chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「民族」で検索した結果

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  • 皇民化教育
    ...化政策とされる。日本民族への教化政策であると同時に、版図内の諸民族(朝鮮人、台湾人、南洋群島島民など外地の住民や大東亜戦争時の占領地である東南アジアの先住諸民族、また稀に蝦夷や琉球など内地に住むものもこの範疇にいれる場合がある)に対して行われた強制的な同化・教化政策とも言われている。皇民化政策とも言う。 具体的内容とされるもの 言語統制、日本語標準語の公用語化、教育現場における方言や、各民族語などの禁止。家庭内においても標準語を使用することが奨励された。 教育勅語の「奉読」、奉安殿の設置などによる学校教育での天皇崇拝の強要、日の丸掲揚や君が代斉唱などを通じ日本人意識を植え付けた。 台湾神社、朝鮮神宮等の建立や参拝の強制など、国家神道と宗教政策(日本の宗教参照)の推進。その他、軍人への敬礼や皇居への遥拝なども行わせたとされる。 観点 批判(否定)派 徴兵や植民地...
  • 満州
    ...・清朝を建国した満州民族の故地である。 満洲の範囲 日本で満洲と呼ばれる地域は、満州国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。 この地域は、北と東はアムール川(黒竜江)、ウスリー川を隔ててロシアの東シベリア地方に接し、南は鴨緑江を隔てて朝鮮半島と接し、西は大興安嶺山脈を隔ててモンゴル高原(内モンゴル自治区)と接している。南西では万里の長城の東端にあたる山海関が、華北との間を隔てている。 広義の満洲としては、モンゴル民族の居住地域であるが満洲国に属していた内モンゴル自治区の東部、「東四盟」と呼ばれる赤峰市(旧ジョーウダ盟)、通遼市(旧ジェリム盟)、ホロンバイル市(旧ホロンバイル盟)、興安盟が含まれることが多い。 また、外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以...
  • 大韓民国臨時政府
    ...は人類平等(人均)・民族平等(族均)・国際平等(国均)の意味で、経済・教育の均等を内容にした政治・経済・社会的民主主義原理だった。この三均主義は1944年には臨時政府の新憲法に反映されて光復韓国の基礎理念として強化された。また他の理念的側面は大韓民国臨時政府は完全独立を追求するという点である。1936年に安益泰がウィーンで作曲した愛国歌を国歌として採用した。この愛国歌は大韓民国の国歌として継承される(異説有)。 大統領一覧 大韓民国臨時政府大統領 1李承晩1919年 - 1925年1925年に弾劾 2朴殷植1925年1925年に病死 3李相龍1925年 - 1926年 4李東寧1926年 5洪震1926年 6金九1926年 - 1927年 7李東寧1927年 - 1930年 8李東寧1930年 - 1933年 9梁起鐸1933年 - ...
  • 人類館事件
    ...・アフリカの人々を、民族衣装姿でそれぞれの民族住居に住まわせ展示され、見世物として観覧させた事件である。 博覧会―帝国主義の視線― 19世紀半ばから20世紀初頭における博覧会は「帝国主義の巨大なディスプレイ装置」であったといわれる。博覧会は元々その開催国の国力を誇示するという性格を有していたが、帝国主義列強の植民地支配が拡大すると、その支配領域の広大さを内外に示すために様々な物品が集められ展示されるようになる。生きた植民地住民の展示もその延長上にあった。人間そのものの展示が博覧会に登場したのは、1889年のパリ万国博覧会である。 こうした「人間の展示」の背後には、当時席巻していた社会進化論と人種差別主義というイデオロギーが介在していた。社会進化論は、あらゆる人類が同じ発展をすると考える単一的発展史観を取る。したがって世界各地の地域的な差異を歴史的な発展程度に置き換えて理解す...
  • 五族共和
    ...ど新疆のイスラム系諸民族を指す)およびチベット族の5種族が協同して新共和国の建設に当たることを意味する。孫文ら革命の指導者たちは中華民国成立以前の清朝中国は満州族が権力を握り、他の4族はすべて奴隷的地位に圧迫されていたとし、五族が平等の立場にたち、同心協力して、国家の発展を策し、平和と大同を主張し、世界人類の幸福を中国人によって保証しようというスローガンを唱えた。 しかし、清の政体は五族のそれぞれが別の国家とも言える政体を維持し、清朝皇帝はその五つの政体に別個の資格で君主として君臨するという一種の同君連合というのが実態であった。そのため、漢族社会に深く溶け込んでいた満州族を除くモンゴル(蒙古族)、西域ムスリム社会(回)、チベットの実質三ヵ国は、漢族による中華民国政府の統治下に置かれることをよしとせず、清朝皇帝権の消滅をもって独立国家であることを主張するに至った。 つまり、五族共和...
  • 尊王攘夷
    ...夷狄(いてき=周辺諸民族。この時代の夷狄は南方の楚を指していた)を打ち払う、という意味で使われた言葉を、国学者が輸入して流用したものである。なお、中国では、周の天子(王)を「王」のモデルとしていたことから、本来「尊王」と書くが、尊王論が日本に受容されるに際して「王」とは天皇のことであるという読み換えが行われたことから、天皇は単なる国王ではなく皇帝であるという優越意識を踏まえて「尊皇」に置き換えて用いることもある。 尊王論 Template main? 尊王論とは、古事記・日本書紀が日本という国家の根拠を示したことに基づいて、日本国の存在の根拠を天皇(神)に依ろう、とする考え方。文化・民族・国の根拠を神に依ろうとする発想は世界共通のもので、王の権威は神から授かったのだという考えに依拠する王権神授説などその流れは多様。神に民族・国の根拠を依拠する思想は、その国・民族が危機に面す...
  • 十四か条の平和原則
    ...際平和機構の設立 民族自決 植民地問題の公正解決 国際平和機構は後に国際連盟として結実した。 しかしながら、パリ講和会議ではイギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなった。形式的に東欧で民族自決の原則により独立が認められた国々があったがこれはあくまでもロシア革命やハンガリー革命から西欧を防衛することを目的とした方便によるものであり(そして、70年後のチェコスロバキア・ユーゴスラビア解体後にこの事が批判を受けることになる)、アジア・アフリカの西欧列強の支配下に置かれた植民地の独立は反故にされた。 関連項目 大西洋憲章 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月22日 (土) 00 26。    
  • 三・一独立運動
    ...ている。これを受け、民族自決の意識が高まった日本に留学中の朝鮮人学生たちが東京に集まり、「独立宣言書」を採択したことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教の指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。 三一運動の直接的な契機は高宗の死であった。高齢だったとはいえ、その死は驚きをもって人々に迎えられ、様々な風説が巷間ささやかれるようになる。その風聞とは、息子が日本の皇族と結婚することに憤慨して自ら服毒したとも、あるいは併合を自ら願ったという文書をパリ講和会議に提出するよう強いられ、それを峻拒したため毒殺されたなどといったものである。実際のところは不明であるが、そうした風説が流れるほど高宗が悲劇の王として民衆から悼まれ、またそれが民族の悲運と重ねられることでナショナリズム的な機運が民衆の中に高まっ...
  • 光州学生事件
    ...で起こった学生による民族運動。 1929年10月30日、全羅南道の羅州行きの列車で日本人中学生生徒の福田修三らが朝鮮人女子生徒の朴己玉らをからかい、朴己玉の従兄弟の朴準埰が福田を殴りながら 日本人生徒と朝鮮人生徒の間に決闘が始まった。警察が朴準埰と朝鮮人生徒だけを逮捕したので、生徒の不満が高まった。これが原因となり、11月3日、朝鮮人生徒らは 日本警察や歪曲報道をした光州日報に抗議をしながら朝鮮人学生と日本人学生の衝突が発生し、警察が朝鮮人学生を検挙した。このことが光州高等学校の高校生を激高させ、 検挙者の釈放を求めるとともに日本による植民地政策を批判して示威運動を展開した。その中250人の朝鮮人が逮捕され、朝鮮人生徒らは同盟休学を結成し、日本に抗議した。 この学生運動に際して、民族主義者と社会主義者の連帯によって結成されていた新幹会が、現地に調査団を派遣して事件の実態を公...

  • ... 諸説ある。 漢民族の宋が女真族の金によって南方に追われたことがあったため、明に「後金」という国号を警戒されることを恐れて、金と同音異字の「清」としたという説。 五行説にもとづくという説。明が「火徳」であることから、それにかわる「水徳」をあらわす「氵」と、『周礼』で東(満洲は中国の東北部にあたる)を象徴する色とされる「青」を組み合わせ、中原進出の意味を込めたというもの五行相克では、 木徳→土徳→水徳→火徳→金徳→(木徳に戻る) 「水克火(水は火に克つ)」となる。。 また、「しん」という読み方が、北京官話と異なることは長崎や明の遺民を通じて伝えられていたものの、そのことは知識人らの残した文書などにみられる程度である。 ラテン文字転写としてウェード式では清を「Ch ing」と綴る。1958年のピンイン制定後は「Qing」と綴る。 歴史 清の勃興 17世紀初...
  • 大東亜共同宣言
    ...榮ノ爲ニハ他國家、他民族ヲ抑壓シ、特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ、大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞シウシ、遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ。大東亞戰爭ノ原因ココニ存ス。大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ、大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ、其ノ自存自衞ヲ全ウシ、左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ、以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス 一、大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ、道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス 一、大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ、大東亞ノ親和ヲ確立ス 一、大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ、各〻民族ノ創造性ヲ伸暢シ、大東亞ノ文化ヲ昂揚ス 一、大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ、其ノ經濟發展ヲ圖リ、大東亞ノ繁榮ヲ增進ス 一、大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ、人種的差別ヲ撤廢シ、普ク文化ヲ交流シ、進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運...
  • 満州国-2
    ...設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされていた。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナのウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断行した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反...
  • 三国協商
    ...オーストリアも国内の民族闘争の激化オーストリア=ハンガリー帝国を参照すればわかるように、多民族国家であるがゆえに、政府は民族自決の要求に絶えずさらされていた。により機能不全に陥り、実質上は三国協商対ドイツの様相を呈すことになる。 その後のバルカン半島の緊張の高まりに連れて協商の重要性は高まり、三国は更に関係を緊密にしていく。第一次世界大戦では三国協商の連合国勢力に対して、ドイツ・オーストリアはオスマン帝国を引き込んで中央同盟国勢力を作って戦い、連合国側の勝利に終わる。 しかし戦争の途中の1917年にロシア革命が起こり、新たに誕生したソビエト連邦は翌年に単独でドイツと講和し、これにより三国協商は消滅した。 脚注 _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月1日 (日) 21 04。 ...
  • 人間宣言
    ...半部の天皇神格・日本民族優性思想の否定に関する部分に着目した通称として、学術・教育(教科書)・報道等の場でこの「人間宣言」、「天皇人間宣言」、「神格否定宣言」などが用いられ、国立国会図書館においても「人間宣言」の名称で所蔵されている。一方、この詔書の前半部には明治天皇の御誓文(五箇条の御誓文)を引用した部分があり、また、詔書全体の文意としては神格等否定を踏まえつつも終戦後の新日本国家の建設を国民に呼びかけたものでもあるため、特定部分に依拠しない通称として「新日本建設に関する詔書」、「年頭、国運振興ノ詔書」などを用いる例もあり、国立公文書館では片仮名の「新日本建設ニ関スル詔書」の名称で所蔵されている。 (註)法令・公用文における「題名」は、固有の名称としての性格を有し、その改題には正式な改正手続を要するため、引用時に片仮名を平仮名に置換するなど引用側が任意に改変することは認められな...
  • ヴェルサイユ条約
    ...条約はその後のドイツ民族の住む地域のドイツ周辺国への割譲ということを含め、ドイツ国民の民族意識に傷をつけることとなり、このことがドイツ民族というものをひとつにするというアドルフ・ヒトラーを中心とする国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)に政権を握らせる一因となった。1935年、ヒトラー政権のナチス・ドイツは一方的にヴェルサイユ条約を破棄した。 多くの識者が、このような結果になることを予想して警鐘を鳴らしたにもかかわらず、その被害を敗戦国に一方的に負わせようとした。このことが戦後の排外的ナショナリズムの高揚などの影響をもたらし、Template 要出典範囲?、再び世界大戦を引き起こすのである。 ヴェルサイユ条約の過酷な条件がナチスの台頭の原因、そして1939年から始まる第二次世界大戦の遠因となってしまったため、第二次世界大戦後の敗戦後のドイツには、連合国は東西両ドイツにも過酷な請求は...
  • ナチス・ドイツ
    ...ジプシーのような少数民族、エホバの証人および同性愛者や障害者など彼らの価値観で不潔であると考えられる人々の迫害を通じてその目的を追求した。 1933年に成立した「断種法」の下、ナチスは精神病やアルコール依存症患者を含む遺伝的な欠陥を持っていると見なされた40万人以上の個人を強制的に処分した。1940年になるとT4 安楽死プログラムによって何千人もの障害を持つ病弱な人々が殺害された。それは「ドイツの支配者民族としての清浄を維持する」Herrenvolk とナチスの宣伝で記述された。T4作戦は表向きには1941年に中止命令が発せられたが、これらの政策は後のホロコーストに結びついた。 1935年にニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。ほとんどのユダヤ人はこの時期に仕事を失い、失業中のドイツ人によって取って代わられた。1...
  • 樺太
    ...達以前は南部にアイヌ民族、中部にウィルタ民族(アイヌ民族はオロッコと呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも)などの北方少数民族が先住していた。 先住民自治期 640年、「流鬼」(樺太アイヌ)が唐に入貢。 1264年、蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太に派兵し、住民の「骨嵬」(樺太アイヌ)を朝貢させる。 1284年、「骨嵬」が元に反乱を起こす。 1295年、日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太へ渡り、本斗町阿幸に上陸し、布教活動を行ったとされる。 1297年、日本の津軽地方を本拠地とする蝦夷管領安東氏が「骨嵬」を率いてシベリアの黒竜江(アムール川)流域に侵攻したとされる。 1308年、「骨嵬」、元に降伏。毎年の貢物を約束。 1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消す...
  • 八紘一宇
    ...種による差別の撤廃や民族自決を謳ったものである。 日本船舶振興会会長の笹川良一が呼びかけた「人類皆兄弟」というのは八紘一宇の現代語訳と言われている。 スローガンへ 戦後、植民地における日本軍の数々の行いから、八紘一宇とは、日本によるアジアへの侵略のための、「アジアは地域最高の先進国である日本が家長として率いる。よって諸国は日本を中心とした秩序に従うべし」というような皇国思想的なプロパガンダとしてアジア・太平洋戦争の正当化に使われた思想であるとされた。 戦後には昭和天皇はGHQによっていわゆる人間宣言を出した。そのなかで天皇は「「朕ト爾(なんぢ)等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひいて)テ世界ヲ支...
  • 冊封
    ...は一定の土地あるいは民族概念と結びついた「地域名(あるいは民族名)+爵号」という形式をとっており、このことは冊封が封建概念に基づいていることを示しているとともに、これらの君主は冊封された領域内で基本的に自治あるいは自立を認められていたことを示している。したがって冊封関係を結んだからといって冊封国がそのまま中国の領土となったと言う意味ではない。冊封国の君主の臣下たちはあくまで君主の臣下であって、中国皇帝とは関係を持たない。冊封関係はこの意味で外交支配であり、中華帝国を中心に外交秩序を形成するものであった。 冊封国には毎年の朝貢、中国の元号・暦(正朔)を使用することなどが義務付けられ、中国から出兵を命令されることもある。その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は中国に対して救援を求めることが出来る。 ただしこれら冊封国の義務は多くが理念的なものであり、これを逐一遵守する方がむしろ例外に属する...
  • 仮11
    ...するために、樺太少数民族(ウィルタ・ニヴフ・アイヌ)を利用して諜報活動を行っていたが、スパイに朝鮮人を起用することは少なかった樺太警察は朝鮮人の独立運動や独立思想への傾倒が強いことを警戒し、出身地・思想傾向などからランク付けをして厳重に監視した。(崔吉城「樺太における日本人の朝鮮人虐殺」pp.289-291)。この状況はソ連領であった北樺太でも同様で、ソ連は朝鮮人が日本人と見分けがつきにくく、日本のスパイであるという疑念を払うことができなかった。1937年になると、ソ連は沿海州と北樺太の朝鮮人を中央アジアに強制移住させたこの移住政策については農業開拓移住のためという説もあるが、崔吉城は朝鮮人をスパイとして疑うスターリンの意向があるという。(崔吉城「樺太における日本人の朝鮮人虐殺」p.290)。 このように樺太在住の朝鮮人に対する不信は日本側とソ連側双方にあり、このような不信感を背景...
  • 昭和維新
    ...らの変革」を主張する民族派の右翼の基本路線でありスローガンとなった。 思想性・国家像 その苛烈な行動性とは裏腹に、思想自体は不可思議さを感じさせるほどの進歩性がある。二・二六事件における精神的指導者である北一輝の著した『日本改造法案大綱』は、男女平等・男女政治参画・華族制度廃止(当然、貴族院も廃止)・所得累進課税の強調あるいは私有財産制限・大資本国有化(財閥解体)・皇室財産削減など、まるで社会主義者の主張と見間違うほどの政策が並んでいる。また、この事件の主犯である磯部浅一によれば、日本の国体を「天皇の独裁国家ではなく天皇を中心とした近代的民主国家」と定義でき、「現在は天皇の取り巻きによる独裁状態にある」とする。日露戦争や大逆事件(治安維持法が制定されるきっかけとなった)以前の日本を社会の閉塞感・国家と国民との隔たりを感じさせない理想国家として捉えるなど、戦後の知識人(司馬遼太...
  • 安重根
    ...3月26日)は朝鮮の民族主義運動家。両班の家庭に生まれた。伊藤博文の暗殺者として有名。キリスト教徒であり、洗礼名はトマス。日本語読みは「あん じゅうこん」。 事績 1905年以降、大韓帝国に於ける日本の影響力が増したことに憤激し、抗日義兵闘争を組織。亡命を繰り返す。1909年10月26日、哈爾浜駅の構内にて、韓国統監府初代統監(暗殺当時枢密院議長)伊藤博文を暗殺した。伊藤は満州・朝鮮問題についてロシア蔵相ココフツォフと会談するためハルビンに赴いていた。旅順の関東都督府地方院で死刑判決を受け、旅順刑務所で絞首刑に処せられた。 彼の決意の堅さを表すものとして、同志と共に薬指を切り、その血をもって国旗に大韓独立の文字を書いたという断指同盟の逸話が伝わっている。 獄中で安の取調べを行った日本人警視からの勧めで自伝「安応七歴史」を著した。 安重根の評価 安重根への評価は...
  • 台湾抗日運動
    ...あり、台湾人としての民族自覚より清朝との関係の中で発生した武装闘争であると言える。 一旦は平定された抗日武装運動であるが、1907年に北埔事件が発生すると1915年の西来庵事件までの間に13件の抗日武装運動が発生した。規模としては最後の西来庵事件以外は小規模、または蜂起以前に逮捕されている。そのうち11件は1911年の辛亥革命の後に発生し、そのうち辛亥革命の影響を強く受けた抗日運動もあり、4件の事件では中国に帰属すると宣言している。また自ら皇帝を称するなど台湾王朝の建国を目指したものが6件あった。 霧社事件 Template main? 後期の抗日運動の中で大規模なものとして霧社事件がある。これは1930年10月27日に台中州能高郡霧社(現在の南投件仁愛郷)でサイディック族の大頭目莫那魯道が6部落の300余人の族人を率いた反日武装事件であり、小学校で開催されていた運動会会場に...
  • 第一次世界大戦
    ...すら、帝国内の複雑な民族問題が解決されるには至らなかった。当時の帝国内には少なくとも9言語を話す16の民族グループ、および5つの主な宗教が混在していた。 二重帝国の最大の関心は東方問題にあった。帝国各地で台頭するスラブ人の民族主義運動は、二重帝国の政府を主導するドイツ人とマジャール人にとって悩みの種だった。1912年から1913年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセルビアの領土が約2倍に拡張され、帝国は国内のスラブ民族の動きを非常に警戒していた。一方でセルビア人民族主義者は、帝国南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えていた。この冒険的民族主義に対して、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアは一定の支持を与えていた。オーストリア政府は、スラブ人民族主義運動が他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事態を危惧していた。 ドイツ帝国とシュリー...
  • 王道楽土
    ...とは、満日蒙漢朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うとする趣旨の言葉。満州には五族以外にも、ロシア革命後に逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。 満州には内戦の続く疲弊した中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人、そして大日本帝国政府と満州国政府の政策に従った満蒙開拓団(満蒙開拓移民・満州武装移民)らの移住・入植が相次ぎ、人口も急激に増加した。 大日本帝国本土(日本列島地域)においても、(当時の農村不況も相まって)困窮する零細農民や土地を持たぬ小作農、土地を相続できない農家の次男三男以下など、または大陸にて雄飛し名をあげる野望を抱く「大陸浪人」らの間で、満州に憧れる風潮が生まれた。 満州を王道楽土、楽園(ユートピア)のように表現する映画や歌も作られた。 「開拓団の子供」 「迎春花」(李香蘭) 「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」(東宮鉄男作詞) 日本人の「満州馬賊」と知...
  • 孫文
    ...、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということである。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてような功利主義的国内革命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つめ直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道にたいするアジアの王道の優越性を強く唱え続けることが肝要である。 しかしながらなお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。」 中山という字の由来 孫文が日本亡命時代に住んでいた近くに、「中山」という邸宅があり、その字を気に入り、孫中山と号すようになった。「中山家」は由緒ある公家(華族)の家柄であり、明治天皇の母の生家...
  • 李完用
    ...に韓国において親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法が公布されると、親日反民族行為者財産調査委員会は、李完用を含む親日派9人の子孫から土地を没収し、韓国政府に帰属させる旨の決定を下した。李完用ら親日派9人の財産、国への帰属を決定 聯合ニュース、2007年5月2日 著書に『一堂紀事(一堂紀事出版所、1927年)』がある 脚注 関連項目 一進会 独立門 露館播遷 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月15日 (月) 07 07。     
  • 脱亜入欧
    ...運動 人種差別 民族差別 脱亜思想 特定アジア 嫌韓・嫌中・反中   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月10日 (木) 14 34。    
  • 便衣兵
    ...一般市民と同じ私服・民族服などを着用して敵にあたかも非武装の市民だと思わせ、不意に攻撃に入るなどの戦術をする兵士のこと。 近年、一定の交戦法規を遵守するレジスタンスは区別されるようになっている。 便衣とは、本来中国語の「長い服」を意味する。戦闘など活動的な仕事に従事する場合は、「短い服」を着用すべきところであるが、昔の中国では、肉体労働をしない者が「長い服」を着るとされるため、一般市民にまぎれての行動につき、実際に長くなくても「私服」と云う意味でこの語が使われる。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2006年4月5日 (水) 06 27 考察 南京大虐殺の時、国際法に違反する便衣兵を殺害したのだから虐殺ではないと言うバカがいるが、バカとしか言いようがない。なぜなら、国際法違反の便衣兵などいなかったからだ。 便衣(軍服でない服装)...
  • 万宝山事件
    ...を愛して同情する朝鮮民族の純粋な民族感情を刺激して朝鮮内に居留する中国人を敵視する運動を挑発させた。 アメリカ-イスパニア戦争時のように歪曲されたマスコミ報道で民族感情を刺激するのだ。このために仁川を筆頭で京城・原産・平壌など各地で中国人排斥運動が起き、 平壌では日中に中国人商店と家屋を破壊して殴り・虐殺する事件が何日間続く残忍な暴動で拡散していった。 朝鮮総督府と日本警察はこの事態を座視する一方、 形式的に制止の態度を見せたが極めて消極的で冷淡だった。しかしこの暴動が沈むと総督府政府は断固たる態度で広範囲な検挙を始めた. 7月14日 金利三は「吉長日報」の紙面で「謝罪声明」を発表し、自分が嘘の報道を行なったことを認め、自分が日本の領事館に愚弄されたこと発表した。日本は、これらの露見することをおそれ、吉林日本の警察署の朝鮮人の巡査 朴昌厦 に 金利三 を暗殺させ、口封じをした。...
  • 東方会
    ...なる民主主義、外なる民族主義」を標榜した思想団体だった東方会を政治団体とした。 1939年(昭和14年)、社会大衆党の麻生久らと東方会と社会大衆党の合同を画策するも失敗。社会大衆党は翌1940年(昭和15年)に解党した。 1940年(昭和15年)10月12日、国民の統制や強大な政治体制を目的とし、当時の既成政党は解体され合流を余儀なくされた国の機関、大政翼賛会に東方会も例外なく合流したが思想団体としても継続した。その後、1942年(昭和17年)5月23日、東條英機による翼賛政治会に半ば強制的に入会させられる。 1943年(昭和18年)、中野は翼賛政治会を離脱後、反東條色を強め、同年、東條内閣倒閣工作容疑で中野正剛らが検挙・投獄される。出獄後、中野正剛の突然の自殺により活動停止した。なお、中野自殺の原因は今も深い謎に包まれている。 関連項目 玄洋社 進藤一馬 大政翼賛...
  • 大東亜共栄圏
    ...地語の公用語化、在来民族の高官登用、華人やインド人等の外来諸民族の権利の剥奪制限など)が行われたため旧宗主国に比べれば日本はよりましな統治者であったという見方もありその功罪に関しては今なお議論が続いている。 終末 日本の敗戦と大東亜共栄圏は崩壊し、旧宗主国が植民地支配の再開を図った。 戦後、日本政府が強い主導権を発揮して政治的にアジア諸国を纏めようとすると内外から「大東亜共栄圏の復活」と揶揄されることも多く、ODAを多用した「ばらまき外交」に徹するトラウマになったとの指摘もある。 関連項目 Template ウィキポータルリンク? 東アジア共同体 ブロック経済 生存圏 大東亜会議 大東亜共同宣言 大東亜省 パックス・ロマーナ ABCD包囲陣 大東亜戦争終結ノ詔書 プロパガンダ 日本における検閲 プレスコード 出典 フリー百...
  • 皇后
    ...皇帝の下で一地域・一民族の君主であるにとどまる存在であった。 漢字文化圏以外の国家であっても、一地域・一民族の君主であるにとどまる王の上位に位置し、複数の地域・民族を支配する君主が存在する場合、このような君主を、日本語で「皇帝」と訳す慣習がある。これにともなって「皇帝」と訳される称号を持つ君主の妻の称号も「皇后」と訳される。 皇帝の訳語 ローマ帝国の君主の称号のひとつである Imperator は、通常「皇帝」と訳され、また Caesar という家名も君主の称号となって、東西ローマ帝国の歴史を継承する社会(神聖ローマ帝国・ドイツ帝国・オーストリア帝国のカイザー、ロシア帝国のツァーリなど)の統治者・君主の称号として使われ、これも「皇帝」と訳される。サーサーン朝ペルシアやパフラヴィー朝イランの「諸王の王(シャーハンシャー)」、オスマン帝国の「スルタン」あるいは「パーディシャー」...
  • 日本統治時代の朝鮮
    ...々な合法的・文化的な民族運動が繰り広げられた。この時期には朝鮮文学の発展が見られ、大都市を中心に大衆文化の発展も見られた。 満州と接する北部国境地帯では朝鮮独立を掲げる民兵組織と朝鮮総督府との散発的な戦闘も発生している。また朝鮮でも、1919年には3.1運動が起こったが、日本の憲兵警察により取締りされた三一運動の取締りについては、たとえば「すさまじい弾圧」(朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』三省堂、1974、215頁)や「民衆の蜂起と日本の弾圧」(姜徳相『呂運亨評伝1 朝鮮三・一独立運動』新幹社、2002、165頁)、「激しい弾圧」(吉田光男編著『韓国朝鮮の歴史と社会』放送大学振興会、2004、140頁)という表現を用いている。対して名越二荒之助『日韓2000年の真実』(国際企画)等では「鎮圧」としている。 公立学校を中心とした同化政策や、独立運動に対する警戒・取締りは植民地化の経緯...
  • 満州国
    ...国家理念として、満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づき、満洲国に在住する主な民族による五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)を掲げた国民国家であることを宣言した。 しかし満洲国は依然、関東軍の強い影響下にあった。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。 1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦の日本の敗戦により満洲国は崩壊する。その6日前の8月9日に侵攻してきたソ連の支配下となり、次いで、満洲地域は中華民国の国民政府に返還された。 満洲国の存在した地域は、古くは満洲(南満州)と呼ばれていたが、現在この地域を統治している中華人民共和国や中華民国は満洲という呼称...
  • 李氏朝鮮-2
    ...係 中国以外の国や民族に対しては、自身を中華世界の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると中原の中華文明は滅んだとみて、朝鮮が中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる小中華思想である。 南の日本人に対しては、倭寇を防ぐために、交易を認めた者も倭館と呼ばれる居留地への居住を義務付け、きびしく取り締まった。倭館ははじめ富山浦(釜山)、乃而浦(鎮海)、塩浦(蔚山)の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、1509年に起こった三浦の乱やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また1592年に勃発した文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた対馬藩の必死の努力によって1607年日朝の国交が回復し、釜山に倭館新設も認められた。日本使節のソウル上京は認められなかったが、将軍の代替わ...
  • 京城帝国大学
    ...語でハングルの習得や民族の歴史などの教育を行った者もいた。対して日本は1908年に私立学校令を公布し、統一した教育の実施を狙った。 1910年の韓国併合後、朝鮮総督府は朝鮮人を対象とする第一次「朝鮮教育令」を公布(1911年)して普通教育を進めた。李氏朝鮮時代には一般人(特に女子)を教育する機関はなく、7割程度の朝鮮人が読み書きができず、また朝鮮では漢字が重視されハングルは軽視され教育されることはなかったため姜在彦『日本による朝鮮支配の40年』(朝日文庫)、ハングルを必修科目とした日本の教育により、朝鮮民衆にハングルが広まったとも言われる崔基鎬『韓国 堕落の2000年史』(祥伝社)。しかし、当初は朝鮮人年少者は未就学であり、就学した朝鮮人も、多くは民族系の私立学校や書堂に通学し、日本系の普通学校での朝鮮人は日本人の3%程度だった。総督府はこのような事実に対し、1911年に改正私立学...
  • 日朝関係史
    ...るが、これがどういう民族なのか、あるいは偽使なのかは定かではない。 1419年、李朝の世宗は倭寇の根拠地と見なされていた対馬を攻撃する(応永の外寇、己亥東征)。世宗は投降や帰化したものに対しては貿易上の特権を与えるなど懐柔策も同時に行い、倭寇の活動は一時的に収束した。1443年には嘉吉条約(癸亥約定)が締結された。 李朝は朱子学を重視し、仏教を弾圧したために、高麗時代の仏教文化財が国外に多く流出することになった。特に木版印刷の『大蔵経』や鐘楼などは高値で取引されたために大量に日本に流れ込んだ。また日本との交易には1426年の三浦(釜山浦、薺捕、塩浦)を利用していたが、現地役人の締め付けが厳しく1510年には現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生している。 近世 日本を統一した豊臣秀吉は明の征服を企図し、対馬の宗氏を介して朝鮮に服従と明征伐の先鋒となることを求めるが、良...
  • 国民学校
    ...科書を広げて見ると、民族主義・反共主義など、韓国政府が拠って立つイデオロギーを子供に鼓吹し、殊更軍に親近感を抱かせるような内容が多かった。この教育は、文民出身の金泳三大統領が、国民学校を初等学校と改称するまで、続いていた。 関連項目 学制改革 人民学校 関連文献 『子どもたちの太平洋戦争 国民学校の時代』山中恒 岩波書店 岩波新書黄 356 ISBN 4-00-420356-2 C0221 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月2日 (日) 19 22。     
  • 満州国軍
    ...05年8月29日、反民族特別法によって民族問題研究所と親日人名辞典編纂委員会が発表した親日人名辞典名簿3090人のなかに満州国軍将校の勤務歴のある朝鮮人が親日派としてリストアップされた。 白善燁(朝鮮人):1941年(昭和16年)軍官学校卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国陸軍参謀総長大将となる。 朴正煕(朝鮮人):1940年(昭和15年)4月に軍官学校に入学、1942年(昭和17年)に新京軍官学校首席卒業、1942年(昭和17年)10月に日本の陸軍士官学校(57期)に派遣留学され、1944年(昭和19年)4月に卒業。中尉として終戦を迎える。後に韓国大統領となる。 また、当時の満州には医師の養成機関が極端に乏しく(満州医科大学のみ)、軍医の不足が著しかったため、満州国軍医学校も設立されている。これは日本の陸軍軍医学校とは違い、中学卒業者を入学させて医学教育を施し、4年後に...
  • 韓国併合
    ...対抗して登場したのは民族史観であり、その後の歴史研究の柱となった。そうした雰囲気もあって、日本統治時代に様々な近代化が行われたことを認めつつも、近代化の萌芽は朝鮮朝の時代に既に存在しており、日本による統治はそれらの萌芽を破壊することで、結果的には近代化を阻害したとする近代化萌芽論が独立後に現れた。一方、評論家・作家の金完燮や日本の保守層を代弁する人物として、拓殖大学の教授で済州島出身呉善花などは日本による統治を肯定的に評価する本を執筆しているが、少数派であり、チンイルパとして糾弾されている。特に金完燮は国会での傍聴中や裁判中に暴行を受けるなどの被害を受けており、安全のため住所すら公表していない。またソウル大学教授の李栄薫などによる、日本の統治が近代化を促進したと主張する植民地近代化論も存在するがこれも少数派である。最近、李栄薫らは李氏朝鮮時代の資料を調査し李氏朝鮮時代の末期に朝鮮経済...
  • 南機関
    ...れば1,600万人、民族別ではモンゴル系といわれるビルマ族が1,100万人、カレン族150万人、シャン族130万人、移住したインド人200万人という構成であったが、同年のビルマ軍総数6,209名のうち、大部分はカレン族などの少数民族やインド出身のパンジャブ族が占め、ビルマ族の軍人は159名に過ぎなかった『ビルマ(ミャンマー)現代政治史』(増補版), p.2。 1935年ビルマ統治法が制定され、1937年その発効により、ビルマはインドから分離し、進歩穏健派のバー・モウを首班とする内閣と議会が設置された。しかしイギリス人総督の拒否権はほとんどビルマ統治全般に及び、自治権は完全には程遠く、ビルマは植民地と自治領との中間的状態に留め置かれた。議会における自治権拡大運動は、イギリスの行った小党分立政策のため勢力を持つには至らなかった。 ビルマ独立運動 ビルマ独立運動は1930年代に活...
  • 重光葵
    ...欧米の国々は民主主義民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。 その後、駐ソ公使(張鼓峰事件、乾岔子島事件に関与)・駐英大使を歴任。特に日英関係が険悪化するなかで関係改善や、蒋介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだったといわれた。だが、欧州戦争において重光は「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにも関わらず日本政府は聞き入れず、松岡洋右外務大臣が日独伊三国同盟を締結し、結果としてアメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。 昭和16年(1941年)12月、太平洋戦争が始...
  • 長征
    ...地帯根拠地であった。民族資本や外国資本の集まる大都市や半植民地化された沿岸部からは遠くはなれた地域であったため、中華ソビエト地区を発展させるには農業の発展が不可避であり、半農半兵という状態であった。 当時共産党正規軍は中国工農紅軍第一軍と呼ばれており、瑞金政府管理下の正規軍は約十万、民兵を含めても十五万に満たない兵力であったという。 第1次-第4次囲剿 第1次-第4次までは国民党軍は兵力を小出しにしたこと、また紅軍側は山岳地帯でのゲリラ戦を展開したことで、これを打ち破った。 第5次囲剿 蒋介石は第1次-第4次の失敗は、兵力の分散と不慣れなゲリラ戦に対応できなかったこと、さらには紅軍の装備が貧弱であることから軍隊としての能力そのものも低いであろうと見くびっていたことにあると判断した。このため、第5次囲剿においては兵力もそれまでの4-5倍に相当する100万人規模を投入、...
  • 帝国主義
    ...一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、もしくは同時に、新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを押し進めようとする思想や政策。本来は19世紀中葉以降の移民を主目的としない植民地獲得を指して使われる用語であるが、歴史学以外の分野ではしばしば文学的・政治的修辞として単純に膨張主義を指して使われる場合もある。また、レーニンは植民地再分割を巡る列強の衝突から共産主義革命に繋げようとする立場から更に限定し、『帝国主義論』(1916年)の中で20世紀初頭以降を帝国主義として論じているが、ソビエト連邦も崩壊後はそのような問題設定がなされることは少なくなっている。 概要 帝国主義とは、資本主義の独占段階であり、世紀転換期から第一次世界大戦までを指す時代区分でもあり、列強諸国が植民地経営や権益争いを行い世界の...
  • 洪思翊
    ...媚日派ではなく、朝鮮民族の矜持を持っていたと高く評価する声もある。また、高宗皇帝が下賜した大韓帝国の軍人勅諭を、生涯身に付けていたとも言われている。 洪はその卓越した能力と研鑽で昇進を遂げ、1941年には陸軍少将に進級、歩兵第108旅団長となり、1944年3月比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任、同年10月陸軍中将に進級、同年12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。皮肉な事に、これが長年彼が心の中で望んでいた朝鮮解放の瞬間であった。終戦後は、故郷の朝鮮で教師になり静かに暮らしたいと望んだ彼だったが、結局解放された祖国を見ることは出来なかった。戦後、連合軍から捕虜収容所長時代の責任を問われた洪は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守ったまま、マニラ軍事法廷で戦犯として死刑判決を受け、1946年9月26日にマニラで処刑された。 辞世の...
  • 伊藤博文
    ...ハルビン駅で、韓国の民族運動家安重根によって狙撃され、死亡した(安は直ちに捕縛され、共犯者禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名もまたロシア官憲に拘禁され、日本政府はこれを関東都督府地方法院に移し、1910年2月14日、安を死刑に、禹を懲役2年に、曹および劉を懲役1年6ヶ月に処する判決が下された)死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされた伊藤は、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。 ただし、日本の保守派の間では「実行犯である安重根自身の取調べ供述において事実誤認、李氏朝鮮および当時の韓国国内の情勢への不理解も見られ、また当時の韓国最大の政治勢力であった一進会(自称会員100万人)が日韓合邦推進派であった事から、この事件が韓国国民全体の意見を代表したものであったか否かは議論の余地がある」という意見が広く唱えられている(韓国...
  • 中華民国の歴史
    ...台湾島を含む一帯は漢民族が多数居住している地域で、1895年以降は日本の台湾総督府の統治下にあった。1945年に日本の連合国への降伏によって第二次世界大戦が終結すると、蒋介石率いる南京国民政府はカイロ会談における取り決めを根拠として台湾島一帯を中華民国の領土に編入した。国民政府軍は日本軍の武装解除のために台湾島を含む一帯に上陸し、同年10月に日本軍の降伏式典、台湾の「光復」(日本からの解放)を祝う式典を挙行し、台湾を統治する機関として台湾行政公署を設置した。 二・二八事件 行政公所の要職を新来の外省人が独占した事、および公所・政府軍の腐敗が激しかった事は、それまで台湾にいた本省人(台湾人)の反発を招き、1947年2月28日に本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。これに対して行政公所・政府軍は徹底的な弾圧をもって臨み、事件後も台湾人の抵抗意識を奪う為に知識階層・親日派・共産主...
  • 国共合作
    ...に結成された、「抗日民族統一戦線」である。 歴史 国共内戦の激化 中華民国の国家主席に就任後、蒋介石は意欲的に中国の近代化を推進する改革を行った。しかしその頃、ソビエト連邦の支援の下、毛沢東が指揮する中国共産党は農村を中心として支配領域を広げていき、1931年には江西省に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立するまでに勢力を拡大していた。蒋は1930年12月から、共産党に対し5次にわたる大規模な掃討戦(掃共戦)を展開、1934年10月には共産党を壊滅寸前の状態にまで追い込んだ。しかし、蒋は毛沢東の長征までは防ぐことが出来ず、その後も国共内戦は継続されていった。 日本による満州の掌握 同時期には日本の関東軍が、1931年9月に勃発した満州事変を契機として満州地域一帯を掌握し、その後の1932年3月1日に、かつて清朝最後の皇帝であった宣統帝の愛新覚羅溥儀を「執政」に推戴す...
  • 霧社事件
    ...ではあったが、未開な民族が衝動的に起こした反乱といった認識が強かったと推測されるTemplate 要出典?。戦後、台湾は日本の統治下から離れ、日本では事件の存在そのものが忘れられていった。戦後の日本における霧社事件に対する評価には、偶発的な事件、警察統治に対する局地的な反抗、日本に対する植民地統治に対する抵抗運動など様々な捉え方がされている。 第二次世界大戦後、日本にかわって中国国民党が台湾を統治するようになると抗日教育が行われるようになった。そのため、霧社事件は日本の圧政に対する英雄的な抵抗運動として高く評価されるようになり、蜂起の指導者たちは「抗日英雄」と称されるようになる。霧社にあった日本人の殉難記念碑は破壊され、蜂起の参加者らを讃える石碑が建てられた。霧社では毎年、霧社事件被害者の遺族らが参加して、犠牲者を追悼する「追思祭典」が開催されている。 1990年代以降、民主化の...
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