chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「決戦の大空へ」で検索した結果

検索 :
  • 本土決戦
    本土決戦(ほんどけっせん)とは、太平洋戦争(大東亜戦争、第二次世界大戦)において想定された戦闘の一つで、日本本土における陸上戦闘を意味する。アメリカ軍は1945年秋以降に「ダウンフォール作戦」として実施を予定し、日本軍は「決号作戦」と称する防衛作戦を計画していた。また、ソ連軍による北海道や東北地方での陸上戦闘の可能性も含まれる。 原爆投下とソ連軍の参戦により、1945年8月に日本がポツダム宣言を受諾したため、本土決戦は行われることがなかった。 背景 日本政府・大本営が「日米の天王山」と呼号して全力を注いだ比島決戦では、昭和20年(1945年)1月9日、米軍のルソン島リガエン湾上陸によって、フィリピンにおける日本軍の敗北がほぼ決定的なものとなり、同地の喪失と本土進攻は時間の問題となっていた。 また、米潜水艦の攻撃による輸送船の不足に加え、マリアナ海戦・レイテ沖海戦以後は制海・制空権を...
  • 東京大空襲
    300px|thumb|空襲前(左)と空襲後(右)の[[空中写真|航空写真 ]] 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた東京に対する一連の大規模な空襲。東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。 空襲の経緯 1945年3月10日以前の空襲 right|200px|thumb|空襲を行った[[B-29|B-29戦略爆撃機]] 1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、...
  • 軍歌
    ...生募集のための映画「決戦の大空へ」の挿入歌として作られた。メロディーは2つの候補から練習生に直接選んでもらい、歌詞は作詞者が直接予科練を見学して作ったという。悲壮ながらも飛行兵への希望と意欲を湧かせ、大ヒットを記録した。今なお愛唱され続けており、前述の映画の作中にも登場した土浦第一高等学校では応援歌の一つだった事もある。 同期の櫻 作詞:西条八十 作曲:大村能章 原曲は「戦友の唄(二輪の桜)」という曲で、昭和13年1月号の少女倶楽部に発表された西条の歌詞を元とし、とある海軍士官が勇壮にアレンジしたもの。人の手を経るうちにさらに歌詞が追加されていき、一般に知られているもののほかにも様々なバリエーションが存在する。時局に合った悲壮な曲と歌詞とで、陸海軍を問わず大いに流行した。 ラバウル小唄 作詞:若杉雄三郎 作曲:島口駒夫 「南洋航路」という歌謡曲が原曲である。 ラバ...
  • 日本本土空襲
    日本本土空襲(にっぽんほんどくうしゅう)は、第二次世界大戦に於いて日本本土に対して行われた連合国軍による空襲。特に1944年末頃から熾烈となった。その結果、日本全国の主要都市の殆どが灰燼に帰し、空襲は1945年(昭和20)8月15日の終戦当日まで続いた。また、末期には機動部隊艦載機や硫黄島から飛来する単発機による爆撃や機銃掃射も行われた。なお、幾つかの都市では、空襲とあわせて艦砲射撃も行われており、本稿でも記載する。 この結果については、戦後、米国戦略爆撃調査団による報告書が出されている。 概要 日本本土の初空襲は1942年4月18日のドーリットル空襲で、航空母艦から陸上機であるB-25中型爆撃機を発進させ、空爆を成功させた。この空襲は大本営に危機感を抱かせ、ミッドウェー海戦に繋がった。 その後、B-29戦略爆撃機による本格的な大規模空襲は1944年6月より...
  • 護国同志会
    護国同志会(ごこくどうしかい)は、1945年3月11日に結成された日本の政治団体。1945年8月15日に解散した。会長は井野碩哉であるが、実際は岸信介を中心としていた。 概要 1945年、太平洋戦争の敗戦が濃厚になると一国一党を目指した東條英機や大麻唯男ら翼賛政治会の幹部たちは大日本政治会の結成に動きだした。しかし、岸信介らはこの動きには加わらず東条とは一線画す護国同志会を結成した。 岸の元に集まったメンバーは、政党解消以前に小会派に所属していた議員では赤城宗徳、小山亮、木村武雄、永山忠則、今井新造らが、翼賛選挙で初当選した議員では井野碩哉、橋本欣五郎、池田正之輔、中谷武世らが、立憲政友会に所属していた議員では船田中が(船田は1939年の政友会分裂後は政党解消まで政友会革新派所属)、社会大衆党に所属していた議員では杉山元治郎、三宅正一、川俣清音、三輪寿壮がおり、反東条のもとに様々...
  • 関東軍特殊演習
    関東軍特殊演習(かんとうぐんとくしゅえんしゅう)とは関東軍が1941年(昭和16年)7月7日に満蒙国境警備、ソ連軍侵攻阻止を名目に約70万の兵力を満州国に派遣したこと。事実上の対ソ連戦争準備行動であった。略称として、関特演(かんとくえん)が使われる。 戦争準備行動 1941年6月22日に開戦した独ソ戦に対し関東軍首脳部は日独伊三国同盟に基づき対ソ戦を主張、ドイツ軍と協力して東西からソ連軍を挟撃しようとした。しかし、大本営や閣僚、東条英機陸軍大臣をはじめとする軍部はアメリカによる経済制裁によって生じた石油備蓄量低下を理由に南方資源の獲得、日ソ中立条約破棄によるソ連軍との全面戦争の勝機が薄い事を理由に南方進出を支持。だが近衛文麿首相はノモンハン事件で証明された関東軍の現有兵力(九五式軽戦車、軽装甲車等の車輌約90輌、航空機約50機、兵員約28万名)では戦力不足と判断、満州工業地帯の防衛が困...
  • 大日本政治会
    大日本政治会(だいにほんせいじかい)は、昭和時代に存在した衆議院の院内会派・政治団体(1945年3月30日-同年9月14日)。総裁は元陸軍大臣南次郎。略称は日政または日政会。 概説 第21回衆議院議員総選挙以後、全ての国会議員が所属する事になっていた翼賛政治会であったが、1945年に入ると、小磯国昭首相の意向を受けて本土決戦に備えた大政翼賛会・翼賛政治会の改組を準備していた小林躋造総裁(小磯内閣国務大臣)に対する反発が表面化する。これに対して小林総裁は新党結成を公式に表明して事態の収拾を図るが、脱退者が相次いだ。このため、小林に代わる総裁を立てて出直しを図ることとなった。 1945年3月30日翼賛政治会は解散され、南次郎南は当時枢密顧問官(総裁就任時に辞任)。陸軍大臣・関東軍司令官・朝鮮総督を務め、当時総辞職が時間の問題と見られていた小磯首相の後継候補としても名前が挙がっていた事...
  • 沖縄戦
    {{Battlebox |battle_name=沖縄戦 | campaign=沖縄戦 | image= | caption=沖縄南部を占領した米軍 | conflict=第二次世界大戦(太平洋戦争) | date=1945年3月26日-6月23日 | place=沖縄本島および周辺島嶼、海域 | result=アメリカ軍の勝利 | combatant1=Template flagicon?大日本帝国 | combatant2= アメリカ合衆国 オーストラリア カナダ ニュージーランド イギリス | commander1=Template flagicon?牛島満陸軍中将Template flagicon?長勇陸軍中将Template flagicon?大田実海軍少将 | comm...
  • 戦略爆撃
    thumb|300px|right|ドイツを空襲する連合軍の戦略爆撃機[[B-17 フライングフォートレス]] 戦略爆撃(せんりゃくばくげき)とは、戦争において戦略的理由にもとづいて行なわれる航空機などによる爆撃のことである。 戦略(strategy) とは戦争の全局的な帰趨を国益に導くべく企画する方法論である。具体的には、実働部隊ではなく、戦略的な要地・要線に対して攻撃を加える長距離爆撃をいう。都市、工業地帯や交通拠点に爆撃を加え、生活基盤、産業基盤を破壊する事などで、相手国の経済力や国民の戦意を削ぎ、継戦能力を減ずることを目的としている。これに対し、その戦闘を有利に進める事を目的とした敵部隊に対する直接爆撃は戦術爆撃と呼ばれる。 無差別爆撃や絨毯爆撃と同一視されがちだが、それらは戦略爆撃の手段の一つであり、イコールではない。例えば、現代では誘導爆弾や巡航ミサイルなどの精密誘導兵器...
  • 梅津美治郎
    Template Infobox 軍人? 梅津 美治郎(うめづ よしじろう、1882年(明治15年)1月4日 - 1949年(昭和24年)1月8日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。通称「無言の将軍」。 東京裁判で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。Template 和暦?に靖国神社に合祀される。 経歴 大分県中津市出身。中学済々黌出身。関東軍総司令官、参謀総長などを務める。 誕生日は軍人勅諭が発布された日である。 陸士、陸大ともトップの成績で卒業した秀才である梅津は、学究肌の軍人と呼ばれ、政治の表舞台に出ることを避け続けていたという。その梅津の生涯で最も歴史に残る有名な事件は、支那駐屯軍司令官時代のTemplate 和暦?6月に日中間で結ばれた「梅津・何応欽協定」である。当時、華北で相次いだ反日テロが国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、 河北省内の国民党支部をすべて...
  • 帝国国防方針
    帝国国防方針(ていこくこくぼうほうしん)とは、大日本帝国における軍事戦略についての基本的な方針を定めたもの。 概要 帝国国防方針は国防の基本戦略を記した軍事機密文章である。黒川雄三『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年)64項帝国国防方針、国防に要する兵力、帝国軍の用兵要領の三部から構成されている。第一部の国防方針は国家目標と国家戦略、また導かれる国防目的と国防方針、仮想敵国と情勢判断、所要軍備などについて述べられている。 第二部には所要兵力、即ち軍事政策の具体的な目標としての師団数、軍艦数などの数値目標が定められている。第三部には日本の軍事ドクトリンと仮想敵国に対する個々の作戦計画大綱が述べられている。黒川雄三『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年) 67項 - 68項 日本陸軍が陸海軍作戦の統合的な国防方針を策定しようと発案したことがきっかけとな...
  • 連合艦隊
    聯合艦隊(れんごうかんたい、新字体:連合艦隊)とは、旧日本海軍が二個以上の常設の艦隊で編成した、非常設の艦隊である。日本海軍が使用した略称は GF(Grand Fleet または General Fleet から)、ただし英語では Combined Fleet という。 概要 聯合艦隊は2個以上の艦隊で編成された日本海軍の中核部隊である。明治初期、海軍はそれまで有力艦・新鋭艦で編成された主力部隊を「常備艦隊」、老巧艦などで編成された沿岸防備のための二線級部隊を「警備艦隊」と称していた。しかし、日清戦争開戦がせまってくるにつれ「警備艦隊」というのは戦時にふさわしくないという意見がでてきた。一時は「警備艦隊」を「常備艦隊」に統合する案が出たが、当時の軍令部官房主事である山本権兵衛大佐が「警備艦隊」を「西海艦隊」と改名し、「常備艦隊」と「西海艦隊」をもって「聯合艦隊」を組織するという案を...
  • 疎開
    疎開(そかい)とは、軍事作戦において、集団行動している兵を散らし、攻撃目標となり難い状況を作りながら作戦行動を行なう事を言うのが原義である。日本語では第二次世界大戦中に日本政府が非戦闘員・産業を戦禍から免れさせる政策も含めて言う様になり、現在では一般に戦禍を避けて移動させる政策を指す。 概要 かつては軍事用語であったが、第二次世界大戦末期に、攻撃目標となりやすい都市に住む学童、老人、女性、又は直接攻撃目標となるような産業などを分散させ、田舎に避難させるという政策を指す言葉として一般化した。都市計画学者の越沢明北海道大学教授は著書において、この言葉は元来防空都市計画用語で、当時の内務技師北村徳太郎がドイツ語Auflockerungを訳したものとしている ref name= No1 越沢明『東京の都市計画』岩波書店 1991年。 「避難」や「退避」という言葉を使用しなかった理由は、当時...
  • 大本営発表
    thumb|250px|大本営海軍部による発表([[1941年12月8日)]] thumb|250px|大本営陸軍部による発表([[1942年1月3日)]] 大本営発表(だいほんえいはっぴょう)とは、太平洋戦争(大東亜戦争)において、日本の大本営の陸軍部及び海軍部が行った、戦況などに関する公式発表のことである。 当初はほぼ現実通りの発表を行っていたが、以下に記載する通りミッドウェー海戦の頃から損害の過少発表が目立ち始め、不適切な言い換えがまかり通るようになり、最終的には勝敗が逆転した発表すら行ったことから、現在では「内容を全く信用できない虚飾的・詐欺的な公式発表」の代名詞になっている。 概要 第一回 第一回の大本営発表は、1941年12月8日午前6時に行われたものであり、内容は開戦の第一報で、NHKラジオより報道された。以下はチャイム流されたのは楽曲ではなく臨時ニュースの...
  • 日本の分割統治計画
    thumb|320px|アメリカ国立公文書館に現存する計画書による日本の[[分割統治計画。東京23区は米中ソ英4か国、近畿と福井県は米中2か国による共同統治。]] 日本の分割統治計画(にほんのぶんかつとうちけいかく)は、第二次世界大戦において、ドイツやオーストリアが降伏後米・英・ソ・仏4カ国に分割統治されたように、本土決戦後の日本も北海道・本州・九州・四国を連合国それぞれが統治しようとした計画。 概要 実際の歴史 連合国は第二次世界大戦中、日本が明治維新以降に『暴力的に獲得した地域』を連合国によって分割する方針を打ち出していた。連合国は日本降伏後、かかる地域を以下のように分割占領した。 ソ連 南樺太(ポーツマス条約で獲得、内地、1943年3月31日までは外地) 千島列島(樺太・千島交換条約で獲得、内地) 朝鮮北緯38度線以北(日韓併合条約で獲得、外地) 関東州(旅...
  • 陸軍記念日
    陸軍記念日(りくぐんきねんび)は、大日本帝国陸軍の場合、戦前・戦中の休日のことで、3月10日。 1905年3月10日、日露戦争の奉天大会戦で日本軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領し、奉天城に入場したのがこの日であった。これを記念して翌1906年から休日としたもの。 1945年の敗戦(第二次世界大戦)に伴い廃止された。 1945年東京大空襲は、意識的にこの日を狙って行なわれたと言われている。実際には、当時の日本でこの記念日にアメリカの大規模な攻撃があるとの噂が流布しており、この噂が後になってのも事実であるかのように出回ったものである。日本では、事実とする書籍や資料が存在するが、アメリカ側の資料では確認出来ない。因みに海軍記念日は5月27日。5月27日には空襲はなく、2日前の5月25日に東京大空襲、2日後の5月29日に横浜大空襲があった。 世界の陸軍記念日 アメリカ合衆国:4...
  • 太平洋戦争の年表
    thumb|開戦時の日本首相[[東條英機]] 太平洋戦争の年表(たいへいようせんそうのねんぴょう)では、3年8ヶ月に及ぶ日本、満洲国、タイ王国とアメリカ合衆国、イギリス、オランダ、ソビエト連邦ら連合国の戦争の経過を示す。中華民国との間の戦争は日中戦争を参照のこと。 開戦までの経緯(簡略) 1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本の満州事変以来の軍国主義的膨張を警戒する英米仏と日中戦争の長期化は欧米の対中軍事支援によるとする日本の関係は急速に悪化、アメリカ合衆国が航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を繰り広げるドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結し、仏領インドシナへ進駐し事態を打開しようとするが、アメリカは石油輸出全面禁止など...
  • 玉砕
    玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争において、外地で日本軍守備隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用いられた語である。 概要 出典は『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」。また明治維新の頃、藩閥政府が天皇を「玉(ぎょく)」と呼ぶようになったが、それによって天皇のイメージに威厳や崇高さ、潔さなどが付け加えられるという効果があった。そのため明治以来、「『玉砕』とは、天皇のために潔く死ぬことです」(山科三郎、「『特攻』と『玉砕』について考える」、「部落」54(3)、2002年3月、60頁)というイメージが発生する。その態度表明を表す用例には例えば、西郷隆盛による次の詩がある。 幾歴辛酸志始堅 幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し、 丈夫玉砕恥甎全 丈夫は玉砕するも瓦全を愧ず。 また、1886年発...
  • 独ソ戦
    Template Battlebox? 独ソ戦(どくそせん)は、第二次世界大戦中の1941年から1945年にかけてナチス・ドイツを中心とする枢軸各国とソビエト連邦との間で戦われた戦争を指す。まれに独ソ戦争(どくそせんそう)とも呼ばれる。1941年6月22日にドイツ国防軍がソビエト連邦に侵入した。当時のソ連は国民を鼓舞するためにナポレオンに勝利した祖国戦争に擬えて大祖国戦争(Template lang?ヴィリーカヤ・アチェーチェストヴィェンナヤ・ヴァイナー)と呼称した。 概説 モロトフ=リッベントロップ協定いわゆる独ソ不可侵条約の成立が世界を驚かせたことからもわかるように、それまでの両国は不倶戴天の状態であった。共産主義革命を起こしたソ連は国際連盟に身をおきつつもやはり世界の孤児であり、ナチス・ドイツは反共の急先鋒であったからだ。欧州を巡る混乱の中、孤立と疑心暗鬼の中にいたソビエト...
  • 沖縄戦-2
    前半は、沖縄戦参照 戦闘推移 事前攻撃 thumb|right|180px|[[1945年、沖縄戦に参加するため、日本各地から集結した平均年齢17歳の特攻隊員達(陸海軍計2500機の特攻機が投入された)]] アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。 沖縄本島への侵攻作戦の可能性が高いと判断した大本営は、3月20日に天号作戦を下令した。現地の第32軍も2...
  • 国民義勇隊
    国民義勇隊(こくみんぎゆうたい)とは大東亜戦争(太平洋戦争)末期に、本土決戦に備えるために国民総動員組織として創設された日本の国民統制組織のことである。終戦に伴い消滅した。 概要 1945年3月に「国民義勇隊組織ニ関スル件」として閣議決定された。6月には大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などを吸収・統合した。 国民義勇隊は地域または職場ごとに編成され、前者は町内会・部落会を単位小隊として集めた市町村国民義勇隊、後者は官公署・工場・会社などを単位小隊とした職域国民義勇隊とされた。さらにその上に前記二つの義勇隊を合体した連合国民義勇隊が作られていた。対象年齢は、国民学校初等科修了から男子65歳以下、女子45歳以下とされたほか、それ以外の者も志願することができた。 本土決戦に向けた国民の組織化が目的で、消火活動や食糧増産、疎開作業などの工事のほか、軍需品の輸送や陣地構築などの...
  • 阿南惟幾
    Template Infobox 軍人? 阿南 惟幾(あなみ これちか、1887年2月21日 - 1945年8月15日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大将、終戦時の陸軍大臣。 人物・経歴 陸軍大臣に上り詰めた逸材だが、異才の多い帝国陸軍にあってはごく平均的な軍務官僚で、実戦においても目立った実績を上げたわけではない。しかし誠実な人柄で人望が厚く、様々に解釈される後述の終戦時のエピソードも相まって評伝が数多く著されるなど、今日でも人気の高い人物である。 大分県竹田市出身。終戦時の鈴木貫太郎総理大臣とは、二・二六事件当時、侍従長と侍従武官の関係だった。 太平洋戦争末期、梅津美治郎参謀総長とともにあくまで本土決戦を唱えるが、昭和天皇の終戦の意志が固いことを知り、最終的には終戦に同意。軍事クーデターをほのめかす部下の軽挙妄動を戒めながら、8月14日夜、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に...
  • 日本海海戦-2
    前半は日本海海戦参照 バルチック艦隊の敗因 長途の航海 バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がなく、またウラジオストクでも補給は期待できないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復元力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。 長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入ら...
  • 焼夷弾
    焼夷弾(しょういだん、英:Incendiary bomb)は、爆弾・砲弾の一種で、攻撃対象を焼き払うために使用する。そのため、発生する爆風や飛散する破片で対象物を破壊する爆弾と違い、焼夷弾は中に入っているもの(焼夷剤)が燃焼することで対象物を火災に追い込むのが目的。焼夷剤として使う物としては、主に後述するテルミットや油脂、黄燐の他にも重油などが用いられている。 概要 主として、テルミット反応を利用したエレクトロン焼夷弾、油脂の燃焼を利用した油脂焼夷弾、黄燐の自然発火現象を利用した黄燐焼夷弾の3種が利用される。 有名なものに、米軍が東京大空襲で使用した集束焼夷弾E46や、ベトナム戦争で多用されたナパーム弾がある。 余談だが、黄燐焼夷弾の不発弾が地中に埋まり、それを含んだ土や岩が掘り起こされたりなどして空気に触れ発火する、という事故が沖縄やフィリピンで起こり、新種の鉱物か、と騒がれ...
  • 太平洋戦争-2
    前半は太平洋戦争参照 連合軍の攻勢(1944年) ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開せんとする9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無死した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。 5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ...
  • 重慶爆撃
    重慶爆撃(じゅうけいばくげき)とは、日中戦争最中の1938年12月4日より1943年8月23日にかけて、日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃を指す日付・回数は『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』(前田哲男 凱風社)による。。中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。 背景 1938年に各地に中国国民党が優勢だったが、様々な軍閥の割拠する内乱状態の中国に攻め込んだ日本軍は、上海に続いて中華民国の首都南京を攻撃、日本政府は中華民国・中国国民党が和睦を乞うことを期待した。 これに対して日本軍への徹底抗戦を宣言していた国民党政府は、中国大陸で権益を確保・拡大したいアメリカや権益を守りたいイギリスの援助を受けて、首都を南京から漢口に移転し、次いで漢口が陥落必至とみるや四川の奥地である重慶に移転させた。 大本営は地上軍による重慶...
  • 絨毯爆撃
    250px|爆撃を行う[[B-29 (東京大空襲)|right|thumb]] 絨毯爆撃(じゅうたんばくげき、Carpet bombing)とは、多数の無誘導爆弾を用いて地域一帯を爆撃することを指す。投下地域の人員・物的資源の完全破壊や心理的効果等を意図して行われる。絨毯爆撃という表現は、床に敷かれた絨毯のように、爆弾が一面を覆う印象から想起されたものである。戦略・戦術両方の目的で使用される。 第二次世界大戦期にアメリカ合衆国とイギリスが大型爆撃機を用いたドイツや日本の都市に対する戦略爆撃の形容に用いられることが多い。ピカソの『ゲルニカ』は同名の都市への無差別絨毯爆撃に際し描かれたものとして著名である。 戦術目的の絨毯爆撃の例としては、1944年の北フランスで行われた連合軍のコブラ作戦支援の爆撃や、アメリカのアフガニスタン侵攻におけるB-52による地上軍支援などがある。 初期には複...
  • 日本海海戦
    Template Battlebox? 日本海海戦(にほんかいかいせん, 1905年5月27日 - 5月28日)は、日露戦争中に日本とロシア帝国との間で戦われた海戦である。 日本以外では一般に対馬海戦(つしまかいせん, Battle of Tsushima)と呼ばれる。対馬東沖を戦場として、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の第2及び第3太平洋艦隊(日本では「バルチック艦隊」の呼び名が定着している)との間で行われた。日本艦隊の司令官東郷平八郎が採用した丁字戦法などにより、ロシア艦隊は戦力の大半を失い壊滅した。日本側の損失は軽微で、海戦史上まれな一方的勝利となった。当時後進国と見られていた日本の勝利は世界を驚かせ、ポーツマス講和会議への道を開いた。 背景 バルチック艦隊 ロシア海軍は日露戦争開戦時に日本海軍の3倍近い戦力を保有していたが、艦隊をバレンツ海、バルト海、黒海、太平洋の...
  • ドーリットル空襲
    Template Battlebox? ドーリットル空襲(-くうしゅう、英語:Doolittle Raid)、またはドゥリットル空襲とは、太平洋戦争中の1942年4月18日に、アメリカ軍が航空母艦に搭載した陸軍の爆撃機によって行った日本本土に対する空襲である。名称は空襲の指揮官の名前に由来する。 背景 真珠湾攻撃以降一方的な敗退を続け、さらに開戦後の1942年2月24日には、日本海軍の伊17乙型大型潜水艦によるアメリカ本土のカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所への砲撃を受け、大きな衝撃を受けたアメリカ軍は、士気を高める方策として帝都・東京を爆撃する計画を立てた。 アメリカ陸軍は長距離爆撃機を保有していたものの、その行動半径内に日本を収める基地は無く、ソ連の領土は日ソ中立条約のため、爆撃のための基地使用は行えなかった。また、アメリカ海軍の空母艦載機は航続距離が短く、爆...
  • 日露戦争
    {{Battlebox | battle_name = 日露戦争 | campaign = 日露戦争 |colour_scheme = background #ffccaa | image = | caption = | conflict = | date = 1904年2月8日 - 1905年9月5日 | place = 満州南部、朝鮮半島沿岸 | result = 日本の勝利、ポーツマス条約 | combatant1 = Template flagicon? ロシア帝国 | combatant2 = Template flagicon? 大日本帝国 | commander1 = Template flagicon? ニコライ2世(皇帝)Template f...
  • 奉天会戦
    Template Battlebox? 奉天会戦(ほうてんかいせん)は、1905年3月1日から3月10日にかけて行われた日露戦争最後の会戦である。奉天は現在の中華人民共和国遼寧省の瀋陽。双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に渡って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。しかしこの戦いだけでは日露戦争全体の決着にはつながらず、それには5月の日本海海戦の結果を待つことになる。 参加兵力は大日本帝国陸軍25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。 背景 ロシア帝国はシベリア鉄道の全線開通を4年後に控えていた。 クロパトキンを総司令官とするロシア軍は100万人に動員令を出していたが、直前に血の日曜日事件があったように、国内は混沌とした状況にあった。皇帝ニコライ2世への国民の忠誠心は揺らぎ、後退していた。 日...
  • 一君万民論
    一君万民論(いっくんばんみんろん)はただ一人の君主にのみ生来の権威・権限を認め、その他の臣下・人民の間には原則として一切の差別・身分差を認めないとする思想・主張である。 日本では幕末に吉田松陰などが唱え、討幕派の志士により広く支持された。明治政府は華族制度の創設や武士身分の士族への編入など、当初は旧来の身分制度をある程度継承したものの、廃藩置県・徴兵令・秩禄処分といった政策の強行は特権身分に対して大きな打撃を与えた。 その後も一君万民論は朝野における思想的底流として根強く、断続的に天皇の権威強化と皇室以外の身分特権の縮小がなされていった。士族制度は早い段階で形骸化し、貴族院に依拠する少なからぬ特権を有した華族制度に対しても批判は少なくなかった。華族の中にも特権身分制度に疑問を持ち爵位を返上する者も現れた。 一君万民論は藩閥体制打倒とデモクラシー導入の大義として掲げられ、身分的特権のみ...
  • 近衛上奏文
    近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。  概要 近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した敗戰タケナラハ國體上ハサマテ憂フル要ナシト存候、國體護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戰ヨリモ敗戰ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候。。 「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること抑々滿洲事變、支那事變ヲ起シ、之ヲ擴大シテ遂ニ大東亞戰爭ニマテ導キ來レルハ是等軍部内ノ意識的計畫ナリシコト今ヤ明瞭ナリト存候。滿洲事變當時、彼等カ事變ノ目的...
  • 大日本帝国海軍
    thumb|大日本帝国海軍[[軍艦旗]] 大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん)とは、1945年以前に大日本帝国の天皇が統帥していた海軍である。通常は、単に「日本海軍」や「帝国海軍」と呼ばれた。 概要 軍令は軍令部、軍政は海軍省が行い、最高統帥権を有していたのは天皇であった。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。 また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。主な戦役に日清戦争の黄海海戦や日露戦争時の日本海海戦、太平洋...
  • 東郷茂徳
    Template 日本の閣僚? 東郷 茂徳(とうごう しげのり、明治15年(1882年)12月10日 - 昭和25年(1950年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。 人物 東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務め...
  • 来栖三郎 (外交官)
    来栖 三郎(くるす さぶろう、1886年3月6日 - 1954年4月7日)は日本の外交官。駐ドイツ特命全権大使、駐米特命全権大使等を歴任。 プロフィール 生い立ち 神奈川県横浜市生まれ。旧制横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒、1909年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒。 外交官 1909年外交官及び領事官試験合格、1910年外務省入省。ハンブルク総領事等を経て、1932年外務省通商局長、1936年駐ベルギー特命全権大使、1939年駐ドイツ特命全権大使。 日独伊三国軍事同盟締結時の駐ドイツ大使として、日本代表として同同盟の調印式に出席した。その後、近衛文麿内閣では戦争回避のための日米交渉を担当する遣米特命全権大使を拝命、異例の「第二の大使」としてワシントン入りし、野村吉三郎駐米大使を補佐するかたちで日米交渉にあたるが、この人事はかえっ...
  • 旅順攻囲戦
    Template Battlebox? 旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, Siege of Port Arthur, 1904年8月19日 - 1905年1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。 背景 日本が日露戦争に勝利するためには、朝鮮半島周辺海域の制海権を抑えることが必須であった。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。 ...
  • 南方作戦
    南方作戦(なんぽうさくせん, Southern Operations)は、太平洋戦争緒戦における日本軍の東南アジア各地への攻略作戦である。1941年12月8日の真珠湾攻撃と英領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942年5月のビルマ制圧をもって完了した。南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日本軍は作戦目標を完全に達成した。 背景 1941年9月3日、日本では、アメリカ合衆国やイギリスとの関係悪化を受け、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。 10月16日、近衛文麿内閣はにわかに総辞職した。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で...
  • 学校教練
    学校教練(がっこうきょうれん)とは、第二次世界大戦以前の日本の学校における教練をいう。軍事教練ともいう。これによって配属された陸軍現役将校を一般に配属将校という。 学校教練を履修した者は陸軍では幹部候補生(学校教練制度設立当初は一年現役兵)を命ぜられる資格を得るなどの特典が設けられた。 目的 本制度設立の目的としては、主に次の点が考えられる。 総力戦であった第1次世界大戦の経験に鑑みて、広く軍事的予備教育を施す必要が認識された。 宇垣軍縮により剰員となる相当数の陸軍現役将校の予備役編入(失業)を防止し、補職を確保する必要があった。 配属を受けた学校 1925年(大正14年)4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布された。同令によって、一定の官立又は公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属された。私立学校につ...
  • 徐州会戦
    Template Battlebox? 徐州会戦(じょしゅうかいせん)は、日中戦争中の1938年3月15日から5月19日に発生した日本軍と中国国民軍と大規模な戦闘である。日本側は北支那方面軍及び中支那派遣軍、中国側は李宗仁の中国国民軍が戦闘を行った。 背景 1937年12月に南京戦役で勝利した日本の支那派遣軍は、大本営の戦線不拡大方針を無視して戦線を拡大、北京と南京を結ぶ打通作戦を企図した。このためには、1912年に開通していた津浦鉄道(天津-蘇州・浦口)の確保が要件として上げられていた。この中で、台児荘の激戦が発生する。 台児荘 1938年3月頃、日本軍は省都済南も含め、山東省北部を占領していた。北支那派遣軍の第5師団(師団長:板垣征四郎)と第10師団(師団長:磯谷廉介)は合流、共同で要衝の徐州を攻略することとしていた。これに対して国民党山東省主席の韓復矩は兵力の温存を図り、天...
  • 海軍記念日
    海軍記念日(かいぐんきねんび)は、世界各国で独自に祝われる海軍のための記念日。 インド インドでは12月4日。1971年の第三次印パ戦争において、カラチ港爆撃に成功したことにちなむ。 オーストラリア 王立オーストラリア海軍においては、3月中に行われる。 チリ チリでは、Día de las Glorias Navalesとして、5月21日に祝われる。太平洋戦争におけるイキケの海戦での勝利を記念して制定された。 ロシア ロシアでは7月の最終日曜日に祝われる。 アメリカ合衆国 アメリカ合衆国では、海軍に理解のある大統領であったセオドア・ルーズベルトの誕生日を記念して、1922年に10月27日が制定された。1949年に国防総省の指示により、合衆国海軍は海軍記念日を取りやめ、5月の第3土曜日の軍隊記念日(Armed Forces Day)を祝うようになった。...
  • 日中戦争
    日中戦争(にっちゅうせんそう)とは、1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の間に大日本帝国と中華民国の間で行われた事変及び戦争である1931年(昭和6年)の満洲事変を起点として「日中十五年戦争」ととらえる見方もある。。 日本での公式の呼称は支那事変であり、現在の中華民国や中華人民共和国での呼称は中国抗日戦争もしくは八年抗戦である中華民国政府は八年抗战・中日戰爭など、中華人民共和国政府は中国人民抗日战争などと表記する(詳細は本記事の中国語版を参照)。また英語では、Second Sino-Japanese Warと表記するFirst Sino-Japanese Warは日清戦争。。 Template Main2? 「戦争」か「事変」か 日本では当初、北支事変(ほくしじへん)、後に支那事変(しなじへん)と称しており、新聞等マスコミでは日華事変(にっかじへん)などの表現が...
  • 鈴木貫太郎内閣
    {{日本の内閣記事|すずきかんたろう ないかく|42|鈴木貫太郎|Template 和暦?|4月7日|同年|8月17日|大日本政治会など。|なし|なし|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/42.html|枢密院議長|画像= |画像説明=鈴木貫太郎内閣の閣僚}} 概要 鈴木貫太郎内閣は、前の小磯内閣の総辞職を受けて、枢密院議長の鈴木貫太郎が組閣した内閣である。 内閣が発足した1945年(昭和20年)4月30日にベルリンでアドルフ・ヒトラー総統が自殺したため、翌5月7日にナチス・ドイツは無条件降伏した。国内各都市への日本本土空襲は日増しに激しくなり、同年6月23日には沖縄における組織的戦闘が終結するなど、日本の敗色は濃厚となっていた。同年7月26日にアメリカ合衆国・中国・イギリスから発表されたポツダム宣言に対して、鈴木首相は、同月2...
  • 玉音放送
    thumb|180px|玉音盤(玉音放送で流された、天皇の肉声(玉音)を録音したレコード盤)。[[NHK放送博物館所蔵。]] 玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本時間)にラジオ放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)の音読放送を指すことが多い(本項ではこのことについて記述する)。この玉音放送は、太平洋戦争(大東亜戦争)における日本の降伏を国民に伝える意味を有した。 概説 1945年(昭和20年)8月14日、御前会議においてポツダム宣言の受諾が決定された。ポツダム宣言は「全日本国軍隊ノ無条件降伏」(同宣言13条)などを定めていたため、その受諾は太平洋戦争(大東亜戦争)において日本が降伏することを意味した。御前会議...
  • 反軍演説
    反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会の衆議院で斎藤隆夫が行った演説。日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。 経緯 演説 斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである ref name= hangun-kaiko 『回顧七十年』「国家総動員法案、質問演説」より。以下のカギ括弧内引用は断りが無い限りこのページからのものである。 第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか 第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか 第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか 第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問 第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は...
  • 中原大戦
    中原大戦(ちゅうげんたいせん)とは、中国の中原において、1930年に、軍閥が蒋介石に対して起こした戦争のこと。中原会戦(ちゅうげんかいせん)、または、中原戦争(ちゅうげんせんそう)と呼ぶこともある。 1928年に完了した北伐は、中国国民党によりというよりは、各地の軍閥を抱き込むことにより成し遂げられたという面が強かった。その結果、北伐後の国民政府は、軍閥混合的な色彩の政府(政府の軍は、軍閥の寄せ集めであった)であり、中国国民党の立場は弱いものであった。 これに対して、蒋介石は、中国国民党および自己の権力を強大化させるため、1929年1月に国軍の整理を開始した。これは、旧軍閥の兵士を削減することにより、軍閥の影響力を失わせ、蒋介石側の勢力の巻き返しを図ろうとするものであった。 ここに及んで、北伐に協力した軍閥は危機感を覚え、蒋介石に対して、次々と兵を起こし、戦乱が繰り返された。そのよう...
  • 更新blog-2
    最近更新したblog一覧 その2 更新blog-1 更新blog-3 更新blog-4 更新blog-5 更新blog-6 # 日中戦争スタディーズ  # 更新中止のお知らせ オーラル・ヒストリー研究会・講演のお知らせ 「虐殺」とはなにか 第二次上海事変~南京戦の戦場(再掲) イベント:南京事件70周年・国際シンポジウム 5 item(s) Last-Modified 2010/03/17 16 34 25 # 法華狼の日記  # 『相棒 Season20』第8話 操り人形 弁護士の太田啓子氏が「真空パックAV」を知った経緯は、簡単な調べ物をしたことがあると不思議には思えない テレビ朝日系列のワイドショー番組「モーニングショー」で、旧統一協会系メディアを肯定的に引いていたらしい はてなブログが強制的に非表示された件について注意喚起 『...
  • 世界恐慌
    thumb|200px|right|[[ニューヨーク・ウォール街の群衆]] 世界恐慌(せかいきょうこう)とは1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことをきっかけに生じた金融恐慌に対する、金本位制であるがゆえのシステム的な不備と当時の各国当局の対応のまずさから生じた1930年代の世界規模の恐慌を指す。大恐慌、世界大恐慌ともいう。 背景 第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。 1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化によ...
  • 昭和-2
    前半は昭和参照 略年表 ()内は昭和での年代を表す。 昭和 X 年と西暦 Y 年とは X = Y - 1925 の関係にある。 昭和前期 1927年(2年):昭和金融恐慌 1928年(3年):張作霖を爆殺。男子普通選挙実施 1929年(4年):世界恐慌 1930年(5年):金輸出解禁 1931年(6年):柳条湖事件、満州事変 1932年(7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件 1933年(8年):12月23日 継宮明仁親王(のちの皇太子となり、後に今上天皇)誕生、滝川事件、国際連盟脱退 1935年(10年):天皇機関説問題 1936年(11年):二・二六事件、日独防共協定締結 1937年(12年):日中戦争開戦 、日独伊防共協定締結 朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。 1938年(13年):国家総動員法制定 1939年(14年):ノモンハン事件、ドイツが...
  • 大東亜戦争
    大東亜戦争(だいとうあせんそう、Greater East Asia War)は、太平洋戦争の呼称の一つ。大日本帝国時代の日本政府によって定められた。 本項では「大東亜戦争」という呼称に関する議論について述べる。戦争の背景、経過、兵器、人物、影響などについては、日中戦争および太平洋戦争を参照の事。 概要 1941年12月8日の真珠湾攻撃後、1941年12月12日の閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められた。日本政府の宣戦布告は当初米英2国に対して行われたが、閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっているので、対中国、対オランダ、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含まれる。なお、「大東亜」とは「東南アジアを含む東アジア」を指す地理区分である。 一般に大東亜戦争は太平洋戦争と同義であると認識されることが多い。しかし...
  • @wiki全体から「決戦の大空へ」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。