉行水野忠徳及び同目付永井尚志が同年10月14日(嘉永7年8月23日)、条約に調印した。 日本は先の日米和親条約で米国に下田と箱館の開港を認めていたが、この条約では長崎と箱館を英国に開放(条約港の設定)し、薪水の供給を認めた。また、治外法権・最恵国待遇などの規則も定められた。ただし通商規定...
  • 義和団の乱-2
    前半は、義和団の乱参照 義和団の乱の影響と評価 影響 1―中国国内の影響― 改めて強調するまでも無く、義和団の乱は国内外に様々な影響を残した。まず国内的な影響について触れる。 1. 総理衙門の廃止と外務部の創設 これらは北京議定書に盛り込まれているように、列強各国の強い意向によって実現したものである。アロー戦争以後清朝の外交を担ってきた総理衙門が清朝官庁内で次第に地位低下したことに不満を覚えた諸外国が、清朝が外交を重視するよう求めた結果、総理衙門を廃止し外務部をつくらせるに至った。なお外務部は他の官庁より上位の組織であるとされた。 2. 光緒新政の開始 北京に帰った西太后は排外姿勢を改め、70歳近い年齢でありながら英語を習い始めるなど、西欧文明に寛容な態度を取り始めた。その最も典型的な方針転換はいわゆる光緒新政を開始したことである。これは立憲君主制への移行・軍の近...
  • アジア主義
    アジア主義(あじあしゅぎ)とは、19世紀後半に活発となった欧米諸国のアジア進出に対抗する方策として展開された日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。 概要 欧米諸国からの脅威の排除とアジアの自立を目指した主張であるが、その内容は開国文明化、協同、合邦、新秩序構築など、主張する側の思想、立場によって異なり一義的な定義はない。また、時代ごとの国際情勢によって主張内容が変化する。当初は日本と中国、朝鮮の関係論から始まり、日露戦争以降、アジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(大アジア主義)、そして大東亜共栄圏構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。 その後の国際的な地域統合の流れの中で生まれた東アジア共同体構想も、しばしばアジア主義と関連付けられて言及されるこ...
  • 白鳥敏夫
    白鳥 敏夫(しらとり としお、明治20年(1887年)6月8日 - 昭和24年(1949年)6月3日)は大正、昭和期の日本の外交官・政治家。東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。元外務大臣石井菊次郎も叔父にあたる。息子に白鳥正人元北陸財務局長。 来歴 千葉県出身。東京・日本中学、第一高等学校を経て、1912年(明治45年)7月、東京帝国大学法科大学経済学科卒。 1913年(大正2年)10月に高等文官試験・外交官及び領事官試験に合格し、外務省に入省。1930年(昭和5年)に同省情報部長となり、満州事変当時、内閣書記官長だった森恪や鈴木貞一陸軍中佐(当時)と提携し、事変に対する国際連盟の批判に対抗するための外交政策の代表的役割を果たした。 事変後も、連盟脱退など軍部と連携して英米に対する強硬外交を推進し、そのための世論誘導に努めた。そのため、元々は連盟脱退反対派だった松岡洋右が国際連盟脱退の...
  • 日満議定書
    日満議定書とは、1932年9月15日に日本国と満州国の間で調印された議定書。 日本側全権は武藤信義陸軍大将(関東軍司令官)、 満洲国側は鄭孝胥国務総理。 議定書の調印による取り決め事項 議定書の調印によって、下記の事項が取り決められた。 また同時に補足条約ともいえる書簡の交換も行っている。 いずれの事項もこれまでの協定の確認にすぎず、どちらかといえば「両国間の合意事項の世界への公式表明」の色が強かった。 議定書の内容 この議定書で交わされた約定は主に、 満洲国の承認 満洲での日本の既得権益の維持(関東州は租借地として継続して日本の直接支配下) 共同防衛の名目での関東軍駐屯の了承 の3点である。 交換書簡の内容 過去に交わされた下記の文書について、引き続き行使する事。 1. 1932年3月10日に満洲国執政(溥儀)から送付され、5月10日に関東軍司...
  • 第一次世界大戦下の日本
    Template 右? 第一次世界大戦下の日本(だいいちじせかいたいせんかのにっぽん)では、日英同盟に基づき、連合国の一国として第一次世界大戦へ参戦した日本(当時は大日本帝国)について述べる。 参戦 日英同盟に基づく参戦 第一次世界大戦の開戦に際して、イギリスは日英同盟に基づき、ドイツ東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請した。当時アメリカ合衆国は中立であり、日本の軍部は艦隊の外地派遣によって本土の防備が手薄になることを恐れ、即時参戦には消極的だった。 しかし、1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。参戦に慎重だった為、異例の一週間の期限となったが結局ドイツは無回答の意志を示した。 大隈重信首相は、御前会議にもかけない上に、議会における承認も軍統帥部との折衝も行わないまま、緊急会議において要請から36時間後には参戦を決定した...
  • 青木周蔵
    {{政治家 |各国語表記 = あおき しゅうぞう |画像 = Aoki Shuzo.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1844年3月3日(天保15年1月15日) |出生地 = 萩藩厚狭郡生田村 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 明倫館出身 |前職 = 外務省次官 |現職 = |所属政党 = |称号・勲章 = 勲一等旭日桐花大綬章子爵 |世襲の有無 = |親族(政治家) = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = JPN |職名 = 第15代外務大臣 |内閣 = 第2次山縣内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1898年11月8日 |退任日 = 1900年10月19日...
  • 更新blog-6
    最近更新したblog一覧 その6 更新blog-1 更新blog-2 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-5 # トラの日記 # 三国機関 オランダ領インドネシア 吉田松陰 和製ゲシュタポ三国機関 天下とは天下の天下であって自然の天下である Japan Times の記事から「日本の厄介な歴史修正主義者たち」 2015-04-15 原爆投下 天皇 米国との戦争 国民たちが戦っている最中、天皇のお言葉 御前会議 山本五十六司令長官の責任は、比較を絶して巨大である 海軍国防政策委員会 太平洋戦争関連の昭和天皇発言 沖縄戦関連の昭和天皇発言 ■ ルーズベルト大統領の昭和天皇宛親電 南部仏印 ゼロからの出発と対外不平等の半世紀 大君制国家 「女工と結核」と題する演説 (23.8.27) NHKスペシャル 円の戦争  もう一つの不思議な通貨戦争 個人の尊...
  • 井上準之助
    Template Infobox Celebrity? 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、大正~昭和初期の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。 来歴・人物 浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。 金輸出解禁政策は失敗であったが、当時としては異例の全国各地を歩いて国民に政策の理解を求めるPR活動を行うなどの真摯な態度や、当時の経済学において正統な経済のあり方とされた金本位制を維持しようとしたのは常識的判断であり世界恐慌の深刻さがそれを上回ったと擁護する向きもある。しかし、金融界の意向に配慮した旧平価解禁の強行やその後のドル買事件に際しては一転して金融界と過度な全面衝突を起こすなど...
  • 不戦条約
    不戦条約(ふせんじょうやく)(「戦争抛棄ニ関スル条約」)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。 概要 1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。戦争の拡大を防ぐために締結...
  • 横浜事件
    横浜事件(よこはまじけん)とは、第二次世界大戦中の1942-1945年におきた言論弾圧事件のことである。 1942年、雑誌『改造』に掲載された論文が問題になり、執筆者が治安維持法違反で検挙された。これを発端に編集者、新聞記者ら約60人が神奈川県警察特別高等警察課によって逮捕された。横浜地裁は敗戦から治安維持法廃止までの期間に約30人に有罪判決を下し、4人の獄死者を出した。 戦後、無実を訴える元被告人やその家族・支援者らが再審請求を繰り返し、2005年に再審が開始されることになったが、最終的に罪の有無を判断せず裁判を打ち切る免訴が確定した(後述)。なお、別の遺族が2002年3月に申し立てた第4次再審請求について、2008年10月31日、開始される事が決定した。 経緯 1942年、総合雑誌『改造』(8-9月号)に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」が共産主義的でソ連を賛美...
  • 旧制高等学校
    旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)とは、1950年まで存在した日本の高等教育機関の1つで、2つの高等学校令(1894年および1918年)に基づき設置されたもの、を指す。1886年の中学校令により設立されていた第一~第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を、1894年高等学校に改組して始まった。当初は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制の2系統があったが、学部は順次廃止ないし専門学校として分離され、大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正後は各地で増設され、大学予科は本科に、さらに文科・理科に分かれた。後期には4年間の前置課程を含めた7年制のものもある。 Template 右? 概要 1894年の高等学校令では、専門学科の教育を行なう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定されていた。しかし、専門学科教育は主流となる...
  • 鈴木商店
    鈴木商店(すずきしょうてん)は、戦前の日本の財閥。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなる。鈴木商店の子会社の1つ、日本商業会社は岩井産業と合併し日商岩井へ、更にニチメンと合併し現在の双日のルーツの一つでもある。第一次世界大戦の戦争成金の代表格。 歴史 創業期 1874年、兵庫の弁天浜に川越藩の鈴木岩治郎が、当時番頭をしていた辰巳屋ののれんわけで鈴木商店を開業する。 1886年、のちに鈴木商店を支える金子直吉が鈴木商店に丁稚奉公に入る。順調に売上を伸ばし神戸八大貿易商の一つに数えられるようになる。しかし、1894年に鈴木岩治郎が死去。廃業の提案をよそに夫人の鈴木よねが金子直吉と柳田富士松の両番...
  • 台湾銀行
    台湾銀行(たいわんぎんこう) 第二次世界大戦までにあった特殊銀行(#日本統治時代で記述)。 現在、台湾にある金融機関。台湾銀行(#第二次世界大戦後で記述)。 日本統治時代 台湾銀行(たいわんぎんこう)は1895年の台湾統治後、日本政府の国策により設置された台湾の中央銀行で、紙幣発行権を持つ特殊銀行であった。1899年に開業、1945年に閉鎖された。 台湾における産業の育成、中国への投資などを行った。第一次世界大戦中の戦争景気で投機的な取引を行い莫大な利益を上げた鈴木商店に資金を融通し、この頃から、台湾内の取引額より、日本での取引額が上回った。昭和始めの時点で、総貸出額7億円余りのうち、半分近くの3億5千万円が鈴木商店への貸出しであった。 戦後不況で鈴木商店が危機に陥ると、震災手形で一時凌ぐが、膨大な不良債権を抱え、1927年の昭和金融恐慌で休業に陥る。モラトリア...
  • 坂本龍馬
    Template Infobox 革命家? 坂本龍馬(さかもと りょうま、天保6年11月15日(1836年1月3日) - 慶応3年11月15日(1867年12月10日)は、幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊 (浪士結社)の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈官位、正四位。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇っている。また、その事跡についてはさまざまな論議がある。 諱は直陰のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。「龍馬」は慣用音(『広辞苑』第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたこと...
  • 中江兆民
    Template Infobox Celebrity? 中江 兆民(なかえ ちょうみん、弘化4年11月1日(1847年12月8日) - 明治34年(1901年)12月13日)は、江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家(衆議院議員)である。フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となった事で知られ、「東洋のルソー」と評される。衆議院当選1回、第1回衆議院議員総選挙当選者の一人。 父は土佐藩足軽の元助で長男、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一男一女。娘の千美は竹内綱の3男虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(176...
  • 川島芳子
    川島 芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 - 1948年3月25日)は清朝粛親王の王女。生名は愛新覚羅 顕シ(あいしんかくら けんし)(シは王ヘンに子)、字は東珍、中国語名は金璧輝。 日本人の養女となり日本で教育を受ける。清朝復辟のために日本軍に協力し、戦後中華民国政府によって「漢奸」として訴追され刑死。 経歴 粛親王善耆第十四王女 粛親王善耆の第十四王女として光緒33年旧暦4月12日(西暦1907年5月24日)北京に生まれた。生母は粛親王の第四側妃。粛親王家は清朝太宗ホンタイジの第一子武粛親王豪格を祖とし、親王位の世襲を認められた名門であった。(通常は皇族の爵位は一代ごとに降格する) 本名愛新覚羅顕シ(シは王ヘンに子)、字東珍、別名金璧輝。字の由来は日本へ養女にいく際に東洋の珍客として可愛がられるようにとの願いがこめられてつけられた。別名の金璧輝は兄金壁東からと...
  • 乙未事変
    乙未事変(いつびじへん)とは朝鮮国王王妃であった閔妃が1895年10月8日に暗殺された事件。韓国語ではウルミ、俗に「明成皇后 弑害事件」とも呼ばれる。 概要 親露に傾いていく閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年10月8日、それらの勢力により景福宮にて殺害され、遺体も焼却された。 この事件では朝鮮が親露化によって日本の影響力が低下することを恐れた日本公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。外交官が王族を殺害することに関与するという行為に、日本は国際的な非難を恐れ三浦を含む容疑者を召還し裁判にかけたが、首謀と殺害に関して ref name= nikkan 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353は証拠不十分で免訴となり、釈放した ref name= shinbun 新聞集成 明治編年史 第九...
  • 反軍演説
    反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会の衆議院で斎藤隆夫が行った演説。日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。 経緯 演説 斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである ref name= hangun-kaiko 『回顧七十年』「国家総動員法案、質問演説」より。以下のカギ括弧内引用は断りが無い限りこのページからのものである。 第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか 第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか 第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか 第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問 第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は...
  • 仮45
    無産政党(むさんせいとう)とは、日本の戦前(第二次世界大戦、太平洋戦争以前)の合法的社会主義政党の総称。有産階級に対する、労働者などの無産階級のための政党と位置づけられる。「当時非合法であった、日本共産党を除く」意味合いがある。 現代ならば社会民主主義政党と呼ばれる位置にある党派が多い。労働農民党や社会大衆党などの全国的無産政党の他、地方に存在する千葉労農党や岩手無産党などの地方的無産政党などがあり、分裂期には30余りの政党が乱立していた。 概要 無産政党の消長 日本の無産政党は、明治中頃の東洋社会党など、社会主義とはほとんど無縁の政党も存在した。しかし本格的な無産政党は幸徳秋水などを中心とする社会主義者によって結成された社会民主党を以て濫觴とする(1901年5月)。 社会民主党ははじめて社会主義的宣言をしたことで知られているが、時の伊藤内閣は即日結社禁止とした。その後も社会主義者...
  • 日韓併合条約
    日韓併合条約(にっかんへいごうじょうやく、正式名称=韓国併合ニ関スル条約) 1910年(明治43)8月22日に漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相が調印、29日に裁可公布して発効した「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」ことなどを規定した条約のこと。 条約文 韓国併合ニ関スル条約 日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下ハ両国間ノ特殊ニシテ親密ナル関係ヲ顧ヒ相互ノ幸福ヲ増進シ東洋ノ平和ヲ永久ニ確保セムコトヲ欲シ此ノ目的ヲ達セムカ為ニハ韓国ヲ日本帝国ニ併合スルニ如カサルコトヲ確信シ茲ニ両国間ニ併合条約ヲ締結スルコトニ決シ之カ為日本国皇帝陛下ハ統監子爵寺内正毅ヲ韓国皇帝陛下ハ内閣総理大臣李完用ヲ各其ノ全権委員ニ任命セリ因テ右全権委員ハ会同協議ノ上左ノ諸条ヲ協定セリ 第一条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス ...
  • 無産政党
    無産政党(むさんせいとう)とは、日本の戦前(第二次世界大戦、太平洋戦争以前)の合法的社会主義政党の総称。有産階級に対する、労働者などの無産階級のための政党と位置づけられる。「当時非合法であった、日本共産党を除く」意味合いがある。共産主義政党・社会主義政党は存在自体が非合法とされていたので(具体的には、治安警察法の規定により結社として届け出ると、即日禁止された)、これらの用語を避けるため「無産」の呼称が生まれた。 現代ならば社会民主主義政党と呼ばれる位置にある党派が多い。労働農民党や社会大衆党などの全国的無産政党の他、地方に存在する千葉労農党や岩手無産党などの地方的無産政党などがあり、分裂期には30余りの政党が乱立していた。 概要 無産政党の消長 日本の無産政党は、明治中頃の東洋社会党など、社会主義とはほとんど無縁の政党も存在した。しかし本格的な無産政党は幸徳秋水などを中心とする社会主...
  • 東郷平八郎
    Template Infobox 軍人? 東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1847年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人である。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。 明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げた。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であった英国のジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督とし...
  • 孫文
    孫 文 初代中華民国臨時大総統 プロフィール 出生 1866年11月12日Template QIN1890?広東省 死去 1925年3月12日Template Flagicon?北京 出身地 清国広東省中山市(香山県) 職業 政治家、革命家、中華民国臨時大総統 政党 同盟会、 中国国民党 各種名称 譜名 德明 幼名 帝象 字名 載之 号・教名(受洗名) 日新、逸仙 日本名 中山樵(なかやましょう)、高野長雄(たかのながお) 慣称 孫中山 各種表記 簡体字 孙中山 繁体字 孫中山 ピン音 Sūn Zhōngshān 和名読名 そん ちゅうざん 発音転記 スン ヂョンシャン ラテン字 Sun Chung-shan 英語名 Sun Yat-sen ■ ポータル ■テンプレート ■ノート...
  • マレー作戦
    Template Battlebox? マレー作戦(まれーさくせん, Battle of Malaya, 日本側作戦名「E作戦」)は、大東亜戦争(太平洋戦争)序盤における日本軍のイギリス領マレーおよびシンガポールへの進攻作戦である。 1941年12月8日にマレー半島北端に奇襲上陸した日本軍は、イギリス軍と戦闘を交えながら55日間で1,100キロを進撃し、1942年1月31日に半島南端のジョホールバル市に突入した。これは戦史上まれに見る快進撃であった。作戦は大本営の期待を上回る成功を収め、日本軍の南方作戦は順調なスタートを切った。 背景 大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時における日本軍の戦略目標はオランダ領東インド(現インドネシア)の資源地帯の占領であったが、そこに至るには手前に立ちはだかるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールは戦艦プリンス・オブ・ウェールズと...
  • 国際連盟
    国際連盟(こくさいれんめい 英:League of Nations)は、第一次世界大戦の教訓から、1920年に発足した史上初の国際平和機構である。 略称は連盟。本部はスイスのジュネーヴに置かれていた。 国際連盟の沿革 設立 アメリカ合衆国大統領のウィルソン(=民主党)の十四か条の平和原則により提唱され、ヴェルサイユ条約の第1編に基づいて国際連盟規約が定められたことで設立された。原加盟国は42カ国で、最終的に60カ国以上が加盟している。 提唱者が大統領であるアメリカ合衆国自身は、モンロー主義を唱える上院の反対(=共和党が多数)により国際連盟には参加していない。また、ロシア革命直後のソヴィエト社会主義共和国連邦(1934年加盟)や敗戦国のドイツ(1926年加盟)は、当初は参加を認められなかった。このように大国の不参加によってその基盤が当初から十分なものではなかった。 経緯 ...
  • 土肥原賢二
    Template 基礎情報 軍人? 土肥原 賢二(どいはら けんじ、明治16年(1883年)8月8日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は大日本帝国陸軍大将。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で暗躍。極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯となり死刑判決を受ける。1978年に靖国神社に合祀される。 生涯 出自 岡山県岡山市出身。青山小学校、仙台陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、明治37年(1904年)10月に陸軍士官学校、大正元年(1912年)11月に陸軍大学校卒業。 活動 大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の板西機関で対中国工作を開始。板西機関長補佐官、天津特務機関長と出世。 昭和6年(1931年)夏、奉天特務機関長に就任。満州事変の際、奉天臨時市長となる。同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇...
  • 超然主義
    超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。ま...
  • 満鉄調査部
    満鉄調査部(まんてつちょうさぶ)は、戦前に存在した南満州鉄道の調査機関である。 設立は明治40年(1907年)。 概要 1906年に南満州鉄道(満鉄、総裁後藤新平)が発足した翌年、満鉄調査部が設置された。当初は満鉄の経営のための調査をはじめ中国東北地区などの政治、経済、地誌等の基礎的調査・研究を行なったが、その後の日本の中国進出の拡大に呼応してその対象を広げ、中国そのものを対象とした本格的な調査研究も行うようになっていった。 他方、多数の調査要員を必要としたこともあり、日本国内で活動の場を失っていた多数の自由主義者、マルクス主義者などを取り込むようになり、やがてその活動は軍部の忌避するところとなって2度にわたる弾圧事件を受け、活動を縮小した。 満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクであるとしばしば形容される。日本の敗戦と満州国の消滅により満鉄が消滅した後も、満鉄...
  • 天皇機関説
    天皇機関説(てんのうきかんせつ、天皇機關說)とは、大日本帝国憲法下で確立された、天皇に関する憲法学説である。統治権は法人たる国家にあり、天皇はその最高機関として、内閣をはじめとする他の機関からの輔弼を得ながら統治権を行使すると説いた。ドイツの公法学者イェリネックに代表される国家法人説に基づく。 概要 天皇機関説は、明治時代の終わりからTemplate 和暦?頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である衆議院憲法調査会事務局「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)」、Template 和暦?。。憲法学者の宮沢俊義によれば、天皇機関説は、次のようにまとめられる宮沢俊義『天皇機関説事件(上)』有斐閣、Template 和暦?。。 国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見...
  • 南方作戦
    南方作戦(なんぽうさくせん, Southern Operations)は、太平洋戦争緒戦における日本軍の東南アジア各地への攻略作戦である。1941年12月8日の真珠湾攻撃と英領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942年5月のビルマ制圧をもって完了した。南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は作戦目標を完全に達成した。 背景 1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国やイギリスとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。 10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で...
  • 朝鮮総督府
    朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)は、1910年(明治43年)、日韓併合によって、日本の領土となった朝鮮を統治するために当時の日本政府が京畿道京城府(現在の大韓民国ソウル特別市)の景福宮の敷地内に設置した官庁である。 韓国統監府を前身とし、大韓帝国政府の組織を改組・統合したが主要高官はほぼ日本人であった。初代総督は寺内正毅。総督は日本の現役の陸軍大将か海軍大将が歴任した。1945年太平洋戦争における日本の敗戦に伴い連合軍の指示により業務を停止。その権限はアメリカ軍政庁に引き継がれた。 総督府により、言論の制限や結社の禁止、独立運動などへの取り締まり等が行われた ref name= 相賀 相賀徹夫著・編『日本大百科全書 15』1987年 小学館フランク・B・ギブニー著『ブリタニカ国際大百科事典 13』1974年 TBS-Britannica 下中直人編『世界大百科事典』1988年 平凡社...
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