chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「特命全権大使」で検索した結果

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  • 来栖三郎 (外交官)
    ...本の外交官。駐ドイツ特命全権大使、駐米特命全権大使等を歴任。 プロフィール 生い立ち 神奈川県横浜市生まれ。旧制横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒、1909年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒。 外交官 1909年外交官及び領事官試験合格、1910年外務省入省。ハンブルク総領事等を経て、1932年外務省通商局長、1936年駐ベルギー特命全権大使、1939年駐ドイツ特命全権大使。 日独伊三国軍事同盟締結時の駐ドイツ大使として、日本代表として同同盟の調印式に出席した。その後、近衛文麿内閣では戦争回避のための日米交渉を担当する遣米特命全権大使を拝命、異例の「第二の大使」としてワシントン入りし、野村吉三郎駐米大使を補佐するかたちで日米交渉にあたるが、この人事はかえってアメリカ側の不信を招くこととなり交渉は決裂、最後通牒を手渡し1941年...
  • 岩倉使節団
    ...た。 岩倉具視:特命全権大使 木戸孝允(桂小五郎):副使 大久保利通:副使 伊藤博文:副使 山口尚芳:副使 田辺太一:一等書記官 福地源一郎:一等書記官 安藤太郎:四等書記官 池田政懋:四等書記官 久米邦武:大使随行 中山信彬:大使随行 内海忠勝:大使随行 野村靖:大使随行 五辻安仲:大使随行 田中光顕:理事官 東久世通禧:理事官 山田顕義:理事官 佐佐木高行:理事官 田中不二麿:理事官 肥田為良:理事官 村田新八:随行 原田一道:随行 中江兆民:イギリス留学 鍋島直大:イギリス留学 前田利嗣:イギリス留学 毛利元敏:イギリス留学 前田利同:イギリス・フランス留学 金子堅太郎:アメリカ留学 團琢磨:アメリカ留学 牧野伸顕:アメリカ留学 黒田長知:アメリカ留学 鳥居忠文:アメリカ留学 津田梅子:アメリカ留学 山川捨松...
  • 石井・ランシング協定
    ...トンD.C.で日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国での特殊権益に関する協定である。公文による共同宣言という形式になっている。ワシントン体制への道に通じる対米協調政策の結果であった。 概要 協定の内容はアメリカの中国政策の一般原則と日本が主張する特殊利益との間の妥協点を決定するものであった。アメリカはすでに日本の対華21ヶ条要求に対して「不承認政策」を取っており、日米両国政府の合意は「中国の独立または領土保全」と「中国における門戸解放または商工業に対する機会均等の主義」であった。 ただし、ここには「特殊の権利または特典」は除外されていた。そしてその特殊利益とは具体的に満州・東部内蒙古に対する日本の利益をアメリカが承認するところとなった。 協定発表時に中国政府(中華民国・北京政府のこと。記事中華民国の歴史を参照)は...
  • 日独伊三国軍事同盟
    ...チアーノ、日本からは特命全権大使の来栖三郎が条約に調印した。条約原文は英文テキストで此れにベルリンで署名調印され、約3週間後に日本で印刷されたテキストを駐日ドイツ大使館クーリエに依りドイツに運ばれ改めて署名調印された。現在見られるのは後者の方で外務省外交史料館に展示されている。 締結とその後の状況 エチオピア侵攻によって国際的に(欧州における主要国の英仏には侵攻の事前に連絡していたにも関わらず)孤立していたイタリアは、同じく1933年に国際連盟を脱退し孤立していたドイツと結びつく余地があった。 独伊はその後、揃ってスペイン内戦に介入し、1936年10月にいわゆるベルリン・ローマ枢軸構想を掲げた。もっとも、オーストリアを自国の勢力圏と考えていたムッソリーニにとっては、38年3月のドイツによるオーストリア併合には相当な難色を示していたようである。 しかし1939年4...
  • 交換船
    ...来栖三郎(駐アメリカ特命全権大使) 野村吉三郎(駐アメリカ特命全権大使) 石射猪太郎(駐ブラジル特命全権大使) 阪本端男(駐スイス公使) 岡本季正(駐ポルトガル公使) 森島守人(駐ニューヨーク総領事) 寺崎英成(駐アメリカ大使館員) 天野芳太郎(実業家、在パナマ天野商会) 淸田竜之助(ブリスベン大学教授) 都留重人(ハーバード大学講師) 坂西志保(アメリカ議会図書館東洋部主任) 竹久千恵子(女優) 鶴見俊輔(留学生) 鶴見和子(留学生) 武田清子(留学生) ジャニー喜多川(後のジャニーズ事務所社長) ジョセフ・グルー(駐日アメリカ大使) エドガートン・ハーバート・ノーマン(駐日カナダ公使館員) ジョン・モリス(東京文理科大学講師) ダニエル・マッキンノン(小樽高等商業学校英語教師) その他の「乗客」 ...
  • 大東亜会議
    ...月には代替として駐日特命全権大使や駐日代表による「大使会議」が開催された。 概要 この会議は、史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われた首脳会議であり、そのこと自体への歴史的評価は高いといえる。「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった」という回顧 ref name= 黎明 深田祐介著『黎明の世紀―大東亜会議とその主役たち』(文藝春秋)もある一方で、タイ王国代表ワンワイタヤーコーンが、その演説にあって大東亜共同宣言案への修正提案が拒絶されたことへの婉曲な批判を行い、またフィリピン大統領ホセ・ラウレルが、インドネシア代表が会議に参加できなかったことへの不満を述べる ref name= 黎明 / など、ある程度の緊張感を伴った国際会議であったとの分析もある。 日本の敗戦後における(戦勝国の連...
  • 梅津美治郎
    ... - 関東軍司令官兼特命全権大使。 Template 和暦?8月1日 - 陸軍大将に昇進。 Template 和暦?10月1日 - 関東軍総司令官。 Template 和暦?7月18日 - 参謀総長。 Template 和暦?9月2日 - 大本営全権として降伏文書調印式に出席。 10月15日 - 軍事参議官。 11月30日 - 予備役編入。 登場する小説 『凪の時』  大江志乃夫著(1985年、筑摩書房) 『日輪の遺産』 浅田次郎著 『不毛地帯』 山崎豊子著 関連項目 大分県出身の人物一覧 ベン・ブルース・ブレイクニー 宮田光雄 外部リンク 梅津 美治郎 / クリック 20世紀 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月19日 (水) 15 45。 ...
  • 白鳥敏夫
    ...推薦により駐イタリア特命全権大使に親補されると、大島と連携して日独伊三国同盟の推進を図った。しかし、当時のリッベントロップ外相が「日本との同盟締結があまり難航するなら、ソ連との不可侵条約を結ばざるを得まい」と恫喝まがいの発言をしたことから、白鳥は「独ソ接近の可能性がある」と東京に打電した。ところが、日本政府は白鳥の忠告を聞き入れず、最終的に独ソ不可侵条約が締結された。これにより三国同盟構想は水泡に帰し、白鳥は大使を依願退職した。 1940年(昭和15年)には外務省顧問となり、松岡洋右のブレーンとなった(1941年4月に病気を理由に辞任)。 その後、大政翼賛会総務を経て、1942年(昭和17年)の総選挙で、千葉県から推薦候補として立候補して、衆議院議員に当選。翼賛政治会理事や盟邦同志会会長などを務めた。 太平洋戦争終結後、連合国側よりA級戦犯指定を受け極東国際軍事裁判にて終身禁固...
  • リヒャルト・ゾルゲ
    ...武官補から駐日ドイツ特命全権大使に出世したオイゲン・オットの信頼を勝ち取り、第二次世界大戦の開戦前には最終的に大使の私的顧問の地位を得た。来日前にはオットの戦友である「テークリッヘ・ルントシャウ紙」の論説委員のツェラーの紹介状を入手していた。 大使の私的顧問として大使親展の機密情報に近づき易い立場を利用して、ドイツの「ソ連侵攻作戦」の正確な開始日時を事前にモスクワに報告した。他のスパイの情報やイギリスからの通報も、これを補強するものであったが、ヨシフ・スターリンは、ゾルゲ情報を無視した。結果ソ連は緒戦で大敗し、モスクワまで数十キロに迫られるという苦境に陥った。 近衛内閣のブレーンで政権中枢や軍内部に情報網を持つ尾崎は、日本軍の矛先が同盟国のドイツが求める対ソ参戦に向かうのか、仏領インドシナやイギリス領マレー、フィリピンなどの南方へ向かうのかを探った。日本軍部は、独ソ戦開戦に先立つ...
  • 青木周蔵
    ...拠事件時の駐箚ペルー特命全権大使青木盛久は曾孫。 栄典 1890年6月 - 勲一等瑞宝章受章。 1894年8月 - 勲一等旭日大綬章受章。 1914年2月 - 勲一等旭日桐花大綬章受章。 著作 坂根義久 校注『青木周蔵自伝』 (平凡社東洋文庫、1970年) ISBN 4-582-80168-4 (平凡社ワイド版東洋文庫、2004年) ISBN 4-256-80168-5 参考文献 坂根義久『明治外交と青木周蔵』(刀水書房、2003年) ISBN 4-88708-069-7 水沢 周『青木周蔵 明治外交の創造 青年篇』(日本エディタースクール出版部、1988年) ISBN 4-88888-140-5 水沢 周『青木周蔵 明治外交の創造 壮年篇』(日本エディタースクール出版部、1989年) ISBN 4-88888-151-0 ...
  • 野村吉三郎
    ...- 駐アメリカ合衆国特命全権大使。 昭和19年(1944年)5月18日 - 枢密顧問官(~1946年6月13日)。 昭和21年(1946年)8月 - 公職追放。 昭和28年(1953年) - 日本ビクター社長。 昭和29年(1954年) - 参議院議員。 昭和39年(1964年)5月8日 - 死去。勲一等旭日桐花大綬章。 文献  著書 『米国に使して』 岩波書店 昭和21年 のち復刊 著書 続篇『アメリカと明日の日本』 初版:読売新聞社 1947年 復刊、吉村道男監修 日本外交史人物叢書21巻/ゆまに書房 2002年 豊田穣 『悲運の大使野村吉三郎』 講談社 1992年 講談社文庫 1995年 尾塩尚 『駐米大使野村吉三郎の無念 日米開戦を回避できなかった男たち』 日本経済新聞出版社 1994年 関連項目 Te...
  • 岩倉具視-2
    ...大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動。 11月12日、横浜出航。 明治6年(1873年) 9月13日、横浜帰航。 10月20日、太政大臣代理兼任。但し、同日のみ。 明治9年(1876年) 4月19日、華族会館長兼帯。 5月18日、従一位昇叙。 5月26日、華族督部長兼務。 12月29日、勲一等旭日大綬章受章。 明治15年(1882年) 11月1日、大勲位菊花大綬章受章。 11月15日、華族督部長職廃止に伴い止む。 12月4日、華族会館長辞職。 明治16年(1883年) 4月7日、宮内省編纂局総裁心得兼務。 7月20日、死去。 7月23日、贈太政大臣。 7月25日、国葬。 明治18年(1885年)7月20日、贈正一位。 岩倉具視幽棲旧居 京都・洛北の実相院近く(現・京都市左京区岩倉...
  • 太平洋戦争
    ...二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた ref name=A 実際は輸送船でアメリカ海軍が故意に過大な報告をした。こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東条英機内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。 最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定であった。 12月6日午前6時30分の「第901号電」パ...
  • 阿部信行
    ... 4月1日 - 駐華特命全権大使(~12月7日)。 1942年(昭和17年)5月20日 - 翼賛政治会会長。 5月28日 - 貴族院議員。 1944年(昭和19年)7月22日 - 第10代朝鮮総督(~1945年9月28日)。 関連項目 阿部内閣 井上成美: 義弟にあたる。 外部リンク 阿部 信行 / クリック 20世紀 阿部信行関係文書(MF:東京大学近代日本法政史料センター蔵) | 国立国会図書館 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月14日 (土) 10 13。     
  • 第一次日韓協約
    第一次日韓協約(だいいちじにっかんきょうやく)は、日露戦争中の1904年(明治37年)8月22日に日本と韓国(李氏朝鮮)が締結した協約。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命しなければならなくなった。 このときの日本側の代表は特命全権公使林権助、韓国側の代表は外部大臣尹致昊。 日露戦争中ではあるが、この条約が結ばれた時期には朝鮮半島での戦闘は終了し、韓国は事実上日本の占領下に入っていた。しかし、高宗はこれを良しとせず、ロシアに密使を送る、1905年(明治38年)3月26日韓国皇帝のロシア皇帝宛の密書が発覚。その後も7月にロシア、フランスへ、10月にアメリカ、イギリスに密使を送る。これらの行動を受けて、日本政府は大韓帝国が外交案件について日本政府と協議のうえ決定・処理しなければならないとしていた同条約を遵守する意志がないと考え、日本が韓国の外交権を完全に...
  • 樺太・千島交換条約
    ...基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄するかわりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約を締結した。 日本語訳文の誤訳 樺太・千島交換条約の正文はフランス語である。日本語訳文は条約としての効力は有していない。日本語訳文には、第二款のクリル群島の部分に誤訳がある。 (フランス語正文)En échange de la cession à la Russie des droits sur l île de Sakhaline, énoncée dans l Article premier...
  • ハーグ密使事件
    ...遣されていた都築馨六特命全権大使がこの事件に対応した。また大阪毎日新聞より派遣されていた高石真五郎は連日、特派員電として現地の情勢を伝えた。この時、高石は日本人としてただ一人、密使と面会している。 密使の一人である李儁は7月14日にハーグにて客死した。当時の大韓帝国の新聞は李儁の死を自決と伝えたが1956年、韓国の国史編纂委員会が調査委員会を作って調べたところ、大韓毎日申報主筆の梁起鐸が申采浩、ベッセルと協議し「切腹」と書くことにしたという証言を得た。また他の文献資料にも切腹を示すものは見られなかったという。Template ko icon?「李儁烈士切腹の真相は?」聨合ニュース、2007年6月31日。、頬にできた腫瘍の手術が原因で死亡したとする病死説もある。 経過 4月21日(22日とも)、李儁が京城を出発。高宗が密使に与えたとされる委任状の日付は、1907年(光武11年)...
  • 満州国-2
    ...箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している。 行政 1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には満洲の独立宣言を発した東北行政委員会委員長の張景恵が首相に就任した。 しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同...
  • エルトゥールル号遭難事件
    ...野村元駐イラン日本国特命全権大使、森永元伊藤忠商事イスタンブール支店長、毛利悟元東京銀行テヘラン駐在員ら当時の関係者出席の上、行われている。 2008年1~2月、米国・海洋考古学研究所のトルコ人スタッフらが発掘調査を行い、遺骨や弾丸など1000点以上の遺品を引き揚げた。 2008年6月7日、来日していたトルコのアブドゥラー・ギュル大統領は、同国の大統領として初めてこの地を訪れ、遭難慰霊碑前で行われた追悼式典に出席し献花を行った。 脚注 参考文献 森修『トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難  日本・トルコ友好の偉大な礎石』日本トルコ協会 1990年。 松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』中央公論社(中公新書)、1998年。 小松香織『オスマン帝国の近代と海軍』山川出版社世界史リブレット、2004年。 高橋忠久,長場紘,大村幸弘,松原茂樹他『エ...
  • 日韓議定書
    日韓議定書(にっかんぎていしょ)は、日露戦争中の1904年(明治37)2月23日に、日本と大韓帝国との間で締結された条約である。 概要 漢城(現:ソウル)において、日本の特命全権公使林権助と韓国(李氏朝鮮)の外部大臣臨時署理李址鎔が調印した。 日本による、韓国施政忠告権や臨検収用権など、日本側に有利な条項もあるが、反面、日本政府は、韓国皇室、韓国の独立及び領土を確実に保障し、片務的防衛義務を負うなどとしており、一方的に日本に有利なものとはなっていない。 背景 Template main? 1904年(明治37年)1月21日、韓国政府は日露交戦の折には戦時局外中立をすると宣言、清をはじめイギリス、フランス、ドイツなどがこれを承認した。 他方、2月8日に日本政府は韓国の戦時局外中立宣言を無視する形で、日本軍を仁川へ上陸させ、その後漢城へ進駐し、締結された。 日露戦争にお...
  • 牧野伸顕
    {{政治家 |各国語表記 = まきの のぶあき |画像 = Nobuaki Makino in later years.jpg |画像説明 = 牧野 伸顕 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1861年11月24日(文久元年10月22日) |出生地 = 薩摩国鹿児島城下加治屋町 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 大学校(中途退学) |所属政党 = |称号・勲章 = 従一位勲一等旭日桐花大綬章伯爵 |配偶者 = 牧野峰子 |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第27代外務大臣 |内閣 = 第1次山本内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1913年2月20日 |退任日 = 1914年4月16日 |退任理由...
  • 李鴻章
    李 鴻章(り こうしょう、リ・ホンチャン、Li Hung Chang、1823年2月15日 - 1901年11月7日)は、中国清代の政治家。字は少筌(しょうせん)。 日清戦争の講和条約である下関条約では清国の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行った。 来歴 安徽省合肥出身。1847年(道光27年)の進士となる。太平天国の乱の際には団練を率いて太平天国軍と戦い、その後曽国藩の幕僚となり、団練を元に曽国藩の湘勇に倣って淮勇を組織し、太平天国討伐に功績を上げた。 太平天国鎮圧後の捻軍鎮圧にも功績を上げ、1870年曽国藩の後を継ぎ直隷総督に就任した。この時に北洋大臣も兼ねたので淮軍はその後、北洋軍と呼ばれるようになった。 1876年、江華島事件に関連して、李氏朝鮮の宗属関係について日本の森有礼と協議。 その後は清の最高為政者として西太后の信任を得て清の洋務運動に尽力した。この時期には...
  • 副島種臣
    {{政治家 |各国語表記 = そえじま たねおみ |画像 = Taneomi Soejima 3.jpg |画像説明 = |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1828年10月17日(文政11年9月9日) |出生地 = 肥前国佐賀藩 |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = |出身校 = 弘道館 |所属政党 = 愛国公党 |称号・勲章 = 勲一等旭日桐花大綬章、伯爵 |配偶者 = |サイン = |国旗 = JPN |職名 = 第3代外務卿 |就任日 = 1871年11月4日 |退任日 = 1873年10月28日 |退任理由 = |国旗2 = JPN |職名2 = 第7代内務大臣 |内閣2 = 第1次松方内閣 |就任日2 = 1892年3月11日 |退任日2 = 1892年6月8日 |退...
  • 松岡洋右
    ...の重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ連大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。 三国同盟・日ソ中立条約 松岡の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与...
  • 明治維新
    ...)旧11月、岩倉具視特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令が各国の非難を浴びて、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年(1872年)に大蔵大輔の職にあった井上馨は、長崎府庁在任時に関わった事から、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。 神道国教化政策との絡みやキリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、宗教界や一般民衆からも『邪宗門』解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年(1873年)2月24日禁制の高札を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。 外交政策 新政府にとって、最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された不平等条約の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であ...
  • 愛新覚羅溥儀
    ...臣を務め、駐イギリス特命全権大使でもあった李經方の勧めによって、1919年5月から1924年までの間、紫禁城内にイギリス拓務省の役人で、中国語に堪能であったスコットランド人のレジナルド・フレミング・ジョンストンを帝師(家庭教師)として招聘し、近代的な西洋風の教育と英語の教育を受けた。 当初は溥儀は見ず知らずの外国人であるジョンストンを受け入れることを拒否していたものの、ジョンストンとの初対面時にその語学力と博学ぶりに感心し一転して受け入れることを決断した。その後ジョンストンより洋服や自転車、電話などのヨーロッパの最新の輸入品を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらしたヨーロッパ(イギリス)風の生活様式の影響を受けることとなる。 なおこの頃溥儀はキリスト教徒のジョンストンより、「ヘンリー(Henry)」というクリス...
  • 第二次日韓協約
    第二次日韓協約(だいにじにっかんきょうやく)は、日露戦争終結後の1905年(明治38)11月17日に日本と韓国が締結した協約。これにより韓国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上保護国となった。乙巳保護条約、韓国保護条約とも。 日本側代表は特命全権公使林権助、韓国側代表は外部大臣朴斉純。 経緯 日本は日露戦争中である1904年の第一次日韓協約締結により韓国の財政・外交に対し関与する立場となっていたが、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約(1905年9月5日)により韓国に対する優越権をロシアから承認され、また高宗が他の国に第一次日韓協約への不満を表す密使を送っていたことが問題となったこともあり、日本からの信頼を無くしていた大韓帝国に対し、より信頼できる行動をとることを求めるため、この協約を結ぶこととなった。 協約締結後の1907年に、協約の無効を主張する高宗の親書をた...
  • 広田弘毅
    ...けて、駐ソビエト連邦特命全権大使を務めた。当時は学歴立身出世の典型として知られた。着任後、満州事変が勃発。政府は軍を直ちに撤兵させる旨を各国政府に通告するよう駐在大使・公使に訓令を出したが広田は慎重な態度をとり、ソ連に通告を出さなかった。関東軍は永久占領の形でチチハルに居座り、駐在大使・公使が各国政府の信頼を失う中、モスクワだけが例外となった。 協和外交 1933年(昭和8年)9月14日、斎藤内閣の外務大臣に就任。これは内田康哉前外相の人選によるものである。このとき、各国の駐日大公使を招いて新任挨拶をした際、駐日米国大使ジョセフ・グルーの信頼を得る。斉藤内閣で5回にわたり開かれた五相会議では、強硬意見を唱える荒木貞夫陸相と大角岑生海相を相手によく渡り合い、陸軍の提出した「皇国国策基本要綱」を骨抜きにした。次の岡田内閣でも外相を留任。当時ソ連との間で懸案となっていた、東支鉄道買...
  • 下関条約
    下関条約(しものせき じょうやく)とは、1895年4月17日に日清戦争後の講和会議で調印された講和条約の通称。日清講和条約(正字体:日清媾和條約 Template DEFAULTSORT ?にっしんこうわじょうやく)ともいう。会議が開かれた山口県の赤間関市(あかまがせき-し、現在の下関市)の別称である「馬関」「赤間関」は本来は「赤馬関」で、江戸時代の漢学者がこれを漢文風に縮めて「馬関」としたもの。をとって、馬関条約(ばかん じょうやく)と呼ばれた条約調印後に「馬関」が「下関」になっても、「馬関海峡」が「関門海峡」になっても、この「馬関条約」は長らく使われ続けた。「下関条約」という言い換えが完全に定着するのは戦後になってからである。。「下関条約」はこの「馬関条約」の言い換えである。なお中国語では現在でも「馬關條約」という。 == 概説 == 主な内容 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立...
  • 上海停戦協定
    上海停戦協定(しゃんはいていせんきょうてい)とは、1932年1月28日より開始した第1次上海事変における日本と中華民国との間で締結された停戦協定文である。 本協定文には本来標題は無いが、当時、外務省において便宜上、同標題が付けられた。 本文 第1条 日本国及中国の当局は既に戦闘中止を命令したるに依り昭和七年五月五日より停戦が確定せらるること合意せらる。双方の軍は統制の及ぶ限り一切の且有あらゆる形式の敵対行為を上海の周囲に於て停止すべし。停戦に関し疑を生ずるときは、右に関する事態は参加友好国の代表者に依り確めらるべし。 第2条 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし。前記地点は本協定第一附属書に掲記せらる。 第3条 日本国軍隊は昭和七年一月二十八日の事件前に於けるが如く、共同租界及虹口方面に於ける租界外拡張...
  • ニコライ2世
    ...して伏見宮貞愛親王、特命全権大使として山縣有朋が出席している。なお、戴冠式の4日後、祝賀のためにつめかけた民衆が押しあってつぶされ、多数の死傷者を出す事故が起こっている。 この間、1895年4月の三国干渉ではドイツ、フランスをさそって「清国の秩序維持」を名目に、下関条約によって日本が得た遼東半島を賠償金3,000万両と引き替えに清に返還させ、同年、東清鉄道の建設を命じている。ロシアは1894年に露仏同盟をむすんで1882年結成の独墺伊の三国同盟に対抗しようとしたが、黄禍論者でもあったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はロシアの目を極東にむけさせることによって対露関係を調整しようとした。三国干渉は日本国民に反ロシア感情を植え付ける結果となり、日本はやむなく勧告を受け入れたものの「臥薪嘗胆」を合言葉としてナショナリズムの傾向が強まった。 日露戦争とロシア第一革命 Template se...
  • 関東軍
    ...)司令官が満州国在勤特命全権大使を兼ねた。 司令官 立花小一郎 (1919年 - 1921年) 河合操 (1921年 - 1922年) 尾野実信 (1922年 - 1923年) 白川義則 (1923年 - 1926年) 武藤信義 (1926年 - 1927年) 村岡長太郎 (1927年 - 1929年) - 張作霖爆殺事件 畑英太郎 (1929年 - 1930年) 菱刈隆 (1930年 - 1931年) 本庄繁 (1931年 - 1932年) - 満州事変 武藤信義 (1932年 - 1933年) 菱刈隆 (1933年 - 1934年) 南次郎 (1934年 - 1936年) 植田謙吉 (1936年 - 1939年) - ノモンハン事件 梅津美治郎 (1939年 - 1944年) - 1942年以後、総司令官。 山田乙...
  • 南満州鉄道
    ...後、日本の満洲国駐箚特命全権大使となったが、この職は関東軍司令官が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入ることとなった。 北満鉄道買収と営業キロ数の伸び 鉄道は満鉄本来の路線(社線)つまり新京(現・長春) - 大連・旅順間の満鉄本線と安奉線のほかに、満洲国が1935年にソビエト連邦から買収した新京以北の北満鉄路(旧称・東清鉄道)をはじめとする満州国有鉄道(国線)や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、営業キロ数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は1936年、奉天に鉄道総局を設置、さらに1942年に本社を大連から満洲国の首都新京に移転している。 特急「あじあ」 1934年(昭和9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「あじあ」が設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「つばめ」の平均速度66.8k...
  • アーネスト・サトウ
    アーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843年6月30日 - 1929年8月26日)は、イギリスの外交官。英国公使館の通訳、駐日英国公使、駐清公使を務め、英国における日本学の基礎を築いた。日本名は佐藤 愛之助。 生涯 1843年、ドイツ東部地方にルーツを持つソルブ系スウェーデン人を父、イギリス人を母(旧姓、メイソン)としてロンドンで生まれた。1861年イギリス外務省に入省、通訳見習として清国に赴き、1862年9月、英国駐日公使館の通訳見習として来日した。その直後の9月14日、生麦事件が勃発した。当時、駐日総領事ラザフォード・オールコックは一時帰国していた。1863年には薩英戦争の現場に立会い、1864年には四国艦隊下関砲撃事件にも立ち会った。後に正規の通訳官及び書記官に昇進。駐日公使ハリー・パークス(在任、1865年-1882年)の下で活躍...
  • 西郷隆盛-2
    ...留守政府)をまかせ、特命全権大使岩倉具視、副使木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した(随員中に宮内大丞村田新八もいた)。西郷らは明治4年(1871年)からの官制・軍制の改革および警察制度の整備を続け、5年(1872年)2月には兵部省を廃止して陸軍省・海軍省を置き、3月には御親兵を廃止して近衛兵を置いた。5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。鹿児島行幸から帰る途中、近衛兵の紛議を知り、急ぎ帰京して解決をはかり、7月29日、陸軍元帥兼参議に任命された。このときに山城屋事件で多額の軍事費を使い込んだ近衛都督山縣有朋が辞任したため、薩長の均衡をとるために三弟西郷従道を近衛副都督から解任した。明治6年5月に徴兵令が実施されたのに伴い、元帥が廃止されたので、西郷は陸軍大将兼参議となった。 なお、明治4年(1871年...
  • 西園寺公望
    Template 日本の内閣総理大臣? 西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日(1849年12月7日) - 昭和15年(1940年)11月24日)は日本の公家、政治家。立憲政友会第2代総裁。第12・14代内閣総理大臣。贈従一位、大勲位、菊花章頸飾、公爵。本姓は藤原。正式には藤原公望(ふじわら の きんもち)。 大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼した。 文化人、趣味人としても名高く、陶庵と号し書を能くし、叙情あふれる漢詩も多く残している。 そして森鴎外ら第一級の文人たちを招じ雨声会と称したサロンを主催した。 生涯 生い立ち 西園寺公望は清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、4歳の時に、同族で清華家の西園寺家へ養子に入り家督を相続した。両家は藤原房前を始祖とする藤原北家閑院流の血筋の系統である。...
  • 榎本武揚
    {{Infobox Military Person Template Infobox 軍人? 榎本 武揚(えのもと たけあき、天保7年8月25日(1836年10月5日) - 明治41年(1908年)10月26日)は、江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家。海軍中将正二位勲一等子爵。徳川育英会育英黌農業科(東京農業大学の前身)の創設者でもある。 通称は釜次郎、号は梁川。名前は「えのもとぶよう」と有職読みされることもある。父は幕臣榎本武規(円兵衛)、妻は林洞海の娘で林研海の妹でもあるたつ。家紋は丸に梅鉢。 生涯 海軍副総裁就任まで のちに榎本武揚を称する榎本釜次郎は、江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれた。父はもとの名を箱田良助といい、備後福山藩箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身で、江戸へ出て幕臣榎本家の株を買い、榎本家の娘と結婚することで養子縁組みし...
  • 日英関係
    Template 日本の国際関係? 日英関係(にちえいかんけい)は、日本とイギリスの関係のこと。 年表 right|thumb|[[ウィリアム・アダムス]] 18世紀以前 1587年 イギリス人「航海者」のトーマス・カヴェンディッシュ(en)、スペイン領バハ・カリフォルニア(現在のメキシコ領カリフォルニア半島)沖でスペイン船を拿捕し、乗船していた2人の日本人(クリストファー(20歳)とコスマス(16歳)(en))を自分の船に加える。この2人が初めてイギリスを訪問した日本人となったが、1592年に遭難死。 1600年 ウィリアム・アダムスが九州に上陸したのが公式な日英関係の始まり。後にアダムスの仲介によって東インド会社が平戸に商館を設置する。 1623年 アンボン虐殺事件の発生による英蘭関係の悪化と貿易の不振により平戸のイギリス商館を閉鎖、日英関係は事実上断絶する。 1673...
  • 黒田清隆
    Template 記事名の制約? Template 日本の内閣総理大臣? 黒田 清隆(くろだ きよたか、天保11年10月16日(1840年11月9日) - 明治33年(1900年)8月23日)は、日本の武士・薩摩藩士、政治家。 通称は仲太郎、了介。第2代内閣総理大臣(在職 1888年4月 - 1889年10月)。階級は陸軍中将。位階勲等爵位は従一位大勲位伯爵。元老。 主な事績 薩摩藩の藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、1868年から1869年の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で参謀として指揮をとった。開拓次官、後に開拓長官として1870年から1882年まで北海道の開拓を指揮した。開拓使のトップを兼任しつつ、政府首脳として東京にあり、1876年に日朝修好条規を締結し、1877年の西南戦争では熊本城の解囲に功を立てた。翌年に大久保利通が暗殺される...
  • 日英同盟
    thumb|right|250px|「ラス・ビハリ・ボース氏謝恩の会」1915年 テーブルの向こう側中央が[[頭山満、そのうしろがラース・ビハーリー・ボース、手前が犬養毅]] thumb|170px|right|[[ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯)]] 日英同盟(にちえいどうめい, The Anglo-Japanese Alliance)は、明治時代後期に結ばれた日本とイギリスとの間の軍事同盟。第一次日英同盟は1902年(明治35年)1月30日に調印され即時に発効した。その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新され、1923年8月17日に失効した。第一次世界大戦終了時までの間、日本の外交政策の基盤となった。 日英同盟はイギリスのロンドンのランズダウン侯爵邸(現The Lansdowne Club 地図)にお...
  • 真珠湾攻撃
    ...健吉の葬儀へ来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が参列した事など、諸事情によりワシントンの日本大使館一等書記官奥村勝蔵の英訳親書のタイプが大幅に遅れ、攻撃開始時刻に宣戦布告が間に合わなかった。 この件については、誰も処分されておらず、外務省はこの遅延に対し調査委員会を設立し調査を行ったが、調査結果は長らく公表されなかった。1994年11月20日、外務省は当時の調査委員会による調査記録「昭和16年12月7日対米覚書伝達遅延事情に関する記録」を公開し、公式見解として、大使館書記官の不手際により、宣戦布告が遅れたことを認めた。現在、この資料は外交史料館報 第8号で閲覧可能である。 また、調査委員会設置以来、奥村の上司である館務総括参事官の井口貞夫の責任を問う説が存在するが、これに対して井口は生前「自分の管掌事務ではなく承知していなかった」と主張し、息子にあたる井口武夫元ニュージーランド...
  • 明治六年政変
    明治六年政変(めいじろくねんせいへん, 1873年(明治6年))は、征韓論に端を発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。征韓論政変(せいかんろんせいへん)とも。 経緯 そもそもの発端は西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題である。王政復古し開国した日本は、李氏朝鮮に対してその旨を伝える使節を幾度か派遣したが、その文書に今まで使われていなかった「皇」や「勅」の字が入っている、押印が違うなどと主張して、朝鮮は受理を拒んだ。また当時の朝鮮において興宣大院君が政権を掌握して儒教の復興と攘夷を国是にする政策を採り始めたため、これを理由に日本との関係を断絶するべきとの意見が出されるようになった。更に当時における日本大使館に相当する機関であった倭館の入り口に「野蛮の国」と書かれた張り紙を貼るなど殊更非礼な態度を取ったため、武力行使も辞さないという強硬派が現われ...
  • 日系人の強制収容
    ...ソン書記官(後の駐日特命全権大使)が国務省あてに「ペルーの日系人が危険である」と報告した。 この様な報告を受けて1942年12月から1945年にかけてこれらの中南米諸国家に対して出された、日系人及び日本人移民のアメリカへまたは現地の強制収容要請により、ペルーやボリビアなどの中南米13カ国で、アメリカ合衆国大使館が「日系人社会に影響力がある」という戦争とは関係のない理由で指定する日系人及び日本人移民を現地の国家の警察の協力によって逮捕し、アメリカ海軍の艦艇でアメリカに連行された。 その後、アメリカ政府によって強制的にアメリカに連れてこられたのにもかかわらず、「正規の入国手続きを経ていない不法入国」というでっち上げられた理由を元に逮捕し、テキサス州クリスタルシティの移民労働者用のキャンプに強制収容された。なお、一部についてはアメリカ軍兵士の捕虜と戦時交換船により交換された。 また、...
  • ノモンハン事件
    ...、日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。 だが、ソ連側の強硬な姿勢と、東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、両国の間においてようやく停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の確定はその後の両国間の外交交渉にゆだねられた。 交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。対立の対象となった地域のうち、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって確定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで確...
  • 岩倉具視
    ...務卿である岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議木戸孝允や大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文らを副使として伴い、明治4年(1871年)11月に横浜港をたち、1年10か月にわたり欧米諸国を巡り、各国元首と面会して国書を手渡したが、条約改正の糸口はつかめなかった。 この旅の中で岩倉は各国で激しいカルチャーショックを受けた。アメリカの近代国家ぶりは岩倉の想像をはるかに超えており、よほど衝撃的だったようで三条に宛てた書状にも「殷富を進むるにおいて意想の外を出るに驚嘆」とまで称している。さらにその原因は鉄道にあるとし、日本の繁栄も鉄道にかかっており日本の東西を結ぶ鉄道の設置が急務とする。岩倉が帰国後日本鉄道会社の設立に積極的に携わったのもそのためである。またイギリスでは日本では考えられない工業技術に圧倒された。もはや条約改正どころではなく使節団は各国への留学が主要目的となった。 ちなみに...
  • 顧維鈞
    Template 中華圏の人物? 顧維鈞(こいきん 光緒14年(1888年)1月29日-1985年11月14日)は、中華民国の国民党政府の外交官出身の政治家。字は少川(しょうせん シャウツァン Shǎochuān)、欧名はヴィ=キュイン・ウェリントン・クウ(Vi-Kyuin Wellington Koo)。外交総長、国務総理代行、各国の公使、パリ講和会議、ワシントン会議、関税会議の各中国全権代表などの要職を歴任した。 祖父は郷紳の出身で、江蘇省嘉定県(現 上海市嘉定区)の官職にあったが、太平天国の時期に暴徒によって拷問の上、殺害され、財産を奪われた。顧の誕生後、父・顧溶は官営の招商局所属の汽船の会計係となり、生活は安定した。 1899年キリスト教衛理公会経営の上海英華学院に入学、初めて英語を学習した。1900年には病気のため、実家の近くにある育才学校に転校。 1901年キリスト教聖...
  • 日墨修好通商条約
    日墨修好通商条約(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)とは、1888年11月30日に日本とメキシコの間で締結された条約。日本にとっては初めての(アジア除く)(治外法権が無く、関税自主権のある)平等条約であり、メキシコにとってはアジアの国と初めて締結した条約であった。 当時ワシントン在勤の日本全権陸奥宗光と、駐米メキシコ公使ロメロとの間で協議された。 条約成立の背景 当時は安政の五カ国条約として、アメリカ(日米和親条約、日米修好通商条約)、オランダ(日蘭和親条約)、ロシア(日露和親条約)、イギリス(日英和親条約、日英修好通商条約)、フランス(日仏和親条約)と不平等条約を、李氏朝鮮とは逆不平等条約(日朝修好条規、日本が有利)を結んでおり、平等条約は清と結んでいる日清修好条規のみだった。 日本政府は治外法権(領事裁判権)、関税自主権の問題解決の足がかりとして、アジア以外の国の1つとま...
  • 重光葵
    {{政治家 |各国語表記 = しげみつ まもる |画像 = Mamoru_Shigemitsu.jpg |画像説明 = 重光 葵 |国略称 = Template JPN? |生年月日 = 1887年7月29日 |出生地 = 大分県大野郡三重町(現:豊後大野市) |没年月日 = Template 死亡年月日と没年齢? |死没地 = 神奈川県湯河原町 |出身校 = |所属政党 = |称号・勲章 = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = |サイトタイトル = |国旗 = 日本 |職名 = 第83~85代外務大臣 |内閣 = 鳩山内閣 |選挙区 = |当選回数 = |就任日 = 1954年12月10日 |退任日 = 1956年12月23日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = |国旗2 = 日本 |職名2...
  • 日朝修好条規
    日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年(明治9年、朝鮮暦高宗13年)に日本と李氏朝鮮との間で締結された条約とそれに付随した諸協定を含めて指す。江華島事件後に調印されたため江華(島)条約(Template lang?)とも、丙子の年に結ばれたために丙子修交条約ともいう。当時東アジアで結ばれた多くの条約と同様、不平等条約であった。 概要 1875年におきた江華島事件の後、日朝間で結ばれた条約であるが、条約そのものは全12 款から成り、それとは別に具体的なことを定めた付属文書が全11款、貿易規則11則、及び公文がある。これら全てを含んで一体のものとされる。 朝鮮が清朝の冊封から自立した国家であることを明記していること、片務的領事裁判権の設定や関税自主権の喪失といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特徴である。 それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝...
  • 台湾出兵
    台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への軍事出兵である。明治政府と日本軍が行った最初の海外派兵で、牡丹社事件(ぼたんしゃじけん)、征台の役(せいたいのえき)とも呼ばれる。 背景 琉球王国は江戸時代には日本(薩摩藩)と中国大陸の清の間で両属関係にあり、日本で明治政府が成立すると、帰属を巡る政治問題が起こっていた。 1871年(明治4年)10月、宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難。漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民(現在の台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。 先住民とは交流ができなかったらしく、12月17日に遭難者達は集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々に殺害し54名を馘首した。12名の生存者は、漢...
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