chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「王克敏」で検索した結果

検索 :
  • 梁鴻志
    ...民国臨時政府を率いる王克敏と梁との交渉を経て、臨時政府と維新政府の連合機関である中華民国政府連合委員会が北平に設立された。 民国28年(1939年)6月から、梁鴻志は汪兆銘(汪精衛)との合流交渉を開始した(9月から王克敏も参加)。当初、梁は汪の下風に立つことを望まず、なかなか交渉は成立しなかった。結局、日本の圧力もあって、梁は汪の下位となることを承諾している。民国29年(1940年)3月、南京国民政府は成立して、梁は監察院院長兼中央政治委員会委員に就任し、これと同時に維新政府は解散された。梁は、後に江蘇省長なども務めている。 日本敗北後の民国34年(1945年)10月19日、梁鴻志は漢奸として蘇州で逮捕され、上海へ移送される。民国35年(1946年)6月21日、江蘇高等法院第二分院で死刑判決を受け、同年11月9日、銃殺刑に処せられた。享年65。 参考文献 涂上飆「梁鴻志」...
  • 汪兆銘
    ...傀儡政権の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった。 次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い関係者も、「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」今井武夫『支那事変の回想』P103、「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可...
  • @wiki全体から「王克敏」で調べる

更新順にページ一覧表示 | 作成順にページ一覧表示 | ページ名順にページ一覧表示 | wiki内検索

ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。