chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「演説」で検索した結果

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  • 粛軍演説
    粛軍演説(しゅくぐんえんぜつ)は1936年(昭和11年)5月7日に帝国議会の衆議院で斎藤隆夫が行った演説。 概要 寺内寿一陸軍大臣に対する質問演説。「革新」の実体の曖昧さを突き、広田内閣の国政改革の大要の質問を行った後、軍部革正(粛軍)を軍部に強く要請すると同時に議会軽視の傾きのあった軍部への批判演説である。 この演説は1時間25分に及ぶ長演説となった。 斎藤は、『回顧七十年』で「都下の大新聞はいずれも第一面全部にそれぞれ大文字の標題を掲げ、私の演説中の粛軍に関する速記を満載して、議会未曽有の歴史的大演説であると激賞した」といくつかの報道を紹介している。 ref name= shukugun-kaiko 『回顧七十年』「粛軍に関する質問演説」より。そして 「私は死すとも、この演説は永くわが国の憲政史上に残ると思えば、私は実に政治家としての一大責任を果したる心地がした」と感想を...
  • 反軍演説
    反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会の衆議院で斎藤隆夫が行った演説。日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。 経緯 演説 斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである ref name= hangun-kaiko 『回顧七十年』「国家総動員法案、質問演説」より。以下のカギ括弧内引用は断りが無い限りこのページからのものである。 第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか 第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか 第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか 第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問 第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は...
  • 共和演説事件
    共和演説事件(きょうわえんぜつじけん)は、第1次大隈内閣(隈板内閣)の文部大臣であった尾崎行雄が1898年8月21日に行った演説が問題となり、内閣瓦解の発端となった事件。 経緯 尾崎は1898年8月21日に帝国教育会で行った演説の中で、Template quotation?と発言した。この発言の趣旨は当時蔓延していた財閥中心の腐敗した金権政治の風潮を批判したものだった。 ところが、これが大日本帝国憲法下の当時の日本では「不敬の言」であると曲解され、まず宮内省から批判の声が挙がり、初の政党内閣である隈板内閣に批判的な枢密院・貴族院に非難の声は広がり、さらに与党憲政党内旧自由党派の実力者星亨が、陸軍大臣桂太郎らと密かに連携して尾崎排除を計画、隈板内閣を嫌っていた伊藤博文の盟友伊東巳代治が社主を務める東京日日新聞も尾崎攻撃を開始した。 尾崎は辞職をするなら一蓮托生と大隈重信首相に食い...
  • 国体明徴声明
    ...9日、貴族院本会議の演説において菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。この演説を引き金に軍部・右翼による機関説排撃が始まり、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易に解説する釈明演説(2月25日貴族院本会議)を行うも、美濃部の著書は発禁となった(『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』)。さらに政友会・軍部・右翼は国体明徴運動を政治利用、各地の在郷軍人会を中心とする機関説排撃運動が全国的に展開されたため、岡田内閣はその対応策として1935年8月3日「国体明徴に関する政府声明」を発し、天皇機関説は国体の本義に反するとした(第1次国体明徴声明)。 これを受けて軍部・右翼は運動の中止を指示、猛威を振るった運動は終息するかに見えた。美濃部も1935年9月18日、貴族院議員を辞するに至るが、辞職に際して出された美濃部の声明が軍部...
  • 超然主義
    ...る。 超然主義演説 超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が、大日本帝国憲法公布の翌日である1889年(明治22年)2月12日、鹿鳴館で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官らを前にして行った、以下の演説(いわゆる「超然主義演説」)において表明された。 Template quotation? 翌日、大日本帝国憲法起草を主導した伊藤博文も同様の主張を表明する演説を行った。 これに対して、伊藤以外の憲法起草のメンバーである井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らは批判的であった。すなわち、黒田・伊藤らの主張は「ビスマーク流の專制政治を我邦に施さんとする」ものであり、国務大臣は議会に対して責任を負うものではないものの、 「民の声は神の声なり」(=天声人語)というホメロスの『オデュッセイア』にある言葉 「朕民の心を追つて朕の心とする」という禹王の故事 明治天皇が五箇条の御誓文...
  • ウィンストン・チャーチル
    ...ルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していきバトル・オブ・ブリテンを勝利に導くなど、強力な指導力を見せることになる。戦争が終結に近づくと、ヤルタ会談、ポツダム会談などに参加して戦後体制の策定にも携わった。しかし、大戦の終わる直前の1945年7月におこなわれた総選挙で保守党はクレメント・アトリー率いる労働党に敗北した。敗北が確定したのはポツダム会談中だったため、同行していたアトリーに全権を委ねて帰国することになった投票自体は7月5日であったが、戦争で全世界に駐留する将兵の不在者投票分の集計に手間取り、このような形になった。。 冷戦期 その後、トルーマン大統領の招きでアメリカを訪問し、各地で演説を行ったが、1946年3月5日にミズーリ州フルトンで行った演説でヨーロッパの東西分断を評した「鉄のカーテン」演説を行い、アメリカ・ソビエトを軸にした冷戦の到...
  • 岐阜事件
    ...3月29日に名古屋で演説後、4月5日に岐阜の旅館(玉井屋)に到着する。 4月6日PM1 00、岐阜の中教院(現在の岐阜公園にあった建物)にて、板垣退助、内藤魯一らが演説を行い、PM6 00頃演説を終える。 板垣退助遭難 1882年(明治15年)4月6日PM6 30頃、板垣退助は帰途に就こうと中教院の玄関の階段を下りる。その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡り9寸(約27cm)の短刀を振りかざし板垣退助に襲い掛かる。相原は板垣の胸を狙い、左胸を刺す。板垣は相原の腹部に肘で当身を行い(板垣は呑敵流小具足術の柔術を会得していた)怯ませるが、再び相原は襲い掛かる。板垣は短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と人差し指の間を負傷する。二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相原を押さえ込む。 その場にいた者たちは第2の刺客に警戒しつつ板垣を連れ、近くの民家に避難する...
  • 十四か条の平和原則
    ...アメリカ連邦議会での演説を通じて発表した平和原則。 概要 この提案がドイツの降伏を引き出し、1919年のパリ講和会議では、アメリカの中心的な主張となった。 主に以下のことが柱になっている。 秘密外交の廃止 海洋の自由 経済障壁の撤廃 軍備縮小 国際平和機構の設立 民族自決 植民地問題の公正解決 国際平和機構は後に国際連盟として結実した。 しかしながら、パリ講和会議ではイギリスやフランスに無視され、ドイツに対して過酷な賠償を科すこととなった。形式的に東欧で民族自決の原則により独立が認められた国々があったがこれはあくまでもロシア革命やハンガリー革命から西欧を防衛することを目的とした方便によるものであり(そして、70年後のチェコスロバキア・ユーゴスラビア解体後にこの事が批判を受けることになる)、アジア・アフリカの西欧列強の支配下に置かれた植民地の独立は反故にされ...
  • 尾崎行雄
    ...就任するも、所謂共和演説事件で文相を辞任し、その後任を巡って憲政党は分裂、大隈内閣も総辞職した。その後、憲政本党に属していたが、伊藤博文の立憲政友会結成に呼応して憲政本党を離脱して政友会入りするが、その後伊藤とも対立して離党、その後猶興会などを経て政友会に復党とめまぐるしく所属政党を変遷する。 1903年(明治36年)から1912年(明治45年)まで東京市長、1912年(大正元年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と桂太郎首相を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。だが、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党し、以後中正会・憲政会・革新倶楽部と移る。第2次大隈内閣では司法大臣となる。 当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、第一次世界大戦後のヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して...
  • 美濃部達吉
    ...より天皇機関説非難の演説が行われ、軍部や右翼による機関説と美濃部排撃が激化する。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行う。 Template quotation? しかし、著書は発禁処分となり、不敬罪の疑いで検事局の取調べを受けた(ただし、起訴猶予処分となっている)。同年9月、美濃部は貴族院議員を辞職し、公職を退いたものの、翌1936年(昭和11年)には、天皇機関説の内容に憤った右翼暴漢の襲撃を受けて重傷を負った。この一連の天皇機関説事件の中で、政府は2度わたって「国体明徴声明」を出し、天皇機関説は異端の学説と断罪した。 戦後 第二次世界大戦後、占領軍の対日民主化政策により憲法改正作業が行われ、美濃部も内閣の憲法問題調査会顧問や枢密顧問官として憲法問題に関与した。しかし、占領軍は国家の根本規範を改正する権限を有しないとの理解を前提に、新憲法の有効性に...
  • 食い逃げ解散
    ...父である小泉又次郎の演説が取り上げられた。 関連項目 衆議院解散 第20回衆議院議員総選挙 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月29日 (水) 07 25。    
  • ハーグ密使事件
    ...記事において、8日の演説(後述)を予告しつつ「平和会議に参加するの計画破れて、目下将来における運動方法を講じ居れる有様にて…」とある「密使李瑋鍾、公開演説を計画」大阪毎日新聞、明治40年7月8日。。 7月8日、李瑋鍾が米国人ジャーナリストのウィリアム・ステッド (William T.Stead) の紹介で、「国際主義の会」(Foundation for Internationalism) 集会にて演説を行う。 7月9日、大阪毎日新聞が1面で「対韓処置断行の機-海牙における韓人の怪運動」と題して日本政府と伊藤博文に厳格な対応を求める論説を掲載。 7月12日、李瑋鍾がサンクトペテルブルクに向けて出立。 7月13日、この日に高石が打電した記事において、李儁が悪性の腫物が顔面に出て、重患に陥ったとある「密使の一人李儁は重病」大阪毎日新聞、明治40年7月15日。。 7月14...
  • 小磯國昭
    ...知識を吸収した。その演説は理論構成もしっかりし、表現力も豊かで一級品といわれた。軍務局長という難しいポストをこなし、頭角を現した。 また、小磯は大変な美声の持ち主で、「河鹿」というあだ名があった。満州事変の頃、東京の花柳界では白頭山節が流行ったが、これを歌わせて小磯の右に出る者はなく、小磯が歌うと芸者が三味線のバチを投げ出すほどだった。 しかしいくら柔軟で交友関係が広く演説が巧みでも、各方面から不信感を持たれたのでは難局の指導者は務まらなかった。アメリカ軍に一撃を加えるどころかレイテ沖海戦などで手痛い打撃を受け、東京をはじめとする本土空襲は強まり、焦った小磯は現役に復帰して陸相を兼務し指揮体制の一元化を図ろうとするが、陸軍の反対で潰されてしまう。また今で言う政治ブローカーを使って中国との和平工作(繆斌工作)も行おうとしたが、過去に繆と接触した経験があり、信頼できない人...
  • 宋美齢
    ...全土を回り自ら英語で演説し抗日戦への援助を訴え続けた。特に1943年2月18日には、アメリカ連邦議会において宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジを着けたチャイナドレス姿で抗日戦への更なる協力を求める演説を行い、並み入る議員のみならず全米から賞賛を浴びその支持を増やした。 また、同時期に抗日戦への義捐金を募るためにカリフォルニア州ハリウッドで演説した際には、ハンフリー・ボガードやキャサリン・ヘップバーン、イングリッド・バーグマンなどのハリウッドスターから称賛と大きな支持を受け、タイム誌の表紙を飾るなど、第二次世界大戦中を通じて中華民国のファーストレディとして、そして夫である蒋介石のスポークスマン兼中華民国のロビイスト的役割を果たし、アメリカをはじめとする連合国における中華民国、そして日本に対する世論に大きく影響を与えた。なお1943年11月には、蒋介石とルーズベルト、イギリスのウィン...
  • 腹切り問答
    ...干渉を痛烈に批判する演説を行った。 これを聞いた寺内陸相は答弁に立って「或は軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と険しい表情で反駁。ところが浜田が二度目の登壇で「私の言葉のどこが軍を侮辱したのか事実を挙げなさい」と逆に質問をしたため、「侮辱されるが如く聞こえた」と言い直した。それでも浜田は三度目の登壇衆議院本会議では一議員は一日に三回しか登壇することができなかった。で「速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ」と激しく寺内に詰め寄った。これに寺内は激怒、議場は大混乱となった。 結果 政府は天皇に裁可を仰いで収拾策を見出すために翌日より停会となった。寺内は「政党が時局に対して認識不足」として、政党に対し反省を求める意味で議会解散を強く広田弘毅総理に要求、解散しないなら辞職すると主張した。...
  • 桃色争議
    ...と大幕をひるがえして演説をぶち、参詣客の度肝を抜いた。 松竹はただちに水の江を「賊女」と呼んで懲戒解雇に処し、争議団の自然崩壊を待った。しかしなにぶん女性、しかも未成年で幅広く大衆に知られた有名人であるから、世情は彼女らに傾きがちで、それにのった新聞各紙も徐々に松竹の態度に異を鳴らし始めた。一時は水の江を拘禁した警察もすぐ解放した。また経営する劇場や舞台の観客動員が落ち込み、却って不倶戴天の仇敵宝塚少女歌劇団の隆盛を助けるという、松竹にとって極めて不愉快な状況を呈してきた。 少女たちに追い風が吹くなか、大阪では7月8日手打ち式が行なわれ、7月15日東京で「協定文」が読み上げられて、飛鳥は退団、水の江が謹慎となったものの、週休制と最低賃金の設定に成功した争議団側の勝利に終わった。 参考文献 『記録現代史』筑摩書房 関連項目 松竹歌劇団 出典 フリー...
  • 更新blog-6
    ...女工と結核」と題する演説 (23.8.27) NHKスペシャル 円の戦争  もう一つの不思議な通貨戦争 個人の尊厳 開戦 天皇陛下のお言葉に見る、昭和のあの時 南部仏印 超然内閣 アメリカ国民は団結して一つになった。 構造汚職の体質 公議政体 30 item(s) Last-Modified 2019/12/04 13 31 16 # 日々つれづれ # こんばんは ■ なんやよくわかりませんが 日々雑論 従軍慰安婦の自分なりの結論 スケキヨ、名古屋脱原発イベントに行く 日々雑論 原発と日本のムラ社会と その1 日々雑論 土曜日名古屋反原発デモいってきますた 日々雑論 管内閣はとりあえず存続ケテーイですな 世界的にも個人的にもピイピイ言ってました(笑) みなさま明けましておめでとうございます 日々雑論 民主党も「終わった」ねえ 日々雑論 読書メモというかただの...
  • フランクリン・ルーズベルト
    ...たラジオ放送を通して演説し、直接国民に訴えかけるスタイルを重視した、メディアを巧みに利用した大統領として知られている。ルーズベルトの行った毎週のラジオ演説は「炉辺談話 fireside chats」と呼ばれ、国民に対するルーズベルトの見解の発表の場となった。それはルーズベルトの人気を支え、大戦中のアメリカ国民の重要な士気高揚策となった。 内閣 職名氏名任期 大統領 フランクリン・D・ルーズベルト 1933 - 1945 副大統領 ジョン・ナンス・ガーナー 1933 - 1941 ヘンリー・A・ウォレス 1941 - 1945 ハリー・S・トルーマン 1945 国務長官 コーデル・ハル 1933 - 1944 エドワード・ステティニアス 1944 - 1945 陸軍長官 ジョージ・ヘンリー・ダーン...
  • 松岡洋右
    ...分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」、との趣旨のものだった。しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であったともいわれる。もっとも、会議場での松岡の「十字架上の日本」と題せられる演説に関しては絶賛の拍手で渦巻いた。仏国代表ボンクール陸相が握手を求めたのを皮切りに、多数の代表・随員が握手を求め、英国代表サイモン外相、陸相ヘールサム卿が松岡に賛辞の言葉を述べた。 聯盟総会において、最も対日批判の急先鋒であったのはヨーロッパ小国であった。スペイン、スイス、チェコ、植民地蘭印を有するもオランダ。松岡の「十字架上の日本」の演説の後、「リットン卿一...
  • 第3次桂内閣
    ...内閣不信任案趣旨説明演説を機に桂が帝国議会の停会を命じたことから議事堂は群衆に囲まれる。大正天皇の詔書を立憲政友会に下して内閣に協力させようとしたが、総裁の西園寺の説得にも関わらず党議によって拒絶される。結局桂は停会の延長を命じたところ、議事堂を囲む群集は激昂して東京市内は大混乱に陥った。衆議院議長大岡育造の説得を受けた桂は内閣総辞職を決断した(大正政変)。 直後に桂は病に倒れて死去、新党立憲同志会の船出を見ることも無かった。一方、一連の混乱の発端であった山縣の地位は揺らぐことが無かった。 国務大臣 内閣総理大臣 桂太郎 外務大臣  桂太郎(兼任、1912年(大正元年)12月21日 - 1913年(大正2年)1月29日) 加藤高明(1913年(大正2年)1月29日 - 同年2月20日) 内務大臣 大浦兼武 大蔵大臣 若槻禮次郎 陸軍大臣 木越安綱 海軍大臣 斎...
  • 幸徳事件
    ...動に対し機関紙発行、演説会、結社への取り締まりを強化した。1906年よりクロポトキンのアナキズム思想の影響を受けた幸徳を中心にし直接行動派が台頭し始め、アジアからの留学生たちにも影響を与え始めた。議会政策中心の社会主義者たちと分岐が鮮明になったが、政府も対策をすすめ1908年、金曜会屋上演説事件、赤旗事件により大杉栄、堺利彦らの主要な活動家を検挙した。幸徳は病気療養で中村に戻っていて難を避けられた。 アナキズムの影響を受けた活動家や社会主義者は秘密出版で対抗し、ゼネスト論や人民への抑圧政治の根源には天皇の存在があるという主張を基にした『入獄紀念無政府共産』を刊行、政府に抗した。幸徳ですらクロポトキンの主要理論書『パンの略取』を翻訳しながら、「平民社訳」とし政府への出版届出の前に頒布するという実質秘密出版をせざるを得なかった。1909年、幸徳は千駄ヶ谷の地に移った平民社を拠点に赤旗事...
  • 治安警察法
    ...入すること、また政治演説会へ参加し、あるいは主催するという、集会及び結社の自由を禁じた。そのため同法制定直後には早くも改正を求める請願運動が起こる。改正運動は執拗に続き、大正11年(1922年)3月には集会の自由を禁じた第5条2項の改正に至った(治安警察法第五条改正運動)。しかし女性の結社権を禁じた5条1項は残されたため、婦人団体を中心に、治安警察法5条全廃を求める運動がその後も続いた。 この法令を施行し、それに反発する者を取締る為、今までの威圧的・牽制的な警察体制はますます強化され、戦前の警察による市民弾圧の側面もよりいっそう強まった。そして市民の警察官に対する「厳つい」というイメージもよりいっそう強まっていった。    関連項目 暴力行為等処罰ニ関スル法律 公安条例 破壊活動防止法 女性参政権 女性解放運動 新婦人協会 平塚らいてう、市川房枝、奥むめおらが中心...
  • 中野正剛
    ...東條英機を弾劾する大演説を行った。 Template quotation? この正剛の呼びかけに、学生たちは起立して校歌「都の西北」を合唱してこたえた。当時、早稲田大学第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。 中野の反東條の動きは止まず、1943年正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ」と東条内閣を痛烈に批判した。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。 同年3月、第81帝国議会で戦時刑事特別法の審査をめぐって、6月、第82帝国議会で企業整備法案審議をめぐりそれぞれ政府原案に反対した。 さらに近衛文麿や東久邇宮稔彦王を中心とする宮中グループや重臣達を動かして、松前重義と共に東條内閣の打倒に動く(松前はこのため報復の懲罰召集を受...
  • 開拓使官有物払下げ事件
    ...たほか、各地で弾劾の演説会が催された。 帰結 天皇は地方行幸に赴き、大隈はこれに同行していた。その間に伊藤らは収拾策の方針を決定。天皇が10月11日に帰京すると裁許を仰ぎ、翌12日、大隈の追放、国会開設の詔勅、払下げ中止などを発表した。一種のクーデターである(明治十四年の政変)。その後、黒田も開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。 開拓使は翌1882年(明治15年)に廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に分けられた。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年8月5日 (火) 02 13。     
  • 立憲民政党
    ...直後のいわゆる「粛軍演説」に代表される斎藤隆夫の軍部と対決してでも党是である議会政治を擁護しようとする立場ともう一つは町田の元で幹事長を務めていた永井柳太郎に代表される軍部や革新官僚と結んで政治の主導権を確保する事を優先すべきだとする立場である。 永井は「反政党」の立場を取る林内閣に対して一方的支持を決定したが、政友会や党内部からも強い非難を浴びた。だが、日中戦争開始直後から当時入閣していた永井とそのグループを支持する政府・軍部の動きが盛んになり、国家総動員法の審議では当初は反対論を唱えながら最終的には賛成に回るなど、親軍色を強めていった。 そして、1940年2月、斎藤隆夫のいわゆる「反軍演説」問題の際に民政党が自分の党の重鎮である斎藤の衆議院除名に賛成した事によって、党の保身のために軍部の圧力に屈して自党議員を見捨てたとして内外の信任を失って内部から崩壊を始め、次いで第2次近衛...
  • 血盟団事件
    ...小学校へ総選挙の応援演説のため訪れた前大蔵大臣の井上準之助(民政党幹事長)が射殺された。実行犯は、日召に帰依していた茨城県那珂郡の農村出身の青年メンバー、小沼正(おぬましょう)・菱沼五郎の二名。 1932年3月5日、三井銀行本店の玄関前で三井財閥の中心人物(三井合名理事長)である團琢磨(だんたくま)が射殺された。三井財閥がドル買いによって利潤を上げていたことが、日召の反感を買ったものと考えられる。実行犯は同じく、小沼正と菱沼五郎。 警察はまもなく、2件の殺人が血盟団の組織的犯行であることをほぼ突き止めた。日召はいったんは頭山満の保護を得て捜査の手を逃れようとも図ったが、結局3月11日に自首、関係者14名が一斉に逮捕された。小沼は短銃を霞ヶ浦海軍航空隊の藤井斉海軍中尉から入手したと自供した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元義隆ら他のメンバーも共...
  • 第1次大隈内閣
    ...、文相尾崎行雄の共和演説事件による罷免をめぐり後任人事が両者間で紛糾し、星らによる憲政党の分裂騒ぎに発展。組閣後4ヶ月余りで総辞職を余儀なくされた。 在任期間 在任; 1898年(明治31年)6月30日 - 同年11月8日 国務大臣 総理大臣 伯爵大隈重信(佐賀閥・憲政党 旧進歩党系) 1898年(明治31年)6月30日 - 同年11月8日 外務大臣 大隈重信(兼任) 1898年(明治31年)6月30日 - 同年11月8日    内務大臣 伯爵板垣退助(土佐閥・憲政党 旧自由党系) 1898年(明治31年)6月30日 - 同年11月8日 大蔵大臣 松田正久(憲政党 旧自由党系) 1898年(明治31年)6月30日 - 同年11月8日 陸軍大臣 子爵桂太郎(長州閥・軍人 陸軍) 1898年(明治31年)6月30日...
  • 米内内閣
    ...憲民政党)による反軍演説も陸軍の反発を招いた。 組閣から半年後の1940年(昭和15年)6月、フランスがドイツ(ナチス・ドイツ)に降伏すると、独伊への接近を企図し、近衛文麿を中心とする新体制に期待して倒閣の機会を窺っていた陸軍は、その目的を達すべく、畑俊六陸相を単独辞職させる敗戦後の東京裁判においてA級戦犯被告となった畑はこのことを厳しく問われることになる。。米内は後任の陸相を求めたが陸軍が推挙しなかったため、軍部大臣現役武官制により、総辞職に追い込まれた。 昭和天皇は米内内閣総辞職について「もし米内内閣があのまま続いていたなら戦争(対米戦争)にはならなかったろうに」と、後年まで悔いていたという。 閣僚 総理大臣 米内光政(予備役海軍大将) 1940年(昭和15年)1月16日 - 同年7月22日 外務大臣 有田八郎(貴族院所属 昭和研究会) 1940年(昭和1...
  • 憲政本党
    ... 関連項目 共和演説事件 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月11日 (火) 14 59。     
  • 伏石事件
    ...行動が広まり、抗議の演説を行った弁護士らが各地で拘引されている。 翌年、大正13年(1924年)の7月に高松地裁で公判が開かれ、9月に有罪22名(うち19名に執行猶予)・無罪1名の判決が言い渡された。昭和2年(1927年)に上告が棄却され、刑が確定している。 結末 事件翌年の大正13年(1924年)に調停が成立し、小作料については10パーセントから15パーセント減額されることになった。 結果的に窃盗行為を教唆した首謀者と認定され実刑を受けた顧問弁護士は、昭和3年(1928年)刑務所から出所した直後に、幼い娘と無理心中を図り死亡している。 外部リンク 本項加筆にあたり、以下の太字リンク先を参考にしている。 香川県伏石事件に関する声明書(日本農民組合) 大正13年(1924年)3月時点での日農側の声明書(大阪府立大学人間社会学部図書室資料) 『伏石事件の経緯』 ...
  • ラダ・ビノード・パール
    ...相が衆議院にて行った演説で「戦後、パール判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています」と語り拍手で迎えられた。 東京裁判における主張 パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。“裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断によるものである。“パール判事は親日家故に日本に有利な主張をした”という説は事実誤認であり、自身も否定している。またパールは判決書の中で残虐行為について敗戦国の日本やドイツと戦勝国のアメリカを分け隔てなく批判した。南京事件については「すでに本官が指摘したようにこの物語の全部を受け入れる事は、 いささか困難である」と十数万~数十万もの大虐殺に関する証言や証拠に強い疑問を...
  • 犬養毅
    ...1次大隈内閣では共和演説事件で辞任した尾崎の後を受けて文部大臣となった。1913年(大正2年)の第一次護憲運動の際は第3次桂内閣打倒に一役買い、尾崎行雄(咢堂)とともに「憲政の神様」と呼ばれた。しかし、当時所属していた立憲国民党は首相桂太郎の切り崩し工作により大幅に勢力を削がれ、以後犬養は辛酸をなめながら小政党を率いることとなった(立憲国民党はその後革新倶楽部となる)。犬養は政治以外にも神戸中華同文学校の名誉校長を務めるなどしていた。 犬養は第2次山本権兵衛内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。しかし犬養は、ほどなくして小政党を率いることに限界を感じて革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退する。だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院...
  • 大東亜会議
    ...タヤーコーンが、その演説にあって大東亜共同宣言案への修正提案が拒絶されたことへの婉曲な批判を行い、またフィリピン大統領ホセ・ラウレルが、インドネシア代表が会議に参加できなかったことへの不満を述べる ref name= 黎明 / など、ある程度の緊張感を伴った国際会議であったとの分析もある。 日本の敗戦後における(戦勝国の連合国による)一般の認識としては「会議は東條首相による操り人形たちの集まり」とされている。一方で、この様な連合国による評価に対して、「大東亜共同宣言はイギリスとアメリカが提唱した大西洋憲章に対抗する形で普遍的理想を高唱するものであった」という評価もある。 しかし会議の内容については、大東亜共同宣言を日本が単独で作成し一切の変更を許さないという態度、「大東亜共栄圏」を謳いながら参加国は日本の影響力が強い国々のみであったこと、さらに大西洋憲章を提唱した連合国側がその...
  • 護憲運動
    ...を開き、その集会での演説に興奮した国民の一部が国会議事堂に押し寄せるという事件を起こしたのである。このような中で、桂は議会を解散して政友会と国民党などの勢力を削ぐために、政府干渉による総選挙を行なうことで変事に対応しようとした。ところが衆議院議長の大岡育造が議会の解散に猛反対したために解散させることができず、桂はひとまず、3日間の議会を停会を命じるだけであった。 一方、桂の煮えきらぬ態度に怒り狂った国民は、国民新聞社や警察などを襲った。さらにこの憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、関西などにおいても新聞社や議会の邸宅が襲われるなど、各地で桂内閣に反対する暴動が相次いだ。このような中での2月11日、桂内閣は総辞職を余儀なくされたのである。 第一次憲政擁護運動の意義 大日本帝国憲法の下で、国民による運動で内閣が倒されたのはこのときだけである。そのため、このことは大正政変とも呼ば...
  • 寺内内閣
    ...憲政会両党を揶揄する演説を行ったことから両党の対立が煽られ、政府は詔書で衆議院解散を行った。その際寺内は「帝国議会は貴衆両院から成り、衆議院の決議だけで直ちに国民の世論とすることのできないのは言うまでもない。我が帝国は、欽定憲法の規定により、国務大臣の任免は全く大権によって定まり、いささかも外間の容喙を許すべきではない。(中略)英国の例に倣い、内閣は衆議院多数党の代表者が組織すべきことを主張するのは、我が憲法の規定に反し、至尊の大権を干犯するとともに、両院制度を無視するものである……」(Template 和暦?2月10日地方長官会議における首相訓示)と述べて超然内閣の正当性を主張した。第13回衆議院議員総選挙で勝利した政友会(第1党に躍進)と立憲国民党は多少の意見の相違はあったものの、与党を宣言したため、政局は一応の安定を見せた。寺内は政友会総裁の原敬と立憲国民党総裁の犬養毅を臨時外...
  • 大隈重信
    ...た文相尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると後任人事をめぐって対立はさらに激化。 後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。結局、組閣からわずか4ヶ月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。 第一次護憲運動が興ると、政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織した。与党は立憲同志会、大隈伯後援会および中正会である。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独...
  • 日中戦争
    ...おいて「最後の関頭」演説(徹底抗戦の意志表明)。 7月17日 - 5相会議で現地停戦協定の交渉期限を19日までと決定。 7月19日 - 盧溝橋事件の停戦協定の細目が成立。 7月19日 - 蒋介石、現地停戦協定には中央政府の承認が必要(譲歩的として現時点では非承認)とし、日中両軍の同時撤退案と外交交渉を通告。 7月20日 - 蘆溝橋城の中国軍が日本軍に対して一斉射撃。蘆溝橋城壁に日本軍砲撃をする。 7月20日 - 条件付ながら内地師団動員を閣議決定 7月21日 - 参謀本部、内地師団動員を一時見合わせ。 7月25日 - 郎坊事件(鉄道駅での日中軍衝突)。 7月26日 - 広安門事件(北平の広安門で日本軍が中国軍より銃撃を受ける)。 7月27日 - 内地師団動員を下令。第5師団・第6師団・第10師団を支那駐屯軍に編入。 7月28日 - 日本軍(支那...
  • 国家総動員法
    ...西尾末広は法案賛成の演説を本会議で行ったが、近衛首相を激励する一節「ヒットラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に進むべき」の「スターリン」の部分が民政・政友両党により問題化した。西尾は発言を取り消した(このため議事録よりも削除)ものの、懲罰委員会に付せられ、結局議員除名となった(なお、既成政党と政府が全面的に対決していた9日の段階で西尾が全く同一の発言をしているにもかかわらず、その時には問題にすらされていなかった)。 既成政党勢力にとっては、政府・陸軍に押し切られる一方の議院運営の鬱憤を社会大衆党に対して晴らす格好になった。 参考文献 古川隆久 『昭和戦中期の議会と行政』 吉川弘文館、2005年。ISBN 4642037713。 関連項目 Template Wikisource? 政策及び思想  国家総力戦 国家社会主義 混合経済 統制経...
  • 憲政党
    ...育会で行った所謂共和演説事件が起った。これにより両派の抗争に拍車がかかり、これにより、尾崎は文相辞任のやむなきに追い込まれ、大隈はその後継として自派、すなわち同じ進歩派の犬養毅を奏薦したことによって両派の対立はついに頂点に達した。 10月29日、星亨が中心となり自由派領袖会議を党大会の代わりとして開催し、憲政党解党をクーデター同然に決議した。 自由派憲政党 前述の通り、1898年10月29日に自由派(旧自由党系)のみで憲政党解散を決議させた星亨は、党名・綱領・規約はそのままとして、総務委員を星亨・片岡健吉・江原素六に交替させたという形で法的には憲政党が存続する体裁を取って内務省に届出を行った。内務大臣は自由派の指導者である板垣退助であったから、届出はその場で受理されて自由派のみによる新しい憲政党が発足した。これを知った大隈ら進歩派(旧進歩党系)は対抗するため、正式な党大会を...
  • シベリア出兵
    ...からの撤兵を主張する演説を行うに至った。同年の東方会議において撤退が決定され、翌1922年6月24日の政府声明により撤兵を開始。1925年5月15日の北樺太撤収を最後に全軍の撤兵を完了させた。 ポーランド孤児の救済 1795年の第3次ポーランド分割によって、ポーランド人は祖国をロシア帝国によって併合されてしまい、ロシア帝国政府はポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑したため、ロシア革命当時のシベリアには相当数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年11月のポーランドの独立によって、多数のポーランド孤児(シベリア孤児と言われることもある。)がシベリアに取り残されてしまったが、その保護のために力を貸す国はなかった。 その惨状を知った日本(日本赤十字社が主体となった)はシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させた。1920年(大正9年)7月...
  • 第1次松方内閣
    ...資紀がいわゆる「蛮勇演説」を行って衆議院は空転、松方は12月25日に初めての衆議院解散を決断した。翌1892年2月15日に第2回衆議院議員総選挙が行われたが、この際品川弥二郎内務大臣と白根専一同次官が中心となって大規模な選挙干渉を行って、民党関係者を中心に死者25名負傷者388名を出した。これに陸奥宗光農商務大臣が抗議して辞任(陸奥は解散以前は現職衆議院議員。今回は自身は出なかったが、弟分である岡崎邦輔(従弟)・星亨の推薦人であった)、品川も辞任した(後に親政府議員を結集して国民協会を結成する)。選挙後に召集された第三議会では民党による政府糾弾が行われ、親政府の筈の貴族院でさえも松方内閣との距離を置き始めた。更に内務省では選挙干渉の責任追及を行おうとした副島種臣新内務大臣が白根とこれを支持する安場保和・船越衛ら地方官グループの策動で辞職に追い込まれた。6月に入ると、他の閣僚からも辞表...
  • 更新blog-1
    ...きたけど 早漏気味に演説がはじまる 初めてみた ものものしい雰囲気 本日は毎年恒例の靖国神社入りです。 とはいえ一応みてるけど 見ないで語るが終戦記念TBSドラマ「歸國」ってまたそのパターンか倉本聰よ。 結論 いやあいい感じでクソいドラマでしたね「歸國」は 在特会逮捕のニュースはあまり喜べそうもない ちなみに 30 item(s) Last-Modified 2013/06/25 16 17 55
  • ヨシフ・スターリン
    ...19日、スターリンは演説でナチス・ドイツとの間に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えてドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日のポーランド侵攻であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。こうしてポーランドの東半分を得たスターリンはポーランド軍捕虜2万5千人を処分するよう命令した。これがカティンの森事件である。後にドイツ軍により捕虜の遺体が発見されるもスターリンは一貫してこの事件をドイツ軍の捏造であると主張、戦後にはゲッベルスの日記などをでっち上げてこの虐殺をドイツ軍の仕業に見せかけている。Template see also? その後、次第に独ソ間の対立が深まったことから1941年5月、スターリンは人民委員会議議長(首相)を兼...
  • ハリー・S・トルーマン
    ...外部リンク 就任演説. トルーマン・ドクトリン(1947年3月12日の演説。英語). トルーマンはどのように彼の名前を綴ったか. Peter M. Carrozzo on Michael R. Gardner, Harry Truman and Civil Rights Moral Courage and Political Risks. ハリー・トルーマンの忘れられた日記 (washingtonpost.com). An analysis of Harry Truman s personality. Harry Truman s cabinet.   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月6日 (土) 11 13。    
  • 盧溝橋事件
    ...わゆる「最後の関頭」演説を公表して、中国の抗戦の覚悟を公式に明らかにした。以降、25日の郎坊事件、26日の広安門事件を経て、28日、ついに北支における日中の全面衝突が始まることになる。 事件の謎 ~1発目を誰が撃ったか?~ 日本側研究者の見解は、「中国側第二十九軍の偶発的射撃」ということで、概ねの一致を見ている(秦郁彦『盧溝橋事件の研究』175頁;安井三吉『盧溝橋事件』19頁)。中国側研究者は「日本軍の陰謀」説を、また、日本側研究者の一部には「中国共産党の陰謀」説を唱える論者も存在するが、いずれも大勢とはなっていない。 「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは、葛西純一が、中国共産党の兵士向けパンフレットに盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た、と証言していることであるが、葛西が現物を示していないことから、事実として確定しているとはいえない、...
  • 米内光政
    ...極端に口数が少なく、演説の類が大嫌いだった。平沼内閣の閣僚中、演説回数が一番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残る。終生抜けなかった南部弁を気にしたという説もあるが、面倒くさがり屋で、くどくど説明するのを嫌った。 近衛内閣時代、ナチス・ドイツを仲介とした対中和平交渉であるトラウトマン工作の打ち切りを主張。平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツやイタリアとの提携に反対する。 首相就任 1940年(昭和15年)1月16日、予備役編入とともに内閣総理大臣に就任する。米内を総理に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で...
  • 板垣退助
    ...リストが岐阜で行った演説の題名「板垣死ストモ自由ハ死セズ」が、板垣自身の発言として世間に広まったものである。これには異説もあり、当時板垣の秘書であった内藤魯一という人物が事件現場で叫んだとも言われる。実際に負傷直後に板垣が言った言葉は「痛い。医者を呼んでくれ」だったとも言われる。なお、このとき板垣を診察した医師はのちの政治家後藤新平であった。板垣は後藤を「彼を政治家にできないのが残念だ」と、語ったという。その後、後藤新平は、内務大臣、外務大臣、東京市長などを歴任した。 11月、後藤象二郎と洋行。 明治16年(1883年)6月、洋行から帰国。 明治17年(1884年)10月、自由民権運動の激化で加波山事件が起き、自由党を一旦解党した。 明治20年(1887年)5月、辞退するも伯爵、叙爵。 帝国議会開設以後 明治23年(1890年)、帝国議...
  • 黒田内閣
    ...上において「超然主義演説」を行って政党との徹底対決の姿勢を示したが、その一方で立憲改進党前総裁(実質は党首)で外務大臣の大隈重信を留任させて条約改正の任にあたらせた。また文部大臣の森有礼の暗殺後、榎本武揚が文部大臣に移動して空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者であった後藤象二郎を充てて、同運動を骨抜きにすることで自由民権諸派の団結を阻止した。また条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見えた。 しかし外務省が用意した改正草案に妥協案として「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明らかになると、蜂の巣を突いたような大騒動となった。一旦解体したはずの大同団結運動が今度は板垣退助を擁して再燃し、政府内からも山縣有朋や後藤象二郎、伊藤博文、井上馨らが妥協案に反対する意志を示した。黒田は大隈...
  • 中江兆民
    ...887年)には長野で演説、後藤象二郎の伊藤内閣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。また、明治21年(1888年)には仏学塾も廃塾となる。 明治21年(1888年)に大阪で創刊した『東雲新聞』の主筆も務める。翌年明治22年(1889年)には大日本帝国憲法発布の恩赦を得て追放処分が解除され、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙では大阪4区から出馬する。被差別部落民らの支持を得て、1352票を獲得して一位で当選、国会議員となる。兆民は民党結成のために奔走し、明治24年(1891年)9月に立憲自由党が結党され、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤り2月に辞職。その際「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御届候也。」という辞表を...
  • 玄洋社
    ...ア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の改革運動家金玉均や朴泳孝、インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンのアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。当時の日本政府の方針が、各国との外交関係上、しばしばこれらを迫害する立場に立ったのに対し、玄洋社は公然とこれに反抗し、「大アジア主義」の主張を貫いた。 特に1901年(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の海外工作を担う)を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの浪人たちが大刀を抜きダイナマイトを投げて清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。 日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀...
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