chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「男」で検索した結果

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  • 松方正義
    ...松方正恭、袈裟子の四として生まれる。わずか13歳にして両親を亡くす。弘化4年(1847年)、薩摩の武士の子弟が通う藩校造士館に入る。 嘉永3年(1850年)、御勘定所出物問合方へ出仕し、扶持米4石を得る。この後、大番頭座書役となり、7年間勤めたが、この間幾度か藩主に拝謁する機会も得、精勤振りを認められ、褒賞として金130両を下賜された『絹と武士』 59頁。 島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件等に関係した。29歳の時、議政書掛という藩政立案組織の一員となった。低い身分から異例の出世を遂げた松方に対し称賛する者もいる反面、妬む者もいたという『絹と武士』 77頁。 慶応2年(1866年)、軍務局海軍方が設置され御船奉行添役と御軍艦掛に任命される。慶応3年(1867年)、軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けなどに当たった。 大蔵大臣時代 thumb|...
  • 死のう団事件
    ...、血気にはやる1名のが増上寺焼き討ちを計画しただけだとしている。なお、焼き討ちの計画を知った江川は、に無銭飲食の罪を着せるという手荒な手段を用いて計画を止めさせているが、計画を狂わされ決行日を留置場で過ごす羽目となったは、日蓮会を去った後もこれを諦めず、遂に捕縛されている。 「江川は多くの女性信者と関係した上、金銭を搾取している」と書き立てる記事も目立った。「好色漢の盟主桜堂」などの扇情的な見出しが連日紙面に躍り、日蓮会の社会的信用を著しく傷付けた。 告訴 釈放された江川は10月16日、横浜検事局に赴いた。江川は特高課長を不法監禁で告訴。また、彼に同行した女性は、娘が受けた拷問の屈辱を晴らすべく、娘の名義で10名余りの警官を人権蹂躙、不法監禁及び傷害で告訴した。 警察側は新聞の取材に対し「事実無根だ」と主張したが、裏では江川らに告訴の取り下げを依頼した。江川がこれを拒否...
  • 脱亜入欧
    ...がなかった。」丸山眞 「『福沢諭吉と日本の近代化』序」『福沢諭吉の哲学 他六篇』282頁。 岩波書店〈岩波文庫〉、2001年 ISBN 978-4003810415 。 一方、逆説的であるが興亜論(後の時代では「大アジア主義」)の考えこそが、中国・朝鮮への進出を押し進めたという説も有力に主張されている。 脚注 参考文献 丸山眞 『福沢諭吉の哲学 他六篇』 岩波書店〈岩波文庫〉、2001年。ISBN 978-4003810415 関連 明治維新 洋務運動 人種差別 民族差別 脱亜思想 特定アジア 嫌韓・嫌中・反中   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年7月10日 (木) 14 34。    
  • 武藤章
    ...吉元陸軍少将が「あのが軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した」と証言したことにより死刑判決を受けたとも言われており、東條英機は判決後武藤に「巻き添えにしてすまない。君が死刑になるとは思わなかった」と意外の感を漏らしたとも言われる。武藤と田中は互いに相手に対して嫌悪感をいだいており、武藤は田中が軍部内の動きを法廷で暴露したことについて、笹川良一に「私が万一にも絞首刑になったら、田中の体に取り憑いて狂い死にさせてやる」と語ったという。 Template 和暦?12月23日に巣鴨プリズンで絞首刑に処された。辞世の句は、 「霜の夜を 思い切ったる門出かな」 「散る紅葉 吹かるるままの行方哉」 であった。また、次のような詩を書き残している。 「西の御殿に 火急な御召し 陸は遠み 船には弱し ままよ船頭さん 夜中じゃあるが 向う岸まで お願い申す 西の殿様 気のよいお方 御馳走...
  • 王道楽土
    ...相続できない農家の次以下など、または大陸にて雄飛し名をあげる野望を抱く「大陸浪人」らの間で、満州に憧れる風潮が生まれた。 満州を王道楽土、楽園(ユートピア)のように表現する映画や歌も作られた。 「開拓団の子供」 「迎春花」(李香蘭) 「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」(東宮鉄作詞) 日本人の「満州馬賊」と知られているのは 小日向白朗(尚旭東) 伊達順之助(張宗援) などであった。 関連項目 満州国 中国残留日本人 東宮鉄 五族共和 加藤完治 ユートピア思想 外部リンク 大陸の花嫁 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月15日 (月) 19 28。    
  • 大院君
    ... 11代・中宗の九で、名前はチョ(山+召)。1538年に徳興君になる。死後、1567年に三の河城君が14代・宣祖として即位し、1570年「徳興大院君」に追尊された。夫人は鄭麟趾の曾孫(鄭麟趾の孫・鄭世虎の娘)にあたる河東府大夫人・鄭氏。長は河原君(1545年 - 1597年)、次は河陵君(1546年 - 1592年)、三が宣祖である。墓は京畿道南楊州市別内面德松里にあり(京畿道記念物第55号)、正式にはあくまでも「墓」だが、宣祖の命により王の墓を指す「陵」字を用いた「徳陵」の別称も通用している。 全渓大院君(1785年 - 1841年) - 25代・哲宗の父 興宣大院君 - 26代・高宗の父 上記の3人以外に16代・仁祖の父定遠君も定遠大院君と称されたが、さらに元宗の廟号を追尊されて王扱いになった。 関連項目 尊号   出典 フリー百科事...
  • 大審院
    ...1日- 南部甕 1891年(明治24年)4月8日- 院長心得 児島惟謙 1891年(明治24年)5月6日- 名村泰蔵 1892年(明治25年)8月24日- 院長心得 三好退蔵 1893年(明治26年)3月3日- 南部甕 1896年(明治29年)10月7日- 横田国臣 1906年(明治39年)7月3日- 富谷鉎太郎 1921年(大正10年)6月13日- 平沼騏一郎 1921年(大正10年)10月5日- 横田秀雄 1923年(大正12年)9月6日- 牧野菊之助 1927年(昭和2年)8月19日- 和仁貞吉 1931年(昭和6年)12月21日- 林頼三郎 1935年(昭和10年)6月13日- 池田寅二郎 1936年(昭和11年)3月13日- 泉二新熊 1939年(昭和14年)2月15日- 長島毅 194...
  • 阿南惟幾
    ...殺はなかった。 長(早世)、次惟晟(陸軍少尉、昭和18年戦死)、三惟敬(元防衛大学校教授)、四惟正(元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)、五惟道(野間家へ養子、元講談社社長)、六惟茂(元駐中国大使)。 戦後しばらくして、妻阿南綾子は出家した。なお阿南陸相は昭和天皇からは”あなん”と呼ばれていた。 阿南の終戦への思いをめぐる諸説 戦時最後の陸軍大臣を務めた阿南は、昭和天皇の聖断が下る最後の瞬間まで当然のごとく戦争継続を主張し続けたが、戦後、当時の阿南の真意をめぐっては、 当時書記官長であった迫水久常によれば、終戦を望む天皇の真意を悟り、また本土決戦を主張しつつも阿南自身の本心も終戦にあり、極秘裏に鈴木貫太郎首相と協力して終戦計画を遂行したと言う。ただし表向きは、天皇が最も恐れた「終戦に反発する陸軍の暴発」と、「倒閣」を阻止するため、強硬な言動により主戦論を...
  • 兒玉源太郎
    ...手書き書体)。 長は大蔵官僚で国務大臣などを歴任してきた児玉秀雄、三児玉友雄は陸軍中将、九の児玉九一は内務官僚で厚生次官、曾孫の児玉進は映画監督・テレビ映画監督。 東郷平八郎、乃木希典らと共に日露戦争の英雄として有名である。日露戦争全体の戦略の立案、満州での実際の戦闘指揮、戦費の調達、アメリカへの講和依頼、欧州での帝政ロシアへの革命工作、といったあらゆる局面で彼が登場する。当時のロシアは常備兵力で日本の約15倍、国家予算規模で日本の約8倍という日本側にとって圧倒的不利を覆し、日本を勝利に導いた戦略家の1人とて有名である。 兒玉は国際情勢や各国の力関係を考慮に入れて戦略を立てることの出来る広い視野の持ち主であった。性格的には情に脆く家庭を大事にし友誼に厚いという長所の反面、短気で激情型の性格でもあり、人間関係において無用の軋轢を招くこともあった。しかし天才肌の人間によく見ら...
  • 山本権兵衛
    ...・山本五百助盛珉の六に生まれる(幼名も権兵衛)。 戊辰戦争に従軍、戦争終了後に西郷隆盛の紹介で勝海舟に一ヶ月間弟子入りした。山本は勝に強く感化され、彼の勧めによって海軍の道を歩むこととなった。その後昌平黌、開成所、海軍兵学寮に学んだ。海軍兵学寮では戊辰戦争の弾雨の中をくぐり抜けた気の荒い権兵衛らによって、教官らがしばしばいびられ、時に器物が壊され暴力を受けたとの話も残る。西南戦争では西郷軍に従軍しようとしたが、西郷自らの説得により兵学寮に戻った。卒業席次は17人中16席。1877年(明治10年)に海軍少尉として任官、翌年には津沢鹿助の三女登喜子と結婚、その後世界各地を周航した。帰国後、「高雄」・「高千穂」の艦長などを歴任した。 海軍省勤務時代 1891年(明治24年)、西郷従道海軍大臣の下で海軍省大臣官房主事に就任した。山本は従道の全幅の信頼のもと、陸軍の従属的立場に扱わ...
  • ヨシフ・スターリン-2
    ...結婚、1908年に長のヤーコフが生まれたが、エカテリーナは25歳で病没した。スターリンは葬儀の場で、「彼女は、私の石のような心を和らげてくれた」「人間に対する温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った。スターリンは、息子のヤーコフに対して冷たく接した。また、独ソ戦で長のヤーコフがドイツ軍の捕虜になったとき、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「ナチスに寝返った息子などいない」と返答し、人質交換には一切応じなかった。ヤーコフは、1943年に収容所内で射殺された。2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次のワシーリーとスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは、1932年に拳銃自殺を遂げた。 ワシーリーは、周囲が気遣って空軍中将まで昇進させたが、後に身を持ち崩した。さらに、極度の酒好きがたたり、1962年にアルコ...
  • 脱亜論
    ...に、政治学者の丸山眞は、甲申事変が三日天下に終わったことの挫折感と、日本・清国政府・李氏政権がそれぞれの立場から甲申事変の結果を傍観・利用したことに対する不満から、「「脱亜論」の社説はこうした福沢の挫折感と憤激の爆発として読まれねばならない」と説明する。 丸山眞 「『福沢諭吉と日本の近代化』序」『福沢諭吉の哲学 他六篇』 岩波書店〈岩波文庫〉、2001年。ISBN 978-4003810415 282 - 283ページを参照。 そして、東京大学名誉教授の坂野潤治は、福澤の状況的発言は当時の国際状況、国内経済などの状況的認識と対応していることを強調し、甲申事変が失敗したことにより状況的認識が変化して「脱亜論」が書かれたと説明して、「これを要するに、明治十四年初頭から十七年の末までの福沢の東アジア政策論には、朝鮮国内における改革派の援助という点での一貫性があり、「脱亜論」はこの...
  • 提岩里虐殺事件
    ...のキリスト教徒の成人達20数名を集めて取調べをしていた。そのとき、その中の一人が急に逃げ出そうとし、もう一名がこれを助けようとして襲いかかってきたのを犯人だと即断して殺害してしまった。これをきっかけに教会に集められていた人々が騒ぎ出し暴徒化。兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。教会もその後近所からの失火により焼失した」とされていた。そのため日本の右派・保守派には、これに従い韓国側の主張を根拠なしと切り捨てる人もあったたとえば杉本幹夫著『「植民地朝鮮」の研究』(展転社、2002年)など。。 しかし、翌4月16日に現地視察にやってきた駐ソウルアメリカ総領事館領事、在ソウル米国人宣教師、AP通信のソウル特派員がこの事件に関する報告書の作成・本国への提出を行い、さらにその数日後には駐ソウル英国総領事館からも現地調査団が現地に送られ、事件は世界中に報道されるにいたり、事件の真相は...
  • 東郷平八郎
    ...衛門の三女・益子の四として生まれる。幼名は仲五郎、14歳の時元服して平八郎実良と名乗る。慶応3年(1867年6月に分家して一家を興す。薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。 イギリス留学 大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが、大久保は「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」と言い断った。次いで西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。東郷の才能を軍人にあると見込んだ西郷の人物眼の確かさをも物語るものであろう。 当初英国ダートマスの王立海軍...
  • 五代友厚
    ...牧郎「大阪をつくった 五代友厚」(文藝春秋、1998年) 佐江衆一「士魂商才 五代友厚」(新人物往来社、2004年) 童門冬二「ニッポンの創業者」(ダイヤモンド社、2004年) 関連項目 鹿児島県出身の人物一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月15日 (土) 10 06。     
  • 興宣大院君
    ...祖の子の荘献世子の三の恩信君の養子の南延君(生父は仁祖の息子である麟坪大君の6世孫)の四として生まれたが、安東金氏などの外戚が政治を取り仕切る「勢道政治」のさなかにあって、彼は王族内であまり重用されず、厨院、典医監、司圃署、典設司、造紙署などさほど重要でもない部署の提調を務めるなど不遇な生活を送った。一方では進んで有力政治家と関係を作ったり、一般人との交際を行うなど将来への布石も怠らなかった。1863年、哲宗が嗣子無くして没すると、彼の次・高宗が後継ぎの国王として即位することとなったため、彼は一躍国王の実父となり、大院君の称号を与えられたのである。高宗は即位当初は幼年であったため、成人する1873年までは大院君が摂政となって政務を取り仕切った(大院君摂政時代)。 鎖国政策 大院君はそれまで朝鮮王朝で続いていた外戚の専横排除に関連した古い体制打破を目的とした改革を断行する...
  • 辻政信
    ...戦さえ起こしかねない」とされた(後述)。 1961年4月に東南アジアの視察のために出国後、ラオスで行方不明となる。そのまま、1968年7月20日に死亡宣告がなされた。 幼年学校、士官学校と陸軍大学校 石川県江沼郡東谷奥村今立(現在の加賀市山中温泉)で4人兄弟の3として生まれた。父の亀吉は炭焼きで生計を立てており、集落の中でも比較的裕福な家庭であった。山中高等小学校から苦学の末、1918年名古屋陸軍幼年学校に補欠で入学し、これを首席で卒業後に中央幼年学校を経て陸軍士官学校 (陸士)(36期) に入学した。予科二年間を終了後には士官候補生として金沢に駐屯する歩兵第7連隊に6ヶ月配属され、その後本科へと進み1924年(大正13年)7月に陸士を卒業した。幼年学校と同様に士官学校も首席で卒業しており、恩賜の銀時計を拝領している。見習士官として再び歩兵第7連隊に配属され、三ヵ月後に...
  • 中江兆民
    ...土佐藩足軽の元助で長、母は土佐藩士青木銀七の娘で柳。弟に虎馬。妻・ちのは長野県出身。子は一一女。娘の千美は竹内綱の3虎治の妻で、その娘は中国共産党員であった鈴江言一の妻、浪子。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。 中江家は、初代伝作が明和3年(1766年)に郷土株を手に入れ新規足軽として召抱えられて以来の家系で、兆民は4代にあたる。長の丑吉は昭和17年(1942年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。 生涯 高知城下の山田町に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。文久2年(1862年)には藩校の文武館開校と同時に入門し、細川潤次郎、萩原三圭らの門下で学ぶ。外国語なども学び、慶応元年(1865年)9月には、藩が派...
  • 岩倉具視-2
    ... 南岩倉具義(長。分家・南岩倉爵家を創設。) 岩倉具定(次。学習院院長・宮内大臣などを務める) 岩倉具経(三。分家・岩倉爵家(具経流)を創設。宮中顧問官) 岩倉道倶(四。分家・岩倉爵家(道倶流)を創設。貴族院議員) 戸田極子(長女。陸奥亮子とともに「鹿鳴館の華」とよばれた美人) 孫 岩倉具張(具定の長。公爵、貴族院議員) 有馬頼寧(政治家。農林大臣・日本中央競馬会理事長を務めた) 依仁親王妃周子(かねこ)(具定の長女。東伏見宮妃) 鮫島具重(具経の四。海軍中将) 曾孫 岩倉具栄(具張の長。英文学者。法政大学教授、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)総長) 岩倉具実(具張の次。言語学者。同志社大学教授) 岩倉靖子(具張の三女。非合法時代の共産主義運動に参加して検挙された。釈放後、自死) 有馬頼義(直木賞...
  • 桂太郎
    ...禄120石余り)で長、母は藩士中谷家の娘喜代子。桂家の遠祖は戦国時代の桜尾城主・桂元澄と言われ、桂姓は安芸国高田郡桂村に由来するといわれる。 幼少時に阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に移る。万延元年(1860年)には藩政府の西洋式操練に参加し、鼓隊に編入される。元治元年(1864年)には、禁門の変など中央政界で藩政府が窮地に立たされるなか、7月には世子元徳の小姓役となる。戊辰戦争では敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事し、奥羽鎮撫軍の第二大隊司令として活躍。 明治維新後、横浜語学学校で学びドイツへ留学。帰国後山縣有朋の下で軍制を学び陸軍次官、第三師団長、台湾総督を歴任した後伊藤博文内閣、大隈重信内閣、山縣有朋内閣で陸軍大臣をつとめた。1901年首相に就任。以後西園寺公望と交代で総理大臣を務め、「桂園時代」と呼ばれた。総理大臣在職日数2886日は歴代1位。尚、彼は連続し...
  • 大正天皇
    ...貞明皇后との間には4をもうけた。 迪宮裕仁親王(みちのみや ひろひと:1901年-1989年) - 第124代・昭和天皇 淳宮雍仁親王(あつのみや やすひと:1902年-1953年) - 秩父宮 光宮宣仁親王(てるのみや のぶひと:1905年-1987年) - 高松宮 澄宮崇仁親王(すみのみや たかひと:1915年-) - 三笠宮 系譜 祖父:孝明天皇 祖母:中山慶子 父:明治天皇 母:柳原愛子 また、柳原白蓮の従兄にあたる。 Template 皇室明治以降? 陵墓・霊廟 大正天皇より御陵が東京に移され、多摩陵(たまのみささぎ)に葬られた。大正天皇を祀る神社はないが、全ての天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。 逸話 人物に関するもの 創作した漢詩の数は実に1367首もあり、歴代天皇のなかでも飛びぬけている(第2位が嵯峨天皇...
  • 森有礼
    ...士森喜右衛門有恕の五として生まれた。兄に横山安武がいる。1865年(慶応元年)、五代友厚らとともにイギリスに留学し、その後アメリカにも留学する。このとき、キリスト教に深い関心を示した。明治維新後に帰国すると福澤諭吉、西周、西村茂樹、中村正直、加藤弘之、津田真道らと共に明六社を結成する。 1875年(明治8年)、東京銀座尾張町に私塾商法講習所(一橋大学の前身)を開設。 1885年(明治18年)、第一次伊藤博文内閣の下で文部大臣に就任し、以後、日本における教育政策に携わる。「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。 1886年(明治19年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めた他、様々な学校制度の整備に邁進し、近代国家としての教育制度の確立に尽力した。しかし1889年(明治2...
  • 大久保利通
    ...吉鳳徳の次女・福の長として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。 15歳の時元服し、通称を正助、諱は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。 弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると復職する。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教に友人・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。文久元年(1861年)、御小納戸役に抜...
  • 壬申戸籍
    ...計 身分戸主戸主女戸計女人員計人口中% 皇族74111415290.000088 華族45904591,3001,3662,6660.0081 士族258,93913258,952634,701647,4661,282,1673.9 卒166,8732166,875334,407324,667659,0742.0 地士64606461,7151,6013,3160.010 僧75,925075,925151,67760,169211,8460.64 旧神官20,8954320,93852,14150,336102,4770.31 尼-6,0686,06809,6219,6210.029 平民6,326,571170,7526,497,32315,619,04815,218,22330,837,27193 樺太人員---1,1551,...
  • 宋美齢
    ...家の宋嘉樹の三女(33女の4番目)として清国の上海に生まれる(生年には諸説あり) 1908年:アメリカに留学 1917年:アメリカのウェルズリー大学卒業 1927年:蒋介石と結婚 1930年:国民党中央委員会委員就任 1937年:国民党航空委員会秘書長就任 1943年:カイロ会談に同席 1949年:共産党との内戦に敗れた蒋介石とともに台湾島に遷都する 1975年:蒋介石が死去。夫の死去後、アメリカに移住 1995年:生涯で最後の帰国を行う 2003年:10月23日、ニューヨークの自宅で死去(106歳)。 プロフィール 上流階級出身 1897年に清の上海で生まれた(海南との説もある)。父は孫文の支援者として知られる、清国有数の財閥である浙江財閥の創始者でキリスト教徒の宋嘉樹。姉の宋靄齢は孔祥熙の妻で、宋慶齢は孫文の妻であり、この2人と共に「宋氏(家)三...
  • 読売新聞
    ...、「墜落大韓機自殺の 宮本と同一人物か」と、自殺した性が宮本明(李京雨)と同一人物と報じた。実際は金勝一で、他紙は「自殺性 宮本と別人か」(同日毎日新聞夕刊)と報じていた。また翌3日、夕刊一面トップは、「「宮本」に逮捕状」の見出しが踊り、「3日、公文書偽造などの容疑で逮捕状をとった」と報道した。しかし、実際は、翌4日朝刊「「宮本」逮捕状請求は見送り」であり、完全な誤報であった。「韓国筋」「公安筋」に頼りすぎた結果の、誤報続出であった。 1989年8月17日、夕刊一面トップで、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者「宮崎のアジトを発見」と報道した。記事は「奥多摩山中・小峰峠近くで発見」「自宅から南東へ約1.5キロ」「宮崎家の使用人だった性が住んでいた小屋」「警察が多数の有力物証を押収」「遺体放置場所もこのアジト内」「遺体観察にかよう」「宮崎供述の矛盾、疑問点がことごとく解明」...
  • 鶴見騒擾事件
    ...松尾は無罪判決の声で泣きに泣いたという。 後日談 この事件に関わった人物は後に土木・港湾・運送・工場労務事業などで成功したものが多く、現在も事件に関わった人物および組織の流れを汲む多くの企業がこの地域に存在している。 事件の裁判・差し入れ等の莫大な経費一切を被り青山芳蔵は破産宣告を受けた。組は幹部に任せ40代でリタイア。その後は日本中から「大喧嘩の大将」「今幡随院」と仰ぎ見られ窮屈な思いをしたとされる。宮崎龍介と知り合い頭山満の知遇を得る。宮崎・頭山が何の意図を以って一介の鳶と接触したかは不明だが、晩年、皇姑站で線路に仕掛けられた爆薬で爆死した張作霖について「あの事件は・・」と何かを語ろうとしたとも伝わっている。 事件が起きた理由 電力戦の最中であり、和解工作に時間が費やせなかった。 清水組と間組の受注競争に関連した代理戦争の面があった。 三谷秀組と青山組の規...
  • 石原莞爾
    ...石原啓介とカネイの次として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六四女を儲け、莞爾は三であるが長の泉が生後二ヶ月で、次の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長である。四の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する1940年6月28日、石原二郎海軍中佐は美幌航空隊建設委員長として航空機で会議へ向かう途上で北海道亀田郡椴法華村において濃霧に遭遇したために山腹に激突し、殉職した。二郎は中学校を経て海軍兵学校に入学し、戦艦霧島の砲術長から海軍兵学校砲術科長に転出する。莞爾がこれを知った時には二千六百年奉の演習で神武東征の新航路の途上であった。阿部博行『石原莞爾(上)生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)8項、463項を参照。 五の三郎は一歳で亡くなり、六の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮ら...
  • 清浦奎吾
    ...住職・大久保了思の5に生まれ、後に清浦の姓を名乗った。清浦は1865年(慶応元年)から、豊後日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園に学び、日田で知り合った野村盛秀が埼玉県県令に任ぜられると、野村を頼って上京し、1873年(明治6年)、埼玉県14等出仕となった。1876年(明治9年)には司法省に転じ、検事、太政官や内務省の小書記官、参事院議官補などを歴任するが、この間に、治罪法(今日の刑事訴訟法)の制定に関与した。このため、警視庁などから治罪法の講義を依頼され、それが「治罪法講義随聴随筆」という本にもなり、広く警察官に読まれたという。 こうした活躍が、当時内務卿であった山縣有朋の目にとまり、1884年(明治17年)、全国の警察を統括する内務省警保局長に、34歳の若さで異例の抜擢を受けた。清浦の警保局長在任は7年間の長期に及んだが、その在任期間中の内務大臣は、5年余りが山縣であった...
  • 尾崎行雄
    ...快傑伝 元気と正義のたち』 朝日ソノラマ 1993年 外部リンク Template Wikiquote? 尾崎行雄記念財団 尾崎咢堂記念館 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年6月15日 (日) 03 21。     
  • 東條英機-2
    ...が多く、「器の小さな」の狡猾な手段に対する嫌悪感という面が強いと言える。 東京帝国大学の卒業式で「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったといわれる。阿川弘之『軍艦長門の生涯』 区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり、夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては贅沢品を食べてはいないかと自らチェックしたりしたというが、後日本人は「国民の食生活が困窮していないか、配給がきちんと行き届いているかどうかを確認するために残飯を見に回った」と語っている深田祐介『黎明の世紀』文藝春秋。自分の目で確認しないと気が済まない性格が伺われる。これに関連して1943年西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「わしはそんな事は知らん。毎朝塵箱をあさっとる...
  • 松井石根
    ...士松井武国、ひさの六として生まれた。成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)を卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍した。 中国に駐在中は孫文の大亜細亜主義に強く共鳴し、孫文の革命を支援。中国国民党の袁世凱打倒に協力。昭和8年(1933年)に大亜細亜協会の設立発起人となり(後に会長に就任)、同年8月には台湾亜細亜協会を設立した。また日本に留学した蒋介石とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相田中義一との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。昭和9年(1934年)4月勲一等旭日大綬章。軍紀に厳しいことで知られ、昭和3年(1928年)に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では、松井を頑固者扱いして、敬遠する声も多かったと言われている)。 日中戦争期 日中戦争勃発前は予備役...
  • 盧溝橋事件
    ...3392 坂本夏『盧溝橋事件勃発についての一検証』(國民會館、1993年5月) 寺平忠輔『蘆溝橋事件 日本の悲劇』(読売新聞社、1970年) 秦郁彦『昭和史の謎を追う(上)』(文春文庫、1999年12月)ISBN 4167453045 秦郁彦『盧溝橋事件の研究』(東京大学出版会、1996年12月)ISBN 4-13-020110-7 安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ 一九三〇年代華北をめぐる日中の対抗』(研文出版、2003年12月)ISBN 4876362254 安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年9月)ISBN 4-87636-113-4 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2006年8月25日 (金) 20 12。    
  • 唐生智
    ...した際、日本の軍人がの首をはねこの12日夕刻の時間帯には南京北西部は逃げる市民と敗残兵でいっぱいであって、日本軍は到達していなかったので、首をはねたのは日本軍ではなかっただろう。、犠牲者の死体が落ちてきて唐生智の肩を直撃した。唐は、後方に倒れて死体の下敷きになって穴に落ちた。それに誰も気づかず、後になって彼は2人の同僚によって救われ、彼は奇跡的にこの試練から生き延びた。 蒋介石の支援と擁護があったにもかかわらず、唐生智は南京大虐殺の結果を招いた失敗により非難されたこの非難が挹江門における混乱に対するものなのか、その後の捕虜・敗残兵の射殺に対するものなのかが不明である。。 第二次世界大戦後、唐生智は国民党体制の没落までその存在が不明であった。白崇禧が国家主義勢力として彼の存在を追及しようとしたが不明だった。彼は国家主義勢力によって捕えられることを避けるため変装して別の場所に隠れ、...
  • 中野正剛
    ...野泰次郎と母トラの長として、福岡県福岡市西湊町(現・中央区荒戸)の伯父中野和四郎宅で生まれる。幼名は甚太郎。中野家は代々福岡藩の御船方であり、父泰次郎の代に分家し福岡市西町(現・中央区今川)で質屋を家業としていた。母トラは福岡県糸島郡元岡村(現・福岡市西区元岡)で醤油醸造業を営む黨又九郎の長女。 福岡県中学修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)に進学し、在学中の1903年(明治36年)に自ら正剛と改名する。1905年(明治38年)修猷館を卒業後早稲田大学政治経済学科に進学し、家族と一緒に上京している。 修猷館で緒方竹虎と出会い、以後、早稲田大学・東京朝日新聞社でも行動を共にした。大学時代、下宿を一緒にしていた時期もあった。 学費や生活費を稼ぐために三宅雪嶺の『日本及日本人』に寄稿した。そして、このことが縁となって玄洋社を主宰する頭山満と知り合う。頭山満の玄洋社思想と大連で活躍す...
  • 青木周蔵
    ...藩の村医三浦玄明の長として生まれ、22歳の時毛利敬親の侍医で日本で初めて種痘を行った蘭学者青木周弼(1803-1863)の弟、明倫館好生堂(医学所)館長で後の宮廷大典医となる青木研藏(1815-1870)の養子となって士族となり、この際に2人の名を取り周藏と改名した。 留学 明倫館で学んだ後、長崎での医学修行を経て、1868年藩留学生としてドイツ留学。渡独後、医学から政治、経済学に無断転科し問題となったが来独中の山縣有朋に談判して解決させた。1872年、北ドイツ留学生総代となり在独留学生の専攻科目決定に介入し物議をかもす。当時の留学生の専攻は軍事、医学に集中しており、青木の真意は日本近代化には、専攻を分散することの必要を説くことだった。青木の推奨もあって、林業、製紙、ビール、製絨(羅紗絨毯)などの分野へ特化して成功した人物も出た。 官界 1873年外務省入省。外務省...
  • 生麦事件
    ...に、横浜在住の加勢のたち3人が追いついてきて、やがて、イギリスの神奈川領事・ヴァイス大尉率いる公使館付きの騎馬護衛隊も追いついた。一行は、地元住民の妨害を受けながらも、リチャードソンの遺体を発見し、横浜へ運んで帰った。『ある英人医師の幕末維新 W・ウィリスの生涯』  実のところ、イギリス代理公使ジョン・ニール中佐は、薩摩との戦闘が起こることを危惧して、騎馬護衛隊の出動を禁じていた。それを無視して、ヴァイス領事が出動したことで、二人の間には確執が生じる。事件当日の夜から翌朝にかけて、横浜居留民の多くが、遺体収容を果たしたヴァイス領事を支持して、武器をとっての報復を叫んでいた。フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールが、それを応援するようなそぶりを見せていたことも、居留民たちの動きを加速した。しかしニール中佐は冷静で、現実的な戦力不足と、全面戦争に発展した場合の不利を説いて騒動を押さ...
  • 坂本龍馬-2
    ...彦『坂本竜馬を斬った』(新人物往来社、1971年) 石井孝『勝海舟』(吉川弘文館、1974年) 飛鳥井雅道『坂本龍馬』(平凡社、1975年。福武文庫、1992年。講談社学術文庫、2000年) 絲屋寿雄『坂本龍馬』(汐文社、1975年) 山本大『近世土佐と民権思想』(高知市民図書館、1976年) 尾崎秀樹『歴史文学論』(勁草書房、1976年) 平尾道雄『中岡慎太郎陸援隊始末記』(中公文庫、1977年) 嶋岡晨『龍馬追跡』(新人物往来社、1977年。復刻『坂本龍馬の生涯』新人物往来社、1983年) 市井三郎『歴史を創るもの』(第三文明社レグルス文庫、1978年) 松岡英夫『大久保一翁』(中公新書、1979年) 石尾芳久『大政奉還と討幕の密勅』(三一書房、1979年) 平尾道雄編『坂本龍馬のすべて』(新人物往来社、1979年) 入交好脩『武市半平太』(中公新書、1...
  • 板垣征四郎
    ...議院議員の板垣正は次。 生涯 出自 岩手県盛岡市出身。盛岡中学、仙台の陸軍幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。 父板垣政徳は旧盛岡藩士族苗字は板垣だが板垣退助(土佐藩出身)と血縁関係はない。で、江刺郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。 満洲時代 昭和4年(1929年)に関東軍の高級参謀になった。昭和6年(1931年)、石原莞爾らと謀り、満州事変を実行した。現在、柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。昭和7年(1932年)、建国した満州国の執政顧問となる。次いで満州国軍政部最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館付武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月~1937年3月)。 日中戦争(支那事変)以降 thumb|left...
  • 幣原喜重郎
    ...任した。従一位勲一等爵。 略歴 生い立ち 大阪府門真一番村(現門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪中学校、第三高等中学校を経て、1895年 帝国大学法科大学卒業。 戦前 1915年に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年の加藤高明内閣が最初。以降、若槻禮次郎内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。 この間に対米英協調と民族運動が高揚する中国において、あくまで利権の回復のみを求める内政不干渉方針で対応する。彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。もっとも、1925年の5・30事件においては、在華紡(在中国の日系製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧する...
  • 貞明皇后
    ...大正天皇との間には4をもうけた。 迪宮裕仁親王(みちのみや ひろひと:1901年-1989年) - 第124代・昭和天皇 淳宮雍仁親王(あつのみや やすひと:1902年-1953年) - 秩父宮 光宮宣仁親王(てるのみや のぶひと:1905年-1987年) - 高松宮 澄宮崇仁親王(すみのみや たかひと:1915年-) - 三笠宮 逸話・文献 生涯に渡って数多くの和歌を残す一方、夫・大正天皇の影響からか漢詩にも取り組んだ。 西川泰彦 『貞明皇后その御歌と御詩の世界―貞明皇后御集―拝読』 錦正社 2007年 を参照 220px|thumb|[[関東大震災の被災者を慰問 (1923年)]] 工藤美代子『国母の気品 貞明皇后の生涯 』 清流出版 2008年 三笠宮崇仁・三笠宮百合子述/工藤美代子編著『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る...
  • 天皇制
    ...を、政治学者の丸山眞は「無責任の体系」と呼んだ。 なお、明治以降から終戦までの天皇制は従来の天皇制と異なるとして、絶対主義的天皇制、近代天皇制という語が用いられることもある。(天皇制ファシズム参照)。 日本国憲法 Template main? 連合国軍最高司令官総司令部は占領政策上、天皇制が有用と考え、日本国憲法に象徴としての天皇制(象徴天皇制)を存続させた。天皇制は昭和天皇の各地への行幸や皇太子結婚などのイベントを通して大衆に浸透し、一定の支持を得るに至っている。大衆の支持を基盤にした戦後の天皇制を大衆天皇制と呼ぶこともある。 憲法学会の学説では、日本国憲法下の現行体制を立憲君主制とは捉えず、また天皇は元首ではないとするのが通説であるが、実質的に元首であるという見解を示す説もある。しかし諸外国は、日本を天皇を元首とした立憲君主国とみなしており例えば、CIA各国要覧の...
  • 吉田茂
    ...運動の闘士竹内綱の5として東京神田駿河台(現・東京都千代田区)に生まれる『吉田茂とその時代(上)』  6頁には「吉田は1878年9月22日横須賀に生れたといわれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった」という記述がある 。 明治14年(1881年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる『吉田茂とその時代(上)』 9頁には「竹内もその家族もこの余計者の五と親しい接触を保っていたようにはみえない」、11頁には「こうして生まれる前から実父に捨てられ、9歳で養父を失った吉田の幼年時代は養母から最も深い影響を受けることになった」という記述がある。 明治22年(1889年)に、養父・健三が若くして他界し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられ、戸太町立太...
  • 松岡洋右
    ...)にて、廻船問屋の四として生まれる。 洋右が11歳の時、父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して成功を収めていたことなどから明治26年(1893年)に留学のため渡米する。オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで勉学の末、オレゴン大学法学部に入学、明治33年(1900年)に卒業する。オレゴン大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であった一方、学生仲間によると、ポーカーの名手だったともいう。卒業後も滞米し様々の職種で働いていることから、アイヴィー・リーグ等の大学(あるいは大学院)に進学することを目指していたとも考えられる三輪(1989)、p.33。が、母親の健康状態悪化などを理由に明治35年(1902年)、9年振りに帰国する。 外務省時代 帰国後は、東京麹町に山口県人会の寮があったこともあり、駿河台の明治法律学校(明...
  • プラグイン/ニュース
    ...”がネットで… あるの告白(BuzzFeed Japan) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 整理不要の情報共有ツール(社内Wiki)「Nerve」シードラウンドで総額約3500万円の資金調達を実施 - PR TIMES Nerve - 整理不要の情報共有ツール(社内Wiki) ローンチカスタマー募集開始のお知らせ - PR TIMES パニシンググレイレイヴン(パニグレ)攻略wiki - Gamerch(ゲーマチ) 【ひなこい】最強ひな写ランキング - ひなこい攻略Wiki - Gamerch(ゲーマチ) 稲作アクションRPG『天穂のサクナヒメ』における「農林水産省攻略wiki説」は本当なのか? - AUTOMATON スタスマ攻略Wiki【スタースマッシュ】 - Gamerch(ゲーマチ) 無料とは思えない多機能っぷりなWikiインフラ「Wiki.js」レビュ...
  • 野村吉三郎
    ... 復刊、吉村道監修 日本外交史人物叢書21巻/ゆまに書房 2002年 豊田穣 『悲運の大使野村吉三郎』 講談社 1992年 講談社文庫 1995年 尾塩尚 『駐米大使野村吉三郎の無念 日米開戦を回避できなかったたち』 日本経済新聞出版社 1994年 関連項目 Template Commons? 岩畔豪雄 海上警備隊 日本ビクター - 同郷の知人松下幸之助の要請を受けて、1953年から同社社長を務める。松下によると野村は「美空ひばりを知らなかった」とか。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月18日 (木) 00 31。     
  • 宇垣一成
    ...閥より「蝙蝠のような」と揶揄された。司馬遼太郎はその著書『歴史を紀行する 8.桃太郎の末裔たちの国[岡山]』において宇垣の処世術を酷評している。しかしながら、尉官時代の宇垣は他人より出世が遅く「鈍垣」とあだ名されるほどであり、処世術が巧みであったとは言えなかった。 また「聞き置く」など曖昧な表現を相手によっては多用し、それが張鼓峰事件を引き起こしたと言われ、昭和天皇からは「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」(「昭和天皇独白録」より)と酷評されていたことが知られている。昭和天皇は三月事件の遠因も宇垣の言い回しが原因ではないかと思っていた節があったようである。 自他ともに認める首相候補であり、内閣流産後も幾度となく候補として名前が挙がったが、結局首相になれず候補のままで他界したことから「政界の惑星」と呼ばれるようになった。 第37代・阿部信行内閣:近衛文麿、西園寺公...
  • 皇后
    ...した。陰陽五行説ではは陽、女は陰とされ、それぞれの頂点に皇帝、皇后がいるということになった。そのため、皇帝が三公九卿以下の官僚組織を擁するのと同様、後宮制度において皇后も三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻の3倍ずつ増加するヒエラルキーを擁していた。 日本の皇室には、そもそも姓がなく、名字も当然ないが、中国の歴代王朝の君主は姓を持ち、皇后には原則として異姓の者がなった。中国の皇后は従って、皇后が出身した一族の姓で呼ばれ、唐朝第3代の皇帝である高宗の皇后は「武」の姓を持つ一族出身であったので、「武皇后」が正式名であった。しかし後に、皇帝位を簒奪してみずから皇帝を名乗り、新王朝を開くと共に王朝名を周とした(武周と称する)。武照は皇帝としては武則天と呼ばれる。中国歴代王朝のなかで唯一の女帝である。 日本・中国以外の皇后位 「皇后」の称号はもともと、中国の歴代王朝が掲げた政治的世...
  • 皇族
    ...帝、天皇の親族の内、系の血族及びその配偶者。この項目では、日本の皇族について記述する。 前近代 701年の大宝令、757年の養老令など、律令には皇親(こうしん)として規定。俗には王氏(わうし、おうし)とも呼ばれた。 律令では、親王と王の別があり、とくに性別を分ける記述はないが、女性はそれぞれ、内親王、女王と称せられた。親王号は古くは天皇の子および兄弟姉妹の称であったが、のち親王宣下を受けたもののみに限られるようになった。親王は品位を受け、品によって国家から給田を受けた。 「官位令」によれば、品位には一品から四品までがあり、それぞれ国家から決められた給付を受けた。また任官においても、八省卿(八省の長官)、大宰府帥、一部の大国の国守など、四品以上の親王に留保された官職があり、高官を保障された。いっぽう品位をもたない親王は無品親王といった。罪を得た場合、罰として品位の剥奪が行...
  • 護憲運動
    ...議員のうち、伯・子・の数を150名に減らすなどの貴族院改革、幣原喜重郎の協調外交によるソ連との国交樹立、普通選挙法の制定など、多くの改革が行なわれた。このように加藤内閣のもとで国民のためになることも確かに多かった。 しかし治安維持法が同時に制定され、これは「悪法」として非難された。尾崎行雄や徳川義親(松平慶永の子)らは最後まで治安維持法成立に反対したが、結局、治安維持法は成立してしまった。この治安維持法はのちに戦前の悪法のひとつとされるようになるが、その悪法が護憲運動をもとに組閣された内閣のもとで成立したというのは、皮肉なものである。 関連項目 憲法 大正政変 憲法改正論議 護憲 大正デモクラシー   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月30日 (木) 03 46。 ...
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