chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「燕京大学」で検索した結果

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  • 東京大学史料編纂所
    東京大学史料編纂所(とうきょうだいがくしりょうへんさんじょ、英称 Historiographical Institute, the University of Tokyo)は、東京大学の附置研究所の一つであり、日本史に関する史料の編纂と刊行を行っている。 沿革 史料編纂所の起源は、1793年(寛政5年)に開設された塙保己一の和学講談所とされる。明治維新後、史料編輯国史校正局、大学校国史編輯局、太政官歴史課、臨時修史局などと変遷している。 1888年(明治21年)、帝国大学(現・東京大学)に修史事業が移管されるが、のちに編年史の編纂は中止と決まり、代わって蒐集した史料自体を編纂、刊行することになり、1895年(明治28年)文科大学(現・文学部)に史料編纂掛が設置される。1901年(明治34年)に「大日本史料」「大日本古文書」の刊行を開始、現在まで事業が続けられている。1929年(昭...
  • エドガー・スノー
    ...華民国政府にも仕え、燕京大学(後に北京大学に吸収)で教鞭を執ったりした。1937年に彼は後に有名となる作品『中国の赤い星 (Red Star Over China) 』を出版した。これは毛沢東を中心とした中国共産党を好意的に取り上げ、将来の共産党の隆盛を予見するものであった。  日中戦争が激しさを増した1941年にスノーはアメリカへ帰国し、『アジアの戦争 (The Battle for Asia) 』を出版。『赤い星』の愛読者だったフランクリン・ルーズベルトは、1942年に面会した後にスノーを非公式な情報提供者に任命。しかし、『赤い星』はソ連・コミンテルン、中華民国にいた共産党シンパの欧米人やスターリニストだった宋慶齢らから非難を浴びた。 戦後になり、1949年に離婚して女優ロイス・ウィーラーと再婚。マッカーシズムが盛んな1950年代には、ロイスの女優業が挫折したこともありアメリ...
  • 帝国大学
    帝国大学(ていこくだいがく)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された大学のことである。以下のように、1校のみの時期はその大学の名称として、2校以上になってからは大学群の総称として使われた。 1886年~1897年:日本唯一の大学であった東京大学(1877年設立)が帝国大学令に基いてつけられた名称。 1897年~:帝国大学令に基いて設置された複数の大学群の総称。最終的に、内地に7校、外地に2校設置された。 概要 帝国大学は、前身となる高等教育機関を改組・改称して設置され、後に学部を新設したり、他の高等教育機関を包摂したりして、日本で有数の、あるいは各地域を代表する総合大学となっていった。 大正時代まで、卒業時、学科ごとに最優秀のものには天皇から恩賜の銀時計が下賜された。1886年(明治19年)には、卒業生のクラブとして学士会(本部・東京都)が設けられ...
  • 旧制大学
    旧制大学(きゅうせいだいがく)とは、日本において学校教育法(1947年4月1日施行)より前の学校制度における大学の全般を指す言葉である。 旧制大学については、第二次世界大戦後の1947年に施行された学校教育法によって新規に設立された大学(新制大学)と対比する意味で用いられる事が多い。なお、新制大学のうち国立大学については、国立学校設置法(1949年施行、2004年廃止)によって設置された。 旧制大学は、現在(1991年の大学設置基準の大網化以降)の大学の3・4年次と、大学院の修士課程・博士前期課程や専門職学位課程などに相当すると考えられている。現在の大学の1・2年次は、旧制高等学校や旧制大学予科が担っていた。なお、旧制大学には旧制専門学校に相当する専門部という組織も設置されていたことがあった。 定義 旧制大学とは、学制、帝国大学令もしくは大学令によって成立した大学である。第二次...
  • 南京大虐殺論争
    南京大虐殺論争(なんきんだいぎゃくさつろんそう)とは、1937年から始まった日中全面戦争初期に起きたとされる南京大虐殺(南京事件)に関して、事件の存否、規模などを論点とした論争である。 論争の歴史 1971年まで 「南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えたが、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作(毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった。この『南京作戦の真相』は、南京事件の存在自体を疑う否定論としては最も早く単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった。 1971年から1982年まで 再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前...
  • 大日本史料
    大日本史料(だいにほんしりょう)は、明治時代(1901年)から現在まで、刊行が続けられている日本史の史料集である。 六国史(日本書紀~日本三代実録)以降、国史の編纂事業が行われていないため、その欠落部分を埋めるべく、年月日順に史料を掲載するもの。宇多天皇(887年即位)から江戸時代までを対象とする。 概要 1895年(明治28年)に帝国大学文科大学に史料編纂掛(現・東京大学史料編纂所)が設けられて歴史書の編纂が始まった。当初は通史の記述を考えていたが、結局史料集を編纂することになった(明治政府の修史事業参照)。 江戸時代に塙保己一が開設した和学講談所で編纂された「史料」を基礎とした。「史料」は宇多天皇から後一条天皇(1016-1036在位)までが対象である。 宇多天皇の仁和3年(887年)から慶応3年(1867年)を16編に分けて編纂が行われ、「史料稿本」(5600冊程の草稿...
  • 京城帝国大学
    京城帝国大学(けいじょうていこくだいがく)は、1924年に日本統治下の朝鮮の京畿道京城府(現:ソウル特別市)に設立された、6番目の帝国大学(但し管轄は内地の帝国大学が文部省であったのに対して、朝鮮総督府)であり、朝鮮においては唯一の旧制大学であった。大学の略称は城大(じょうだい)。 歴史 前史 李氏朝鮮では、1895年の甲午改革により近代教育制度が始まった。日露戦争後の1905年、ポーツマス条約と第二次日韓協約により、大韓帝国(1897年~)は日本の保護国となった。初代統監として着任した伊藤博文は甲午改革から1906年まで11年たっても全国で小学校が40にも満たない実情を見て大韓帝国の官僚を集めた席で「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、朝鮮半島での学校建設事業を最優先してすすめた金ワンソプ『親日派の弁明』p104。 そのため1906年には韓国統監府より普通学...
  • 旧制高等学校
    旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)とは、1950年まで存在した日本の高等教育機関の1つで、2つの高等学校令(1894年および1918年)に基づき設置されたもの、を指す。1886年の中学校令により設立されていた第一~第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を、1894年高等学校に改組して始まった。当初は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制の2系統があったが、学部は順次廃止ないし専門学校として分離され、大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正後は各地で増設され、大学予科は本科に、さらに文科・理科に分かれた。後期には4年間の前置課程を含めた7年制のものもある。 Template 右? 概要 1894年の高等学校令では、専門学科の教育を行なう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定されていた。しかし、専門学科教育は主流となる...
  • 東京大空襲
    300px|thumb|空襲前(左)と空襲後(右)の[[空中写真|航空写真 ]] 東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた東京に対する一連の大規模な空襲。東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。 空襲の経緯 1945年3月10日以前の空襲 right|200px|thumb|空襲を行った[[B-29|B-29戦略爆撃機]] 1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、...
  • 明治政府の修史事業
    明治政府の修史事業(めいじせいふのしゅうしじぎょう)では、明治期に新政府によって進められた正史(国家史)の編纂事業について述べる。 沿革 1869年(明治2年)、新政府は「修史の詔」を発して『六国史』を継ぐ正史編纂事業の開始を声明明治2年4月4日(1869年5月3日)に明治天皇から三条実美に下された宸翰沙汰書(現在は東京大学史料編纂所所蔵)には、修史ハ萬世不朽ノ大典、祖宗ノ盛挙ナルニ、三代実録以後絶ヘテ続クナキハ、豈大闕典ニ非スヤ。今ヤ鎌倉已降ノ武門専権ノ弊ヲ革除シ、政務ヲ振興セリ。故ニ史局ヲ開キ、祖宗ノ芳躅ヲ継ギ、大ニ文教ヲ天下ニ施サント欲シ、総裁ノ職ニ任ズ。須ク速ニ君臣ノ名分ノ誼ヲ正シ、華夷内外ノ弁ヲ明ニシ内外ノ命ヲ明ニシ、以テ天下ノ綱常ヲ扶植セヨ。と記されている。、1876年には修史局の編纂による『明治史要』第1冊が刊行された。しかし1877年に財政難のため修史局は廃止され、...
  • 学徒出陣
    学徒出陣(がくとしゅつじん)とは第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。それまで(旧制)高校や(旧制)大学に在籍する学生は、26歳まで徴兵猶予されていた。 概要 日本は1937年(昭和12年)以来、当初は中華民国、続いて1941年(昭和16年)からはアメリカ合衆国・イギリスなどとの長期戦を続けていた。特にアジア・太平洋地域に及ぶ広大な戦線の維持や1942年(昭和17年)以降の戦局悪化で戦死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった。 従来、兵役法などの規定により大学(旧制大学)・高等学校(旧制高等学校)・専門学校(旧制専門学校)などの学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。しかし兵力不足を補うため、次第に徴兵猶予...
  • 大西洋憲章
    大西洋憲章(たいせいようけんしょう、Atlantic Charter)は、1941年8月の大西洋会談において、英国首相のウィンストン・チャーチルと、アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトによって調印された憲章。 ニューファンドランド島沖の戦艦、プリンス・オブ・ウェールズ上で調印された。太平洋戦争開戦前で合衆国はまだ参戦していなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものである。 八項目からなり、その内容は要約すると以下になる。 合衆国と英国の領土拡大意図の否定 領土変更における関係国の人民の意思の尊重 政府形態を選択する人民の権利 自由貿易の拡大 経済協力の発展 恐怖と欠乏からの自由の必要性 航海の自由の必要性 一般的安全保障のための仕組みの必要性 憲章の第3条については、ルーズヴェルトとチャーチルの間で見解の相違があった。ルーズヴェル...
  • 南京大虐殺
    南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)は、日中戦争(当時は日本側は支那事変と呼んだ)初期の1937年(昭和12年)に日本軍が中華民国の首都 南京市を占領した際、約6週間 - 2ヶ月にわたって多数の中国軍捕虜、敗残兵、便衣兵及び一般市民を不法に虐殺したとされる事件。 中国では南京大屠殺と呼び、欧米ではNanking AtrocitiesあるいはRape of Nankingと呼ぶ。日本では単に南京虐殺、南京事件とも呼ばれる。南京事件という呼び方は、不法殺害の他に暴行・略奪・放火も含めて事件全体を論じる場合によく使われる。 なお、この問題は事実存否や規模などを巡って現在でも議論が続けられている(南京大虐殺論争を参照)。 事件の概要 南京攻略戦 1937年8月9日から始まった第二次上海事変の戦闘に破れた中国軍は撤退を始め、当時、中華民国の首都であった南京を中心として防衛線(複郭陣地...
  • 小村壽太郎
    小村 壽太郎(こむら じゅたろう、1855年10月26日(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年)11月26日)は、明治の外務官僚。外交官、外務大臣などを務めた。侯爵。小村寿太郎とも表記される。初代拓務次官の小村欣一は養子。 経歴 日向国飫肥藩(おび、宮崎県日南市)に下級武士の子として生まれる。1870年大学南校(東京大学の前身)入学。第1回文部省海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学、法律を学んだ。 帰国後、司法省に入省し大審院判事を経て外務省へ転出。陸奥宗光に認められ、清国代理公使を務めた。日清戦争の後、駐韓弁理公使、外務次官、駐米・駐露公使を歴任。1900年の義和団事件では講和会議全権として事後処理にあたった。 1901年に第1次桂太郎内閣の外務大臣に就任。1902年締結の日英同盟を積極的に主張した。日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議日本...
  • 企画院
    企画院(きかくいん)は、日本における戦前期の内閣直属の物資動員・重要政策の企画立案機関。 概要 前身は昭和10年5月10日に設置された内閣総理大臣直属各省大臣と同様の立場での行政事務の分担及びその補助部局→新憲法施行後に総理庁→総理府へ統合。他方で、「合議体としての内閣」の所管部局に法制局と賞勲局があったの国策調査機関である内閣調査局にある。「重要産業統制法」(昭和6年7月公布)から始まり、五・一五事件を経て二・二六事件以後の陸軍内での統制派の勃興以後、所謂「新々官僚(新官僚)」の牙城・内閣調査局の権限は強まり、より強力な重要政策を立案する組織として、昭和12年5月14日に企画庁へ改組。同年10月25日に内閣資源局大正7年の軍需工業動員法制定の後、物資動員企画立案機関として昭和2年5月27日に設立と統合し企画院が発足した。重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、以後、戦時下...
  • 東洋自由新聞
    東洋自由新聞(とうよう じゆう しんぶん)は、明治初期に刊行された新聞。 1881年(明治14年)3月18日に東京で創刊。山城屋の稲田政吉を社主とする東洋自由新聞者発行。社は東京銀座通りの活版印刷所績文社に同居。 自由民権運動が興隆した明治14年10月に結党される自由党の準備会において機関紙発行が否決されたため、フランス留学経験のある華族の西園寺公望や仏学塾を経営する中江兆民(篤助)、光妙寺三郎らフランス派知識人と、新潟の山際七司、信州の松沢求策ら地方で活躍した民権派が合流して独自に創刊された。 幹事の松田正久、監督委員に森新三郎。編集委員には主筆の中江のほか、柏田盛文、上条信次、桑野鋭、松沢求策、林正明らを社員に東京で創刊。自由民権と君民共治、フランス流急進自由主義を主張。当初は2000部を印刷し、後に1600部に減じた。 西園寺の社長就任は明治政府や宮中でも物議を呼び、右大臣岩...
  • 平沼騏一郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日(慶応3年9月28日) - 1952年(昭和27年)8月22日)は、日本の官僚。第35代内閣総理大臣。従二位勲一等、男爵、法学博士。日本大学第2代総長。大東文化学院(後の大東文化大学)初代総長。大東文化協会(大東文化大学の設立母体)三代会頭。国本社の創設者。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、東京裁判でA級戦犯で訴追され終身刑の判決。1952年、病気仮釈放、直後に死去。1978年に靖国神社に合祀された。 人物像 生い立ち 1867年(慶應3年)9月28日、津山城下南新座(後の岡山県津山市)に津山藩士平沼晋の次男としてうまれる。 1872年(明治5年)に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年(明治11年)に東京大学予...
  • 井上準之助
    Template Infobox Celebrity? 井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、明治2年3月25日(1869年5月6日) - 昭和7年(1932年)2月9日)は、大正~昭和初期の政治家、財政家。日本銀行第9、11代総裁。第二次山本、浜口、第二次若槻内閣の蔵相。 来歴・人物 浜口内閣で行った金輸出解禁(金本位制への復帰)や緊縮財政は世界恐慌のため深刻な不況を招き、血盟団事件で暗殺される。 金輸出解禁政策は失敗であったが、当時としては異例の全国各地を歩いて国民に政策の理解を求めるPR活動を行うなどの真摯な態度や、当時の経済学において正統な経済のあり方とされた金本位制を維持しようとしたのは常識的判断であり世界恐慌の深刻さがそれを上回ったと擁護する向きもある。しかし、金融界の意向に配慮した旧平価解禁の強行やその後のドル買事件に際しては一転して金融界と過度な全面衝突を起こすなど...
  • 鹿鳴館
    鹿鳴館(ろくめいかん)とは外国からの賓客や外交官を接待するために明治政府によって建てられた社交場である。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ。 経緯 計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため、井上は日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えた。 それまでは外国賓客の迎賓館として準備された建物はなく、1870年(明治3年)、急遽改修した浜離宮の延遼館かあるいは三田の蜂須賀邸などを借用していた。鹿鳴館の建設地は内山下町の旧薩摩藩装束...
  • 滝川事件
    滝川事件(たきがわじけん)は、1933(昭和8)年に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。京大事件とも呼ばれる。 経緯 事件の発端 事件は、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容(トルストイの思想について「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」...
  • 不戦条約
    不戦条約(ふせんじょうやく)(「戦争抛棄ニ関スル条約」)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。 概要 1928年(昭和3年)8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名し、その後、ソビエト連邦など63か国が署名した。フランスのパリで締結されたためにパリ条約(協定)(Pact of Paris)あるいはパリ不戦条約と呼ぶこともあり、また最初フランスとアメリカの協議から始まり、多国間協議に広がったことから、アメリカの国務長官フランク・ケロッグと、フランスの外務大臣アリスティード・ブリアン両名の名にちなんでケロッグ=ブリアン条約(協定)(Kellogg-Briand Pact)とも言う。戦争の拡大を防ぐために締結...
  • 梁鴻志
    梁 鴻志(りょう こうし、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1882年 - 1946年11月9日)は、中国の中華民国時代の政治家。字は衆異。福建省長楽県(現在の福州市長楽市)の人。北京政府安徽派の有力政治家で、後に中華民国維新政府の首脳を務めたことで知られる。 事跡 安徽派時代 6歳の時から2年間、日本での生活経験を持つ。帰国後の光緒29年(1903年)に挙人となる。光緒31年(1905年)、京師大学堂(北京大学の前身)に入学した。光緒34年(1908年)の卒業後、山東省の登莱高胶道尹公署で科長に任命され、まもなく教職に転じた。中華民国成立後は、国務院で職に就き、袁世凱が創刊させた新聞である『亜細亜報』で記事を書いた。 民国5年(1916年)6月の袁世凱死後、梁鴻志は段祺瑞率いる安徽派に与し、段...
  • 京都学連事件
    京都学連事件(きょうとがくれんじけん)は1925年(大正14年)12月以降、京都帝国大学などでの左翼学生運動に対して行われた弾圧事件。日本内地では最初の治安維持法適用事件として知られる。 経緯 背景 1910年代前半より、各大学・高校・専門学校などでは社会科学研究会(社研)が組織され、1924年9月には49校の社研が参加する学生社会科学連合会(学連)が発足した。学連はまたたくまに会員1600名を擁する大組織に成長し、マルクス主義の普及・研究を標榜するとともに労働争議や労働者教育運動(京都労働学校など)への支援を積極的に行い、1925年7月には第2回全国大会を京都帝大で開催、代議員80名が参加した。 弾圧 1925年12月、京都府警察部特高課は、全市の警察署高等係を動員して京都帝大・同志社大などの社研会員の自宅・下宿などを急襲、家宅捜索および学生33名を検束した。しかし京...
  • マイナー・シール・ベイツ
    マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates、1897年5月28日-1978年10月)アメリカ合衆国-オハイオ州ニューアーク出身の歴史学者。イェール大学で博士号を取得、金陵大学副学長を歴任。1937年12月、南京攻略戦において、南京安全区国際委員会の一員として中国市民を保護する活動に従事した。 略歴 1916年 ハイラム学院において文学士号を得る オックスフォード大学に入学 第一次世界大戦中に世界YMCAの書記としてインドやメソポタミヤに派遣され、戦時中の民衆救済活動に参加 1920年 オックスフォード大学卒業 1920年 基督会によって宣教師に任命、南京の金陵大学の歴史学教授に就任 1923年 金陵女子文理学院教師リリア・ロビン(Lilliath Robbins)と結婚 1934年-1935年 ハーヴァード大学にて日本語・ロシア語を学ぶ...
  • 阿部信行
    Template 日本の内閣総理大臣? 阿部 信行(あべ のぶゆき、明治8年(1875年)11月24日 - 昭和28年(1953年)9月7日)は日本の陸軍軍人、政治家。第36代内閣総理大臣。 人物 石川県金沢市に旧金沢藩士の子としてうまれる。東京府尋常中学(のち東京府立一中)を経て、第四高等学校在学時に日清戦争があり、軍人志望に転換、四高を中退し、陸軍士官学校へ。陸士9期生、陸軍大学校19期生。1930年12月22日に第4師団長となる。1933年、軍事参議官。1936年、二・二六事件後の粛軍の結果、陸軍大将を最後に予備役編入。 1939年8月30日に内閣総理大臣に就任した。参謀本部軍務課長・有末精三が内閣成立に暗躍したともいわれる。また同郷出身者で多くを構成する阿部内閣は「阿部一族」とも「石川内閣」とも呼ばれた。当初は外務大臣を兼任した。2日後の9月1日には第二次世界大戦が勃発した...
  • 谷寿夫
    谷 寿夫(たに ひさお、1882年12月23日 - 1947年4月26日)は、岡山県出身の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。南京大虐殺(南京事件)の責任を問われ南京裁判において処刑された。 経歴 岡山中学校、東京府立四中を経て、陸軍士官学校卒(15期)、陸軍大学校卒(24期 恩賜)。 陸軍士官学校卒業後、日露戦争に従軍し、イギリス駐在武官(1915年 - 1918年)中、第一次世界大戦にも従軍する。その後、陸軍大学校の教官(兵学)に任命される。その時、兵学の教科書として、日露戦争を研究する時の必読書として知られる、『機密日露戦史』をあらわす。 1935年、第6師団長(熊本)に親補される。1937年12月、中支那方面軍(松井石根司令官)の隷下として第6師団も南京攻略戦に参軍する。このとき、所謂、南京大虐殺がおきたとされる。南京攻略戦の成功により、中部防衛司令官に任命された。 1939年...
  • 上野戦争
    Template Battlebox? 上野戦争(うえのせんそう, 慶応4年5月15日(1868年7月4日))は、戊辰戦争の戦闘の1つ。江戸上野(東京都台東区)において彰義隊ら旧幕府軍と薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍の間で行われた戦いである。 背景 慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎し、新政府軍は東征軍を江戸へ向かって進軍させた。江戸城では主戦派の小栗忠順や榎本武揚らと恭順派とが対立するが、慶応4年3月13日(1868年4月5日)に新政府軍の大総督府参謀である薩摩藩の西郷隆盛と旧幕府陸軍総裁の勝海舟が会談し、徳川慶喜の水戸謹慎と4月11日(5月3日)の江戸城の無血開城を決定して江戸総攻撃は回避された。 抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎らは彰義隊を結成した。彰義隊は当初本...
  • 高橋是清
    Template 日本の内閣総理大臣? 高橋 是清(たかはし これきよ、愛称だるまさん、1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の政治家。立憲政友会第4代総裁。第20代内閣総理大臣(在任 1921年(大正10年)11月13日 - 1922年(大正11年)6月12日)。大勲位子爵。幼名は和喜次。 経歴 嘉永7年閏7月27日幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町に生まれた。母のきんは魚屋の娘で川村家に子守奉公にきていた女中であった。庄右衛門の妻は身重になったきんに同情しこっそり中門前町のおばの家へ帰して静養させときどき見舞って世話をしたという『高橋是清―財政家の数奇な生涯』 7頁 。生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子に出される。 その後、横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院...
  • 近衛上奏文
    近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。  概要 近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した敗戰タケナラハ國體上ハサマテ憂フル要ナシト存候、國體護持ノ建前ヨリ最モ憂フルヘキハ敗戰ヨリモ敗戰ニ伴フテ起ルコトアルヘキ共産革命ニ御座候。。 「大東亜戦争」(太平洋戦争)は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること抑々滿洲事變、支那事變ヲ起シ、之ヲ擴大シテ遂ニ大東亞戰爭ニマテ導キ來レルハ是等軍部内ノ意識的計畫ナリシコト今ヤ明瞭ナリト存候。滿洲事變當時、彼等カ事變ノ目的...
  • お雇い外国人
    お雇い(御雇)外国人(おやといがいこくじん)とは、幕末以降明治初期に、「殖産興業」などを目的として、欧米の先進技術や学問、制度を輸入するために雇用された欧米人のことである。江戸幕府や各藩、明治以降は新政府や各府県、または民間によって招聘された。幕末に各藩が競って外国人を抱えて雇用したために、お抱え外国人ともよばれることもある。 広義では在外公館で雇用されていた者や、外国人居留地の警備に当たった者なども含まれるが、本項では日本が欧米から新しい技術や知識を学ぶために雇用した人物について述べる。 概要 お雇い外国人は、日本の近代化の過程で西欧の先進技術や知識を学ぶために雇用され、産官学の様々な分野で後世に及ぶ影響を残した。もっとも江戸時代初期からヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどの例があり、彼らが幕府の外交顧問や技術顧問を務めているほか、後にはシーボルトなども一時期幕府顧問になって...
  • 台湾総督府
    thumb|250px|石川欽一郎作・台湾総督府([[1916年)]] 台湾総督府(たいわんそうとくふ、旧字体:臺灣總督府)は、清国から日本へ割譲され、日本領となった台湾を統治するために設置された当時の日本の官庁名である。 台北市に設置された台湾総督府本庁舎は、現在も中華民国の総統府として使用されている。また昨今の国際情勢の影響により、近隣にはミサイルを多数配備し、憲兵が小銃を装備し護衛にあたっている。 概略 1895年の下関条約の締結から1945年の日本の敗戦まで台湾を支配・統治した。台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程である(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝...
  • 五四運動
    五四運動(ごしうんどう)は1919年のヴェルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した中華民国時の北京から全国に広がった反日、反帝国主義を掲げる大衆運動。5月4日に発生したのでこの名で呼ばれ、五・四運動、5・4運動とも表記される。 背景 遠景―世界的ナショナリズムの高揚とロシア革命― 近代とは帝国主義という嵐が席巻して世界を一つにした時代であり、アヘン戦争以来、中国も列強からの侵略にさらされた結果、その近代の嵐に巻き込まれ世界の一つに組み込まれるようになった。しかしやがてそうした帝国主義に風穴をあけるような事件が世界各地で起き、中国もそれに大きな影響を受けた。それがロシア革命(1917年)、ウッドロウ・ウィルソンの民族自決主義をうたった十四か条の平和原則(1918年)、三一運動(1919年)である。これらは中国におけるナショナリズムの高揚を促進させたといえる。 近景―反日気運の...
  • 中原大戦
    中原大戦(ちゅうげんたいせん)とは、中国の中原において、1930年に、軍閥が蒋介石に対して起こした戦争のこと。中原会戦(ちゅうげんかいせん)、または、中原戦争(ちゅうげんせんそう)と呼ぶこともある。 1928年に完了した北伐は、中国国民党によりというよりは、各地の軍閥を抱き込むことにより成し遂げられたという面が強かった。その結果、北伐後の国民政府は、軍閥混合的な色彩の政府(政府の軍は、軍閥の寄せ集めであった)であり、中国国民党の立場は弱いものであった。 これに対して、蒋介石は、中国国民党および自己の権力を強大化させるため、1929年1月に国軍の整理を開始した。これは、旧軍閥の兵士を削減することにより、軍閥の影響力を失わせ、蒋介石側の勢力の巻き返しを図ろうとするものであった。 ここに及んで、北伐に協力した軍閥は危機感を覚え、蒋介石に対して、次々と兵を起こし、戦乱が繰り返された。そのよう...
  • 帝国主義
    thumb|350px|[[1898年当時の帝国主義列強勢力図]] 帝国主義(ていこくしゅぎ、Template lang-en?)とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、もしくは同時に、新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを押し進めようとする思想や政策。本来は19世紀中葉以降の移民を主目的としない植民地獲得を指して使われる用語であるが、歴史学以外の分野ではしばしば文学的・政治的修辞として単純に膨張主義を指して使われる場合もある。また、レーニンは植民地再分割を巡る列強の衝突から共産主義革命に繋げようとする立場から更に限定し、『帝国主義論』(1916年)の中で20世紀初頭以降を帝国主義として論じているが、ソビエト連邦も崩壊後はそのような問題設定がなされることは少なくなっている。 概要 帝国主...
  • 田中正明
    田中 正明(たなか まさあき、1911年2月11日 - 2006年1月8日)は評論家。長野県下伊那郡喬木村出身。 松井石根の元私設秘書。南信時事新聞・元編集長、拓殖大学講師。日本アラブ協会常任理事。イオンド大学教授。 南京大虐殺の存在に否定的な立場からの研究で知られる。田中の弟子としては水間政憲が保守系雑誌で、松尾一郎がインターネット上で田中の主張を引き継いで展開している。 『松井石根大将の陣中日記』改竄について 田中は、本書を1985年芙蓉書房から出版し、南京事件幻説を補強する有力証拠だと主張したが、その際、松井日記の記述を日本軍に有利な方向に捻じ曲げる「加筆・修正・削除」を全く読者への断りのないまま行なった。「南京占領後の態度方針を説明するため外人記者団と会見をした」といった原文にない記述を追加した上、注釈として「松井大将が『南京虐殺』に関する質問を受けたという様子が全くみ...
  • 木戸孝允-2
    前半は木戸孝允を参照 人物 木戸孝允の苦悩の原因 木戸自身は、文明開化を自ら実践し、自ら世間に開明諸施策を率先して推進し続けた大胆かつ繊細な開明派である。ところが同時に、安政の大獄や新選組や長州征伐や戊辰戦争など数々の修羅場の経験に裏打ちされた用心深い漸進(ぜんしん)派でもある。 このため、木戸は、開明思想乏しくして明治政府に参加してしまった守旧派からも、また、現実や経験を踏まえず輸入物の知識による理念だけで権力闘争したがる急進派からも、上策ないし是とは判断し得ない下策をいちいち訴えられ続けた。つまり真反対の両方向から全く相異なる苦悩を同時に抱え込まされ続けるという非常に割に合わない難業に木戸は耐え続けていたことになる。 そのため、病気が再発・悪化した明治6年以降は、明治政府とはしばしば明確に距離を置き始める。 そして、一方ではその当時としては余りにも先見的な提言を残した...
  • 台北帝国大学
    台北帝国大学(たいほくていこくだいがく)は、日本領時代の台湾に設置された帝国大学。当時は臺北帝國大學と表記された。 日本統治時代の1928年(昭和3年)3月16日に設立。文政学部と理農学部の二学部が設置され、1928年4月より開講した。さらに1941年(昭和16年)には予科(豫科)も作られた。1945年(昭和20年)度時点での学部構成は、文政学部、理学部、農学部、医学部、工学部であった。 1945年11月15日に中華民国に接収され台湾大学と改名され、今に至る。 沿革 1928年3月16日 勅令第30号により設立。文政学部、理農学部の2学部と附属図書館設置。 文政学部に哲学科、史学科、文学科、政学科の4学科、理農学部に生物学科、化学科、農学科、農芸化学科を設置。 文政学部は国語学・国文学/東洋史学/哲学・哲学史/心理学/土俗学・人種学/憲法/行政法、理農学部は植物学/動物学/...
  • 九州大学生体解剖事件
    九州大学生体解剖事件(きゅうしゅうだいがくせいたいかいぼうじけん)は、1945年に福岡県福岡市の九州帝国大学(現在の九州大学)医学部において米軍捕虜に対する生体解剖実験が行われた事件である。相川事件とも言われる。 概要 1945年5月、九州方面を爆撃米空軍は福岡市において市街地に対して無差別爆撃を敢行している。(上坂(1982)、34頁)するために飛来したB-29が熊本県・大分県境で撃墜され、搭乗員のウイリアム・フレドリック少佐ら12名が捕らえられた。西部軍司令部は、裁判なしで12名の搭乗員の内、8名を死刑処分とすることにした。それを知った九州帝大卒で病院詰の小森見習士官は、岩山福太郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュ...
  • 尾崎行雄
    尾崎 行雄(おざき ゆきお、安政5年(戸籍上は翌6年の旧暦11月20日)11月20日(1858年12月24日) - 1954年(昭和29年)10月6日)は、日本の政治家。 号は咢堂(がくどう。最初学堂。愕堂を経て咢堂)。相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市津久井町又野)生まれ。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれる。 略歴・人物 11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父・行正に従い、1868年(明治元年)に番町の平田塾にて学び、一家も1871年(明治4年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。そこで初めて「学校」に入った。その後、1872年(明治5年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。1874年(明治7年)に弟と共に上京し慶應義塾童児局に入学するが、塾長の福沢諭吉に反抗して退学、...
  • 坂本龍馬-2
    前半は坂本龍馬-2参照 文献 原典 1935年 坂本龍馬、由利公正著、尾佐竹猛解題『近世社会経済学説大系』第14、誠文堂新光社 各巻タイトル 坂本龍馬・由利公正集 / 尾佐竹猛解題 1978年5月 平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 限定版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p907 - 952 1980年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補改訂版 1982年11月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店 増補3訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p987 - 1032 1988年5月 宮地佐一郎編集・解説『坂本龍馬全集』光風社書店、ISBN 4875194005 増補4訂版、坂本龍馬年譜・坂本龍馬関係書誌 p1045 - 1090 1988年12月、岩崎英重...
  • 支那駐屯軍
    Template 軍隊資料? 支那駐屯軍(しなちゅうとんぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一つであり、中華民国成立以前は清国駐屯軍(しんこくちゅうとんぐん)であった。天津にあったことから天津軍とも通称される。 沿革 Template 日本陸軍? 明治33年(1900年)5月、北清事変が勃発し、日本政府は清国臨時派遣隊を天津に送った。その後の事態の悪化により、6月に第5師団を中心とした部隊を増派し、欧米諸国との連合軍を構成し、8月に事変は沈静化した。同年10月、第5師団の指揮下にあった混成一個旅団により清国駐屯隊を編成し、他の部隊は順次復員した。明治34年(1901年)5月から清国駐屯隊も順次復員した。 そして、同年5月31日には北京議定書に基づき新たに清国駐屯軍が編成され、日本の公使館、領事館、在留邦人の保護を担うこととなった。その後、清国の滅亡に伴い明治45年(1912年)4月...
  • 国際連盟
    国際連盟(こくさいれんめい 英:League of Nations)は、第一次世界大戦の教訓から、1920年に発足した史上初の国際平和機構である。 略称は連盟。本部はスイスのジュネーヴに置かれていた。 国際連盟の沿革 設立 アメリカ合衆国大統領のウィルソン(=民主党)の十四か条の平和原則により提唱され、ヴェルサイユ条約の第1編に基づいて国際連盟規約が定められたことで設立された。原加盟国は42カ国で、最終的に60カ国以上が加盟している。 提唱者が大統領であるアメリカ合衆国自身は、モンロー主義を唱える上院の反対(=共和党が多数)により国際連盟には参加していない。また、ロシア革命直後のソヴィエト社会主義共和国連邦(1934年加盟)や敗戦国のドイツ(1926年加盟)は、当初は参加を認められなかった。このように大国の不参加によってその基盤が当初から十分なものではなかった。 経緯 ...
  • 内閣総理大臣の一覧
    内閣総理大臣の一覧(ないかくそうりだいじん の いちらん)は、日本の行政府の長である内閣総理大臣の一覧である。 歴代の内閣総理大臣 大日本帝国憲法は1890年11月29日、第3代の第一次山縣内閣の時に施行。 日本国憲法は1947年5月3日、第32代の第一次吉田内閣の時に施行。 以下表中、代 は歴代内閣、人 は何人目の総理。 日数 は在職日数、ただし在職期間が連続していない場合は、各次の在職日数をあげたのち、最終次の在職日数の後に通算の在職日数を加えた。 代 人 氏名 在職期間 日数 出身地 学職歴 備考 明治 1 1 伊藤博文いとう ひろぶみ 第一次伊藤内閣1885年12月22日- 1888年4月30日 861 長州藩山口県 松下村塾出身後に元老 長州閥 2 2 黒田清隆くろだ きよたか 黒田内閣1888年4月30日- 18...
  • 義和団の乱-2
    前半は、義和団の乱参照 義和団の乱の影響と評価 影響 1―中国国内の影響― 改めて強調するまでも無く、義和団の乱は国内外に様々な影響を残した。まず国内的な影響について触れる。 1. 総理衙門の廃止と外務部の創設 これらは北京議定書に盛り込まれているように、列強各国の強い意向によって実現したものである。アロー戦争以後清朝の外交を担ってきた総理衙門が清朝官庁内で次第に地位低下したことに不満を覚えた諸外国が、清朝が外交を重視するよう求めた結果、総理衙門を廃止し外務部をつくらせるに至った。なお外務部は他の官庁より上位の組織であるとされた。 2. 光緒新政の開始 北京に帰った西太后は排外姿勢を改め、70歳近い年齢でありながら英語を習い始めるなど、西欧文明に寛容な態度を取り始めた。その最も典型的な方針転換はいわゆる光緒新政を開始したことである。これは立憲君主制への移行・軍の近...
  • 超然主義
    超然主義(ちょうぜんしゅぎ)とは、外の動静には関与せず、超然(平然)として独自の立場を貫く主義をいう。一般的には、大日本帝国憲法発布後、帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る政府が採った立場を指し、政府は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張であるとされる(異説坂野潤治や御厨貴らは、超然主義には本来の意味である議会や政党の存在・主張を無視するという意味の他に、どの政党に対しても親疎の差を付けずに公平に扱い党派争いに関与しないという意味でも用いられており、超然主義及び超然内閣が必ずしも政党そのものを無視・否定したものではないとする説を提示している。また、政府と議会を独立させるという意味では、アメリカ合衆国では大統領を始め、閣僚は非国会議員に限定している。実態として大統領は議会の有力党派で争われるが、議会選挙とは独立して選出されるのはこのためである。あり)。ま...
  • 昭和天皇-3
    前半は、昭和天皇、昭和天皇-2参照 短歌 昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだと言われている。公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。宮中行事や歌会始に代表される歌会、行幸やおことばに代表されるパフォーマンスに伴っての作品発表は、いずれも宮内庁の目を経ており、相聞が一首も発表されていない点をとっても、一般の短歌作者とは同列に論じられない部分もある。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。このような作風は「おおらか」とも、「非文学的」ともされてきた。(詳しくは昭和天皇の大御歌を参照) 昭和天皇の歌集 みやまきりしま:天皇歌集 (毎日新聞社編...
  • 東郷茂徳
    Template 日本の閣僚? 東郷 茂徳(とうごう しげのり、明治15年(1882年)12月10日 - 昭和25年(1950年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。 人物 東条英機内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避する事は出来なかった。だが、早期講和への道を探るために敢えて辞職をしなかった。その後、大東亜省の設立に反対し、東条首相と対立したため外務大臣を辞職。 鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣。終戦工作に尽力して日本の本土決戦突入という凄惨な事態を回避する事が出来た。それにも関わらず戦後、開戦時の外相であったがために連合国側から戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。遺著に『時代の一面』がある。 外務省事務次官を務め...
  • 鈴木貞一
    Template 基礎情報 軍人? 鈴木 貞一(すずき ていいち、1888年12月16日 - 1989年7月15日)は、日本の軍人、陸軍中将。千葉県出身。通称「背広を着た軍人」。「三奸四愚」と呼ばれた東条英機側近三奸の一人とされる。 略歴 千葉県の地主である鈴木八十吉の長男として生まれ、東京の成蹊学舎、京北中学校を経て、1910年に陸軍士官学校(22期)、1917年に陸軍大学校(29期)を卒業。元々は満州の森林開発に携わることを志望しており、卒業後も支那問題に関する研究を続けたことから、参謀本部の支那班・作戦課での勤務を命じられ、上海及び北京、武漢に駐在。 1929年5月19日、石原莞爾・永田鉄山・東條英機・板垣征四郎ら陸軍中堅将校が結成した一夕会に参加。1931年、三月事件に参加。情報戦・宣伝戦のエキスパートとされ、北京時代以来、古野伊之助との縁も深い。 鈴木は前述の通り、...
  • 加藤高明
    Template 日本の内閣総理大臣? 加藤 高明(かとう たかあき)、1860年1月25日(安政7年1月3日) - 1926年(大正15年)1月28日)は日本の外交官、政治家。第24代内閣総理大臣。正二位 大勲位 伯爵。幼名は総吉。娘は岡部長景の妻。新選組隊士佐野七五三之助は母方の伯父にあたる。 生涯 財界への歩み 尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として生まれた。父は尾張海東郡佐屋(後の愛知県海部郡佐屋町、現在は愛知県愛西市)の代官の手代だった。明治5年(1872年)祖母加奈子の姉あい子の加藤家に養子に入り、高明と改名。旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、東京大学法学部を首席で卒業。三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と揶揄される)。...
  • 若槻禮次郎
    Template 日本の内閣総理大臣? 若槻 禮次郞(わかつき れいじろう、新字体:若槻 礼次郎、慶応2年2月5日(1866年3月21日) - 昭和24年(1949年)11月20日)は、日本の大蔵官僚、政治家。第25代および第28代内閣総理大臣。男爵。旧姓は奥村、幼名は源之丞、号は克堂。 生涯 生い立ち 松江藩の足軽奥村仙三郎の次男として生まれる。奥村家は極めて貧乏であり、内職のようなことをしてようやく生活していた。幼少の頃はまだ帯刀であり、木刀一本腰に差して寺子屋に通う。 小学校を出ると漢学塾へ通うが、1年後やめて教員伝習校内変則中学科に入る。しかし家が貧乏で、学資が続かず在学8~9ヵ月にして中学をやめ、しばらくは家にいて山へ薪を取りに行ったり、家事の手伝いをしていた。 16歳のころから3年間程、小学教員をする。司法省法学校が官費で生徒を募集することを知り、飛び立つ思い...
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